「すっかり暗くなっちゃいましたね」
「ね。今日は一段と空が暗い気がする」
 美術館を背に会話をする。
 展覧会に来た当初、陽は真上にあったはず。色を一つずつ丁寧に確かめていた私たちは、気付けば夜の中に迷い込んでしまったみたいだ。
「あ、月。月見てみてください」
 その言葉につられて視線を上げる。思わず「あっ」と間の抜けた声を上げた。
 空に昇っていたのは、糸ほどの細さの眉月。月明りも届かぬ程に、繊細な月だ。
「だからか」
「眉月、綺麗ですよね。僕昔から好きなんですよ。ちっちゃい頃、あの(たお)やかな姿に一目惚れして」
 彼は言葉を選びながらゆっくりとそう話した。嫋やか。その彼の言い分が非常によく分かる。胸の内で、私は首が取れるほどに頷いた。
 まさか眉月に惚れた人間に出会うとは。その感性にまた惚れる。
「分かるよ。本当に綺麗。今に消えてしまいそうで儚い。でも、しっかりとそこに存在してて、濃厚なんだよ」
 素直に言葉を紡ぐ。月光を凝縮したようなあの姿に、私も惚れていた。人にとって存在感は薄いのかもしれないが、月の子供と考えると、どこか愛おしいだろう。
「濃厚、ですか。汐織さんの視点って温かいですよね。僕には無い、優しい考え」
 寒空の下放たれた言葉に絆されてしまう。
 温かいなんて、優しいなんて、初めて言われた。胸が張り裂けそうなほどに心の中に詰まっていく感情。それは冬の寒さを忘れるほど、温度を持ったものだった。
「ありがとう」
 心からの感謝を込めて小さく一つだけ。

𓂃✍︎

 数十分間、私たちは近くの公園のブランコに座り、小さく鳴る甲高い金属音をBGMに会話をしていた。
 それは他人からしたらなんでもない話で、記憶には残らないような、そんな話ばかりだ。しかし私は、この会話の全てを必ず覚えておきたかった。
「あ……」
 唐突に聞こえたそんな小さい声の後、右隣に座る彼はおもむろに鞄からスケッチブックと色鉛筆を取り出す。創作者魂。それを一瞬で感じた。
「えっと、ちょっと、描きたくなったので」
 そう言った彼は、返事も待たずにページを捲って行く。その末、膝の上に置かれた真っ白な紙とにらめっこをした。
 楽しさに溢れた横顔を見つめる。綺麗だなんて言葉では収まらない輝きが、そこにはあった。自然と泣きたくなるような、心揺らぐ輝きだ。

 世界が生まれる奇跡を、私は見ている。

 白い紙にザクザクと物を描いて行く手を見た。肌の色はとっくのとうに見えなくなっている。でも、眩い光だけは感じられた。世界を創る事の出来る魔法が宿った手の光だけは。
 暗い空の下、私は彼の喜びに満ちた姿をずっとみていた。彼は今、どんな言葉でも絶対に表せない、表せてはいけない、透明なヴェールに包まれている。

 彼が世界を創り終わるまでの時間。それは長く短い時間だった。

𓂃✍︎

「出来ました」
 感情の見えない軽い声で彼は呟く。スケッチブックを軽く撫でてからそれを笑顔で私に見せてきた。
「え……」
 開いた口が塞がらないとはまさにこの事だろう。彼が両手で抱える世界は、とにかく美麗なものだった。

 スケッチブックの上半分に描かれていたのは夜空に漂う純白の月。でもここにあるのはただの月じゃなくて、私たちが見ていたような、眉月だ。
 私が見える色だけで描かれた、色鉛筆の淡い色彩が溢れる不明瞭な時間帯の空。その真ん中、上手く白抜きされたその月は、現実よりも遥かに明るく輝いて見えた。
 下に行くに連れて徐々に色が抜けて行き、空の下に広がるのは、石造りの建物が両脇に二つ描かれるモノクロの世界だ。
 二棟の建物の間から月を見上げている小さな者たち。それは、今までとは打って変わってコミカルなタッチで描かれた、可愛らしい象と兎だった。
 世界から乖離した存在。ぬいぐるみのようなコロッとした姿の彼らに、どこか親近感を抱いた。

「好きだなぁ……」
 純粋に一言だけ口から落ちる。それはこの絵についてでもあるが、彼の純粋さについて。彼に対して転がり出た言葉でもあった。
「浸ってますね。ありがとうございます」
 目尻を落とす愛くるしい笑い方。彼は作品への言葉としか思っていないのであろう。
 私はふっと笑った。上空の月のもっともっと遠く、遥か遠くへ視線を向ける。
 彼の純粋に創作を楽しむ姿がずっと魅力的だった。あの時、瞬きをするよりも速く惹かれた。彼も創作に恋をした人間だ。純粋故に幸福を手に入れられる人間だ。

 その純情に、恋をした。

 夜空に散らかる星屑たちが一斉に距離を詰めてくるような感覚。それを遮断する長い瞬きの末、慎重に息を吸った。

「月が綺麗ですね」

 いつか言ってみたかった。それが解放される。これが今の私に一番似合う「I love you」の伝え方だ。どうせ望む返答は帰って来ない。流されたって良い。それもまた情緒というものだろうか。

「死んでもいいわ」

 何の躊躇いも無く耳を奪った言葉に驚く。いざ言われると、落ち着かないものだ。
 数秒経って、彼は「へへっ」とまるで私を弄ぶかのように笑う。私は口を(ひら)けないままでいた。
「僕が言うと重く聞こえちゃいますよね? ずっと綺麗でしたよ。月は」
「うん。私も」
 ゆっくりと濃厚な時間が過ぎて行く。生クリームを舐めるよりも甘い時間だ。ずっとこの時間が続けば良い。そうすれば別れも来ないでしょう?
 ふっと笑い合う間、私はずっと夢見心地だった。

𓂃✍︎

 冬のからっ風が耳を裂く。そろそろ解散の時間だろうか。
「この絵、ちゃんと作品として仕上げますね。僕から汐織さんへの恋文として」
「え、なんか照れるなぁ。でも楽しみにしてる」
「世間様には……どうしましょう?」
「公開しちゃう? どんな反応をするのか気になる」
「僕も同意見です。……あ、名前、決めてくださいよ。汐織さんの思う言葉で」
 その言葉の後、視線を占拠された。彼の無垢な光に満ちた瞳に。
 正直言えば、この作品に似合う言葉が見つからない。「ちょっと待ってね」空虚に呟いて脳みそをフル回転させる。
 数分後に小さく呟いたのは、私たちの恋にピッタリの言葉。


「――純恋(すみれ)の月」