「来たよ〜樹月くーん」
「あ、こんにちはぁ」
あれから約二週間。私は彼にタメ口を使うようになっていた。
病室の入口で辺りを見回す。かなり広い部屋だ。白いベッドの他に、アンティークなテーブルと椅子。窓際には大きなキャンバスが置いてある。
そんな部屋で彼はテーブルで縦長のスケッチブックに絵を描いていた。小さなテーブルの上には、水彩絵の具と筆が広げられている。
「犬?」
彼の肩越しに見えたのは、ゴールデンレトリバーが丸まっているところ。灰色で薄く塗られた彼。私が唯一見える青い瞳は、どこかに闘志を秘めているようだ。
「そうです。彼は、負け犬」
そう言って彼はスケッチブックの中の負け犬と称された犬の頭を指で撫でる。彼の顔は見えないが、手つきはとても優しいものだった。
そんな彼に問う。
「この子は何色?」
「ここが黄土色で、こっち側がくすんだ緑。ここは黄緑ですよ。それで彼の瞳のハイライトは赤です」
青に紛れて分からなかったが、よく見ると黒い点が虹彩の中にあった。
「あったかそうですね」
「そうでしょう?」
そんな私の素直な感想に、彼は口に手を当てていたずらっ子のように笑う。
ちらりと袖口から覗く腕に痣のようなものが見えた。きっと、私の感じる事の出来ない色がそこにあるのだろう。
負け犬か。スケッチブックの彼に自分の人生を重ねた。ふとこの子の人生という物語を想像する。
きっとこの子は、まだ地獄には落ちていない。私とは真逆で、この子にはまだ光がある。勝手ながらそう確信した。
「まだ勝てるんじゃないですか? この子」
期待を込めて訊いた。
「ええ。彼は今冬眠期間ですからね」
彼はそう言って我が子を見るかのように慈愛に満ちた顔で微笑む。自身の作品に対する愛の重さが、よく分かった。
彼と比べて私は、どうだったのだろう。あの日から私は作品の事を、創作の事を……
「色って、忘れるものなんですかね」
思考の檻からの脱却。唐突にそう訊かれた。これもまた素直に答える。
「私は、たまに忘れちゃうな。でも誰かが必ず思い出させてくれる。きっと空が、空が青いのもいつの間にか忘れるんだろうね」
「……空は青。それはずっと覚えててくださいね」
「分かったよ」
目を合わさずに交わされる会話に、決意を込めた。空は青。そう感じる事の出来る今のうちに焼き付けておこう。
それから私は彼の向かい側に座り、彼の手から生み出される世界の数々を眺めていた。
𓂃✍︎
「今度一緒に美術館行きませんか?」
一時間程経って、そう誘われた。勿論二つ返事で「行こう」と了承をする。あれから私たち二人で外出する事は無かった為、久々に胸が高鳴る。その日には目一杯のオシャレをしよう。
「行ったら、僕が汐織さんに色を教えますね。余す事無く全ての色彩を汐織さんに伝えてみせます」
キラキラと輝いく自信に満ちた彼の顔に思わず笑顔が綻ぶ。彼なら必ず、私に色彩を見せてくれる。絶対的な信頼を寄せた。胸の中に暖かい何かが咲いた気がする。
「もう楽しみだなぁ」
「僕もですよ〜」
パッと桜のような色彩が弾ける感覚に襲われた。恋の色。私は名も無きその色にそう命名した。