午後五時過ぎ、海沿いの国道は夕日に包まれている。冬の冷たい海が燃えるように赤く染まる。信号が青に変わると白い息を吐きだして、再びペダルをこぎだした。背負ったギターが揺れる。信号を渡り終えたところで「あの!」声がした。誰を呼び止めているのか、あたりに人の気配はない。
 声の下ほうに自然ぶつけると女の子が俺の方をまっすぐに見ていることに気が付いた。俺の他には誰もいない。間違いない、俺を呼び止めている。自転車を止めて改めて振り返ると、その子が俺のもとに駆け寄ってきた。リンゴみたいに真っ赤な顔をしている。海風に揺れる長い髪が夕日を反射して、まるで輝く海みたいに見えた。
「あ、あの! 私、冬月(ふゆつき)波音(はのん)です。あの、あの……私と、友達になってくれませんか」
「え……俺と?」
 出会いから印象的だった。特にやることもなく惰性で生きていた俺の世界に波音は突然飛び込んできた。
「ねえ(みなと)君、ギター教えて」
「長い時間外にいたらまた風邪引くよ」
「今日は厚着してきたから大丈夫」
 俺が放課後浜辺でギターの練習をしていると波音は知って、毎日ついてくるようになった。俺と一緒にギターの練習がしたいらしい。おかげでこの前、波音は風邪を引いた。また同じことにならなきゃいいけれど。はじめは少しうっとおしいなと思っていたけれど、慣れてくると気にならない。むしろ、誰かと一緒にギターの練習をするのは悪くなかった。
俺の奏でる旋律に、波音が歌を載せる。波音の声は小鳥みたいに高くて芯のある耳障りの良い声だ。
「湊君のギターの音、好きだな」
「そんなに上手くないけど」
「上手だよ、私が弾いてもそんな音でないもの」
「波音は始めたばっかりだから」
「でも全然弾ける気がしないんだよね、センスないかもなぁ」
 いつしか自分のギターを持ってくるようになった波音に少しずつ教えてみるけれど、波音は苦戦していた。思うように弦を抑えることができなくて音が出ない。俺も初めはそうだった。音がそれなりに出せるようになるまでには一年以上かかったかもしれない。
「湊君、自分で作曲したりしないの? 自分で作った曲を弾き語りとかしたくない」
 波音の問いかけに一瞬戸惑う。誰かが作った名曲を弾いていると、自分でもなんとなくメロディを作ったりもする。それがオリジナルと呼べるのかどうかもわからない代物だ。弾き語りするアーティストはすごく格好いい。憧れはするけれど俺は歌が上手いわけじゃないし、弾き語りは難易度が高すぎる。そもそもオリジナルの曲を弾き語るには大きな問題がある。
「生きてるうちに一曲くらい作れるかな」
「気が長すぎるよ! 作りたいって思ってるなら今すぐ取り掛かろうよ」
「それは、あるにはあるんだけど……」
 思わず返してしまった言葉に波音が目を輝かせる。波音といるといつもちょっと調子を崩される。
「本当! 聞きたい!」
「でも俺、作曲には興味あるけど歌詞の方は全然作れないから。曲しかできてない」
 問題はそこなのだ、困ったことに歌詞が全く書けない。思いつく言葉を並べてみてもあまりにも薄っぺらくて、少しも歌いたい曲にならない。俺の言葉に波音は「大丈夫」と目を輝かせた。
「歌詞は私に任せてよ、これでも国語の成績はけっこうよかったんだ」
「過去形なのが気になるけど」
「そこは突っ込まないでほしいところだよ」
「ごめんごめん、期待してるよ」
「じゃあ曲だけでも聞かせて」
「人に聞かせるのは恥ずかしいな」
 大したものじゃない。もしかしたらなにかに似ているかもしれない。そもそも自分の演奏を波音以外には聞かせたことがない。それくらい俺は自分に自信がない。波音の強引さに負けて波音の前でギターの練習をしてきたけれど、本来人に聞かせるために弾いてきたわけじゃない、ただの暇つぶしだ。
「じゃあ、もしかして私が湊君の観客第一号だったりする?」
「そりゃ、人に聞かせたことなんかないんだから。波音は強引だから結果的にそうなった」
「めっちゃ嬉しい! 勇気出して声かけてよかった!」
 踏切で声をかけたときのことを言っているのだろう。そもそも、あの時どうして俺に友達になってほしいなんて声をかけてきたのか。
「別に、俺に話しかけるのに勇気なんかいらないだろ」
「バカなこと言わないで! 私がどれだけ緊張したか、湊君にはわからないんだから」
「そう言われてもなぁ」
 波音みたいな女の子が俺みたいなパッとしない男に「友達になってほしい」なんて、罰ゲームか気の迷いとしか思えない。出会ってすぐのころはそれを疑ったのだ、邪険にする俺に辛抱強く話しかけてきたのは波音だ。だから波音が本気で俺と友達になりたいっていうのは伝わったけど、その理由は全くわからない。それとなく聞いてもはぐらかされてしまう。思い当たるのはひとつ、俺が背負っていたギターだ。
「波音は友達多そうなのに、俺のギタ練に付き合うなんて、よっぽどのギター好きだな」
「ついにバレましたか。私、無類のギター好きなんです。弾けたら格好いいなって思う。でも自分ではなかなか買えないし、湊君のギターは自前?」
「叔父さんのお古。弦だけ張り替えた」
「大切に使ってきたんだね」
「まあ、手入れするのも楽しいし」
「いいなぁ、湊君に大事にされて」
 波音は膝の上で頬杖をつき、俺のギターを見て目を細めた。
「では、湊君のオリジナル曲を聞かせてください」
「今から?」
「もちろん今!」
「いやそれは……」
「もう、時間は有限なんだよ。迷ってる時間がもったいないよ、どうせ私は聞かせてもらうことになるんだから、観念して今すぐ披露した方がお得です」
 時間なら死ぬほど持て余しているだ、別に焦る必要な少しもないのだけれど、波音はきっと俺がうなずくまで引かないだろう。
「わかったよ、一回だけな」
 諦めてそう答えると、波音の表情は満開の桜のようにほころんだ。
 左手で弦を抑える。人差し指で2弦1フレッド、中指で4弦2フレット、薬指で5弦3フレット。親指で6弦に触れて音をミュートさせる。叔父さんから一番初めに教えてもらったコードを鳴らす。そのままAmに指を滑らかに動かして、右手のストロークはゆっくりと。サビに入ると一気にテンポをあげる。そのまま最後までかき鳴らして、結局考えているすべてのパートを弾いてしまった。恐る恐る顔をあげて波音を見るとポカンとした顔をしていた。よほどひどい出来だったのだろう。反応に困っている。やらなければよかった、誰にも聞かせずにひとりで楽しんでいればよかった。自分のことがいたたまれなくなってギターをケースにしまおうとすると、かなり遅れて波音が拍手を始めた。驚いたことに大きな目に涙なんか湛えている。
「すごい! めっちゃよかった、なんか感動しちゃって……それと、嬉しくて……」
「なにも泣くようなことないだろ」
 波音の反応が嬉しいのと、恥ずかしいのとでなんて言ったらいいのかわからなくなって思わずぶっきらぼうな言い方になる。ありがとうって、言うところだ。
「すごいよ湊君! 才能の塊だ!」
「そんなことない、なんか恥ずかしいから今日はこれで終わりにさせて」
「なんで、もったいない! もう一回聞きたい」
「だめ」
「えー! でも、この曲に歌詞をつけさせてくれる約束だからまた聞かせて、っていうか音源ほしい!」
 それから名案を思いついたようにパチンと手を叩く。
「そうだ! インスピレーションを膨らませるために明日はデートして」
「デート?」
 なにがどう話が飛んだらそうなるんだ。そもそもデートなんかしたことがないからににどうしたらいいのかもわからない。
「デート! 一緒にご飯食べてお散歩して映画観てカラオケ行ってゲーセン行く!」
 なるほど、デートというのはそういうものか。
「それでいいのか」
「うん! それがいい! 明日ね」
「明日は学校だろ」
「そ、そうだった。湊君受験終わってるのに学校行ってえらいね、表彰ものだ」
 そんなんじゃない。やることがないから惰性で行ってるだけだ。特に目的があるわけでも何でもない。そういえば、波音は学校には行っていないのだろうか。
「波音はもう学校行ってないんだな、高校はどこ?」
 一緒のところだったらちょっと嬉しいな、なんて思っている自分がいる。
「私は……結果待ち」
「どこ受けたの? 俺は北高」
 なにげなく尋ねると波音は答えにくそうに言葉に詰まった。
「……秘密。受かったら教えてあげる」
「わかった」
 あまり話したくない話題だったのかもしれない。俺はそう言って話を切った。
 波音からの連絡は頻繁に来ることもあれば、何日も返ってこない時もある。波音からの連絡が三日ほど途絶えて、何か気に障ることをいってしまったのかと、謝罪の言葉を打っては消してを繰り返していると、波音から電話がかかってきた。
「返信できてなくてごめん!」 
 波音がいうには親戚の家に遊びに行ったときにスマホを失くしてしまったのだという。
「めちゃくちゃ焦ったよ~」
 と笑う波音の声が少しだけ上ずっているような気がしたけれど、気が付かないふりをする。
「それでね、デートのことなんだけど」
「あれ、本気だったのか」
「当たり前でしょう! リアルな歌詞を書きたいからリアルデートが必要です」
「別に恋愛ソングにしなくていいよ、俺もそんなつもりで作ったわけじゃないし」
「私はビビッと恋の歌だって思ったの」
「まあ、波音がどうしてもっていうならいいけど」
 俺と出かけたところでデートらしいデートを体験させてあげられるかは保証できないのだけれど、普通に遊びに行くくらいにはなるだろう。
「次の日曜日でいい?」
「大丈夫! 体調整えておくね」
「また風邪ひいたりするなよ」
「もう、風邪を引いてたのは一回だけじゃん」
「それもそうか、ほら、波音は線が細いからなんか心配になるっていうか」
「心配ご無用、そんなに虚弱じゃありません!」
 波音はそう言い切ってからふふっと笑った。
「湊君に心配してもらえて嬉しい」
「友達が風邪引いたら心配するだろフツー」
「そのふつうが嬉しいよ。じゃあ日曜日にね、湊君も風邪引くかないでよ」
「俺人並みに丈夫だから大丈夫」
 日曜日、朝の10時に市内にあるデパートの大時計の前で集合することになった。女子と二人で出かけたことなんかないからどんな場所に行ったらよいのか見当もつかない。とりあえず、波音が言っていた通り映画を見て昼飯を食ってカラオケに行ってゲーセンに行ったりしたらいいのだろう。あと散歩って言ってたか。クラスの友達と遊びに行くときも大体そんな感じだ、散歩と映画は行かないけど。
 日曜日に朝から出かける支度をしていたら母親が目を丸くしていた。
「珍しい、出かけるの?」
「友達と遊ぶ約束してるから」
「受験が終わったからってあんまり気を抜かないでよ、高校に入ってからの方がずっと大変なんだから」
「苦しい受験を終えた中学三年生を少しはねぎらってくれてもいいだろう」
「無理せず入れるところ選んだくせに。あんたはいろんなことにやる気がないんだから高校入ってからは少しはしゃんとしなさい。ギターばっかり弾いてないで少しは勉強しなさいよ」
 受験勉強を終えた受験生にいう言葉じゃないだろ。俺はそれなりに勉強してちゃんと高校に受かったし、学校の成績だって上の下から中の上くらい。べつに悪いわけじゃない。確かに母さんの言うことにも一理あって基本的にやる気がないことは認めるけれど、ギターを弾くことまで禁止されるいわれはない。やらなきゃいけない最低限のことはやってるんだ。好きなことをひとつくらいやったって罰は当たらないだろ。
 そう思いはするけれどだからってここで言い合いをするような無駄なことはしない。「わかってるよ」と少しも中身のない返事をしてから玄関を出た。天気は快晴だ。二月の空は恐ろしいくらいに澄んでいて青い。自転車をこいでいると背中に違和感を感じた。そうか、今日はギターを背負っていなかった。なんの映画を見ようか昨日の夜に調べていたけど、特別見たい映画はなかった。波音の言い出したデートなのだから波音の見たいものを見たらいいだろう。昼飯はどこで食べたらいいのだろう。ファストフード店以外思いつかない。これも波音の好きなところに行けばいいだろうと思いつつ、あまりに自分の意思がないことに俺は驚いた。食べたいものも、やりたいものも、特に思い浮かばない。今までだって明確にこれがいいと選んできたものがひとつでもあるだろうか。たぶんない。唯一打ち込んでいるギターさえ、やりたいと自分で決めたものではない。叔父さんにもらったギターをなんとなくかき鳴らしていただけだ。自分でもこんなに続けられるとは思わなかった。
「湊くーん!」
 駐輪場に自転車を止めて約束の大時計の前に行くと波音はすでに来ていた。待たせては悪いだろうと早めについたのに、波音の方が更に早かった。
「待たせてごめん」
「まだ約束の時間じゃないよ、全然待ってない。湊君だって早く来てくれたでしょう、まだ15分前」
「待たせないようにって思ってたのに、波音早かったね」
「うん、ドキドキして家にいられなくって。だって初めてのデートだもん」
「疑似だけどな」
「そういう水を差すようなことを言わないでよ」
「ごめんごめん」
波音はすねたような顔をしてから破顔する。それから俺の手を引いた。
「行こう湊君!」
 大時計から地下街に入ると波音はいろいろな立ち寄った。これも可愛い、あれも可愛いとひとつひとつに目を輝かせる。時々足を運ぶ場所なのに、ひとりでは入らない店ばかりだから俺もなんだか新鮮な気持ちだった。
 いろんな店を回ったのに、結局波音は何も買わなかった。
「何も買わなくていいの」
「うん、いいの。形に残るものはいらないの」
「ミニマリストなんだな」
「そうそう、私ってばミニマリストなの! でも思い出はいっぱいほしい。いっぱいいっぱい。両手で持ちきれないくらい」
 そうか、それならその持ちきれないくらいの思い出をひとつくらいふやしてやりたいな。そう思うくらい、俺は波音に好意を持っていた。友達の喜ぶ顔を見て嫌な気にはならない。
「そろそろお昼ご飯食べよう」
「何食べたい?」
「駅ナカにスイーツのお店ができたんだってネットの記事で見たの、そこに行きたいな」
「スイーツじゃ昼飯にならないんじゃないか」
「大丈夫、湊君が食べられるしょっぱいメニューもあるよ、パスタとか、オムレツとか」
 別に甘いものだって嫌いじゃない。昼ご飯になるようなメニューもあるならなおのこと悪くない。そもそもこれは波音のためのデートなのだから波音の行きたい店に行くのが妥当だ。
「それならオッケー」
 地下街を通って電車に乗り込む。駅周辺ってここ数年ですごく綺麗になった。廃れていた駅ウラには大きなマンションが建ち、ショッピングモールが出来た。道も整備されて一気に発展して母さんが驚いていたな。
 波音が行きたがっていた店は駅ナカの三階にはいっていた。エスカレーターを登ってアパレルショップの隣を通り抜けると突き当りに水色と白が基調になった店が見えてくる。
「あのお店!」
 店の中には俺たちくらいの中高生が多かった。メニューもリーズナブルだ。カップルよりも女子だけのグループが多い。波音も女友達と一緒に来た方が楽しかったんじゃないか、そんな思いがよぎる。開いている席を探しているとボックス席に座っている女子がこちらを見て手を振った。
「あ! 春日(かすが)じゃん、デート?」
「彼女いたっけ?」
「内緒で付き合ってたんじゃん、わりとビックニュース!」
 クラスメイトだ。興味深そうな目で隣の波音を見ている。デートたけど彼女じゃないし、波音も反応に困っている。
「彼女じゃないけどデートだよ」
 正直に答えると波音が慌てて割って入ってきた。ひどく緊張した顔をしている。怯えているようにも見えた。
「あ、あの、私湊君のお友達で、ちょっと模擬デートに付き合ってもらってるんです」
「模擬デート? そっかそっか、よくわからないけど春日とこんなとこで会うなんてびっくりしたよね。ここで会ったことはみんなに黙っておくから、デート楽しんで!」
 クラスの女子はそう言って俺たちから視線を外して自分たちの話題に戻った。隣を見ると波音は複雑そうな顔をしていた。泣き出しそうな、怒り出しそうな、それを必死にこらえているような表情に見えた。
「波音、あそこが空いてる」
 肩を叩くと波音はハッとしたような顔で俺を見た。それからいつも通りの笑顔を浮かべる。
「こんなに混んでるのにラッキーだ!」
「で、何が食べたいの?」
「これこれ! めっちゃおっきいの! ひとりじゃ食べられないから一緒に食べてくれると助かるなぁ」
 波音が指さしたのはメニューの表紙にでかでかとのっているワッフルだった。上に死ぬほど生クリームがのっている。
「これ食うの?」
「食べるよ~あとこれとこれも頼む」
「そんなに欲張るな」
「だってもう食べに来られないかもしれないじゃん!」
「駅ナカなんですぐ来れるだろ」
「……でも、湊君とは来られないかも」
 少し間が開いて、波音はそう言って少し瞼を下げた。
「……違う高校に行ったらもう会えないかもじゃん」
「そんなことないだろ」
「……これからも会ってくれる?」
「いいよ」
「ギターも教えて」
「いいよ」
「じゃあ、私と……」
 波音は何かを言いかけてメニューに視線を落とした。少しだけ陰のある表情に俺はドキリとする。
「なに?」
「なんでもなーい。とにかく、これとこれ頼む! 湊君はどうする?」
「それ食べるの手伝わなきゃいけないんだろ、他に頼んだら食い切れないから」
「それは悪いなぁ。大丈夫、私けっこう大食漢!」
「とりあえずものがきてから様子見て頼むよ」
「湊君は計画的なんだね。私はけっこう行き当たりばったり」
「それはわかる」
「ちょっと、フォローしてよ~」
 店員を呼んで注文を終えた波音は嬉しそうに頬杖をついていた。少しの雲りもない鮮やかな空のような笑顔を浮かべている。
「次は映画だっけ? カラオケだっけ」
 正直どちらも乗り気じゃない。見たい映画はなかったし、人前で歌を歌うのはあまり好きじゃなかった。
「両方いいや。でも行きたい場所があるんだ」
「どこ?」
「家の近くの神社」
 そのまま駅から向かえば時間はかからないけれど、俺には自転車があった。どうしようかと考えていると、波音は繁華街の方へ向かい始める。
「自転車取りに行こう」
「明日までおいててもいいよ、時間かかるし」
「いいのいいの。時計のとこまで路面電車で戻ろう」
 町中を進む電車に揺られながら波音は機嫌よさそうに車窓を眺めていた。
「電車に乗るの、すごく久しぶりだったんだ。移動は主に車だから」
「俺も、移動は基本自転車だから」
「こうやってゆっくり町が眺められるからいいよねぇ」
 新鮮な感想だった。小回りが利かず、移動に時間のかかる電車は俺らの年代には人気がない。コトンと肩に重さを感じた横を見ると波音は寝息を立てている。
「疲れたんだな」
 このまま自転車は明日まで置いておいて、そのまま神社に向かうことにした。このままこの電車に乗っていたら神社の近くにたどり着く。
 目的地までまだまだ時間がかかる、ひと眠りさせてやろうと俺はそのまま肩を貸した。
窓越しに町を眺める。俺が子供のころよりもずっと高いビルが増えて、空き地だった場所がなくなったことに気がついた。自転車で通っているときにはあまり気にかけたことがなかった。気が付かないうちに少しずつ変化していったのだろう。
 建物が閑散として、民家が立ち並ぶようになる。海が見えてきた、もうすく目的地だ。
「もうすぐ着くぞ、起きろ波音」
 俺は隣で寝息を立てる波音をゆっくりとゆすってみるけれど、まったく起きる気配がない。
「波音」
 結局何度起こそうとしても波音は少しも起きる気配を見せない。
「波音」
 目的地に着いてしまった。仕方なく眠ったままの波音を背負うとお金を払って電車を降りる。周りの視線が少し気になるけど、置いていくわけにはいかない。
「波音の家、どこだろうな」
 俺が波音に声をかけられた踏切が近くに見えた。あのあたりに波音の家があるのではないかと予想して、歩き始める。
波音を背負うのは苦ではなかった。ギターよりは重たいけれど、きっと同年代の中では羽のように軽い方だろう。波音の規則正しい寝息を聞いているのは、心地よい音楽を聴いているようだった。住宅街に沿って少し坂を登ると立派な門構えの家があった。
「ここか……」
 冬月と書かれた表札を見て、俺は思わず目を見開いた。想像していたよりもずっと大きな家だ。意を決して玄関のインターフォンを押すと、明るい女の人の声がした。
「はい……あ! 波音! ちょっと待っていてくださいね」
 波音の母親だろう。カメラ越しに俺が波音を背負っているのが見えたのかもしれない。
「こんにちは! あなた湊君ね、波音を背負ってきてくれてありがとう。この子、寝ちゃったのね……重かったでしょう?」
「家に上がってもよかったら運びます」
「あらそう? 助かるわ!」
 玄関で波音を降ろすはなんとなくはばかられてそう申し出た。幸い波音の母親は嫌な顔一つせず家の中に招き入れてくれる。
「ここが波音の部屋なの、中にベッドがあるから寝かせてもらえるかしら」
「わかりました」
 小さなベッドの上に波音を寝かせてから一瞬だめ部屋の中を見回す。ベッドサイドには本棚があって、大小様々なサイズの本がきれいに並べられていた。反対側の壁には電子ピアノと机。家具は白で統一されている。淡い水色の壁紙に窓には紺色のカーテンがかけられている。窓はちょうど海に面していて、見晴らしがよかった。
「時間はある? ちょっとお茶でも飲んでいかないかな?」
「少しだけなら」
 時間だけはたくさんある。あまり気乗りはしなかったけれど、断る理由が見つからなかった。答えると波音の母親は波音によく似た笑顔で笑った。
 リビングにはいくつかの写真が飾ってあってそのどれもに波音が写っている。壁のかけられている大きな仕掛け時計が、正確に時を刻んでいた。
「紅茶でいい?」
「はい」
「ミルクとレモン、好きな方を入れて。あ、もちろんストレートでも」
 目の前にいい匂いの紅茶と見たこともない焼き菓子が置かれる。うちではまずこんな歓迎はできない。
「いただきます」
 紅茶のカップを手に取ると波音の母親は目を細めた。
「波音に付き合わせてごめんなさいね。あの子、ちょっと強引でしょう?」
「いえ、気になりません」
 むしろ、色々と提案してくれるから俺としては付き合いやすい。それよりも娘が俺のような得体のしれない男子と一緒にいることを不審に思ってはいないのだろうか。波音の母親からは俺のことをいぶかしがるようなそぶりも、探るような気配もまるでなかった。親子そろって無防備だな。
「よかった、もう少しあの子の我がままに付き合ってあげて」
「あの、波音さん、高校は遠いんですか?」
「え、ええ、ちょっと遠いかな。ここから通うのはちょっと難しいから……」
 波音は遠くに行ってしまうのだ。進学したらしばらく会えなくなるのだろう。それを、少しだけ寂しいと思う自分がいた。
「そうだ、もうすぐ波音の誕生日なの」
「二月生まれなんですね」
「そう、二十八日生まれ学年の中でもひときわ小さいから心配しちゃって、ちょっと過保護にし過ぎで嫌がられたりしてね。あの子の人生だから、あの子が選び取らなきゃいけないって、今は腹をくくってるの。あのね湊君、こんなこと言ったらまたお節介ってあの子に嫌がられそうなんだけど、ひとつ湊君にお願いがあるんだ」
「お願いですか?」
「うん、あの子の誕生日を祝ってあげてほしいんだ。湊君が祝ってくれたら、波音すごく喜ぶと思うの」
「そうですかね」
「絶対喜ぶよ」
 「ご馳走様でした」と波音の家を後にするまで、波音の母親は始終期限がよさそうだった。よく似た親子だ。それにしても、誕生日を祝うなんて何をしたらいいのだろう。友達同士で誕生日を祝い合った記憶は薄い。波音は何を喜ぶだろうか。
「で、女子が喜ぶプレゼントを教えてほしいって? ふざけんな、豆腐のかどに頭ぶつけていね!」
 翌日比較的仲のいい(いつき)に相談したらバッサリと切られた。
「樹、彼女いただろ」
「受験前に別れたわ! リア充爆発しろ。いいんだよ、俺は高校で新しい可愛い彼女だって作るから」
「彼女じゃない」
「でも誕生日祝ってやるんだろ」
「友達だから」
「男女の間に誠実な友人関係は存在せんわ」
「なになに、女子のほしいものだって?」
 樹は取り付く島もない。近くで会話を聞いていたらしい女子が集まってきた。この前駅ナカの店で会ったやつらだ。「湊が女子にプレゼントなんて明日は雨だわ」なんて言ってけらけら笑っている。
「昨日一緒にワッフル食べてた子?」
「そう」
「私あの子知ってるよ、小学校一緒だった。冬月さん、だったかなぁ。あんまり学校とか来てなくて、来るときもお母さんが一緒に来てて、ちょっと近寄りがたい感じの子だったなぁ。だから、湊が一緒にいてびっくりしたんだ。湊小学校違うよね、どこで知り合ったの?」
 好奇心に満ちた目をこちらに向けてくる。学校で相談するんじゃなかった。波音のことを、本人がいないところで話題にしたくない。
「別に関係ないだろ。自分で考える、樹に相談した俺が悪かった」
「そうだ、おまえが悪い」
「湊、ああいう子と付き合うと大変だよ。親がうるさくて湊のこと邪険にしそう。冬月さん自身もちょっとコミュ障っぽくて友達いなかったし。だから湊にべったりなんじゃない?」」
「そんなことないから。そもそも付き合ってない」
 俺はクラスメイトの話が少しも信じられなかった。波音は明るくて、誰とでも友達になれそうだ。
 そもそも付き合うってなんだ。昨日みたいに一緒に出掛けたり、ギター弾いたり。それが付き合うってことなら、そうなっても悪くないと思ってるけど。
「でも、あの子の目は完全に恋する目だったよ。湊、適当に付き合ったりしたらだめだよ、ちゃんと考えないと」
「だから、付き合ってないから」
 付き合ってない。友達だって言っているのに、どうしてそういう話になるんだ。波音は友達だ、波音がそう言った。
「じゃあさ、おまえは付き合いたいなって思ってないの? その、波音ちゃんと」
「そういうのよくわからない」
「俺は確信している、湊はもう恋に落ちてる。あぁ、リア充沈没しろ」
 樹の言葉はよくわからない。人を好きになるって、どんな感覚だよ。今まで経験がないからわかるわけがない。
 学校の友人をあてにした俺が悪かった。波音へのプレゼントは俺自身で考えるべきだ。
「そういえば形に残るものはいらないって言ってたよな」
 問題はそこだ。形に残るプレゼントが喜ばれないとしたら、俺に贈れるものはひとつしかない。
俺はノートを広げる。ギターを抱えると、思いつくままに音をかき鳴らした。波音のために曲を作る。あと二週間、できるところまでやるしかない。
 波音と出会ってからのことを思い出す。ひと月にも満たない時間の中に、語りつくせないほどの思い出があることに気が付いた。
 踏切で声をかけてきた波音、ギターを弾く俺の隣で歌を歌う波音。一緒に出掛けたり、帰り道で疲れて眠り込んだり。いつも波音は楽しそうで、嬉しそうで、太陽みたいに笑う。
 夢中で弦をかき鳴らしていると、あっという間にメロディーラインができた。ゆったりとした明るい曲だ。波音はいつも笑顔だから。
 譜面を書いてノートを閉じた。波音からの連絡はない。もしかしたら、偽装デートが楽しくなかったのかもしれない。だからってこちらかた連絡する勇気もなかった。
 もしかしたら波音からの連絡はもう来ないかもしれない。それはけっこう寂しいかもしれない。そう思いつついつもの海沿いでギターを弾いていると波音が駆けてきた。今にも泣きだしそうな顔をしている。
「連絡できなくてごめん! ちょっと調子崩してて……でももう元気!」
 必死にここまで駆けてきてくれたのだろう。息を切らしている波音の頬は真っ赤だ。波音が来てくれたことに安どしている俺がいた。そうか、俺は波音のことを待っていたのか。
「あの日、帰りに寝ちゃってごめんなさい」
 そういうなり波音はぽろぽろと泣き始めた。
「呆れたよね、嫌いになったよね、あのまま連絡もしなくて……」
「呆れてないし、嫌いになってもいない」
 波音が来てくれて嬉しかった。そう告げたら、波音は笑ってくれるだろうか。
「本当? 怒ってもない?」
「怒るわけない。正直、不安だったのは俺の方だ。波音からの連絡がなかったから、嫌われたかと思った。来てくれて嬉しかった」
 笑ってほしかったのに、波音はさらに激しく泣き始める。波の音をかき消すように波音は泣きじゃくった。俺の中に波のように感情が押し寄せてくる。
「ごめん、泣かせた」
「違うの、これは嬉しいから……。嬉しくて、ほっとして泣いてるの」
「そうか、でも泣かせたことに違いはないよな。波音、俺は笑ってほしいよ、君に笑ってほしい」
「笑って……」
「そう、波音には笑顔の方が似合う」
 今度は無理に笑おうとして、変な顔になる。その表情を、たまらなく愛しいと思った。そうか、これが。
『湊はもう恋に落ちてる』
 樹の言葉の意味が、少しだけわかるような気がした。
「いやだな、上手く笑えない」
「ごめん、無理しなくていい。波音はそのままでいいよ。笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣くのがいい」
 もしかしたら今までも、波音は無理をしてきたのかもしれない。俺が気が付かなかっただけで。
「湊君……」
 波音はそのまましばらく泣いてから、大きく深呼吸をした。
「落ち着いた?」
「うん。取り乱しちゃってごめん、恥ずかしいな」
「いいよ。全然恥ずかしくない」
「湊君は優しいね」
「そんなことない、普通だ」
 波音はふふって嬉しそうに笑った。いつもの波音だ。いや、いつもよりも少し影がある。なんとなく、これが本当の波音の姿なのではないか、そんな気がした。
「ギター弾いて湊君」
「いいよ、何がいい?」
「なんでもいい、湊君が好きな曲」
 波の音に合わせて、ギターをかき鳴らす。波音はじっと海を見ていた。今日は歌わないのだろう。
「おーい湊―!」
 国道沿いから声がした。クラスメイトの女子だ。波音の表情がこわばる。俺の陰に隠れるように身を潜めた。
「なんか用?」
「今日も模擬デート?」
「今日はギター練習」
「ふーん、じゃあまた明日ねー!」
「おー」
 クラスメイトの姿が見えなくなってから波音に視線を向けると、まだ怯えたような表情をしていた。
「もう帰ったよ」
「隠れたりしてごめん」
「いいや、あいつのこと怖いの? 苦手? 小学校が一緒だったって聞いたけど」
 聞いていいことなのか、悪いことなのか。後者かもしれないけれど、ここで尋ねないのは不自然な気がした。俺の言葉に波音は首を横に振る。
「あの子だけってわけじゃないんだけど。苦手っていうんじゃないんだけど、なんか緊張しちゃって」
「そっか。そういうこともあるよな」
 再びギターを弾く。少しアップテンポな曲がいい、波音が元気になるように。風は冷たいけれど波の音が優しい。一曲弾き終えたところで波音が「あのね」と口を開いた。
「湊君、私、湊君に話しておかないといけないことがあるの」
「話しておかないといけないこと?」
「うん」
 少しずつ潮が満ちてきている。砂浜を黒く染める波がすぐそばまで迫ってきていた。
「私、脳の病気で、一日にたくさん起きていられないの。子供のころから睡眠時間が長くて、調べて分かったんだけど、少しずつ少しずつ、私が活動できる時間が短くなってる。この前みたいに一日中外にいたりすると、三日くらい寝続けちゃうんだ」
 それで、連絡が途切れたのか。少しずつ明かされていく、波音が戦っていたものが。少しずつ、少しずつ、こじ開けた扉から光が漏れるように、少しずつ見えてくる。
「だんだん学校に行けなくなって、時々行ってもすごい腫物扱いで、体育の授業とか受けたことないし、遠足も修学旅行も行けなかった。友達って呼べるクラスメイトはひとりもできなかったし、勉強にもついていけなくなって、学校に行くのがつらくなって。中学はもう全然行ってない。だから、同じくらいの年の子に会うと余計に緊張しちゃうんだ。この子たちは、私とは全然違う輝く世界で生きてるんだって」
 この細い両手で、波音は大きな不安を抱えてきたんだ。誰にも預けることなく、たったひとりで。かける言葉が見つからなかった。波音の不安を一緒に持ってやりたい。だけど、俺はあまりに非力だ。
「じゃあ、勇気を出してくれたんだな。俺に声をかけてくれた時」
 なんで俺を選んだのか、そんなことはどうでもよかった。ただの気まぐれでも、偶然でも、友達になりたいと波音が俺を選んでくれたことが嬉しかった。
「うん……めちゃくちゃ勇気出したよ。そのあと熱だして寝込んじゃうくらい」
「ありがとう」
 言いたいのは、感謝の言葉だけじゃなかった。伝えたい言葉は本当はもっと他にあって、心の中に満ちてくる震えるような熱さを上手く伝える自信がなかった。この想いを、なんていうんだろう。
「あのね、私、たぶんあと少ししか湊君に会えないと思うんだ」
 波音は大きく深呼吸して、冷たい冬の空気を吸い込んだ。
「私、生きられて十五歳までかなって言われてたの。もうすぐ、最後の誕生日が来ちゃう」
「え……」
「眠りが深くなるたびに呼吸も浅くなって、もうすぐきっと二度と目覚めなくなるんだって」
「そんなの……」
 嫌だ……!
 なんとなく感じ取ってはいた、波音の命のはかなさを。だけど、こんなに早い別れなんて、信じられない。信じたくない!
「毎年誕生日が来るのが怖かった。本当に怖くて怖くて、時が止まればいいのにって、明日が来なければいいのにって。それでも当たり前のように時間は過ぎて、私はもうすぐ十五歳になる」
 突然明かされた真実に俺は困惑した。俺がどんなに否定したくても、事実はどうしたって変えられないのだ。迫りくる波のような勢いで、俺を飲み込んでいく。
 波音の母親は、誕生日を祝ってやれって言った。だけど、どんな気持ちで祝えばいいのか、わからない。叶うことなら、俺の残りの人生を半分波音にあげたい。そして、波音ともっと一緒にいたい。それが叶わないから、俺の命を全部波音にあげたい。それで、波音が生きられるなら。
「お願いがあるんだ」
「なんでも聞く」
 俺にできることなら、なんでもしてやる。なんだって、波音が望むなら。
「私の十五歳の誕生日、お祝いしてほしい。最後の誕生日くらい楽しみに待ちたい、幸せな気持ちで迎えたい」
「そんな、ことでいいのか」
「湊君がいてくれたら、私はなんでもできるって思えるの。お出かけだって、ギターだって、歌を歌うことだって。湊君がいたら、私は最強だから」
「じゃあ波音、俺のお願いも聞いて」
 波音の生きた証を俺は永遠に大切にするから。
「俺が渡した曲、歌詞が出来たら波音が歌った音源がほしい」
「え、それは恥ずかしい。湊君以外の前で歌ったことないし、誰かに聞かれたら恥ずかしい」
「誰にも聞かせない。約束する」
「それなら……いっかな。誕生日の日までに用意しとくね、歌詞はもうかけてるんだ」
「うん、楽しみにしてる」
「神社に行きたいな。実は何気に一回も行ったことがないの、人が多くて疲れちゃうからって連れて行ってもらったことなくて」
「俺が連れて行ってやる。途中で眠たくなったら背負うから」
「寝たくないな。そのまま起きられなかったらショック死する」
「なら、眠たくならないように楽しいことをたくさんやろう。波音がやりたかったこと全部」
「うん、ありがとう!」
 泣き出しそうな波音の笑顔に、心が震える。この笑顔に会える日はもうほとんどない。そう思うと、心臓をかきむしられるような気持になった。
「そろそろ暗くなる、家まで送るよ」
「湊君、自転車?」
「そうだけど」
「私、一度後ろに乗ってみたかったんだ」
「そんなのお安い御用だ」
 止めてあった自転車の鍵を外すと、荷台に乗るように促す。
「乗って、ちょっと硬いけど」
「大丈夫、コートがモコモコだから」
 後ろに波音を乗せて、ゆっくりと走りだす。背中に波音の重さを感じる。このまま波音を連れて、色々な場所に連れて行ってやりたい。波音が望む場所ならどこだって。だけど現実はそうはいかない。踏切を渡るとあっという間に波音の家が見えてくる。少しでもゆっくり、
一秒でも長く、波音の存在を感じていたいのに。
「湊君ありがとう、私の我がままに付き合ってくれて」
「波音が我がままだったことなんて一度もないよ」
「でも、私、色々なことを叶えてもらった。湊君の貴重な時間をたくさん奪って」
「奪われてない。波音との時間は、俺にとって大事な時間だよ。買い物や一緒に昼飯食べたりするのや、ギターの練習だって、こうして波音を家まで送る時間だって、一緒にいられる時間は俺にとって何ものにも代えがたい時間だ」
 後ろに乗る波音がハッと息をのんだのが分かった。言葉にしてから俺もハッとする。これは、とんでもないことを言ったんじゃないか。まるで、波音のことが特別だって言っているようなものだ。でも、嘘じゃない。俺の中で、波音の存在は何ものにも代えがたいものになっている。
 波音の家の前に着いた。トンっと波音が自転車の荷台から降りて、急に自転車が軽くなる。
「湊君、二十八日に会おうね、おやすみなさい」
「うん、おやすみ波音」
 たぶん、波音には会えるのはあと一度きりしかない。
「待って」
 玄関の取っ手に手をかけた波音を呼び止める。ここで、なにを言うつもりなんだ俺は。なにも、できないくせに。
「ごめん、なんでもない」
「うん、またね」
 「またね」その言葉があまりに重い。「またね」があるのは次の約束があるからだ。きっと二度目の「またね」はもう聞けない。
 家に帰っても少しも眠れなかった。気を紛らわせるためにギターを触る。波音に贈るための曲を、二十八日までに完成させるんだ。
「ちょっと湊、ご近所迷惑だからやめなさい」
「あと少しだから」
「もう、ギターばっかり弾いて、そんなんじゃろくな大人になりませんからね」
 ろくな大人になんてならなくていい。そんなことなんかよりも、今は波音のために曲を作り上げるほうがずっとずっと大事だ。
 二十八日はあっという間にやってきた。その間、波音からの連絡はなかった。きっと深い眠りに落ちていたのだ。十五回目の、最後の誕生日を迎えるために。
 幸い天気は快晴だった。春の訪れを感じるように少し暖かい。待ち合わせの港に三十分以上早く着いたのは、波音よりも早く来ていたかったから。ボディバックの中のUSBには波音へのプレゼントが入っている。データで送るよりも、形にして送りたかったから。
「湊君、お待たせ! 早く来たつもりだったのに先越された!」
 波音は十五分も早くやってきた。
「波音待たせるの嫌だったから」
それと、一秒でも早く会いたかったから。
「もっと早く来ればよかった、そうしたら湊君といられる時間が長くなったのに」
「ほら、過ぎたことよりこれからのことを考えるぞ。早く船に乗ろう」
 神社に向かう定期船に乗る。遠足や家族との外出で何回か来たことがあるから目新しいことは一つもない。
 でも波音はいたるところの景色に見とれて、子供のようにはしゃいでいた。そんなにはしゃいでたら、また途中で寝るんじゃないかって不安になるくらい。
 波音が嬉しそうだ。だから俺も波音との時間を楽しむことにした。きっとこれで会えるのは最後だ、そのことを忘れるくらいに一生懸命一秒一秒を楽しんだ。こんなに必死になったのは初めてだ。
「波音、誕生日おめでとう」
 階段を上って小高い場所で休んでいるときにバッグからUSBを取り出す。中には一曲だけ、波音へのプレゼントが入っている。
「これ、誕生日プレゼント。何がいいか悩んだけど、曲にした」
 USBを受け取った波音は目を輝かせて、それから大きな瞳いっぱいに涙を浮かべた。
「これ、私のために作ってくれた曲?」
「そうだよ、波音だけの曲。だから他の誰にも聞かせないで」
「もったいないよ、絶対素敵な曲なんだから」
「波音が聞いて素敵だなって思ってくれたら嬉しいから」
「ありがとう! めちゃくちゃ嬉しい。じゃあ私、今夜からこれをかけて寝るね。そうしたら、夢の中で湊君に会えるかも。これは私からのプレゼント、約束の音源。私の歌入り! 恥ずかしいから家に帰ってから聞いてね」
「わかった、ありがとう」
 波音から受け取ったUSBを、大切にバッグにしまう。
「ありがとう湊君、私、こんなに嬉しかった誕生日は初めて。いつもは怯えていたから……」
 高台は閑散としていて誰もいない。下の通りをカップルが通りかかった。
「私ね、何度も何度も思ったの。どうして私は普通じゃないんだろうって」
「普通か普通じゃないかなんて、誰にも決められないよ。俺から見て波音は普通の女の子だ。笑って、泣いて、悩んで、俺や周りのみんなと何も変わらない」
「そう、かな。そうだったらいいな。私、弱虫で、泣き虫だけど」
 波音が笑う。今にも泣きだしそうな顔で。
「好きだよ」
 想いがこぼれ落ちる。言わずにはいられない。もう、耐えられない。押し寄せてくる感情を止めることなんて、俺にはもうできなかった。
「そんな波音のすべてが俺は好きだ」
 大好きなんだ。波音が笑うと心があたたかくなるのも、泣き顔に心が震えるのも、全部全部、波音のことが好きだからだ。
「私も、私も大好き」
 波音の大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。思いが通じた喜びよりも、それを失う恐怖のほうが大きかった。
「大好きだよ、湊君」
 泣き顔のまま、波音は笑った。
「私、生まれ変わったら湊君の歌を歌うね。絶対絶対、また湊君の前に現れるから」
 そんな奇跡が起こらないことを、きっと波音はわかっている。
「俺は必ず波音を見つけるよ」
 そんな奇跡が起こらないことくらに、俺にだってわかる。
「わかるかな」
「わかるよ、わからないわけないだろ」
「うん、またね」
「またな」
 きっともう会えない。泣くな、涙を見せたらだめだ。最後は、笑顔で別れたい。だって、波音が笑うから。