「実翔は幽霊とか信じるか?」

「え?」
「今回のように、親しい人が亡くなって、幽霊としてでも良いから現れてほしいと、思うか?」
 目の前に居る兄の、まるで懺悔のようなぽつぽつと呟く一つ一つの言葉が、酷く重く感じ、実翔は小さく息を飲んだ。
「最初はついにおかしくなったのか、それとも俺への何かの罰かとも思ったよ」
 ゆっくりと、実翔から明衣のいる方へ視線を動かす。そして、真緒と明衣の視線が確かに重なった。
 目が合った、と自覚すると、人間は異常なほどに敏感になるものだ。
 迷いなくこちらを射抜くような瞳と視線が重なり、明衣は微かに肩を跳ねらせた。

 そんな二人の様子を見て、当然実翔も驚くと共に察する。

「もしかして、真緒も空閑さんが見えるのか」

 彼の問いかけに、兄は即座には応えない。それでも、姿が見えているのだと分かった。
 それと同時に、彼女が表れてからの兄の行動や言葉に納得もした。

 彼が明衣の生前時と態度があまり変わっていなかったのは、弟と同じく彼女の姿が見えていたから。弟が必死になっているのを怪しむことも、苛めることもしなかったのは、理由が分かっていて見えていたから。

 目を開きながらも問う弟の顔を見て、兄の貼り付けられていた笑みが、ゆっくりと剥がれ落ちていく。
 瞳は一気に氷を張った真冬の水のように冷え切って、口角も下がり、世界の全てをも否定するような、そんな顔。
 明衣はもちろん、実翔ですら、そんな顔は生まれてから共に過ごしてきた中で、一度も見たことは無かった。
「おかしいことは無いだろう。だって、俺達は双子だ。実翔が見えるのなら俺が見えてもおかしくない」
「それなら」
 どうして、会話に入ってこなかったのか。明衣に伝えなかったのか。隠していたのか。
 聞きたいことは沢山あった。

 だが、兄はそれを許さんとばかりに、変わらずに冷たい瞳で二人を射抜く。
 怒りとは違う、悲しみとも違う。その瞳はただ、己たちを憎んでいるのだと安易に伝えてきた。

 そんな彼を相手に、何が言えよう。
 実翔と明衣は言葉が詰まり、身体が硬直する。そんな二人の様子を見ていた兄は、最後に小さくため息を吐いた。
「君達は大層仲が良いようだからな。邪魔をするわけにはいかなかった。何より、言っただろう。人間は思ったより、そう上手く出来ていないと」
 それだけ言うと、真緒は自身のマグカップだけを手に取って立ち上がり、二人に一瞥も目も向けず、一言も声をかけずに部屋から去っていった。

 上手く出来ていない。それは色々な意味が含まれていたのだろう。
 明衣の友人が悲しみから立ち上がる為に、時間は膨大に必要となること。下手すれば一生引きずってしまうかもしれないこと。
 そしてそれは実翔と真緒も同じである。
 いくら隣に明衣が居たとしても、その彼女はあくまで幻影の様なものだ。いるのが当たり前の存在ではない。

 そして生前の彼女への未練が残ったまま、こうして時間だけは過ぎてしまった。

 勿論、生きているのが当たり前ではない、ということはとっくに理解はしているのだが、彼女が消えたら、と考えるのを拒否している様だった。

「ごめん」
 明衣の震えた声色の謝罪を聞いて、凍り付いた空間と時間が動き始めた。実翔は小さく息を飲んで、今にも泣きそうな彼女に向け、出来るだけ安堵させるための笑みを浮かべる。
 それは長年培って作り上げた兄の笑みとは違い、大層不格好なものだったが。
「気にするな、アンタは悪くない」
「でも」
「二人は、悪くなかった」
 それでいて、一歩を進まなかった全員が悪かった、とも言えるかもしれない。最後の事実は口にせず、実翔は苦笑いを浮かべる。
「まあでも、その言葉は真緒には言わない方が良いかもな」
 どうせ口だけ、とか、謝罪は求めていないとか、ひねくれた返事をするに決まっている。実翔が苦笑いをしながら述べた言葉に、明衣は何も言えない。

 けれど、きっとその通りなのだ。彼が求めているのは、きっと謝罪で終わるものではない。簡素な謝罪は彼の気持ちを余計に逆なでしてしまうだろう。
 それでいて答えがはっきりしているわけではない。

 ――自分は、明衣が生きていた時から何も変わらない、二人にとっての役立たずだ。

「それでも、実翔くんにも迷惑をかけているのは本当だから。だから、もう、今日で最後にするから」
「さいご?」
 今にも泣きだしそうなのに、必死に耐えている明衣の表情はあまりにも痛々しすぎた。
 つられて実翔も泣き出しそうになった際に察してしまう、明衣に言われた「最後にする」という言葉。
 どろりと、鉛のように重く実翔の心に垂れてきて、そのまま心を重く暗い沼の中に沈みこんでしまいそうだった。

 明衣は涙をこらえるように唇を噛みしめ、ギリギリの笑顔を浮かべながら、己の手首を握りしめる。
「自分で望んでこの世に留まっていたくせに、ただ二人を苦しめているだけで。本当に怪物になっちゃったよね。本当にごめん。最低だよ、本当に」
 何度も、ごめんと本当という言葉を繰り返し、握る力をどんどんと強めていく。このまま手首が取れてしまうのではないか、と思ってしまうほど、震えているその手は力が込められていた。
 その体に血は巡っていないが、きっと人間の姿であれば、血が止められ真っ白になっていたのだろう。
 そんな姿がひどく悲しくて、実翔は明衣の手を掴んでその行為を止めさせる。幽霊であるはずの彼女に触れられることの驚きは、一瞬で吹き飛んだ。
 掴んだ彼女は朝に凍った雪のように冷たくて、硬くて、別の生き物なのだと認識してしまう。

「ごめんな、空閑さん」
「はは、止めてよ。悪いのは私なのに……」
 きらり、と部屋の明かりが何かを反射させた。
 明衣がゆっくりと顔を上げれば、そこには実翔の泣き顔があった。人前で見せることなど一度も無かったのに、自然と涙がこぼれていた。

「俺はアンタの友達も、真緒の弟であることも失格だな」

 明衣は呆けた顔をしている。
 どうして? そう問いかけることは簡単なことだろうが、そこから続くだろう彼の理由には、上手く言葉を返す自信がない。

 友人であることも、弟であることも失格だと思うのは、兄の考えに納得もしてしまったから。

 ああ、そうだ。自分たちは双子で、自分は兄に守られるように生きてきた。彼のおかげで表立った反抗期も無かった。
 それを兄に向けて礼を述べることも無く、当たり前のように考えていた。そりゃあ兄に見放されて当然だろうな、と思うしかなかった。

 誰かに真っ直ぐな思いを向けられるのは、とても幸せなことだと分かっていたはずなのに。

 兄からそうした優しい思いなどを貰ったのに、己は兄にそうした機会を与えることは出来なかった。
「俺はアンタの背を押すことも、真緒の味方にもなれなかった。俺は、肝心な時はいつだって役立たずだ」
 言えばよかったな、言えばよかった。明衣の想いは真緒にとってはとても嬉しいものだったんだよって。兄には、アンタの事をちゃんと見ている女はすぐそばに居たんだって。
「俺は二人の事を応援するよって、笑顔で言えばよかった。そうしたらさあ……こんなことにはならなかったのかな」
 髪の毛を、くしゃりと握りしめながら実翔は己の想いを口にする。

 明衣は泣き出した実翔をしずかに見つめていた。泣きながらあふれ出した彼の声があまりにも情けなかったからか、そんな彼の姿など初めて見たから驚いたのか。
 それでも、彼女は彼の言葉を一つ一つ掬い取ってくれている様だった。

 いや、実翔がそう信じたかっただけだ。

「実翔くん」
「……こんな俺が言うのも、お門違いかもしれないけどさ」
 テーブルの上にある、綺麗に折られた花の一つを手に取って、彼女に手渡すように腕を伸ばす。
「いつでもいいよ。それでも、アイツに伝える言葉は、ごめん以外にしてあげて」
 明衣が両手を差し出せば、ぽとり、と花を手のひらに落とされる。
「ごめんな」
 相手には言うなと言うくせに、自分は言うのか。本当に卑怯だな。そんな自分が嫌いになってしまう。
 彼女に言葉を伝えてほしいと言ったとて、簡単なことではないだろう。なんせ真緒はこちらに憎しみを抱いていたのだ。次に会話する際に失敗したら、と考えるのは当然だろう。
 それなのに頼んでしまったのは、己の為、以外にないだろう。実翔は自分の全てが気持ち悪くなり、反吐が出そうだった。