明衣から預けられた折り紙は、見覚えのある封筒の真ん中にハートが付いている形だった。手に取ってみれば、何か入っているのか、カサリと音がする。
手紙の封筒の中に、折り紙の封筒、その中にはまた何か入れているのだろう。相変わらず器用なことだ、と感心した。
さて、どうするかと実翔は考える。
彼女に頼まれた願いを叶えるためには、まずは鬱屈した雰囲気になっている兄弟間で、話をしないといけない。真緒が実翔を避けているままだと、これを手渡すことさえできず、実翔から彼女にした願い事も無駄になってしまう。
ふ、とカーテンの隙間から窓の向こうを見る。雪は相変わらず降り続いており、いつの間にか風も強くなってきたようで視界も悪い。
手紙を読んでいる際は集中していて気付かなかったが、猛吹雪によってガタガタと音を立てて窓が揺れて鳴いていた。
「仮病とは、いつの間にそんな不良になっていたのかな」
カーテンが開かれる音がし、声をかけられた方へ顔を向ける。
そこに居たのは、頭で考えていた真緒だった。
彼はコートを羽織り、マフラーも巻いて完全防寒のスタイルでそこに立っていた。自身の鞄を肩に背負っており、あいている手には実翔の鞄等、荷物を手にしている。
「真緒。どうしてそんな恰好」
「大雪と暴風警報が出たからね。電車やバス通学の生徒は通行手段も無くなり学校へ来る前に公欠。危険だからという判断で、残りの生徒も帰されることになったんだ。実質学校閉鎖だね」
ベッドの上に実翔の鞄やコートなどを放り投げられる寸前に、実翔は慌てて手紙等を手に取って避難させる。
「お前の分を持ってきた。双子で同じ家だからと渡されたんだ。保健室の先生も、弟を起こして帰れと出て行ったよ」
「……悪かった」
苛立ちを隠そうとしない声色と視線。実翔は素直に謝罪の言葉を口にした。
真緒は弟の手元にある手紙に目を向け、それは? と問うた。
「空閑さんの友人から預かった、空閑さんからの手紙だ。読んでほしいと言われて読んでいた」
問われた内容に答えを返せば、真緒は一瞬だけ目を丸くしてから顔を逸らし、少しだけ自虐的な笑い声をこぼした。
「……ああそうか、泣ける話だね。空閑さんからのラブレターか」
「……何の話だ? 俺は彼女から、そうした手紙をもらったことは無い」
実翔は手紙を折りたたみながら、封筒の中にしまう。そんな彼を見て、真緒の苛立ちは強くなっていく。
「は? ここまで来て嘘を言うのか?」
「俺が真緒に嘘を言うわけがない。それに、彼女はこんなに言葉を伝えないし、抱え込むタイプだった。あくまで、俺が知る限りでは、だが」
弟が少しだけ眉間に皺を寄せ、反論した。だが、今の真緒は彼の言葉も、あの女の事も信じるには難しかった。
――嘘だな
今まで抑えに抑えてきた、自分自身にさえ訳のわからない、胸の奥底にある濃くて熱い液体が泡立ち、火山の爆発のように噴き上げてくるようだった。
つくづく自身を苛立たせるのが上手い二人だ。
貰ったことがない? そんなわけがないだろう。もう二度と騙されるものか。体育祭で、彼女は弟に渡していただろう。それを抜きにしても、明衣は実翔と親しかった。実翔も珍しく心を許している関係だったことは、簡単に察せられていた。
そうだ。彼の言っていることが嘘でなければ、何だというのだ。
嘘でなければ。
「それと、これは空閑さんから預かったものだ。手紙の中で、真緒に渡してほしいと頼まれた」
実翔が真緒に差し出したのは、手紙の中に入っていた、折り紙で作られた封筒だ。器用に、真ん中のハートも折られており、明衣の気持ちが一目で伝わるような形で折られていた。
真緒は呆けてそれを眺め、弟が押し付けるように差し出してきたそれを、震える手で受け取ってしまう。
ちょうど折り込まれているハートの部位が封を留めていたらしく、そこから折り込まれていた紙を取り出す。そして、封筒の中には、また別の折り紙が入っていた。
中に入っていたのは丁寧に折られていた、向日葵と、赤いバラ三本。
小さいのに、丁寧に折りこまれているものを取り出せば、実翔は感心するような声をこぼす。
「本当に手先が器用だ」
「……花は、お前だって貰っていただろう。部屋に置いてある」
「確かに、空閑さんの暇つぶしとして折り紙を渡して、彼女は花も折っていたが、その二つは一度も見たことがない」
実翔はベッドから降り、兄から渡されたコートを羽織って、マフラーもいつも通りに、首元を雪風で冷やさない様に巻いた。
「向日葵の花言葉は、確か『私はあなただけを見つめる』だったか。ああ、あと『憧れ』『あなたは素晴らしい』もあったな」
真緒は、自身の身体に熱いものが脊髄の両側を駆け上って、喉元を切なく衝つき上げて来る感覚に襲われた。それでも、実翔は気付かないフリをして言葉を続ける。
「赤いバラは定番だな。『あなたを愛しています」だ。あと三本だと『告白』という意味も込められているらしい」
手が震える。何で震えているのかも真緒はわからない。ゆっくりと手元に目を向ける。折り紙の封筒の中には、もう一つ、小さな紙が入っていた。
『真緒くんが好きでした』
その一言だけが書かれていた。あの時と同じだ。
ただ、あの時とは違うのは、自身の名が追加されたのと、言葉が過去形になってしまったことだが。
脳裏に過るのは、自分たちを一度も間違えることも無く、双子をそれぞれ個として見ていた彼女。熱を持った目で己を見つめる眼差し。
それは生前から、死後に幽霊となっても変わっていなかった。己の心を守るために意地となって目を逸らしていた真実。
肩にかけていた鞄が床に落ち、その音がひどく大きく響いた。
「真緒?」
実翔が名を呼ぶが返事はない。数回名を呼んで肩を揺らすが、返事がない。
実翔は、絡まっていたややこしい真実が、漸く彼の中で解けたのだと理解し、小さく唇を噛む。
「……空閑さんにお願いしたんだ。待っていてほしいと。アンタが思いを告げたあの場所で、待っていてほしいと」
真緒はゆっくりと実翔に目を向ける。
自分の弟は、今にも泣きだしそうなのを、必死にこらえている顔をしていた。そんな顔をさせてしまったのは誰だろう。そう考えて即座に、心の中の自分が、お前だと指をさす。
散々、大切な二人を傷つけてしまった。本当は、許されるはずもないのだ。
頭では、心では分かっている。心の中の自身が、そんな資格は無いと卑下をする。お前は最低だと口にする。
だが、頭だとか心だとか、そうしたもので簡単に、この感情を説明することは出来ないのだ。強烈な衝動に突き動かされ、心が、燃えて、燃えて、我慢できずにそれを命じた。
まるで全てを投げ捨てるように、真緒は保健室から飛びだした。
そんな兄の背中を見送って、実翔はゆっくりと息を吐きながら、ベッドに腰かける。
満たされることのなかった、そしてこれからも永遠に満たされることのないであろう、自身の兄の憧憬。
今更だ。こんなのは己のエゴだ。己のエゴの為に、二人を巻き込んでしまったに違いない。
それでも、自身が愛した二人が同じ思いを抱えているだろうと悟ったあの時から。そんな二人を見るのが好きだと、自覚したときから。
この先、何があっても二人の一番の味方で居ようと決めた。なのに、それを守れなかった自分がずっと、ずっと許せなくて。
「空閑さんの想いは真緒にとっては、とても嬉しいものだったんだよ」
彼女が生きている時に言えばよかった。
そう思っていた言葉がぽつりぽつりと口からこぼれ落ちていく。
「アンタの事をちゃんと見ている女子が、すぐそばに居るんだよ」
兄にも、彼女が生きている時に言えばよかった。
何かが瞬く間に彼の中で膨らんで、胸をいっぱいにし、突き上げてくる気持ちで闇雲に涙が溢れてくる。ぽつりぽつり、と涙がコートにシミを作り、それは一瞬で目立たなくなった。
「俺は二人の事を応援するよ。だから、」
最後に唇を噛みしめれば、大粒の涙が落ちた。
「二人共、頑張れ」
必死に絞り出した声は、自分でも分かるほど掠れて上ずっていた。かっと熱くなった頭に心臓の音がドクドクと響く。
弟である実翔の声は届いたのか、それは分からない。
それでも、真緒は自身の下駄箱のある場所までたどり着いた。玄関の硝子戸の向こうは、猛吹雪で真っ白になっていて、まだ昼にもなっていないのに暗い。
それでも、真緒の目では、目の前の光景が明るいもののように見えた。
自身の下駄箱の前に、明衣が立っている。
彼が声をかける前に、彼女が振り向いて、優しい笑みを向けた。
夢を見ているようでもあり、そして淋しいようにも思えて、胸が締め付けられるようで苦しい。二人は揃っていつもと違う顔をしていた。
返事はいらないと、明衣は言っていた。それでも真緒は、本当は口にしたかった。
言いたかったのに言えなかった。言おうとすると苦しくて、何故か胸がつまって、顔が熱を持ったように真っ赤になって、泣きたくもないのに泣きそうになってしまうものだから。
「俺は、いまいち分かってなくて。それでも君と接しようとしても、他の子とは違って上手くいかなくて」
立ち止まっていた足を、一歩踏み出す。
「こうしていると、自分でも分からないけど心臓もやけにうるさいし」
熱くなっていた目元から、一筋の涙が真緒の頬を伝った。
「もっと、君と話してみたかった」
真緒の言葉を聞いて、明衣は少し目を丸くしてから、再度優しい笑みを浮かべてくれた。
「告白を受け取ってくれてありがとう」
彼女は最後に真緒の手に触れようとしたが、その手は勝手にすり抜けてしまう。
明衣は自身の手を見てから、自虐的な笑みを浮かべる。その表情が痛々しく、真緒の心臓が鷲掴みにされ、そのまま絞られてしまうような。切なく苦しいとはこういうことを言うのだろうと、ゆっくりと腑に落ちていく感覚がした。
「俺は君が好きでした」
ゆっくりと紡がれた真緒の言葉を聞いて、明衣は驚いて口元を手で覆う。
暫く二人が見つめあっていると、明衣はゆっくりと手を口元から話して、最後に涙を零してから、これ以上なく幸せそうな笑みを返した。
「ありがとう」
ゆっくりと足元から姿が消えていく姿を、真緒は目にする。
手を伸ばそうとも、彼女を掴むことも、この場に留まらせることもできない。ただ見守ることしかできなかった。
それは、急いで駆けてきて、息を荒げている実翔も同じことで。
大切で大好きな双子に見守られながら、明衣は嬉しそうに笑みをこぼしてこの世から姿を消した。
「こんな終わり方で、俺は前に進めるのだろうか」
今まででは聞いたことのないような、か細く弱々しくて頼りない兄の声と言葉を聞いて、弟は、さっきまで明衣の居た場所に目を向けながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「周りは進めとか言うかもしれない。逆に、簡単に吹っ切るなとも言う人も居るかもしれない。けれど、人の死から立ち直ることは悪ではない」
明衣の友人のように、ゆっくりと大切な人の死を受け入れて、前を向こうと努力し、悲しみから立ち直るのは悪いことではない。
「それと同時に、別に立ち直る必要もない、と俺は思う」
「え?」
「真緒も俺も、この悲しみや思いを一生背負って生きても、悪いことではないんじゃないか」
実翔の言葉に目を開くと、瞳がゆっくりと水の膜で覆われていくのが分かる。
「そうか。この想いって、一生背負っても許されるのか」
「第一、他人にとやかく言われる必要なんて無いと思う」
双子からすれば、今更すぎる考えだろう。いつだって、周りの意見や思いを押し付けられても、聞き流しては己で対処して生きてきたじゃないか。
「……明日から、空閑さんの机を折り紙で飾ることになったんだ」
「そうか」
「だから、真緒。一緒に作らないか」
「そう、だな」
ぽつりぽつりと返される声を聞きながら、真緒の隣に立てば、彼が床に小さな水たまりを作るように泣いている姿が分かった。
その姿を見て、少し目線を逸らしながら、そっと兄の頭を撫でる。
「お疲れ様」
手紙の封筒の中に、折り紙の封筒、その中にはまた何か入れているのだろう。相変わらず器用なことだ、と感心した。
さて、どうするかと実翔は考える。
彼女に頼まれた願いを叶えるためには、まずは鬱屈した雰囲気になっている兄弟間で、話をしないといけない。真緒が実翔を避けているままだと、これを手渡すことさえできず、実翔から彼女にした願い事も無駄になってしまう。
ふ、とカーテンの隙間から窓の向こうを見る。雪は相変わらず降り続いており、いつの間にか風も強くなってきたようで視界も悪い。
手紙を読んでいる際は集中していて気付かなかったが、猛吹雪によってガタガタと音を立てて窓が揺れて鳴いていた。
「仮病とは、いつの間にそんな不良になっていたのかな」
カーテンが開かれる音がし、声をかけられた方へ顔を向ける。
そこに居たのは、頭で考えていた真緒だった。
彼はコートを羽織り、マフラーも巻いて完全防寒のスタイルでそこに立っていた。自身の鞄を肩に背負っており、あいている手には実翔の鞄等、荷物を手にしている。
「真緒。どうしてそんな恰好」
「大雪と暴風警報が出たからね。電車やバス通学の生徒は通行手段も無くなり学校へ来る前に公欠。危険だからという判断で、残りの生徒も帰されることになったんだ。実質学校閉鎖だね」
ベッドの上に実翔の鞄やコートなどを放り投げられる寸前に、実翔は慌てて手紙等を手に取って避難させる。
「お前の分を持ってきた。双子で同じ家だからと渡されたんだ。保健室の先生も、弟を起こして帰れと出て行ったよ」
「……悪かった」
苛立ちを隠そうとしない声色と視線。実翔は素直に謝罪の言葉を口にした。
真緒は弟の手元にある手紙に目を向け、それは? と問うた。
「空閑さんの友人から預かった、空閑さんからの手紙だ。読んでほしいと言われて読んでいた」
問われた内容に答えを返せば、真緒は一瞬だけ目を丸くしてから顔を逸らし、少しだけ自虐的な笑い声をこぼした。
「……ああそうか、泣ける話だね。空閑さんからのラブレターか」
「……何の話だ? 俺は彼女から、そうした手紙をもらったことは無い」
実翔は手紙を折りたたみながら、封筒の中にしまう。そんな彼を見て、真緒の苛立ちは強くなっていく。
「は? ここまで来て嘘を言うのか?」
「俺が真緒に嘘を言うわけがない。それに、彼女はこんなに言葉を伝えないし、抱え込むタイプだった。あくまで、俺が知る限りでは、だが」
弟が少しだけ眉間に皺を寄せ、反論した。だが、今の真緒は彼の言葉も、あの女の事も信じるには難しかった。
――嘘だな
今まで抑えに抑えてきた、自分自身にさえ訳のわからない、胸の奥底にある濃くて熱い液体が泡立ち、火山の爆発のように噴き上げてくるようだった。
つくづく自身を苛立たせるのが上手い二人だ。
貰ったことがない? そんなわけがないだろう。もう二度と騙されるものか。体育祭で、彼女は弟に渡していただろう。それを抜きにしても、明衣は実翔と親しかった。実翔も珍しく心を許している関係だったことは、簡単に察せられていた。
そうだ。彼の言っていることが嘘でなければ、何だというのだ。
嘘でなければ。
「それと、これは空閑さんから預かったものだ。手紙の中で、真緒に渡してほしいと頼まれた」
実翔が真緒に差し出したのは、手紙の中に入っていた、折り紙で作られた封筒だ。器用に、真ん中のハートも折られており、明衣の気持ちが一目で伝わるような形で折られていた。
真緒は呆けてそれを眺め、弟が押し付けるように差し出してきたそれを、震える手で受け取ってしまう。
ちょうど折り込まれているハートの部位が封を留めていたらしく、そこから折り込まれていた紙を取り出す。そして、封筒の中には、また別の折り紙が入っていた。
中に入っていたのは丁寧に折られていた、向日葵と、赤いバラ三本。
小さいのに、丁寧に折りこまれているものを取り出せば、実翔は感心するような声をこぼす。
「本当に手先が器用だ」
「……花は、お前だって貰っていただろう。部屋に置いてある」
「確かに、空閑さんの暇つぶしとして折り紙を渡して、彼女は花も折っていたが、その二つは一度も見たことがない」
実翔はベッドから降り、兄から渡されたコートを羽織って、マフラーもいつも通りに、首元を雪風で冷やさない様に巻いた。
「向日葵の花言葉は、確か『私はあなただけを見つめる』だったか。ああ、あと『憧れ』『あなたは素晴らしい』もあったな」
真緒は、自身の身体に熱いものが脊髄の両側を駆け上って、喉元を切なく衝つき上げて来る感覚に襲われた。それでも、実翔は気付かないフリをして言葉を続ける。
「赤いバラは定番だな。『あなたを愛しています」だ。あと三本だと『告白』という意味も込められているらしい」
手が震える。何で震えているのかも真緒はわからない。ゆっくりと手元に目を向ける。折り紙の封筒の中には、もう一つ、小さな紙が入っていた。
『真緒くんが好きでした』
その一言だけが書かれていた。あの時と同じだ。
ただ、あの時とは違うのは、自身の名が追加されたのと、言葉が過去形になってしまったことだが。
脳裏に過るのは、自分たちを一度も間違えることも無く、双子をそれぞれ個として見ていた彼女。熱を持った目で己を見つめる眼差し。
それは生前から、死後に幽霊となっても変わっていなかった。己の心を守るために意地となって目を逸らしていた真実。
肩にかけていた鞄が床に落ち、その音がひどく大きく響いた。
「真緒?」
実翔が名を呼ぶが返事はない。数回名を呼んで肩を揺らすが、返事がない。
実翔は、絡まっていたややこしい真実が、漸く彼の中で解けたのだと理解し、小さく唇を噛む。
「……空閑さんにお願いしたんだ。待っていてほしいと。アンタが思いを告げたあの場所で、待っていてほしいと」
真緒はゆっくりと実翔に目を向ける。
自分の弟は、今にも泣きだしそうなのを、必死にこらえている顔をしていた。そんな顔をさせてしまったのは誰だろう。そう考えて即座に、心の中の自分が、お前だと指をさす。
散々、大切な二人を傷つけてしまった。本当は、許されるはずもないのだ。
頭では、心では分かっている。心の中の自身が、そんな資格は無いと卑下をする。お前は最低だと口にする。
だが、頭だとか心だとか、そうしたもので簡単に、この感情を説明することは出来ないのだ。強烈な衝動に突き動かされ、心が、燃えて、燃えて、我慢できずにそれを命じた。
まるで全てを投げ捨てるように、真緒は保健室から飛びだした。
そんな兄の背中を見送って、実翔はゆっくりと息を吐きながら、ベッドに腰かける。
満たされることのなかった、そしてこれからも永遠に満たされることのないであろう、自身の兄の憧憬。
今更だ。こんなのは己のエゴだ。己のエゴの為に、二人を巻き込んでしまったに違いない。
それでも、自身が愛した二人が同じ思いを抱えているだろうと悟ったあの時から。そんな二人を見るのが好きだと、自覚したときから。
この先、何があっても二人の一番の味方で居ようと決めた。なのに、それを守れなかった自分がずっと、ずっと許せなくて。
「空閑さんの想いは真緒にとっては、とても嬉しいものだったんだよ」
彼女が生きている時に言えばよかった。
そう思っていた言葉がぽつりぽつりと口からこぼれ落ちていく。
「アンタの事をちゃんと見ている女子が、すぐそばに居るんだよ」
兄にも、彼女が生きている時に言えばよかった。
何かが瞬く間に彼の中で膨らんで、胸をいっぱいにし、突き上げてくる気持ちで闇雲に涙が溢れてくる。ぽつりぽつり、と涙がコートにシミを作り、それは一瞬で目立たなくなった。
「俺は二人の事を応援するよ。だから、」
最後に唇を噛みしめれば、大粒の涙が落ちた。
「二人共、頑張れ」
必死に絞り出した声は、自分でも分かるほど掠れて上ずっていた。かっと熱くなった頭に心臓の音がドクドクと響く。
弟である実翔の声は届いたのか、それは分からない。
それでも、真緒は自身の下駄箱のある場所までたどり着いた。玄関の硝子戸の向こうは、猛吹雪で真っ白になっていて、まだ昼にもなっていないのに暗い。
それでも、真緒の目では、目の前の光景が明るいもののように見えた。
自身の下駄箱の前に、明衣が立っている。
彼が声をかける前に、彼女が振り向いて、優しい笑みを向けた。
夢を見ているようでもあり、そして淋しいようにも思えて、胸が締め付けられるようで苦しい。二人は揃っていつもと違う顔をしていた。
返事はいらないと、明衣は言っていた。それでも真緒は、本当は口にしたかった。
言いたかったのに言えなかった。言おうとすると苦しくて、何故か胸がつまって、顔が熱を持ったように真っ赤になって、泣きたくもないのに泣きそうになってしまうものだから。
「俺は、いまいち分かってなくて。それでも君と接しようとしても、他の子とは違って上手くいかなくて」
立ち止まっていた足を、一歩踏み出す。
「こうしていると、自分でも分からないけど心臓もやけにうるさいし」
熱くなっていた目元から、一筋の涙が真緒の頬を伝った。
「もっと、君と話してみたかった」
真緒の言葉を聞いて、明衣は少し目を丸くしてから、再度優しい笑みを浮かべてくれた。
「告白を受け取ってくれてありがとう」
彼女は最後に真緒の手に触れようとしたが、その手は勝手にすり抜けてしまう。
明衣は自身の手を見てから、自虐的な笑みを浮かべる。その表情が痛々しく、真緒の心臓が鷲掴みにされ、そのまま絞られてしまうような。切なく苦しいとはこういうことを言うのだろうと、ゆっくりと腑に落ちていく感覚がした。
「俺は君が好きでした」
ゆっくりと紡がれた真緒の言葉を聞いて、明衣は驚いて口元を手で覆う。
暫く二人が見つめあっていると、明衣はゆっくりと手を口元から話して、最後に涙を零してから、これ以上なく幸せそうな笑みを返した。
「ありがとう」
ゆっくりと足元から姿が消えていく姿を、真緒は目にする。
手を伸ばそうとも、彼女を掴むことも、この場に留まらせることもできない。ただ見守ることしかできなかった。
それは、急いで駆けてきて、息を荒げている実翔も同じことで。
大切で大好きな双子に見守られながら、明衣は嬉しそうに笑みをこぼしてこの世から姿を消した。
「こんな終わり方で、俺は前に進めるのだろうか」
今まででは聞いたことのないような、か細く弱々しくて頼りない兄の声と言葉を聞いて、弟は、さっきまで明衣の居た場所に目を向けながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「周りは進めとか言うかもしれない。逆に、簡単に吹っ切るなとも言う人も居るかもしれない。けれど、人の死から立ち直ることは悪ではない」
明衣の友人のように、ゆっくりと大切な人の死を受け入れて、前を向こうと努力し、悲しみから立ち直るのは悪いことではない。
「それと同時に、別に立ち直る必要もない、と俺は思う」
「え?」
「真緒も俺も、この悲しみや思いを一生背負って生きても、悪いことではないんじゃないか」
実翔の言葉に目を開くと、瞳がゆっくりと水の膜で覆われていくのが分かる。
「そうか。この想いって、一生背負っても許されるのか」
「第一、他人にとやかく言われる必要なんて無いと思う」
双子からすれば、今更すぎる考えだろう。いつだって、周りの意見や思いを押し付けられても、聞き流しては己で対処して生きてきたじゃないか。
「……明日から、空閑さんの机を折り紙で飾ることになったんだ」
「そうか」
「だから、真緒。一緒に作らないか」
「そう、だな」
ぽつりぽつりと返される声を聞きながら、真緒の隣に立てば、彼が床に小さな水たまりを作るように泣いている姿が分かった。
その姿を見て、少し目線を逸らしながら、そっと兄の頭を撫でる。
「お疲れ様」