私はやっぱり察しがいい。
きっともうすぐ終わりが近い。心がそう叫んでいる。
すっかり散ったソメイヨシノの木は萌える緑の葉をつけた。私だけがまだパステルピンクに染まっている。学校も休みがちになり、入院生活と自宅の往復を繰り返している。
そろそろ、ひとつずつ終わらせなければいけない。
もう、可愛くて憧れた制服も着れないかもしれない。
「明日死ぬなら」なんて聞いた時、君はなんて言ってたっけ。「食べたいものを食べる」か。食べたいものなんて、私は激辛ラーメンをとうに諦めてるよ。行きたいところか。私は君が演技をしている舞台を見に行きたかったな。
たまに紗希は電話で学校の近況を教えてくれた。
授業のこと、演劇部のこと、それから恋愛のこと。
スマホを手に取ると、Web小説のページにアクセスし、「活動休止のお知らせ」のブログを書いた。私はまず『無名』を終わらせた。
昨日買ってきてもらった新しいキャンパスノートに、弱々しい文字で変わらずに綴る。きっとこれが最後の小説だ。最後くらいは自分の経験を小説にしようとプロットを考える。全力で生きた3年、終わりまでの3年。でも私は楽しかったな。もし執筆の途中で息絶えたとしても、後悔はない。後悔なんてないはずだ。後悔しないように生きてきたんだ。だから後悔なんて···。
不意にぽろぽろと大粒の涙が溢れ出す。
君は今頃、どうしているだろう。何をしているだろう。私の居ない空席を見て私を思い出してくれているだろうか。君が、君だけが私の後悔だ。小説を執筆してきた私だからこその答えもある。結ばれるだけが純愛じゃないこと。私が彼を想い続けてこそ、私だけの純愛が完結する。だからこの気持ちは、真っ白な純愛は私の胸で抱きしめて私と一緒に消えよう。だからあと半年だけ、片想いでいることを許して欲しい。
ブブッとスマホが震えて、さっきのブログに付いたコメントを知らせる。
「活動休止って···なんだよ。人には夢を叶える姿が見たかったなんて言って、僕の気持ちは置いてきぼりか?僕だって君の夢を見たいんだ。それに僕の夢には君がいる。君とまた一緒に。僕は役者になるから、君は小説家になってくれよ。梛」
やっぱり、凪良葵大は私の心を乱す。
あぁ、私をずっと見ていてくれたのは彼だったんだ。
「ありがとう···いつも、いつも。そして本当のことを言えなくてごめんね」
返信は敢えて書かないでおこう。
私の最後の小説は『橋口里佳』が書く最初で最後の小説だ。君の為に、綴る物語。
今年最初の蝉の鳴き声を聞いた。
1日に文字を書ける時間も限られてきている。
無機質なベットの上で懸命に1分1秒を噛み締めている。今を生きている。新薬もたくさん試したし、鼻から酸素を取り込みながら私はまだ生きている。私の死生観はずいぶんと上書きされた。それは元気だった頃の自分でしか想像できなかった死生観だったからだ。いざ、死を前にするとやっぱり怖い。心の準備はちゃんと出来ていると思っていた。終わりへのカウントダウンに近づいていると同時に、明日急に病気が治るんじゃないかと思い込むようにもなった。何度も何度も、波のように押し寄せる不安と恐怖を、そうでも思わないと耐えられないのだ。死への階段をゆっくりと登る覚悟を横目に、生き続けたいと願う欲がこっちを見ながら横を下りていく。余命3年の中、私は自問自答し続けた。もっと生きたいと思って死ぬのか、死ぬなら仕方ない死んでもいいと思いながら死ぬのか。選ぶのは1つ。誰でも深く悩むだろう。どっちか楽か?まだ私に答えは出せていない。
食事制限が増えた結果、食事に楽しさも見出せないし好きな物はもう何も食べれない。仕方なく、食べる。ごめんね、我儘で。
「今日はよく食べたね」
「仕方ないじゃん。私、これしか食べれないんだから。これを食べるしかないんだよ」
私が不機嫌そうに言い返すと、母は悲しそうな顔をする。私にそんな顔を見られないように気を使ってコップを洗いに行く後ろ姿に、またごめんねって思う。本当は生きるために食べないといけないって分かってるんだ。だけど、不健康に痩せてしまった自分の顔を見る度に悲しくなる。ペンをもつ腕も筋肉が落ちて手首ほどの太さしか残ってない。もし恋人なんて作ってしまったら、こんな私の最後の姿を思い出になんてして欲しくないから、それは良かったと思っている。
死ぬほうは簡単。考えたところでどうせ、もうどうにもならない。はっきり言ってしまえば、運命に身を任せてその時がきたら死ぬだけなんだから。辛いのは残された人だ。だから皆はお葬式で泣くんだと、私は初めて理解した。私がいなくなって、残された母や、紗希、友達たちは何て思うだろう。もう会ってサヨウナラと言えない人もいる。悲しみとか苦痛を背負って私がいない残りの人生を歩むわけだ。君は、なんて思うだろう?
「今になって気がつくなんて。私は子供だったんだね。もう1度やり直せたらな」
このとき、私は自分が余命3年という運命を全く受け入れられていないのだと気付いた。感情を押し殺しながらここまできて、もっと生きたくなって、もっともっと生きたくて、それでも死ぬ。全部投げ出して消えてしまいたいって矛盾。今日寝て起きたら、あの日···そうだ、あの春に戻って「ただの風邪でよかったね」なんて朝起きて、可愛い制服を着て入学式に行く。そんな夢を心底願っている。
桜紅葉の優しい色が、窓の外の景色に映える頃。
私はひとつ、母に我儘を言った。
それは行きたい場所に連れて行って欲しい事。
「なんでそんな所に?」
不思議そうに尋ねる母は、私の答えにまた首を傾げた。
調子のいい日を見計らって、携帯用酸素ボンベのカートを引きずりながら私はあの場所を再訪した。なるべく人の少ない時間を選んで10時からのチケットを予約した。エレベーターに乗り込むと、やっぱり君のことを思い出す。
「じゃあ1年後死にますって言われたら?」
「行きたいところに行って、やりたい事して···」
私は思わず、微笑みを浮かべる。あの日、君が言ったのは強ち間違いじゃなかったかも。私も結局そうしたから。私の3年間みたいなスピードでエレベーターは目的地に到着した。ゆっくりと窓際に近づきあの日と同じ場所に立った。
君の住んでる家はどれだろう。
君と通った学校はどこだろう。
君が将来住む家は···。
君は、次は誰とここに来るんだろう。
後悔はだめ。
私がここに来た理由。
私は気持ちをここに捨てに来たんだ。
初恋を終わらせに来たんだ。
私はカプセルトイでひとつリボンを買った。
「サヨウナラ、凪良君」
その赤いリボンに私は初恋を捨てた。
その日の夜に、私は小説を書きあげた。
達成感と喪失感がぐっと込み上げ、いよいよ私は生きる目的を失ってしまった。もう後悔はない。あとはタイトルを決めるだけ。これが難しい。執筆に体力を使い果たした私は誘われるように眠ってしまった。
息が苦しい。胸が締め付けられる。
静寂の中で、私は一瞬死んでしまったのかと考えた。全く音が聞こえない無音の世界。瞼が重たくて開かないけど辛うじて光を感じる。極度の睡魔に襲われているだけかもしれないと、そう思い込む。夢と現実を行き来する感覚。少し手を動かしてみると、ナースコールのボタンが小指に触れた。まだ意識はある。
「僕は、ずっと君の傍にいたいよ」
君の声が聞こえた気がした。あぁ、今日思い出を捨ててきたのに。きっぱりと捨てきれないのが私らしい。欲張りで我儘で、自分勝手で君を振り回してきたから。怒ってるかな?でもよかった。寂しい世界で君の声は安心する。もう一度、抱きしめてくれないかな。やっぱり男の子だったね。力強くて、大きくて、安心する。舞台の上で抱きしめてくれたこと最後まで忘れられないんだな。最後まで捨てられないんだな。最後まで、私には君だ。明日起きたら返事を書こう。君がくれたブログのメッセージに。遅くなったけど、ちゃんとお礼を伝えよう。
それから小説のタイトルは···。
ここから先の未来を、私は知らない。
『まだ、名前の無い物語。』
それから···。
橋口里佳が亡くなったと聞いたのは、文化祭の少し前の事だった。僕はその急な知らせに目の前が真っ暗になった。僕の知らない彼女は、ずっと病気と闘っていて余命3年と知っていたそうだ。繋がりかけていた違和感の正体がやっと分かった。なんで、あの小説が書けたのか。そして、舞台の上で「生きたい」という台詞を敢えて「生きたかった」と言ったのか。もしもそれが彼女の本心だとしたら、気がついてやれなかった僕は大馬鹿だ。彼女の胸の中にだって叫びたい言葉があったはずなのに。僕だけがいつも彼女に伝えるばかりで、聞いてあげることが出来なかった。
「紗希は知ってたの?」
「持病があるってのは聞いてた···だけど私知らなくて」
「ごめん」
「ううん、LINEも途切れ途切れで···電話した時も元気だったんだよ?それが急にこんな」
「余命3年なんて···」
「なんで言ってくれなかったのよ。知ってたら私はもっと里佳と一緒に···」
「僕もだよ。もっと橋口さんにしてあげれた事がある」
「里佳のバカ。寂しいじゃないか···」
告別式に向かう途中、紗希は何度も道端に泣き崩れた。誰にも、親友にさえも、先の事を言わずに明るく振舞っていたのは彼女らしい。
写真の彼女はやっぱり可愛らしく、どこか得意げな顔で微笑んでいた。それでも、最後に会った彼女はすっかり痩せてしまって、僕は堪らずに涙を堪えることが出来なかった。少しだけ開いた口元に、君が言った言葉が脳裏に蘇る。
『凪良君は命懸けでやりたいことやっても、死にはしないんだから。今やらなきゃ後悔してからは遅いよ?』
「ごめん、死ぬなんて大袈裟だなんて言って、ごめん」
『先のことは分からない。だけど死んでしまうって事実は変わらず先に待ってる。でも時間は平等に過ぎる。この瞬間だって生きたいと思う人もいれば死にたいって思う人もいる。人生の不条理と捉えるのか、希望を見出すかは自分次第。ねぇ凪良君はどうする?』
「君は知ってたんだろ。君は生きたかったんだろ?だったら教えてくれよ。僕は君を、何があっても···」
『ひとつだけ、一言だけわがままを言えるなら、最後に君の気持ちを聞かせて欲しい。ねぇ、君は夢を叶えてくれる?』
「あぁ、君との約束だ。ちゃんと叶えるよ」
「ありがとう。僕は君に出会えてよかった。君のおかげで僕は未来を見ることが出来たよ」
僕は彼女に最後の言葉を伝えた。
僕は彼女の夢を託されたのかもしれない。
帰り際、紗希は何冊か抱えたキャンパスノートの1つを僕に手渡した。彼女がずっと書いていた小説のノートだ。1番新しい、ピンク色のノートだった。
「これ、里佳から私への餞別だって。手紙と一緒に置いてあったって里佳のお母さんから貰ったの」
「橋口さんらしいね」
「これは葵大に。ここでは読まない方がいいよ。きっと泣いちゃうから。後でひとりで読んで」
そう言った紗希の目は真っ赤に腫れていた。
「分かった。大事に読むよ」
僕はノートをカバンに仕舞い、ある場所へ向かった。
そこに行かなければと、衝動に駆られた。
チケットを買って、タイムマシンに乗り込む。
出来るなら過去に行きたいけど、向かうのはほんの先の未来だ。天国へ行った彼女もこんな感じなのだろうか。
50秒間続く浮遊感に、そんな事を想った。
彼女と見た景色の前に立ち、僕の恋を終わらせようとしたんだ。
僕は誘われるようにノートを開いた。
ノートに書かれていたそれは、余命3年の少女が懸命に生きた恋愛小説だった。
少し弱々しい文字で書かれた小説を読んでいく。
タイトルは何度も消した跡があり、空白のまま。
その答えは彼女しか知らない。
「なんだよ、最後に傑作を書いて。大事なタイトルくらいちゃんと···」
暫く空白のページが続き、最後の1枚にまた文字が現れた。
凪良葵大様
こんな形で残してしまった私を許してください。
私は、凪良君が生きる意味だった。
君が私の書いた小説を演じてくれて幸せだった。
君のために小説を書こうと思った。
最後まで、私の心に残ったのは君だった。
友達なんて誤魔化してごめんね。
私は、君が好きだったよ。
大好きだった。
こんなこと言ったら、君は困っちゃうね。
君にこの作品を残します。
私の最初で最後の贈り物。
いつか君が演じて、この作品でもう一度。
私と一緒に。
ヒラヒラと無数のリボンが揺れている。
虹のようで、まるで君が微笑んでいるように。
彼女がいた辺りの黄色いリボンを僕は探した。
『君はいい役者になれる。だから、その夢に生きてほしい。諦めないで、信じてるから。里佳』
そしてもう一つ。
そのリボンの隣に赤いリボンが結ばれている。
相変わらず綺麗な文字で、見慣れた君の文字で。
『サヨウナラ。私の好きな人。生まれ変わっても、また会えますように。里佳』
「なんだよ。サヨナラくらい、ちゃんと言ってよ。寂しいじゃんか」
僕は涙が止まらなかった。
そして僕の初恋は掛け替えのないものになった。
忘れることは難しいだろう。
僕もカプセルトイのハンドルを回し、ひとつ買う。
『さよなら。僕の好きな人。また会おう。葵大』
僕はその赤いリボンを、君の気持ちにギュッと結んだ。
きっともうすぐ終わりが近い。心がそう叫んでいる。
すっかり散ったソメイヨシノの木は萌える緑の葉をつけた。私だけがまだパステルピンクに染まっている。学校も休みがちになり、入院生活と自宅の往復を繰り返している。
そろそろ、ひとつずつ終わらせなければいけない。
もう、可愛くて憧れた制服も着れないかもしれない。
「明日死ぬなら」なんて聞いた時、君はなんて言ってたっけ。「食べたいものを食べる」か。食べたいものなんて、私は激辛ラーメンをとうに諦めてるよ。行きたいところか。私は君が演技をしている舞台を見に行きたかったな。
たまに紗希は電話で学校の近況を教えてくれた。
授業のこと、演劇部のこと、それから恋愛のこと。
スマホを手に取ると、Web小説のページにアクセスし、「活動休止のお知らせ」のブログを書いた。私はまず『無名』を終わらせた。
昨日買ってきてもらった新しいキャンパスノートに、弱々しい文字で変わらずに綴る。きっとこれが最後の小説だ。最後くらいは自分の経験を小説にしようとプロットを考える。全力で生きた3年、終わりまでの3年。でも私は楽しかったな。もし執筆の途中で息絶えたとしても、後悔はない。後悔なんてないはずだ。後悔しないように生きてきたんだ。だから後悔なんて···。
不意にぽろぽろと大粒の涙が溢れ出す。
君は今頃、どうしているだろう。何をしているだろう。私の居ない空席を見て私を思い出してくれているだろうか。君が、君だけが私の後悔だ。小説を執筆してきた私だからこその答えもある。結ばれるだけが純愛じゃないこと。私が彼を想い続けてこそ、私だけの純愛が完結する。だからこの気持ちは、真っ白な純愛は私の胸で抱きしめて私と一緒に消えよう。だからあと半年だけ、片想いでいることを許して欲しい。
ブブッとスマホが震えて、さっきのブログに付いたコメントを知らせる。
「活動休止って···なんだよ。人には夢を叶える姿が見たかったなんて言って、僕の気持ちは置いてきぼりか?僕だって君の夢を見たいんだ。それに僕の夢には君がいる。君とまた一緒に。僕は役者になるから、君は小説家になってくれよ。梛」
やっぱり、凪良葵大は私の心を乱す。
あぁ、私をずっと見ていてくれたのは彼だったんだ。
「ありがとう···いつも、いつも。そして本当のことを言えなくてごめんね」
返信は敢えて書かないでおこう。
私の最後の小説は『橋口里佳』が書く最初で最後の小説だ。君の為に、綴る物語。
今年最初の蝉の鳴き声を聞いた。
1日に文字を書ける時間も限られてきている。
無機質なベットの上で懸命に1分1秒を噛み締めている。今を生きている。新薬もたくさん試したし、鼻から酸素を取り込みながら私はまだ生きている。私の死生観はずいぶんと上書きされた。それは元気だった頃の自分でしか想像できなかった死生観だったからだ。いざ、死を前にするとやっぱり怖い。心の準備はちゃんと出来ていると思っていた。終わりへのカウントダウンに近づいていると同時に、明日急に病気が治るんじゃないかと思い込むようにもなった。何度も何度も、波のように押し寄せる不安と恐怖を、そうでも思わないと耐えられないのだ。死への階段をゆっくりと登る覚悟を横目に、生き続けたいと願う欲がこっちを見ながら横を下りていく。余命3年の中、私は自問自答し続けた。もっと生きたいと思って死ぬのか、死ぬなら仕方ない死んでもいいと思いながら死ぬのか。選ぶのは1つ。誰でも深く悩むだろう。どっちか楽か?まだ私に答えは出せていない。
食事制限が増えた結果、食事に楽しさも見出せないし好きな物はもう何も食べれない。仕方なく、食べる。ごめんね、我儘で。
「今日はよく食べたね」
「仕方ないじゃん。私、これしか食べれないんだから。これを食べるしかないんだよ」
私が不機嫌そうに言い返すと、母は悲しそうな顔をする。私にそんな顔を見られないように気を使ってコップを洗いに行く後ろ姿に、またごめんねって思う。本当は生きるために食べないといけないって分かってるんだ。だけど、不健康に痩せてしまった自分の顔を見る度に悲しくなる。ペンをもつ腕も筋肉が落ちて手首ほどの太さしか残ってない。もし恋人なんて作ってしまったら、こんな私の最後の姿を思い出になんてして欲しくないから、それは良かったと思っている。
死ぬほうは簡単。考えたところでどうせ、もうどうにもならない。はっきり言ってしまえば、運命に身を任せてその時がきたら死ぬだけなんだから。辛いのは残された人だ。だから皆はお葬式で泣くんだと、私は初めて理解した。私がいなくなって、残された母や、紗希、友達たちは何て思うだろう。もう会ってサヨウナラと言えない人もいる。悲しみとか苦痛を背負って私がいない残りの人生を歩むわけだ。君は、なんて思うだろう?
「今になって気がつくなんて。私は子供だったんだね。もう1度やり直せたらな」
このとき、私は自分が余命3年という運命を全く受け入れられていないのだと気付いた。感情を押し殺しながらここまできて、もっと生きたくなって、もっともっと生きたくて、それでも死ぬ。全部投げ出して消えてしまいたいって矛盾。今日寝て起きたら、あの日···そうだ、あの春に戻って「ただの風邪でよかったね」なんて朝起きて、可愛い制服を着て入学式に行く。そんな夢を心底願っている。
桜紅葉の優しい色が、窓の外の景色に映える頃。
私はひとつ、母に我儘を言った。
それは行きたい場所に連れて行って欲しい事。
「なんでそんな所に?」
不思議そうに尋ねる母は、私の答えにまた首を傾げた。
調子のいい日を見計らって、携帯用酸素ボンベのカートを引きずりながら私はあの場所を再訪した。なるべく人の少ない時間を選んで10時からのチケットを予約した。エレベーターに乗り込むと、やっぱり君のことを思い出す。
「じゃあ1年後死にますって言われたら?」
「行きたいところに行って、やりたい事して···」
私は思わず、微笑みを浮かべる。あの日、君が言ったのは強ち間違いじゃなかったかも。私も結局そうしたから。私の3年間みたいなスピードでエレベーターは目的地に到着した。ゆっくりと窓際に近づきあの日と同じ場所に立った。
君の住んでる家はどれだろう。
君と通った学校はどこだろう。
君が将来住む家は···。
君は、次は誰とここに来るんだろう。
後悔はだめ。
私がここに来た理由。
私は気持ちをここに捨てに来たんだ。
初恋を終わらせに来たんだ。
私はカプセルトイでひとつリボンを買った。
「サヨウナラ、凪良君」
その赤いリボンに私は初恋を捨てた。
その日の夜に、私は小説を書きあげた。
達成感と喪失感がぐっと込み上げ、いよいよ私は生きる目的を失ってしまった。もう後悔はない。あとはタイトルを決めるだけ。これが難しい。執筆に体力を使い果たした私は誘われるように眠ってしまった。
息が苦しい。胸が締め付けられる。
静寂の中で、私は一瞬死んでしまったのかと考えた。全く音が聞こえない無音の世界。瞼が重たくて開かないけど辛うじて光を感じる。極度の睡魔に襲われているだけかもしれないと、そう思い込む。夢と現実を行き来する感覚。少し手を動かしてみると、ナースコールのボタンが小指に触れた。まだ意識はある。
「僕は、ずっと君の傍にいたいよ」
君の声が聞こえた気がした。あぁ、今日思い出を捨ててきたのに。きっぱりと捨てきれないのが私らしい。欲張りで我儘で、自分勝手で君を振り回してきたから。怒ってるかな?でもよかった。寂しい世界で君の声は安心する。もう一度、抱きしめてくれないかな。やっぱり男の子だったね。力強くて、大きくて、安心する。舞台の上で抱きしめてくれたこと最後まで忘れられないんだな。最後まで捨てられないんだな。最後まで、私には君だ。明日起きたら返事を書こう。君がくれたブログのメッセージに。遅くなったけど、ちゃんとお礼を伝えよう。
それから小説のタイトルは···。
ここから先の未来を、私は知らない。
『まだ、名前の無い物語。』
それから···。
橋口里佳が亡くなったと聞いたのは、文化祭の少し前の事だった。僕はその急な知らせに目の前が真っ暗になった。僕の知らない彼女は、ずっと病気と闘っていて余命3年と知っていたそうだ。繋がりかけていた違和感の正体がやっと分かった。なんで、あの小説が書けたのか。そして、舞台の上で「生きたい」という台詞を敢えて「生きたかった」と言ったのか。もしもそれが彼女の本心だとしたら、気がついてやれなかった僕は大馬鹿だ。彼女の胸の中にだって叫びたい言葉があったはずなのに。僕だけがいつも彼女に伝えるばかりで、聞いてあげることが出来なかった。
「紗希は知ってたの?」
「持病があるってのは聞いてた···だけど私知らなくて」
「ごめん」
「ううん、LINEも途切れ途切れで···電話した時も元気だったんだよ?それが急にこんな」
「余命3年なんて···」
「なんで言ってくれなかったのよ。知ってたら私はもっと里佳と一緒に···」
「僕もだよ。もっと橋口さんにしてあげれた事がある」
「里佳のバカ。寂しいじゃないか···」
告別式に向かう途中、紗希は何度も道端に泣き崩れた。誰にも、親友にさえも、先の事を言わずに明るく振舞っていたのは彼女らしい。
写真の彼女はやっぱり可愛らしく、どこか得意げな顔で微笑んでいた。それでも、最後に会った彼女はすっかり痩せてしまって、僕は堪らずに涙を堪えることが出来なかった。少しだけ開いた口元に、君が言った言葉が脳裏に蘇る。
『凪良君は命懸けでやりたいことやっても、死にはしないんだから。今やらなきゃ後悔してからは遅いよ?』
「ごめん、死ぬなんて大袈裟だなんて言って、ごめん」
『先のことは分からない。だけど死んでしまうって事実は変わらず先に待ってる。でも時間は平等に過ぎる。この瞬間だって生きたいと思う人もいれば死にたいって思う人もいる。人生の不条理と捉えるのか、希望を見出すかは自分次第。ねぇ凪良君はどうする?』
「君は知ってたんだろ。君は生きたかったんだろ?だったら教えてくれよ。僕は君を、何があっても···」
『ひとつだけ、一言だけわがままを言えるなら、最後に君の気持ちを聞かせて欲しい。ねぇ、君は夢を叶えてくれる?』
「あぁ、君との約束だ。ちゃんと叶えるよ」
「ありがとう。僕は君に出会えてよかった。君のおかげで僕は未来を見ることが出来たよ」
僕は彼女に最後の言葉を伝えた。
僕は彼女の夢を託されたのかもしれない。
帰り際、紗希は何冊か抱えたキャンパスノートの1つを僕に手渡した。彼女がずっと書いていた小説のノートだ。1番新しい、ピンク色のノートだった。
「これ、里佳から私への餞別だって。手紙と一緒に置いてあったって里佳のお母さんから貰ったの」
「橋口さんらしいね」
「これは葵大に。ここでは読まない方がいいよ。きっと泣いちゃうから。後でひとりで読んで」
そう言った紗希の目は真っ赤に腫れていた。
「分かった。大事に読むよ」
僕はノートをカバンに仕舞い、ある場所へ向かった。
そこに行かなければと、衝動に駆られた。
チケットを買って、タイムマシンに乗り込む。
出来るなら過去に行きたいけど、向かうのはほんの先の未来だ。天国へ行った彼女もこんな感じなのだろうか。
50秒間続く浮遊感に、そんな事を想った。
彼女と見た景色の前に立ち、僕の恋を終わらせようとしたんだ。
僕は誘われるようにノートを開いた。
ノートに書かれていたそれは、余命3年の少女が懸命に生きた恋愛小説だった。
少し弱々しい文字で書かれた小説を読んでいく。
タイトルは何度も消した跡があり、空白のまま。
その答えは彼女しか知らない。
「なんだよ、最後に傑作を書いて。大事なタイトルくらいちゃんと···」
暫く空白のページが続き、最後の1枚にまた文字が現れた。
凪良葵大様
こんな形で残してしまった私を許してください。
私は、凪良君が生きる意味だった。
君が私の書いた小説を演じてくれて幸せだった。
君のために小説を書こうと思った。
最後まで、私の心に残ったのは君だった。
友達なんて誤魔化してごめんね。
私は、君が好きだったよ。
大好きだった。
こんなこと言ったら、君は困っちゃうね。
君にこの作品を残します。
私の最初で最後の贈り物。
いつか君が演じて、この作品でもう一度。
私と一緒に。
ヒラヒラと無数のリボンが揺れている。
虹のようで、まるで君が微笑んでいるように。
彼女がいた辺りの黄色いリボンを僕は探した。
『君はいい役者になれる。だから、その夢に生きてほしい。諦めないで、信じてるから。里佳』
そしてもう一つ。
そのリボンの隣に赤いリボンが結ばれている。
相変わらず綺麗な文字で、見慣れた君の文字で。
『サヨウナラ。私の好きな人。生まれ変わっても、また会えますように。里佳』
「なんだよ。サヨナラくらい、ちゃんと言ってよ。寂しいじゃんか」
僕は涙が止まらなかった。
そして僕の初恋は掛け替えのないものになった。
忘れることは難しいだろう。
僕もカプセルトイのハンドルを回し、ひとつ買う。
『さよなら。僕の好きな人。また会おう。葵大』
僕はその赤いリボンを、君の気持ちにギュッと結んだ。