余命3年の君が綴った、まだ名前のない物語。

轟々と。
冷静と熱情がぶつかり合い、悲鳴のような声を荒らげる。不離一体の感情が混ざりあって、混沌と渦を巻く。
あぁ、まるで私の運命みたい。

私が思い描いていた高校生活は、都内でも可愛いと評判のいい制服に身を包み、親友と恋バナでもしながら通学する。部活には入らない。放課後は私の夢のために有意義な時間を使うんだ。その夢のために、アルバイトを経験するのもいい。それから、私の小さな胸がときめくような恋をして。群青色の青春をまっすぐに走る。

与えられた時間をまっすぐに走る。力尽きるまで。

昨日まで吹き荒れていた春の嵐は、今日はすっかり大人しい。清掃員の男性が庭の手入れに追われながら、松葉杖の患者と挨拶を交わす。昨日の忘れ物のような突風が、集められていた落ち葉を吹き飛ばした。そんな風に力無く舞う桜の花びらを橋口里佳(はしぐちりか)はぼんやりと見つめている。

3度目の春が訪れた。
春の陽気に浮かれたように踊る花びらが、空の青さに溶けるように儚く消えていく。
この病院のシンボルになっているソメイヨシノの樹齢は100年余り。病院の寂しげな雰囲気の中で凛と咲き誇る様は、私に少しばかりの勇気を与えてくれている気がした。同時に嫉妬もする。硝子を隔てた無機質な真っ白い部屋の中で、皮肉にも同じパステルピンクのパジャマに身を包み、私は何度も乾咳を繰り返す。
「来年もまた桜を見れるかな···」

私は昔から、何かと察しがいい方だ。
ちょっとした変化や人の表情を見逃さない。
あれはもう2年前のこと。
数日前から続く喘息の様な症状が私の肺を捻じる様に締め付ける。ただの風邪では無いなとは思ったが、かかりつけ医からの紹介でやって来たこの病院ですぐに検査入院となった。
CT検査に血液検査を終えて戻ってきた部屋で1人ぼんやりと桜の枝を見ていた。高校生活に期待を膨らませた私の気持ちみたいに、桜の蕾もその時を待ちわびている。随分前に説明を聞きに行った母は項垂れるように病室にやってきて「里佳、横になってちゃんと寝てなさい」と力無く言った。先に説明を聞いた母の顔から察するに、私が検査を受けた内容はいい結果ではないのだろう。少し目の赤くなった母の顔を見てはいけないと、私は布団に潜り込んだ。心の準備だけはしておかなければと。
目の前に映し出されたレントゲン写真には、みかんの白い筋みたいな網の目状のモノが、私の肺の形をした黒い影を抱きしめていた。落ち着いた物腰で医師は予後について語り始める。医者と母の空気の重さがあまりにも違いすぎて、その違和感で落ち着かない。だいたい母の様子から察しはついている。僅かな時間ではあったが、私なりに覚悟もできた。私はじれったくなって丁寧に病気の説明をしてくれる医者に、確信を突いた。
「先生、私は死ぬの?もし死ぬなら私は残された時間が知りたい」
一瞬驚いた顔をした医者は、少し固まった。それはそうだろう。これから高校生になろうとしている、まだ未完成な大人の口から飛び出す台詞じゃないだろうし。なぜそんな事を口走ったのか、自分でも驚いているくらいだ。たぶん、その時一番最悪な可能性から消したかったんだと思う。
「里佳⋯死ぬなんて⋯大丈夫よ、しっかり治療すれば」
母のか細い声を遮って、私はもう一度尋ねる。
「私は、死ぬの?」
医者は、ひとつ長い息をゆっくりと吐き真っ直ぐに私の目を見つめた。私はどんな瞳でその目を見ていたのだろう。覚悟を決めた目だったのか、光の消えた諦めの目だったのか。
「大学受験は難しいかもしれない。この病気が発症してからの余命は3年。もちろん個人差はあります。貴方の1日1日を大切にしましょう。諦めずに病気と戦うこと、きっと貴方には貴方の役目があるから」
その言葉をしっかりと受け止めた。私の死生観はちょっとズレているかもしれない。人がいつか死ぬことは生まれた時から決まっている事実だ。早いか遅いかの違い。意味があるとしたらどう生きるのか、それだけだ。私は祖父母のお葬式でも涙を流さず、親戚中から冷ややかな目で見られた。「あの子、孫なのに薄情ね」と小言まで聞こえた。もちろん祖父母の事は好きだったし、寂しいなって感情は込み上げたけど。九州男児の祖父の生き様と、それを支えた祖母の愛情は傍から見ていて美しかった。2人は十分に運命で決まっていた時間を生きたのだ。それが私にはあと3年ってだけ。むしろ大人になって後悔になる理由をあれこれ残すよりも、青春をやり切って終わるのも清々しいのではないか?
そんな思考の私だから、医者のその言葉が耳を通過した瞬間、私の脳は驚きよりも悲しみよりも先に、こんな事を考えた。泣き崩れた母の嗚咽も、私の思考に入り込む隙間なんて無かった。直感的に、私が人生で今すぐに諦めなきゃいけない事を考えていた。それは『大学生になること』『スポーツをすること』それから『恋愛すること』だ。そして成し遂げなくてはならないことはたった1つ。『小説家として作品を残すこと。』私の夢だ。今すぐに部屋を飛び出したい衝動に駆られる。怖いからとか、ひとりで泣きたいからとかじゃなく、何よりも時間が惜しいからだ。すぐにノートとペンを手に取って、1文字でも綴りたい。残された3年で私の全てをかけて綴り続けたい。それが私が生きるってことだ。

その瞬間は、そう思っていた。
泡沫の恋だった。
その運命の流れに儚く浮かぶ君を、僕は両手でそっとすくい上げることしかできなかった。強く抱き締めたら、君は割れて消えてしまうような気がしたんだ。
僕は命の儚さを、思い知った。

高校の文化祭で演じる舞台の台本を放り投げ、凪良葵大(なぎらあおと)はベットに倒れ込んだ。台本と言ってもA4サイズの紙がクリップで止められただけの簡単なものだ。もう何度も読み返し、しわくちゃになっている。僕の夢は役者になること。でも誰にも言っていない。夢の始まりは小さなもので、幼稚園のお遊戯会で主役を演じたこと。それが楽しくて親に我儘を言って児童劇団にも入れてもらった。僕じゃない誰かを演じるのが面白くてしょうがなかった。台詞入れなんて得意中の得意。きっと自分には才能があるのだと疑わなかった。周りには「習い事で仕方なく⋯」なんて言ってたけど、寝る時間を削っては台詞を覚えて人知れず努力をしていた。

一応、今もそれくらいにはやる気はある。

子役のオーディションを数回受けてはみたが、現実は甘くない。僕はそんなに強い人間じゃなかったみたいだ。成功を勝ち取るには努力は必要不可欠で、それも中途半端な努力じゃなくて本気のやつ。僕のやってきた努力は人並みかそれ以下。それじゃ結果なんて出るわけが無い。だけど演じる楽しさは今でも変わらないから、高校でも演劇部に入った。楽しむくらいがちょうどいいと思いつつも、くすぶってはいるが役者になる夢は捨てられずにいる。
床に落ちているくしゃくしゃに丸まった紙をベットの上から手を伸ばして拾う。提出期限が明日までの進路希望調査だ。大学受験まで残り1年と少し。大学には行かず本気で役者を目指してるなんて言ったら周りに馬鹿にされるだろうし、現実を見ろと言われるのがオチだ。だから、僕は悩んでいた。最初は「やりたいことをやればいい」と言っていた親からでさえ、最近は「大学くらいは出ておけ」と言われる。心配する理由も分からなくは無い。だけど、親世代と今は時代が違うんだ。大学を出るだけが全てじゃない。学力だけが人生じゃない。そんな言い訳がましい僕の態度が、きっと無気力に見えるんだろうな。 やりたいことが無いんじゃない。叫びたくても叫べないから黙っているだけ。そんな本音を上手く隠した僕の演技はなかなかのもの。だけど、現実は騙されてくれないから無難な進路を書いてその場を凌ぐか、勇気をだして「役者になる」とカミングアウトして、そんな現実と戦うか。思春期ってやつは考えなきゃいけないことが山ほどだ。

「いっそ、地球ごと消えてしまったら楽なのになぁ⋯めんどくさ」
また進路希望調査をクシャッと丸め、台本を手に取る。
夏休み明けすぐに、脚本担当の藤間紗希(ふじまさき)から渡された『月が、堕ちる。』とタイトルの付けられた舞台劇は、月が地球に堕ちてくるまでの残された30日をどう生きるか?と、メッセージ性のあるなかなか本格的なものが仕上がってきた。部内でもその内容に最初こそ感嘆の声が出たが、いざ配役になると、皆尻込みをした。
「主役は凪良君、どうかな?」
偉大な決定権のある紗希の声に、部員たちもすがるようにこちらを見る。
「凪良君、演技の経歴も長いでしょ?児童劇団にも所属してたんだし、きっといい舞台になると思うの」
紗希はごめんねという顔で僕を見つめる。紗希とは児童劇団からの付き合いだ。
「じゃあ、演じさせてもらいます」
僕の声に一斉に拍手が沸き起こった。
僕が主役に抜擢されたのは嬉しいが、やはりこの役はかなり難しい。人類に突きつけられた突然の余命宣告。さっきはつい、地球ごとなくなったらなんて言ったが、いざその時の心情なんてまるで想像がつかない。ずっと遠くにあって、僕とは縁遠い話だ。
僕の祖父母なんて今だに放っておいても100歳まで生きそうな勢いで元気だし、うちの家だけの平均寿命を算出しても、90歳を軽く超える。実際、僕も普通にそれくらい生きると思っているし。
皆そうじゃないのか?しかし、紗希はまるで自分が余命宣告でもされたかのような文章を書く。そんな事を考えているうちに、時計の針は並んで天辺を指そうとしている。
慌てて部屋の照明を落とし、世界から僕を遮断した。
真っ暗な部屋の中で、スマホの液晶だけが僕の顔を照らしている。
うつ伏せで布団を頭から被り、亀みたいな格好でスマホを構えるとお待ちかねの時間が始まる。きっちり深夜0時に更新されるweb小説を楽しみにしているのだ。読書と言うと堅苦しいが、スマホで読めるWeb小説は僕の数少ない趣味だ。その中でもお気に入りの『無名』と言う作家が綴る世界観にすっかり魅了され、その作家の作品を全部読んだ。僕が密かに小説家デビューを願っている1人だ。性別も年齢も分からないけど、そんな事は気にしない。好きなことを全力で、そしてちゃんと形にしている『無名』に僕は勇気を貰っているのだ。

「帰りのホームルームで進路希望調査を集めるからな。ちゃんと準備しとけよ」
朝のショートホームルームで担任の佐藤は皆に釘を刺した。担任が教室を出ていくと、一斉に周りでざわざわと進路の話が始まった。
「お前、どこの大学書いた?」
「うわー、マジ?自分の成績表見たことあるか?」
「私は専門学校かな。美容師になりたいの」
「私も!ねぇどの専門学校にするの?一緒にしようよ」
四方から未来への期待の声が聞こえてくる。
「凪良は志望校どこ?」
「あー⋯僕はまだ考え中で」
「なんだよ、つまらないな。おい、高橋!お前どこ書いた?」
確かにつまらない。みんな本当にそれがやりたいことなのか?何となくで選んだ未来に満足できるのか?と、僕の頭に皮肉が並ぶ。
仕方なしに持ってきた皺くちゃな紙にとりあえず名前だけ書いた。すると僕のため息と同時に、バサッと隣の席の橋口里佳の机に積まれた教科書が落ちた。彼女は真っ直ぐにノートを見つめて何かを書いている。朝から勉強なんて、物好きなもんだ。
「ほら、落ちたよ」
僕は足元に落ちた教科書と、それから白紙の進路調査票を拾い上げて彼女に差し出した。
「あー、ごめん。気が付かなかった。ありがとう」
ニコッと笑った彼女の笑顔とは裏腹に、白紙の紙が妙に気になってしまった。僕はあまり話したことは無いが、彼女は男子に意外と人気がある。儚げで透明感のある肌に、艶のあるロングヘアーが純情そうで守ってあげたくなるタイプなんだそうで。そんな雰囲気を裏切らないように、授業中の彼女も熱心にノートを書いている。僕の中でもかなりの優等生のイメージだ。だから彼女の進路はとうに決まっていると思っていた。有名な私立大学とか似合いそうだもんな。そんな目標があるから、つまらない授業でも熱心に聞いているんだと思っていた。
「これ、白紙だけど⋯進路は決まってるんじゃ?」
「うん。決まってるよ?でも書く必要ないかなって」
また彼女はニコッと笑って、僕の手から教科書と白紙の紙を受け取った。
「なんだよ。仲間だと思ったのに」
僕は皺くちゃな紙をひらひらと見せる。
「まだいるんだね、貰ったプリント用紙をカバンの中でぐちゃぐちゃにしちゃう人⋯クリアファイル余ってるのあげようか?」
彼女は大きな目を輝かせながら悪戯に笑った。
「ほっといてよ。決まってるなら書かないと。担任にしつこく言われるぞ」
「大丈夫よ。先生には言ってあるから」
「そっか。ならいいけど」
彼女のあっけらかんとした態度に、少しだけ嫌な感じがした。僕との間に壁を作られた気がしたのだ。同じ白紙仲間じゃなく、君とは違うからと分別されたような。落ちない位置に教科書をきちんと置くと、また彼女はノートに筆を走らせる。まだ、僕はそんな彼女から目が離せないでいる。
「まだ何か?」
僕の視線が気になるのか、彼女は怪訝な顔でこっちを見た。
「あっ、ごめん。そんなに熱心に勉強してて、何か目標があるんだろ?そーゆーのいいなって⋯なんか羨ましいなって」
「凪良君には無いの?やりたいこと」
「⋯特にないかな」
「へー。つまんないね」
「つまんないって⋯」
「だって凪良君には未来があるでしょ?いくらでもやりたいことやれるのにさ。欲も出さずに諦めてるのって、つまんないじゃん」
「そりゃそうだけど⋯」
「凪良君は命懸けでやりたいことやっても、死にはしないんだから。今やらなきゃ後悔してからは遅いよ?」
「死ぬなんて⋯大袈裟な。たかが目標だろ?」
「そうね。たかが目標。時間の無駄ね」
ムッとして言い返してやろうと思ったが、彼女はお構い無しにもうノートに顔を向けていた。だけどカリカリとペンの音が強くなった。不機嫌そうに彼女は何かを書き殴っている。
引っ掛かるのは、なぜあんなにムキになって僕に言ったのか。自分が周りに思う「つまらない」と今、僕が言われた「つまらない」は多分同じ意味。だけど彼女は皮肉ではなく、哀れみの感情を込めて僕に言った。進路の話で盛り上がる教室の喧騒の中で、僕たちだけが冷めきっていた。僕たちじゃない。僕だけだ。彼女は騒がしい声に耳も貸さず、見ているのは自分の未来の為のノートだけだもんな。
結局、何も書かずに出した進路希望調査の皺くちゃ加減に担任は眉をひそめたから、職員室に呼び出されるのは時間の問題だろう。挨拶が終わると僕は一目散に教室を飛び出した。部室に向かう途中、頭をすぐに切り替える。今の僕はあと30日で地球が滅亡する運命の高校生だ。進路なんて無縁。じゃあ、何をする?残りの時間を、どう過ごす?お前は進路希望調査に何て書くんだ?
現実の思考が入ってくる様じゃ、まだ役に入り込めていない。それが僕にはストレスだ。
「葵人、お疲れ様」
紗希が後ろから声を掛けてきた。
「お疲れ!なぁ、聞きたいんだけどさ」
「何?私の進路?私はね⋯」
「違う。進路はどうでもいいんだけど⋯って違う。このどうでもいいってのは今はって話で、興味が無いって意味のどうでもいいじゃなくて。今は舞台のことで頭がいっぱいで」
「はいはい。昔からそうだもんね。それで?何が聞きたいの?」
「紗希は何であの脚本にしたの?すげーいい脚本で面白い。だけど30日後に死ぬって、その感情が僕はわからない。紗希はどんな感情で書いたの?」
「え?えっと⋯」
意外な反応に少し疑問を感じた。
「ちゃんと役を演じたいから知りたいんだ。ひとりで台詞の練習しても気持ちが乗らないって言うか」
「あー⋯」
「えっと、作者がその反応じゃ困るんだけど」
紗希は顔を顰めて、何やら悩み出した。
「何だよ、まさか盗作?」
「違うわよ。完全にオリジナルよ」
「じゃあ何だよその顔は⋯」
紗希の顔につられて、僕も眉を顰める。長い付き合いだから分かるが、これはきっと何かを隠している時の反応だ。小さい頃から紗希は都合が悪くなると、よく顔を顰めていた。
「ほら、早く白状しろ。楽になるぞ」
「うーん。誰にも言わないって約束できる?」
「そんなことだろうと思ったよ。昔のよしみだ。秘密にする」
僕はどうせ大した話じゃないだろうと笑い飛ばした。紗希はなんで笑うのだろうと首を傾げている。
「笑う話じゃないんだけど⋯、脚本の代筆を頼んだ人がいる。だから本当の脚本家は私じゃない。別の人なの」
「えっ?だって去年のアレも⋯紗希の脚本でやったじゃんか。今年のもそれくらい完成度高いけど」
「ごめんなさい。去年も⋯、代筆です⋯」
紗希は小声で白状した。別に罪に問われる話でもないし、僕からしたらやっぱり大した話じゃなかった。それより、この脚本を書いた人物が気になる。僕が知りたいのはそっちの方だ。どんな意図でその人物はあの脚本を書いたのか。作者に意図があるのなら、それをきちんと僕は理解して演じたいのだ。
「代筆はわかった。それで、この脚本を書いたのは誰?教えてくれよ」
「それはダメ。絶対!言えない。約束だから」
その慌てぶりに、本当に言えない秘密はこっちかと察しがついた。だけど、僕の探究心は納得できない。
「なんだよそれ。ここまで言っておいて⋯。ならその人に話してみてくれないか?会って聞きたいことがあるって。もちろん誰にも正体は明かさない。誰か知っても、この脚本は紗希が書いたやつって事で通すから」
「でも···可能性低いよ?それでもいい?」
「あぁ、頼む」
「わかった。伝えてみるよ」
僕の悪い癖だ。演技のことになると周りが見えなくなる。若干引いていた紗希には悪いと思いつつも、あんな素晴らしい脚本を書ける人物に興味が湧いたのだ。今回の脚本もそう。前回の脚本も紗希の書いたものだと思っていたから言えなかったが、僕はどちらの脚本も天才的だと思っている。描かれた世界観に、台詞、全てが僕にとって衝撃的だった。だからこそ、役作りを大切にしたいのだ。作者の想いを、きちんと体現するべきだと思っているから。
だけど、予想外の出来事はすぐに起こった。
僕にとっての青天の霹靂。それも、その雷に撃たれた様な衝撃。
僕は練習終わりに何気なく立ち寄った教室で、床に落ちている1冊のノートを拾った。どこにでもあるキャンパスノートに名前は書かれていない。
「誰の忘れ物だ?」
パラパラとページを捲ると、文字がびっしりと書いてある。その綺麗な文字でこのノートの主は、きっと女子のものであることは理解出来た。見てはいけないと思いつつ、僕はページに目を通す。
「あれ?これ、知ってるぞ」
その文章は、僕が夜な夜な楽しみにしている『無名』の執筆している小説だった。頭がこんがらがる。このクラスに憧れの作家が実在したこと、その原本を拾ってしまったこと。動揺と緊張で背筋がピンと伸びた。躊躇いながらも、それが誰なのかヒントはないかと、ページを捲り続ける。そして、『月が、堕ちる。』とタイトルの付いた小説を見つけた。
「これって⋯」
この冒頭の語りは、間違いなく僕が持っている台本の台詞そのままだ。まさか『無名』がゴーストライターだったなんて。困惑と興奮が半分ずつ、僕の表情を歪めた。
「それ、私のノート!」
背後から誰かの声がする。僕はごくりと息を飲んだ。振り返れば尊敬している『無名』いや、今は紗希のゴーストライターがいるわけだ。意を決してゆっくりと声の主を見る。
「返して!」
橋口里佳は真っ直ぐに僕に向かって来たかと思うと、奪い取るようにノートを取り返した。
「橋口さんが、あの脚本を?」
「中見たの?紗希に口止めしたのに⋯あー、やらかした。バレたか」
「いや、凄いよ。あんなしっかりとした脚本書けるなんて⋯それに橋口さん小説も書いてるだろ?」
僕の言葉に彼女は目を丸くして驚いた。
「真夜中に更新される君の小説をずっと読んでて⋯」
「嘘でしょ⋯そんなことある?」
彼女はそう言って呆れた様子で笑い飛ばした。
「ずっと気になってたんだ。あんな素晴らしい小説を書けるのはどんな人なんだろうって」
興奮気味に話す僕に彼女は困惑している。
「それは⋯ありがとう」
「もしかして、進路ってプロの作家に?そうだろ?もしかして小説家デビューとか?」
「違うよ、勝手に想像しないでよ」
あっさり否定する彼女に驚いた。あんなに熱心に毎晩きちんと更新するくらいだから、『無名』の目標は小説家になることだと思っていた。それに進学という選択をしない橋口里佳と重ねてみても合点がいく。小説家になる目標が、まったく無いわけじゃないだろう。
「あれだけの実力なんだから、ほら、何か賞に応募してみたら?可能性あるって!今月も募集してたろ?」
これだけムキになって言うってことは、やっぱり僕は彼女に小説家としてデビューして欲しいのだ。推している作家の成功を願うことなんて、ファンとして当たり前だし。誰でもそうするだろうし。ましてや本人が目の前にいるんだから、つい熱が入る。
「いいの。そこまで言ってくれて悪いんだけどさ。ごめん、期待しないで。それから、これは見なかったことにして。じゃあね」
彼女はノートを鞄に仕舞うと、くるりと背を向ける。
「ちょっと⋯待って」
僕の声を振り切って、彼女はさっさと帰ってしまった。
「なんだよ⋯」
腑に落ちないことばかりだ。あれだけ熱心に書いている小説の道が彼女の進路では無いのなら、あの熱量はどこに向かっているのだろう。彼女は小説に対して本気の努力が出来る人だ。僕には難しかったそれが出来る人で、夢を諦めかけていた僕の光だった。だから、僕は君に小説家になって欲しいんだ。そしたら、僕も役者への希望を見い出せるかもしれないから。

その日の深夜0時。『無名』の小説の更新は無かった。
そして次の日、橋口里佳は学校に来なかったんだ。
何にイライラしているのか。
私はギュッと奥歯をかみ締めて、肩で風をきって歩いた。凪良葵人はいつも、いつも私の心を乱す。
バス停に着く頃にようやく気持ちが落ち着いて、丸めてしまったキャンパスノートをパラパラと捲る。
ノートの書き出しの小説が、彼に見られてないのは幸いだった。
去年の文化祭。演劇部の舞台の脚本も私が書いた小説。
忘れようとした思い出。
忘れられなかった想いだ。

あれは高校1年の2学期の始まりの日。教室に入ってくるなり、友達の紗希は大慌てで私の机の前にやってきた。
「里佳!どうしよう」
「どしたの?何かあった?あれでしょ!夏休みの宿題なら見せないよ。ちゃんと自分でやらなきゃ」
「宿題はちゃんとやったよ。別件!」
「じゃあ、どうしたの?」
「演劇部がね、文化祭でやる舞台の脚本⋯なんにも思いつかない。里佳よく本読んでるし、国語も得意でしょ?お願い!助けてください」
「なんで脚本なんて引き受けたのよ」
「ほら、私演出家になりたいじゃない?って言ってないから知らないか。演出家目指してんなら、じゃあ脚本は藤間がって先輩に言われたら断れないし⋯」
「紗希はそんな夢があったんだね!いいじゃん応援するよ!あー私部活入んなくて正解だ。何かめんどいもん人間関係。じゃ、頑張ってね」
私はめいっぱいの笑顔で紗希に言った。
「違うよ、応援するね!ニコッじゃないのよ。ね、お願い。私を助けると思って。里佳、作文得意じゃん」
「作文と脚本ってだいぶ違うと思うけど⋯」
「一生のお願い!」
「一生のお願いなんて簡単に使うもんじゃないよ。大事に取っておきな?⋯仕方ないな。手伝ってあげるよ」
こんな風に意地悪を言ったけど、内心は少しだけわくわくしてた。自分が書いた小説が誰かによって現実化するなんて面白い。もちろん小説を書いていることは誰にも言っていないし、小学校からの付き合いの紗希にさえ秘密にしている。言わないことに意味はないんだけど、恥ずかしいと思うのは私にも思春期ってやつが芽生えたのかもしれない。
「どんな舞台をやるの?現代版ロミオとジュリエットとか?」
「里佳、今どき演劇部がロミオとジュリエットやる方が珍しいよ」
「そうなの!?」
「まず中学高校ではやらないのがマジョリティ。だってまだ人生経験少ないし。若者にシェークスピア作品は難解だよ」
「じゃあ紗希はどんな脚本にしたいの?」
「んー等身大の青春モノ!恋愛もあっていいな⋯学校が舞台でさ。見る方もイメージしやすいじゃん?」
「わかった。学園モノね。じゃあ私が短編小説を書くからさ、紗希が脚本に直すのはどう?私、脚本なんて書いたことないから勝手が分からないし」
「えっ!小説は書いたことあるの?」
紗希は目を真ん丸くして私を見つめる。
「見よう見まねで書いてみるって意味だよ」
「おっけ!それでいこ!少しくらいは私もやらないと!夢の第一歩だ!やっぱり頼れるのは里佳だけだね!」
やっと紗希は落ち着いて息ができたのか、調子のいいことを言いながら持っていたノートでパタパタと顔を扇ぎ始めた。
「ねぇ、紗希の理想の恋愛ってどんなの?」
「今は純愛!だけど幼なじみってのも憧れるし⋯スポーツ万能の男の子もいいなぁ」
私はそんな紗希を鼻で笑ってしまった。ついこないだ聞いた、紗希の好きな男子が正にそれだったからだ。つまり、この子は自分の欲求を作品にして欲しいのかと、私は呆れたのだ。
「ねぇ、バカにした?里佳が聞いたんじゃん」
「だって⋯紗希はホント素直だね」
「え?何が?えっ?」
私と紗希はいつもこんな調子だ。紗希といると私は不思議と病気のことを忘れて普通でいられる。波長が合うというのか、私も紗希に気を使わないから。それに期待に胸を膨らませながら想像した、可愛い制服を着て親友と恋バナをするってことを、あっさりと叶えてくれたのも紗希だ。私は恋愛を諦めている。私から話せる恋バナは無いけど、話題豊富な紗希はいつも私を楽しませてくれた。その話をネタに、小説に取り入れて私は自己満足する。私が死んでしまった後に紗希にこのノートを見られたら、きっと怒るだろうな。でも安心して欲しい。紗希の話は全部ハッピーエンドにしてある。紗希の恋が上手くいくように私の願掛け。
その夜から私はノートに小説を綴り始めた。紗希の願望通り、スポーツ万能の男の子と、幼なじみの男の子が同じ女の子を好きになる。高校生らしい等身大の部活の悩みや進路の葛藤を詰め込んで⋯プロットの途中で私の筆は止まった。いくら等身大の悩みを想像したって、私はみんなとは違う。私の悩みはあと余命3年をどう生きるか。それ一択だ。それにもう半年を消費してしまった。思っていたよりも人生を消費するスピードはずっと早い。各駅停車の電車が、ある駅を境に特急電車に切り替わった感覚。あの余命宣告と言う駅だ。無駄だったとは思わないけど、各駅停車の15年をちゃんと考えて生きればよかったと反省した所で⋯幼い私は知る由もないわけだし。息巻いて小説家になるなんて豪語したが、その気持ちは今や頭の上に宙ぶらりん。真っ暗な闇を手探りで進むような、まるで手応えのない感覚。web小説のサイトに作品を投稿してみてもPV数は伸びず、鳴かず飛ばず。「つまらない」とコメントを貰ったこともある。私の覚悟は折れそうになっていた。
それに想像以上に諦めなきゃいけない事はどんどん増えていく。例えば、辛いものが好きだった私はそれも食べないようにと制限された。熱いものもダメだから、激辛ラーメンがもう食べれないと言われたのは絶望だった。「死ぬ直前に何が食べたい?」と聞かれれば「激辛ラーメン!」と今なら即答する。日常生活でこんなに気をつけていても、発作が出てしまえば咳が止まらなくなり、ベッドの上で悶え苦しむ。確実に、じわりじわりと死が近づいている。精神を保つだけでも未熟な私には辛くて、心にもう余裕は無い。あれほど、死生観を語っていた私も、自分事になるとおいおいとベッドで涙する。あの時の自分に教えてやりたい。死ぬって怖いんだよと。
気を抜くと弱気になってしまうから、ぶんぶんと首を横に振り、また筆を取り文字を書く。そうやって私の生き方を取り戻す。生きた証を刻むように、一心不乱に文字を書いた。ブブブッとスマホが震え、通知が届く。
「すごく面白い作品でした。応援してます。梛」
私の作品に届いたそのコメントに温かい涙が零れた。
見てくれてる人はいる。必要としてくれる人がいる。
たった1人でも、私にとっては生きる理由だ。
たった1人でも私を覚えてくれているなら。

そして、私はひとつ。未練を残すことになる。

短編小説を渡すと、すぐに紗希は脚本に直し演劇部は文化祭に向けて始動した。意外にも作品は好評で、私も鼻が高かった。
「練習見ていく?」と紗希は誘ってくれたが、照れくさくなって辞めた。思春期の子供がいたら、その子の授業参観を見に行く母親の感じ。小説は自分が生んだ青春全開の我が子みたいだから、その場に行ったら何かと口を挟んでしまいそうで。演劇部の茶を濁すのも悪い。
「文化祭本番の舞台を楽しみにしてるよ」
紗希にそう伝えた私は、クラスの展示を手伝える範囲で手伝った。
文化祭当日、いよいよ演劇部の舞台の幕が開く。
うちの学校の演劇部は中々の実力で、過去には全国大会にも出たことがある歴史ある部活だ。文化祭の演目の中でも注目度が高い。
満席の体育館はザワザワと期待の声で騒がしかった。私も紗希が用意した特等席に座り、じっとその時を待った。頭の中に想像した世界がどんな風に舞台化されたのか、期待感が高まる。
暗く照明の落ちた体育館が静寂に包まれる。
「その年、私は恋をした。それは世界中の桜の花びらをいっぺんに空に撒いたような。そんな淡いピンク色の青春だった」
ヒロイン役の女の子のセリフから始まり、物語が始まった。その男の子は幼なじみの男の子を演じていた。役柄は初恋が叶わない男の子。私が、自分の気持ちを投影した男の子。
「僕にも君にも未来がある。可能性が1%でもあるなら、僕は諦めないよ。夢も、恋も」
迫真の演技に、会場が感嘆の息を漏らす。
彼の声は熱情を帯びて、真っ直ぐに心に通る。
スポーツ万能の主人公の引き立て役だったはずの彼は、舞台の中で誰よりも目立っていた。私は演劇の知識は乏しいから、上手いとか下手とかよく分からないし、それを言える立場じゃない。あえて口に出すならば、烏滸がましいが誰よりも上手い演技をする。それに楽しそうに演じている。見ている私も、つい口元が緩んでしまい、優しい笑みを浮かべた。そんな彼の姿に胸を打たれる。私の書いた心情を完璧に体現してくれていた。もちろん私は片思いなんてしたことない。過去を遡っても、幼稚園の頃のおままごとみたいな好きしかしらない。漫画やドラマや小説で見て聞いた思春期の片恋を、見よう見まねで書いたそれを、私の想像通りに演じてくれている。それから私は、ずっと彼から目が離せなくなっていた。
「その未来で僕は君の隣にいてもいい?好きな人がいることはもちろん知ってる。馬鹿なこと言ってるって分かっている。だけどね⋯僕は君が好きなんだ」
その台詞が、凛と私の耳に響いた。自分が書いた台詞のくせに。私が言われたわけじゃないのに。ドキドキと胸が高鳴り、頬が紅潮する。スカートをギュッと握り、私は呼吸を落ち着かせた。
彼の迫真の演技に、また体育館の空気が変わった。
さっきまではイケメンの主人公の先輩を推していた生徒達も、「私は幼なじみと付き合った方が幸せになると思う」と言わんばかりの目で舞台を見つめている。
不思議な余韻を残しながら幕が閉まる。
「すっごいよかったよね」
「私感動して泣いちゃったよ」
周りの生徒たちの評価も上場。私も少し得意げになった。舞台を無事に終えた紗希が、子犬みたいに駆け寄ってくる。
「里佳!ありがとう!大成功」
紗希は周りにバレないように小声で耳打ちをした。次から次に部員から賛辞の声を送られ、引き攣った愛想笑いでそれに応えている。私はそれが可笑しかった。
「私も、感動しちゃったよ。」
「里佳が原作者のくせに?」
「ありがとう。素敵な舞台にしてくれて。それに私も貴重な経験になったよ」
「いつかさ、大人になったら里佳の書いた小説を脚本にして、それで2人でドラマなんか撮っちゃったりして?才能あるよ里佳」
「止めてよ、本気にしちゃうから」
私たちは顔を見合せてクスクスと笑った。そんな私たちの会話を遮るように、背後から声がした。
「紗希!お疲れ様!」
さっきの彼がやって来て、私は咄嗟に目を伏せた。そして、こっそりと聞き耳を立てる。
「葵人!よかったよ!最高!」
紗希は慣れた様子で彼とハイタッチを交わす。
「脚本、マジよかったよ。久しぶりに楽しかった」
照れくさそうにお礼を言う彼に、紗希は揶揄うように笑った。
「久しぶりって、誰よりも演劇好きなくせに何言ってんの?」
「うるせー。俺にもこだわりがあんだよ。演じたい役だと身が入るって言うか⋯これ本気で演じたい役だったからさ。マジでありがとう」
私はその言葉に、また胸が落ち着かなくなった。私の書いた小説のその役を本気で演じたいなんて。なんだか嬉しさが込み上げる。また緩みそうな顔を慌てて隠す。そして、私のまだ知らない感情が敏感に反応する。少年みたいに笑う彼に、その声に。隠しきれないこの感情の正体に薄々感ずいてはいる。だけど。

──ダメだ。恋はしないって決めたのに。

それでも、私は体育館を後にする彼の背中をただ見つめていた。
「ねぇ、紗希⋯あの人って」
「あぁ、あいつ?私が児童劇団で一緒だった凪良葵人。昔から演劇が好きで、今でも本気で役者を目指してるんじゃないかな?まぁ顔だけはいいからね。だけど昔っから演劇バカでね、我儘で大変だったんだから」
「本気で何かをやってるって、カッコイイじゃん⋯」
つい、本音が零れてしまった。
「え?里佳、何か言った?」
「へ?ううん。何にも。ね、模擬店見て回ろ?」
「いいね!私、チョコバナナ食べたい!」
これでいいんだ。こんな普通の日常を、普通の高校生活を楽しんでいられるだけで。でも綻びかけた蕾のようなこの気持ちの自分は⋯。

どうしたって私は余命3年。
もし、それが伸びても幾年か、先はわからない。
恋愛なんて、悲しい結末しか見えない。
だから伝えるなんて馬鹿なことはしない。
遠くからでもいい。私は彼の夢を応援しよう。
私の小説を本気で演じてくれた彼を。
この気持ちだけを大事にしよう。

「あの日の君はどこにいったんだよ⋯」
今日、彼にノートの秘密を知られてしまった。それに、2年生で彼と同じクラスになってから、なるべく関わらないように取り繕ってきた。同じクラスになれた嬉しい気持ちだって隠してきたんだ。何度かこっそり演劇部も見に行ったことがある。あの時の凪良葵人は見るからに影を潜めていた。あの頃から少し変わってしまった彼に、つい悪態をついてしまったのだ。私は本当に嫌なやつだ。私の中での彼はずっと、あの舞台でキラキラと輝く姿のままでいて欲しかった。今も役者になる夢を追いかけているままだと思いたかった。だから「夢はないの?」と聞いた時の、彼の反応が悲しかった。それは、夢を見ることのできない私の嫉妬かもしれない。自分勝手に押し付けている我儘かもしれない。だけど、私はそんな独りよがりの夢を君に見るしか救われないんだ。

眠れない夜の深夜0時。
乾咳が酷く、とても小説を更新できる状態じゃない。
気持ちが、まるで暗い海の底に落ちるように力無く絶えていく。
ずっと続けていたルーティンを、私は初めて止めた。

死ぬことは怖くない。それは今でも変わらない。
運命として受け入れた余命3年。
怖いのは、心に執着を持つこと。
未練とか後悔とか残らないように避けてきたはずなのに。心に意味を見つけてしまったんだ。
君に夢を見てしまったから。
募る想いを重ねたから。
綻びかけた蕾は、ゆっくりと花になろうとしている。
橋口里佳が学校を休んで3日になる。僕は気が気ではなかった。余計なことを言って彼女を傷つけてしまったのではないかと、主のいない机を見つめてそう思った。彼女のノートを拾った日の僕はどうかしてた。恋焦がれた憧れの人に出会った様な態度をとったもんだから、彼女からしたら戸惑っただろう。僕はすっかり浮かれていたし、好きな事になると周りが見えなくなるのは僕の悪い癖だ。弁明と謝罪をしたくても、連絡先を知らない。Web小説のサイトでメッセージしようかとも考えたが、彼女の作品にプライベートで踏み込むのは倫理観に欠ける。頭を抱えて机に突っ伏していると、ポンポンと2度ほど肩を叩かれた。紗希が小さく笑って立っていた。
「どした?元気ないじゃん」
「なんだよ、紗希か···」
僕は面倒くさそうに答える。
紗希は里佳の席に座ると体を寄せて小声で話し始めた。
「ごめん、例の話の事なんだけどさ···やっぱり」
「もう遅い···」
「え?」
「もう知っちゃったんだ。あれを書いたのが誰か。なんて言うか事故で···」
「どういう事よ?」
僕は事の顛末をざっくりと紗希に話した。『無名』の事は、万が一を考えて秘密にした。もうこれ以上、彼女に墓穴を掘りたくないからだ。偶然拾った彼女のノートに『月が、堕ちる。』の小説が書かれていてそれで知った。それだけ紗希には説明をした。
「そっか。でも里佳、何も言ってなかったな···まっ、大丈夫よ。それが原因で学校休んでるんじゃないから。だから安心して」
休んでる原因は?と気になったが、これも聞くことで僕の状況が悪くなるのを恐れて、言葉を飲んだ。僕はできたら彼女と仲良くなりたいと思っている。彼女と対等に話が出来て、許してくれるのなら小説のことを語り合いたい。それから、お礼も言いたい。
「なぁ変な相談をするけど、やっぱり勝手にノートを見たことを謝りたいんだ。紗希、仲を取り持ってくれないか?橋口さんとは仲いいだろ? 去年の文化祭も2人一緒にいたし」
紗希は目を丸くして驚いた顔をしたが、直ぐに含み笑いを浮かべ私に任せなさいと言わんばかりに頷き、僕の肩を強く叩いた。
「葵人も大人になったのね」
「勝手に変な妄想すんなよ?違うから。ただ橋口さんと友達になれたらいいなって。そんだけ」
「葵人と里佳に接点なんてあった?」
「だって、彼女の大事な作品を演じさせてもらうんだ。作品もだけど、やっぱ作者の心を大事にしたい。そんな役者でいたいんだ」
「へー···」
「なんだよ」
「まだ、夢は諦めてないんだなって思って」
「それは、まだ決めてない。目の前のことしか見えてないし、考えられないから」
「わかった。里佳に伝えとく」

その返事があったのは土曜日のこと。
休みで昼過ぎまで寝てしまった僕のスマホに、紗希から連絡が入っていた。
「明日、スカイツリーに集合!10時に待ち合わせ。駅の改札出たところね。予定大丈夫だよね?」
「なんでスカイツリー?」
僕が送ったメッセージにすぐに既読が付く。
「分かんない。里佳に葵人が脚本の事で聞きたいことがあるんだってって伝えたら、じゃあスカイツリーで会おうって」
「とりあえず、了解。ありがとな」
それで今日、言われた通り僕は指定された駅に向かった。まずは、この前のことをちゃんと謝る。それから、友達になってくださいって言うのは変か?ほんと親世代はスマホも携帯も無い時代で、きっとこんなやり取りをして仲を深めたと思うと頭が下がる。時代と共に便利になった裏側で、失われた人としての大事なものも多い気がする。世の中は効率化とか時短で時間を作ったはずなのに、人の歩みは何かに追われている。僕だってそうだ、頭の中をぐちゃぐちゃにしながら集合の30分前に駅に着いてしまった。とにかく、彼女との会話には紗希が助け舟を出してくれると信じよう。あとは小説のことに触れていいのか···。そんな考え事をしながら、家族連れや外国人観光客で賑わう改札を出て、人の多さに驚いた僕は隅っこに逃げた。どちらかと言えばインドア派な僕はこんな駅に滅多に来ない。近くにあった土産物屋を何となく物色してみるが、すぐに店員が寄ってきて、気まずくてまた隅に逃げる。
スマホがブブブッと震え、紗希からの着信を知らせた。
「もしもし、葵人?今どこ?」
「もう駅に着いたよ。そっちは?」
「よかった。里佳、もう着くみたいだからさ。ごめん、私今日は妹たちのお世話をすることになって、行けない!とりあえず、葵人頑張れ!」
「えっ···困る。おい、紗希、お前···」
電話の切れる音がポロンと虚しく耳に響いた。
また雑踏の音が僕を包む。ぽつんと佇む僕だけが音をひとつも立てずに微動だにしない。急に2人きりで会うことになったんだ。ろくにデートもしたことがない。ぽつんとこの場から動けないって言うより、足が竦むからって言った方が正確だ。正直、ビビっている。
一度、トイレに行って気持ちを落ち着かせよう。そう思って重たい足を一歩踏み出す。
「お待たせ。ってまだ20分も前だけど···」
ちょうど改札を出てきた橋口里佳と鉢会った。もう腹を決めるしかない。
「いや、僕が勝手に早く来ただけ。全然待ってない、ほんと」緊張のあまり早口言葉になる。
「じゃあ、行こっか」
「あっ、えっと···どこ、行こっか···?」
僕はつくづく馬鹿だ。良さげなカフェのひとつでも調べておくべきだった。紗希がいたら、僕らにお構い無しに自分の好きな店に入るだろうと、そんな算段だった。この状況、紗希に甘えすぎていた自分を少し恥じた。何を焦ってるんだ。別にデートでもないくせに。
「···舞台ではあんな堂々としてるのに」
彼女は僕を見て急に笑い出した。
「ごめん···僕、慣れてなくて···」
「私も、男の子と2人で出かけるなんて初めてだから」
「それと、ごめん。この前勝手に、その···ノートを」
「あー、もういいよ。大丈夫、大丈夫。落とした私も悪い。もう気にしてない!だけど秘密だよ?」
「あぁ、それはもちろん」
こないだの態度とは打って代わり、あっけらかんとしている彼女に、なんで学校を休んでたの?もう小説は書かないの?と聞いてしまいそうな気持ちをまた飲み込む。まだ聞けるような間柄じゃない。でも知りたいことは山ほどだ。新しいスマホを手にしても僕は説明書なんて見ずにすぐに触る。だって自分であれこれ発見した方が楽しいからだ。だけど、今日は橋口里佳の説明書があったらどんなに有難いことかと欲しがった。だって最短で君と仲良くなる方法を誰も教えてくれないから。
「じゃあ、目的地に行こうか。いちばん高い場所に」
彼女はそう言って、真っ直ぐに上を指さした。
展望デッキへのチケットの列に並び、順番を待つ間も会話は無かった。無かったと言うより、僕があれこれ話題を考えているうちに言葉が喉に詰まって出なかっただけ。あれだけ台詞を覚えるのは得意なくせに、台詞を生み出すのは無能だ。周りのカップルは仲睦ましげに、こんな待ち時間ですら華やいでいる。何か喋らなきゃと焦る僕の隣の彼女は、上機嫌に鼻歌を歌っている。
「あのさ···」
「次のお客様!」
勇気を出した僕の声を遮り、チケットカウンターで係のお姉さんが僕らを呼んだ。チケットを買って、すぐに展望デッキまでのエレベーターに乗り込むと、まるでタイムマシンに乗った気分になり少しワクワクした。
「50秒で着くんだって」
「橋口さんは、ここ来たことあるの?」
「ううん。初めてよ。ちゃんと自分の目で見ときたくて。想像でしか無かったから」
緊張もゆっくりと昇降する。
「想像って···?」
徐々にエレベーターはスピードを上げ、体だけ置いていかれる感覚になる。浮遊感と、少し耳が詰まる感じ。心地いいとは言えない感覚に顔を顰めた。
「わぁ!早い早い」
無邪気に笑う彼女につい、見惚れる。
彼女は授業中、大きな眼鏡をかけて髪を2つに結えている。だけど今日は眼鏡を外し、髪はポニーテールに結えてずいぶんと印象が違う。メイクをしているからか綺麗な二重瞼に長い睫毛と涙ぼくろが際立つ。そしてオフショルダーのワンピースで肩まで見せてる。人気のある彼女の、そんなギャップを見れた事をクラスのヤツに自慢したら袋叩きにあいそうだ。それに比べて僕は大きめのパーカーにスキニーパンツ。なんて無難で在り来りな格好できてしまったのか。
「ねぇ、前の2人お似合いのカップルだね···」
「美男美女で憧れる」
後ろの女性達からそんな声が聞こえ、何となく気まずくなって大きく咳払いをした。僕は違うが、彼女が本当に可愛らしいのは認める。
エレベーターの扉が開き、飛び込んできた世界は圧巻だった。東京って街が小さく見える。
「うわー···僕の家見えるかな?」
ガラスに張り付き、自分の家の方を凝視するそんな僕をクスクスと笑い「小学生みたい」と彼女は言った。
「橋口さんは大人みたいだ。今日はずいぶんと印象が違うからびっくりした」
「だってあの小説の事が聞きたかったんでしょ?それに凪良君が主役をやるって紗希に聞いたから。だからヒロインの子のイメージを頑張って作ってきたんだよ」
「嘘!?···ありがとう。じゃあ、この格好の僕は主人公になりきれて···」
「···ないね」
「無いよな···なんも考えてなかった···違う。なんも考えてなかったわけじゃない。ちゃんと考えてる。うん」
「なんか不思議な感じ。学校と全然イメージ違う、凪良君ってそんなキャラだった?もっとクールな人かと」
「それはこっちのセリフだ。役作りを抜きにしたとしても今日の橋口さんは···」
「それで?私に何が聞きたかったの?」
彼女は僕の言葉を遮るように質問してきた。僕は急かされるように答えた。
「えっと、僕には突然、余命宣告された主人公の気持ちがわからなくて···僕はどう演じればいいのか悩んでるんだ。だから作者の想いを聞いて、ちゃんと演じたいと思ってる。だからそれを聞きたい」
彼女は少し困った顔をして、こう質問をした。
「じゃあ、明日死にます、って急に言われたら凪良君はどうする?」
「食べたいものを食べて···それから」
「じゃあ1年後死にますって言われたら?」
「行きたいところに行くだろ?行ってやりたい事して···あとは···」
「3年後だったら?」
「3年後?···3年か···」
「先のことは分からない。だけど死んでしまうって事実は変わらず先に待ってる。でも時間は平等に過ぎる。この瞬間だって生きたいと思う人もいれば死にたいって思う人もいる。人生の不条理と捉えるのか、希望を見出すかは自分次第。ねぇ凪良君はどうする?」
「僕は···」
正直何を聞かれているか意味がわからなかった。だけど真剣に話す彼女の目を見て、生半可な回答は失礼だと思った。
「僕は、後悔のない人生を送りたい」
「後悔って?」
「やり残したことがないようにすること···?」
「じゃあ、それは何?」
「僕の後悔は···」
頭ではハッキリと分かっている。僕は役者になりたい。できれば一生続けたい···だけど、この問いかけに一生なんてない。3年だ。じゃあどうする?急に今まで生きてきた人生の後悔が蘇る。僕の生きてきた17年。役者に憧れたのは12年くらいか···あぁ、時間が惜しい。なんて無駄なことをしていたんだろう。どうしたって後悔が残るじゃないか。後ろを振り返ってはだめなんだ。ただ真っ直ぐに未来を見るべきなんだ。
「ごめん。後悔はもう置いていく。後悔は捨てるよ。だから残りの未来を僕は全力で生きる。僕は役者になりたいんだ。だからその最短の道を走り抜ける」
「いい答えだね」
「橋口さんは、どうする?3年。あと3年の命を」
「私は···そうね。今で十分。十分幸せだから」
「なんだよ、僕だけ恥ずかしいじゃないか」
「ごめんね。どう?主人公の気持ちは理解出来た?」
「なんとなく···少しだけ」
「私はどんな状況でも、主人公には前を向いて欲しい。僅かな希望の未来を見て欲しい。そう願ってる」
そう言って、彼女は寂しそうに笑った。

──僕は、あの時の彼女になぜあんなことを聞いてしまったのだろうと後悔した。知らなかったんだ。君が抱えている運命の大きさを。君が抱えていた生きる意味を。そして、君のことを。
ねぇ、もう一度、余命3年を初めからやり直せたら。
もしやり直せたら···すぐ僕に知らせてくれ。
残された時間を一緒に走るからさ。君の隣で走りたいんだ。君の見ていた夢を、僕も見てみたいんだ。

ふたりで大きなガラス窓の前に立ち、眼下に広がる見慣れた世界を見つめた。確か物語のクライマックスだ。月が地球に堕ちる瞬間を、ふたりで街が見下ろせる高台の展望台から見つめるシーンがある。そうか、彼女はこの景色を見せるためにこの場所を指定したのかと理解した。大きいと思っていた東京タワーがこじんまりと見える。月なんて堕ちてきたら、空はどんな色になるんだろう。引力があるから僕らはさっきのエレベーターみたいに浮遊するのだろうか。やはり、彼女は隣で何も言わずにただ何かを見つめている。
「こんなに綺麗な景色が、もう見れなくなるんだね」
僕は瞬時に気がついた。これはあの作品のヒロインの台詞だ。彼女は僕を試しているのか?それに答えるように僕は次の台詞を呟いた。
「ねぇ、手を繋いでもいいかい?」
彼女はこくりと頷き、ゆっくりと左手を差し出した。細くしなやかな指は透けるような肌をしている。そっと触れて、優しく握る。君の温度が僕と交わっていく。
「ほら、さっきよりも月が大きく見える。もうすぐ···」
「ねぇ、いいことを考えよう。そうだ、もし願いが叶うなら君は何を願う?まだ間に合うかもしれない」
「そうね···。私の願いか。無理だよ。運命はもう決まってる」
「簡単に諦めるのかい?」
「私は生きたいよ。まだ生きていたい。こんな終わりなんて···」
「僕もだ。最後の時間まで君と一緒に生きる。だから傍にいる。好きな人と迎える最後だ。僕の人生は悪くない、いい人生だったよ」
繋いだ手がぎゅっと力を感じる。
恋に堕ちる瞬間なんて単純だ。
君に触れた時に、静電気みたいにパチンと心が弾けた。そして、僕の心に余韻として残る微小な電流。ドクンドクンと跳ねるように高鳴る胸の中は、君でいっぱいだ。
「僕は、ずっと君の傍にいたいよ」
「台詞、違うよ?」
「えっ···あれ、僕はなんて?」
彼女はするりと、僕の手から離れた。
「ちゃんと覚えるように!大事なシーンだからね」
「ごめん···じゃあもう一回」
「舞台にやり直しはないでしょ?残念でした」
そう言って彼女はいつもの調子に戻り、話題の透ける床を見つけると嬉しそうに駆けて行った。

「僕は、君が好きみたいだ」

──私は何かと察しがいいほうだ。
君の心が見えたから私は、咄嗟に逃げた。
この気持ちは隠し通さなきゃいけない。
私だけが、命と一緒に持っていくんだ。

「よかったら願い事を結んでいきませんか?」そんな声が耳に届いた。案内の女性が願いのスポットにもなっているモニュメントの前で手を小さく降っている。
「あれ、一緒にやらない?」
僕は彼女を誘ってみる。どうやら僕は子供っぽいものが好きみたいだ。さっきもカフェでメロンソーダを頼んでしまったし、アイスコーヒーを飲む大人っぽい彼女のことだから断られてしまうかもしれないけど、僕はどうしても彼女と一緒にやりたかった。理由は単純だけど、僕の願い事には彼女が必要だからだ。
「まぁ、いいか。いいよ」
渋々頷いた彼女と、近くのカプセルトイでリボンの入ったカプセルを購入する。僕は青い色で彼女は黄色いリボンだった。
「見ちゃうと叶わない気がするからお互いに見ないように!」
そう言って彼女は僕と距離をとって願いを書き始める。
僕も油性ペンを手に取り、丁寧に書いていく。
『僕は役者に。君は小説家に。また未来で共演しよう』
しっかりと文字を刻み、丁寧に結んだ。
彼女も僕に背中を向けて、リボンを結んでいる。
「じゃあ、行こうか」
くるりと背を向けた彼女はニッコリと笑う。
その愛くるしい笑顔を、僕はずっと忘れられずにいる。

──私の願いにふたりはいない。
だって未来に私はいないんだから。
だから君の夢を願うよ。
ありがとう、夢を諦めないでくれて。

あの日の一件以来、僕の演技には命が宿った。自分でもわかるくらいに調子がいい。体が勝手に動くというか、心が勝手に僕を主人公に仕立て上げる。教室でも「おはよう」と挨拶を交わし、彼女と普通に会話もできる。『無名』としての彼女も相変わらず深夜0時に更新を再開しているが、その話は敢えて話題に出していない。
全てが順調だった。3日後は文化祭だ。そんな時に、また運命は悪戯を仕掛けた。血相を変えて紗希が教室に飛び込んでくる。僕は袖を掴まれて廊下に連れ出された。
「葵大、大変だ。ヒロイン役の齋藤さん、インフルエンザだって。当日の参加も難しい···他にも何人か発熱で」
紗希は泣きそうな顔で僕に言った。
「落ち着いて···代役は?誰かできそう?」
「今から台詞入れて···誰か覚えてる子いたらいいけど女子部員も少ないからさ」
「台詞を覚えてる人、か···」
チラッと教室の中を見ると、彼女は相変わらず自分の世界をノートに綴っている。僕はごくりと唾を飲み込んだ。今から無茶なことを言おうとしているからだ。
「紗希、もうこれしか方法がないと思う。可能性は低いけど」
紗希は察したのか、大きく頷いた。
僕はまっすぐに彼女の席を目指した。スカイツリーで彼女は正確に台詞を口にしていた。それにその姿はヒロインにぴったりだった。これは僕の願望だけど、彼女ともう一度、あの会話をしたかったのだ。僕が間違えて終わってしまった即興劇の続きを、ふたりで。
「橋口さん、ちょっといいかな?」
彼女は半分泣き顔の紗希の顔を見ると、目をぱちくりさせて「どうしたの?」と心配そうに聞いた。
状況を手短に説明する。もし彼女が表舞台に立つとしたら、部員達からしたら当たり前に疑問が出るだろう。台詞を完璧に覚えているとしたら、物語を書いた人物でしか有り得ないからだ。そうすると紗希の立場が危ぶまれる。仮に紗希が脚本に直した···とすれば橋口さんが小説を書いていることが少なくとも演劇部の連中には知られてしまう。だからリスクしかないこの頼みを彼女が引き受けてくれる可能性なんて限りなく0に近い。それを承知で彼女に頭を下げた。
「それで、私にヒロイン役を?」
「部員達には僕から話す。演技だってちゃんとサポートするから。だからお願いできないかな?」
「紗希は?それでいいの?」
「私もちゃんと話すよ。今は皆で作ってきた舞台を成功させたい。その後で脚本の事はちゃんと言うよ。だけど里佳がゴーストライターだって皆に知られちゃうのは」
彼女は黙って考え込む。そして、こう提案した。
「私が書いたって知られるのはいいよ。ただ演技もしたことがない私が急に舞台で演じていいのかは部員の人の総意じゃなきゃダメ。だから今日の放課後に演劇部に行くから、一度ちゃんと見てもらってから···」
その瞬間、紗希は彼女に飛びついて大泣した。教室中に響く声で泣くもんだから、皆の視線を感じて僕は慌てて彼女を宥めた。放課後の演劇部は正に喜怒哀楽だった。橋口里佳は事の経緯を丁寧に説明し、あくまで紗希と一緒に考えた物語だと彼女を守った。納得いかなそうな部員もいたが、それから僕と即興で演じたラストシーンに部員たちからは拍手が起こった。苦労して準備してきた舞台ができる安堵感と、脚本を書いた橋口里佳にも賛辞が起きる。彼女と一緒の時間が過ごせること。休んだ部員には悪いと思っても、それが僕は嬉しくてニヤケてしまった。独りよがりな恋かもしれないけど、これが僕の初恋なんだ。少し照れながら恥ずかしそうにしている彼女が可愛くて、また見惚れてしまっている。

静寂に包まれながら、静かに舞台の幕が上がった。
彼女も卒なく演技をこなしながら順調に物語は進み、いよいよあのラストシーンだ。
「こんなに綺麗な景色が、もう見れなくなるんだね」
僕はあの日を思い出していた。目の前に東京の街が広がる。空には大きくなった月が見え、もうその時は近い。
「ねぇ、手を繋いでもいいかい?」
彼女はこくりと頷き、ゆっくりと左手を差し出した。少しひんやりと彼女の手は震えている。僕は安心させようと、強く握った。
「ほら、さっきよりも月が大きく見える。もうすぐ···」
「ねぇ、いいことを考えよう。そうだ、もし願いが叶うなら君は何を願う?まだ間に合うかもしれない」
「そうね···。私の願いか。無理だよ。運命はもう決まってる」
彼女は涙ぐみながら、台詞を口にしている。
「簡単に諦めるのかい?」
「私は生きたかった。もっと生きていたかった。君ともっと仲良くなりたかった。夢を、私も夢を叶えたい。それとね、君が夢を叶える姿を見たかった。だけどそんな欲張りは願わない。ひとつだけ、一言だけわがままを言えるなら、最後に君の気持ちを聞かせて欲しい。ねぇ、君は夢を叶えてくれる?」

──知らない台詞だ。

舞台袖の部員も驚いた顔で慌てている。紗希は呆然とこちらを見つめていた。練習では完璧だった彼女だ。おかしい。何か違和感を感じて腑に落ちないが、ここは舞台上だ。僕は何とか軌道修正を測ろうとするが、どうすればいいのだろうか。頭は混乱しているが、心には叫びたがっていることがある。
「必ず。必ず叶えるよ。この世界では無理でも、僕は必ず夢を叶える。それに、僕も君と仲良くなりたい。だって、君は僕の初恋の人なんだ」
咄嗟に、僕は君を抱きしめた。
今にも壊れそうな、細く華奢な体を強く。
「私も、好き···」
拍手にかき消されたその言葉は、泡のように弾けてしまった。体育館中に響いた拍手はいったい何を祝福しているんだろう。僕はその空気の振動の中で、違う不安に揺れていた。心臓が大きく揺れている。
つい、言ってしまった。咄嗟に告白未遂をしてしまった。だけど、僕はそれでいいのか?
今、この役をやりきった僕は無敵にさえ思える。この役が僕に憑依したのか、君を求めている。そして、現実でもやっぱり君を。
「なぁ、待ってよ」
舞台袖に降りていく彼女を急いで呼び止める。
「ごめん、緊張して、台詞間違えちゃった」
「間違えたって···」
「書き直す前の台詞。そっちを言っちゃった。ビックリさせてごめんね!でも流石だ。即興で合わせてくれて。助かったよ、ありがとね」
「なんだよ···焦ったじゃん」
「紗希にも謝らなくちゃ。それから皆にも」
すぐに僕から逃げようとする彼女を慌てて制止した。
「ちょっと待ってよ」
僕は咄嗟に彼女の細い手首を掴んでしまった。
「えっ···?」
驚く彼女に、僕は間髪入れずに胸の内を吐き出した。
「あの答えは、僕の本心だ。紛れもなく僕の心の声だ。だから君の気持ちも聞かせて欲しい」
「私は、凪良君と舞台が出来て楽しかったよ」
「違う、そうじゃなくて。だから、月じゃなくて、恋に堕ちたんだ。僕が君に」

──それは一番聞きたくなかった言葉だ。
でも私だってズルい。間違えた台詞のせいにして、君に本音を伝えたんだ。自己満足のヒロインを演じたの。
私も言いたい。素直に言えるんなら言いたいよ。
「君が好きなんだ」って。恋愛感情なんて、一番最初に諦めたはずだったのに。わたしに死にたくないって思わせないでよ。私にも君にも悲しい未練なんて残したくないんだよ。だったらね···。

「ごめんなさい。私は、凪良君は友達と思ってるから」
彼女は表情を変えずに僕にそう告げた。
当たり前だろう。僕だけがフルスロットルで君に恋に堕ちた。まだ知り合って間もないし、納得いってる。だけど気持ちは抑えられないくらいに、全部君だ。
「ありがとう、それで今は十分嬉しい」
僕の精一杯の強がり。
でも、ここから始めればいい。
友達からでも、僕の気持ちは変わらない。
君が好きって気持ちは暫くは消えない。緊張で乾いた喉に一気にスポーツドリンクを流し込んだ。
「ねぇ、最後の台詞って···」
紗希が僕の傍に来て彼女の背中を見ながらそう言った。
「修正前の台詞って言ってたけど···」
「そうなんだ。私ねちょっとだけ、不安に感じちゃったんだ。なんか里佳が遠くに行っちゃうような、そんな不安。この小説を見た時から何か違和感があってさ···里佳の本心が分からなくて」
それには僕も同意した。彼女は全く本心を見せない。
だけど、思春期の僕は、それから彼女に遠慮をするようになった。僕の一挙手一投足や言葉が、君との僅かな希望を削ぎ落としてしまったらと臆病になったからだ。あんなに前向きだった気持ちも、強がっていた気持ちも、見えない壁に弾き返されるみたいに消沈していった。彼女と簡単な挨拶を交わすのが精一杯で、君は相変わらずノートに夢中だし。僕はそんな君を見つめることしか出来ずにいた。君は本音を隠すのが上手だから。僕には何も分からないんだ。
そして、僕らは高校3年生になった。
クラスも変わって、君は僕の手の届かないところに行ってしまったんだ。

──友達ってどうしたらいいんだろう。どこまでが友達なんだろう。全てを知ってるのが友達なのか、挨拶を交わすだけでも友達なのか。ねぇ、君の言う友達って何だったんだろう。君は僕に何を求めていたんだろう。
私はやっぱり察しがいい。
きっともうすぐ終わりが近い。心がそう叫んでいる。
すっかり散ったソメイヨシノの木は萌える緑の葉をつけた。私だけがまだパステルピンクに染まっている。学校も休みがちになり、入院生活と自宅の往復を繰り返している。
そろそろ、ひとつずつ終わらせなければいけない。
もう、可愛くて憧れた制服も着れないかもしれない。
「明日死ぬなら」なんて聞いた時、君はなんて言ってたっけ。「食べたいものを食べる」か。食べたいものなんて、私は激辛ラーメンをとうに諦めてるよ。行きたいところか。私は君が演技をしている舞台を見に行きたかったな。
たまに紗希は電話で学校の近況を教えてくれた。
授業のこと、演劇部のこと、それから恋愛のこと。
スマホを手に取ると、Web小説のページにアクセスし、「活動休止のお知らせ」のブログを書いた。私はまず『無名』を終わらせた。
昨日買ってきてもらった新しいキャンパスノートに、弱々しい文字で変わらずに綴る。きっとこれが最後の小説だ。最後くらいは自分の経験を小説にしようとプロットを考える。全力で生きた3年、終わりまでの3年。でも私は楽しかったな。もし執筆の途中で息絶えたとしても、後悔はない。後悔なんてないはずだ。後悔しないように生きてきたんだ。だから後悔なんて···。
不意にぽろぽろと大粒の涙が溢れ出す。
君は今頃、どうしているだろう。何をしているだろう。私の居ない空席を見て私を思い出してくれているだろうか。君が、君だけが私の後悔だ。小説を執筆してきた私だからこその答えもある。結ばれるだけが純愛じゃないこと。私が彼を想い続けてこそ、私だけの純愛が完結する。だからこの気持ちは、真っ白な純愛は私の胸で抱きしめて私と一緒に消えよう。だからあと半年だけ、片想いでいることを許して欲しい。
ブブッとスマホが震えて、さっきのブログに付いたコメントを知らせる。

「活動休止って···なんだよ。人には夢を叶える姿が見たかったなんて言って、僕の気持ちは置いてきぼりか?僕だって君の夢を見たいんだ。それに僕の夢には君がいる。君とまた一緒に。僕は役者になるから、君は小説家になってくれよ。梛」

やっぱり、凪良葵大は私の心を乱す。
あぁ、私をずっと見ていてくれたのは彼だったんだ。
「ありがとう···いつも、いつも。そして本当のことを言えなくてごめんね」
返信は敢えて書かないでおこう。
私の最後の小説は『橋口里佳』が書く最初で最後の小説だ。君の為に、綴る物語。

今年最初の蝉の鳴き声を聞いた。
1日に文字を書ける時間も限られてきている。
無機質なベットの上で懸命に1分1秒を噛み締めている。今を生きている。新薬もたくさん試したし、鼻から酸素を取り込みながら私はまだ生きている。私の死生観はずいぶんと上書きされた。それは元気だった頃の自分でしか想像できなかった死生観だったからだ。いざ、死を前にするとやっぱり怖い。心の準備はちゃんと出来ていると思っていた。終わりへのカウントダウンに近づいていると同時に、明日急に病気が治るんじゃないかと思い込むようにもなった。何度も何度も、波のように押し寄せる不安と恐怖を、そうでも思わないと耐えられないのだ。死への階段をゆっくりと登る覚悟を横目に、生き続けたいと願う欲がこっちを見ながら横を下りていく。余命3年の中、私は自問自答し続けた。もっと生きたいと思って死ぬのか、死ぬなら仕方ない死んでもいいと思いながら死ぬのか。選ぶのは1つ。誰でも深く悩むだろう。どっちか楽か?まだ私に答えは出せていない。
食事制限が増えた結果、食事に楽しさも見出せないし好きな物はもう何も食べれない。仕方なく、食べる。ごめんね、我儘で。
「今日はよく食べたね」
「仕方ないじゃん。私、これしか食べれないんだから。これを食べるしかないんだよ」
私が不機嫌そうに言い返すと、母は悲しそうな顔をする。私にそんな顔を見られないように気を使ってコップを洗いに行く後ろ姿に、またごめんねって思う。本当は生きるために食べないといけないって分かってるんだ。だけど、不健康に痩せてしまった自分の顔を見る度に悲しくなる。ペンをもつ腕も筋肉が落ちて手首ほどの太さしか残ってない。もし恋人なんて作ってしまったら、こんな私の最後の姿を思い出になんてして欲しくないから、それは良かったと思っている。
死ぬほうは簡単。考えたところでどうせ、もうどうにもならない。はっきり言ってしまえば、運命に身を任せてその時がきたら死ぬだけなんだから。辛いのは残された人だ。だから皆はお葬式で泣くんだと、私は初めて理解した。私がいなくなって、残された母や、紗希、友達たちは何て思うだろう。もう会ってサヨウナラと言えない人もいる。悲しみとか苦痛を背負って私がいない残りの人生を歩むわけだ。君は、なんて思うだろう?
「今になって気がつくなんて。私は子供だったんだね。もう1度やり直せたらな」
このとき、私は自分が余命3年という運命を全く受け入れられていないのだと気付いた。感情を押し殺しながらここまできて、もっと生きたくなって、もっともっと生きたくて、それでも死ぬ。全部投げ出して消えてしまいたいって矛盾。今日寝て起きたら、あの日···そうだ、あの春に戻って「ただの風邪でよかったね」なんて朝起きて、可愛い制服を着て入学式に行く。そんな夢を心底願っている。

桜紅葉の優しい色が、窓の外の景色に映える頃。
私はひとつ、母に我儘を言った。
それは行きたい場所に連れて行って欲しい事。
「なんでそんな所に?」
不思議そうに尋ねる母は、私の答えにまた首を傾げた。
調子のいい日を見計らって、携帯用酸素ボンベのカートを引きずりながら私はあの場所を再訪した。なるべく人の少ない時間を選んで10時からのチケットを予約した。エレベーターに乗り込むと、やっぱり君のことを思い出す。
「じゃあ1年後死にますって言われたら?」
「行きたいところに行って、やりたい事して···」
私は思わず、微笑みを浮かべる。あの日、君が言ったのは強ち間違いじゃなかったかも。私も結局そうしたから。私の3年間みたいなスピードでエレベーターは目的地に到着した。ゆっくりと窓際に近づきあの日と同じ場所に立った。
君の住んでる家はどれだろう。
君と通った学校はどこだろう。
君が将来住む家は···。
君は、次は誰とここに来るんだろう。
後悔はだめ。
私がここに来た理由。
私は気持ちをここに捨てに来たんだ。
初恋を終わらせに来たんだ。
私はカプセルトイでひとつリボンを買った。
「サヨウナラ、凪良君」
その赤いリボンに私は初恋を捨てた。

その日の夜に、私は小説を書きあげた。
達成感と喪失感がぐっと込み上げ、いよいよ私は生きる目的を失ってしまった。もう後悔はない。あとはタイトルを決めるだけ。これが難しい。執筆に体力を使い果たした私は誘われるように眠ってしまった。

息が苦しい。胸が締め付けられる。

静寂の中で、私は一瞬死んでしまったのかと考えた。全く音が聞こえない無音の世界。瞼が重たくて開かないけど辛うじて光を感じる。極度の睡魔に襲われているだけかもしれないと、そう思い込む。夢と現実を行き来する感覚。少し手を動かしてみると、ナースコールのボタンが小指に触れた。まだ意識はある。
「僕は、ずっと君の傍にいたいよ」
君の声が聞こえた気がした。あぁ、今日思い出を捨ててきたのに。きっぱりと捨てきれないのが私らしい。欲張りで我儘で、自分勝手で君を振り回してきたから。怒ってるかな?でもよかった。寂しい世界で君の声は安心する。もう一度、抱きしめてくれないかな。やっぱり男の子だったね。力強くて、大きくて、安心する。舞台の上で抱きしめてくれたこと最後まで忘れられないんだな。最後まで捨てられないんだな。最後まで、私には君だ。明日起きたら返事を書こう。君がくれたブログのメッセージに。遅くなったけど、ちゃんとお礼を伝えよう。
それから小説のタイトルは···。

ここから先の未来を、私は知らない。
『まだ、名前の無い物語。』

それから···。
橋口里佳が亡くなったと聞いたのは、文化祭の少し前の事だった。僕はその急な知らせに目の前が真っ暗になった。僕の知らない彼女は、ずっと病気と闘っていて余命3年と知っていたそうだ。繋がりかけていた違和感の正体がやっと分かった。なんで、あの小説が書けたのか。そして、舞台の上で「生きたい」という台詞を敢えて「生きたかった」と言ったのか。もしもそれが彼女の本心だとしたら、気がついてやれなかった僕は大馬鹿だ。彼女の胸の中にだって叫びたい言葉があったはずなのに。僕だけがいつも彼女に伝えるばかりで、聞いてあげることが出来なかった。

「紗希は知ってたの?」
「持病があるってのは聞いてた···だけど私知らなくて」
「ごめん」
「ううん、LINEも途切れ途切れで···電話した時も元気だったんだよ?それが急にこんな」
「余命3年なんて···」
「なんで言ってくれなかったのよ。知ってたら私はもっと里佳と一緒に···」
「僕もだよ。もっと橋口さんにしてあげれた事がある」
「里佳のバカ。寂しいじゃないか···」
告別式に向かう途中、紗希は何度も道端に泣き崩れた。誰にも、親友にさえも、先の事を言わずに明るく振舞っていたのは彼女らしい。
写真の彼女はやっぱり可愛らしく、どこか得意げな顔で微笑んでいた。それでも、最後に会った彼女はすっかり痩せてしまって、僕は堪らずに涙を堪えることが出来なかった。少しだけ開いた口元に、君が言った言葉が脳裏に蘇る。

『凪良君は命懸けでやりたいことやっても、死にはしないんだから。今やらなきゃ後悔してからは遅いよ?』
「ごめん、死ぬなんて大袈裟だなんて言って、ごめん」

『先のことは分からない。だけど死んでしまうって事実は変わらず先に待ってる。でも時間は平等に過ぎる。この瞬間だって生きたいと思う人もいれば死にたいって思う人もいる。人生の不条理と捉えるのか、希望を見出すかは自分次第。ねぇ凪良君はどうする?』
「君は知ってたんだろ。君は生きたかったんだろ?だったら教えてくれよ。僕は君を、何があっても···」

『ひとつだけ、一言だけわがままを言えるなら、最後に君の気持ちを聞かせて欲しい。ねぇ、君は夢を叶えてくれる?』
「あぁ、君との約束だ。ちゃんと叶えるよ」

「ありがとう。僕は君に出会えてよかった。君のおかげで僕は未来を見ることが出来たよ」
僕は彼女に最後の言葉を伝えた。
僕は彼女の夢を託されたのかもしれない。

帰り際、紗希は何冊か抱えたキャンパスノートの1つを僕に手渡した。彼女がずっと書いていた小説のノートだ。1番新しい、ピンク色のノートだった。
「これ、里佳から私への餞別だって。手紙と一緒に置いてあったって里佳のお母さんから貰ったの」
「橋口さんらしいね」
「これは葵大に。ここでは読まない方がいいよ。きっと泣いちゃうから。後でひとりで読んで」
そう言った紗希の目は真っ赤に腫れていた。
「分かった。大事に読むよ」
僕はノートをカバンに仕舞い、ある場所へ向かった。
そこに行かなければと、衝動に駆られた。

チケットを買って、タイムマシンに乗り込む。
出来るなら過去に行きたいけど、向かうのはほんの先の未来だ。天国へ行った彼女もこんな感じなのだろうか。
50秒間続く浮遊感に、そんな事を想った。
彼女と見た景色の前に立ち、僕の恋を終わらせようとしたんだ。
僕は誘われるようにノートを開いた。
ノートに書かれていたそれは、余命3年の少女が懸命に生きた恋愛小説だった。
少し弱々しい文字で書かれた小説を読んでいく。
タイトルは何度も消した跡があり、空白のまま。
その答えは彼女しか知らない。
「なんだよ、最後に傑作を書いて。大事なタイトルくらいちゃんと···」
暫く空白のページが続き、最後の1枚にまた文字が現れた。


凪良葵大様

こんな形で残してしまった私を許してください。

私は、凪良君が生きる意味だった。
君が私の書いた小説を演じてくれて幸せだった。
君のために小説を書こうと思った。
最後まで、私の心に残ったのは君だった。

友達なんて誤魔化してごめんね。
私は、君が好きだったよ。
大好きだった。
こんなこと言ったら、君は困っちゃうね。
君にこの作品を残します。
私の最初で最後の贈り物。
いつか君が演じて、この作品でもう一度。
私と一緒に。


ヒラヒラと無数のリボンが揺れている。
虹のようで、まるで君が微笑んでいるように。
彼女がいた辺りの黄色いリボンを僕は探した。
『君はいい役者になれる。だから、その夢に生きてほしい。諦めないで、信じてるから。里佳』
そしてもう一つ。
そのリボンの隣に赤いリボンが結ばれている。
相変わらず綺麗な文字で、見慣れた君の文字で。
『サヨウナラ。私の好きな人。生まれ変わっても、また会えますように。里佳』
「なんだよ。サヨナラくらい、ちゃんと言ってよ。寂しいじゃんか」
僕は涙が止まらなかった。
そして僕の初恋は掛け替えのないものになった。
忘れることは難しいだろう。
僕もカプセルトイのハンドルを回し、ひとつ買う。

『さよなら。僕の好きな人。また会おう。葵大』

僕はその赤いリボンを、君の気持ちにギュッと結んだ。
──10年後。

呼び出されたカフェで、コーヒーを飲む。ミルクも砂糖も要らないなんて、すっかり僕も大人になった。勢いよく扉を開けて紗希が店に入ってくる。相変わらず騒がしいやつだ。
「葵大、久しぶり!最後に会ったのいつだっけ?」
「紗希も。変わらないな」
「葵大こそ大活躍ね!夢叶えてさ」
「まだまだ、これからだよ」
僕はあれから役者の道に進んだ。憧れた俳優の所属する事務所に手紙を送って、その俳優の付き人 になり経験を積ませてもらった。役者のイロハを学び、ようやく芽が出てきた所だ。最近では舞台だけじゃなく、ドラマや映画なんかにも出させてもらってる。橋口里佳との約束だから、僕は全てをかけて役者をやろうと決心した。
「この前の舞台、こっそり見に行ったんだよ?変わらないね、楽しそうに演じるのはやっぱり葵大の良さだよ」
「なんだよ、言ってくれたら招待したのにさ。それで?紗希は今なにやってんの?」
「実は今日はその話をしに来たの」
「え?何の話し?」
「私ね、今脚本家になったの。今度のドラマの企画に出そうと思ってる作品がこれ。この中の物語」
それは見覚えのあるノートだった。机の上に数冊並んだキャンパスノート。
「それは···」
「うん。里佳の小説。脚本に起こして採用されたら、私は葵大を主役に推したいと思ってる。脚本家の意見がどこまで通るか分かんないけど、監督を説得しようって思ってる。だってさ···」
「彼女の夢だから···?」
「うん。ふたりの夢なの。私が里佳の小説を脚本にしてドラマを撮るんだって」
「僕も約束した。彼女の作品を演じるって」
「じゃあ絶対だ。絶対にやらなきゃ。私たち3人でやることに意味がある」
「僕も、もっと有名な役者になるよ。誰もが納得できるようにさ。この役は凪良葵大じゃなきゃダメだって言わせるよ」
「それは頼もしいね」
紗希は、メロンソーダを注文する。
「あのさ、今だから聞くんだけどさ、葵大って里佳の事好きだった?」
「ちょっ···なんだよ急に」
僕は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。
「え?だってほら、もう聞いてもいいかなって」
紗希は僕の左手に光る指輪を指さして言った。
「そうだね、僕の初恋だったよ。大切な思い出だ。僕は橋口さんのおかげで純愛を知った。命の大切さと儚さを知った。生きる意味を教えてもらった。だから僕は残りの人生を精一杯に生きる。橋口さんの分までって言ったらありがた迷惑って嫌な顔されそうだけど」
紗希は穏やかな顔で頷く。
「今の彼女を大切に愛するよ。結婚しようと思ってるんだ。彼女はもっと売れてからって言うんだけどな」
「なによ、その顔···惚気けちゃって。私にもいい男、紹介してくれてもいいんだけど?」
紗希は拗ねたように、メロンソーダをごくりと飲む。
「そうだ、まだ企画って間に合うの?橋口さんの書いた最後の小説があるんだけど」
「え!知らない!どんな話?タイトルは?」

僕は優しく、こう言った。
「まだ、名前の無い物語」

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:38

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

青い月だけが、知っていた。
りた。/著

総文字数/10,000

青春・恋愛1ページ

本棚に入れる
表紙を見る
その花は、空の青さを知らなかった。
りた。/著

総文字数/27,663

青春・恋愛1ページ

第57回キャラクター短編小説コンテスト「綺麗ごとじゃない青春」エントリー中
本棚に入れる
表紙を見る
君と見つけた、透明な答え。
りた。/著

総文字数/30,381

青春・恋愛1ページ

第56回キャラクター短編小説コンテスト「大号泣できる10代向け青春恋愛【余命は禁止!】」エントリー中
本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア