橋口里佳が学校を休んで3日になる。僕は気が気ではなかった。余計なことを言って彼女を傷つけてしまったのではないかと、主のいない机を見つめてそう思った。彼女のノートを拾った日の僕はどうかしてた。恋焦がれた憧れの人に出会った様な態度をとったもんだから、彼女からしたら戸惑っただろう。僕はすっかり浮かれていたし、好きな事になると周りが見えなくなるのは僕の悪い癖だ。弁明と謝罪をしたくても、連絡先を知らない。Web小説のサイトでメッセージしようかとも考えたが、彼女の作品にプライベートで踏み込むのは倫理観に欠ける。頭を抱えて机に突っ伏していると、ポンポンと2度ほど肩を叩かれた。紗希が小さく笑って立っていた。
「どした?元気ないじゃん」
「なんだよ、紗希か···」
僕は面倒くさそうに答える。
紗希は里佳の席に座ると体を寄せて小声で話し始めた。
「ごめん、例の話の事なんだけどさ···やっぱり」
「もう遅い···」
「え?」
「もう知っちゃったんだ。あれを書いたのが誰か。なんて言うか事故で···」
「どういう事よ?」
僕は事の顛末をざっくりと紗希に話した。『無名』の事は、万が一を考えて秘密にした。もうこれ以上、彼女に墓穴を掘りたくないからだ。偶然拾った彼女のノートに『月が、堕ちる。』の小説が書かれていてそれで知った。それだけ紗希には説明をした。
「そっか。でも里佳、何も言ってなかったな···まっ、大丈夫よ。それが原因で学校休んでるんじゃないから。だから安心して」
休んでる原因は?と気になったが、これも聞くことで僕の状況が悪くなるのを恐れて、言葉を飲んだ。僕はできたら彼女と仲良くなりたいと思っている。彼女と対等に話が出来て、許してくれるのなら小説のことを語り合いたい。それから、お礼も言いたい。
「なぁ変な相談をするけど、やっぱり勝手にノートを見たことを謝りたいんだ。紗希、仲を取り持ってくれないか?橋口さんとは仲いいだろ? 去年の文化祭も2人一緒にいたし」
紗希は目を丸くして驚いた顔をしたが、直ぐに含み笑いを浮かべ私に任せなさいと言わんばかりに頷き、僕の肩を強く叩いた。
「葵人も大人になったのね」
「勝手に変な妄想すんなよ?違うから。ただ橋口さんと友達になれたらいいなって。そんだけ」
「葵人と里佳に接点なんてあった?」
「だって、彼女の大事な作品を演じさせてもらうんだ。作品もだけど、やっぱ作者の心を大事にしたい。そんな役者でいたいんだ」
「へー···」
「なんだよ」
「まだ、夢は諦めてないんだなって思って」
「それは、まだ決めてない。目の前のことしか見えてないし、考えられないから」
「わかった。里佳に伝えとく」

その返事があったのは土曜日のこと。
休みで昼過ぎまで寝てしまった僕のスマホに、紗希から連絡が入っていた。
「明日、スカイツリーに集合!10時に待ち合わせ。駅の改札出たところね。予定大丈夫だよね?」
「なんでスカイツリー?」
僕が送ったメッセージにすぐに既読が付く。
「分かんない。里佳に葵人が脚本の事で聞きたいことがあるんだってって伝えたら、じゃあスカイツリーで会おうって」
「とりあえず、了解。ありがとな」
それで今日、言われた通り僕は指定された駅に向かった。まずは、この前のことをちゃんと謝る。それから、友達になってくださいって言うのは変か?ほんと親世代はスマホも携帯も無い時代で、きっとこんなやり取りをして仲を深めたと思うと頭が下がる。時代と共に便利になった裏側で、失われた人としての大事なものも多い気がする。世の中は効率化とか時短で時間を作ったはずなのに、人の歩みは何かに追われている。僕だってそうだ、頭の中をぐちゃぐちゃにしながら集合の30分前に駅に着いてしまった。とにかく、彼女との会話には紗希が助け舟を出してくれると信じよう。あとは小説のことに触れていいのか···。そんな考え事をしながら、家族連れや外国人観光客で賑わう改札を出て、人の多さに驚いた僕は隅っこに逃げた。どちらかと言えばインドア派な僕はこんな駅に滅多に来ない。近くにあった土産物屋を何となく物色してみるが、すぐに店員が寄ってきて、気まずくてまた隅に逃げる。
スマホがブブブッと震え、紗希からの着信を知らせた。
「もしもし、葵人?今どこ?」
「もう駅に着いたよ。そっちは?」
「よかった。里佳、もう着くみたいだからさ。ごめん、私今日は妹たちのお世話をすることになって、行けない!とりあえず、葵人頑張れ!」
「えっ···困る。おい、紗希、お前···」
電話の切れる音がポロンと虚しく耳に響いた。
また雑踏の音が僕を包む。ぽつんと佇む僕だけが音をひとつも立てずに微動だにしない。急に2人きりで会うことになったんだ。ろくにデートもしたことがない。ぽつんとこの場から動けないって言うより、足が竦むからって言った方が正確だ。正直、ビビっている。
一度、トイレに行って気持ちを落ち着かせよう。そう思って重たい足を一歩踏み出す。
「お待たせ。ってまだ20分も前だけど···」
ちょうど改札を出てきた橋口里佳と鉢会った。もう腹を決めるしかない。
「いや、僕が勝手に早く来ただけ。全然待ってない、ほんと」緊張のあまり早口言葉になる。
「じゃあ、行こっか」
「あっ、えっと···どこ、行こっか···?」
僕はつくづく馬鹿だ。良さげなカフェのひとつでも調べておくべきだった。紗希がいたら、僕らにお構い無しに自分の好きな店に入るだろうと、そんな算段だった。この状況、紗希に甘えすぎていた自分を少し恥じた。何を焦ってるんだ。別にデートでもないくせに。
「···舞台ではあんな堂々としてるのに」
彼女は僕を見て急に笑い出した。
「ごめん···僕、慣れてなくて···」
「私も、男の子と2人で出かけるなんて初めてだから」
「それと、ごめん。この前勝手に、その···ノートを」
「あー、もういいよ。大丈夫、大丈夫。落とした私も悪い。もう気にしてない!だけど秘密だよ?」
「あぁ、それはもちろん」
こないだの態度とは打って代わり、あっけらかんとしている彼女に、なんで学校を休んでたの?もう小説は書かないの?と聞いてしまいそうな気持ちをまた飲み込む。まだ聞けるような間柄じゃない。でも知りたいことは山ほどだ。新しいスマホを手にしても僕は説明書なんて見ずにすぐに触る。だって自分であれこれ発見した方が楽しいからだ。だけど、今日は橋口里佳の説明書があったらどんなに有難いことかと欲しがった。だって最短で君と仲良くなる方法を誰も教えてくれないから。
「じゃあ、目的地に行こうか。いちばん高い場所に」
彼女はそう言って、真っ直ぐに上を指さした。
展望デッキへのチケットの列に並び、順番を待つ間も会話は無かった。無かったと言うより、僕があれこれ話題を考えているうちに言葉が喉に詰まって出なかっただけ。あれだけ台詞を覚えるのは得意なくせに、台詞を生み出すのは無能だ。周りのカップルは仲睦ましげに、こんな待ち時間ですら華やいでいる。何か喋らなきゃと焦る僕の隣の彼女は、上機嫌に鼻歌を歌っている。
「あのさ···」
「次のお客様!」
勇気を出した僕の声を遮り、チケットカウンターで係のお姉さんが僕らを呼んだ。チケットを買って、すぐに展望デッキまでのエレベーターに乗り込むと、まるでタイムマシンに乗った気分になり少しワクワクした。
「50秒で着くんだって」
「橋口さんは、ここ来たことあるの?」
「ううん。初めてよ。ちゃんと自分の目で見ときたくて。想像でしか無かったから」
緊張もゆっくりと昇降する。
「想像って···?」
徐々にエレベーターはスピードを上げ、体だけ置いていかれる感覚になる。浮遊感と、少し耳が詰まる感じ。心地いいとは言えない感覚に顔を顰めた。
「わぁ!早い早い」
無邪気に笑う彼女につい、見惚れる。
彼女は授業中、大きな眼鏡をかけて髪を2つに結えている。だけど今日は眼鏡を外し、髪はポニーテールに結えてずいぶんと印象が違う。メイクをしているからか綺麗な二重瞼に長い睫毛と涙ぼくろが際立つ。そしてオフショルダーのワンピースで肩まで見せてる。人気のある彼女の、そんなギャップを見れた事をクラスのヤツに自慢したら袋叩きにあいそうだ。それに比べて僕は大きめのパーカーにスキニーパンツ。なんて無難で在り来りな格好できてしまったのか。
「ねぇ、前の2人お似合いのカップルだね···」
「美男美女で憧れる」
後ろの女性達からそんな声が聞こえ、何となく気まずくなって大きく咳払いをした。僕は違うが、彼女が本当に可愛らしいのは認める。
エレベーターの扉が開き、飛び込んできた世界は圧巻だった。東京って街が小さく見える。
「うわー···僕の家見えるかな?」
ガラスに張り付き、自分の家の方を凝視するそんな僕をクスクスと笑い「小学生みたい」と彼女は言った。
「橋口さんは大人みたいだ。今日はずいぶんと印象が違うからびっくりした」
「だってあの小説の事が聞きたかったんでしょ?それに凪良君が主役をやるって紗希に聞いたから。だからヒロインの子のイメージを頑張って作ってきたんだよ」
「嘘!?···ありがとう。じゃあ、この格好の僕は主人公になりきれて···」
「···ないね」
「無いよな···なんも考えてなかった···違う。なんも考えてなかったわけじゃない。ちゃんと考えてる。うん」
「なんか不思議な感じ。学校と全然イメージ違う、凪良君ってそんなキャラだった?もっとクールな人かと」
「それはこっちのセリフだ。役作りを抜きにしたとしても今日の橋口さんは···」
「それで?私に何が聞きたかったの?」
彼女は僕の言葉を遮るように質問してきた。僕は急かされるように答えた。
「えっと、僕には突然、余命宣告された主人公の気持ちがわからなくて···僕はどう演じればいいのか悩んでるんだ。だから作者の想いを聞いて、ちゃんと演じたいと思ってる。だからそれを聞きたい」
彼女は少し困った顔をして、こう質問をした。
「じゃあ、明日死にます、って急に言われたら凪良君はどうする?」
「食べたいものを食べて···それから」
「じゃあ1年後死にますって言われたら?」
「行きたいところに行くだろ?行ってやりたい事して···あとは···」
「3年後だったら?」
「3年後?···3年か···」
「先のことは分からない。だけど死んでしまうって事実は変わらず先に待ってる。でも時間は平等に過ぎる。この瞬間だって生きたいと思う人もいれば死にたいって思う人もいる。人生の不条理と捉えるのか、希望を見出すかは自分次第。ねぇ凪良君はどうする?」
「僕は···」
正直何を聞かれているか意味がわからなかった。だけど真剣に話す彼女の目を見て、生半可な回答は失礼だと思った。
「僕は、後悔のない人生を送りたい」
「後悔って?」
「やり残したことがないようにすること···?」
「じゃあ、それは何?」
「僕の後悔は···」
頭ではハッキリと分かっている。僕は役者になりたい。できれば一生続けたい···だけど、この問いかけに一生なんてない。3年だ。じゃあどうする?急に今まで生きてきた人生の後悔が蘇る。僕の生きてきた17年。役者に憧れたのは12年くらいか···あぁ、時間が惜しい。なんて無駄なことをしていたんだろう。どうしたって後悔が残るじゃないか。後ろを振り返ってはだめなんだ。ただ真っ直ぐに未来を見るべきなんだ。
「ごめん。後悔はもう置いていく。後悔は捨てるよ。だから残りの未来を僕は全力で生きる。僕は役者になりたいんだ。だからその最短の道を走り抜ける」
「いい答えだね」
「橋口さんは、どうする?3年。あと3年の命を」
「私は···そうね。今で十分。十分幸せだから」
「なんだよ、僕だけ恥ずかしいじゃないか」
「ごめんね。どう?主人公の気持ちは理解出来た?」
「なんとなく···少しだけ」
「私はどんな状況でも、主人公には前を向いて欲しい。僅かな希望の未来を見て欲しい。そう願ってる」
そう言って、彼女は寂しそうに笑った。

──僕は、あの時の彼女になぜあんなことを聞いてしまったのだろうと後悔した。知らなかったんだ。君が抱えている運命の大きさを。君が抱えていた生きる意味を。そして、君のことを。
ねぇ、もう一度、余命3年を初めからやり直せたら。
もしやり直せたら···すぐ僕に知らせてくれ。
残された時間を一緒に走るからさ。君の隣で走りたいんだ。君の見ていた夢を、僕も見てみたいんだ。

ふたりで大きなガラス窓の前に立ち、眼下に広がる見慣れた世界を見つめた。確か物語のクライマックスだ。月が地球に堕ちる瞬間を、ふたりで街が見下ろせる高台の展望台から見つめるシーンがある。そうか、彼女はこの景色を見せるためにこの場所を指定したのかと理解した。大きいと思っていた東京タワーがこじんまりと見える。月なんて堕ちてきたら、空はどんな色になるんだろう。引力があるから僕らはさっきのエレベーターみたいに浮遊するのだろうか。やはり、彼女は隣で何も言わずにただ何かを見つめている。
「こんなに綺麗な景色が、もう見れなくなるんだね」
僕は瞬時に気がついた。これはあの作品のヒロインの台詞だ。彼女は僕を試しているのか?それに答えるように僕は次の台詞を呟いた。
「ねぇ、手を繋いでもいいかい?」
彼女はこくりと頷き、ゆっくりと左手を差し出した。細くしなやかな指は透けるような肌をしている。そっと触れて、優しく握る。君の温度が僕と交わっていく。
「ほら、さっきよりも月が大きく見える。もうすぐ···」
「ねぇ、いいことを考えよう。そうだ、もし願いが叶うなら君は何を願う?まだ間に合うかもしれない」
「そうね···。私の願いか。無理だよ。運命はもう決まってる」
「簡単に諦めるのかい?」
「私は生きたいよ。まだ生きていたい。こんな終わりなんて···」
「僕もだ。最後の時間まで君と一緒に生きる。だから傍にいる。好きな人と迎える最後だ。僕の人生は悪くない、いい人生だったよ」
繋いだ手がぎゅっと力を感じる。
恋に堕ちる瞬間なんて単純だ。
君に触れた時に、静電気みたいにパチンと心が弾けた。そして、僕の心に余韻として残る微小な電流。ドクンドクンと跳ねるように高鳴る胸の中は、君でいっぱいだ。
「僕は、ずっと君の傍にいたいよ」
「台詞、違うよ?」
「えっ···あれ、僕はなんて?」
彼女はするりと、僕の手から離れた。
「ちゃんと覚えるように!大事なシーンだからね」
「ごめん···じゃあもう一回」
「舞台にやり直しはないでしょ?残念でした」
そう言って彼女はいつもの調子に戻り、話題の透ける床を見つけると嬉しそうに駆けて行った。

「僕は、君が好きみたいだ」

──私は何かと察しがいいほうだ。
君の心が見えたから私は、咄嗟に逃げた。
この気持ちは隠し通さなきゃいけない。
私だけが、命と一緒に持っていくんだ。

「よかったら願い事を結んでいきませんか?」そんな声が耳に届いた。案内の女性が願いのスポットにもなっているモニュメントの前で手を小さく降っている。
「あれ、一緒にやらない?」
僕は彼女を誘ってみる。どうやら僕は子供っぽいものが好きみたいだ。さっきもカフェでメロンソーダを頼んでしまったし、アイスコーヒーを飲む大人っぽい彼女のことだから断られてしまうかもしれないけど、僕はどうしても彼女と一緒にやりたかった。理由は単純だけど、僕の願い事には彼女が必要だからだ。
「まぁ、いいか。いいよ」
渋々頷いた彼女と、近くのカプセルトイでリボンの入ったカプセルを購入する。僕は青い色で彼女は黄色いリボンだった。
「見ちゃうと叶わない気がするからお互いに見ないように!」
そう言って彼女は僕と距離をとって願いを書き始める。
僕も油性ペンを手に取り、丁寧に書いていく。
『僕は役者に。君は小説家に。また未来で共演しよう』
しっかりと文字を刻み、丁寧に結んだ。
彼女も僕に背中を向けて、リボンを結んでいる。
「じゃあ、行こうか」
くるりと背を向けた彼女はニッコリと笑う。
その愛くるしい笑顔を、僕はずっと忘れられずにいる。

──私の願いにふたりはいない。
だって未来に私はいないんだから。
だから君の夢を願うよ。
ありがとう、夢を諦めないでくれて。