手紙をください、とあなたは言った。
 遠い国にいるときは、したためたそれを飛ぶ鳥に託せば良いのだ、とも。

 ――ああ、面倒なことを言う。そう思った。

『あなたが、私の忘れ物をそのたびに届けてくれるならそうしましょう。あなたがそれを面倒だと思わないなら、私も、そのたびに幾度でもしたためましょう』

 そう返したら、あなたは面倒そうに顔をしかめた。
 だから、私は笑ってあなたの傍を去った。

 あなたは私の特別ではなかった。
 私もあなたの特別にはなれなかった。
 ただ、それだけの話。

〈了〉
 雨に濡れ、艶やかに咲き誇る紫陽花の庭を眺め歩きながら、この花のどの色が好きかと訊かれ、私は白が良いと申し上げました。
 目を細めたあなたが、なぜ、と重ねて問うたから、どの宝石よりもきらびやかで、それでいて無垢でしょう、と、私は口を緩めてみせたのです。

 先を歩くあなたを追う間、鮮やかな色合いの中にぽっかり浮いた、萎れたひと株が目に留まりました。
 桜と違って散ることを知らず、しがみつくように残る茶色の花びらを、あなたはきっと私に――あるいは私の、すっかりと色を欠いてしまった白髪に重ねたのでしょう。

 傘からぽたりと雨雫が垂れ落ち、冷たいそれが私の肌を濡らします。
 元より冷えたあなたの肌も、今、この雨に濡れてなおのこと冷えているのでしょうか。
 私には知る(よし)もございません。

 凍えた肌を誰にも温めてもらえないのは、私を置いていく、あなた自身の傲慢な選択ゆえ。

 ……かわいそうに。
 白い紫陽花が茶に変わりゆき、やがて萎れていくさまから、あなたは目を逸らすべきではなかった。

〈了〉
『ねぇ、蛍石って見たことある?』
『ありません』

 ――それはどんな石なのですか。

『綺麗な石よ。流れる水みたいにキラキラ光って、なのに夕焼けみたいにも見えるの』
『意味が分かりません』

 ――ああ、きっと笑うあなたの瞳によく似ているのでしょうね。

『あなたにも見せてあげたいわ。本当に綺麗なのよ』
『私には必要ありません』

 ――見てみたい。叶うなら、あなたと一緒に。

 振り返れば、あなたには嘘ばかりついていた。来る日も来る日も、頑なに。
 あなたはそんな私にいつも笑い返していたけれど、いっそ、あなたも私に嘘をついてくれれば良かったのだ。
 例えば今、その窮屈そうな棺の中に横たわっていることを、嘘だと言いながら笑って起き上がってくれたら。

 そうしてくれたなら、私は、今度こそあなたをこの両腕で抱き留めてみせるのに。

 今にも目を覚ましそうなほど、あなたの容れ物だったそれは瑞々しさを保っていて、まるで精巧に模られた人形のようだ。そのことが余計に私を追い詰め、居た堪れなくする。
 私に一度も嘘をついたことのないあなたは、もうその目を開かない。あなたの語る美しい石、見知らぬそれに私はあなたの瞳を何度も重ねては憧憬を深め、けれどあなたは二度とその瞳に私を映しなどしない。

『お嬢様のお気持ちには応えられません』

 いつかの自分の声が、耳の奥を脳髄ごと刺し貫く。
 あれも嘘。それも嘘。どれもこれも、あなたに告げたすべてが偽り。

 数多の花に埋もれたあなたの顔を見つめる。自害の痕跡は見えない。入念に隠されているのだろうと察した。
 あの日あなたが語って聞かせてくれた蛍石、その本当の輝きを私に伝えることなく、あなたは私を置いて旅立ってしまった後。

「……お嬢様」

 呼びかけたら目を覚ましてくれるのでは――甘ったれた夢が、儚く露と消える。

 ああ、と声が零れた。
 私は、もっと早くあなたへの嘘を捨てるべきだったのだ。
 私の蛍石が、知らないままのその輝きが、こうして永遠に喪われてしまう前に。

〈了〉
 写真は、十年前のものを選んだ。
 どうしたって僕が見繕うしかない。満開の桜を背に満面の笑みを浮かべた一枚を、僕はまるであなたへの当てつけとばかりに選び取り、葬儀社の担当スタッフへ手渡した。

 あの頃のあなたはよく笑った。些細なことでも、あるいは僕が少々つまらないと思ってしまうことでも、それは楽しそうに。
 あなたが笑わなくなったのはいつからか。僕はそれすら思い出せないから、きっと、あなたは僕の手をすり抜けるように、僕に打ち明けることも助けを求めることもなくその選択をしたのだ。

 細首にかかる縄紐の結び目が、妙に鮮明に目を焼いた。
 それから、床から浮いた足の甲が、だらりと爪先を下向けているさまも。

 僕にとっては突然の。
 あなたにとっては、多分、計画的な。

 仕上がった遺影は、吐き気がしてくるくらいに素晴らしい出来栄えだった。
 遺影のあなたは笑っている。十年前の写真であるにもかかわらず、果てのない暗闇をやっと抜け出せた喜びに、今まさに飛び上がっているかのような顔だ。
 写真の中に閉じ込められたあなたの顔を、葬儀社のスタッフが心配そうに声をかけてくるまで、僕はただただ穴が空くほどに見つめ続け、けれどどうしたところで泣くことすらも許されていない気にさせられるだけだ。

 あなたがそれほどの暗闇の中で藻掻いていたことなど、結局、僕はあなたが生きているうちは少しも理解できなかった。
 だから今、こうして、あなたが抜け出せたその暗闇に、代わりのごとく突き落とされてしまっている。

 今度は、僕の番なのだろう。

 知らなかった。
 果てのない暗闇には、絶望さえも残っていない。
 隣の花束が不意に揺れ、僕は笑うあなたから目を離した。

〈了〉
 僕らが初めて出会った日のことを、君は覚えてくれているだろうか。
 尋ねれば、君はきっと満面の笑みを浮かべて「もちろん」と答えてくれるに違いなかった。君はとても優しく、そして仕事熱心な人だから。

 もっとも、尋ねることなんて、僕には絶対にできないけれど。

「おはよう、ライカ」

 考えごとに耽っていた頭が、ふと現実に引き戻される。
 穏やかな声――君の声。瞼を開くと、澄んだ君の瞳が眼前に覗いた。

 ……おはよう、美しい人。
 キュウ、と音を出してみせると、君は今日も晴れやかに笑う。
 その笑みを見るたび、身体の芯が軋むように震えては痛む。

 君たちと同じ言葉で声を発せるなら。
 あるいは、君たちが使っている……〝文字〟だったか、あれを綴れたなら。
 何度も夢を見た。そのたび、諦念とともに憧憬が深まるばかりだった。

 君だけが僕の生きる理由だ。水族館というちっぽけな箱の中で、本能を打ち捨ててでも生を繋ぎたいと願う理由。
 君への憧憬が、故郷への憧憬を上回って久しい。このままここで暮らし続け、人間たちに愛想を振り撒きながら、いずれ朽ちていくのも悪くない。最期に君に看取ってもらえるなら、なおさら。

 朝の世話を終えて離れていく君の背を、じっと見つめる。
 あの背を包み込む腕があったなら、と、もう何度想像したか分からない。
 人になりたいわけではない。君に、僕の同胞になってほしいわけでも……それでも。

 今日も、僕はただ、狭苦しいこの箱の中をひたすらに泳ぎ続けるしかない。
 日々堆積を繰り返し、いつかその重みで窒息してしまうのではと不安になるほどまでに募った想いを、ごまかしては蹴散らすために。

〈了〉
 いろんなことを考えて、今日もまた、夜になる。
 考えて考えて、すぐに答えの出るものは早々に消え失せて、いくら考えても答えの出ないものばかりが取り残されて――それらもまた、夜を濡らす雨に溶けて、遅かれ早かれ眠りに就く。

 雨は寂しい。夜の雨は、なおさら。
 どこにも行けない、なににもなれない、そういうわたしを余計に際立たせてしまう。
 それでも、いつまで経っても答えの出ないことを眠らせてくれるから、どうしたって嫌いになれない。

 おやすみ、と窓の外の雨音に呟いてから、わたしは静かに瞼を下ろす。
 今日のわたしを、そうして閉じる。

〈了〉
 ベランダの洗濯物を取り込んでいると、ふと眼下に目が留まった。
 赤と黒のランドセルをそれぞれ背負った子供がふたり。赤が男の子、黒が女の子だ。
 女の子が背負っている黒のランドセルの縁には、薄いピンクの模様が入っている。今の時代のランドセルはおしゃれだなあと、物干し竿からハンガーを外しながら思う。

 ふたりの手がきゅっと繋がれる。女の子が、俯き気味の男の子の手を引いているようだ。
 思わず、頬が緩んだ。

『泣いてばっかいないで、たまには言い返してやりなよ!』

 夕焼け空の下、歩みを進めていくふたつの影を見つめていたら、不意に懐かしい記憶が巡った。
 一軒跨いだ隣の家の、気弱で小柄で細っちょの男の子。引っ込み思案な彼は、周囲のからかいの的になりがちで、いつも私が間に入って守った。ひとつ年下の子を守るというのは、当時の私にとって、少し得意になれる誇らしいできごとだった。
 私のランドセルは赤で、彼のランドセルは黒だった。眼下の子供たちの背中に覗くそれらは、かつて私たちが背負っていたものとは真逆の色合いだ。けれど、なんとなく過去の自分と彼が重なって見え、懐かしさに胸が温かくなる。

 君は、あの頃のことを、今も覚えているだろうか。

「ただいま」

 網戸だけ閉めたベランダまで聞こえてきたのは、ちょうど帰宅したらしき夫の声だ。
 おかえり、とやや大きめの声をかけた後、洗濯物などそっちのけで、私は夫へ手招きしてみせた。

 だいぶ小さくなっているものの、ふたりの背中はまだ見えた。ゆっくりと歩く男の子に、女の子が寄り添って進んでいるからだろう。
 向かいの家の窓を西日が派手に照らしつける中、私より頭ひとつ分以上も長身の夫が、なんだなんだとベランダのサンダルに足をつっかける。

「見える? 可愛いよね、……なんか懐かしくて」

 私より頭ひとつ分以上小さかった彼は、中学生の間に私の身長を越した。
 ことあるごとに涙を浮かべていた、泣き虫の幼馴染――微かに当時の面影を残す夫の顔が、ふわりと綻んだ。

「懐かしいな。あの頃は君に頼りきりだった」

 苦笑いを浮かべる夫と目が合い、つい噴き出してしまう。
 子供たちの背中はだいぶ小さくなっていて、もうランドセルくらいしか判別できないほどなのに、まだ手を繋いでいる様子はどうしてかきちんと見える。
 笑みが零れた途端、つられて笑ったらしい夫が、子供たちを真似るようにして私の指に自分のそれを絡めた。

 あの頃とは違う、大きな手のひらと長い指……人生って不思議だ。
 あの頃は想像さえできなかった未来が、今、ここにある。

〈了〉
 畳部屋は苦手だ。
 その癖、築五十年のボロアパートから、僕はいまだに引っ越せずじまいでどろどろと生きている。

 カーテンの隙間から差し込んでくる日の光に、堪らず目を細めた。
 ちっぽけな和室の中、場違いに等しい桜色の花柄カーテンは、君がどうしてもこれがいいと言い張って選んだものだ。些細な我侭を、当時は少なからず鬱陶しく思っていたはずなのに、今では愛おしくさえ思えてくるから不思議だ。

 花柄のカーテンも、この畳部屋も、僕も、全部要らなくなった。それなのに。

 もう少しだけここに留まっていたい。留まらせてほしい。
 この部屋に。あるいは、君がいなくなった袋小路に心のどこかで安堵を覚えている、前にも後ろにも進めない今の自分に。

 だから、今日も僕は、朝から君の面影と酒に溺れたきり。
 自分が醸しているアルコールの強烈な匂いに、ふ、と自虐の笑みが零れた。

〈了〉
 束の間の休息は、あっさりと終わりを告げた。
 青信号の、青とも緑ともつかない色が目に刺さる。いっそ赤から永遠に変わらなければいいのにと思った瞬間、つま先がどろりと溶けたような錯覚に襲われてひやりとした。

 信号が変われば進まなければならない。
 進め。進め。進め。〝進んでも良い〟なんて嘘だった。〝進め〟と言っている。信号も、あの人も、どの人も、皆。
 息が詰まる。足に鉛が詰まる。詰まって詰まって、もう駄目なのではないかと何度も思って、それでも信号は青になる。

 そのせいで、また前に進まなければならなくなる。

 振り向くことはできればしたくないけれど、前を向き続けているのも息苦しい。
 人の行き交う交差点の隅に立ち尽くしたまま、結局、私は青信号がチカチカと点滅するさまを見届けた。
 赤に変わった信号は、再び私に数十秒の休息を――いや、停滞を連れてくる。

 深く息を吐き出しながら、私は信号そのものから露骨に目を逸らした。
 嘘の休息ごと、この停滞は私の中に延々と降り積もり続け、いずれは私を本当の鉛にしてしまうのかもしれない。

〈了〉