月が見たい、と気紛れを零した。
 月を愛でる趣味なんて別にないけれど。

 あなたは、仕方がないな、今夜だけだよ、と内緒話をするように囁いた。
 あなたはそういうやり取りを好む。ふたりだけの秘密。僕たちだけの。内緒の。気障(きざ)だと思う。私みたいな人間を相手に、物好きだとも。

 ふたり並んで縁側から眺めた月は、それは見事な満月だった。
 あなたはきっと、今宵の月がそうだと知っていたから、私の無茶な希望に応じたのだろう。

 お酒があればいいのに、とぼやいてから、間違えたな、と思った。
 あなたはお酒を好まない。理由は知らない。単に弱いだけなのかもしれないし、嫌な思い出のひとつやふたつ、あるのかもしれない。

「ああ、気が利かなくてごめんね。持ってくれば良かった」
「ねぇ。どうしてお酒、飲まないの? 弱い? それとも嫌い?」
「嫌い……ではないけど、苦手かな」

 ――なんだか、感傷的になってしまうからね。

 独り言じみたあなたの声も言葉も、すぐさま夜闇に溶けて消える。あなたの瞳に映り込んでいた月明かりもまた、あなたが瞬きをした拍子に姿を消した。
 今夜の月は、昨日なにげなく見上げた月よりもずっと明るく見えて、私は思わずあなたの腕に触れた。

 あなたは、月を見ているように見えて、なにも見ていない。

「私は好きだよ」
「ん?」
「お酒」

 ――なんだか、感傷的になれるからね。

 意地の悪い言葉を選んでいる自覚はあった。
 それでも、あなたに意地悪できるという誘惑に抗いきれず、結局私はそれを口に乗せた。
 上っ面だけの言葉遊びは嫌いではない。嫌いではないけれど、虚しくはなる。素面の今は、なおさら。

「……君は」
「うん」
「意地悪だね」
「そうかな」
「そうだよ」

 言いながら、あなたは吐息だけで笑った。
 笑っているのに笑っていない。これからも、あなたは私にその顔を見せ続けるのだろう。今日のように静かな夜には、なおのこと。

 そうして、あなたの本心がどこにあるのか、私はまた簡単に見失ってしまう。

 私もあなたも、いつまでこんなことを繰り返していれば気が済むんだろう。
 溜息を噛み殺し、私は触れたきりのあなたの腕からそっと指を引き剥がす。けれど、今度は逆に手首を掴まれてしまった。

「……もう行くの? 部屋まで送るよ」
「いいって。すぐそこだよ、送り狼さん」
「やっぱり君は意地悪だ。そういうところも嫌いじゃないけど」
「私も狼さんのそういうところ、嫌いじゃないよ」
「それは光栄だね」

 軽口を叩き合いながら絡み合った指に、あなたの薄い唇が落ちてくる。
 あなたの唇はいつもひんやりとしていて、それこそが私の感傷を掻き立てる。お酒なんて比較にならないくらい鮮烈に。

 上っ面の言葉に上っ面の気持ちを乗せて、私たちは立ち上がる。
 期待をすれば、指の間をすり抜けて消えてしまうものなのだ。そういうものだと何度も失敗して学んだはずなのに、今夜も私は、あなたの本当に触れる機会を逃してしまった。

 悲しくなってくるほど明るかった満月は、濁った雲に覆われて、いつしか見えなくなっていた。

〈了〉