結局、返せずじまいで今日を迎えてしまった。

 一年前の冬の終わり、顔を俯けて泣いていた私がこの紺色のハンカチの存在に気づいたのは、持ち主が立ち去ってしまった後。
 部活が終わって誰もいなくなった部室の端の端で、傍の机にそっと置かれていたハンカチに縋りついて、私は声を殺しながらも気が済むまで涙を落とし続けた。紺色のハンカチが、絞れるほどびしょ濡れになってしまうくらいに。

 三年間の高校生活の中、学校で泣いたのは後にも先にもあのときだけだ。
 信頼していた顧問の先生が、病気を理由に間もなく退職すると知った日だった。

 きっとあなたは驚いただろう。
 他人には絶対に見せてこなかった醜態を晒した私に――いや、それが私の醜態であること自体、そもそも知らなかったかもしれない。同じ部活に所属しているというだけで、私たちの間には特に交流なんてなかったから。
 ひとつ学年が下のあなたはいわゆる幽霊部員で、部長である私はどう接すればいいのか分からなくて、やがて部員の間で『部長はあの子を嫌っている』と囁かれ始めた。その噂を否定しようにもうまくできないくらい、私とあなたの接点は本当になかった。

 私が深く顔を伏せていたからこそ、あなたはこれを貸してくれたのだと思う。最初から返してもらうつもりもなかったのかもしれない。
 だから私は、最後まで、このハンカチの持ち主があなただとは気づいていないふりをしなければならない。

 このハンカチを使っているあなたを見たことがあるから気づいた、だなんて……これではまるでストーカーだ。
 卒業式という、高校生活の最後の日にあなたに気持ち悪がられて終わってしまうのは、私もつらい。

「先輩、卒業おめでとうございます!」
「おめでとうございます~!」

 半年も前に引退した部活の、厳しくも実りある時間をともに過ごした後輩たちに賑やかに囲まれながら、花束やら寄せ書きやら心のこもった贈り物を受け取る。そんな中、私はあなたに特別な視線を向けてしまわないよう努めた。
 演劇部の部長を務めていた私の周りには、他のクラスメイトが驚いて距離を置くほどに人だかりができていて、あなたはその端の端で遠慮がちに私を見つめている。
 あなたはいつでもそうだ。周囲よりも一歩引いた場所から他人を見つめる癖がある。

 熱心な部員ではなかった。
 急に顔を出す日もあれば、何ヶ月かまるまる顔を出さないことも珍しくなかった。
 それでも、私はあなたになにも強制しなかったし、叱責もしなかった。特別な言葉を交わすこともなかった。

 もしかしたら、私に嫌われていると、あなたも思っているのかもしれない。

 ……何度声をかけようと思ったか分からない。
 ひとりぼっちで声を殺して泣いていた私にとって、このハンカチがどれほど温かかったか。
 刺すような寂しさも惨めさも、どれほど紛らわせてくれたか。

 伝えたほうがいいのでは。伝えられても困るのでは。
 そうやってずるずるずるずる今日を迎えてしまった。
 挙句の果てに、この期に及んでまだ迷っている始末。

(言わないほうがいいに決まってる)
(下手したら向こうだって忘れてるんじゃないの)
(どうせなら一年前に言うべきだった)
(いまさら切り出しても)
(困らせるだけかもしれない)
(でも、私は)

 私は、あのときこのハンカチに――あなたに救われたんだ。

(……ああ、やっぱり、私、)

 伝えたい。
 今日まで言えなかったけれど、今日なら言える。
 会える可能性のある日々からまず会うことのなくなる日々に切り変わる、境の日なのだから。

 ほぼ一年間、鞄の中にずっと忍ばせてあった紺色のハンカチを、渡された花束に半ば埋もれながら私はゆっくりと取り出した。

〈了〉