彼は、繊細なひとだった。
 例えば季節の変わり目に、空気の匂いの変化に気が付いたり、日毎に変わる空の色味と雲の流れ方を楽しげに見守ったり、そんな細やかな世界の変化を愛でるひとだった。

 彼は、大人びたひとだった。
 休み時間に大声を出して不快な言葉を繰り返したり、すぐに幼稚にふざけてはしゃぐような、いつまでも子供っぽいクラスの男子とは全然違っていた。

 彼は、寂しいひとだった。
 限られた時間の、限られた世界。そんな鳥籠のような不自由の中で、ひとり何でもない風を装って、微笑み続けるようなひとだった。

 そんな彼に、わたしは生まれて初めての恋をした。


*****


 彼、水城蓮と出逢ったのは、とあるSNSの投稿からだった。
 いつも通り退屈な授業、代わり映えしない毎日、友達とさして興味のない昨夜のテレビドラマの話をしながら、いつも何気なく眺めていたタイムライン。
 適当にスクロールしている内、不意におすすめに表示されたのは、白い窓枠に切り取られた何の変哲もない青空の写真だった。

 普段なら、スルーしていたと思う。映えるグラデーションの空だとか、可愛い形の雲だとか、海外の綺麗な町並みとかそういうものじゃなくて、ただありふれた、何なら窓枠によって狭められたただの青空だったからだ。

 わたしは、何気無くその写真をタップする。ありふれた、いつでも見られる空。けれどそんな青空なんて、まともに見上げたのはいつ以来だろう。
 手元にある情報の詰まった小さな画面や、この同年代のひしめく教室がわたしの世界で、目の前の物を適当に処理するばかりで、空を見上げようなんて気にもならなかったのだ。

 それをわざわざ写真に撮って、文章もなく投稿する人がいるなんて、少し不思議な感覚だった。

 ほんの気まぐれ。どんな人かとホームに飛べば、フォローもフォロワーもいない新規のアカウント。その人のプロフィール欄には簡素に『生きてる』とだけ書かれていた。

「……何これ」

 アイコンは白い蓮の花、ハンドルネームは『水城蓮』。男か女かもわからない。
 メディア欄を見ると、先程見たのと同じような画角の、窓枠から見上げる空を映した写真が何枚も載せられていた。

「空が趣味……? それにしたって、外に出て撮った方がよくない?」
「んー? どうしたの桜花、何か面白いのあった?」
「あ、いや……なんか空ばっか撮ってるアカウントがおすすめに出てきてさ」
「ふーん?」

 不意に覗き込んでくる友達、まつりの声に、はっとした。見ず知らずのこのアカウントに、貴重な昼休みの何分を費やしただろう。

「わ、本当にメディア欄空ばっかじゃん。しかも間違い探しレベルの!」
「ね……何なのかなーって」
「あ、でもさ。これ、わりと近所じゃない?」
「……へ?」

 まつりからの予想外の言葉に、思わず瞬きしてしまう。この最低限の情報しかない画面を見て、何故そう判断したのか。

「ほら、この写真のはしっこ、よーく見たら青空に混ざって濃いのがあるでしょ」
「……んん? たし、かに?」
「この色、隣町の駅近くにある青い色のお店っぽくない? ほら、先月出来たばっかのさ、めっちゃ映えるやつ」

 辛うじて遠くに見切れている程度の、空よりも少し濃い青。拡大してようやくわかる程度の、空に紛れた仄かな人工物。さすがにこれだけで判断するのは難しいだろう。
 けれど、まつりは映えにうるさい今時女子だ。件の商業施設にも、先月わざわざ写真を撮るためだけに訪れていた。

「……いや、探偵か?」
「映え探偵まつりちゃんにお任せあれ、だよ!」
「……つまり、このアカウントはご近所さんのってこと? だからおすすめに出てきたのかな……?」
「え、さあ?」
「秒で探偵職務を放棄された……」
「でも、珍しいじゃん。桜花がこういうの気にするなんて」
「……そうかもね」

 お昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。まつりが自分の席に戻って行くのを見送りながら、わたしは何となく、初めに出てきた青空にいいねを押して、スマホを机にしまった。


*****

 退屈な午後の授業が終わる頃には、わたしはすっかり青空の写真のことなど忘れていた。けれど放課後になりスマホを開くと、先程のアカウントからいいねが返ってきていたのだ。

 それは、わたしの二ヶ月ほど前の投稿だった。何気なく撮ったハートに見えなくもない雲の写真。それ以降に投稿した幾らでもある映えるスイーツだとか新しい洋服ではなく、やはり空。ぶれない。まつり程ではないものの、そこそこあるメディア欄の写真を、わざわざ遡ったのか。

「……あはっ、何この人。やっぱり変なの」

 普段ならきっと、フォロワー外のいいねなんてスルーしていた。けれどどうにも興味が惹かれて、わたしは水城蓮をフォローする。
 さすがに繋がりゼロのアカウントに無言フォローは気まずかったので、ただ一言『空好きなんですか?』とだけメッセージを送ることにした。

 見る限り、水城蓮は誰かと交流している様子はなかった。だから返事がなくても気にしなかったのだが、そんな中律儀にも、すぐに返事を寄越してくれた。

『好き』

 会話する気があるのかないのかわからない、質問に対し答えるだけの簡素な返答。主語もなく、一見告白とも取れるようなその文面。けれど偽りなく真っ直ぐに告げられたであろう一言。
 その不器用そうな返答に、わたしはつい笑みが溢れ、再びいいねを押した。

 それから、わたしと水城蓮の何気ないやり取りは始まった。


*****


 水城蓮の返答はいつも簡素で、毎日空の写真と共に一言添えるだけで、それ以外に特に呟くこともない。けれどこちらから声を掛けると、どんな質問にも簡素ながら律儀に答えてくれた。

 わたしは休み時間の合間や、夜寝る前の隙間時間、ことあるごとに彼に話しかけた。それは興味本位で、暇潰しで、或いは懐かない猫に気紛れに構うような感覚だった。

 話している内に、どうやら水城蓮は男の子であること、歳も近そうなこと、空を毎日見ていること、趣味は特になく休みは寝て過ごすこと、夜はわりと早寝なこと、そして先日アップされた虹の写真から、見えたタイミング的にやはり近所に住んでいそうなことがわかった。

『れーん』
『何』
『暇、何か話そ』
『いいけど、話すことは何もない』
『受け入れた瞬間否定するじゃん……』
『だって、事実』
『何でもいいんだよ、ほら、蓮の興味あることとか』
『……人生について?』
『何気なく語るには重すぎるテーマ来た……』

 蓮は日中もすぐに返事をくれることが多かった。はじめの頃は、高校なんてどこも同じようなタイムスケジュールだからとさして気にしていなかった。
 けれどある日、突発的に学級閉鎖になった平日の昼間にも途切れることなくすぐに反応があり、もしかすると彼は同じ高校なのではないかと考える。

 SNSで身バレするのはさすがに気まずいだろうと詮索は控えたけれど、それ以降、蓮の正体について気になることが増えていった。

『蓮の学校ってさ、制服学ラン? ブレザー?』
『多分ブレザー』
『多分て何事』
『ほとんど着た記憶がない』
『ふーん? カーディガン派?』
『そうかも。今もカーディガン』
『いいじゃん、カーディガン男子! 萌え袖しよ』
『袖が伸びる。却下』
『えー。萌え袖写真見たいのに~!』
『……』

 しばらくの沈黙の後、白い布の上に置かれた萌え袖の写真が送られてきたのは、正直衝撃だった。
 少し伸ばされたグレーのカーディガンの袖口から覗く、細くて白い、長い指。線は細くてもしっかりとした、男の子の骨格。
 この向こうに蓮は実在するのだと、当然のことながらその時初めて実感したのだ。

 お返しにわたしも、指が細く綺麗に見えるよう角度に拘った手の写真を送ったのだが、返事がなかったのはちょっぴり悲しかった。

 それ以降、やはり空以外の写真が載せられることはなかったが、日々の細やかな会話から、彼の人となりを想像するようになった。
 蓮は物静かで、インドア派で、読書を好む。きっとカーディガンの似合う、色白で繊細そうな男の子だろう。周りには居ないタイプだった。

 彼の載せる写真に添えられる『窓からの西日が眩しい、近頃夜が短くなってきた気がする』『そろそろ本格的に夏だ、空気が太陽の匂い。空気も湿度を帯びてる』『毎年秋には落ち葉を踏む音が楽しい、今年も踏めるだろうか』なんて一言たちが、彼が愛する自然の美しさをわたしにも実感させた。

 普段人工物に囲まれて何気なく日々を消化する中で、彼の言葉や、彼が切り取る世界に感化されて周りに目を向けるのは、わたしにとって世界を広げる新鮮なことだった。

 彼が空気の匂いについて呟けば、わたしは校庭の隅で外の匂いを感じた。
 彼が雨の音について呟けば、わたしはイヤホンを外してその音に耳を澄ませた。
 彼が月を見上げた時は、わたしは部屋の明かりを消して窓辺に頬杖を付き、同じ月の光を浴びた。

 会ったこともない、メッセージのやり取りだけの関係。それでも確かにわたしの世界に溶け込む彼に、気付けば淡い恋をしていた。


*****