涙花病。
その病に罹ると、片想いが実らぬ限り治るすべはないのです。
先生。私は大切な先生を遺して先に逝かねばならなくなりました。
何から何まで先生には本当に善くしていただきました。私はこの片想いがこの上なく仕合わせな出来事なのだと、心から先生に感謝の気持ちで一杯です。
最期に少しだけ、独り言にお付き合いいただけますでしょうか。決して先生にご迷惑の掛かるような真似はいたしませぬゆえ、何卒私の我儘をお許しください。
先生。私はいつしか先生に恋をしておりました。
とある出版社で細々と下働きをしていた身寄りのない私に声を掛けてくだすったのは先生でしたね。
いつか私も先生方のようなご本を書けたら……などと使い古しの原稿の裏紙をそっとくすねては、なけなしの給金で買ったペンで小説の真似事のようなことを書いておりました。ある日裏紙を持ち帰っていたことが知るところとなり、出版社を追い出されたところを救ってくだすったのが、ちょうど打ち合わせに来られていた先生でした。そればかりか私の書いたものに目を通してくださり、のみならず添削までしていただいたのでした。
結局私には物書きの才などないと思い知るに至りましたが、代わりに先生のお宅で書生として置いていただけることとなったのです。
先生のお宅の台所事情は決して楽なものではありませんでした。先生のお名前は知る人ぞ知ると言った感じでしたから、書いた御本が飛ぶように売れるなんてことはまずありません。
ああ、こんな失礼なことを申し上げるなどと先生はお怒りになられるでしょうか。いえ、笑ってその通りだなと仰るでしょうね。
先生は生活の苦楽など気になさらぬお方です。日々生きていければそれでいいと。私はそんな先生との暮らしに居心地の良さと、そして安寧を見出しておりました。
いつまでも先生と二人で生きていきたい。先生のお傍で先生を支えていきたい。私はそのような想いを胸に抱きはじめたのです。
ですが男の私の想いを先生に告げるなど到底出来る筈もございませんでした。
おさんどんに洗濯掃除、古本を売りに行ったその足で夕飯の買い物、風呂の支度、そして先生の寝床の準備。
──先生の髪の匂いがする枕に、何度密かに顔を埋めたことか。
この焦がれる心は口にしてはならない。決して実らぬ片想いは、少しずつ私の身体を蝕んでいきました。
大根を煮ている時でした。視界が滲む。そんな違和感を覚えた直後、私の目から薄桃色の花びらがはらりはらりと零れ落ちたのです。
先生は本当に吃驚なすって、大根など捨て置けお前は床に入れと大慌てでお医者様を呼んでくださいましたね。
ああとうとう私もこの病に罹ってしまったのだと、私は自分の心の弱さに打ちひしがれました。私が先生をお慕いさえしなければ、先生に要らぬ心労を掛けることもありませんでしたのに。
本当に。本当にそればかりが悔やまれます。私なんぞが先生に恋をしたばかりに。
涙花病の症例はすでに幾つか世間をざわつかせておりました。身体中の血を吸い盡した真っ赤な薔薇の花びらが涙の様に零れ落ち、やがて死でその身を覆うのだと。
不思議なことに私の流す花の涙は、なぜか桜の花びらの様な薄桃色でした。零す私も気に病む先生も、少しばかり心が穏やかになる様な優しい色。
先生はそれを綺麗だなと仰いました。不謹慎な事を言って済まない、いえ先生に綺麗だと仰っていただけて光栄です、そんな会話を交わしながら、暫くは小康を保っておりました。私は時折零れ落ちる花びらの所為で体力が落ちかけてはおりましたが、何かがそう大きく変わる事も無く、このままずっと先生と暮らしていけるのではと、そう思っておりました。
そんな中、先生がふらりと何処かに出掛けては、夕飯は要らぬと夜遅くに帰宅される日が増えていきました。どうしたのだろう、何かお困り事でもあるのだろうか。私はそっと先生の後を尾けてみました。
先生は行きつけの飲み屋で浴びるほど酒を飲み、女中達と親しげにされていた。私は泣きながら一人、家へと戻りました。
先生は結婚に興味など無い、一人で気楽に生きるのがいいのだと常日頃から仰っておられました。私を拾ってくだすった所為で無理をさせていたのではないか。私が不治の病に罹り、家の中の陰鬱とした空気に耐えられなくなったのではないか。
その晩、とうとう先生は朝まで帰ってらっしゃいませんでした。私は冷たい布団を前に、この想いは地獄の果てまで持って行こうと決意いたしました。
おしまいが来るその日まで、先生の前では努めて明るく朗らかに。そんな私の想いが天に通じたのか、私を蝕んだ病は、それ以上症状を酷くすることはなくなりました。
朝起きれば枕元に散らばっている薄桃色の花びらを、先生に知られぬようそっと用水路へ流しますと、私の心にあった先生への片想いも穏やかに流れていくようで、どこかほっとしている自分がおりました。
つつがないように見える日々の中で、先生は再び私の作った夕飯をお召し上がりになる日が増え、私は先生の好物をせっせと拵える喜びに心を弾ませました。
その日は突然やって参りました。私の命が尽きるその時まで先生のために生きたいという思いは、とうとう今日でおしまいを迎えます。
今朝出版社へとお出掛けになられた先生には内緒にしておりましたが、ついに花の涙は髄へと届きました。沢山の桜の花びらに埋もれて、私はお別れの足音を聞いております。
洗濯は済ませましたし洗い替えも多めに出しておきました。日持ちのする惣菜も作り置きしてあります。使わずに取っておいたお給金は、次に雇う書生の駄賃にお使いください。
ええ。もう思い遺すことは何もありません。こんな贅沢をさせて貰って、私はなんと果報者なのでしょう。先生のこれからが穏やかなものであります様に。私はただそればかりを願うのです。
さようなら、先生。私は幸せです。
彼の書き遺した手紙を思い出している。
枕元で私を看取っているのは頼んでおいた町医者と看護婦だけだ。彼と住んでいたこの家で静かに死にたいと願っていた夢がやっと叶う。
どうだろうか。彼は老いさらばえた私を覚えてくれているだろうか。何か私の書いた原稿の一枚でも持参した方がいいだろうか。そんな事をつらつらと思えば、間もなく訪れる静寂も怖くはない。いや寧ろ私は、彼の元へと向かえる喜びに溢れている。
また彼に逢える。彼に倣い、穏やかに最期を待つ。
私が物書きの世界に足を踏み入れた頃、花吐病という病が流行した。正しい病名は嘔吐中枢花被性疾患。片想いを拗らせた人間がある日突然口から花を吐き出す病だ。
この奇病は想いの成就、即ち相愛にならねば完治しなかった。だが何分にも伝達手段の少ない時代である。実らなかった想いと共に命を散らす者が多く居た。
文壇仲間も幾人かこの病に倒れた。しかし彼等は物書きであるが故に自らの想いに蓋をして、それを文章へと昇華させたのである。
そうして綴られた作品は、彼等の命と引き換えに鮮やかな感動を以って世間に賞賛された。私は空恐ろしかった。彼等が死を恐れない事に。愛は命よりも尊いと世間が声する事に。
愛を疎む厭世家の振りをしてはいたがその実、私は誰かを愛した経験が無かった。愛を知らない者の著述など、世間からして見れば鼻紙にもならない色褪せた紙切れでしかない。愚論を連ねただけのつまらぬ作品は当然売り物にはならず、出版社や知り合いから細々とした仕事を貰ってはなんとか糊口を凌ぐ日々であった。
そうやって私は志半ばで倒れた才能豊かな仲間を横目に、五十の声を聞くまで文壇の端にしがみ付いて一人生きてきたのだった。
なんとこの世の気紛れか。私が不摂生の祟った五十の身体を持て余している間に、世間では涙花病という奇病が再び流行り出していた。
花吐病と同じ様に、想いの実らぬ者が命を落とす病だった。突然真っ赤な薔薇の花弁が目からはらはらと溢れ出す。その花弁は少しずつ骨の髄より血を吸い上げ、やがて花が枯れる様に死んでゆく。
よりにもよって、彼がこの病に罹ってしまうとは。
彼と出逢ったのは、私が出版社から連載の仕事を貰って帰ろうとした時だった。隣の部屋から何やら諍いの気配が聞こえたかと思うと、怒気を孕んだ声と共にガラスが震える程荒々しくドアの開閉される音がした。
「せっかく仕事をくれてやったのに恩を仇で返すとはなんて奴だ。二度と出入りするな」
見れば粗末な身なりの青年が廊下で尻餅をついていた。青年は散らばった原稿用紙に埋もれてすっかりしょげている様子だった。
「大丈夫かい」
私は思わず声を掛けていた。足元に落ちていた原稿用紙の一枚を見ると、裏面の余白にびっしりと文字が書かれているではないか。彼が書いたものだろうか。
軽く目を通してみれば、拙いながらも情熱の溢れる若々しい青春小説の一篇の様だった。
「大変お見苦しいところを」
慌てて原稿用紙を搔き集める青年に憐れみを感じ、私も一緒に集めてやった。原稿を青年に手渡すと、彼は頬を赤らめ大事そうにそれらを胸に抱いた。
「有難う存じます。まさか、先生にこんなものを見られてしまうとは」
こんな若者から先生と呼ばれるなど久しく、私は狼狽えた。例い編集者が私を先生と呼んだとて、それは形ばかりの敬称である事など百も承知である。
「私のことを知っているのか」
胡乱な口ぶりになっていたのかもしれない。青年は慌てた様に首を横に振った。
「勿論です。あの、こちらの出版社で出されている先生の御本は全て拝読しております……その、お金が無いので、立ち読み……ですが……申し訳も御座いません」
貧弱ななりを更に縮こめるようにして青年は謝った。
「この原稿は一体」
「いえ、稚拙な落書きを書き散らかしていただけなのです。使いかけの原稿用紙を勝手に持ち出した私が悪いのです」
この出版社には、作家が途中で書き損じた原稿用紙は持ち出してはならぬという決まりがある。裏はまだ使えるというけち臭い不文律なのだが、恐らくこの下働き風情の青年が小説を書いていた事自体が編集者の癪に障ったのであろう。私は青年がどうにも気の毒になった。
「私で良ければ読むくらいはしてやれるが」
私如きが読んだところで何の力にもなってはやれないが、折角書いたものを誰にも読まれない事程辛いものはない。私の言葉に青年は申し訳なさそうな顔をした。
「そんな、滅相も無い。先生のお時間を頂戴するなどと」
私の時間、そんなものは掃いて捨てる程あった。私は彼を連れて出版社を後にした。
売れない文筆家の住まうは、古ぼけた平屋である。彼は「此処が先生の御宅」と無邪気に喜んだ。
原稿を読んでいる間、身じろぎもせず固まっていた彼の面持ちは今でも忘れられない。私にもこんな時期があったな、と苦笑せずには居られなかった。
彼の青春小説は正直勢いだけのもので、私から見ても売り物にはなりそうになかった。だが彼のひたむきで瑞々しい感性に触れ、自分の心が清らかになっていくのを感じた。彼を傍に置いたらば何かいいものが書けるやもしれぬ。
たいした給金は払ってやれないが、衣食住の心配はしないで済むだろうと住込の家事手伝いを持ち掛けると、彼は遠慮がちにだが嬉しそうに頭を下げた。
他人に喜ばれる事がこれほど心地良いと感じた時は無かった。
案の定給金は雀の涙程も出せなかったが、彼は嫌な顔ひとつせず働いてくれた。彼の気の利いた仕事ぶりに自然と私の筆も乗り、僅かではあるが暮らしも上向いた。
彼に家事を任せている間に私が執筆をする。よく陽の当たった布団で眠れば、錆び付いた身体でもまだ頑張れそうだと感じた。
出版社に原稿を届けたついでに小さな土産を買って渡せば、顔を綻ばせてくれる彼を見るのが嬉しくて、次は何を買ってやろうと思う。
そんな小さな安寧が手から零れ落ちていったのは、或る日の事であった。
台所から大きな物音がして急いで駆け付けてみれば、彼はその場にしゃがみ込み顔を手で覆っていた。
「なんということだ」
指の間から花弁が幾重にも溢れ出す。顔を上げた彼の両目は薄桃色の涙を流していた。
「先生、これは」
小さく震えながら私の着物の袂を掴む彼の手に、私は自分の手を重ねた。
「すぐ医者を呼ぶ」
何処からそんな力が湧いたのか、私は彼を抱き抱えるとすぐさま部屋へ運び布団に寝かせた。
「目を閉じていなさい」
判っている。医者を呼んだところで治す方法などひとつしか無い。
彼の想いを成就させてやらねば。
だが彼は恋願う相手の名を決して口にしようとはしなかった。恐らく願いの届かない遠い場所に居るかもう死んでいるのだろう。私は役に立たない己が歯痒く情けなかった。
世間で言うところの薔薇の花弁でない事が不思議ではあったが、春の優しさの様な薄桃色の花弁は、彼らしいと言えばそうだったかもしれない。一見したところ大病を患っている様には見えず、気付けば治っているのではないか。そんな風にさえ思う事もあった。
だが彼の笑顔は少しずつ輝きを失い、花弁は瑞々しさを増してゆく。穏やかにだが確実に死が近付いているのだと思うと、私は怖くなった。
この怖れは何なのだ。私は何を怖れ乞うているのだ。初めての感情に苛立ちが募った。五十を迎えて己の感情に戸惑うなど思いもしなかった。
私はその感情から逃れる様に、理由を付けては外に出た。
女道楽にまるで興味は無かったが、誘われるまま飲み屋に入り、女中達とどんちゃん騒ぎに明け暮れ、現実から目を逸らす事を覚えた。
朝帰りをした日、彼は敷きっぱなしの布団を何も言わず干してくれた。短絡的な私の行動を責める事も無く、変わらぬ様子で飯の支度をしてくれた。申し訳無さに掛ける言葉も見つからなかった。
暫くは居心地の悪さに家を空ける日が続いたが、彼は変わらぬ様子で朗らかに家の用を済ませ、時折文章を書いては私に教えを請い、ぶっきらぼうに直してやれば、紙束を胸に抱えて喜ぶ姿を見せた。もしかして、彼の片想いが成就したのかもしれぬ。私は極めて楽観的にそんな事を思う様になっていた。
どうして私は彼の異変に気付かなかったのだろう。
いってらっしゃいと背中に言葉を受け、出掛けたあの日。出版社からの帰り道、あと少し早く帰宅していれば、せめて彼の手を取って見送ってやれたのに。
彼は最期まで春の様な暖かさで私を包み、そしてひとりで静かに逝った。
薄桃色をまとわせた彼の空気が、匂いが、私の心を打ち震わせ花開かせた。大量の桜の花弁に埋もれ、もう目を開かぬ彼のたおやかな身体を抱えながら、その冷たい身体とは裏腹な柔らかい心に触れる。愛とは何かを知らなかった私は、彼に出逢ってそれを知った。
彼を喪って初めて理解した。名も無きあの感情は、愛だったのだ。
もっと早くに愛を知っていれば彼を死なせはしなかったと私の中のもうひとりが責め続けた。だが何をどう詫びようとも、この不完全な私を最期まで愛してくれた彼はもう此の世には居ない。彼の居ない世界を、私はこの歳になるまでひとり生きてきた。
──嗚呼、死ぬ間際に走馬灯が巡るというのは本当のようだ。ふ、と私は溜息とも笑いとも取れぬ息を吐いた。私の息はこれで最後だろう。
さようなら、と手紙に書き遺した彼の亡骸に、私はあの時呟いた。必ず逢いにいくと。ようやくその時が来た。今も待っていてくれたら僥倖だ。
外は桜の季節である。
終