花は咲いては散っていく。
綺麗に咲き誇り、徐々に時を刻みながら萎れ、儚く散ってしまう。
可憐に咲いていた頃が嘘だったかのように、跡形もなく風に流され身を滅ぼされる。
まるで、初めからそこには何も存在していなかったかのように。
この世界に変わらないなんてものは存在しないと私は思う。
世界は常に躍動し、明日という未来へと向かって進んでいる。
一体、何人もの人が過去に囚われたままの生活をしているのだろうか。
私もそのうちの1人に過ぎない。
未来なんてない。明日なんて、絶望に満ち足りた日々の連続。
皆が望む未来は、私にとっては苦痛そのもの。
私は咲き誇ることなく散っていく名もなき花だ。
誰にも『綺麗』と思われることなく、ひっそりと人知れず寂しく、この命が尽きる日をただ待つだけ。
あぁ、今日も空が綺麗だ。
上を見上げると、見える青空。雲一つない澄み切った青一色に染められた大海原みたいな空。
今日も私は、意味もなく学校への道を歩いていく。
あと何日この道を歩けるのだろう。寂しくも思うが、これといった思い出は何一つない。
あの日。余命宣告をされた日から、私の世界は灰色に染まってしまった。
何を見ても感動しなくなってしまった荒んだ心。
視界に映る全てが、私にとっては同じに見えてしまう。
でも、もういいんだ。どうせ、私は残りわずかしか生きる事ができないのだから。
余計な希望を抱く方が、時には残酷だということを痛いほど私は知っている。
「最後くらい好きな人ができたら良かったのにな」
わかっているよ。好きな人ができたとしても、私はその人とは深く関わる事ができないことくらい。
相手を悲しませるだけの恋なんて私も、相手も辛いに決まっている。
残り僅かで亡くなってしまう期限付きの恋なんて嫌だよね。
それに、今でも綺麗ではないが、好きな人に徐々に弱っていく姿を見られるのは苦しい。
いつまでもいつまでも相手の記憶には、元気な頃の私を覚えていて欲しいから。
病気に負けそうな私ではなく、現在のように普通の人と変わらない生活を送れている私を。
ま、そう簡単に恋をするなんてことはないのだろうけれど...
予鈴に合わせるように、数人のクラスメイトが教室へと流れ込んでくる。
彼らの額には煌めく汗が、窓から差し込む光に反射して輝く。
こんな些細な単なる日常の一部でさえ、青春に感じられてしまう。
彼らにとってはただの日常に過ぎないが、私にはかけがえのない一日。
いつこの日常が崩れ去ってしまうかわからないのだ。
もちろん、怖さはある。いつ自分の足で歩けなくなるのか、いつ視界から光が失われてしまうのか。
度重なる不安の数を数えても仕方のないことだが、数えずにいられないのはどうしてなのだろう。
教室内で交わされる「おはよう」という四文字。
あと何回私はこの挨拶を口にすることができるのだろうか。
最近では、そんなネガティブなことばかり考えてしまう。
あと何回...普通の人が考えることのないことばかりを。
「・・・ね。琴音!」
肩を揺さぶられた衝撃で、現実世界へと引き戻される。
伸びたきた手を追うように視線を流す。
「ん?」
隣の席に座っている私の親友・古川結衣が凄まじい形相で、私のことを見つめていた。
「ん? じゃないよ! 琴音、問題当てられてるよ!」
「えっ!」
教室の前方にある真っ黒だったはずの黒板が、無数の白い文字で埋め尽くされている。
気付けば朝のホームルームは終わってしまい、一時間目の数学が始まってしまっていた。
黒板が文字で埋め尽くされているのとは対照的に、私の机の上に置かれた板書用のノートはまっさらなまま。
数分の記憶が抜け落ちたというよりも、単純に自分の世界に入り込んでぼーっとしていたのだろう。
「ほら、早く行かないと!」
黒板には数問が書かれており、各問題につき回答者が前に出て黒板に直接チョークを手にして書いている。
結衣が指差す問題の隣には、私の出席番号の17という数字が書かれていた。
昔から勉強だけは苦手ではなかったが、問題の概要を知っているのと知っていないのとでは訳が違う。
もちろん、話を聞かずにぼーっとしていた私が悪いのだけれど...
結衣に背中を押されるように、椅子から立たされ黒板へと突き出される。
なぜ、そんなに促すのか私は知っている。結衣は数学が1番苦手な教科だから。
私が結衣に答えを聞くことを予想していたのだろう。でも、結衣には解けなかったに違いない。
だから、私が聞くよりも先に黒板へと向かわせたのだ。
なかなか酷いと思うが、小さい頃から結衣はこのままなので今更なんとも思わない。
彼女の他の良さを私は世界中の誰よりも身近な親友という立ち位置で見てきたから。
私が困っている時、見知らぬ他人が困っている時。どんな時でも彼女は、自分を後回しにして他人を優先してしまうほどのお人よしなのだ。
今回はその対象外だったらしい。申し訳ないが、結衣はあまり勉強が得意ではない。
定期テストも常に赤点ギリギリを彷徨っており、中でも数学は毎回補習対象者リストに名前を連ねる。
押された背中から手が離れたので後ろを振り向くと、親指をグッと立てた彼女が微笑んでいた。
これから私は、途方に暮れるというのになんて無責任な笑顔なのだろうか。
後で何か仕返しをしようと考えながら、黒板に書かれた数式に目を向ける。
暗算では解く事が難しそうな問題が、私の前に立ちはだかる。
それでも考え続けなければならない。少しだけ歩くスピードを落として、頭の中で問題を解く。
「おーい、足立。どうした、早く前へ出てきて問題を解いてくれ」
「は、はい。ご、ごめんなさい!」
あぁ、もうだめだ。何も考えられない。
このまま「聞いてませんでした」で済ませるのは、簡単なことだ。
でも、どうしてもそれだけはしたくない。
皆にとっては何気ない数学の授業だが、私にはあと何回...
「先生。俺、解いちゃったや」
「ん? なんだ間違って解いたのか?」
「うん。てっきりこの問題全部俺が解くのかと思ってさ」
「まぁ、いいか。そんなことより、先生にタメ口をするな」
「えー、先生話しやすいからさ」
「だめなもんはだめだ。たまにくらいなら許す。さ、席に戻れよ〜」
「はーい」
彼が席へと戻る瞬間、目が合った。
しかし、すぐさまその視線は逸らされてしまった。
まるで、私のことを鼻から認識などしていないとでも言うように。
その場に立ち尽くしたままの私。
数秒間停止してしまった状態の私を引き戻してくれたのは、またしても親友の声だった。
今度は一度目ではっきりと現実世界へと引き戻された。半強制的に...
「ねぇ、どうしたの。さっきからずっとぼーっとしてるけど」
「え、私そんなにぼーっとしてるように見える?」
「うん。なんか心ここに在らずって感じがする」
机に広げられたお弁当のおかずを頬張りながら、私の顔を覗き込んでくる結衣。
ご飯粒が口元についているが、今は黙っておこう。先ほどの授業中の仕返しとして。
ご飯粒がついていることに気付かない彼女は、ひたすら口にご飯を詰め込む。
まるで、どんぐりを好んで食べるあの動物のように、頬は瞬く間に膨れ上がっていく。
思わず指でそのパンパンに膨れ上がった頬袋を突きたくなってしまう。
もし、突いたら1番の被害を受けるのは間違いなく正面に座っている私なのですることはないのだけれど。
隣に座っていたら、もしかしたらしていたかもしれないが...
美味しそうにお弁当を食べる彼女を見ているだけで、なぜだか嬉しくなる。
この子の笑顔を守っていきたいと思えるくらいに。
でも、私はこの子の笑顔を見守る事ができない。
いつまでも結衣の隣で、くだらないことを言って2人で笑い合っていたい。
それなのに、私に残された時間はもうそこまで限界が来ている。
余命宣告をされたのは、去年の雪降る寒い白銀世界の日だった。
突如、頭の中が今まで感じたことのない痛みに襲われ、意識を手放してしまった。
最後に見た景色は、真っ白な雪に落ちていく瞬間だったのは覚えている。
綺麗と思う反面、すぐさま襲いかかってくる光を失う闇が異常なほど怖かった。
意識を取り戻したのは、病院に運ばれてから15時間経過した頃だった。
ベッドに横たわった私の横には、涙を滲ませている母と不安を顔いっぱいに貼り付けた父。
あの時、何を話したかは覚えていない。
朦朧とする意識の中、私はまた眠りに落ちた。
今度の眠りは、怖さなどは一切なく安心して眠りに落ちることができたんだ。
母と父の温もりを感じながら、その後に降りかかる病のことなど頭にはサラサラなかった。
翌日、私たちは家族3人で白衣をきた先生と向かい合って座っていた。
明かりの灯らない薄暗い部屋に灯された唯一の光。
それは、机に置かれたモニターの画面。光に導かれるように視線が自然と引き寄せられてしまう。
私たちの視線の先に気がついたのか、先生が口を開いた。
『・・・琴音さんの余命は残り1年ほどです』
前置きはあったのだが、覚えてすらいない。余命という言葉のインパクトが強すぎてそれ以外の言葉など、雑音以外の何物でもなかった。
椅子から崩れ落ちる母と、震える手を抑えながら母の肩を支える父。
その横で、呆然とモニターを眺める私。
眺めたところで何も変わることなどはないのに、嘘であってほしいと願わずにはいられなかった。
どうか、嘘であってほしいと...
結果的に全てが真実だった。宣告された病名は、『白雪病』
世界でも稀有な病の一つで、難病指定されている類のもの。
何を根拠にこの病名がつけられたのかは定かではないが、きっと童話の『白雪姫』と酷似しているからに違いない。
白雪姫...毒林檎を食べて眠りについた少女がキスによって目覚めるロマンチックなお話。
小さい頃に誰でも読んだことがあるくらい世界中で有名な名作の一つ。
名前を聞いたことがない人の方が、少ないのかもしれない。
『白雪病』
名前からするにロマンチックさを醸し出しているが、実際は名前の可憐さとは無縁のものだ。
白雪病...発症したものは、確実に一年以内に生命の終わりを迎える。
それもパタリと命が尽きるわけではなく、徐々に体の体温が奪われ始め、最後は全身から熱が消えていくというもの。
亡くなった姿が、白雪姫のように白く美しいという理由から、この病気の名前がつけたらしい。
どこぞの偉いお医者さんかはわからないが、勝手に綺麗なものとして美化しないでほしいと切実に思う。
実際にこの病気を患った私は、毎日生きるのが怖くて仕方がないというのに。
日々、自分の体温が少しずつ低下していると思うと、背筋が凍るようにゾッとする。
近年は医療の進歩により、様々な難病が研究によって治すことができるようになってきているらしい。
しかし、この『白雪病』には前例がものすごく少ないため研究はおろか、日本中でこの病を発症しているのは、わずか12人とされている。
そのうちの1人がまさか自分になってしまうなんて、当時は思っていなかった。
何気なく高校を卒業して、大学へ進学し、就職、それから結婚という先人たちが歩いた道を歩くものだとばかり考えていたのに、私にはそのどれもを成し遂げることすらできない。
あと、2年後に迎える卒業式でさえ、私の席はないだろう。
もし、席はあったとしてもそこには私はおらず、空席があるだけ。
ついこの間までは、なんの疑問も思うことがなかった卒業も今では夢のまた夢。
そんな未来への希望もない私は、残りの余生をどう過ごせばいいのか未だにわからない。
ただ流れる時の中を彷徨うように、1日が過ぎていく。
一昨日も昨日もそのまた前も、過去の自分が何をしたかなど覚えていないほど、色のない日々。
きっとそれは明日も変わらない。
そうだ。私の心は余命宣告をされたあの日以来、死んでしまったのだから。
「・・・い。おーい! 聞こえてる? 琴音具合でも悪いの?」
声だけでは届かないと判断したのか、私の肩に触れて前後に振り回される。
グラグラと揺らぐ世界の中で、私は1人の凛々しい花を見つけた。
彼の周りにはいつだって、誰かがいる。
不思議と彼の持つ引力にでも引き寄せられるように、人が彼の元へと群がる。
まるで、彼自身が太陽でその他大勢が他の星々や小惑星のようだ。
彼の放つ太陽のような輝き。深く沈んだ私の心でさえも照らし出してくれそうなほど眩しい。
「ちょっと、琴音! 本当に大丈夫!?」
「え、うん。ずっと大丈夫だよ」
「え、急にいつもの琴音になった」
「ごめん、少しだけぼーっとしてた」
「もう、最近の琴音はぼーっとしすぎだよ〜」
「えへへ、ごめんね」
唇を半月状に作り出し、疑似的に作り上げた笑みを彼女へと見せる。
一年前の私だったら、心の底から今の状況を笑えてただろう。
毎日が楽しくて仕方がなかったあの頃のように。
それが、今では大好きな親友にですら作り笑いをしてしまうなんて。
親友失格ではないか。
それ以前に、余命のことを話していない時点で私は彼女のことを信頼していないのかもしれない。
最低だ。長年隣で支え合ってきた存在なのに...
どうしても話すのを躊躇ってしまう。怖いんだ。
結衣が、私のことを今までのように対等に扱ってくれなくなってしまうことが。
もちろん、彼女はそんなことをしないことくらい分かっている。
仮に彼女が不治の病を患ったとしても私は対等でいるだろう。
決して病人扱いなどせずに、最後の日まで共に未来へと歩み続けるに違いない。
それなのにどうして。どうして私は結衣に余命のことを打ち明けられないの。
私の真横で美味しそうにお弁当を食べている結衣。
不安なことなど一つもない様子で、毎日が楽しそうな表情。
羨ましい...あれ、この感情はなんだろうか。
自分自身にではなく、結衣へと向けられた邪な感情。
あぁ、そうか。私は羨ましいんだ。
明日を不安なく、この先の長い人生が確約された親友のことが...
いっその事消えてなくなってしまいたい。こんな感情を親友へと向けている自分に嫌気がさす。
どうか、これ以上私の心を蝕まないでください。
大好きな親友の悲しんでいる顔を見たくはない。
それも私なんかのせいで...
ずっとこのままの笑顔でいてほしい。
毎日がハッピーで薔薇色の人生を。
私の机に広げられたお弁当の中には、まだまだたくさんのおかずが詰め込まれていたが、どれも私の喉を通ることはなかった。
結衣には体調を心配されたが、「朝ごはん食べ過ぎたんだ」と嘘をついて切り抜けた。
本当は朝ごはんも喉を通らなかったのに。
全ては、あと1ヶ月も経たぬうちに私はこの世から消えてしまうのが原因。
「あ、私トイレ行くけど、琴音も一緒に行く?」
「ううん。私は大丈夫だよ」
「そっか。それじゃ行ってくるから待っててね!」
「うん。行ってらっしゃい」
廊下へと消えていく彼女の背を目で追うが、標準が定まらない。
ぼんやりとぼやけた視界の中で、背中が見えなくなるまで探し続けた。
もうそこに結衣はいないのに、結衣の背中を探して...
最近は、寒くて寒くて仕方がない。
単純に季節が冬ということもあって寒いのかもしれないが、私の場合はそれが原因ではない。
私自身の病が、徐々に私の命を吸い取っているようにも感じられるほど、熱が日々失われていく。
白雪病を発症してから、毎日体温を測ることが日課になっていたが、今は体温を測るのが怖くて逃げてしまっている。
確か、最後に測ったのは半年前。
その時の体温計に表示された数字は30度だった。
一般的な人の体温から約6度近くも下回っている。6度と聞くと大したことないようにも感じるが、体温の場合は別だ。
季節は夏だったはずなのに、夏らしい蒸し暑さは感じられず、むしろ半袖だと寒いまであったくらい。
誰にもバレるわけにはいかないので、無理をして半袖を着て登校をした結果、何度も体調を崩しては保健室のお世話になった。
それから半年が経った今。現在の体温がどのくらいあるのかはわからないが、間違いなく目を疑ってしまう体温なのに変わりはない。
制服の下に貼られた無数のカイロをもってしても、私の体には熱が篭らない。
篭るどころか逃げていくばかり。
悴む手をコートのポケットの中に入れ、カイロを握り潰すように触る。
私の手が冷たいせいか、嘘みたいに冷たく感じるカイロ。
開封してから既に数時間は経過したので、1番熱を持っているはずなのに...
数人の帰宅部に紛れ、私も帰路へ着く。
病気が発覚するまでは、バスケ部のレギュラーとして、結衣と共に県新人戦優勝を目指して日々精進していたのが、今では懐かしいくらい過去のものになってしまった。
私が1番生き生きと輝いていた頃。まさに、人生の最高潮だった。
バスケ部を退部する時、結衣からは当然理由を聞かれたが、私は嘘をついた。
『喘息になっちゃってさ。運動するのが厳しいんだ』
無理やり取り繕った嘘。今思えば、苦しい言い逃れだったような気もする。
誰でも思いつきそうな逃げるための口実。
これが、人生で初めて大好きな親友についた嘘だった。
この日を境に私は、本心を隠したくないのに隠すようになってしまった。
全ては病気のせい。病気が私から様々なものを奪っていったのだ。
パラパラと頭上の遥か上から、真っ白な雪が地に降り注ぐ。
小学生の時は、冬に降る雪が大好きだった。雪が降れば、雪合戦や雪だるまといった季節限定の遊びができるから。
でも、今はそんな気持ちなど一切持ち合わせいない。
雪がこんなにも憎たらしい存在にまで膨れ上がるとは、過去の私には予想することすらできないだろう。
街中を真っ白に埋め尽くしてくれる神秘的な雪。
雪が降り積もる景色もいいが、雪が溶けて煌めく光景もなかなか綺麗だった。
私の過去の記憶によると...全てが美化されたものに感じる。
雪がさらに気温を低下させる。私にとって冬は、一歩間違えれば『死』が目前。
残り余命1ヶ月といえど、こんな道端でパタリと倒れて、そのまま帰らぬ人となってしまうのだけは何としても避けたい。
最後くらいは、どうか誰かに看取られた状態でこの世を旅立っていきたいものだ。
その時に、私の側にいるのが私にとって大切な人たちでありますように。
今の所、思い当たるのは両親と弟の隼人。そして、いつかは打ち明けないといけないであろう親友の結衣。
大勢に看取られて旅立ちたいわけではない。どちらかといえば、親しい者たちに見守られてひっそりと静かに旅立ちたい。
皆の悲しむ顔から目を背けながら、薄れゆく意識の中で思い出を振り返りながら...
「・・・あのさ」
背後から突如聞こえた声に、驚きのあまり肩がビクッと反射する。
恐る恐る後ろを振り向く。
「え・・・」
そこにいたのは、意外な人物だった。
同じクラスとはいえど、全く接点のない人。唯一あるとすると、直近で今日の授業中に助けてもらったことくらい。
ただあの時は、すぐに目線を逸らされてしまったのだけれども...
それ以降は、なんとなく気まずくなってしまって、何回か目は合ったが私の方から逸らしてしまった。
助けてくれたことに「ありがとう」くらいは言いたかったが、結局言えないまま放課後を迎えてしまったというのに。
今になって、彼は私に何の用があるのだろうか。
「一緒に帰らない?」
「どうして・・・」
「んー、一緒に帰りたいからって理由じゃだめ?」
「べ、別にいいけど」
「それじゃ、決まりね」
訳がわからない。なぜ私は彼と一緒に帰ることになるのか。
今までも話したことは数回あるかないか。ましてや、共通の友人がいるわけでもないのに。
流されるままに彼と帰ることになってしまったが、これから何を話せばいいのか思い浮かばない。
頭の中は現状についていくことができず、真っ白な世界が広がったまま。
ぼーっとしている私を置いていくように、先に歩き始めてしまう彼。
自分から帰ろうと誘ったくせに、置いていくなんて自分勝手な人だ。
私がいないことなどお構いなしに、背中が徐々に遠ざかっていく。
このまま気付かれずに1人で帰ってくれないかなと思ったが、私の目論見は甘かったことを痛感させられた。
数メートル先でピタリと止まる足。
彼の前方から照らす夕日が全身を包み込み、アスファルトに黒く伸びる大きな影。
影が伸びて、私の足元まで伸びてくる。
夕日に包まれた体は、神々しさを醸し出すほど美しい。
まるで、私にはないような輝きを持っているような。
「早く行くよ。来ないと置いていくからね」
誰も一緒に帰りたいなどと言ってはいないのに。帰るのが当たり前だと言われているようだ。
承諾はしたものの未だに気持ちは揺らいでいる。
「あ、そうだ。自己紹介まだしてなかったね。俺の名前は神楽玲王。よろしくな!」
「知ってるよ。同じクラスじゃん」
「それもそうか。でもさ、足立さんって他人に興味なさそうだから、俺の名前なんて知らないと思ってたよ。そっか・・・知ってたんだ」
「神楽くんも私の名前知ってたんだね。私クラスでは、目立たない方なのに」
「んー、よくわかんないけど、だいぶ前から足立さんのことは知ってたんだよ」
数メートルの距離を隔てて交わす会話。
周りから見たら、おかしな光景かもしれない。
生憎、私たちの横を通り過ぎたのは、犬の散歩をしたおじいさんだけだった。
少しの安堵とともに、他のクラスメイトに見られたらどうしようという不安が募る。
別にやましいことは何もないが、あと1ヶ月の命の私と噂されてしまう彼がかわいそうだ。
「そうなんだね」
いつどこで知ったのかは聞かなかった。余命宣告される前の私だったら、聞いていたに違いない。
『え、いつから!?』とテンション高めで。
でも、今の私にはそんな元気はない。むしろ、知ったところでどうせあと生きられるのは1ヶ月だけだからと、諦めてしまっている自分がいる。
「なんか、足立さん変わったよね。前よりも落ち着いたっていうか、大人っぽくなった気がする」
分かってないよ。私は落ち着いてなんかいないんだよ。
外見はいくらでも偽れる。大人っぽくなったわけではない。
私は、この世界に諦めがついただけだ。
それが、彼の目には落ち着いて見えるのだろう。ただ絶望しているだけなのに。
「ありがとう。嬉しいよ」
取り繕った不自然な笑みを貼り付ける。いつからだろう。
この作り笑いが日常生活において、当たり前となってしまったのは。
正直、この笑顔は不気味すぎて自分でも見たくはない。
引き攣った頬に、うっすらと半月状に曲がった唇。
全てにおいて、拒否反応が出てしまうくらい見るのに耐えない。
「ねぇ。その笑顔辛くないの?」
初めてだった。余命宣告をされてから、私の偽りの笑顔を見破った者が現れたのは...
「ど、どうして分かったの・・・」
顎に手を当て、悩む素振りをする姿でさえ背後に迫る夕日と重なって、絵になる程綺麗。
まるで、太陽に照らされた彼と夜に飲み込まれてしまいそうな私の『光と影』の構図が出来上がる。
対照的な私たちの間を線引きする境界線。
ふと、思ってしまった。もしかしたら、彼なら私を再び光がさす場所へと連れて行ってくれるのではないかと。
そんな淡い希望を抱きながら、私は彼の自然な笑顔から目が離せずにいた。
濁った灰色の空から、真っ白な雪が停めどなく降り続ける。
雪は降っているのに、私たちの時間は止まったかのようにどちらとも動こうとしない。
口から漏れる息が、白い煙状となって一瞬のうちに消えてしまう。
その吐息で、彼の顔が少しだけぼやけて見えた。
白い世界の中に佇んでいる彼の姿が、いつになく綺麗で、なぜか私よりも儚げだった。
「俺はさ、足立さんに笑って欲しいんだよ。無理した笑顔でなくて、心の底から楽しいとか幸せだなって、自分自身の幸福感が満たされた時に出る笑顔を見たいんだ」
「なんで私なの。神楽くんは私なんかに構わないで・・・もっと他の可愛い女の子たちがいるでしょ」
「いないよ。足立さんより可愛い人はこの世にはいない」
揺らぐことのない視線をぶつけてくる。外は寒いはずなのに、彼の目だけはメラメラと燃えているかのよう。
まるで、夏を彷彿させるギラギラとした太陽のように。
「それじゃ、帰ろっか」
前を振り向いて歩いていく彼。
そんな後ろ姿を見つめるだけの私。手を伸ばせば届きそうな距離でも、私にはそんな資格すらないのだ。
でも、なぜだろう。彼のことが気になってしまった。
まだ話して数分の関係の私たち。それでも、数分前とは違った感情が私の中から生み出されてしまったみたい。
この気持ちを『恋』と呼んでもいいのかは、定かではないが、決して心地の悪いものではない。
頭では分かっているんだ。あと1ヶ月しか生きられない私が、恋をしていいわけがないことくらい。
脳裏とは裏腹に心が躍ってしまっている自分がいることも事実。
まさか、残り1ヶ月の期限が迫った時に、絶望以外の感情が湧き上がるなど思ってもいなかった。
1年前の私も予想はできなかったであろう。
「う、うん」
彼の手を繋ぐことはできなくとも、この命が尽きてしまうまでは彼を知りたいと思った。
好きなもの、得意なこと、些細なことでもいい。
私の人生は無駄ではなかったのだと思えるような期限付きの片想いをしてみよう。
例え、この気持ちが彼に届かなくとも、眠りにつく日、安らかな気持ちで永遠の眠りにつけるように。
後悔のない1ヶ月を過ごしてみたい。
空からこぼれ落ちる雪が、体に落ちては溶ける。
いつもなら寒くて仕方がないはずの毎日が、今だけは不思議と寒くはなかった。
原因はわからない。きっと科学的根拠に基づいていない何かが起きているのだろう。
もしかすると、私の恋する乙女の気持ちが病に打ち勝っていたのかもしれない。
真っ白な雪景色に消えて行こうとしている彼の背中を追いかけるのに時間は必要なかった。
こうして、私の期限付きの恋が始まった。
確かな未来、別れと悲しみが来るのを分かった上での一生に一度の最後の恋が...
神楽くんと一緒に帰った日から1週間が経過した。
この1週間、何の進展もあることなく時間だけが非情にも過ぎてしまった。
少女漫画や恋愛小説でもあるような展開は、あくまでフィクションであり、現実はそう上手くはいかないのだと思い知らされた。
唯一の接点といえば、放課後の掃除当番が同じになったことくらい。
その時ですら、会話をすることはほぼなく、「これどこに捨てるの?」と業務連絡のような会話のみだった。
正直言うと、1週間前の自分が恥ずかしくもある。
勘違いをしてしまった挙句、当の本人には見向きすらしてもらえないなんて。
一体あの時の優しさは何だったのだろうか。それに加え、なぜあの日だけ一緒に帰ろうとしたのだ。
寄っては離れられたことで、益々私の想いは募るばかり。
恋愛テクニックでもあるように、押してはダメだったから離れたのだろうか。
それにしても、離れすぎではないだろうか。
離れるにしても1週間で、話した内容がたった一言はやばくないか。
頭の中が悶々とするが、現状はどう頑張ったところで変わることはない。
私からアクションをするのが、先決かそれとももうしばらく待っているのが正解なのかわからない。
ただこれだけは言える。待てば待つほど、私の残り時間は限りなく0に近づくということだけは。
「おっはよ〜!」
閑静な朝の住宅街に響く、どこまでも透き通っていきそうな元気のいい声。
振り返らなくても分かるのは、彼女とは長い付き合いを経ているから。
トンっと肩に手を置かれる。たったそれだけのことなのに、私には羨ましく感じてしまう。
彼女の温かみのある手に...
私には失われてしまった人の温もり。かろうじて残ってはいるものの、決して温かなものではないだろう。
人に触れてしまえば、「冷たっ」と言われかねない温度。
自分ではどのくらい冷たいのか認識できないのが辛いところでもある。
「おはよう」
肩に置かれた手を意図的に握り返さないように、手が置かれた肩を少し下げて自発的に手を肩から下ろさせる。
特に不思議がる様子もなく、結衣の手は元の位置へと戻された。
まだ肩には、結衣の熱がほんのりと残っている。
私が喉から手が出るほど欲しくてたまらないもの。
みんなが当たり前のように持っていて、特に意識することもなく日常を過ごしているのに...
「琴音、今日体調悪い?」
ビクッと心臓を手で触れられたかのような感覚が全身を駆け巡る。
「わ、悪くないよ?」
「なんかいつもより顔色が優れないから、体調悪いのかと思っちゃった」
「あー、実は昨日夜更かししちゃってさ。もしかしたら、それで顔色悪く見えるのかも」
つらつらと次から次へと嘘を重ねる。こんな自分に心底嫌気がさす。
そんな嘘を微塵も疑うことのない結衣を見ていると、心がギュッと締め付けられるくらい苦しくなる。
余命のことを知ったら、結衣はどんな感情を抱くのだろう。
悲しみ? 怒り? 哀れみ?
どれも今の彼女からは想像のできない姿ばかり。
「・・・ごめんね」
「ん? 何か言った?」
「ううん。何でもないよ。そういえばさ、今日の宿題さ・・・」
あと何回結衣とこの道を歩けるのだろうか。結衣は、何百回、何千回と数え切れないくらい通るであろう道。
その回数の中に私はどのくらい残れるのかな。
10回...いや、もっと少ないかもしれない。
昨夜積もった雪についている無数の足跡。
誰かが通った際につけられたもの。
私の生きた証も足跡のようにくっきりと誰かの心にでも残り続けるのだろうか。
時の風化と共に、薄れゆくのではなくいつまでもいつまでも誰かに想ってもらえる人生を歩みたかったな。
道端に咲いた名も知らぬ花に積もった雪を手に取る。
以前はひんやりとした感覚が肌を伝ったが、今は何も感じられない。
冷たいはずなのに、冷たくない。不思議な感覚だった。
雪は冷たいものとばかり思っていたことが、冷たく無くなるなんて。
雪を失った花は、本来の輝きを取り戻したのかいつもよりも美しく、逞しく見えた。
「綺麗・・・」
ふと視線を手に戻すと、そこには熱で溶け切れないまま残された雪の塊が手のひらに残り続けていた。
形を一定に保ったままの白い結晶を眺めたまま、私は寒さに震えながら雪と一体になるのを感じていた。