あの人の周りはいつも輝いている。
キラキラ、と。
どんな人混みの中でも、あの人だけはすぐに見つけられる。
別にあの人を恋愛対象として見ているわけじゃない。
ただ、キラキラだからだ。
容姿端麗で成績優秀な上に、運動神経も抜群でコミュニケーション能力も完璧。
まさに完璧な人。
何もかもが平凡で、唯一の趣味が絵を描くことだけのわたしとは正反対。
なのに、なぜだ。

「絵上手いな、お前」

あの人に話しかけられているのは。
「え、え、えええっ?」
頭がパニックでぐるぐると回る。
「お前、絵上手いけど、なんか変なやつだな」
「――ぐっ」
言葉のナイフがわたしの胸を突き刺した。
変って…………。
けれど、目の前の男の子は気にせずに続ける。
「つーか、頼みがあるんだけどよ」
また変な声が出そうになる。
この人が、わたしに頼み……?
「えっと、え……なんべ?」
なんべ、って何。絶対にまた変な人って思われた……。
「その前に自己紹介しよーぜ。名前を呼ぶにも、頼みを受けるにも相手のことを知っておいた方がいいもんな。俺、雅人(まさと)、一年。お前は?」
雅人と名乗った男の子は特に何も言わずに、にかっと眩しい笑みをわたしに向けてきた。
ううっ、目が焼けるっ……。
と、雅人くんから目を逸らして、ぼそぼそと答える。
「わ、わたしは、――う、美しい姫って書いて、美姫。一年」
「へえ。いーじゃん、なんでそんなに嫌そうな顔するんだよ」
「だって、わたしなんて、美しくないし、姫なんて…………」
「自分じゃなかなか気づかないことだけどよ、お前、磨いたら姫になれるぞ」
「――み、磨く?」
「そ。頼みってのもそれ。お前を磨きたいんだ。俺は将来、ヘアメイクアップアーティストになりてぇんだ」
にかっとまたあの眩しい笑みを向けて、将来のことを堂々と言う彼が更に眩しく見えて、また目を逸らしてしまう。
というか、わたしを磨きたいって、どういうことなんだろう。
「あの、磨くってどういう――」
「磨くってのは――例えば今のお前は、髪はすごく綺麗なのに顔は何もしてねえだろ。それはズバリ、自分に自信がないからだ。だから、俺がヘアスタイルもメイクも完璧にしてやるよ。この俺がお前を輝かせてやるんだ」
雅人くんはそれだけ言うと、分かったか、というふうにくいと首を右に僅かに傾けた。
「こんなわたしでも、輝ける?」
「おう、この俺が言うんだから間違いねえよ」
「なら……」
本当に輝けるのかと疑心暗鬼のまま頷くと、雅人くんは今日一番眩しくて明るい太陽みたいな笑みを浮かべた。
どくどくと鼓動が早鐘を打ち始める。
不器用に口角を上げてみた。けれど、全く笑うことがないから、頬が引きつってしまう。
「絵は上手いけど、笑うのは下手だな」
けたけたと笑い声をあげて雅人くんは言った。
恥ずかしくなって、すぐに笑うのをやめる。
「で、お前を輝かせることだけどよ、どうする?」
「え? ど、どうするって、どういうこと……?」
「どこでやるんだよ、メイクとヘアメイク。さすがに学校だと嫌だろ」
「えっと、じゃあ、わたしの家、くる? 両親、共働きでいつもいないから、良かったら……」
自分を指さして軽く首を傾げて尋ねると、
「おっ、いいの? さんきゅー。じゃ、明日四時に行くから」
雅人くんは一方的に決めてしまった。
まあ、予定もないからいいのだけれど。
住所を伝えると、窓からしゃがんで美術室を覗く格好だった雅人くんはしゅたっと立ち上がって、「じゃーな」と行ってしまった。
ほっと息をつくと、どどっと緊張が押し寄せてきた。
ずっと憧れで、わたしにとって絶対不可侵領域にいたあの人を、家に招待してしまった。
ばくばくとまだ心臓が飛び跳ねている。
明日、四時。
「帰ろう……」
自分を落ち着かせようとあえて声に出して、床に散乱したパレットや絵筆を拾って、絵の具セットに戻す。
青、黄、赤、橙、紫、黒、白――。
様々な色の絵の具をひとつひとつ丁寧にしまっていく。
すうと鼻から息を吸い込むと、美術室特有のフェノールともカビともつかない独特な匂いがした。
わたしは意外とこの匂いが好きだったりする。
通学鞄を右肩にかけて、重い絵の具セットを反対の肩にかける。
しっかりと鍵をかけてから、美術室を後にする。
下駄箱で上靴とローファーを履き替えて学校を出て、駅を目指して歩き出す。
目指す、といっても横断歩道を一度渡ったすぐそこなのだけれど。
赤信号には捕まらずに、横断歩道を渡って、駅の改札を抜ける。
ちょうどやってきた家の最寄り駅に止まる電車に乗って、扉の閉まる直前にいつもの吊革に掴まる。
席は空いているけれど、立っている方がわたしは落ち着くのだ。
二駅ほど乗り過ごしたら、家の最寄り駅につく。
ホームに降り立って、点字ブロックの内側に沿って改札に向かって歩いて行く。
改札を抜けて帰路についた。
真っ直ぐ一直線に歩いていって、突き当りを左に曲がって少し行った先がわたしの家だ。
けれど、まだ誰もいない。
両親は共働きで帰ってくるのはいつも九時台だし、兄妹もいない。
つまり、父と母が帰ってくるまではわたしひとりというわけだ。
まあ、変に気を遣われて早く帰ってこられるよりは、気兼ねなく過ごせていいのだけれど。
角を曲がろうとしたら、ぼうっとしていたものだから目の前にあった電柱に危うく衝突しそうになった。
落ち着け、わたし。
はーっとため息を吐いて、また足を動かす。
河合(かわい)」と表札の出た、現代風のよくある門をキイと開けて、家の鍵を取り出す。
落としてもすぐ分かるように、と付けたキャラクターもののマスコットの笑顔がくらくらと揺れている。
鍵を鍵穴にさしこんで開錠すると、かちゃんと小気味のいい音がなった。
鍵穴にささったままの鍵を抜いて、ドアを開ける。
さっと俊敏な動きで家の中に入り施錠して、ローファーを脱いだ。
やけに力の入った一歩を踏み出して、リビングのダイニングテーブルに一旦鍵を置く。
トントンと二階へ上がり、自分の部屋へ行く。
通学鞄といつもかけている伊達眼鏡をはずして置く。
窓に付いたクレセント錠を下ろして、窓を開ける。
ずっと密室で籠っていた部屋の空気を入れ替えるためだ。
一分ほどで窓とカーテンを閉める。
制服からパーカーとジーンズという簡素な服に着替えて、一階のリビングに下りる。
ダイニングテーブルに置いておいた鍵を鍵入れに入れる。
そして、ベランダに乾されている洗濯物を取り込んで、畳んで、クローゼットなどにしまっていく。
ふうと一息吐いたら、リビングと繋がっている台所で、両親の分は帰ってくるころには冷めてしまうので、いつも作っていないから、
ひとり分の夕飯の準備をし始める。
子供に、もう高一とはいえ、家の家事のほとんどを任せてしまうというのは親としてどうなのだろうか、と両親に対して思いながら。


夕飯を食べ終えてお皿を洗い終えたら、いつもの何倍もへとへとになった身体をソファに凭せ掛けた。
「あー疲れた…………けど」
けど、いいことがあった日、かもしれない。
ソファに俯せになって、ふっとくぐもった小さな笑いを洩らして、勢いよく起き上がった。
この勢いのままお風呂に入ってしまおうと動き出す。
浴槽を洗って、ボタンを押す。
お風呂が沸いたら、服を脱いでシャワーを浴びて、今さっきお湯張りをしたばかりの浴槽に浸かる。
それまでの動きは実に迅速だったのではないだろうか。
てきぱきと無駄なく動けていたと思う。
ひとりそんなことをドヤ顔で思う。
視界がふわりと立ち昇った湯気で白く霞む。
お皿を洗って冷たくなった手が暖まって、じんわりと熱くなった。
霞んだ天井を見上げながら、ぼんやりと考える。
もし本当にわたしが輝けたとして、どうなるのだろうか。
そもそもわたしなんかが輝けるのだろうか。
思うけれど、どうしても輝けると期待してしまっている自分がいた。
明日が楽しみだと、たまには期待くらいしてみてもいいだろうか。
あの人なら、雅人くんなら、きっとわたしを輝かせてくれるとなぜか確信していた。
ぼうっと顔が熱くなってきていることに今更ながら気が付く。
このままでは逆上せてしまう。
いそいそと浴槽から出て、蓋をする。
髪と身体をしっかりとタオルで拭いて、星空みたいな柄のパジャマに着替える。
タオルを首に巻いて、抽斗(ひきだし)からヘアドライヤーを出してコンセントに挿した。
風量マックスでぶおおーと髪を乾かす。
髪が乾いたら、コンセントを抜いてヘアドライヤーを抽斗に戻して、タオルを洗濯機に放り込む。
最後、お風呂と洗面所の電気を消して二階へ上がる。
そろそろ両親が帰ってくるころだろうと思ったのだ。
両親は同じ会社で働いていて、大体いつも同じ時間に帰ってくる。
たまに帰ってきた二人とリビングで鉢合わせすることもあるけれど、そういうときは、もう寝るから、と伝えて自分の部屋へ逃げる。
気まずいからだ。
コミュニケーションを取らなさすぎて、どう接したらいいのかわからないのだ。
わたしが小学四年になったころから、両親の帰りが遅くなり、家を空けることが増えた。
それから、必要最低限の会話以外はしなくなった。
部屋に入りドアを後ろ手で閉める。
そのときちょうど開錠してドアを開ける音がしたので、カーテンを(めく)ってそろりと窓を覗き込む。
当然ながら両親の姿は見えなかった。
けれど、二種類の足音がしたので二人が同時に帰ってきたことを知る。
特に出迎えに行ったりもせず、この間買ったばかりの好きな作家の新作を読むことにする。
ベッドの毛布の上に寝転んで、ラクな体制で栞の挟まれたページを開く。
文字を目で追いながら、階下からの両親の話し声が聞こえてきて読書に集中できないから、ノイズキャンセリングイヤホンを何も流さずに耳にさしこんだ。
小さな両親の話し声はわたしの耳でノイズキャンセリングイヤホンに掻き消された。
しばらく無音の中で読書に集中していたのだけれど、途中でまだ歯を磨いていないことに気付いて本を閉じてノイズキャンセリングイヤホンを机の上に置いた。
なるべく音を立てないように抜き足差し足で洗面所に向かう。
リビングの前を通ったとき、まだ二人の話し声が聞こえてきたので、これなら顔を合わせることもないだろう。
ほっとため息を吐いて、歯磨き粉でしゃこしゃこと小さな音を立てながら歯を磨く。
六分ほどで磨き終え、口をゆすいでまた抜き足差し足で部屋へ戻る。
そのときに、たまたまお風呂に入ろうと思ったのか、リビングから出てきたお父さんと鉢合わせてしまった。
「あ、お父さん。帰ってたんだ」
本当は知っていたけれど、知らなかったフリをした。
特に意味はない。
「ああ。さっきな」
「そうなんだ。わたしもう寝るから。おやすみ」
少しぎこちなくなってしまったけれど笑顔を作る。
お父さんは特に気にした様子は見せず、わたしのおやすみに頷いて洗面所へと歩いて行った。
ほうと自分にしか聞こえないくらい小さなため息を吐いて、自分の部屋へと戻る。
ぱちと部屋の電気を消して、ベッドの上に置かれた文庫本を勉強机に置く。
静かに毛布の中に入って目を閉じた。
少し寝返りを打っただけでベッドがぎしと音を立てる。
なかなか眠れないので一旦目を開けて、ぎしぎしと音を立てながら、壁のある方に擦り寄っていった。
天井を向くと、月の明りで天井のシミが見えた。
大きな点のシミが三つ。
人がいるのかと思ってどきりとする。
けれど、よく見ればシミュラクラ現象だとわかり、ほっと息を吐いた。
とはいえ、怖いものは怖いので、壁のある方に身体を向けて、次こそはしっかりと目を閉じる。
深く柔らかい眠りに落ちていく。



目覚ましが鳴っている。
その音で目が覚めた。
うるさい目覚ましを止めて、ベッドの上でしばらくぱちぱちと瞬きを繰り返す。
おぼろげだった記憶を取り戻したら、はっと起き上がった。
時間を見る。と、九時半。
もう学校に行かなければいけない時間だ。
「遅刻っ」
両親のいつも出て行く時間をとっくに過ぎている。
クローゼットに飛びついて、制服を取り出した。ところで、はたと思い出す。
今日、日曜日だ。
世界がひっくり返るほど慌てていた数秒前の自分が恥ずかしい。
顔を熱くしながら、制服をクローゼットに戻した。
代わりに半袖の白いシャツとショートパンツのジーンズを出してきて着替える。
夕方に雅人くんが来るということを思い出して、いつもよりも念入りに髪を()かした。
横の髪が邪魔なので、紺碧(こんぺき)色のカチューシャをつけた。
ぐーっと伸びをしてカーテンを開けて、一階に下りる。
洗面所で洗顔と歯磨きを済ませたら、台所で朝食の準備に取りかかる。
昨日の朝の残りのヨーグルトにグラノーラを少し入れて、食パンを焼く。
食パンが焼けたら、バターを塗って完成。
誰にでもできる簡単な朝食だ。
まず先にヨーグルトを食べ終えて、食パンに(かじ)りつく。
一瞬で食べたら、ヨーグルトと食パンのお皿を下げて、洗う。
お皿洗いを終えたら、朝食を食べたのでまた歯を磨く。
そして、洗濯物をベランダに乾す。
ふいーっと息を吐く。
これで朝わたしがやるべきことは終わる。
そしたら、二階の自分の部屋へ行き、紺碧のカチューシャを取り、伊達眼鏡をかけて、財布とスマートフォンと鍵を持って家を出る。
きちんと施錠したのを確認して、ぼんやり歩くこと数十分。
目的のここは、わたしがよく利用している、CDショップと併設された本屋だ。
CDを買うときも小説を買うときもいつもここを利用している。
家と近いし、置いている小説やCDの数、ジャンルが多いのだ。
まさにCDと本をよく買うわたしにとって打ってつけのお店だ。
自動ドアを通り抜けて中に入ると、途端に世界が変わったように心が晴れやかになる。
今日は本を買いにきただけなのだけれど、一応好きなアーティストの新しいCDが出ていないか確認して本のコーナーへと向かう。
特に新しいCDは出ていなかった。
そのことに少し残念な気持ちになりながらも、既に誰の小説を買うか、とわたしの頭は考え始めていた。
基本的にわたしはミステリーを読むので、ミステリーの置いている棚で立ち止まる。
じっと意思疎通をするように棚と向き合う。
悩みに悩んだ結果、結局はわたしのイチオシ作家の気になっていた小説を三冊買った。
一冊買う予定だったのだけれど、つい三冊も買ってしまった。
予想外の散財だったな。
がくりと肩を落として小説の入った紙袋を片手に、本屋を後にする。
お金のことは気にしないようにして、これからのことを考える。
今は三時だから――って、三時⁉
少々頭の中で混乱する。
歩きながら頭の中を整理する。
三時。わたしは家を一時に出たはずだ。
そうか、わたしは小説を買うのにそんなに悩んでいたのか。
どこか他人事のようにそう思う。
急いで帰らなければ、もうすぐ雅人くんが来てしまう。
たったっと小走りで家へ帰る。
開錠して、靴を脱ぐのももどかしくリビングに行く。
鍵を鍵入れに投げるように入れて、いつ来ても大丈夫か家の中を確認する。
テレビの前のローテーブルを拭いた覚えがなかったので拭く。
他は何もなかった。大丈夫だ。
ほっと胸を撫で下ろして、まだ三時半なのを確認して自分の部屋へ行く。
勉強机で、書店のロゴが入った紙袋を開ける。
どきどきしながら紙袋の中を覗くと、やはりそこには先程買ったばかりの小説が入っていた。
そのうちの一冊、一番ページの少ない小説を手に取る。
「よいせ……っと」
とベッドに座って、小説を開く。
始まり方がわたしの好みで、速いペースで小説を読み進めていく。
四十ページくらいまで読み進めたところで、チャイムが鳴った。
続きを名残惜しく感じながらも小説を勉強机に放って、一階へと下りていく。
玄関の前で深呼吸を一度して、ドアを開ける。
「よう」
片手を上げてそこに立っていたのは、予想通り雅人くんだった。
昨日みたいに制服ではなく、今日は私服だった。
雅人くんはとても重そうな黒のボストンバッグを肩から提げている。
「よ――よう」
緊張しすぎてどうしたらいいのかわからなくなって、咄嗟に雅人くんと同じ言葉を返すと、雅人くんにけらけらと笑われた。
ふしゅうと顔から湯気が出そうなくらい顔が熱くなる。
「上がっていいか? 化粧品とか色々持ってきたんだけど」
こくこくと頷いて、雅人くんが上がりやすいようにわたしは玄関から少し離れた。
雅人くんが靴を脱いだときを見計らって、案内するためにリビングまで先立って歩き出す。
ダイニングテーブルの椅子に座ってもらう。
麦茶を出して、わたしも雅人くんと向き合う形で座る。
「なあ。お前さ、なんで伊達なんてしてんの? ファッションでしてるとは思えないんだけど」
どきりと心臓が飛び跳ねる。
伊達眼鏡が危うく落ちるところだった。
というか、なぜバレた。
「なんでわかったの?」
「いや、普通にわかるだろ。レンズ反射してるし。てか、なんでしてんのか知りてぇんだけど」
「それは……」
「なんだよ、自信がないからか?」
ほとんど雅人くんの言葉に重ねるように、強い口調で言った。
「そう。自信がないから、伊達眼鏡をかけて、存在を薄くしてるの」
雅人くんはじとりとわたしの目を見つめて、にやりと口角を上げて俯く。
笑いを堪えるように身体を震わせてから、顔を上げた。
その目を見て、冷水をかけられたようなひやりとした感覚を味わう。
「ああ、やっぱり俺はお前を輝かせたい。俺がお前の世界をひっくり返してやるよ、なあ?」
世界の底深くを見ているようなぎらりとした目を、雅人くんはしていた。
今の雅人くんは、キラキラではなく、ギラギラと眩しく派手に輝いている。
雅人くんは、不気味だけど美しい、そんな輝き方をしていた。
ああ、こういう人が輝く人なんだ。
そう思うと同時に、わたしもこうなりたいと思った。
わたしは今までにないほど強く強く頷いた。
このわたしを、輝かせるものなら輝かせてみろ。



キラキラ、と輝いている。わたしが。
わたしの肩より少し長いセミロングの髪がくるりんぱのひとつ結びにされていて、顔もなんだか明るくなっている。
ぱちっと開かれた目、くっきりとした目鼻立ち、すらりとした綺麗な肌。
まるでわたしじゃないみたいだ。
魔法をかけられた気分だ。
こんなわたしでもキラキラになれちゃった。
「な、輝けただろ?」
無邪気な笑顔でわたしを見る雅人くんが今はあまり眩しくない。
少しだけ眩しいけれど。
「すごい……」
「どうやってやるのか教えてやるから、これで学校来てみろ。世界がひっくり返るのはそれからだ」
「今でも世界がひっくり返った感じだけど」
「ふん、わかってねえな。お前、学校で友達いないんじゃねえの? しかもそれだけじゃない、距離を取られてる。いつも眼鏡で本ばっか読んでておまけに地味で根暗な女子だって」
図星だったから、何も言えなかった。
ぐっと押し黙った。
「ほら、そうなんだろ。だからそれで学校行け。『地味な根暗女子』から『美しい姫』になるから」
「でも、そうならなかったら?」
「なる。なれる。この俺が保証する」
でもまだ疑っている自分がいて、わたしの頭を悩ませる。
これで学校に行けば、本当に美姫という名前に見合う自分になれるのだろうか。
それでも結局、行くことに決める。
輝きたいという思いの方が不安に勝ってしまった。
「わかった、明日これで学校に行く。だから教えて。今のわたしになる方法」
がたんと椅子から立ち上がって言った。
雅人くんはまたあのぎらりとした目をして、頷く。
化粧品などを出して、ひとつひとつどう使うのか、どう扱うのか、を丁寧に説明してくれた。
一時間ほどで今のわたしになる方法をマスターし、雅人くんは化粧品を予備でまだ持っているからとくれた。
ついでにヘアアレンジのくるりんぱのときに使った髪ゴムもくれた。
「じゃあ、俺帰るわ。もう五時半だし」
リビングの壁掛け時計を一瞥し、雅人くんはさっきよりほんの少しだけ軽くなったボストンバッグをまた肩から提げて玄関へ向かう。
そこで、思い出したように雅人くんはスマートフォンを取り出して言った。
「連絡先交換しね? なんかあったときのために」
その提案にわたしは頷き、わたしもスマートフォンを出した。
連絡先を交換し合って、ちゃんとお互いが登録されているのを確認し合って、雅人くんは帰って行った。
門のところまで雅人くんを見送りに行って家に戻る。
がちゃんとドアを閉めて、施錠する。
と、どっと嬉しさがわたしに押し寄せた。
そのまま玄関に座り込みそうになるのを必死に堪えて、なんとかリビングまで行く。
姿見の前に立った自分の姿を見て、「ほああ」と感嘆の声を洩らした。
今のわたしなら、ちゃんと「可愛い」と思うことができる。
自信が湧き上がってくる。
わたしを見て。可愛いでしょ、キラキラでしょ。
そう言いながら、この世界を闊歩(かっぽ)したい。
みんなわたしを見たら足を思わず止めてしまうような、それくらい今のわたしは可愛いと思う。
明日が楽しみだ。
ふんふんと下手な鼻歌を歌いながらそう思う。
ダイニングテーブルにまとめられた色々なメーカーの化粧品たちをもらった青と白のチェック柄の化粧ポーチにしまって二階の部屋に持って行く。
化粧ポーチを大切に大切に机の抽斗にしまって、洗濯物を取り込むために一階に下りる。
輝けたからといって、毎日やる家事がなくなるわけではない。当然だ。
けれど、いつものようにため息を吐きたくなるようなことはなかった。
ベランダへ行くついでにまた鏡をちらりと見て、通り過ぎる。
やっぱり可愛い。
いつもは伊達眼鏡をかけているから、メイクなんてしていなかったから、メイクをする意味がよくわかっていなかったのだけれど、今はわかる。
人によっては違うかもしれないけれど、わたしにとっては、自分に自信を持つためにメイクをするのだと、そう思っている。
だって、少しメイクとヘアメイクをしてもらっただけでこんなにも自信がつくのだ。
前までは自分を見たくなくて鏡を極力見ないようにしていたくらいなのに、今は自分から鏡を見に行く。
雅人くんはわたしを輝かせてくれた、まさに魔法使いだ。
洗濯物を畳んでクローゼットなどにしまったら、夕飯の食料調達のため、買い物へ出かける。
家から徒歩五分ほどのすぐ近くにあるスーパーだ。
少し小さいので物品の数は大きなスーパーよりも比較的少ないが、夕飯の材料くらいは揃うので、特に不便ではない。
エコバッグを肩にかけて、鏡の前で前髪と髪が崩れていないか確認した。
やっぱ可愛い。
今日何度目だ、その言葉。
と内心でツッコミながらも頬が緩んでいる。
きゅっと頬を引き締めて、家を出た。
家を出るとき、胸の高鳴りを感じたけれど、気付かないフリをした。
何かのフリは得意だ。
スキップをしたくなるのを懸命に堪えて、一歩一歩を踏みしめる。
わたしは今ちゃんと「姫」になれているだろうか。
そんな不安が胸を過ったけれど、そんなことない、と不安を押し退ける。
と、そのとき、クラスメイトの女の子とすれ違った。
すぐ横を女の子は通り過ぎていった。
どきりとしたが、どうやらわたしだと気付かれていないようだ。
まあ、いつもは伊達だけど眼鏡だってしてるし、根暗だし。
「あれ、宮原さん?」
ほっと胸を撫で下ろした瞬間、呼び留められた。
ぎくしゃくとした動きで恐る恐る振り返ると、やっぱりわたしを呼び留めたのはさっきすれ違った女の子だった。
わたしが何も言えないでいると、つかつかと女の子は歩み寄ってきて、俯きかけているわたしの顔を覗き込んだ。
ひえっ……。
「あ、やっぱり宮原さんだ。っていうか、めちゃくちゃ可愛くなってる! どしたの、イメチェン?」
にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべて、女の子は更に顔を覗き込んでくる。
予想と違った反応に、顔が自然と上に上がっていった。
可愛いって言ってもらえた……!
「えっと、うん。イメチェン、みたいなもの、かな」
へらりと下手な笑顔でこくりと頷く。
「そうなんだ! いつも伊達かけてるからさ、なんか変な子だなーって思ってたんだけど、今の宮原さん、めっちゃ可愛い! モデルさんみたい」
「ほ、ほんと?」
「うん。ね、なんで今まで地味な格好してたの?」
「自分に自信がなくて……」
「あー、あるあるだよね。でも、今の宮原さんキラキラしてて、自信に満ち溢れてるみたい」
その言葉に目を見開いた。
今のわたしは、キラキラ……してる……。
「ありがとう。あの、佐藤さん……だよね。良かったら、友達に、なら、なりませんか? まだ友達いなくて、良かったら……」
「えっ、いいの? こちらこそっ! ずっと話してみたいと思ってたんだけど、話しかけていいのかわからなくて」
「そうだったんだ、じゃあ逢えてよかった!」
「うん」
「じゃあ、わたし行くね。また明日学校でね」
「あ、うん。またね」
手を振りながら、佐藤さんは反対方向に歩き去っていく。
すごい、すごい。
道路の端に寄って立ち止まり、スマートフォンを開いて、メッセージ画面を開く。
名前が西本(にしもと)雅人と表示されているアイコンに、
<雅人くんのメイクのおかげでクラスメイトの子と友達になりました>
と初めてのメールを送信した。
すぐに既読がついて一分もしないうちに返信が返ってきた。
<よかったな>
絵文字も何もたった五文字の素っ気ない文章だけれど、それだけで胸が高鳴った。
雅人くんからの返信に既読をつけて、スマートフォンを閉じる。
歩き出しながら、わたしが雅人くんに惹かれ始めていることを感じていた。
まだ初めて話してから二日だけれど、それでも惹かれている。
前に前に足を動かして、スーパーに着いた。
顔がかっかしている。
入口で買い物カゴを持って、夕飯の食料をカゴに入れていく。
輝けたお祝いとしてデザートにハーゲンダッツを買って、会計に進む。
お金を支払い、エコバッグに買ったものを詰め込んでスーパーを後にした。
帰り道を歩きながら、息切れがしてきて一旦立ち止まる。
息切れなんて今まで走ったときしかなったことなかったのに。
止まって、歩いて、また止まって、歩いてを繰り返す。
けれど今はそのことよりも、ハーゲンダッツが溶けていやしないかと不安でならなかった。
家に着いたら、まずハーゲンダッツを冷凍庫に入れ、他の食材も冷蔵庫にしまった。
ハーゲンダッツが溶けていないか確認する術はないけれど、たぶんまだ溶けてはいない。
ほっと安心した息を吐いて、夕飯の支度を始めた。
さっきの息切れはなんだったのだろう。
そう疑問に思いながら、研いだ白米を一合炊飯器にセットしている間に、味噌汁と小松菜のおひたしを作る。



テレビニュースをつけて、ハーゲンダッツを食べる。
贅沢な食後だ、と我ながら思う。
こんなことをしたのは数か月、下手したら数年前かもしれない。
ハーゲンダッツが食べ終わったときにちょうどお風呂が沸いたことを知らせる音楽が鳴った。
テレビを消して、お風呂に入る。
浴槽に浸かってから数十分後、そのまま寝てしまいそうになって、浴槽から上がった。
髪と身体を拭いて、夜空のパジャマ姿になって、髪を乾かしたら歯を磨いた。
口をゆすいで、自分の部屋へ行って、カーテンを閉める。
ベッドに寝転んで左肩を下にして小説を読む。
読みながら、両親が帰ってきた音がした。
玄関のドアを開ける音が最後の音だった。
気が付けば眠りに落ちていた。
毛布だけはかけていたから、寒さで夜中に起きたりはしなかった。
ぱっと起きたときには、もう六時だった。
両親はいつも七時に出て行くので、まだいる時間だ。
あまり顔は合わせたくないけれど、学校にいく準備をしなければいけないから仕方がない。
まず制服に着替えて、なるべく音を立てないように一階に下りる。
と、お母さんとちょうど鉢合わせた。
「美姫」
驚いたような表情をしている。
「お母さん、おはよ」
「おはよう――」
お母さんがそこまで言ったとき、突然胸が痛くなって、呼吸が苦しくなった。
ぎゅっと爪を立てて胸を押さえて、(うずくま)る。
「美姫っ⁉」
苦しくてお母さんの顔が見れない。
お父さんがお母さんの悲痛な声を聞いて、駆けつけてきたのがわかる。
少しして、胸の痛みと呼吸困難が収まった。
ひゅーひゅーと息を吸って吐いてを繰り返す。
ちらりと両親の方を見ると、お母さんは虚空を見上げ、上の空で何かを考えている様子だ。
お父さんは難しい顔をしてスマートフォンでどこかに電話をかけ始める。
それが勤め先だと知り、電話の相手に聞こえないくらい小さな声で、
「いいよ、休まなくて。わたしは大丈夫だから」
そう言うと、お父さんは静かに首を振って、滔々(とうとう)と仕事を休む旨を伝えて、電話を切って、またどこかに電話をかける。
次はわたしの通っている高校だと知り、本当に申し訳ない気持ちになった。
そのとき、お母さんがわたしの腕を引いて、玄関まで引き連れていこうとした。
とりあえずついていく。
「美姫、何だったの。今のは」
心底、心配したような表情でそう問われた。
「わかんない。急に胸が痛くなって、息が苦しくなって…………」
俯きがちに言うと、お母さんは納得したようにこくりと頷いた。
「やっぱりそうなのね。まだ美姫が生まれたばかりの頃だから覚えてないだろうけど、美姫の叔父さんね、急性心不全(きゅうせいしんふぜん)という病気で亡くなったの。もしかしたら、美姫もそれかもしれない。ごめんなさい、こうなったのもきっと、わたしたちが家事を頼んだりしたから……。美姫、悪化してしまう前に病院に行きましょう」
有無を言わさぬ口調で言って、お母さんは鞄に保険証などを入れ、お父さんにわたしのことを手短に話してさっさと靴を履く。
「美姫、無理しないで。ゆっくりね」
と優しく言いながら、わたしの背中に手を添えて、車まで連れ添って歩く。
わたしは助手席に乗って、お母さんは運転席に乗り込む。
「何か苦しかったりしたら言ってちょうだいね。すぐ停めるから」
車が発車して、安全運転で近くの病院へ向かう。
歩いても行ける距離だけれど、途中でまた発作が出たらいけないから、と気遣ってくれたようだった。
病院の駐車場に車を停めて、またお母さんに連れ添われながら病院の受付まで歩いて行く。
わたしは待合スペースの椅子に座って待っているよう言われ、言われた通り大人しく座って待つ。
幸いなことに平日だからか患者さんは少ない。
これなら早めに診てもらえそうだ。
お母さんが小走りで戻ってくる。
「美姫。あと十分くらいで診てもらえるって」
わたしの隣に座りながら、お母さんは保険証を鞄にしまう。
こくりと頷いて、下を見つめる。
ああ、伊達眼鏡するの忘れてたな、と思う。
昨日のわたしになっていなければ自信のないわたしだ。
「美姫、大丈夫だからね。お医者さまに急性心不全とまだ診断されたわけじゃないのよ」
わたしが俯いていると、そのことを心配していると思ったのか、お母さんは小さな子供に諭すような声色で言った。
「河合さん、診察室へどうぞ」
やけに間延びした声に呼ばれる。
診察室まで案内されて、ばくばくと心臓が鳴っている。
こんこんと一度ノックして入ると、白い白衣を着た六十代くらいの物腰の柔らかそうな医者が椅子に座っていた。
医者の前に置かれている椅子に座るようにと促されるままに座る。
にこりと張りつめたこの場を和ませるような笑みを見て、少し心が軽やかになる。
「河合美姫さん、だよね。急性心不全の可能性があるんでしたっけ?」
「はい」
お母さんが隣で頷く。
「それはどういう経緯で、そう思ったのかな」
次はわたしが緊張して堅くなった声を出す。
「今日の朝、急に胸が痛くなって息が苦しくなって、急性心不全なんじゃないか、と――」
「ははあ。つまり、胸部の痛みと呼吸困難に陥ったわけですね。それは朝の何時頃かわかりますか」
「たぶん、朝の六時半くらいだったと思います」
「じゃあちょうど起きたばかりだったと」
「はい」
「症状を聞いたところ、急性心不全の可能性もあります。身体検査と検査をしてみましょうか」
お母さんの顔が強張ったのがわかった。
急性心不全だったらどうしよう、とわたしは不安になってくる。
もうあんな苦しいのは嫌だ。
怖い。



身体検査で心音や呼吸音に異常がないかなどを確認されて、検査では、心電図検査と心エコー検査という検査を受けて、わたしは急性心不全だということが判明した。
短くて余命一ヶ月、長くて半年だと宣告され、入院加療を受けられる総合病院を紹介されて、明日行くことになった。

――美姫さんの急性心不全は結構、進行している状態で、大変伝えにくいのですが、美姫さんの余命は短くてあと一ヵ月、長くても半
年といったところでしょう。

その言葉を聞いて、お母さんは顔を覆って診察室の床にへたり込んでしまった。
わたしの頭の中では、短くても余命一ヵ月、という言葉がぐるぐると今でも回っている。
そして、雅人くんの顔が脳裏を過る。
好きだった。
もしかしたら両想いになれるかもしれない、と淡い期待を抱いていた人がいたのに。
せっかく輝けたのに。
こんなことになるなら、輝いても意味ないじゃん。
やっぱりわたしには伊達眼鏡が似合うんだ。
こういう運命だったんだ。
そう思った。

「美姫、大丈夫? ごめんね、お母さん泣いちゃって。一番泣きたいのは美姫だよね、ごめんね。お母さんも協力するから。頑張ろう、生きよう。紹介された総合病院なら、そこなら治してもらえるかもしれない」
帰りの車の中で目を真っ赤に腫らしながらお母さんが言う。
わたしは、ただ放っておいてほしい、という気持ちとは裏腹に頷いた。
何も考えたくなかった。
「ごめんね、ごめんね、美姫。仕事ばっかり優先して、もっと一緒にいればよかったね……。これからはお母さん、なるべく美姫といるようにするから」
家に着いて、玄関で靴を脱ぐと同時にお母さんはぽつりと言った。
「うん。でも、平気だよ、わたしひとりで。総合病院、行くから」
「もし美姫が総合病院に行ってもちゃんと会える時間、増やすから」
お母さんがまた俯いて涙を流すので、わたしはただ頷いた。
「うん、うん」
背中をさすりながら、お母さんが涙を止めてくれるのを待った。
お父さんもしばらくして玄関にやってくる。
「どうだった」
「お父さん……あのね、わたし――」
そこまで言いかけたところで、お母さんが顔を上げた。
「美姫、いいよ、お母さんから話すから。美姫は部屋で休んでて」
わたしから言うよ、とも言えずにこくりと頷いて、言われた通り部屋へ行く。
抽斗から化粧ポーチを出して、胸で抱いて目を閉じる。
神様、どうか雅人くんをこれ以上好きになりませんように。雅人くんを諦められますように。
そう願って浅い眠りへと落ちていく。



三時間後に目を覚ましたときは、もう十二時だった。
はたと思い立って、スマートフォンを開く。
メールアプリで雅人くんをブロックした。
もう、関わらないために。
もらった化粧品の入った化粧ポーチをトートバッグに入れて、一階に下りる。
すると、案の定お母さんと顔を合わせた。
「美姫、どこ行くの?」
「気分転換に散歩行ってくる」
と言い訳すると、お母さんは心配そうにしながらも、「そう」と頷いてくれた。
スニーカーを履いて静かに家を出る。
行く先は、学校だ。
きっと雅人くんは学校にいる。
だから、このポーチだけは返さなければ。
もう関わってはいけないのだから。
これ以上好きになってしまったら、死ぬのが怖くなる。
雅人くんへの気持ちを諦めてでもそれだけは絶対に嫌だった。
学校の雅人くんの下駄箱にポーチを入れて、学校を去ろうとする。
と、誰かに呼び留められた。
「おい」
振り返ると、そこには雅人くんが立っていた。
なんで、授業中のはずじゃ、というわたしの疑問が伝わったのか、
「授業サボろうと思って来たら、お前がいた」
と飄々と言った。
わたしは咄嗟に踵を返して、走って逃げた。
雅人くんは意味がわからない、という顔で呆然としている。
ダメ、話したらダメ。
これ以上好きにならないって、もう関わらないって決めたんだから。
「何があったんだよっ!」
雅人くんの叫ぶ声が聞こえたけれど聞こえていないフリをして家まで走る。
家が見えてきたところでやっと走る足を止める。
このまま倒れてしまいそうなほど疲れた。
そうだ、わたしは病気なんだ。
あまり走らないほうがいい。
でも、どうせ死んじゃうんだから。
大股で歩いて家に入った。
「散歩は? もういいの?」
玄関で待っていたのか、息が上がっているわたしを見ながらお母さんが心配そうに問うた。
「うん。ちょっと疲れちゃった」
薄っぺらい笑いを浮かべるとお母さんはまた「そう」と頷いた。
靴を脱いで、二階の自分の部屋へ逃げるように行った。
制服だったのを思い出して、紺のスカートと白の半袖シャツに着替える。
髪を無造作に結んで、ベッドに俯せに寝転んだ。
もうあれから発作は出ない。
たまにしか出ないのかな、と安心してごろんと仰向けになる。
そのまま無駄にだらだらと時間が過ぎていった。


余命一ヵ月だと宣告されてから数週間後。
わたしは、今、無機質な真っ白い個室で四六時中ベッドに身を預けていた。
家の近くの病院に紹介された総合病院で、一昨日からわたしは入院することになったのだ。
「ああ、もう無理かもな……」
余命宣告されてから、あと二週間で一ヵ月が経つ。
わたしは最近、そう感じることが増えた。
もう諦めているというのもあるけれど、日に日に痩せていっているという事実から感じることでもあった。
治療を勧められているけれど、わたしは拒否している。
治療なんてわざわざしなくても、どうせ死ぬんだし。
スケッチブックに空の絵を描きながら、そう考える。
「よし、描けた」
わたしは毎日、病室から見える空の絵を描いている。
水彩絵の具で色を載せて、完成だ。
今日の絵は雅人くんぽいな。
そう思ってしまった自分を叱咤して、スケッチブックを閉じる。
と、そのとき。
がらりと病室のドアが開けられた。
ゆっくりとドアの方を見たとき、絶句した。
だってそこには、雅人くんがいたのだから。
「おい、美姫」
初めて名前を呼ばれる。
「美姫の両親から聞いてきた。どうして化粧品を返してきた?」
鋭い目に睨まれて顔が強張る。
なんて言えばいい?
これ以上好きになりたくないから?
それじゃ思いがバレる。
どうしよう、どうしよう、と頭がぐるぐるしているというのに、口が勝手に動いた。
「もう輝いても意味ないから」
「最後なんだから、『意味ないから』なんて言わないで楽しめよ。輝いて、輝いて、自分は輝き抜いた、って笑顔で死んだ方がいい。自分に正直になれ」
「でも、輝いたら死にたくなくなる」
「いい。それでもいいから、自分のやりたいことをやれ」
その言葉を聞いたとき、涙が自然と溢れてきた。
「ほらな。自分の好きに生きろ。自分の人生だろ」
そんなこと考えたことなかった。
すべてを諦めて、ただ無意味に時間が過ぎていくのを無力に見つめているだけ。
自分の好きに生きる…………。
「わたし、二回も雅人くんに救われちゃった。ありがとう。わたし、輝きたい。また雅人くんが輝かせてくれる?」
「ああ」
雅人くんは鋭い目をやめて、無邪気に微笑んだ。
わたしの顔に魔法をかけてくれる。
数分で可愛いわたしができた。
雅人くんはポーチを置いて行った。
そのポーチをそっと胸に抱いて、雅人くんの姿を見るのは今日で最後かもしれないと思い、今までにないくらい満面の笑みで別れた。



スマートフォンで完成した絵を写真に収める。
ずっとやろう、と思っていたことを今日、実行しようと思っている。
SNSで、宮原美姫というアカウントを作成した。
そこに、初めての投稿をするのだ。
今撮った写真と、言葉を添える。
この日がわたしにとっての最後の日になった。
その日の夜に体調が急激に悪化したのだ。
わたしは両親に手を握られながら、最後の時を過ごした。

最後、雅人くんの笑顔を思い出して、輝いていたわたしはその輝きを秘めたまま、永遠の眠りへ落ちた。










美姫が永眠してから、一年後。
俺の生きる希望だった美姫を失った俺は、もう生きることを諦めていた。

<河合美姫>
ある日、SNSでそんな名前のアカウントを見つけた。
たまたま同じ名前なだけだと思うが、覗いてみると、ひとつだけ投稿されていた。
フォロワーはゼロ。フォロー中もゼロ。いいねもゼロ。
誰にも知られていない投稿らしい。
けれど、その写真を見て、言葉を失った。
美姫の絵だった。
間違いない。
七行だけの文章が添えられていた。


わたしを輝かせてくれた君へ
輝きたいとずっと願っていたわたしに魔法をかけてくれて
ありがとう。
君はわたしの生きる希望でした。
好きでした。
どうかこの先も好きなことをして生きてください。
この空を君と見たかったです。


涙がぼろぼろと溢れて止まらない。
俺もずっと同じことを、思っていた。
美姫のいる総合病院に行ったとき、何気なく空を見たら綺麗な夕空が広がっていた。
その空を見て、美姫と一緒に見たいと思った。


――そうか、俺たちは同じ空を見てたんだな。


空を見上げたら、美姫が隣で一緒に空を見上げていた気がした。