ローファーのかかとを潰す。
それは、私がいい子をやめる儀式だった。
*
『また新しい彼氏できたらしいよ』
そのメッセージを皮切りに、グループの通知が鳴り止まなくなった。
『パパ活もやってるらしいね』
『お母さんが再婚して家に居場所ないんだって』
そんな信憑性のない噂話や、彼女のSNSのスクリーンショット。
誰と繋がっていて、どんなやり取りをしていて、なににいいねを押しているのか。
他人の事情で、どうしてここまで盛り上がれるんだろう。
私の学年で噂の的になっている子は、恋多き女の子らしく、付き合ったり別れたりを繰り返している。それを女子たちは面白おかしく噂していた。
スクロールしないと読み終わらないほど進んでいくメッセージを眺めながら、私はため息を漏らす。
誰も本人にメッセージ上で話したことを言えないのに。
話したことは数回しかないので、私はあの子がどんな性格なのか知らない。ただ人伝にだらしない性格だと聞いただけ。でもそれすら正しいのか怪しい。
けれど、こんなことを心の中で思っている私も彼女たちと変わらない。
なにもできなくて、流されて合わせる。
心の中で否定していれば、悪者にならないわけじゃないのに。
トークルーム一覧の中に、未読のまま放置しているメッセージが目に留まる。
既読にしなくても、彼からの最後の一言が表示されていた。
『待ってる』
内容は見えてしまっているのに、既読にすることができない。
こんな私でごめん。傷つけて、突き放してごめんね。
だけど、今更どうしたらいいのかわからない。
スマホを閉じると、廊下の方からお母さんの声がした。
「羽花〜! ご飯」
私は口角を上げて、「はーい」と明るい声で返す。
先ほどまでの沈んだ気持ちを切り替える。いつもの〝私〟を演じなくちゃ。
リビングへ行くと既にお兄ちゃんとお父さんが食卓についていて談笑している。お母さんが戸棚からグラスを出していたので、私はお茶を注いでいく。
座ってないでこれくらい手伝えばいいのに。
お父さんとお兄ちゃんは、家のことを全部お母さんに任せっきり。言われないと手伝うことすらしない。
けれど、ここで私が文句を言ったところで、空気が悪くなるだけ。
私の役割は、輪を乱さないこと。
それは学校でも、家でも同じだった。
お茶をそれぞれの席に置いて、私たちは食事を始める。
食事の時間は、少し窮屈だ。静かに食べたい私とは違って、家族はよく喋る。
「カスタマイズの画像見せながら注文してくるんだけど、レジ打ち大変だから口頭で言ってほしいんだよなぁ。この前なんてさー」
もう何回も聞いたよと言いたくなるお兄ちゃんのバイト先の話に、私はラジオ感覚で耳を傾ける。同調を求められたら、頷いて微笑んだ。
……今日もご飯がちょっと多い。私はお米があまり好きじゃなくて、できれば量を少なめにしたかった。だけど、少量にするとお母さんに「ご飯前になにか食べたの?」と聞かれてしまう。
あまり好きじゃないと打ち明けたこともあったけれど、「白米が嫌いな人とかいないだろ」とお腹がいっぱいで食べたくない言い訳だとお兄ちゃんに笑われたこともあった。
自分と他人の苦手なものなんて違うのに。
お兄ちゃんは決めつけるところがあって、時折うんざりとする。
「そういえば、テストは? 帰ってきたの?」
私はお母さんに「まだだよ」と返す。
小テストから期末テストまで、お母さんは全てを提出するように求めてくる。学校の交友関係についても、どんな子と仲がいいのかを聞かれることもあった。
それを友達に話したら驚かれた。どうやら「高校になっても監視する親とかありえない」らしい。
私はずっとこういう環境で生きてきたから疑問に思ったことがなかったけれど、みんなの家はテストは毎回見せないし、自分から話さない限り友達関係なんて聞いてこないそうだ。
「今回は成績上がるといいんだけど」
「羽花はいつも平均だもんなぁ」
両親の会話を聞きながら、ため息が漏れそうになった。
赤点を取っていなくても、平均だと残念そうにされる。平均ってダメなの?と言えずに、お味噌汁と一緒に言葉を飲み込んだ。
「羽花はオール普通って感じだよな」
お兄ちゃんがからかうように言いながら笑う。私は曖昧に苦笑したあと、口の中に入ったニンジンを歯で噛み潰した。
「ひとつくらい個性とか特技があるといいんだけどね」
家族は私のことをつまらない人間だと思っている。
真面目だとか大人しいとか、そういう言葉で表されることもあるけれど、私だって好きでこうなっているわけじゃない。周りの空気を読んで、言葉を飲んで、迷惑をかけないようにしているだけ。
「まあでも非行に走るよりかはいいと思うけど」
お父さんの言葉に、お母さんはちらりと私を見やる。
なにか言いたげだけれど、お父さんたちの前だから言わないみたいだ。
家族の中で、お母さんだけが私が付き合っていた人のことを知っている。
たまたま家まで彼が送ってくれていたのを、お母さんが買い物帰りに見たのが始まりだった。
見た目が派手だとか、素行が悪そうだとか文句を言いながら、彼の家庭環境や通っている学校について根掘り葉掘り私に聞いてきた。
『一緒にいると影響される』
眉間に皺を刻んで、お母さんは私に別れろと訴えてきた。
彼が私をよくない方へ引きずり込む人だと思ったのだろう。
怒りよりもショックの方が大きかった。私の好きな人を、お母さんにも受け入れてもらいたいと心のどこかで思っていたのだ。
『でも……』
『でもじゃないでしょ。ほら、そういうところがもう影響受けてる』
なにを言ってもお母さんは否定的だった。
彼の中身を見ようとしてくれない。……それだけじゃない。私の気持ちすら見えていない。
私はだんだんと彼の前で笑えなくなっていった。そんな私に彼はなにかあったのかと聞いてくれたけれど、答えられない。
そして重たい空気が流れて、気まずくなることが増えていく。
『なんでなんにも言ってくれねぇの』
『……ごめん』
お母さんがいつ彼に直接酷いことを言いにいくかわからない。中学の頃だって、私が友達と喧嘩をしてしまったとき、その子の家に電話をかけていたほどだ。彼にお母さんが連絡をするのは防ぎたい。
それならいっそ……今よりも好きになる前に離れた方がいい。きっと今ならまだ、少し時間が経てば過去の恋にできる。
このまま付き合っても、私たちは幸せになれない。
『別れよう』
顔を合わせて言う勇気が出なくて、私は一方的にメッセージを彼に送った。
何度も電話がきたけれど、私は一度も出なかった。
メッセージでも『話がしたい』『せめて理由が知りたい』と彼は言っていたけれど、どう伝えたらいいのかわからなかった。
『待ってる』
最後にくれたメッセージを、私は今も開けない。