ご飯とお風呂が終わった九時過ぎ、祖母が消灯と就寝を促した。
「昨日も夜遅くまで勉強してたんでしょう? 早く寝ないとだめよ」
遅く、と言ってもいつもよりずっと早く寝落ちしてしまった。東京では明け方まで勉強していたけれど、昨日は空が明るくなる前に意識が飛んだ。しかし、電気がついていてはいらない誤解を招く。参考書ではなく、スマートフォンの単語帳を布団の中で覚えることにした。
慌ただしかったせいかまたしてもスマートフォンを車から回収し忘れていたことを思い出す。取りに行こうとして、ドアを開けると翔が枕を持って立っていた。
「よっ! ばあちゃんの見回り終わったから遊びに来ちゃった! 女子の部屋遊びに行くって修学旅行っぽくね?」
「いや、私そういう気分じゃないんだけど」
翔が目をキラキラさせていた。
相手をするのは面倒くさかったけど、修学旅行という言葉を出されると邪険にしづらかった。小学校の修学旅行も中学校の修学旅行も行けなかった翔には同情の念があった。
それにスマートフォンを取りに行くのも祖母が寝てからの方が「布団の中でスマホをいじっちゃだめ」など余計なことを言われずに済むかもしれない。それまでの少しの時間なら翔の相手をしても罰は当たらないだろう。翔を部屋に招き入れた。
「なあなあ、清美。ぶっちゃけ、今好きな人いる?」
突然何を言い出すのかと面食らったが、普通に返事をする。
「いないよ」
「本当に? 東京ってイケメンいっぱいいるんだろ? かっこいい先輩とかいねえの?」
暗い中だと翔の表情はいまいちよく見えなかった。
「私、三年生なんだけど」
「あー、そうだった。俺ら三年生だったわ。ヤバイ、今のは俺がドジだった」
何が面白いのか、翔は手を叩いて笑う。
「本当にいねえの?」
「いないってば。なんでそんなこと聞くの」
「修学旅行って言えばコイバナだろ。つーわけで、俺も言うわ」
翔が私に耳打ちする。
「俺ね、今好きな人いる」
「ふーん」
それ以外に反応のしようがない。翔の学校の人間なんて一人も知らないから。
「じゃあ、次は清美の番な。昔好きだった人はいる?」
「それもいない」
「俺の番か。俺は今好きな人が初恋。じゃあ、次。彼氏ができたらしたいことは?」
翔の声はどこか嬉しそうだった。
「私、そういうのよくわかんないんだって」
私は恋を知らない。恋をするほど女子と会話する暇はなかった。クラスの女子は私のことをつまらないがり勉だと思っていることだろう。
「じゃあさ、ダウトしようぜ。俺が勝ったら教えろよ。ちなみに俺はドライブデートしたい!」
翔はスウェットのポケットからトランプを取り出した。
「却下。ダウトなんて絶対に翔が勝つじゃん」
他のゲームは大体互角だったけれど、翔はダウトが異様に強かった。嘘がうまいのだろう。
「しゃーないな。じゃあ、ババ抜きにするか。修学旅行って言えばババ抜きとかウノだもんな」
そう言って一枚抜くとカードを配り始める。
「ババ抜きって二人でやるゲームじゃなくない?」
私は苦笑する。二人のババ抜きは序盤のフェーズが完全に時間の無駄だ。
「確かに。二人じゃつまんねえか」
「ウノは持ってきてないの?」
本当は早くスマートフォンを取りに行きたかったし、それよりも翔がまだ寝るつもりがないなら電気をつけて問題集を解きたかった。しかし、修学旅行という言葉を出されると翔への同情心が勝ってしまった。二人でやるウノなら一ゲームはせいぜい五分で終わる。それくらいだったら、付き合ってあげても罰は当たらないだろう。
「ウノ持ってねえわ」
翔は一人っ子だから、私の家と違ってウノをする機会が無いのかもしれない。
「しゃーない。スピードやるか」
ババ抜きならまだしも、カードを凝視する必要のあるスピードを暗い中で遊ぶのは不可能に近い。翔は電気をつけると、元気よく挨拶をしてきた。
「対戦、よろしくお願いしまーす!」
「お願いします」
軽く頭を下げると、試合が始まる。スピードで遊ぶのは久しぶりだ。カードを次々に出していく。出せるカードがなくなると、祖父母がもう寝ている時間だと言うことも忘れて翔が叫ぶ。
「くそっ! 出せねえ!」
戦局がほぼ互角のままゲームも終盤になった頃、部屋に祖母がやってきた。集中していた私たちは祖母の足音に全く気付かなかったので、二人でびっくりした。
「起きてるの? あんまり遅くまで起きてると体に良くないわよ。電気消しますからね。翔くんも自分のお部屋に帰りなさいな」
「はーい。おやすみなさーい」
暗くなった部屋に祖母の去って行く足音が響く。不完全燃焼とはいえ、一応翔の遊びにも付き合ったことだし早いところスマートフォンを取りに行こうとすると、翔に呼び止められた。
「清美やるじゃん。優美ちゃんに鍛えてもらった?」
「最後にやったの、もうずいぶん前だよ」
小学生の頃は、よく姉にトランプで遊んでもらった。姉はスピードが得意で、一度も勝ったことが無い。姉はスピードだけでなく、ありとあらゆるゲームのセンスがあった。手加減してギリギリの戦いを演出したうえで、綺麗に勝つのが美学のようだ。
「ノーゲームになっちゃったし、仕切り直そうか。電気点けたらまたばあちゃん来ちゃうからスマホのライトあればできるやつな。トランプがウノの代わりになる方法ねえかな」
「ページワンってゲームがあった気がする」
ルールはうろ覚えだが、絵札をドローカードの扱いにしてカードを七枚ずつ配った。結局これはウノなのかページワンなのか決めていない。残り一枚になったらどちらの掛け声を言うべきなのだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にかゲームも終盤になり、四枚ドロー扱いのキングを出される。私は温存していたキングでカウンターをすると、翔は悔しがりながら山札を上から八枚数え始めた。
「清美の学校って修学旅行は春? 秋? 東京みたいに人多いところだと今でも中止になったりすんの?」
戦略を考えていない時間は喋っていないと気が済まないらしい。いきなり答えづらい質問をしてくる。
「秋。行かない」
「中止ってこと? 休むってこと?」
せっかくぼかした言い方をしたのに、詳しく聞かれてしまう。
「中止じゃないけど行かない」
修学旅行が中止になって悲しんでいる翔にとっては無配慮かもしれないが、嘘をついてもどうせ後でばれると思い、正直に答えた。
「ふーん。なんで?」
翔は怒った様子もなく、カードを出しながら尋ねてきた。
「勉強しないといけないから」
答えると同時に二枚の五を出して場札をダイヤからハートに変える。
「なら、仕方ないわな」
その返答にほっとした。翔は良識がある。修学旅行は絶対に行くべきだとか、行けない人に失礼だとか価値観を押し付けたりしない。安心した私はカードを出して一息つく。
「ウノって言ってないー!」
その瞬間、翔が私を指差して叫んだ。
「ウノ言い忘れだから十枚ドローな! やっぱり清美、ドジっ子じゃん!」
まるでお笑い番組でも見ているかのように笑い転げている。
「そんなに引くの?」
まさか言い忘れるなんて思っていなかったので、ペナルティの枚数を取り決めておかなかった。翔はおそらく気分で枚数を決めているのだろう。行き当たりばったりでも何とかなってしまう翔らしい。私はそれに従った。
翔がいつまでもゲラゲラと大声で笑っていたので、また祖母が来て翔を注意する。
「翔くん、清美ちゃんは疲れてるんだから寝かせてあげないとだめよ」
「疲れてんのはばあちゃんだろ。俺たち若いんだから、十時なんてまだお昼だよ。なっ、清美」
同意を求められたので、一応フォローする。
「うん、私は大丈夫だよ。おばあちゃん」
「清美ちゃんは病み上がりでしょう? 早く寝なさいね」
祖母はトランプを片付け始めた。
「あー、何すんだよばあちゃん! もうちょっとで勝てそうだったのに」
「明日にしなさいな」
翔は抗議したが、祖母はトランプを回収して電気を消すと、部屋から出て行った。
「トランプ没収されちまった。本当の修学旅行みたいじゃね?」
試合を中断され、遊び道具を没収されたと言うのに、翔は楽しそうに笑っている。
「こうなったらもっと本格的にやりたいよな。修学旅行ごっこ!」
翔が綺麗な歯を見せてにやりと笑う。
「次は枕投げで勝負だ! やっぱ、修学旅行はこれをやらないと始まんねえよな!」
相変わらず翔はマイペースに話を進める。翔はいきなり枕を投げつけてきた。アンダースローでだいぶ手加減して投げているとはいえ、蕎麦殻の枕は実家の枕より固く顔に当たったら痛そうだ。
「早く投げ返せよ。もう試合始まってんぞ! これは俺たちの勝負であると同時に、先生陣営との勝負でもあるんだから生徒陣営の勝利は清美にかかってるんだよ」
「陣営?」
首をかしげる私に、翔が説明する。
「俺たちが生徒で、じいちゃんとばあちゃんが先生。先生が来たら、みんなで寝たふりする。ちゃんと勝負がついたら俺たちの勝ちで、怒られたら負けな」
言い終えると今度はローテーブルのところに置いてあったクッションを投げてきた。
「どうした? 怖気づいたかー?」
少年漫画やアニメのような挑発をされる。仕方なくアンダースローで投げ返したが、それが気に入らなかったようだ。
「投げに魂がこもってない! やり直し!」
批評した後もう一度私に枕を投げつける。それを落とさないようにキャッチする。心を落ち着けた後、今度はオーバースローで枕を投げた。
「いい枕投げるねえ」
翔はまるで体育教師のような口調で大袈裟にうんうんと頷く。
「あ、これうちの学校の体育教師のモノマネな。似てるって吉岡とか三島が褒めてくれた。あと梶田と鈴木も」
知らない人名ばかりが出てきた。おそらく翔の友達だろう。あからさまにテンションを上げた翔が、その勢いのままにまた枕を投げる。私が応戦すると、翔は立ち上がって逃げ回り始めた。足を庇って変な歩き方をしているので、ドスンドスンと不規則な足音が鳴った。私も歩き回りながら枕を投げ合う。負けられない戦いだ。
そんなことをしていれば当然、祖母が騒ぎに気付いて部屋を訪れる。三度目ともなると、祖母の口調は厳しいものになっていた。
「翔くん、いい加減にしなさい。こんな真夜中に大騒ぎしないの。あんまりうるさくしてると、お父さんとお母さんにお迎えに来てもらいますからね」
「はーい」
さすがに枕を没収されることはなかったが、こうなってはもう試合は続行不可能だ。翔の言葉を借りるならば、生徒陣営は教師陣営に三連敗を喫している。
「これ以上騒いだら強制送還されそうだし、さすがに勝負は終わりだな。本当はウィンクキラーもやりたかったけど、二人じゃ出来ないし。ってことで、恋バナの続き」
「だから、恋愛とか分からないんだって。勉強が忙しくてそれどころじゃなかったの」
「じゃあ仕方ねえな。それじゃあ、他の奴の恋バナするか。噂話も修学旅行の醍醐味だろ。女子はさ、男子は噂話とかしないと思い込んでるけど、普通にするんだぜ」
その後、翔のクラスの知らない人間の知らない噂話を聞かされる。
「吉岡はたぶん三島が好きだと思うんだよな。あと、梶田は鈴木と付き合ってるらしい。それからさ、いとこのこと好きになった友達がいてさ……、あ、いとこ同士って結婚できるの知ってる?」
興味のない固有名詞を並べられて退屈していたところで突然話を振られ、ハッとして答える。
「知識としてはね」
「知ってるんだ。なるほどな。よしっ、じゃあ次は清美の周りの人の話な。優美ちゃんって彼氏いんの?」
ああ、そういうことか、と腑に落ちた。今までの恋バナは全部、これを聞き出すための前振りだったのだ。要するに、姉に彼氏がいるか聞き出したいだけだったようだ。
クラスメイトの恋愛模様を話すときはやたら具体的な名前が出てくるのに、「いとこのことが好き」と言っている人だけ「友達」と表現したのはそんな友達は実在しないから。友達の話なんて、大体自分の話だと相場は決まっている。また、翔の嘘に騙されるところだった。
勝手に姉のプライベートを暴露していい物かどうか一瞬悩んだ。しかし、姉はSNSで鍵をかけることなく全世界に向けて彼氏とのデートの模様を発信している。おそらく姉と頻繁に連絡を取っているであろう翔が知らないことの方が不思議だった。
「お姉ちゃん、彼氏いるよ」
散々振り回した仕返しだ。はっきりと教えてやった。しかし、翔はまったく傷ついたそぶりは見せなかった。
「うっひゃー! さすが優美ちゃん! モテモテー!」
小声ではあるが、大袈裟な仕草を交えながら叫ぶ真似をする。これは強がりなのだろうか。それとも、姉が好きというのは私の勘違いなのだろうか。
「全然知らなかったー。なんだよ、教えてくれてもよかったのにさ」
「お姉ちゃんのSNS知らないの?」
「全然! 連絡とったのも二年ぶりだし。なあ、普段優美ちゃんとガールズトークとかすんの?」
枕投げをしていた時は多少無心になれたが、正直今は苦痛だ。翔と話すのが嫌なわけではないけれども、こうしている間にもいくつ英単語が覚えられるだろうと考えてしまう。
「清美顔険しくね? 大丈夫? もしかして眠い? てか、病み上がりっておばあちゃんが言ってたけど、もしかして運動しちゃダメなタイプのやつ?」
翔が心配そうにおろおろしている。いらない心配をかけたことに罪悪感を覚えた。
「ごめん、カフェイン切れたからちょっとイライラしてただけ」
「分かる。俺も運動中に糖分切れると色々やばい。って、甘い物の話してたら腹減ってきたな」
自分の発したフレーズに、また翔は目を輝かせる。
「決めた! 今からお菓子パーティーしようぜ! ハイチュウ食おう! 好きだっただろ?」
歯磨きを追加でする必要はあるかもしれないが、目くじらを立てることではない。むしろ、洗面所に行くついでにスマートフォンを回収するきっかけができる。
「問題は今、ハイチュウ持ってないことなんだよな。昼に全部食っちゃったからさ。急に来たからばあちゃんも用意してくれてない。清美、何か持ってない?」
私は首を横に振る。すると、翔は私を心配していた時の表情とは真逆の、悪いことを企んでいる時の顔をして笑った。
「今から抜け出して買いに行こうぜ」
翔の思い付きは相変わらず突拍子もなかったが、外に出ると言う目的は一致していたので了承した。この時間に営業しているお店があるとも思えないが、修学旅行ごっこが目的なら部屋を抜け出しさえすれば翔も満足するだろう。
大騒ぎしていたのが嘘のように、抜き足差し足忍び足で廊下を歩く。最近リフォームしたようで廊下には手すりがあったので、翔はそれにつかまりながら器用にも歩きスマホをしていた。
玄関の鍵や判子がたくさん入った小物入れから車の鍵を探そうとしたところ、翔がすっと車の鍵をとってくれた。気を聞かせてくれたのだろう。声に出してお礼を言うと、逆に怒らせてしまいそうなのでアイコンタクトをすると、翔は親指を立てた。音がしないように過剰なほど丁寧に玄関の扉を閉める。
定食屋の駐車場に、ポツンと一台停まっている祖母の車。私の目的地であるそこに辿り着くと翔にハイタッチを求められる。
「よっしゃ! ミッション第一段階クリア!」
ハイタッチの音が綺麗になった後、翔が鍵についているボタンを押して、車のロックを開けてくれた。助手席側の後部座席のドアを開けたところ、翔が私を呼び止める。
「おいおい、乗るとこ、そこじゃねえだろ」
翔が何を言っているのか分からなかった。
「どういうこと?」
「言っただろ。今からコンビニ行こうって。車運転してさ」
「はあ?」
つい、乱雑な口調になってしまった。これ以上くだらない冗談には付き合っていられない。
「歩いていくものだと思ってたけど」
「東京じゃないんだから、二十四時間営業のコンビニなんてこの辺にあるわけないじゃん。歩いて行ったら朝になるって」
そう言って、翔が運転席まで私を連れて行き、シートに座るよう促す。
「まあまあ、立ち話もなんだからおあがりになって。これ、井戸端会議始まりそうな時のばあちゃんのモノマネ」
不意打ちの一発芸に、つい口元が緩んでしまった。祖母のモノマネは、だいぶ特徴をとらえていた。裏声は少し大げさだが、口調やセリフのテンポは祖母そっくりと言って差し支えがない。きっと、さっき披露した体育教師のモノマネもクラスのみんなには受けているのだろう。
少し脱力した私の両肩に手をかけ、翔が私を運転席に座らせる。その後、翔は助手席側に乗ると勢いよく扉を閉めた。
「よーし、出発進行!」
翔がはしゃいでいる。私は翔の幼児性と非常識さに心の底から引いていた。
「警察に捕まっちゃうよ」
「夜中だし大丈夫だよ。警察だって寝てるよ」
「でも、もし本当に捕まったら、人生おしまいだよ」
「俺たち子供なんだし、見つかってもごめんなさいで済むって。こんな夜中に歩いてる人なんていないから、人轢いたりもしないって」
根本的な常識が無いくせに、ところどころ妙に知識があるのが厄介だ。
「そもそも、なんで私が運転席なの」
「俺、怪我人だからペダル踏めませーん。大丈夫! 怒られたら俺が運転してたってことにするからさ。そこは言い出しっぺの責任っしょ」
都合のいい時だけ、こうして怪我した左足を指さす。
「絶対いやだ!」
「しゃーないな。無理強いするもんでもないし、じゃあ歩いていくか」
何のつもりだろう。お店は朝までかかるほど遠いとさっき言ったばかりなのに。ペダルも踏めないほど痛む足でそんなに歩いたら体に障るどころの話ではない。
「馬鹿じゃないの。そんな足で何キロも歩けるわけないじゃん。二度と歩けなくなるよ」
つい棘のある言い方をしてしまう。いつから私は、こんなに嫌な奴になってしまったのだろう。翔が悪いはずなのに、自己嫌悪に襲われた。しかし、翔は傷ついている様子を微塵も見せなかった。
「だって、将来より今この瞬間の方が大事だろ。人間いつ死ぬかわかんないんだし」
表情こそへらへらしていたが、言葉には桁外れの説得力があった。
「ほら、この間俺死にかけたじゃん? 当たり前だけど、明日っていうか一秒後が来る保証なんて誰にもないんだよなー」
私は何も言えなくなった。
「詳しい状況はよくわかんないんだけど、俺だけじゃなくて、俺のこと撥ねた車の助手席に乗ってた人も死にかけたみたいでさ。運転手は無傷だったみたいだけどね。いやー、事故の時は助手席の方が危ないって本当なんだなー」
翔の顔が見られない。こういう時にどうしたらいいかなんて教科書には書いていない。
「まあ、そういうわけだからさ、俺にとっては明日歩けるかどうかよりも、今この瞬間に清美と全力で修学旅行ごっこすることの方が大事! いいじゃん、夜の散歩も粋だし」
翔の価値観がまったく理解できなかった。でも、事故にあったわけでもなくのうのうと生きてきた私にそれを否定することはできない。とはいえ、目の前でそんな無茶をされるのは良心が痛む。
「歩くのはよくないって……そんな馬鹿な事するくらいなら車の方がまだマシっていうか……」
語尾をぼかして、小さな声で言う。すると、翔が大きくガッツポーズをした。
「え、いいのかよ? やった! ありがとな、清美!」
「でも、私運転とかわかんないもん。やったことないし。私にできるわけないし」
ぼそぼそと歯切れ悪くしゃべる私にかぶせるように翔が前のめりに答える。
「さっき検索しといた!」
翔が得意気な顔をして、スマートフォンを私に手渡す。画面に表示された時刻はいつの間にか零時を回って日付が変わっていた。こんなに時間が経っているなんて思わなかった。祖母が「真夜中に騒ぐな」と言っていたことをふと思い出す。
肝心のサイトの方には、車の運転の方法がこれでもかというくらいに丁寧に書いてあった。エンジンの入れ方、ハンドルの握り方、オートマチック車のクリープ現象、スクロールするたびに知らない単語が出てくる。アクセルペダルもブレーキペダルも右足で踏みましょう、エンジンを入れるときはブレーキを入れた状態で……、大事なところは赤色の大文字で強調してある。
今、姉は自動車学校でここに書いてあることを勉強しているのだろうか。姉ならきっと一発で試験に合格するだろう。姉なら翔を夜のコンビニどころか車でトロイメライランドに連れて行ってあげられるのだ。本当は翔だって、私じゃなくて“大好きな優美ちゃん”とドライブデートをしたかったはずだ。翔が気の毒に思えた。
「翔はさ、何で私と修学旅行ごっこなんてしたいの?」
ゲームが得意で優しくて頭がよくてなんでもできる姉とたまたまここにいただけの私。翔が行きたがっていた修学旅行を楽しんだことを後悔し、さらには欠席を決めた私。空っぽで意地悪な私。
「本当はお姉ちゃんのほうがいいんでしょ。私、お姉ちゃんに勝ってるところ一個もないもん」
結局のところずっとコンプレックスだった。姉と同じように器用にできない。姉と同じ高校に行けない。友達付き合いも親戚付き合いもまともにできない。“ちゃんと”できない。私はお姉ちゃんになれない。
「そんなこと言うなよ。俺は清美のこと好きだよ」
翔は即座に答えた。翔はシートベルトを外すと、私の方に身を乗り出した。
「俺、清美と遊んでるのが一番楽しい。真面目だから、ゲームとか全部本気でやってくれてすごく燃える。清美だから誘ったんだよ」
姉みたいな余裕がないだけなのに、翔はそれを長所だと言ってくれた。
「明日もまた修学旅行ごっこやろうぜ。明日のミッションは、ばあちゃんからトランプ取り返すってことで。それでさ、毎晩スピード二人で特訓したら夏の終わりには優美ちゃんにも勝てるようになるだろ」
明日も、遊んでくれるのだろうか。翔と遊んでいる時は嫌なことも全部忘れてゲームに没頭できた。受験が終わるまでは何かを楽しんではいけない。そう思い込んでいたけれど、あの時だけは息が苦しくなかった。私はようやく気付いた。修学旅行ごっこは確かに楽しかったのだ。
私の頬を温かい涙が伝う。本当は苦しくて、誰かに助けてほしかったくせに、その手は全部拒んだ。修学旅行に行けない翔を救ったつもりでいたけれど、救われていたのは私の方だった。何年も張りつめていた気持ちが緩んだせいで、涙が止まらなかった。
ふざけてばかりだった翔は私の泣き顔を茶化すことはしなかった。私の手をとると、鍵を握らせて、上から両手で包み込んだ。
涙をパジャマの袖で拭って大きく深呼吸した。ドアを勢いよく閉める。外の虫の声や風の音が全部遮断されて、もう翔の期待の声だけしか聞こえない。
鍵を差し込み、運転の工程を反芻する。ブレーキペダルを踏みこんで、鍵を回して車のエンジンをかけた。エアコンが同時に起動して、冷たい風が体に当たる。サイドブレーキを解除して、ギアをパーキングからドライブに変えた。これで、いつでも車は動く。
大それたことをしている。私が失敗すれば、大怪我をするかもしれないし下手をすれば死ぬかもしれない。こんな自暴自棄に見える人間に命を預けて、翔は怖くないのだろうか。
「いいの? 事故起こした時って、助手席の方が危ないんでしょ?」
さっき翔が言っていたことを、最後にもう一度確認する。
「だから俺が助手席座るんだろ。清美に危ない方座らせるわけにいかないし。助手席の方が安全なら意地でも俺が運転するっての。右足は無事だしな」
「一連托生だよ、清美」
翔は無邪気に笑って親指を立てた。それを合図に、私はブレーキペダルから足を離した。車はゆっくりと前へ動き出す。
「いやっほー!」
翔が手を叩いて大喜びする。アクセルを踏んでいないので、祖母の運転より遥かに遅いスピードでしか動いていないのに、まるでジェットコースターに乗っているかのようなはしゃぎようだ。
もう少しで公道に出る。例のウェブサイトに曰く、私有地での運転は罪にならない。しかし、その境界を踏み越えれば、私たちは無免許運転の共犯者となるのだ。
背徳的な響きにわくわくしていた。私たち二人だけの世界から、未知の世界まであと五メートル、四メートル、三メートル……。
「昨日も夜遅くまで勉強してたんでしょう? 早く寝ないとだめよ」
遅く、と言ってもいつもよりずっと早く寝落ちしてしまった。東京では明け方まで勉強していたけれど、昨日は空が明るくなる前に意識が飛んだ。しかし、電気がついていてはいらない誤解を招く。参考書ではなく、スマートフォンの単語帳を布団の中で覚えることにした。
慌ただしかったせいかまたしてもスマートフォンを車から回収し忘れていたことを思い出す。取りに行こうとして、ドアを開けると翔が枕を持って立っていた。
「よっ! ばあちゃんの見回り終わったから遊びに来ちゃった! 女子の部屋遊びに行くって修学旅行っぽくね?」
「いや、私そういう気分じゃないんだけど」
翔が目をキラキラさせていた。
相手をするのは面倒くさかったけど、修学旅行という言葉を出されると邪険にしづらかった。小学校の修学旅行も中学校の修学旅行も行けなかった翔には同情の念があった。
それにスマートフォンを取りに行くのも祖母が寝てからの方が「布団の中でスマホをいじっちゃだめ」など余計なことを言われずに済むかもしれない。それまでの少しの時間なら翔の相手をしても罰は当たらないだろう。翔を部屋に招き入れた。
「なあなあ、清美。ぶっちゃけ、今好きな人いる?」
突然何を言い出すのかと面食らったが、普通に返事をする。
「いないよ」
「本当に? 東京ってイケメンいっぱいいるんだろ? かっこいい先輩とかいねえの?」
暗い中だと翔の表情はいまいちよく見えなかった。
「私、三年生なんだけど」
「あー、そうだった。俺ら三年生だったわ。ヤバイ、今のは俺がドジだった」
何が面白いのか、翔は手を叩いて笑う。
「本当にいねえの?」
「いないってば。なんでそんなこと聞くの」
「修学旅行って言えばコイバナだろ。つーわけで、俺も言うわ」
翔が私に耳打ちする。
「俺ね、今好きな人いる」
「ふーん」
それ以外に反応のしようがない。翔の学校の人間なんて一人も知らないから。
「じゃあ、次は清美の番な。昔好きだった人はいる?」
「それもいない」
「俺の番か。俺は今好きな人が初恋。じゃあ、次。彼氏ができたらしたいことは?」
翔の声はどこか嬉しそうだった。
「私、そういうのよくわかんないんだって」
私は恋を知らない。恋をするほど女子と会話する暇はなかった。クラスの女子は私のことをつまらないがり勉だと思っていることだろう。
「じゃあさ、ダウトしようぜ。俺が勝ったら教えろよ。ちなみに俺はドライブデートしたい!」
翔はスウェットのポケットからトランプを取り出した。
「却下。ダウトなんて絶対に翔が勝つじゃん」
他のゲームは大体互角だったけれど、翔はダウトが異様に強かった。嘘がうまいのだろう。
「しゃーないな。じゃあ、ババ抜きにするか。修学旅行って言えばババ抜きとかウノだもんな」
そう言って一枚抜くとカードを配り始める。
「ババ抜きって二人でやるゲームじゃなくない?」
私は苦笑する。二人のババ抜きは序盤のフェーズが完全に時間の無駄だ。
「確かに。二人じゃつまんねえか」
「ウノは持ってきてないの?」
本当は早くスマートフォンを取りに行きたかったし、それよりも翔がまだ寝るつもりがないなら電気をつけて問題集を解きたかった。しかし、修学旅行という言葉を出されると翔への同情心が勝ってしまった。二人でやるウノなら一ゲームはせいぜい五分で終わる。それくらいだったら、付き合ってあげても罰は当たらないだろう。
「ウノ持ってねえわ」
翔は一人っ子だから、私の家と違ってウノをする機会が無いのかもしれない。
「しゃーない。スピードやるか」
ババ抜きならまだしも、カードを凝視する必要のあるスピードを暗い中で遊ぶのは不可能に近い。翔は電気をつけると、元気よく挨拶をしてきた。
「対戦、よろしくお願いしまーす!」
「お願いします」
軽く頭を下げると、試合が始まる。スピードで遊ぶのは久しぶりだ。カードを次々に出していく。出せるカードがなくなると、祖父母がもう寝ている時間だと言うことも忘れて翔が叫ぶ。
「くそっ! 出せねえ!」
戦局がほぼ互角のままゲームも終盤になった頃、部屋に祖母がやってきた。集中していた私たちは祖母の足音に全く気付かなかったので、二人でびっくりした。
「起きてるの? あんまり遅くまで起きてると体に良くないわよ。電気消しますからね。翔くんも自分のお部屋に帰りなさいな」
「はーい。おやすみなさーい」
暗くなった部屋に祖母の去って行く足音が響く。不完全燃焼とはいえ、一応翔の遊びにも付き合ったことだし早いところスマートフォンを取りに行こうとすると、翔に呼び止められた。
「清美やるじゃん。優美ちゃんに鍛えてもらった?」
「最後にやったの、もうずいぶん前だよ」
小学生の頃は、よく姉にトランプで遊んでもらった。姉はスピードが得意で、一度も勝ったことが無い。姉はスピードだけでなく、ありとあらゆるゲームのセンスがあった。手加減してギリギリの戦いを演出したうえで、綺麗に勝つのが美学のようだ。
「ノーゲームになっちゃったし、仕切り直そうか。電気点けたらまたばあちゃん来ちゃうからスマホのライトあればできるやつな。トランプがウノの代わりになる方法ねえかな」
「ページワンってゲームがあった気がする」
ルールはうろ覚えだが、絵札をドローカードの扱いにしてカードを七枚ずつ配った。結局これはウノなのかページワンなのか決めていない。残り一枚になったらどちらの掛け声を言うべきなのだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にかゲームも終盤になり、四枚ドロー扱いのキングを出される。私は温存していたキングでカウンターをすると、翔は悔しがりながら山札を上から八枚数え始めた。
「清美の学校って修学旅行は春? 秋? 東京みたいに人多いところだと今でも中止になったりすんの?」
戦略を考えていない時間は喋っていないと気が済まないらしい。いきなり答えづらい質問をしてくる。
「秋。行かない」
「中止ってこと? 休むってこと?」
せっかくぼかした言い方をしたのに、詳しく聞かれてしまう。
「中止じゃないけど行かない」
修学旅行が中止になって悲しんでいる翔にとっては無配慮かもしれないが、嘘をついてもどうせ後でばれると思い、正直に答えた。
「ふーん。なんで?」
翔は怒った様子もなく、カードを出しながら尋ねてきた。
「勉強しないといけないから」
答えると同時に二枚の五を出して場札をダイヤからハートに変える。
「なら、仕方ないわな」
その返答にほっとした。翔は良識がある。修学旅行は絶対に行くべきだとか、行けない人に失礼だとか価値観を押し付けたりしない。安心した私はカードを出して一息つく。
「ウノって言ってないー!」
その瞬間、翔が私を指差して叫んだ。
「ウノ言い忘れだから十枚ドローな! やっぱり清美、ドジっ子じゃん!」
まるでお笑い番組でも見ているかのように笑い転げている。
「そんなに引くの?」
まさか言い忘れるなんて思っていなかったので、ペナルティの枚数を取り決めておかなかった。翔はおそらく気分で枚数を決めているのだろう。行き当たりばったりでも何とかなってしまう翔らしい。私はそれに従った。
翔がいつまでもゲラゲラと大声で笑っていたので、また祖母が来て翔を注意する。
「翔くん、清美ちゃんは疲れてるんだから寝かせてあげないとだめよ」
「疲れてんのはばあちゃんだろ。俺たち若いんだから、十時なんてまだお昼だよ。なっ、清美」
同意を求められたので、一応フォローする。
「うん、私は大丈夫だよ。おばあちゃん」
「清美ちゃんは病み上がりでしょう? 早く寝なさいね」
祖母はトランプを片付け始めた。
「あー、何すんだよばあちゃん! もうちょっとで勝てそうだったのに」
「明日にしなさいな」
翔は抗議したが、祖母はトランプを回収して電気を消すと、部屋から出て行った。
「トランプ没収されちまった。本当の修学旅行みたいじゃね?」
試合を中断され、遊び道具を没収されたと言うのに、翔は楽しそうに笑っている。
「こうなったらもっと本格的にやりたいよな。修学旅行ごっこ!」
翔が綺麗な歯を見せてにやりと笑う。
「次は枕投げで勝負だ! やっぱ、修学旅行はこれをやらないと始まんねえよな!」
相変わらず翔はマイペースに話を進める。翔はいきなり枕を投げつけてきた。アンダースローでだいぶ手加減して投げているとはいえ、蕎麦殻の枕は実家の枕より固く顔に当たったら痛そうだ。
「早く投げ返せよ。もう試合始まってんぞ! これは俺たちの勝負であると同時に、先生陣営との勝負でもあるんだから生徒陣営の勝利は清美にかかってるんだよ」
「陣営?」
首をかしげる私に、翔が説明する。
「俺たちが生徒で、じいちゃんとばあちゃんが先生。先生が来たら、みんなで寝たふりする。ちゃんと勝負がついたら俺たちの勝ちで、怒られたら負けな」
言い終えると今度はローテーブルのところに置いてあったクッションを投げてきた。
「どうした? 怖気づいたかー?」
少年漫画やアニメのような挑発をされる。仕方なくアンダースローで投げ返したが、それが気に入らなかったようだ。
「投げに魂がこもってない! やり直し!」
批評した後もう一度私に枕を投げつける。それを落とさないようにキャッチする。心を落ち着けた後、今度はオーバースローで枕を投げた。
「いい枕投げるねえ」
翔はまるで体育教師のような口調で大袈裟にうんうんと頷く。
「あ、これうちの学校の体育教師のモノマネな。似てるって吉岡とか三島が褒めてくれた。あと梶田と鈴木も」
知らない人名ばかりが出てきた。おそらく翔の友達だろう。あからさまにテンションを上げた翔が、その勢いのままにまた枕を投げる。私が応戦すると、翔は立ち上がって逃げ回り始めた。足を庇って変な歩き方をしているので、ドスンドスンと不規則な足音が鳴った。私も歩き回りながら枕を投げ合う。負けられない戦いだ。
そんなことをしていれば当然、祖母が騒ぎに気付いて部屋を訪れる。三度目ともなると、祖母の口調は厳しいものになっていた。
「翔くん、いい加減にしなさい。こんな真夜中に大騒ぎしないの。あんまりうるさくしてると、お父さんとお母さんにお迎えに来てもらいますからね」
「はーい」
さすがに枕を没収されることはなかったが、こうなってはもう試合は続行不可能だ。翔の言葉を借りるならば、生徒陣営は教師陣営に三連敗を喫している。
「これ以上騒いだら強制送還されそうだし、さすがに勝負は終わりだな。本当はウィンクキラーもやりたかったけど、二人じゃ出来ないし。ってことで、恋バナの続き」
「だから、恋愛とか分からないんだって。勉強が忙しくてそれどころじゃなかったの」
「じゃあ仕方ねえな。それじゃあ、他の奴の恋バナするか。噂話も修学旅行の醍醐味だろ。女子はさ、男子は噂話とかしないと思い込んでるけど、普通にするんだぜ」
その後、翔のクラスの知らない人間の知らない噂話を聞かされる。
「吉岡はたぶん三島が好きだと思うんだよな。あと、梶田は鈴木と付き合ってるらしい。それからさ、いとこのこと好きになった友達がいてさ……、あ、いとこ同士って結婚できるの知ってる?」
興味のない固有名詞を並べられて退屈していたところで突然話を振られ、ハッとして答える。
「知識としてはね」
「知ってるんだ。なるほどな。よしっ、じゃあ次は清美の周りの人の話な。優美ちゃんって彼氏いんの?」
ああ、そういうことか、と腑に落ちた。今までの恋バナは全部、これを聞き出すための前振りだったのだ。要するに、姉に彼氏がいるか聞き出したいだけだったようだ。
クラスメイトの恋愛模様を話すときはやたら具体的な名前が出てくるのに、「いとこのことが好き」と言っている人だけ「友達」と表現したのはそんな友達は実在しないから。友達の話なんて、大体自分の話だと相場は決まっている。また、翔の嘘に騙されるところだった。
勝手に姉のプライベートを暴露していい物かどうか一瞬悩んだ。しかし、姉はSNSで鍵をかけることなく全世界に向けて彼氏とのデートの模様を発信している。おそらく姉と頻繁に連絡を取っているであろう翔が知らないことの方が不思議だった。
「お姉ちゃん、彼氏いるよ」
散々振り回した仕返しだ。はっきりと教えてやった。しかし、翔はまったく傷ついたそぶりは見せなかった。
「うっひゃー! さすが優美ちゃん! モテモテー!」
小声ではあるが、大袈裟な仕草を交えながら叫ぶ真似をする。これは強がりなのだろうか。それとも、姉が好きというのは私の勘違いなのだろうか。
「全然知らなかったー。なんだよ、教えてくれてもよかったのにさ」
「お姉ちゃんのSNS知らないの?」
「全然! 連絡とったのも二年ぶりだし。なあ、普段優美ちゃんとガールズトークとかすんの?」
枕投げをしていた時は多少無心になれたが、正直今は苦痛だ。翔と話すのが嫌なわけではないけれども、こうしている間にもいくつ英単語が覚えられるだろうと考えてしまう。
「清美顔険しくね? 大丈夫? もしかして眠い? てか、病み上がりっておばあちゃんが言ってたけど、もしかして運動しちゃダメなタイプのやつ?」
翔が心配そうにおろおろしている。いらない心配をかけたことに罪悪感を覚えた。
「ごめん、カフェイン切れたからちょっとイライラしてただけ」
「分かる。俺も運動中に糖分切れると色々やばい。って、甘い物の話してたら腹減ってきたな」
自分の発したフレーズに、また翔は目を輝かせる。
「決めた! 今からお菓子パーティーしようぜ! ハイチュウ食おう! 好きだっただろ?」
歯磨きを追加でする必要はあるかもしれないが、目くじらを立てることではない。むしろ、洗面所に行くついでにスマートフォンを回収するきっかけができる。
「問題は今、ハイチュウ持ってないことなんだよな。昼に全部食っちゃったからさ。急に来たからばあちゃんも用意してくれてない。清美、何か持ってない?」
私は首を横に振る。すると、翔は私を心配していた時の表情とは真逆の、悪いことを企んでいる時の顔をして笑った。
「今から抜け出して買いに行こうぜ」
翔の思い付きは相変わらず突拍子もなかったが、外に出ると言う目的は一致していたので了承した。この時間に営業しているお店があるとも思えないが、修学旅行ごっこが目的なら部屋を抜け出しさえすれば翔も満足するだろう。
大騒ぎしていたのが嘘のように、抜き足差し足忍び足で廊下を歩く。最近リフォームしたようで廊下には手すりがあったので、翔はそれにつかまりながら器用にも歩きスマホをしていた。
玄関の鍵や判子がたくさん入った小物入れから車の鍵を探そうとしたところ、翔がすっと車の鍵をとってくれた。気を聞かせてくれたのだろう。声に出してお礼を言うと、逆に怒らせてしまいそうなのでアイコンタクトをすると、翔は親指を立てた。音がしないように過剰なほど丁寧に玄関の扉を閉める。
定食屋の駐車場に、ポツンと一台停まっている祖母の車。私の目的地であるそこに辿り着くと翔にハイタッチを求められる。
「よっしゃ! ミッション第一段階クリア!」
ハイタッチの音が綺麗になった後、翔が鍵についているボタンを押して、車のロックを開けてくれた。助手席側の後部座席のドアを開けたところ、翔が私を呼び止める。
「おいおい、乗るとこ、そこじゃねえだろ」
翔が何を言っているのか分からなかった。
「どういうこと?」
「言っただろ。今からコンビニ行こうって。車運転してさ」
「はあ?」
つい、乱雑な口調になってしまった。これ以上くだらない冗談には付き合っていられない。
「歩いていくものだと思ってたけど」
「東京じゃないんだから、二十四時間営業のコンビニなんてこの辺にあるわけないじゃん。歩いて行ったら朝になるって」
そう言って、翔が運転席まで私を連れて行き、シートに座るよう促す。
「まあまあ、立ち話もなんだからおあがりになって。これ、井戸端会議始まりそうな時のばあちゃんのモノマネ」
不意打ちの一発芸に、つい口元が緩んでしまった。祖母のモノマネは、だいぶ特徴をとらえていた。裏声は少し大げさだが、口調やセリフのテンポは祖母そっくりと言って差し支えがない。きっと、さっき披露した体育教師のモノマネもクラスのみんなには受けているのだろう。
少し脱力した私の両肩に手をかけ、翔が私を運転席に座らせる。その後、翔は助手席側に乗ると勢いよく扉を閉めた。
「よーし、出発進行!」
翔がはしゃいでいる。私は翔の幼児性と非常識さに心の底から引いていた。
「警察に捕まっちゃうよ」
「夜中だし大丈夫だよ。警察だって寝てるよ」
「でも、もし本当に捕まったら、人生おしまいだよ」
「俺たち子供なんだし、見つかってもごめんなさいで済むって。こんな夜中に歩いてる人なんていないから、人轢いたりもしないって」
根本的な常識が無いくせに、ところどころ妙に知識があるのが厄介だ。
「そもそも、なんで私が運転席なの」
「俺、怪我人だからペダル踏めませーん。大丈夫! 怒られたら俺が運転してたってことにするからさ。そこは言い出しっぺの責任っしょ」
都合のいい時だけ、こうして怪我した左足を指さす。
「絶対いやだ!」
「しゃーないな。無理強いするもんでもないし、じゃあ歩いていくか」
何のつもりだろう。お店は朝までかかるほど遠いとさっき言ったばかりなのに。ペダルも踏めないほど痛む足でそんなに歩いたら体に障るどころの話ではない。
「馬鹿じゃないの。そんな足で何キロも歩けるわけないじゃん。二度と歩けなくなるよ」
つい棘のある言い方をしてしまう。いつから私は、こんなに嫌な奴になってしまったのだろう。翔が悪いはずなのに、自己嫌悪に襲われた。しかし、翔は傷ついている様子を微塵も見せなかった。
「だって、将来より今この瞬間の方が大事だろ。人間いつ死ぬかわかんないんだし」
表情こそへらへらしていたが、言葉には桁外れの説得力があった。
「ほら、この間俺死にかけたじゃん? 当たり前だけど、明日っていうか一秒後が来る保証なんて誰にもないんだよなー」
私は何も言えなくなった。
「詳しい状況はよくわかんないんだけど、俺だけじゃなくて、俺のこと撥ねた車の助手席に乗ってた人も死にかけたみたいでさ。運転手は無傷だったみたいだけどね。いやー、事故の時は助手席の方が危ないって本当なんだなー」
翔の顔が見られない。こういう時にどうしたらいいかなんて教科書には書いていない。
「まあ、そういうわけだからさ、俺にとっては明日歩けるかどうかよりも、今この瞬間に清美と全力で修学旅行ごっこすることの方が大事! いいじゃん、夜の散歩も粋だし」
翔の価値観がまったく理解できなかった。でも、事故にあったわけでもなくのうのうと生きてきた私にそれを否定することはできない。とはいえ、目の前でそんな無茶をされるのは良心が痛む。
「歩くのはよくないって……そんな馬鹿な事するくらいなら車の方がまだマシっていうか……」
語尾をぼかして、小さな声で言う。すると、翔が大きくガッツポーズをした。
「え、いいのかよ? やった! ありがとな、清美!」
「でも、私運転とかわかんないもん。やったことないし。私にできるわけないし」
ぼそぼそと歯切れ悪くしゃべる私にかぶせるように翔が前のめりに答える。
「さっき検索しといた!」
翔が得意気な顔をして、スマートフォンを私に手渡す。画面に表示された時刻はいつの間にか零時を回って日付が変わっていた。こんなに時間が経っているなんて思わなかった。祖母が「真夜中に騒ぐな」と言っていたことをふと思い出す。
肝心のサイトの方には、車の運転の方法がこれでもかというくらいに丁寧に書いてあった。エンジンの入れ方、ハンドルの握り方、オートマチック車のクリープ現象、スクロールするたびに知らない単語が出てくる。アクセルペダルもブレーキペダルも右足で踏みましょう、エンジンを入れるときはブレーキを入れた状態で……、大事なところは赤色の大文字で強調してある。
今、姉は自動車学校でここに書いてあることを勉強しているのだろうか。姉ならきっと一発で試験に合格するだろう。姉なら翔を夜のコンビニどころか車でトロイメライランドに連れて行ってあげられるのだ。本当は翔だって、私じゃなくて“大好きな優美ちゃん”とドライブデートをしたかったはずだ。翔が気の毒に思えた。
「翔はさ、何で私と修学旅行ごっこなんてしたいの?」
ゲームが得意で優しくて頭がよくてなんでもできる姉とたまたまここにいただけの私。翔が行きたがっていた修学旅行を楽しんだことを後悔し、さらには欠席を決めた私。空っぽで意地悪な私。
「本当はお姉ちゃんのほうがいいんでしょ。私、お姉ちゃんに勝ってるところ一個もないもん」
結局のところずっとコンプレックスだった。姉と同じように器用にできない。姉と同じ高校に行けない。友達付き合いも親戚付き合いもまともにできない。“ちゃんと”できない。私はお姉ちゃんになれない。
「そんなこと言うなよ。俺は清美のこと好きだよ」
翔は即座に答えた。翔はシートベルトを外すと、私の方に身を乗り出した。
「俺、清美と遊んでるのが一番楽しい。真面目だから、ゲームとか全部本気でやってくれてすごく燃える。清美だから誘ったんだよ」
姉みたいな余裕がないだけなのに、翔はそれを長所だと言ってくれた。
「明日もまた修学旅行ごっこやろうぜ。明日のミッションは、ばあちゃんからトランプ取り返すってことで。それでさ、毎晩スピード二人で特訓したら夏の終わりには優美ちゃんにも勝てるようになるだろ」
明日も、遊んでくれるのだろうか。翔と遊んでいる時は嫌なことも全部忘れてゲームに没頭できた。受験が終わるまでは何かを楽しんではいけない。そう思い込んでいたけれど、あの時だけは息が苦しくなかった。私はようやく気付いた。修学旅行ごっこは確かに楽しかったのだ。
私の頬を温かい涙が伝う。本当は苦しくて、誰かに助けてほしかったくせに、その手は全部拒んだ。修学旅行に行けない翔を救ったつもりでいたけれど、救われていたのは私の方だった。何年も張りつめていた気持ちが緩んだせいで、涙が止まらなかった。
ふざけてばかりだった翔は私の泣き顔を茶化すことはしなかった。私の手をとると、鍵を握らせて、上から両手で包み込んだ。
涙をパジャマの袖で拭って大きく深呼吸した。ドアを勢いよく閉める。外の虫の声や風の音が全部遮断されて、もう翔の期待の声だけしか聞こえない。
鍵を差し込み、運転の工程を反芻する。ブレーキペダルを踏みこんで、鍵を回して車のエンジンをかけた。エアコンが同時に起動して、冷たい風が体に当たる。サイドブレーキを解除して、ギアをパーキングからドライブに変えた。これで、いつでも車は動く。
大それたことをしている。私が失敗すれば、大怪我をするかもしれないし下手をすれば死ぬかもしれない。こんな自暴自棄に見える人間に命を預けて、翔は怖くないのだろうか。
「いいの? 事故起こした時って、助手席の方が危ないんでしょ?」
さっき翔が言っていたことを、最後にもう一度確認する。
「だから俺が助手席座るんだろ。清美に危ない方座らせるわけにいかないし。助手席の方が安全なら意地でも俺が運転するっての。右足は無事だしな」
「一連托生だよ、清美」
翔は無邪気に笑って親指を立てた。それを合図に、私はブレーキペダルから足を離した。車はゆっくりと前へ動き出す。
「いやっほー!」
翔が手を叩いて大喜びする。アクセルを踏んでいないので、祖母の運転より遥かに遅いスピードでしか動いていないのに、まるでジェットコースターに乗っているかのようなはしゃぎようだ。
もう少しで公道に出る。例のウェブサイトに曰く、私有地での運転は罪にならない。しかし、その境界を踏み越えれば、私たちは無免許運転の共犯者となるのだ。
背徳的な響きにわくわくしていた。私たち二人だけの世界から、未知の世界まであと五メートル、四メートル、三メートル……。



