大叔母が切ってくれた西瓜は味がしなかった。年季の入った鳩時計の音が、中学三年生の八月を浪費している事実を可視化して焦燥にかられた。ただただ息苦しかった。
清美(きよみ)ちゃん大きくなったねえ。もう春子(はるこ)より上背があるんじゃないのかい。ちょっと立ってみておくれよ」
 曾祖母に促された祖母との背比べはもう三回目だ。高校受験が終わったらいくらでも曾祖母孝行をするから、今は勉強をする時間が欲しいと心の底から願った。
「清美ちゃん、この三年間色々大変だったでしょう? (しょう)くんの学校も修学旅行直前に学級閉鎖になって中止になっちゃったみたいでねえ。本当に今の子は気の毒だわ」
 大叔母が徐々に緩和されているとはいえコロナ禍で制限のある学校生活を送る同い年のいとこの翔や私の心情を慮る。根っからのアウトドア気質にもかかわらず抑圧されている翔を気の毒に思う。今でこそ外に出ただけで自粛警察に糾弾されることはなくなったが、彼がどうやってステイホームの時代を乗り切ったのか想像できない。一方私は、この三年間感染状況の波がどういう状況にあっても変わらず勉強しかしてこなかったので正直コロナ禍とは無縁だった。自由を制限された翔と、社会情勢とは無関係に部活動に励んだり友達と遊び尽くしたりする予定が無い私はどちらが気の毒なのだろうか。
「違うのよ。学級閉鎖は小学校の修学旅行。今回は入院してて行けなかったんですって」
 祖母が大叔母の発言を訂正した。翔に何かあったのだろうか。私は何も知らない。
「ああ、そうだったわね。もう治ったの?」
「ええ、今はサッカーはお休みしてるけど、もう歩けるみたい」
 ちらりと祖母に視線を送る。
「翔君ね、交通事故にあっちゃったのよ。春に修学旅行があったんだけど、その二日前に。足の骨折で一週間くらい入院することになっちゃってね」
 視線に気づいた祖母が何も知らない私に補足説明をしてくれた。翔は随分と災難な目にあってしまったようだ。
「清美ちゃんは学校生活楽しめてる? 何かあったらいつでもおばちゃんが相談に乗るからね」
 翔の話題が終わると、大叔母が私に再び話を振った。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 作り笑いを浮かべたものの、「楽しいです」とは決して言えなかった。
 同じ話を何度も繰り返す曾祖母相手には可愛らしい曾孫らしくにこにこと笑っていればそれでよかったが、大叔母相手の会話は骨が折れた。三年間会えていない私の姉や父の近況を詳しく聞き出そうとされても、知らないことの方が多くて困った。早くこの会話が終わることを願いながら、顔じゅうの筋肉を愛想笑いの形状に固定した。

 ようやく解放された頃には夕方で、来た時より何倍も影が長く見えた。私は何かに追い立てられるように急いで車に乗り込んだ。
 祖母の運転する車の後部座席で、単語帳アプリをひたすら回す。通信制限でオンラインの勉強アプリが使えないので、ギガを使わないアプリしか使えないのがもどかしい。
「清美ちゃん、携帯ずっと見てると酔っちゃうわよ」
 バックミラー越しに祖母が私を心配する。車酔いしていたのは小さい頃の話だ。小学校三年生以降の遠足では、酔い止めの薬を飲まずにバスに乗っても具合が悪くなることはなくなった。
「大丈夫。窓開いてるし。ありがとう」
 刺々しい口調にならないように努めたが、内心はそんなことを言うくらいなら連れ出さないでほしいと思った。本心を隠すために、「ありがとう」の言葉を添えた。
 突然表示されたスマートフォンの上部のポップアップ通知をタップする。
「きよみん本当に修学旅行来ないの?」
 友人の()()からのメッセージだった。私の学校の修学旅行は学級閉鎖にでもならない限り、九月に決行される予定だ。もう班も決まっている。混じりけのない善意が今は疎ましく感じられた。
 返信するのが億劫だ。トークルームを閉じて単語帳に戻ったが、「修学旅行」の四文字がチラついて、うまく頭に入らない。ストレスが許容値の限界を超え、私はスマートフォンを投げるように座席に乱暴に置いた。
「キリがいいところまでやったから、終わりにした」
 祖母に対して適当な言い訳をして、窓の外を見る。のどかな田舎町の風景を夕日が照らしている。途中、学校の前を通り過ぎた時に、少しだけ涙が出た。

 二年半前、中学受験に失敗した。(おう)(りょく)大学附属中学に入れなかった。
 両親はともに私学の雄として名高い王緑大学の出身で、三歳上の姉も中学から王緑に通っている。
 小学校六年生の秋、日曜日をはさんで行われた修学旅行が塾の組分けテストと被った。テストを受けられなかった私は選抜クラスから転落した。塾の広告塔としての役割が期待される生徒が集まる選抜クラスとそれ以外では、講師陣の目の掛け方も授業のクオリティも天と地ほどの差がある。
 受験直前の大事な時期を棒に振った私は受験に落ちた。もっと勉強すればよかった。もう少しだけ我慢すればよかった。例年より規模の縮小したしょぼくれた修学旅行なんて行かなければよかった。
 王緑大学附属中学の修学旅行の行き先も、私の小学校の行き先もどちらも京都だった。私が帰って来て一週間後に京都に行った姉は、私のお土産と同じメーカーの八ッ橋を買ってきた。どうせ同じところに行くのなら、ちゃんと王緑に入ってから行けばよかった。
 コロナ禍以前の中学校生活がどんなものだったかは知らない。どうせ世界が平和でも私の生活は何も変わらない。遊んでいる暇があったら高校受験の勉強に励むべきだ。
 パンデミックは終息しつつある。姉と同じように王緑大学附属高校でキラキラした青春を送るんだ。
 そう思って寝る間も惜しんで勉強していたのに、三年生の一学期に成績が少し落ちた。取り戻すために、今までの三倍勉強した。それなのに、塾の夏期講習の日々のテストの順位は下がるばかりだ。
 莉緒に修学旅行でおそろいの私服を着たいから、ショッピングに行こうと誘われた。中学に入ってから、莉緒の私服は見ていない。
 私は誘いを断って、欠席の旨を伝えた。修学旅行なんて行っている暇はない。それに、私にとって莉緒は唯一の友人だけれども、莉緒には私以外にもたくさん友達がいる。

 夕食の餃子の味も、祖父の私を気遣う言葉も全部どこか他人事に感じられた。スマートフォンを車の中に忘れたことに気づいたのは、夕食もお風呂も済ませた後だった。取りに行こうと思ったが、高地の天気は変わりやすいのか、雨が少しパラついている。せっかくお風呂に入ったのに、また濡れるのは嫌だったので回収は明日にすることにした。
「おばあちゃん、コーヒー飲みたい」
 夜中の勉強のお供にはコーヒー。東京ではいつも父が淹れてくれていた。
 私が父の栄養ドリンクを勝手に飲んでいるのが発覚したのがきっかけだった。肝臓や腎臓への悪影響があるから子供が飲んではいけないものだと、保健体育の授業のように諭された。代わりに、コーヒーを淹れてくれるようになった。
 適当なお菓子で糖分を補給しながら深夜まで勉強することが日課だった。時折母が作ってくれた鮭のおにぎりはコーヒーとは合わなかったけれどとても好きだった。
「ごめんね。うちにはないのよ。おじいちゃんもおばあちゃんもコーヒー飲まないから。麦茶じゃだめかしら?」
 祖母の家に来ると、いつも祖母が父にコーヒーを淹れていた。あの頃は父のために買っていたのだろう。今回の訪問に父は同行していないので準備していないのも仕方がない。しかし、麦茶では眠気を飛ばせない。
「じゃあ、自販機で買ってくる。ここから一番近い自販機どこ?」
「この辺りには自動販売機はないのよ」
 麦茶をコップに注ぎながら祖母が答える。なんて不便なのだろう。父が出張でドリップコーヒーが飲めない夜は、マンションの一階の自動販売機で缶コーヒーを買っていた。ロビーのそれを含めて、私の住んでいる一九〇二号室から中学校までわずか徒歩八分の通学路には五台も自動販売機があるのだから、一台くらい今この地域に分けてくれればいいのに。
「じゃあ、明日でいいや。明日スーパー連れてってよ」
「分かったわ。明日の朝、一緒に行きましょうか。今日はもう寝なさいな」
 コップに入った麦茶を一気飲みして、私は泊まっている部屋に戻った。
 田舎の悪いところは自動販売機もスーパーもコンビニも徒歩圏内にないところ。いいところはクーラーが無くても窓を開ければ涼しい夜を過ごせるところ。エアコンの風による乾燥に邪魔されることなく勉強ができる。
 しかし、いくら環境が良くともカフェインが切れると苛々する。つい嫌なことばかり思い出してしまう。息苦しさが私を襲った。

 莉緒の誘いを断った数日後、塾で急にお腹が痛くなって倒れた。塾には救急車が来た。ストレス、過労、睡眠不足。総括すると受験ノイローゼ。両親は過度なスパルタ教育の疑いをかけられた。担当医、塾の先生、どこからか聞きつけた養護教諭と担任。完全な冤罪であるにもかかわらず、母は四度も同じ弁明を強いられた。
 中学に入ってから、両親は私に勉強を強要したことは一度もなかった。両親の顔に泥を塗ったことも、私だけが落ちこぼれていることも申し訳なくて仕方がなかった。
「ゆっくりしてきなさい」
 両親も思うところがあったのか、お盆までの残りの夏期講習をキャンセルして、父の実家で療養することになった。もうどこも悪くないのに。
 朝から晩までかじりついていた勉強用のタブレットは置いていくように言われた。デジタルデトックスと母は表現したが、学校の友達との関係には配慮してくれたのか、スマートフォンは持ち込みが許された。ついでに数学の問題集を一冊だけ持ち込んだ。がっつり勉強するつもりだったのに、カフェインを摂取できなかったので睡魔に負けてしまった。

 ローテーブルに突っ伏したまま、眠っていたようだ。なのに、全然眠れた気がしない。最近ずっとこんな調子で、眠りが浅く寝ても疲れが取れない。居間の方が騒がしくて目が覚めた。テキストの進捗はすこぶる悪い。ご飯を食べたらまた勉強しなければ。
 居間に行くと祖父母の姿はなく、かわりにいとこの翔が、寝転がって独り言を言いながらゲームをしている。周りには食べかけのお菓子の袋が散乱している。左足にはサポーターを着用していて痛々しく見えた。
「清美だ! 久しぶり!」
 ゲームを一時中断して、翔が座って私に向き直る。
「何年ぶりだろ? 元気だった?」
 最後に会ったのはもう何年も前だ。パンデミックの前、小学生の頃は毎年長期休みにはいつも同時期に帰省して一緒に遊んでいた。
「清美が来てるって聞いて、俺も来ちゃったー」
「お姉ちゃん、今回は来てないよ」
 一人っ子の翔は、少し年上のいとこである姉に遊んでもらうのを楽しみにしていたのだと思う。ゲームが得意で、頭がよくて、面倒見がいい姉。お目当ての“優美ちゃん”は今回はいない。
「知ってる。優美(ゆうみ)ちゃん免許合宿行ってるんだろ?」
 どうやら親戚の集まりがなくなった後も、姉とは連絡を取っていたらしい。私よりも彼女のプライベートに詳しかった。
「俺は清美に会いに来たんだよ。というわけで、さっそくレイドやろうぜ」
 翔がゲーム機の画面を見せてきた。小学校の時、よく一緒に遊んだシリーズの続編だ。
「ゲームなんて持ってきてるわけないじゃん」
「ちぇっ」
「それに、もうゲーム何年もやってないから」
「えー、もったいねー。せっかく優美ちゃんと一緒に住んでるのに」
 昔は気の合ういとこだった。けれども、今はこういうちょっとした発言にもイライラしてしまう。ゲームの話を完全にスルーして気になっていたことを質問した。
「おばあちゃんは?」
里山(さとやま)(まつ)りの集まりだってよ。夕方まで帰って来ねえんだって。昼飯は冷蔵庫」
 里山祭り。私は行ったことはないが、夏の終わりに行われる伝統のお祭りだ。地元愛溢れる住民たちの気合の入れ方は尋常ではない。そのため、規模はかなり大きく、実行委員会の人数も会合の回数も単なる夏祭りとは一線を画す。地域に愛された定食屋を営む祖父母は当然ともに役員として名を連ねている。
「里山祭り実行委員会、緊急事態宣言出た年にやるのかやらないのか決めるためにオンライン会議用のライングループ作ったんだって。せっかく爺ちゃん婆ちゃんばっかりなのに頑張ってハイテク化したんだから、ちゃんと続ければいいのに」
 翔たち叔父家族はこの近所に住んでいるため、こういった裏事情にも詳しい。
「まあ会議にかこつけて酒飲みたいだけなんだろうな。あーあ、大人はいいよな。いつでも行きたいときに行きたいところに行けてさ」
 私はどう反応していいかわからなかった。
「修学旅行、トロイメライランドに行く予定だったんだけどさ、見ての通り足こんなだから行けなかった。いやー、ついてないよな」
 翔は左足を指さしながら言った。トロイメライランドは東京の人気テーマパークだ。姉がトロイメライランドのキャラクターが大好きだったので、昔は毎年夏休みに家族で行っていた。最後に行ったのは小学三年生の時だ。姉は中学に入ってから、家族ではなく友達と行くようになった。
「つーわけでさ、傷心の俺の相手してくれたりしない?」
 翔は一度言い出したことは引っ込めない。
「ゲーム持ってきてないならさ、スマホで出来るゲームやろうぜ。貸して。アプリ入れてやるよ」
 先ほどまでの残念そうな口調から一転して、急にはしゃぎだした翔に言われて気づく。スマートフォンは祖母の車に忘れたままだ。そして、祖母は車で会合に出かけてしまった。
「おばあちゃんの車に昨日スマホ忘れた」
「えー、清美ドジっ子だなあ。可愛いなあ」
 翔が笑い飛ばした。しかし、スマートフォンが無いのは死活問題だ。祖母は今日の朝一緒にスーパーに行く予定だったのに寝過ごした。帰りにコーヒーを買ってきてほしいと頼もうにも、祖母に連絡するためのスマートフォンは車の中だ。
 このままでは今日もコーヒーはお預けになってしまう。かといって、地図アプリが無ければ自力でスーパーに行くのも不可能だ。
「ここからスーパーって歩いて行ける? 翔も何か欲しいものあったらついでに買ってくるけど」
 口頭で翔に道を聞いてみた。翔は驚いたような顔で静止した。
「えー、こんな暑いのに外出たら熱中症になっちゃうだろ。やめといた方がいいって」
 車社会の田舎で私の発言は酷く非常識なものだったようだ。
「清美起きたよって連絡したけど、既読つかねえや。これは酒飲んでやがるな」
 翔が呆れたようにスマートフォンをソファに投げた。
 一通りの業務連絡が終わり、サンドイッチを食べた後は、翔はゲーム、私は問題集にかじりついた。
「清美集中力やばいね」
 私が一息ついて氷が溶けた後の麦茶に口をつけたタイミングで、翔に声をかけられた。
「受験生なんだから当然でしょ」
 そう言った後、翔も受験生であることに気づいた。でも、翔は勉強をしているそぶりがない。
「あー、東京は人多いから倍率高いもんな」
 翔は私の五倍は地頭がいい。小学校時代は私の塾の夏休みの課題のわからない問題をちらっと見ただけで解いてしまえるくらい頭がいい。地元のトップ高にも部活と両立しながら余裕で合格できるくらいの実力はありそうだ。そして翔なら本気を出せばきっと王緑に受かるのだろう。無性にイライラした。身勝手な嫉妬と劣等感まみれ。どうして私はこうなってしまったのだろう。
「とにかく勉強お疲れさん。ハイチュウラスト一個食う? 好きだっただろ?」
 よく覚えているな、と思った。翔は会うといつもハイチュウを私にくれた。私の好きな青りんご味。でも、今は食べる気にはならなかった。
「お昼食べたからいい。晩御飯早いし」
 結局可愛げのない返事をしてしまった。私は誰に嫉妬しているのだろうか。頭のいい翔にだろうか。それとも、私の持っていないものを全部持っている姉にだろうか。

 六時前に祖母が帰って来た。翔が玄関に向かう。まだ、少し足を庇うような歩き方だった。
「ばあちゃん! おなかすいた!」
 玄関からは翔の大声。私も様子を見に行くと、お酒の臭いがして少し不快だった。受験とは無関係に私はお酒が嫌いだ。
「じいちゃん酒くせえ! どんだけ飲んだんだよ!」
 ハンドルキーパーの祖母と対照的にすっかり顔を赤くした祖父を翔が笑っている。
「おばあちゃん、コーヒー買ってくれた?」
 一応聞いてみるが、祖母は一瞬間をおいて気まずそうに答えた。
「あら、嫌だ忘れてたわ。ごめんね、朝は翔くんが来てバタバタしてたからお買い物に行く暇がなかったのよ」
「じゃあ、今から行けない?」
「ごめんね、おばあちゃん晩御飯作らないといけないから。また明日ね」
 それが金科玉条だとでも言うように、祖母は必ず夕方六時半までに晩御飯を作る。
 ハンバーグとマカロニサラダ、昨日の残りの餃子が並ぶ食卓で、祖母が夕食後の過ごし方について翔に説明する。翔は私が泊まっている部屋の隣の部屋に泊まることになった。