「葵!……っ、すいません、人違いでした」

 さらさらと揺れる髪の後ろ姿に、思わず手を伸ばしかけて、振り返った別人に怪訝な顔をされた。
 浅羽は息を吐きながら、あたりを見回す。葵の姿はない。

 先ほどから何度もかけている電話は、一向につながらない。


「着拒してんな……ガキかよ」


 思わず浅羽の口からため息が漏れる。この人混みの中、浅羽は一人の男を自力で探し出さなければならない。

 少々口調が荒くなってしまうのは、仕方のないことだった。




────あんた、すげえ似てるよ。あいつが、好きだった男に。



 ロン毛男の言葉がよみがえる。おおかた説明されて、すべて合点がいった。

 葵が自分に執着していた理由。雨の夜は寂しいと縋ってきた理由。長良と関係を持とうとした理由。


 あぁ、なるほど。
 すべて、亡き恋人が軸にいたわけだ。


 近くにあったベンチに腰掛ける。浅羽の吐く息は白くなって、空に溶けるように消えていく。


 何を必死になって葵を探しているのだろう。自分は、利用されていただけに過ぎないのに。もう葵を追いかける義理なんて、浅羽にはないはずなのに。


「……どこにいんだよ」


 それでも、浅羽の心は求めてしまう。彼を、美しい男を、葵綺月を求めてしまう。



── お前に利用されるなら、別にいいよ。

 葵の弱さごと、歪んだ想いごと、受け止めてやりたい。間違いなく二番手だが、それでもいい。


 はじめて視線が絡んだ時から、君が髪を揺らして振り返った時から、あの雨の夜出会った時から────


「──……好きなだけだ」


 ただ、これだけ。
 ぼやいたところで何も変わらない。猛烈に、ひたすらに、好きで。葵が執着してくれるのなら、一生騙されたままでいいとさえ思う。
 きっと自分の気持ちだって、歪んでいる。


 この歪んだ気持ちが、たとえば愛になるとして。その愛の先で、君は、ちゃんと笑っているだろうか。





















「……雨月、くん」





 ぼそぼそした声が後ろからかかり、驚いて振り返ると、そこには肩を小さくしてたたずむ葵がいた。

 浅羽は全身が緊張で震えるのを感じながら、「よかった」と呟く。真っ先に口をついた言葉は、それだった。


 よかった、会えて。よかった、無事で。よかった、戻ってきてくれて。





「……ずっと、言わなきゃいけないことが、あった」


 ふ、と葵の息がのぼっていく。鼻の先が赤くなっていて、ほんの少し息が上がっている。


「座る?」
「……ありがと」


 葵を自分の横に座らせ、浅羽はゆっくりと空を見上げた。これから、何を言われるのか、関係性がどう変わるのか、まったく読めなかった。


「……」


 しばし沈黙が降りる。なかなか話し出さない葵にそっと視線を向けると、手が小刻みに震えていた。浅羽は無意識のうちに、その手に自らの手を重ねていた。


「大丈夫。ゆっくりでいいから、聞かせて、葵の話」


 浅羽の言葉にこくりと頷いた葵が、その薄い唇をかすかに振るわせる。


「……好きな人が、いたんだ。すごくすきで、本当に好きで、ずっと一緒にいられると思ってた。けど、中2の冬に死んだ。飲酒運転の、交通事故で」

 うん、と相槌を打つ。葵の目が悲しげに揺れる。

「……彼と、雨月くんは、よく似ていたから。最初は、彼が戻ってきてくれたのかと思ったんだ。だから、近づいた。長良も同じ。近づいたのは、彼と、名前が同じだったから」
「うん」
「僕は、雨月くんと長良を利用して、自分の欲を満たそうとした。名前を呼んで抱きしめてもらうことで、彼にそうされてるような錯覚に陥ってた」

 やはり、自分の予想通りだった。浅羽は悲しさと納得が混ざったため息を深く吐き、指を組む。本人から直接言葉にされると、想像していた以上に心にくるものだ。


 俺、それでもいいよ。利用したっていいよ。俺、お前が好きだから。もうずっと、長いこと。

 何度も何度も飲み込もうとした言葉。それらを告げようとした瞬間、「でも」と葵が言葉を続けた。


「千景と雨月くんは、違った。全然違った。似てたけど、同じじゃなかった。最初は千景の代わりだと思ってた。ほんとに最低な考えだった。だけど、でも」

 葵の目がこちらを向く。葵はほとんど、泣いていた。




「……僕、雨月くんのことも、好きだよ」




 鈴のような声が耳を抜ける。初詣の喧騒が、一気に遠くなった。


「本当のことを言ったら、嫌われると思った。嫌われて当然のことをした。雨月くんを利用して、騙して、最低な僕が言う権利なんてないと思う、けど。でも」


 葵の音しか、聞こえなくなる。しんしんと降る雪の音さえも、消えた。


「……嫌われたくなかった、」


 その瞬間、葵の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。浅羽は思わずその涙を拭おうとして、指先が触れる寸前でとどめ、降ろす。一連の動作を見つめていた葵は、傷ついたような顔をして視線を落とした。


「……嫌、だよね。触れるの、嫌いになったよね」
「違う、そうじゃない。葵」


 浅羽の強い口調に、葵が口を閉ざす。じっと見つめてくる葵のまなざしを、浅羽もまっすぐに見つめ返した。


「俺、葵のことが好きだよ。きっととっくに気づいてたとは思うけど。ずっと勇気が出なくて言えなかった。ごめんな」

 するすると言葉が出てくる。ずっと、言えなかったはずの言葉だ。これが、気持ちを伝えるベストタイミングだったのかもしれない。


「俺、葵の想いも大切にしていきたいよ。昔の恋人への想いも、ちゃんと一緒に大事にしたい。代わりだっていいよ。利用したっていいよ。だって俺、お前のこと好きなんだよ、葵」
「……うげつ、く…」
「騙されてたからって嫌いになるほど、弱くはないよ。俺の、葵への気持ち」


 ぼろぼろと、葵の目から涙が落ちる。涙を流しているところさえも美しくて愛おしいのだから、もうどうしようもない。

 嫌いになるはずがない。




「葵。はじめてみよう、俺たちも。ずっと葵だけ苦しいのはヤだろ? 一緒に乗り越えよう、俺たちで」
「……っ、うん」
「おみくじ、結局結べなくてどっか行っちまったけど。今年が凶にならないようにすんの、葵も手伝ってくんない?」
「あ……これ、さっき拾った。もしかして.....雨月くんの?」
「早速じゃん、手伝うの早ぇわ」




 君が抱える弱さも、傷も、何もかもが愛おしい。溢れ出す想いにはもう、どこにも行き場がなくて。
 だからそのかけらを、君に渡してもいいだろうか。



 歪んだ想いが、ひとつになって、綺麗に結ばれて、たとえば愛になるとして。




 その時君がとなりで笑っていればいいって、今はただ、それだけを思うのだ。