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 ……なんだこれは
 “初部未来”が今見ている景色は、「無そのもの」だった。何も見えない、感じない、聞こえない。
 自分が死んだということだけはないと、そのことだけは分かる。なんといえばいいか分からないが、体に実体がある感覚が、初部にはしっかりとあった。


 ――確か、マリアのやつに超絶激イタパンチを腹に喰らったんだっけか?
 でもなぜか彼は今、謎の暗闇の空間の中に取り残されている。意識もある。じゃあ一体ここは……?


 初部が困惑を極めている中、どこか遠くから、笑い声のような声が聞こえる。それは初部を取り巻く空間で反響しているかの如く響き渡り、まるで脳の中で囁かれているかのような錯覚さえ起こすのだ。


「ハツベ、ハツベ」と脳の中に直接語りかけてくる声。
「誰だ!もし私を呼んでいるのなら、出てきてくれないか?!」


 ――鳴り響く不気味な笑い声は止まらない。頭がおかしくなるほど狂気的な笑い声。しかし聞いたことがあるような気もする。でも私は一体どこで……?

 ――ああ、憎い!憎い憎い憎い、憎いィイ!

 あの声、あの声だ!私は咄嗟に思い出す。つい数時間前に聞いたあの声。この謎の世界に飛ばされてから色々な感情を抱いて、もうかなり長くいるとさえ感じるが、忘れるはずもない。彼こそ私、初部未来をこの異世界に閉じ込めた元凶だからだ。


 ――やあ、ハツベ。調子はどうだい?
「……」
 

 黒いフード服で身を包み、大きな二本の黒い横棒の刻まれた仮面を被った謎の男がこちらを見ている。
 何よりも気持ち悪いのは、彼は私に直接口で話しかけていると言うよりも、脳の中に直接話しかけているのだ。
 身の底からゆっくりと蠢き出す嫌悪感と怒り。しかしその感情の中身は単純に「この男」に対する怒りだけではない。
 この理不尽な世界に対する怒りも自分は同時に抱えていたのだ。


 ――無視なんて、つれないなあ、お前。
「……貴様は、誰だ。」


 私はこいつと世間話を始めるつもりはない。ただ、私のしたかったことは……
 私が唇を噛んで相手を睨んでいると、その男は仮面を抑えながら私の近くへと歩み寄る。

 
「お前が誰で、何者なのか。私が今知りたいのはそれだけだ!」
 ――もし俺が、お前に元の世界に帰る機会をくれてやるって言ったらお前はどうする?ハツベ。


 その言葉は私の予想し得ない言葉だった。元の世界に帰る機会をやる、だと……?
 ――勝手に私を知らない世界に送りやがったのはお前の方だろうが。
 初部は余計にその目を細めて相手をじっと睨む。その目は”沈黙”という彼の質問に対する答えでもあった。


 ――ふん、じゃあお前はこの世界でやりたいことが見つかったと、そう言うことかい?
「何が言いたい?」
 ――君が”どっち側”なのか知りたいだけさ。この世界を見捨てるのか、見捨てないのか。
「……」


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 私は真っ当に生きたていたいと思う。

 
 自らに厳しく、他人に優しく。私は今まで、極めて順当な人生を送ってきたはずだ。理不尽と衝突することもなく。
「何も、問題などなかった。」

 
 そう言うか否かのタイミングだった。

 
「お父さん!お母さん!」
 暗闇の中、私の脳裏には、突然両親を目の前で殺された少女の悲しみの表情が浮かぶ。


 
 ――私は人一倍理不尽が嫌いだ。
 人がそんな理不尽に直面してきた場面なら今まで何度も何度も見てきた。でも私は果たして何をしてきただろうか?

 
「何も……してこなかった。」


 体を自由に動かせない……。涙さえも、出すことを許さないってことかよ……
 私が涙を出そうと抗すると、脳裏には再び、アイツの言葉が聞こえてくる。


 ――お前は泣いて同情することで信頼を買おうとしているのか……?


 返す言葉もない。こんな偽善者のままで、こんな弱虫な人生で、果たして私は自分を好きになれるのか……?と、彼は言いたいのだ。


「でも、なんで私にばっかりそんなこと押し付けるんだよ!」

 
 目の前に見えるのは差別、蹂躙される弱者、守られぬ約束、悪を制せぬ世。
 私には、あまりに荷が重い。
 ああ、神よ!全ての人と共に幸せに過ごしていける世界のために、私は一体何を捧げたらいいのだろう。
 答えるように脳裏に返ってくるのは
 ――本当にお前はこんな世界でいいのか……?
 という疑問だけ。

 
 脳裏に響くその声に呼応するように、私の目の前にはぼんやりと一人の少女の姿が映る。はっきりとは見えない……
 私がその映像に触れようとした瞬間、場面は切り替わる。「お父さん……!お母さん……!」「………………」「どうして私を置いていくの……?どうして私から大事なものをどんどん奪っていくの……?」
 これは……何か分からないが、確かにこの国で起きた出来事らしい。
 ――これは本当に、耐えられない!


 
「私は一体どうしたら……!」


 初部は頭を抱えて耳を塞ごうとする。「もう勘弁してくれ、こんなの耐えられない!」という私の言葉は、ついに自分の脳さえも届かない。脳裏に刻まれる被害者たちの声。

 
 ――「誰か、誰か助けて!助けてよ!」「こんなの、理不尽にもほどがあるだろうが!」「俺は、絶対死なせ……な……」「お兄ちゃん!死なないで!」「こんな世界、大っ嫌いだ!」


 エンドレスで脳裏に流れる悲劇の数々。
 ――ああああああ!ああ、あああああああ!
 

 初部はあまりの入り組んだ感情に脳のキャパシティがオーバーする……
 悲劇、悲惨、残酷、苦痛、無慈悲、無惨……
 悲劇、悲惨、残酷、苦痛、無慈悲、無惨……
「悲劇、悲惨、残酷、苦痛、無慈悲、無惨……」
 この時彼の頭に残ったのはその言葉だけだった。
 ――お前は、何をしたい?


 脳裏に聞こえるアイツの声。被害者の声が聞こえなくなっている頃、初部未来は自我を失っていた。そして、彼はまるで壊れたピースのようにバラバラに自我を組み立て直していく。


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 彼は夢見ていた。
 ――明晰夢というようなものは未だ嘗て見たことがなかった。だがどうやら私は今、本当に夢を見ているらしい。
 そして、何やら笑い声が聞こえる。

 
 絶え間なく聞こえてくるのは少し自嘲気味な笑い声。しかし周りには誰もいない――
 空耳かと思っていた。だが時間が経つにつれ、そうとは思えないほどその声は大きくなるのだ。

 
 ――壊す、壊す、壊す、壊す、壊す!
 そして自嘲気味な笑い声はやがて憎悪に満ちた声に変貌を遂げていく。
 一体なんなんだ……?まるで脳に直接狂気を流し込まれているかのような感覚だ。
 世界の全てを敵に回したかのような狂気的な感覚を、彼は抱いたことがなかった。


 彼はチラリと自分の手を見る。
 その時何故か思ったのだ。
「なんて穢れひとつない『綺麗』な手なんだ……」


 彼はそう言ってからハッとする。まさか……!
 ――この声は誰かの声じゃない、自分自身の声だ!


 
「俺は、世界を壊したい。元も子もなくなるまでメチャクチャに。無惨に、無慈悲に。」
 彼はそう口にした次の瞬間から、”彼ではなくなった。”