彼にとって私は思い出になれただろうか。

「君を好きっていうのはウソだったんだ」
それを口に出された瞬間、私は言葉を失った。

けれど、私は彼の次に言い放ったセリフで途端に心が躍るように嬉しくなった。それと同時に思ったんだ。

あぁ。彼はなんて素敵な嘘をつくんだろう、って。
そして、私たちは本当の恋を知った。

―――

「夜の学校ってやっぱり怖い……」

私、葉花琴里(はばな ことり)は真夜中の教室にいた。と、いうのも明日提出しなければいけない宿題のプリントを忘れたから。普通なら夜中の学校には入れないのだが、今回は警備員さんに無理を言って特別に許可をもらった。

「友達と一緒に来れば良かった。ゆ、幽霊とか出ないよね?」

まだ高校生になったばかりとはいえ、高校生だって学生の中では十分大人だし……。怖がってたら恥ずかしいよね。でも、怖いものは怖い!

正直、幽霊なんて都市伝説並に架空の存在だし、いるわけないよね。でも、いたときはどうしよう?なんて考えながら、ガサゴソと机の中からプリントを探していた。

「電気はこっちだっけ?」

まわりが暗いから教室も当然真っ暗。そんな中、探すなんて不可能。スマホのライトでなんとか自分の机まではたどり着けたけど、やっぱり暗い。私は電気をつけようと足元をライトで照らしながら歩いていた。

「……」

「!?」

一番前の席まで進むと、そこには足があった。私は思わずスマホのライトでその方向を照らした。

「キミは誰?」

「ぎゃあああああああああ!ゆ、幽霊ー!!」

私はスマホを落とし、そのままズザザサと後ろに下がった。やっぱり幽霊は存在したんだ!でもあれ?幽霊って足あったっけ。

「ちがうよ!僕は人間だ!」

「に、人間……?」

「そうだよ。キミと同じ人間。というかキミと同じクラスだし」

「クラスメート?」

「そうだよ。っていっても初めましてだよね」

暗闇の中聞こえるのは、やたら耳に残る声。優しい声色。暗闇に徐々に目が慣れてきて制服のズボンが見えた。男の子だ。クラスメートなのに初めまして?と疑問に思ったけど、彼の声は今まで聞いたことがない。

「暗いよね?電気つけようか」

パチッ。と彼は私のために電気をつけてくれた。

「ありがとうございます」

「なんで敬語?キミと僕は同級生なのに」

彼はそういうと口元に手を当てて笑った。
なんて綺麗に笑う男の子なんだろう。サラサラの黒髪に青い瞳。海よりも深い瞳から私は視線をそらせずにいた。同じ人間とは思えないほど美しい男の子。

「僕は橘夏弥。キミの名前は?」

「葉花琴里、です」

「可愛い名前だね」

「っ……」

微笑みながら私の名前を褒めてくれた橘くん。私はその姿を見て胸の奥がきゅんとなった。
今まで可愛いなんて言われたことがないから嬉しかった。けど、それ以上に恥ずかしさのほうが勝ってて。

橘くんに褒められて、口がにやけてないかな?とか気持ち悪い顔になってないかな?とか、そればかり気になった。

「橘くんはこんな時間に教室で何してたの?」

妙な空気に耐えきれず、話題を変えてしまった。不自然じゃなかったよね?だって、こんな時間に教室にいるほうが変だし。

「僕は……」

「言いたくなかったら無理しないで」

ふと疑問に思ったことを気軽に聞いてはいけなかった。橘くんの顔は見る見る暗くなった。さっきとは打って変わって空気が重くなった。

「葉花さんは僕とクラスメイトだから聞いてほしい」

「うん、きくよ」

クラスメートっていっても、橘くんと私は今日出会ったばかり。それなのに私なんかでいいの?

「実は僕、病気で昼だと体調が最悪なんだ。夜になると多少良くなるから、こうして教室で自習してるんだ。せめて皆と同じ教室で学校生活をしてみたくて」

「そう、だったんだ」

「最初は夜間の高校とかも考えたんだけど、僕が選んで受かった学校だから思い入れも強くてね。クラスメートは僕のことは知らない。でもいいんだ。僕が君たち、葉花さんたちを覚えているから」

「そんな悲しいことをいわないで」

「葉、花さん?」

そんなの、あんまりじゃないか。橘くんはせっかくクラスメートと思い出を作ろうとこの学校を選んだのに……。

病気のせいでクラスメートと会うことも出来ない。クラスメートはその事を知らず、橘くんだけがクラスの人を覚えているなんて。そんなの悲しすぎる。誰一人として橘くんを知らないまま、橘くんは高校を卒業することになる。

クラスメートとして一番最初に橘くんのことを聞いた私。このまま何事も無かったまま、明日から学校生活を送るなんて私には無理だ。

「それにいつ死ぬかわからない僕を覚えていても、クラスメートが悲しくなるだけ。そんなの僕は耐えられない。だから僕は誰にも知られずに死んだほうがいいんだ」

「そんなことない!」

「!?」

「橘くんはこの世に生まれたとき家族に祝福を受けたはず。誰にも必要とされない人間なんていないよ!」

私が考えてるよりも橘くんの病気はひどいかもしれない。でもだからといって生きることを諦めるのは違う。思い出は今から作っても遅くないはずだ。

「葉花さん……」

「だから橘くんも、もっとワガママになっていいんだよ。橘くんはクラスメートとどんなことがしたい?」

「う〜ん。体調が万全じゃない以上、昼の学校にはいけないから。けど、しいていうなら……」

「なに?」

「死ぬ前に恋をしてみたいな」

「こ、恋?」

「うん。葉花さんと仮でもいいから恋人になってみたい。それでクラスメートの彼女と学校で思い出を作りたい」

「なっ……」

「だめ、かな?」

「ダメじゃない」

「ありがとう葉花さん」

「うっ」

これ、断れない流れだよね。橘くんの願いは出来るだけ叶えるつもりだったけど、まさか最初のお願いが私と恋人になることだなんて。もちろん仮だけど、ね?

「僕は本当の恋をしたことがないんだ。でも、葉花さんを最初に見たとき、この子が僕の運命の人だったら良いのになって思ったんだ」

「運、命……」

「葉花さんに一目惚れしたんだ。実際こうして会話してても葉花さんは天使みたいに可愛いし」

「天使って……」

あまりにも大げさな表現。私なんて顔は普通だし、女友達と話してるときは口を大きく開けて笑うから清楚とは程遠い。橘くんのいう天使とは真逆だ。

「今日は僕たちが出会って付き合った大切な日。だから記念日に星を見に行こう?屋上なら綺麗に見えるんだ」

「橘くん、走ったら危ないよっ!」

自然に手を繋いで、私は橘くんと走り出す。いくら夜に体調が良くなるとはいえ、走るのは身体に良くない気がする。

「どうせ死ぬなら、それまで自由に生きた方が人生は楽しい。葉花さんが教えてくれた。だから好きな人とはしゃいでるんだ」

「橘くん……」

さっきとは違って明るい表情。良かった。私の思いが伝わって。けど、だからって夜の学校を走るのは危険すぎる。

「琴里は好き?僕は大好き」

「えっ!?」

「星を見てると元気になる。だから好きなんだ」

「そっち、ね」

「ん?」

「なんでもない」

ビックリした。てっきり私のことを好きって言ってるのかと。って、そんなわけないのに。私に一目惚れ、か。橘くんほどカッコいい人なら私なんかじゃなくても良いのに……。

橘くんがこんな状態じゃなかったら、私ではなくても他の子と付き合うチャンスはいくらでもあったはず。

私が橘くんの最初で最後の恋人でいいのかな?その不安はこの先もずっとつきまとうのかな。自分で橘くんにあんなことを言っておきながら自分では自信がない。

私なんかを本気で好きになってくれる男の子なんて本当はいないんじゃないか。そう思ってしまうのは過去の辛い記憶のせいだ。

私だって普通の女の子。今まで人を好きになったことがないって言ったらウソになる。中学時代、気になる男の子はいた。クラスメートでそれなりに仲のいい男の子だった。
趣味も似ているし、教室で挨拶を交わせば、そのままずっと話していた。話題がつきることはなく毎日が楽しかった。気がつけばクラスメートの男の子から気になる異性として見るようになった。彼もそうだと思っていた。けれど現実は非情で……。

『俺、彼女が出来たんだ。だから葉花とは話せない。彼女に悲しい思いをさせたくないから』

『……』

言葉が出なかった。それはあまりにも唐突で、私にとっては鈍器で殴られるくらいの衝撃だったから。

『わかった』

『ごめんな』

そういうと彼は彼女の元に行った。彼女に悲しい思いをさせたくない、か。優しいんだね。そう、彼は優しい。だから私も気になっていた。でも気になるくらいじゃ、ここまで感情が揺れ動くことはない。

本当は彼のことが好きだったんだ。誰よりも。でも、自身の気持ちに気付く前に他の子にとられちゃった。ううん、彼は私のことを異性として見ていなかった。だからきっと私が彼に告白しても想いは届かなかっただろう。

それからか、私が恋に憶病になったのは。『運命』という言葉は存在しないって。だから橘くんが私のことを『運命の相手だったらいいのに』と言ったとき、私は正直、言葉に詰まった。

私だってそうでありたい。次こそは私を本当に必要としてくれる相手と恋がしたい。それは橘くんと同じだ。

『誰にも必要とされてる人なんかいない』
それは自分に向けてのメッセージでもある。
今度こそ信じてもいいのかな?神様、私に勇気をください。橘くんを心から好きになれるように……。

「やっぱり綺麗だね。普段は一人で見てるんだけど、琴里と見るとより一層きれいに見える」

「今日は晴れてるから、きれいに見えるんだと思う」

「好きな人と同じ景色を共有できる。だから星が綺麗なんだよ。ね、琴里もそう思わない?」

「……うん」

私が落ち込んでいるのを察してか、橘くんは優しい言葉をかけてくれる。

「これからも琴里と色んなことを共有したい。それで将来、昔はこんなことがあったねって思い出話がしたいな」

「それ、すごくいいね。楽しそう!」

「琴里もそう思う!?約束だよ。これからも一緒にいようね」

「うん、やくそく」

いつまで一緒にいられるだろうか。橘くんはいつまで生きられる?……橘くんは死ぬことが怖くないのだろうか。

思い出作りをしたほうがいいと提案したのは私だけど、いざ私が橘くんの立場になったら、きっと今の橘くんのようには笑えない。

誰にも心なんて開けないし、学校も行かない。それどころか生きることを諦めて自ら命を絶つかもしれない。死というのはそれほど私にとって恐怖そのもの。いや、それは誰にとっても同じ。

「橘くんは死ぬのが怖くないの?」

ついに聞いてしまった。心の中でとどめておけば、どれだけ良かったか。

「最初はね?誰にも知られずに死んだほうがいいって思ってたよ」

「それは会ってすぐ私に言ってたよね」

「そう。だけど葉花さんが元気をくれた。だからこうして生きることにしようって思えたんだ。死ぬ一秒前まで僕は後悔なく生きたい。けど、僕が死んだら葉花さんは一人になってしまう。好きな人を残して、先に死ぬのは心残りなんだけどね」

「大丈夫だよ」

「葉花さん、無理してない?」

「してないよ。私は橘くんが一人になるほうが嫌だもん」

「葉花さんは優しいんだね」

「……」

優しくなんてない。私が先に死んで橘くんに悲しい思いをしてほしくないだけ。過去の私がそうだったから。過去のトラウマをずっと引きずりながら生き続けるのは苦しい。
そんなおもいをするのは私だけでいい。橘くんには楽しい思い出だけを残してほしいの。

「死ぬのが怖くないって聞いたよね?」

「う、うん」

「死は誰にでも平等に訪れる。だからそれが早いか遅いかの違いだよ」

「それはっ……」

そうかもしれないけど。橘くんの余命宣告はあまりにも早すぎる。

「でも僕はこの病気になって良かったと思ってる」

「どうして?」

「だって、こうして葉花さんと出会えた」

「それだけ?」

「僕には十分すぎるくらい嬉しいサプライズさ。神さまはきっと今日この日に葉花さんと出会う奇跡を起こすために僕を病気にしたんだと思う」

「……橘くん」

「せっかく思い出を作るならさ?楽しいことだけじゃなくて、キツいことや悲しいことも体験するべきかも」

「それはだめっ!」

私は思わず止めてしまった。反射的に手が伸びた。橘くんの手は思ったより冷たかった。だけど大きくてかたい。その手は橘くんを嫌でも異性として意識してしまう。

「琴里、どうしたの?」

「な、なんでもない」

「聞きたいな。琴里が止めた理由。恋人だからこそ琴里のことをもっと知りたいんだ」

「怒らない?」

「僕はそんな簡単に怒ったりしないよ」

「それなら……」

私は重い口を開きながら、簡潔に過去のことを話した。辛い記憶は私にとって思い出したくもないトラウマということを。だから橘くんには死ぬ前まで楽しい思い出だけを作って生きてほしいという私の思いを伝えた。

「そっか。それは悲しかったね」

「うん……」

橘くんはそういって優しく頭を撫でてくれた。まるで親が子をなぐさめるみたいだ。

「僕はね?悲しい思い出もトラウマもいつかは自分の成長に繋がると思ってるんだ」

「もし、トラウマで立ち止まりそうになったら?辛い記憶を思い出して心が壊れそうになったときは?その時はどうするの?」

「そのときは立ち止まる」

「え?」

「なにも前に進むことが全てじゃない。人は時に立ち止まってもいいし、休んでもいい」

「その間に他の子に追い抜かれちゃうよ!」

「焦る気持ちはわかるよ。でも、それはその子のペース。自分がキツくて心が折れそうになったときは無理しなくていい」

「……」

「自分が頑張りたいと思ったときに再び前に進むことが出来るから。悲しい記憶や思い出を体験するからこそ人は成長するんだと僕は思う」

橘くんの言葉を最後まで聞き終わると、私は涙を流していた。それも無意識だった。

「琴里、悲しませちゃってごめんね。こんな話、今の琴里にはツラいだけだよね」

「ううん、違うの」

「えっ?」

「私、橘くんみたいな考え方、思いつきもしなかったから。私は勉強が苦手で、でも必死に皆に追いつこうとして無理してた。過去のトラウマだって、ちゃんと向き合えば未来には、いい思い出として誰かに話せるのにな、って」

「琴里……」

「ありがとう橘くん。前に進むためのアドバイスをくれて」

「どういたしまして。僕は琴里に生きる勇気をもらったから、これはお返しになるのかな?」

「そうかもっ」

「ははっ」

「ふふっ」

不思議だ。橘くんとは今日会ったばかりなのに。お互いに励まし合う。これが恋人ってものなのかな?昔の彼もこんな感じだったのかな。今なら彼が彼女を大切にしてる理由が少しだけわかった気がした。

私たちは屋上で星を見ながら笑い合う。そして、私が「そろそろ家に帰るね」と言い出すと、「また明日も来てくれる?」と悲しそうな顔を浮かべながら橘くんはそう言った。

「橘くんは家に帰らなくていいの?」

「僕は保健室で寝てるんだ。家に帰ると、こんな自由に出来ないから」

「そう、なんだ」

訳ありなのは、その一言でわかった。これはさすがに深掘りしたらいけないやつだ。

「琴里は気にしなくていいよ。やらないといけないプリントがあるんだよね?」

「ごめん」

「どうして琴里が謝るの?」

「私は橘くんの恋人なのにずっと一緒にいられないのがなんだか申し訳なくて……」

「僕は会えない時間も琴里のことを考える。明日は何をしようかな?って。離れてる時間も恋人のことを想っていられるなんて僕は幸せ者だよ」

「帰ったら私も橘くんのこと考える」

「ありがとう」

何を必死になっているんだろう?自分でもわからないうちに橘くんに惹かれている。ほんの数時間でここまで好きになってしまうのは橘くんにそれだけ魅力があるから。

「明日も今日と同じ時間に来るね。それで明日も思い出を作ろう」

「うん、楽しみにしてる」

私たちは約束の指切りをし、私は帰路へと着いた。真夜中の教室。私は名前も知らないクラスメート、橘くんと出会い、その日の内に仮の恋人となった。私は橘くんが死ぬまで一緒にいると決めた。思い出を共に作るために。

ーーー

翌日。私は昨日と同じ、真夜中に学校に来ていた。

「今日は警備員さんになんて言えば……」

ドキドキしながら校門付近をウロウロしていた。すると、こちらに近づいてくる影が一つ。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」

「た、橘くん?」

「迎えに来ちゃった。っていっても学校の入り口だけど」

「それでも嬉しいよ」

まるで本物の恋人同士みたい。そう思った。

「こっちこそ今日も来てくれてありがとう」

「どういたしまして。それで今日は何するの?」

私も橘くんとすることを何か考えてくれば良かったかな?これは正義感だとか病気で可哀想だからという情からじゃない。橘くんという人間を知り、心から橘くんに思い出を作ってほしいという願いからだ。

「それは教室で決めようか」

「っ、た、橘くんっ」

「どうしたの?」

「その、手……」

さりげなく恋人繋ぎをされた。昨日は走ってるときだったから、そこまで意識してなかったけど今は違う。昨日よりも橘くんを異性として見てるからかドキドキが止まらない。

「嫌だったかな?」

「そんなことない!」

「恥ずかしい?」

「そうだといったら離してくれる?」

私は橘くんから手を離そうとしたが腰をグッと掴まれて距離が一気に近くなった。

「ちょっ……橘くん!?」

「琴里の恥ずかしがってる姿が可愛くて、もっと近くで見たくなった」

「私、可愛くなんてないよ」

「世界中の誰よりも琴里が一番可愛くて綺麗だよ」

「うっ……」

心臓を鷲掴みされるほどの嬉しさと恥ずかしさで心が爆発しそう。昨日よりもスキンシップが激しくて……昨晩よりも橘くんがカッコいい。まるで童話や少女漫画に出てくる王子様みたいだ。こんなの、平常心でいるほうが難しい。

「そんな顔をされると、もっとイジワルしたくなるけど今日はこのへんでやめておくよ」

「う、うん」

そうしてくれるとこっちとしても助かる。これ以上、何かされたら私の心臓が持たないし。橘くんは一見優しそうに見えるけど、ちょっぴりイジワルな人だ。

ーーー

「今日は一緒に勉強でもと思ったけど、せっかくなら何か違うことを琴里としたいな」

「それなら音楽室でピアノを弾いたり歌を歌ったりするのは?って、今の時間、音楽室は空いてないよね」

「特別に僕が学校の中を自由に過ごせるように鍵はもらってるんだ」

「そうなの?」

「担任の先生が優しくて助かったよ。きっと昼に僕が来れないことを知ってるから、せめて夜に青春を送ってほしいってことなんだと思う、けど……」

「けど?」

「やっぱり青春は一人じゃダメだね。だから琴里が今日も来てくれて嬉しい」

「橘くん……。心配しないで!明日も来るし、毎日だって遊びに来るよ」

「ありがとう琴里」

「どういたしまして」

一瞬、橘くんの寂しさが見えた気がした。そうだよね。私は昼に学校に行って、友達と話したり授業を聞いたりしてるけど、橘くんはそれが出来ない。望んで入学した学校なのに……。

皆が当たり前と思ってることを当然のように出来ない。それはどんなに辛くて悲しいことか。

「琴里は歌を歌うことは好き?ピアノとかは弾ける?」

「う〜ん。どっちも人並みくらいだよ」

音楽室に移動しながら何気ない会話をする。こうやって話していると、クラスメートとただ普通に雑談をしてるみたい。時間帯は違えど、これも青春の一ページだと私は思う。橘くんも私と同じことを思っててくれたら嬉しいな。

「人並みでも出来ることが凄いよ。僕に聴かせて?」

「オンチだし、橘くんが期待するようなほど上手くないよ?それでもいいの?」

「いいよ。僕は琴里の歌声だからこそ聴きたいと思ったんだ」

「わ、わかった」

音楽室に入るや否や、私は歌うことになった。橘くんは一番前の席に座って私を見ている。
さっきとは違う恥ずかしさが込み上げながらも、私は今授業でしている歌を一人で歌い上げた。静寂な空間に私の声だけが響き渡る。

「まるでアイドルのライブに来てるみたいだった。って、実際アイドルのライブには行ったことないんだけど。でも僕だけのために歌ってくれるって、すごく贅沢な経験をさせてもらったよ」

「橘くん、褒めすぎだよ」

「そんなことない。とっても上手かったよ。天使の歌声を聴いて、一瞬天国が見えた気がした」

「縁起でもないこと言わないでよ〜」

と、軽く冗談のつもりで笑った。

「天国もこんなふうに琴里みたいに可愛い天使がいるのかな……」

「ど、どうだろう」

その話題はあまり気乗りしなかった。今の橘くんはいつ死ぬかわからないから、この話すらも冗談に聞こえなくて。橘くんが遠くへ行ってしまう。そんなの考えるだけでも涙が止まらない。

「ここは天国よりも楽しいところだよ!橘くんが聴きたいならどんな曲でも歌ってあげる」

声が枯れるまで何曲でも何百曲でも歌うから。喉が潰れたっていい。それで橘くんが満足してくれるなら。

「琴里、励ましてくれてるの?」

「そんなつもりはなくてっ……」

気付かれてしまった。やっぱり橘くんは鋭い。

「ごめんね。僕が天国の話なんかしたから。逆に気を遣わせちゃったね」

「私は大丈夫だよ」

「体調が常に悪いとさ、どうしても考えちゃうんだよね。僕は死んだあと、どこに行くんだろうって」

「橘くんは死なない。私が死なせたりしないから……」

消えてしまいそうな橘くんの姿を見て、私は思わず抱きついてしまった。橘くんは私を受け入れるように私の背中に手を回してくれた。

「僕だって簡単に死ぬつもりはないよ。今は琴里がいるから。仮の恋人でも好きな人を置いてはいけないよ」

「う、ん」

どんな関係でも私は橘くんに死んでほしくない。本音を言えば、本当は仮なんかじゃなくて本物の恋人になりたい。いつか本物の恋人になって、橘くんと本当の恋をしたい。昔のトラウマを忘れるくらい、夢中な恋を。

橘くんが『仮』の恋人だと言い続けるのには理由(ワケ)があるんだと思う。本当の恋人になったら、橘くんが死んだときに私がより悲しむから。
でもね、橘くん。私は今、橘くんが消えてしまったとしても橘くんの家族と同じくらい貴方の死を悲しむよ。私に遠慮なんかしなくていい。橘くんには自由でいてほしい。それが私の願い。

「暗い空気にさせちゃってごめんね。琴里が僕のために歌を歌ってくれたから、次は僕の番だね」

「え?」

「琴里みたいに綺麗な声は出せないけどね。他のクラスメートにはヒミツだよ」

「っ……うん」

指を口に近付け、立てる。その姿があまりにも妖艶で、私は目を離せなかった。

「〜♪」

「……綺麗」

透き通るような声。地声からも優しい声色で話すたびにドキドキしてたけど、歌声はさらに橘くんの魅力を引き立てる。

「橘くん、私なんかよりも上手いよ!」

「僕からしたら琴里のほうが上手だよ。良かったらさ、一緒に歌わない?」

「うんっ!」

最初からそのつもりだったのか、橘くんは私が知ってる曲を歌っていた。二人の歌声が音楽室を包み込む。橘くんの声は私よりも天使の歌声で、いつまでも聴いていたいと思う声だった。

「ふぅ……。いっぱい歌ったね!」

「琴里と歌えて楽しかった。また一つ思い出が出来たよ。ありがとう琴里」

「私こそありがとう。橘くんと音楽の授業を一緒に受けてるみたいで私もすごく楽しかった!」

「言われてみればたしかにそうだね。授業ってこんな感じなのかな?いい経験が出来たよ」

「良かった。他のことも私と一緒にしよう?そしたら学校生活がもっと充実したものになるし、思い出もいっぱい出来るよ」

「それはいいね。明日からも一緒に思い出作りしてくれる?」

「もちろん!」

私が昼に授業を受けているような、似た体験を二人でするように約束をした。思い出作りをすると話したものの、具体的にどうするか決まっていなかったから。
学校にいれば二人でも出来ることは多い。一人では出来なくても二人なら叶う。青春とはそういうもの。

次の日から私たちは思い出作りをした。もちろん、橘くんの体調を考慮した上で無理はしない程度に、だ。あるときはスマホでツーショットを撮ったり、ある時は体育館でボール遊びをしてみたり、またある日は黒板にお絵描きをしてみたりと。毎日が夢のように楽しかった。

何気ない日常を過ごしていく内に橘くんの身体は平気なんじゃないかって、そう勘違いしてしまったんだ。それは忘れてはいけなかったのに。

「橘くん。今日も来た……」

「……っ、ゲホッ」

「!?」

私はバッと橘くんから見えない位置に隠れてしまった。隠れる必要なんてなかったのに、反射的に姿をかくしてしまった。

「ゲホッゲホッ!!」

「……」

あれは血……!?橘くんの手を見ると、そこにはたしかに血を吐いたあとがあった。やっぱり無理をさせてしまったんだ。私が調子に乗ってボール遊びをしたいとか言ったから。病気の身体に運動はキツかったよね。

今までは普通に過ごしていたけど、橘くんの病気は良くなるどころか日に日に悪化してる気がする。病気は少しずつ、橘くんの身体を蝕んでいるんだ。

私がもし医者だったら橘くんの病気を今すぐ治すことが出来たのかな?私はなんて非力なんだろう。橘くんの隣にいるはずなのに、何も出来ないなんて。

仮とはいえ、私は橘くんの恋人なのに……。助けてあげたい。楽にさせてあげたい。どうか神様、橘くんを連れて行かないでください。橘くんの病状が少しでも落ち着きますように。今の私には祈るだけしか出来なかった。

「橘くん、大丈夫!?」

私は隠れている罪悪感に苛まれ、橘くんの前に姿を現した。

「琴、里……。今日も来てくれてありがとう。ごめんね、なんでもないんだ」

「なんでもないってことないでしょ!?」

顔は真っ青だし身体も冷たい。

「保健室に行こう。私が連れて行ってあげる」

「うん。今は琴里の指示に従うよ」

橘くんの身体を支えながら保健室に足を進めた。こんな状態なのに橘くんはそれでも学校に来るのは何故なのか。

「橘くん。病院とかに行かなくていいの?入院とかしたら治るんじゃ……」

「今の現代医学で僕の病を治せる人はいない。それに入院は僕が拒否してるから」

「どうして?」

「入院なんかしたら琴里に会えなくなるから」

「そんなことで……」

「僕にとってはそんなことじゃないんだ」

力強い目をして私を見てくる橘くん。

「僕は死ぬ直前まで思い出を作りたい。死ぬときが病院のベッドなんて死んでもごめんだ」

「橘くん。私が間違ってたよ、ごめんね」

「琴里が謝る必要なんてないよ。でも、琴里なら僕の気持ちをわかってくれるって思ってた」

「うん……」

前に言ってくれたもんね?後悔ない人生を送りたいって。だったら付き合うよ。橘くんが消えてしまう、最後の一秒まで。

ーーー

「こんな風に誰かと一緒に夜を一日過ごすのは初めてかもしれない」

「それは私も同じだよ」

保健室に入ると、ベッドに横になる橘くん。私はその横に座って、橘くんの様子を見ていた。今までもこうやって一人で寝ていたのだろうか。それで昼は体調が悪くなるから寝たままで、夜になるとまた一人で教室で勉強してるんだよね……。

「ねぇ、琴里。少しワガママを言ってもいい?」

「どうしたの?」

「膝枕をしてほしいんだ。そしたら体調が良くなる気がする」

「いいよ。こっちおいで」

「ありがとう」

橘くんの髪が当たって、少しくすぐったい。照れくささを感じながらも、橘くんが私の膝で落ち着いてることが今の私には何よりも嬉しかった。橘くんの心臓の音、近くだから聞こえる。どこか安心してしまう自分がいる。

「琴里、今日は本当に泊まってくれるの?」

「うん。お母さんには連絡してあるから」

「それならいいんだけど……」

こんな状態の橘くんを置いて帰ることなんて出来ない。橘くんを一人にしたら、次の日には消えていなくなってるかもしれない。それは嫌だ。
私は橘くんの隣にいるって決めたんだもん。仮の恋人だっていい。それで橘くんが思い出を作れるなら。

「僕が寝るまで琴里の話を聞かせて?」

「私の話?」

「そう。琴里は昼に友達とどんなことを話すの?やっぱり恋バナ?」

「橘くんのこと……」

「え?」

「名前は伏せてるんだけど、男の子のお友達が出来たよって話をしたの」

「そう、なんだ」

「それでその彼のことが気になるって話もした」

「……」

今なら素直に言える気がした。橘くんとの距離が近いせいか、そういう雰囲気なのかはわからない。けれど、スラスラと思ったことが口に出てしまって……。

「僕のことが気になるの?」

「これだけ思い出を作ったら、それなりにね」

「それなりなんだ。僕は琴里のこと世界で一番好きなのに」

「それズルくない?」

「ズルくないよ。今なら耳を塞いであげるから琴里も本音を言ってみて」

あまりにも直球で告白してくるから反則だと思った。

「わ、わかった」

「……」

本当に聞こえてないみたい。なら、言ってもいいよね。

「わ、私も橘くんのことが好き……です」

「ありがとう琴里。キミの本心が聞けて嬉しいよ」

「ちょっ……耳塞いでるって言ったのにっ!」

「あははっ、ごめんごめん」

からかわれちゃった。でも、橘くんの調子が少し戻ってきた気がする。

「琴里が可愛くて、またイジワルしちゃった」

「もうっ……」

橘くんだから許すけど。私も好きな人には甘いな。

「琴里の元気な姿を見てたら、僕の体調も良くなってきたよ」

「ほんとに?」

「うん」

「嘘じゃない?」

「ウソじゃないよ」

「それなら良かった」

体調を誤魔化したところで、また血を吐いたりしたらわかることだから、わざわざウソをついたりはしないと思うけど。やっぱり心配なものは心配なんだ。

「僕はそろそろ寝るね。おやすみ琴里」

「橘くん、おやすみなさい」

橘くんはそういうと静かに目を閉じた。呼吸は安定している。良かった。安心した私は橘くんと一緒に意識を手放し、夜は更けていった。
どうか、明日には橘くんの体調が少しでも良くなってますように……と神様に願った。

橘くんの体調が良くなった気がするというのは本当にウソじゃなかったみたいで、それからしばらくは血を吐いたり体調が悪化することはなかった。だから、いつものように思い出を作った。

ある日、私がお弁当を作って持っていくと喜んでくれて。『美味しい?』って聞いたら、歯切れが悪かったから私も食べてみた。すると砂糖と塩を間違えてたりしていて。
それでも自分のために手料理を作ってくれた事実が嬉しくて喜んだんだよと言ってくれた。その言葉を聞いて、私はますます橘くんのことを好きになった。

こんな幸せがいつまでも続けば良い……そう思ったのも束の間、別れは唐突に訪れた。

それはいつも通り、真夜中に教室を訪れた日のこと。

「琴里、いきなりだけど僕と別れてほしい」

「え……今、なんて?」

「ごめんね。僕と今すぐ別れて」

「どうして?なんでなの?」

みっともなく騒いでみせた。そうすれば橘くんが別れることを躊躇してくれると思ったから。

橘くんは優しい。だから私が悲しそうな顔を見せれば別れずに済むかも。我ながら最低な作戦だ。情に訴えかけて泣き落としをするなんて女の子としては一番駄目なパターン。

橘くんのことだから何か理由があることはわかっている。だけど、いきなりのことで頭が追いつかないのもまた事実で……。

「琴里。僕と出会った日のこと、覚えてる?」

「忘れるわけない!あの日、橘くんに出会えて本当に嬉しかった」

今ではどうしようもないくらい橘くんのことが好き。嘘偽りなく誰に話すにも自慢の彼氏だと言うくらい、橘くんに夢中なんだ。橘くんしか見えてない。でも、橘くんは違ったのかな?もしかして、私以外に好きな子でも出来たの?

「なら、僕が死ぬ前に恋がしたいって、琴里と仮の恋人になってほしいと頼んだのも覚えてるよね?」

「うん。それがどうしたの?」

「あれ、実はウソなんだ」

「えっ?」

「キミを好きだなんて言ったのはウソ。一目惚れしたっていうのも天使みたいに可愛いって言ったのも全部ウソなんだ」

「……」

鈍器で殴られた衝撃よりも重く、ツラい言葉だった。それを言い放たれたとき、そのコトバが嘘だったら良かったのに……と思った。

真夜中に出会い、突然告白されて舞い上がってた自分が馬鹿みたい。今の私は誰よりもカッコ悪くて醜い顔をしてるに違いない。真夜中につかれた嘘。私は過去のトラウマを無理やり思い出し、今起こっている現実から目を背けようと必死だった。

「別れたくない。私は橘くんとずっと一緒にいたい!」

どんなに酷い言葉を言われてもいい。私は自分の心にだけは嘘をつきたくないから。嫌われたっていい。私の想いが橘くんに伝わるなら。

「やっぱり僕が好きになった琴里だね。キミならそう言ってくれると思ってた」

「……え?」

「僕はね?キミのことを本当に心から好きになってしまったんだ。琴里と一緒に色んな思い出を作っていくうちに、これが本当の恋なんだって気付いたんだ」

「橘、くん」

その言葉を言われて救われた気がした。今まで私がしてきたことは無駄じゃなかったんだって。橘くんから、それをいわれたらもう思い残すことはない。いつ死んだっていい。

「でも本当の恋を知ったからこそ、僕はもうすぐこの世からいなくなる」

「ごめん。言ってる意味がわからなくて……」

なら、私と別れる意味って?本当の恋を知ることがそんなにいけないことなの?

「僕の病気は夜に少しだけ体調が良くなるって話したよね?」

「うん」

「琴里と過ごしていくうちにわかったことがあるんだ。どうやら僕は本物の恋を知ってしまったら死ぬみたいなんだ」

「へ?」

橘くんの病気が恋をすると死ぬ?ファンタジー映画でも見てる気分だった。あまりにも突拍子もないことをいうから。

「信じられないかもしれないけど事実なんだ。現に今では夜でも体調が悪化してる」

「あっ……」

あの日、吐血したように見えたのは気のせいじゃなかったんだ。その日は、たまたま体調が普段よりも悪いとばかり。

私のせいで橘くんが死ぬ……?私と恋人になったから?後悔に押し潰されそうになるくらい胸が痛くて、今すぐ逃げ出したくなるくらい心が苦しかった。

「私と付き合うことで橘くんが死ぬなら、今すぐ別れてもいい。そしたら橘くんの体調は良くなるんだよね!?」

橘くんをどうにか元の状態に戻すのに必死だった。

「もう、手遅れなんだ。だからせめてキミが泣かないように別れを告げて、一人で孤独に死を迎えるつもりだったんだ」

「……っ」

橘くんはなんて綺麗で優しいウソをつくのだろう。彼は神様よりも心が広く、他人を思いやれる人だ。自分が死ぬかもしれない状況なのに、それでも私のことを心配してくれる。

どうして、こんなに心優しい人が死ななくてはならないの?神様は残酷だ。天国で橘くんを独り占めしたいからって、こんな早く天国に連れて行かなくても良いじゃないか。もう少し遅くても罰は当たらないんじゃない?

最初は好きだというのが全てウソだと言われ、落ち込んだ。でも、今はウソをつかれて良かったと思ってる。ウソは人を傷付けるだけだと思っていたけど、それは間違いだと気付いた。時には優しいウソもあるのだと。

より一層、橘くんのことを好きになってしまった。これから先も橘くん以外は好きになれないんじゃないかって、そう思う。

「橘くんを一人にはしない。橘くんが死ぬまでずっと側にいるから……。私は橘くんの恋人なんだよ」

「琴里は頼もしいな。なら、もう我慢しなくていいよね?」

「橘く……んっっ!?」

「想像してた通り、琴里とのキスは甘いや」

橘くんの口はひどく冷たかった。まるで死人のように。キスをした直後、橘くんは力がフッと抜けその場に倒れた。私はすかさず橘くんを支えた。私の膝に橘くんの頭が乗ってて、普段なら膝枕だから橘くんも「嬉しいな」って喜んでくれるはずなのに。今はそんな状況じゃないことも私は察していた。

もう橘くんの身体は限界なんだ。ううん。もしかしたら、ずっと前から壊れていたのかもしれない。それを私には隠していた。痛みを堪えながら、私に普段通りに振る舞う姿を想像しただけでも泣きそうになる。

「橘くん。ううん、夏弥くん。夏弥くんが望むなら、これから先もいっぱいキスしていいんだよ?」

「それも悪くないかも、ね。最後に琴里とキスが出来て良かった。もうこれで思い残すことはない、かな」

「橘くん、嘘だよね?」

「ウソだったらどんなに良かったか。本当は病気なんかじゃなくて健康なんだよって胸を張ってウソを言えたらな……そしたら琴里ともっと一緒にいられたのに」

「……っ」

夏弥くんはもうウソさえも言える気力はない。今にも消えそうになる夏弥くんを見て、私はどうすればいいかわからなかった。

「今から病院に行こう。そしたら先生が治してくれるかもしれない。もしかしたら、そんなファンタジーみたいな病気なんてないよって言ってくれるかも」

「琴里は優しいね。こんな状況でも僕を助けようとしてくれるんだから」

「優しくなんてないよ」

「僕以外に本物の恋を知って死ぬなんて人はいないのかもしれないね。琴里のいうようにファンタジーだったら良いのにね?明日、目が覚めたらこんな変な病気治ってないかな」

「きっと治ってるよ!きっとじゃない。絶対に!!」

「でも、こんな病気になったらこそ琴里と出会えたんだから悪くなかったかも。琴里、僕と付き合ってくれてありがとう」

「私こそ楽しかった。過去のトラウマを忘れるくらい、今は夏弥くんのことが大好きだよ」

「ありがとう。僕も琴里のことが好き」

「最後の別れみたいに言わないで。明日からもずっと一緒にいるんだから……」

「あはは。そう、だね。ごめん」

お互いにわかっていた。夏弥くんがもうすぐこの世から消えてしまうことが。どんなに願っても叶わない。

「最初はさ、仮の恋人って言ってたけど、いつからか琴里は僕の本当の恋人なんだって思うようになってたんだ」

「私も同じ。夏弥くんのこと、本物の恋人だって思ってた……!」

「その様子ならトラウマも忘れるくらい、僕に夢中になってくれた?」

「とっくに夢中だよ。ずっと前から夏弥くんだけを見ているから」

「ありがとう。琴里と出会って沢山の思い出が出来た。楽しいことがいっぱいありすぎて、天国に行ったら神様に惚気話をしてしまいそうだ」

「神様は夏弥くんと同じくらい優しい人だから聞いてくれるよ。夏弥くんが神様に惚気話をしてるとこ、私も聞きたいな」

零れそうになる涙を抑えながら、私は夏弥くんと話を続けた。夏弥くんの最後に映る私の顔は泣き顔じゃなくて、笑顔でありたいから。私は下手くそな笑顔を作り続けた。

夏弥くん、死なないで。私を置いていかないで……。その本音を隠しながら。

「琴里、愛して……る」

「夏、弥くっ……」

するりと私の手から夏弥くんの手が落ちた。握りしめていた手が離れた瞬間、私は全てを察した。

「あぁ……あ……う……ううっ」

声にもならない声で私はその場で泣き崩れた。
夏弥くんが死んだ。目の前にある現実を受け入れたくなくて、私は夏弥くんの声を頭の中で何度もリピートし続けた。

「うぁあぁああああ!!!!」

我慢していた涙と声があふれ出た。夏弥くん、夏弥くん。必死に彼の名前を呼び続ける。何度も何度も。けれど、彼の声を聞くことはもうない。私も夏弥くんの後を追いたい。今すぐ夏弥くんと同じ天国へ行きたい。

『琴里は僕の分まで生きるんだ』

「夏弥くん……」

そう夏弥くんが言っている気がした。そうだ。私は夏弥くんの分まで生きなきゃ。

「ありがとう夏弥くん。私にも本物の恋を教えてくれて。私はこれ以上、夏弥くんみたいな心優しい人を死なせたくない。だから私は医者になる。だから空から見守ってて……」

世界で一番好きな人の死。それを見て、私はある決意をした。まだ世の中には夏弥くんみたいな名前もわからない病気を抱えている人がいるかもしれない。

夏弥くんは『こんな病気を持つのは僕くらいしかいない』と話していた。でも実際は調べてみないことにはわからない。夏弥くん、私頑張るから。どんなに時間がかかってもいい。次こそは貴方のような人を必ず救ってみせるから。

ーーー

数十年後。

彼女は立派な医者となり、橘夏弥のような名前もわからない病気の人を次々と助けた。それはまるで神が宿ったかのような力を使って。だがそれは神が与えた力などではない。彼女は自身の努力で成し遂げてみせたのだ。彼女はまわりから賞賛されるようになったとき、こう言い放ったという。

『本当の恋を知ったからこそ、私は成長し、名医と呼ばれるようになった。今の私があるのは彼がいたからです。彼と出会わなければ、今の私はいないでしょう。私は彼をこの先もずっと愛しています』