小鳥のさえずりと、小川のせせらぎ、風が草花を揺らす微かな音。
ささやくような自然の音色が豊かに満ちた森の中に、一軒の小さな家がある。
朝日が静かに屋根を照らす頃、小鳥の軽やかなさえずりとともに目を覚ますのがフェイの日常だ。
「おはよう……」
フェイは、寝起きの重いまぶたを擦りながら起き上がる。
朝の挨拶に、返事はない。
半ば無意識のうちに、フェイは家の中をぐるりと見回した。
淡い金髪と、そこからぴょこんと飛び出る尖った耳輪が特徴的な美丈夫の姿は、どこにもない。
「……いないんだった」
わずかな落胆と寂しさとともにため息をつくのも、もはや日常だ。
育て親で、師匠でもあるエルフのキーランがいなくなってから、もう三ヶ月になる。
しかし、約十三年もの間ずっと二人で一緒に暮らしてきたのでなかなか一人暮らしに慣れることができない。ふとした時に「ねぇ、師匠」と虚空を振り返り話しかけてしまうし、朝は半分寝ぼけているからか、ほぼ毎日のように彼の姿を探してしまう。
フェイは捨て子だ。
キーランは、夜の森でうずくまっていたフェイを拾ってくれた恩人である。
フェイのことを気遣ってくれていたのだろう。どこへ行くにも一緒で、一人にしないようにしてくれていた。だからなおさら、急に環境が変わって落ち着かない。
「今はどのあたりにいるんだろうな、師匠」
ベッドから出て軽く毛布を整え、フェイは二人用の小さな食卓へ向かった。
そこには、三ヶ月前の朝のまま、小さな書き置きの紙が置いてある。
『しばらく旅に出るね』
内容はたったそれだけだ。
突然のことで驚いたし、行き先くらい教えてくれたらいいのに、と思った。
けれど、元来エルフは気まぐれだというし、行き先も決めない自由な旅に出たのだろう。
ちなみに、フェイは半年ほど前に成人を迎えている。
いつでもどこでもずっと一緒の子供扱いは卒業で、大人として認めてくれているということなのかもしれない。
水で顔を洗ってから、フェイは外へ出た。
そして、家のそばにあるシェルネの大樹にそっと触れる。
「おはよう」
快晴で風もないが、葉っぱがさわさわと優しく応えるように揺れた。見上げると、枝葉の隙間で小さな足がぷらぷらと動いている。
フェイはふっと微笑んだ。どうやらシェルネの精霊は、天気がいいのでご機嫌らしい。
「んー……っ!」
思い切り伸びをして、森の朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、いよいよ新しい一日の始まりだ。
フェイは籠を持ち、家の前の畑や木立の中から、早朝に採集するのが最適な薬草をどんどん摘み取っていった。
種類ごとに綺麗にまとめるところまで済ませたら、家に戻って朝ごはんだ。
パンと野菜と果物、それから塩漬け肉を少し焼く。香草を混ぜてあるので臭みはなく、爽やかで香ばしい匂いが漂った。
「塩漬け肉、買ってこなきゃ」
今日の分で肉はおしまいだ。フェイはたまに狩りをするけれど、大型の動物を仕留めても一人では食べきれないので、基本的に必要な分だけを村で買っている。
元々今日は薬草を卸しに行くつもりだったので、ちょうどいい。
朝食を終えたあと、フェイは採ったばかりの薬草と、干しておいた薬草を持って村へと向かった。
フェイとキーランが暮らす家は、森の中にぽつんと佇んでいる。
周辺に民家はなく、近くの村までは歩いて一時間ほどかかるが、自然豊かで湧き水や小川もあるため、生活には何も困らない。人とあまり関わらず静かに暮らせるので、フェイは森の小さな家がとても好きだった。
木の実をつまみ食いしながら山道を下って行ったフェイは、村に着いて真っ先に、レオーネの薬屋へ向かう。
「……こんにちは」
「おお、フェイか」
薬屋の主人であるレオーネは、フェイの姿を見ると微笑んだ。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ。薬草を見せてくれ」
「はい」
束にしてある薬草をどんどん渡していくと、彼は種類ごとに重さを計っては記帳していく。最後に算盤を弾き、代金を渡してくれた。
今回分の量にしては、金額が少し多い気がする。フェイが少し不思議に思っていると、レオーネはいくつかの薬草を指さす。
「村じゃあこのあたりの薬草の出来が悪くてね。買取価格を上乗せして、あちこちからどうにか集めてるんだ。質がいいのをたんまり持ってきてくれて助かったよ」
「そう、だったんですか。じゃあ、近いうちにまた持ってきます」
「そいつは有難い」
用件は済んだので店を出ようとすると「ああ、そうそう」とレオーネが声を上げる。
「待ってくれ、フェイ。お前さん宛に手紙が届いてるんだ」
「……手紙?」
レオーネの机は、きちんと整頓されているけれど物は多い。ガサゴソと探し始めてからしばらくして、ようやく一通の手紙が差し出された。
宛先は『レオーネの薬屋』だが、宛名はフェイ。そして、差出人にはキーランとある。
「師匠から……。あの、この手紙はどこから……?」
「王都から仕入れた荷物の中にあったら、王都だろうね。もしかすると、どこか別の場所から王都に届いて転送されてきたのかもしれないが」
「そうですか……。ありがとうございます」
店を出て早速、フェイは封筒を開ける。
便箋には、キーランの流れるように美しい筆跡が綴られていた。
『フェイへ。
元気にしているかな。わたしは変わりないよ。
朝、君の声で起こされないのが、なんだか不思議で少しばかり落ち着かないけれどね。
フェイは一人で寂しくないかい?
人と話したくなったら、村に降りて、レオーネに薬のことを教わるといい。
彼は薬のこととなると饒舌だし、面倒見がいいからね。きっと充実した時間を過ごせる。
わたしはあれからのんびり旅を続けているよ。
行く先々でいろんな景色を見て、その地のものを食べて、また歩く日々だ。
時々馬車に乗ることもあるけど、揺れを考えると、時間がかかっても歩く方が性に合っていてね。
フェイは馬車でも平気な顔をしていたことを思い出して、すごいなぁと心底思ったよ。
さて、ほとんど歩きということもあって、今回の旅はとても長いものになりそうだ。
だから、こうしてきみに手紙を書くことにした。
フェイ、きみはもう立派な大人で、一人前の植物医だ。わたしが保証する。
きみはわたしの庇護下でなくてもちゃんと生きていける。物覚えがよくてとびきり優しい、素晴らしい子だよ。自信を持っておくれ。
わたしの帰りを待たなくていいからね。
きみにも、行ってみたい場所や見てみたい景色、調べたい植物、興味をそそられるいろんなものがあるだろう。
わたしを待つことに、貴重で尊いきみの人生を費やさないでほしいんだ。
きみの好きな場所で、自由に、元気に、きみらしく生きてほしい。
それがわたしの願いだよ。
それじゃあ、またね。
きみを世界一大切に思っているキーランより、愛を込めて』
「……師匠らしい」
穏やかで、どこか飄々としている文面は実にキーランらしいものだ。しかし同時に、なんだか引っかかりを覚えてしまう。
仮にフェイも旅に出た場合、今回と同じような手段で手紙を届けることは難しくなる。
フェイがレオーネに行き先を告げておけば、また手紙が届いた時に転送してもらえるかもしれない。だが、経由地が増え、輸送距離が長くなるほどに不確実性は高まる。
まともに連絡が取れなくなれば──会えなくなる。
前触れもなく突然旅に出てから数ヶ月で帰って来るのでもなく、長旅になりそうだから、きみも好き生きなさいだなんて。これまで、十三年もずっと一緒だったのに、急にどうして。
とはいえ、彼はエルフで、人間のフェイに比べたらずっと長生きだ。
彼が『長旅』と言うくらいだから、一年や二年ではないのだと思う。
少なくとも五年、十年単位で考えるべきだろう。
フェイは十八歳。これからの十年は、体力も気力も十分にあり、人間が何かに没頭するには最適な――人生の中でも特に貴重な十年だ。それを待ちぼうけで無為に過ごさせるのは、師としては看過できないのだろう。
フェイが十年くらい各地を放浪してから森の家にふらっと帰ったら、以前と何も変わらない様子で「おかえり、フェイ」と出迎えてくれる気もする。
(だけど……すっきりしない)
フェイは結局塩漬け肉を買わずに、考え事をしながら家へと戻った。



