あの日から、わたしを取り巻く日常や周囲の人々、そしてわたし自身までが、まるで別人のようにすっかりと変わってしまった。大勢の人がその変化は良くないものだと言おうとも、わたしは信じたかった。

 君のおかげで変わることができたわたしは、間違いなく正しくて、過去の自分よりも少しだけ、前に踏み出せたのだと──。

 *

『近年、ますます少子高齢化が叫ばれる世の中に変化してしまっています。そこで日本政府は──…を研究し、……第一号目の、……──を放ち、若者の自殺がない……荒んだ心を癒してくれるような死神型ロボットの活用を、実際に開始する見込みとなりました。また、その死神型ロボットは───』


 若干うたたねしつつあったわたしの耳に、突然あり得ないニュースが飛び込んできて思わずソファーから身を起こす。それと同時、わたしの手がリモコンのスイッチを押してしまったようで、ピッ……という音を立ててテレビの画面が真っ暗になった。


「っわ、消えちゃった……!」

 続きを聞きたかっただけに焦ってしまったわたしは、あたふたとしながらテレビに向けてリモコンのスイッチを押す。だけど、次に映し出されたのは、どこかの動物園に新しくキリンの赤ちゃんが生まれたという嬉しいニュースで……。

「……はぁ~~」

 わたしは深い深いため息を吐いた。ニュースの続きを聞きたかっただけにうなだれる。

 スマホを手に取り、電源を付けてからラインのアイコンをタップする。トーク履歴のトップにある学年グループラインを開き、さっそく今さっきに聞いたニュースのことを打っていく。

 話の鱗片はある程度記憶しているから、文章があやふやになったりはしないだろう。


【みんな聞いて~!さっきニュースで流れてきたんだけどね、にほんせいふ?ってやつがこれまで死神型ロボットの研究を進めてるって前からニュースで言ってたじゃん?】

 長々とした長文にならないように、一旦そこで話を区切って送信ボタンを押す。すると瞬く間に付いていく既読の数々。そしてすぐに反応があった。


【げ、美鈴(みすず)じゃん】
【あー、はいはい。今日も何かと知ったかぶりするとか、まじ承認欲求の塊すぎてうざーい】
【それなー。どっか行けよブス】
【日本政府を〝にほんせいふ?〟とか知らないフリして、ひらがな表記がかわいいとでも思ってるんだろうなー。まじ思い込み女すぎてイタいイタいw】
【それなw】

 明らかに嫌な反応ばかり。

 しかも最初の人の〝げ〟って、まるでわたしがこのグループラインに来ることを嫌がっているみたいだ。だけどわたしの場合、みんな酷い……と悲観したりはしない。

 誰かが誰かを嫌うことは当たり前だし、それが原因によって起こる発言も自由だ。自分に対する悪口を制限するような権利はわたしにはないから、まあ仕方ないよねと流すしかない。気にしていないフリを続けなければいけない。


【それでね~、その死神型ロボットを活用していく見込みなんだって!死神型ロボットって一体何なんだろうね~。ネットとかにも色々書いてるけど、意味があんまり分からない(笑)】

 少しだけ、送信ボタンを押すのが怖かった。今までの自分だったらどんなに悪口を言われても気にしていなかったのに、それがだんだんと不可能になっている……?


 そうなることが怖く思えて、思わず送信ボタンを押す。その先に待ち受ける未来は、決して良いものとは限らないのに。


【へーそうなんだ。それ俺も知ってるし、多分みんなも知ってるからわざわざ知らせる必要ないと思うよ~】

 既読の数が一、二、とどんどん増えていき、最初にある男の子が反応した。心無い言葉を第一に吐かれると当たり前のように思って身構えていたわたしは、案外優しい文面にほっと安堵する。

【そっか~!教えてくれてありがとう】

 少しだけ嬉しくなって、調子に乗ってしまったのがいけなかったのかもしれない。すでに火が点いていたみんなの心に、わたしの迂闊な一言が油を注いでしまった。


【は?こいつ、まじで俺が親切心でみんな知ってるよってこと教えたとでも思ってんのか?ちょ~ウケるんだけど!嫌味だって気づいてねぇのかよ】
【まあ頭悪いし仕方ないんじゃね?それくらい許してあげろよw】
【まじで場の空気がシラけるー。早く消えて】


 手が止まる。今までかろうじて引き上げていた口元が、重力に従って落ちていく。わたしの顔から、笑みがすっと消えた。

 その間にもわたしに対する悪口がどんどん上がって来る。みんながこの状況を楽しんでいるように思えて、一人笑顔さえ浮かべられないわたしは凄く惨めに思えた。

 わたしは、他人よりも強いと思っていた。どんなに酷いことを言われても、平気だと自分に思い込ませていれば心が傷つくことはなかった。だけど、もう……。

 ラインのページをそっと閉じる。その裏では、今も油を注がれた火が荒れ狂うようにして燃えているのだろう。今気づいたけれど、お母さんと二人暮らしのおんぼろアパートには部屋を明るく照らす照明さえ点いておらず、真っ暗だった。

 いつの間にこんなにも真っ暗になってしまったのだろう。

 真っ暗闇の中、スマホを持っていた手をソファーの上に力なく投げ出して、天井のシミをぼんやりと眺める。部屋はわたしが照明のスイッチを押していないのだから暗いのは当たり前だろう。

 ……本当に真っ暗なのは、わたしの心だ。

 ああ、気づきたくなかったな。

 今まで心を深く覆っていく闇に気づかないように目を逸らし、上手くやって来たはずなのに、どうして今頃。

 こんなにも唐突に、悟ってしまうのだろう。

 もう引き返せないところまで迫ってきている深い闇に、今頃気づいたところでどうなるのだろう。何が変わるのだろう。傷つかないように、みんなから浴びせられる心無い言葉を仕方ないと割り切るうちに、いつの間にか心の奥深くに忍び込んだ影を、もう取り除くことはできない。

 あまりにもすべてが手遅れで、やっぱりわたしはどこまでもツイてないな、と思った。


 * 


 午前0時、わたしはフード付きのパーカーを羽織って外に出た。

 ただ、ちょっとだけ外の空気を吸いたくなっただけ。そう、最初はそんな出来心だった。

 いつも夜勤で帰ってこないお母さんの目がないのをいいことに、わたしはぶらぶらと真夜中の街を出回る。本当だったら補導されてもおかしくない時間帯なのに、辺りには人の気配すら感じない。

「静かすぎてつまんな~い」

 家に一人でいるのが孤独すぎる夜だったから外に出てきたというのに、世界はわたしを裏切るのが得意みたいだ。それとも、わたしの馬鹿みたいな淡い期待を裏切るのが楽しくて、大好きなのだろうか。

 わたしみたいなタイプの人間は、周りの人たちからだけでなく、こんなにも大きすぎる偉大な世界からも嫌われてしまうのだろうか。

 そんな皮肉めいた負の感情に襲われながら、微かな街灯を頼りに夜道を散策する。何か面白いものはないかなーと思いながらしばらく歩いていると、いつの間にか家から結構離れた所にある明石海峡大橋に来ていた。

 夜の海が波打つ静かな音が聞こえてくる。その凪いだ音に吸い寄せられるようにして歩行者や自転車は立入禁止の橋に足を踏み入れ、橋の欄干に手をかけて身を乗り出した。

 日本の瀬戸内海に位置するこの場所は、兵庫県神戸市と淡路島を結ぶ大きな役割を果たしている。

 だからわたしは、神戸市の人間ということになる。みんなが言う通りわたしは馬鹿だから、自分が住んでいる所もたまに忘れちゃったりする。

 わたしのすぐ後ろを全速力で過ぎていく自動車にたまにクラクションを鳴らされる。

 振り向くと、訝しげにわたしを睨む運転手と目が合い、その口元の動きで何を言っているのか辛うじて理解できた。


「め」「い」「わ」「く」「だ」「!」


 運転手はそう叫んだと思う。その人も橋の上じゃ車を停止させられないからすぐにわたしの目の前から消えたけれど、わたしは少し引っ掛かりを覚えた。

 もちろん、歩道のない明石海峡大橋に、歩行者や自転車の侵入は決して許されないという暗黙の了解も無視して足を踏み入れたわたしがいけないと分かっているけれど、それでもこれだけは真っ当な疑問だと思うのだ。

 あの男性の運転手は、わたしが橋の欄干から身を乗り出し、そこにいることはまずあり得ない歩行者の存在になぜ心配よりも先に迷惑だという感情が湧いたのだろうか。

 この都市の人間は、こんなにも冷たかったのだろうか──。


「あーあ、みんな優しくないなー。美鈴、かなしい……」

 みんなの前でいつも演じている、偽りの自分。

 一般的に〝ぶりっ子〟と言われて嫌われる部類に、わたしはいる。ちゃんと自覚している。このままじゃ、誰もこんな自分を好きになってくれないことくらい。

 だけど、わたしは今のままで十分なのだ。こうして表面上だけでも明るく振舞える自分でいれたら、まだ大丈夫。わたしはぶりっ子を演じることで、今まで心の中に潜む闇を隠してきたのかもしれない。自分が気づかないうちに、自然と。

 まあ、もうその闇に心の大半を侵されているのだということに気づいてしまったから、無理にぶりっ子を演じる必要はもうなくなっちゃったんだけどね……。

 それでも、わたしは限界まで明るい自分でいたいんだ。……いなくちゃ、いけないんだ。

 ぶりっ子をやめてしまったら、わたしはもう一ミリたりとも動けなくなる気がする。何の意欲も湧かなくなる気がする。これをしたいあれをしたいと思う欲望が無くなる気がする。

 それは、わたしの心が消えてしまうことと同義だ。

 わたしは決めた。

 今夜は、わたしを心配してくれる人が現れるまで、ここから離れない。深夜にこの橋を通る運転手にこっぴどく叱られようが、迷惑をかけようが、何が何でも居座ってやる。

 こうしてわたしは、いつも自分がしたいと思うことを決めている。自分の意思や欲望がある時だけは、このどうしようもない人生の空白を色鮮やかに埋めてくれる気がするから。

 また海の方へと視線を戻し、遥か足下でうごめく波を何の感情も抱かぬままに眺める。そうしていると、突然波に小さな波紋ができて、魚のようなものが水中から飛び出して来ては、また重力に従ってその中へと戻っていった。

 新しい楽しみを見つけて気分が高まる子供のようにわたしは目をキラキラさせてさっきよりももっと前に体を乗り出した、その瞬間。


「ダメ……ッ‼」


 海の様子をなるべく近くから観察できるよう身を乗り出していたわたしは、誰かが大きな声でそう叫ぶのを聞いたと同時、その声の主によって物凄い勢いで羽交い絞めみたくされて欄干から引き離され、その人と一緒に硬いコンクリートの上へと倒れていく。

 もうダメだ、衝撃は避けられない。

 そう思い、ギュッと力強く目を瞑ったわたしの体には、痛みどころか衝撃さえ一向に感じることはなかった。その理由はすぐに分かった。

 わたしと同い年くらいに見える男の子が、わたしを庇うためかは知らないけれど、その下敷きになってしまっていたからだ。

 わっ、わっ、大丈夫かな……!?どこか怪我したりとかしてないかな!?

「わわわ……っ、君、大丈夫⁉ていうかなんでこんな所にいるの?危ないよ!」

 それを放った後で、わたしも人のこと言えないけど……と思い直す。


「いたた、……って、ああ良かった」
「な、何が良かった、なの⁉突然わたしに突進してくるなんて、どうかしてるよ~」
「と、突進って……。僕、そんな風に見えてた?」
「うん!…ってああ、いつまでも上に乗っちゃっててごめんなさい!すぐ降りるね」

 橋の上、眼下には広大な海が広がる中。

 男の子を押し倒しているみたいな体勢になってしまっていたわたしは慌てて起き上がり、彼の手を取って一緒に立ち上がった。

 わたしの下敷きになってしまったせいで、彼の服が黒く汚れてしまっている。

 謎の罪悪感に囚われたわたしは、とりあえずその汚れが落ちないか、彼の服を数回手ではたいてみる。


「……ああ、落ちない」
「別にいいよ。それより、君が無事で本当に良かった」

 わたしと自分の服を交互に見た後に、彼はふっと優しく微笑んで、わたしが異性にかかわらず他人から向けられる言葉とは全く持って違う、わたしなんかにはふさわしくない言葉をかけた。

 それに思わず驚いて、開いた口が塞がらない。瞳孔が見開いていく。

 そんなわたしの表情がおかしかったのか、彼は眉をしかめておかしそうに笑った。そして、わたしの手をふんわりと優しく包み込む。その手の温かさに、自分の手がこんなにも冷えていたことを自覚する。

 彼の手つきは、まるですっかり冷え切ってしまったわたしの手を温めてくれているかのようで。わたしは思わず訊いてしまった。

「あなたは、……君は、一体誰なの?どうしてこんな所にいるの?」

 わたしの質問をしっかりと耳に入れたはずなのに、黙ったまま、固まり続ける彼のことが心配になって、目の前で手を左右に振った。すると、ようやく我を取り戻したかのように、その瞳の中に光が戻ってきた。


「……っあ、ああ。えっと、僕は蒼汰(そうた)って言います。どうしてここにいるかというと……って、それは僕が聞きたいことだな」
「う、……っ」

 急に痛いところを突かれて、言葉が詰まるわたし。彼からここにいる理由を話す気はないようで、わたしが口を割るしかないみたい。


「……まあ、イケナイコト、してみたくなっただけ。羽目を外したくなる時って、誰しもあるでしょ?」
「……じゃあそれはいいとして、なんであそこまで身を乗り出していたの?あんなことしたら危ないでしょ?……やっぱり君は自殺願望があるのかな?」

 答える隙を与えまいと連発される質問の数々に少し困惑してしまう。初対面なのにここまでずばずばと聞いてくるのは、少し非常識なんじゃないかと思う。

「な、何を言ってるの……?」
「………え、」

 わたしが困惑気味にそう訊き返すと、蒼汰という男の子はまたも言葉を詰まらせたかのように急に喋らなくなった。それが一度だけならちょっと意識がどこかに行っていたのかなと笑い話にしてお終いだけど、残念ながらそうはならない。

 もう今で二度目だ。約一分ほど、微動だにしない彼を見つめる。瞬きもせずに、彼の周りだけ時間の流れが止まってしまったかのようだ。そんな彼を不気味だと思うわたしの心は、だんだんと膨れ上がる好奇心へと変わっていき……。

 彼が何も言わないし動かないのをいいことに、観察を始める。今の彼は、何というかロボットみたい……。そう思ったけど、あり得ない想像を必死に頭から打ち消した。

 わたしはそこまで馬鹿じゃない。ここまで人間の姿に近いロボットなんて、日本だけでなく世界にすら存在していないのだから。必死に自分にそう言い聞かせ、納得させていた時。

 わたしはきっと、見てはいけないものを見てしまったのだと思う。

「っえ……?」

 真っ黒な彼の瞳に小さな光がいくつか浮かんでいる。

 それをもっと間近でじーっと見てみると、それがしっかりとした英語の文章になっていることが分かった。彼がスマホを見て、そこに映っている英文を瞳の中に映しているんじゃない。

 これは間違いなく、彼自身の瞳から発光されている光の粒だ。英文はわたしから見て右目の右側から左側へと流れていき……。

 ───まるで、ロボットが人間の手によってデータを入力されているような、そんな妙な錯覚を覚えた。

 そこでわたしは、家を出る前の出来事を思い出す。テレビで報道されているニュースで聞いた言葉たちがどんどん思い出されていく。


『自殺願望のある若者の荒んだ心を癒やしてくれる死神型ロボット』
『日本政府がそのロボットの活用を実際に開始する見込みとなった』

 嘘だ。こんなの、あり得ない。

 あり得るのだとすれば、こんなにも恐ろしいことはないだろう。人間が、ここまで人間に似た人工知能を作れるはずがない。わたしの知るロボットというのは、胴体が硬くて、声も機会音声で、自分の感情を持つことができないもの。

 今わたしの目の前にいる彼が本当にあの“死神型ロボット”だとするならば……。まだその確証はないままにそう推測し、ゾクリと背筋に悪寒が走る。

 今すぐに逃げ出したい衝動に駆られる。いや、逃げなきゃ。このロボットが危険かどうかは分からない。だけど、わたしには今まで生きていた中で唯一苦手なものがある。

 それは、『感情のない物体』だ。

 わたしを嫌う人間には、嫌いだという感情がある。わたしが〝ぶりっ子〟として相手の気に障るような言動を発したり、ウザいと思われる行動をとった際には、必ず感情というものが向けられる。

 それが良いものであろうとなかろうと、わたしは安心するのだ。わたしが明るくいれば、たくさんの人たちが構ってくれる。

 だけど、感情のないものにどう接しようと、わたしが望むものが少しでも返ってきたことは今までにない。

 喋らないくまさん人形だったり、一定の言葉しか発さないロボットに話しかけたって、この胸に渦巻く寂しさは消えてくれないのだ。

 だからわたしは少しだけ、ロボットというものが怖かったりする。もう、孤独でいることの苦しさを感じたくない。

 と、そこまで考えた時、突然彼の指先がピクリと動いた。それと同時に地を蹴ってその場から逃げ出そうとしたわたしの腕が、強い力に掴まれて次の動作を封じられてしまった。


「はっ、離して……‼」

 ロボットは怖い。決められた言葉しか話せないから。

 もしも君があの『死神型ロボット』だと言うならば、わたしは今君とお話をしたくない。いちいち止まってばかりで、遠隔操作かは知らないけれど、どこかで彼が次に話す言葉を入力している人物がいるはず。

 そんなの、不気味以外のなにものでもない。


「嫌だ。僕には果たさなくちゃいけないことがあるんだ」
「果たさなくちゃいけないもの……っ?それってわたしに関係があるの⁉ないでしょ、だから早く離して!」


 絞りだせる精いっぱいの力を掴まれていた腕に注ぎ込み、勢いよく振りほどく。

 蒼汰という男の子は、わたしよりもずっと身長が高い。体格だって男子の中ではほっそりとした方ではあると思うけど、わたしと比べたらその差は歴然だ。

 ロボットは力がとても強い。だけど蒼汰は、わたしの力に負けてしまった。……ということは、蒼汰はロボットなんかじゃない?

 だけど、ニュースでは『第一号目』と言っていた。蒼汰の力が弱いのは、まだ研究段階だからということを考えれば筋が通る。

 人間の瞳は、自ら英文を映し出し、しかもそれを映像のように流すことはできない。そんなことができるのは、後にも先にも人工知能だけだと決まっている。


「あなた…は…、っ君は、『死神型ロボット』なんでしょっ?」


 大きな声でそう問うた。蒼汰の大きな瞳がドクン……ッと音を成したようにして見開かれる。

 それでわたしは悟った。わたしの推測は、当たったのだと。ただの邪推なんかじゃなかったのだと。

 日本政府は一体どうやってここまで緻密なロボットを作り出すことに成功したのだろう。

 こんなものを作り出すためには、わたしの想像を絶する金額がつぎ込まれていると思うし、何よりここまで人間に近いAIは希少価値が地球上で一番高いものなのではないだろうか。

 そんなものを今まさに普及していき、実用化しようとしている?

 日本はいつからそんなにも偉くなったのだろう。こんなにも精巧なロボットを作り出す資金をどこから入手したのだろう。このロボットを発明した人材は……?

 日本政府は一体、わたしたちに何を隠しているのだ。

 日本の闇が垣間見えていく。

 きっと、わたしの目の前にいる一人の男の子はこの広すぎる広大な世界に大きな衝撃を与え、大地をも震わすほどの驚愕をもたらすロボットとなるのだろう。

 わたしはもしかすると、とても感動的な場面に遭遇しているのかもしれない。

 世界さえまだ見ぬ、未知の進化を遂げたと言ってもいいロボットとこうやって話をしている。

「あー、……やっぱバレちゃう、よね。ちゃんと〝人間〟を演じてたつもりなんだけどなあ~」

 明るくそう言い放った蒼汰のことが何だか怖かった。

 どこまでも黒く、墨で塗りつぶされたような真っ暗な夜空を仰ぎ、もう一度わたしと目を合わせた。

「蒼汰、……。その、わたし、」

 何て言ったらいいのか分からない。わたしの言葉に、どれだけ蒼汰が答えられるのかが分からなくて、言語は宙をふらふらと彷徨う。


「ねえ、君の名前、何て言うんだっけ?さっき僕だけが答えて、君は教えてくれなかったでしょ」
「……、」

 一瞬、答えるのをためらった。何度も言う通り、わたしはロボットが怖い。ロボット自体はそこまで怖くないけれど、それと接するとなったら恐怖心を抱いてしまう。

 それはとても難解で、複雑で、一筋縄では説明できないような、わたし自身もあまりよく分かっていない感情。

 わたしをじっと窺う蒼汰の瞳には、もうさっきみたいに小さな英文の光は映っていない。わたしだけが彼の名前を知っていて、なのにわたしは教えないというのはさすがに非常識だなと思って、わたしは息を吸った。


「……っ、美鈴」
「え?」

 今の声じゃ小さすぎたようで、そう訊き返される。

「美鈴って言います……わたしの、名前」

 そう答えるだけで、相当の勇気がいった。実をいうと、わたしは自分の名前が嫌いだ。どうしてこんな名前をつけたんだとお母さんに八つ当たりしたくなる衝動を抑えきれなくなるほどには、本当に大嫌い。

 だから当然、彼の次の言葉が凄く怖くて。自分が嫌いな名前に、どんな言葉を添えられるのか。そんなの本当は、知りたくもない。

『お前の名前って、ミミズみたいでやだあ』
『美鈴、ミミズ。うん、響き似すぎてるね?』

 過去に言われた残酷な言葉たちが、耳元で響いた。


「……みすず、美鈴って言うんだ」
「……、う、ん」

 ぎこちなく答える。きっとそう頷く今のわたしは、苦虫を噛み潰したように酷く歪められた顔をしている。

「何ていうか、とても優しい響きをしてるね。凄く、綺麗な名前だ」

 発されたその言葉に、今度はわたしが目を見開く番だった。

 そう言う彼の瞳は、嘘を吐いているようには見えない。かと言ってお世辞を言っているわけでもなく、本当にそう思ってくれているんだって分からせてくるものがあった。

 優しげに目を薄く細めて、小さく笑う。頬は少しだけ薄紅色に染まっていて、本当に彼自身の意思で笑っているように見えた。


「……それは、君自身が思ったこと?それとも、誰かに指示されて答えたこと?」


 蒼汰と話せば話すほど、蒼汰のことをロボットのように思えない自分が姿を露わにする。……ロボットはこんな風に柔らかには笑えない。ここまで人間味のある笑顔は、浮かべられない。

 それなら蒼汰はロボットとは少し違う、かけ離れた存在なのだろうか。


「……どっちだと思う?」

 二人、橋の欄干に手をかけて、向かい合わせで慎重に言葉を交える。

 決して〝本当〟を教えてくれない君に、わたしは苦笑いを浮かべた。


「どっちって……、そんなの蒼汰にしか分からないよ」
「まあ、それもそうだね」
「教えてくれないの?」
「考えておくよ」

 わたしから目を逸らして、海の方へと視線を投げた。


「美鈴はさ、ここで自殺しようとしてた?」

 そして蒼汰は、わたしの方を見ないままに口を開く。

「……、しようとしてないよ」
「本当に?」
「うん、ほんと……」

 最後まで言い終わらないうちに、蒼汰の高い鼻がわたしの鼻先に当たるくらいの至近距離で見つめられた。

 何かを深く探っているような、熟考しているような、そんな難しい表情をしながら、蒼汰の顔がわたしからゆっくりと離れていく。

「だけど僕には見えるよ。君が本当は、誰かに助けてもらわないといけないくらい、深刻な悩みを抱えてるってこと」

 君のことは何でもお見通しです、と言わんばかりに確信めいた表情でそう言った蒼汰。

 やけに自信ありげなその表情が少しおかしくて、思わず笑みを零してしまう。

 君はわたしじゃないのに、どうしてそんなことが分かるのだろうって。どうしてそれを言い当てることができたのだろうっていう理由に、君がロボットだからということをなぜだか加えたくないわたしがいた。

「……どうしてそう思うの?」
「君の笑顔が、少しだけ寂しそうに見えたから」

 そう小さく呟いて、人間のように柔らかく微笑む。蒼汰の瞳には、一体何が見えているのだろう。どんな世界を映して、どんな感情を持っているのだろう。

 そんな淡い好奇心は、いつの間にかブラックホールのように大きなものへと変わっていき、蒼汰を怖いと思う感情、蒼汰とはお話したくないという気持ちすべてがその中へとどんどん吸い込まれていくようにして、消えていく。


「蒼汰には全部お見通しなんだね。正解、わたし、今夜は凄く寂しいの」
「今夜?寂しいのは、本当に今夜だけかな」
「どういうこと?」
「……今美鈴が抱えてる悩みは、明日も明後日もその先もずっと、形を変えながら、どんどん大きな闇に変わりながら、美鈴を苦しめていくよ」
「どうしてそう思うの……?」
「僕には分かるんだよ。この世界から消えたいって一度でも思ったことのある子に関すること全部」
「……ふーん。〝死神型ロボット〟って、どうしてそんな名前になったか蒼汰は知ってる?」


 動揺を悟られたくなかったから、わたしは話題をすばやく転換した。

 どうして蒼汰は、わたしがこの世界から消えたいと願っていたことを知っているんだろう。そんなことを願ったのは、確か小学校に入学する手前の時が最後だったのに。

 そこでふと思い出す。

 小学生だった時のわたしも、知らず知らずのうちに〝ぶりっ子〟を演じていたなあって。みんなに構ってもらえるのが嬉しくて、一人じゃないということがとても心強くて。

 わたしはあの頃、心の底から思いっきり笑えていたような気がする。その笑顔が減り始めたのは、確か男女の区別がついた時だったか。

 ぶりっ子だったわたしは、お互いが異性に意識をし始める年齢になっても男女問わず今までと変わらずに近い距離で接していた。

 だけどそれが気に食わなかったらしいクラスの一軍女子がわたしの悪口をたくさん言い始めて……。わたしは小学校高学年くらいの時から、みんなの嫌われ者になったのだ。

 わたしの父親はよく暴言を吐いたり、暴力を振るう人だった。

 お母さんが少しでも対抗しようものなら、あの人は包丁を片手に手段を選ぼうとしないイカれた野郎だ。

 そして家族のこともほっぽり出して仕事もせずにスナックに入り浸り、最後は外で女を作って出ていった。

 お母さんはすぐにイカれた野郎に離婚を申し付けた。幼いわたしもそうするのが正解だと思ったし、父親であって、父親ではないあいつから離れたいと強く思った。

 それなのに、イカれた野郎はそれを拒否した。

『まだ借金が山ほどあるんだよ。なぁ?その返済が払い終わるまでは離婚しないでいてもらえるか』

 一見腰が低く見える発言。だけど、わたしとお母さんは知っていた。

 あの人はこんな身勝手な願いの上に、さらに強暴な命令を下しているのだ。

 〝俺が作った借金をお前がすべて返済しろ。〟

 極悪卑劣、笑止千万な男に、幼いなりにその状況をしっかりと理解していたわたしは、どれだけの憎悪を抱いただろう。

 お母さんは最後まで、この男のヒモでしかなかったのだ。

 その面で、わたしはお母さんにひどく同情した。

 どうしてお母さんはこんなにも人を見る目がないのだろう。どうしてこんなにもひ弱なのだろう。

 あの人はわたしたち二人を、圧倒的な力でねじ伏せてくる。家族の温情なんてものはとうの昔に消えていて、イカれた野郎はわたしたち二人の一生の人生を殺した。

 母親はあの人のヒモ。父親は罵詈雑言を吐き、暴力を振るい、終いには浮気をして家を出て行った男。幼い頃からそんな過酷な環境下で育ったわたしは、当然他人の子たちと違う。

 わたしはあの男のせいで、少しおかしくなってしまった。だからわたしは、小学校時代、ほぼ全校生徒に嫌われていたというのに、それが凄く嬉しかったんだ。

 わたしにとっては何の感情も向けられない無視よりも、たくさんの悪口を浴びせられていた方が安心できた。

 他の子とは全く違う。
 考え方がおかしい。
 感じ方が気持ち悪い。

 世の母親は、そんなわたしを見て口を揃えてそう言っていたものだ。

 中学時代も変わらずそんな風に過ごし、わたしが中学三年生に上がると同時に、お母さんがあの男の借金をようやく払い終えた。もう死にたいと思うほどの長年に渡る拘束からやっと解放されたのだ。

 そして現在。高校二年生になったわたしは、お母さんと二人暮らしをしている。と言っても、わたしが幼い頃から女手一つでわたしを育ててくれているお母さんは生活費を稼ぐために毎日夜勤をしている。

 どこで働いているのかは教えてくれないけれど、今の貧乏生活を考えればパートとかが妥当だろう。

 低賃金で夜勤までしているお母さんが、いつか精神を病んでしまわないだろうか。体調を崩しはしないだろうか。

 わたしは毎日、ほぼルーティン化してしまったかのようにそう思う。

 夜勤はもっと減らしてもいいんじゃない?と言ってみたこともあるけれど、頑固なお母さんは聞き耳を持ってくれない。わたしはいつになったら、自由に羽ばたける日が来るのだろうか。

 わたしの翼にはもう既にべったりとした過去の傷がへばりついていて、空を高く翔ぶことはできない。

 わたしは今、救いようのない崖っぷちの上に立っている。来るはずもない誰かからの助けを、本当は誰よりも一番に求めている。

 ……自分のことなのに、そんなことにさえ今まで気づけなかった。限界はある日、突然にして人間を襲う。実に恐ろしく、なんて身勝手なものなのだろう。

 夜風が優しく頬を撫でる。もう車は一台も通らない。

 怖いくらいに、静かな夜だった。

 星一つ浮かばない真っ暗な夜だけれど、その暗さに溶け込んでは、闇の中へ誘われるようにして堕ちていく。

 それは酒に溺れる感覚に似ていて、とても心地が良かった。……なんて、まだお酒の味も知らない未成年ではあるけれど。

 何かに酔うということがこんなにも心地良いのなら、大人になった時お酒をたくさん飲もう。どれだけ太っても、どれだけ体調を崩しても、ずっと酒の味に溺れていよう。

 新月の夜。

 その真っ暗闇にすっかり酔っていたわたしは、崖から足を踏み外す。

 もうこのまま落ちて死んでしまえたら楽なのに。

 そんな危険な考えが脳内にゆっくりと浸透し、それに完全に侵されて支配されてしまう手前、誰かがわたしの名前を叫ぶ声がした。

 それと同時に、今まさに落ちていこうとしていたわたしの手首を、ある人の手が掴んだ。その手はぶるぶると震えていて、ああ、来てくれたんだと思った。

 日本政府は本当に良いものを作ってくれたと思った。

 自殺願望のある若者の荒んだ心を癒してくれる死神型ロボット───蒼汰が、必死にわたしを上へ上へと引き上げていく。

 きっと第一号目のロボットじゃ出せないそれ以上の力を振り絞ってくれた。

「……ッ、」

 今度はわたしが蒼汰の下敷きになった。わたしの手首を掴む蒼汰の手の力が強すぎて、痛い。わたしはそこで、ようやく我を取り戻した。やっと現実に帰ってきた。


「そう、た……?」
「…っ君は全く‼一体何てことをしたんだ……‼なぜ急に欄干から身を乗り出した⁉僕がいなければ、君は真っ先に海に落ちていたんだぞ‼」
「え……、?」

 蒼汰の言っていることが全く理解できない。

 わたしが一体、何をしたのかって……?


「どうしてあんな危険なことをしたのかを聞いている‼っ早く答えろよ……‼」
「そ、蒼汰……あの、落ち着いて。わたし、この状況が全く理解できていなくて」

 蒼汰がわたしを橋のコンクリートの上に押し倒す形で倒れていて。このまま車が来てしまえば、二人同時に首をはねられて即死というほどの危険な場所に倒れている。


「美鈴、……君は今、自殺をしようとしたっ」
「え……?わたし、が…っ?いつ⁉」

 崖から落ちていくあの感覚は、わたしの意識上だけで起こった出来事ではなくて、リアルで起こったこと。それをようやく理解したわたしは、改めて自分がしたことの重大さに気づいた。

 無意識のうちに死のうとすること。

 自分の意思とは関係なく、ただ取り憑かれたようにして橋から飛び降りようとしたこと。それが恐ろしくてたまらない。

「……本当に、無意識だったのか。まるで幽霊にでも取り憑かれたみたいで、怖かった」

 激しい息を整えながら、次第に冷静になっていく蒼汰。わたしの手首を掴む手の力がだんだんと弱くなっていき、解かれた。

「わたし、まさかリアルで死のうとしてるとは思わなくて……。助けてくれてありがとう。死にたいって思ったけど、いざ本当に死のうとしてたって思うと、何だか凄く怖いよ」

 上半身を起こして、力なくうなだれる。情けないことに、衝撃の出来事に足の力が一気になくなってしまって、立ち上がることができない。


「……やっぱり僕が、君のことを助けなきゃ」
「……、蒼汰、今何て言ったの?」


 あまりにぼそりと呟かれたから、何て言ったのか分からなかった。だけど蒼汰はわたしの問いに力なく頭を振るだけで、何も言ってくれない。

 しばらく重苦しい無言の時間が続いた。だけど不思議と気まずくはなかった。相手がロボットの蒼汰だからだろうか。

 きっとわたしは、自殺をしようとしたところを知り合いに助けられ、その後今みたいな沈黙が続いてしまったら、耐えられないだろう。いくら神経が図太いわたしでも、そこまで能天気な人間にはなれない。


「美鈴。僕の言うことをよく聞いて」
「う、うん……っ」


 真剣な眼差しと言葉に、わたしはやや緊張気味に頷く。蒼汰の次の言葉を待ったけれど、それがすぐに発されることはなかった。

 もしかしてと思って、その瞳の中をよく観察してみる。やはり、目には赤く光る英文が流れていた。この光景を見るたびに、蒼汰は人間ではなく、正真正銘のロボットなのだということを思い知らされる。

 蒼汰がわたしにくれる言葉も、表情も、行動も。

 すべてはデータとして入力されたことを淡々とこなしているだけなのかと思うと、少しだけ複雑な気持ちになる。

 周りの人たちから優しくされるという経験がないに等しいわたしは、蒼汰が本当の人間だったらいいのに、と身勝手に願ってしまっている。

 すると数分後、ようやく蒼汰の瞳の中に英文が消え、意識が戻ってきた。そのすぐ後に、蒼汰は話し始める。


「僕には、荒んだ君の心を癒して、君を寂しさの中から救い出すという使命がある」
「う、うん……」


 どこかで聞いたことがある言葉をなぞるようにそう言って、わたしの目をまっすぐに射抜いた力強い眼差し。

 それは蒼汰の決意の表れで、そこに蒼汰自身の気持ちも含まれているような気がした。


「美鈴、さっき僕に訊いたよね。死神型ロボットがなぜ、〝死神型ロボット〟と呼ばれるようになったのか」

「うん。訊いた」

「明日の午前0時、舞子(まいこ)公園で待ち合わせをしよう。次はこんなに危ない橋の上じゃなく、ゆっくりと話せる場所で。そこで、僕のことをすべて教えてあげるから」

「……っ、うん!分かった、必ず行くね」

 いつも、長くてつまらない夜を暗い部屋で一人、孤独に過ごしていた。

 それなのに、明日の夜は蒼汰と一緒に過ごせるのか。

 考えただけで少しわくわくして、わたしは初めて、明日の夜が早く来ないかと願った。

 *

 午前0時になる前に家を出て、舞子公園を目指す。

 今日も一日学校に行って、色々なところでわたしの悪口が飛び交っていたけれど、わたしは早く夜にならないかな~なんて呑気なことを考えていた。

 公園に着くと、そこにはもう人影が見えた。そのシルエットをわたしは知っている。少し嬉しくなって、小走りでその背中に近づいた。


「蒼汰……っ!」


 蒼汰の髪がファサリと揺れる。

 ロボットなのに、ちゃんと人間と同じ髪があるんだから不思議だ。

「……っわ、美鈴。こんばんは」

 目をまん丸くさせて驚いた蒼汰が、わたしを振り返る。そんな蒼汰に、わたしはいたずらに笑う。


「……何て言うか、昨日の君とは打って変わって元気そうだね」
「んー?きっとそう見えるだけだよ~。それかわたしが、そう見えるように振舞っているとか」


 蒼汰が座る大きな石でできたベンチに腰を下ろしながら、今度は曖昧に笑った。そんなわたしを、蒼汰が何か言いたげな目線でじいっと見つめているのが分かった。


「……美鈴は今までそうやって取り繕って、無理やり元気な自分を演じていたの?」
「まあ、ほぼそれに近いかも」


 後ろに手を付いて、夜空を仰ぐ。今日はうっすらと細いお月さまがその存在に気づかれないようにただひっそりと夜空を照らしていた。視線を四方八方に動かすと、夜空に小さく煌めいて浮かぶ、たくさんの星があることに気づく。


「今日は空が綺麗だね~。もうそれだけで元気になれちゃうかも!」
「美鈴」
「あっ、それより蒼汰!早く死神型ロボットについての話聞かせてよ~」
「美鈴……!」
「わたし、それが凄く気になって眠れなかったんだよね──…」
「美鈴‼僕の方を見て、しっかり目を合わせて」


 強引に肩を掴まれる。明るく振舞っていても、本当は全く元気じゃないということに蒼汰は気づいたのだろうか。有能すぎて笑っちゃう。


「ねえ美鈴。僕の前では、そんな風に必死に元気な姿を演じなくていい。そうしないと、僕が君を救う前に君自身が壊れてしまう。ちゃんと自分を一番に大事にして」

 蒼汰が言うことは全部正しいのだろう。だけど、わたしは今までの人生の中でそんな言葉をかけてもらえたことが一度もないから、無理をする以外自分を保つ方法が分からない。

「でもわたし、自分を一番に大事にするって方法が何か知らないの。だから……」
「じゃあ僕が教える。全部一から教えるから、君は準備だけしていてよ」
「準備……?」

 何の?と訊こうとした。だけどその前に、蒼汰がわたしの両手を掴んで、大きな手で包み込んだから、それに驚いたわたしは続きの言葉が喉元で止まってしまった。


「僕に救われる準備。その準備ができていないと、僕がどんなに頑張ったところで君を救えない。君はただ、僕に救われたいと強く思っているだけでいい」
「そうしたら、何か変わるの……?」


 少しだけ期待してしまう。蒼汰の手をとれば、何かが変わるかもしれない。

 わたしの今の環境は変えられないのだとしても、この自分自身や人間関係は修復できたりするのかもしれない。

 わたしは今まで、他人に好かれることを諦めてきた。

 どんな人間でいたらみんなから好きになってもらえるか。

 どんな人間が、他人の輪の中に入っていけるのか。

 考えることをやめた。幼い頃から苛酷な環境下で育ったわたしは、みんなが当たり前のようにして考え、周囲に歩み寄るような行動ができなかった。それをするだけの体力がもうなかった。


「きっと世界が広くなる。君は無理をしなくても笑えるようになるし、君のことを好いてくれる人が現れたら、自然と心の均衡だって保てるはず」

 蒼汰の紡ぐ言葉はいつもまっすぐで、自信満々で、安心する。蒼汰についていったら、わたしはいつか変われるんじゃないか。みんなが好いてくれる性格になれるんじゃないか。それは今までの自分を殺すこと。無理に他人に合わせて、無理に性格を作ること。


「美鈴、僕は別に、無理に自分を変えろと言っているわけじゃない。君はそのままで、ありのままの姿で十分に愛されると思うよ」


 わたしの心の中を見透かしたような発言だった。

 無理に自分の性格自体を変えようとしなくていい。

 蒼汰のその言葉は、わたしの心の一番深いところに優しく染み渡って、温かな熱を灯す。


「蒼汰も、今のままのわたしを好いてくれてる?」


 少しだけ気になった。そんな質問をしても、相手はロボットなのだから意味なんてないのに。蒼汰が発する言葉は、蒼汰の思っていることじゃないのに。


「美鈴は明るくて、一生懸命で、天真爛漫な女の子って感じ」
「それが偽りの姿だとしたら……?蒼汰はわたしを嫌いになる?」
「……、ならないよ」
「……そっか」

 わたしは小さく頷いて、自分の手元をじっと見つめた。


「美鈴、今何か、迷っていることがあるよね」


 唐突にそう訊かれて、図星を突かれたわたしは勢いよく顔を上げた。その瞳と目を合わせたら、優しく細められる。どこまでも優しい蒼汰の視線に導かれては、口を開いた。


「本当のわたしって、どこにいるんだろうなって……。今までずっと、無理に自分を作ってきたから、わたしの本当の性格っていうのが何かわからなくって」

 ヤバいよね、と付け足す。

「ううん、ヤバくなんかない」

 そんな言葉をいちいち否定してくれる蒼汰に、わたしは笑ってしまう。


「美鈴はもうとっくに見つけていると思うよ。本当の自分ってやつを」

「本当のわたしを、もう見つけてる……?」

「そう。難しく考えなくていいんだ。たとえ偽りの自分を長年演じてきたからといって、本当の自分が分からないと思わなくていいってこと。今の美鈴が、本当の美鈴だと僕は思うな」

「今のわたしが、本当のわたし……」


 蒼汰の言葉を復唱する。今までそんな考えは持ったことがなかった。当てはまらなかったパズルのピースがぴったり当てはまるような、そんな感覚。


「そう。天真爛漫な君は、無理をしているようには見えない。だから、その姿は本当の美鈴。単純に考えていいんだ」

「……ふふっ、やっぱり蒼汰は凄いね」


 そう言って笑いかければ、頭の後ろを掻きながら照れたように笑って、「そんなことないよ……」と呟いた。

 今まで抱えていた悩みの一つが、綺麗さっぱり消えていく。わたしが抱えていたものは、こんなにも簡単に解けるものだということを知らなかった。この苦しみから自力で抜け出す方法が分からなかったわたしにとっては、とても難解なもの。

 だけど蒼汰にとっては、凄く簡単な問題に見えたのかもしれない。

 ここでわたしは改めて、他人の力の大きさを知った。


「蒼汰」

「何?美鈴」

「わたしの話し相手になってよ。これから先も、ずっとこうして夜に会って、話をするの」

「………」

「蒼汰?」


 見つめた蒼汰の横顔は、何だか寂しそうで。そこでわたしは、思い出す。

 そういえば蒼汰という男の子は、死神型ロボットだということを。


「……美鈴はこれからも僕と話したい?」

「うん」

「それなら、まずは美鈴が今の状況から抜け出して、変わろうとする努力をしなきゃ。死神型ロボットがどうして死神型ロボットと言われているのか。それはね……」


 蒼汰の続きの言葉を待つ。緊張のせいで出てきた唾をごくりと呑み込む。


「死神は生命の死を司る神として知られているでしょ?」

「…う、うん。人間に死ぬ気を起こさせるとか、人を死に誘うとか……そういう神様だよね」

「そう。だけど僕の場合は違う。死神って名前が付いてるけど、死神型ロボットは死のうとしている人間を救う存在だ。自殺願望のある若者が元気になって、心の底から笑えるようになる。そうしたら僕は、やっと自由になれる」

「自由、に……?」

「うん、そうだよ。今もどこかで僕を操作している奴らがいる。僕には人間と全く同じ機能を持つ脳みそが埋め込まれているから、今は自分が感じたこと、思ったことを自由に話せている。だけど、やっぱり人間の支配下からは逃れられない。そこで、美鈴の出番だよ」

「わたしの出番?」

「うん。美鈴の抱えてる悩みが解消されて、心の底から笑えるようになった時、僕は日本政府からの命令を達成したとされ、自由に話せるようになる」


 蒼汰の言っていることは、理解できるようでし難かった。だけど、わたしは一生懸命に蒼汰の話に耳を傾かせ、どうにか理解しようと努めた。


「わたしがこの悩みから解放されたら、蒼汰も日本政府の支配下から逃れて、自由になる。そういうこと?」

「うん、そういうこと」


 嬉しそうに微笑んだ蒼汰は、力強く頷いた。

 その笑顔が消えないように、蒼汰が自由になるために、わたしは変わりたいと思った。

 そして何より自分のために、空へ高く羽ばたくために、こんなにも臆病だった自分を変えたいと強く願った。


「わたし、自分のためにも蒼汰のためにも、頑張って変わって見せる。わたしね、気づいたんだ。今までわたしは、自分以外の他人のことに目を向けたことがなかったなって。ちゃんと真剣に向き合わないままに、好かれることを諦めようとしてた。それじゃ、ダメだよね」

「まあ、それがダメってことにはならないと思うけど。美鈴がそう思うのなら、僕は応援する」

「……蒼汰は、優しい死神なんだね。人を死に誘うんじゃなくて、死のうとする人間を助ける。それって凄いことだよ」

「…はは、そんな風に言ってくれてありがとう。きっと日本政府はネーミングセンスが皆無だったんだろうね。ここまで意味の通っていない名称にするくらいだから」

 蒼汰はそう言って、おかしそうに笑った。

 ここから見える真夜中の明石海峡大橋はとても綺麗だ。ひっそりとした真っ暗な世界。ここにはもう決して日が昇ることはないような不安に駆られても、明日は必ずやって来る。太陽は必ず、その姿を露わにする。

 そう思わせてくれたのは、わたしの隣に座る死神型ロボット。


「美鈴」

「なぁに?」

「最後に僕から一つだけ。ありのままの美鈴を受け入れてくれる人はどこかに必ずいる。だから、自分が心から仲良くなりたいと思った人の元へ行くんだ。そうしたらきっと、傷つけられることは何もないから」

「うん、分かった。教えてくれてありがとう」


 蒼汰の言葉は、どうしてここまでわたしに勇気を与えてくれるのだろう。どうして蒼汰の言葉なら、何の疑いもなく信じたいと思えるのだろう。


「……わたし、蒼汰に助けられてばっかりだ。情けないね」

「情けなくなんかないよ。時には他人の手を借りないと、できないことがある。だから美鈴は僕を頼っていいんだ」


 蒼汰の手とわたしの手が、軽く触れ合う。

 そんなことに、わたしの心臓はせわしなく暴れだす。この心臓の鼓動は、一体何だろう。

 動揺を悟られないように、わたしは立ち上がった。蒼汰の視線がわたしの背中を追いかけてくるのが分かる。


「美鈴、頑張れ。美鈴ならきっとできる。君はどこまでも強い女の子だって、僕は信じてるよ」

「ありがとう蒼汰。わたし、頑張ってみるよ」

 そう会話を交えるわたしたちを、穏やかな秋の夜空が見ていた。

 ⋆

 教室の扉の前に立って、ふうっと深く息を吸う。深い深呼吸を繰り返してから、わたしはその扉を開けた。

「おっはようございまーす!」

 学校でここまで大きな声を出したのは初めてだ。教室の中にいた全員がわたしを振り向く。みんなの表情には驚きの色が浮かんでいて、それが凄くおかしく思えて、わたしは吹き出してしまった。


「まじかあいつ、なんであんなに元気でいられんだよ」
「俺ずっと思ってたんだけどさ、美鈴って強すぎねえ?」
「それな。普通グルラであんなことがあった後とかほとんどの奴に嫌われてる状況で学校来れるとか、ウザい超えてなんか尊敬する」


 どこからかわたしのことを話すひそひそ声が聞こえてくる。

 わたしはもう、何も気にしない。

 今日一日、頑張るって決めた。

 朝のホームルームの時間になって、担任が教室に入って来る。総務の木下さんが号令をかけて、みんな席から立ち上がる。

「礼」
「「「おはようございます」」」

 朝の挨拶をして、また席に着いた。淡々と連絡事項を口にした後、担任はすぐにホームルームを終わらせる。こういう時、自分のクラスの担任が話の長い人間じゃなくて良かったと、心の底から思うのだ。

 ホームルームの終了の号令をした後に、担任は教室を出て行った。

 よし、と気合を入れて、わたしはクラスメイトの観察を始めた。まずは自分が心の底から仲良くなりたいと思う人を見つけないと。

 一時間目が始まり、それから刻々と時間は過ぎていき、あっという間に四時間目が終わる。

 まだ友だちになりたいと思う人が見つからない。

 だけど、少しだけ気になる子ならできた気がする。三時間目の国語の時間。国語教諭の三谷先生に指名された女の子が立ち上がって、凄く落ち着く声で物語文を読み始めた。

 丸眼鏡をかけた物腰柔らかそうな女の子で、ピンと背筋を伸ばし、綺麗に朗読するその姿に女のわたしでも魅入ってしまったのだ。

 確か名前は、如月さん。

 昼休み、その子のところへ行ってみようか。

 いつもは当たり前に一人でお弁当を食べていた。だけど今日は、いつもと同じことばかりはしてられない。変わると決めたのだから、早くその決意を行動に示さないと。

 机の横にかけていたお弁当袋を手に取って、席を立つ。丸眼鏡の女の子は、教室の隅で同じように眼鏡をかけた女の子たちと楽しそうに昼食を取っていた。

 クラスの一軍女子とは反対に落ち着きがあって、みんな優しそうだ。


「ねえ……、わたしも一緒に食べていいかな」

 そう言うだけなのに、凄く勇気がいった。気恥ずかしくて、頬に赤みが差すのが分かる。

「え……」

 だけど案の定、気まずそうに全員から目を逸らされた。そこで、わたしがここのグループに入るのは迷惑なのだと悟る。

「…っあ、やっぱりいいや!急にごめんね、わたしどこかで食べてくるから!」

 凄く凄く凄く、恥ずかしい。

 何が恥ずかしいかって、あの反応だけですぐに諦めて、もう逃げようとしている自分がいるということに対してだ。

「ま、待って西野さん……っ」

 すぐにその場を離れたわたしは、如月さんがわたしを呼び止める声を聞き逃していた。

 *

 何もできないまま、放課後が来てしまった。

 本当にわたしは、何をやっているのだろう。蒼汰にたくさんのアドバイスをもらったのに、それを何一つ活用できていないじゃないか。

 そんな簡単に、今まで自分が怠けていたせいで築いてしまったこの状況は変えられないということか。

 わたしはすべてを甘く見過ぎていた。

 蒼汰に今夜、何て言おう。結局何も変化がないわたしを見て、蒼汰はどんな風に思うだろう。

 ……なんて、蒼汰にどんな反応を返されるのかはもう分かっている。

 きっとわたしを責めることも、わたしに失望することもしないだろう。蒼汰はそういう人だ。

 このまま何もできないまま家に帰って、自責の念に駆られ続けるのだろうか。それは本当に嫌だ。だけど何も行動に移せない。

 鞄を背負い、教室を出る。重い足取りで階段を下りて行き、昇降口へ向かう。下駄箱でローファーに履き替えて、校舎を後にした。

 正門まで力なくとぼとぼと歩き、歩道に出たところで。

「西野さん……っ、待って!」

 わたしの名前を叫ぶ声が辺り全体に響き渡った。学校でわたしに話しかけてくるような人は今まで一人もいなかった。

 だからわたしは盛大に驚いてしまって、躓きそうになった。

「あっ、危ない……!」

 如月さんの手がすんでのところでわたしの手首を掴み、そのおかげでわたしは転ばずに済んだ。

「あ、ありがとう」
「大丈夫?西野さん」
「うん、大丈夫」

 如月さんはどうしてわたしなんかにもこんなに優しく接してくれるのだろう。学年全員から疎まれているわたしと喋ったりしているところを誰かに見られたら、如月さんまで悪く言われてしまうかもしれないのに。


「西野さん。私、昼休みに西野さんから話しかけられたことに本当にびっくりしちゃって、すぐに返事ができなくてごめんなさい。あれは、その……西野さんと一緒にお昼ご飯を食べることが嫌だったわけじゃないの」

 そんなことをわざわざ伝えにわたしの元まで走って来てくれてのだろうか。

 それに、如月さんがわたしと昼食を取るということに対して嫌に感じていなかったことを知り、酷く安堵した。

「そうだったんだ……。それは、凄く嬉しい」

 笑いかけると、如月さんはわたしと一度目を合わせ、そして恥ずかしそうに視線を横に逸らした。

「私ね、ずっと西野さんのことが気がかりだったの。グルラでもみんな酷いことを言って、西野さんを傷つけてしまうと分かっているのに、好き勝手してる。西野さんがいつか不登校になってしまうかもって思って、凄く怖かったの」

 如月さんは、本当に優しくて、強い子だ。

 わたしのことを心配して、声を震わせながらも自分の内なる感情を今こうして打ち明けてくれているのだから。

 それはきっと、誰にでもできることじゃない。わたしだってできない。

 自分の気持ちを正直に言うことで、他人からどう思われるのかが怖い。不機嫌にさせてしまったり、はたまた放ったその一言で嫌われてしまうかもしれない。


「私、ずっと西野さんに話しかけようって思ってた。今日こそ、明日こそって、ずっと思ってた。……だけど、結局そう思うばかりで行動に移すことができなくて……っ。だからね、今日西野さんに話しかけてもらえて、何だかとても嬉しかったんだ」
「うん、わたしもそんな風に思ってもらえてたって知れて嬉しい……」


 わたしがそう言うと、如月さんは苦しげに眉をしかめて、泣き出してしまいそうな表情になった。


「ううん違うの……っ。私は西野さんにそういう風に思ってもらえる資格なんて何もない人間で……っ!だからどうか、そんな風に言わないで」
「如月さん……?」

 わたしの目の前で如月さんが涙を流し始めたから、どうしたものかと途方に暮れた。何て言葉をかけてあげるのが正解なのか、不器用なわたしには全く分からない。


「西野さんのことが凄く心配だったけど、それでも……っ自分から話しかけたりなんかしたら、次は私も悪口を言われてしまいそうで、怖かったの……!!」

 その言葉を打ち明けるために、一体どれほどの気力と勇気が必要なのかをわたしは知らない。

 西野さんが今放った言葉は、きっと誰しもが胸に抱えているものだろう。

 人間は弱くて怖がりで、そして脆い。

 もちろん、周りの言葉なんて気にせずに、いじめられている子の元へまっすぐに歩み寄れる人だっていると思う。

 だけどそれは全体を見ても極少数で、後の殆どは皆『傍観者』としての立場にいる。

 加害者が一番の悪だとするならば、きっと二番目に悪いのは、ただその様子を何も言わずに眺めているだけの傍観者だろう。

 だから本当は、わたしは如月さんに対して嫌悪感を抱いてもいいはずで。


「如月さん、顔を上げて」


 震えているその背中を優しく撫でる。

 だけど、そんな邪な感情を抱けなかったのは、今の如月さんが凄く人間に見えたからだろう。

 泣きながら、嗚咽を漏らしながら喋るのは息がとても苦しいはずなのに、己の心境を包み隠さずに打ち明けてくれるその姿を見て、わたしはまたしてもこの人に魅入ってしまった。

 弱くて、脆くて。

 だけど凄く優しくて、自分の感情を打ち明けるまっすぐな強さを持っている。

 なんて美しくて、言葉が出ないほどに綺麗で、人間味を感じられる姿なのだろう。

 わたしの感じ方は世間一般では気持ち悪い、おかしいという分類に入るのだと世の母親は昔から口を揃えてそう言った。

 だけどわたしにとっては、感じ方が気持ち悪かろうがおかしかろうが、そんなことどうだっていい。

 今はただ、如月みらいちゃんという女の子と友達になりたいと心の底からそう思えた、わたしの心が一番重要で───。


「───如月みらいさん。わたし、あなたと友達になりたいです」

 蒼汰が背中を押してくれた気がした。どこかで今も見守ってくれている気がした。

 だからわたしは、その言葉を口にすることができた。如月さんはそんなわたしの言葉に驚いていたけれど、泣き腫らした顔を歪めて、うん、と頷いてくれた。

 *

 わたしの環境は、如月さんと友達になった後、目まぐるしく変わっていった。

 これまでわたしのことが気がかりだったという子が実は何人もいて、『私も西野さんと友達になりたい』『もっと西野さんと話して、色々なことを知りたい』と言ってくれたものだから、わたしは驚きばかりの連続だった。


「蒼汰、本当にありがとう。わたしが変われたのは、蒼汰のおかげだよ」
「……はは、そうかな?僕は少しでも美鈴の力になれてた?」
「もちろんだよ!逆に助けてもらってばかりで、わたしも何かお返しがしたいなって思ってるほどで……」

 わたしたちは初めて舞子公園で待ち合わせして会った後も、毎晩のようにここに来てはこうして話をしていた。

 蒼汰といる時は時間の流れがとても早く感じて、もっと一緒に入れたらいいのにって何度も思った。

「蒼汰……?どうしたの、」

 何も言わない蒼汰のことが心配になって、隣の方を向く。目に飛び込んできたのは、蒼汰が停止しているというこの状況。


「なん、で……」


 ───『うん。美鈴の抱えてる悩みが解消されて、心の底から笑えるようになった時、僕は日本政府からの命令を達成したとされ、自由に話せるようになる』

 あの日蒼汰がわたしに教えてくれた言葉が、頭の中で反芻される。

 確かに、そう言っていたのに……。わたしが心の底から笑える日がきたら、蒼汰は人間の支配下から逃れて、人間と同じ脳みそを持っているのだから自由に話せるようになるって、確かにそう言っていたのに。

 わたしの笑いがまだ足りていないのだろうか。

 心の底から笑うという基準が、わたしが思っているものと少し違うのだろうか。……分からない。もう何も、分からないよ。

 蒼汰がまた動いて話し始めるまで、わたしは泣いてしまうのを必死に堪えた。

 そして数分があっという間に経ち、やっと蒼汰の肩がビクリと震えた。

「そう、た……?蒼汰……!!どうして!?なんで!?わたし、もう心の底から笑えるようになったよ。それなのにどうして蒼汰は……っ」

 意識を取り戻して突然わたしがそう叫ぶものだから、蒼汰は酷く驚いただろう。だけど、わたしが言わんとしていることをもう既に分かっているような、切なげな目でわたしを見つめた。

「………美鈴、ごめん。僕、美鈴に言わなきゃいけないことがある」
「何……っ!?言わなきゃいけないことって!!」

 すっかりパニックに陥ってしまったわたし。

 そんなわたしとは反対に、蒼汰は怖いくらいに穏やかで、凪いでいる。

「死神型ロボットは自分の救う相手が心から笑えるようになった後、自分との記憶を消し去る」
「ぇ、……?」


 ただ機械的に、業務事項を述べるみたいにそう言った蒼汰は、遥か遠くの方を見つめていた。

「後から色々と複雑なトラブルを生まないために、そういう厳しい掟があるんだよ。……あの日、美鈴にやる気を出させるためにこんな嘘をついて、本当にごめん」

 蒼汰の手がわたしのおでこに迫ってくる。

 これから何が起こるのかを、わたしはなぜか予想できた。わたしから蒼汰との記憶を消そうとしているのだ。


「待って蒼汰……っ、お願い、待って。まだ伝えなきゃいけない事があるのに」

 蒼汰の手が伸びてくる。それがわたしのおでこに触れる手前、最初は苦手だったロボットの蒼汰を、これ以上ないほどに愛おしいと思った。


 *


「ん、………っ」


 薄く目を開く。朝日がわたしの体全身を照らしている。体には毛布がかけられていて、ああ、これは蒼汰がかけてくれたものだ───…と思った。


「えっ、蒼汰!?なんでわたしっ……、」


 寝ぼけていたわたしは、そこでようやく気づく。

 自分の中から、蒼汰との思い出が何一つ消えていないということに。

 蒼汰の手が触れる手前、軽いショックで意識を手放したわたしは、その後の蒼汰の行動を知らない。

 もしかすると蒼汰は、自分との思い出をわたしから消せなかったのだろうか。

「そうた、……」

 蒼汰がその時何を考えていたのかをわたしはもう永遠に知ることはできないのだろう。

 だって蒼汰はもう、二度とわたしの前に現れることはないから。

 なぜか、そう確信する。

 かさり、手元にあった紙切れがわたしの手に当たり、音を立てる。

 なんだろうと思い、そっと開いてみると、そこには殴り書きで書かれた文字が綴られていた。


『僕は美鈴から、記憶を消すことができなかった。
なぜか唐突に、それを嫌だと強く思う自分がいたから。ロボットに恋なんかできるはずない。

僕だって自分のことを当然のようにそう思っていた。だけど、もうそれは違う。

僕は天真爛漫な君のことが、凄く凄く、好きだった。』


 涙が頬を伝い、やがて号泣へと変わる。


「うう……っ。うわぁ〜〜ん…っゔ、蒼汰、わたしも蒼汰のことが大好きーー!!わたしを救ってくれて、ありがとーー!!わたし、これからもっと頑張るからねーー!!」


〝だからわたしのこと、ちゃんと見守っていてね──〟

 思いの限りに叫んだ。

 この世界のどこかにいる君へ。

 今日も蒼汰はどこかでわたしと同じように苦しむ人々を救っているのだろう。

 *

『──現在、世界は少子高齢化の問題が大変深刻化しております。そこで日本政府は、死神型ロボットを世界にまで進出させる見込みとなりました』

 あなたの荒んだ心を癒やし、救い、そして最後は自分との記憶を完全に消し去って、目の前から消えていく。

 それから死神は、永遠(とわ)の別れを告げるのです。