「左の電球が切れていたんでした。え? 取り替えてくださるんですか? まあ、なんて善人ぶったお客様でしょう」

「お掃除はこの建物全体を磨き上げる勢いでやらなければならないんです。まあ! これもやってくださるのですか! お客様はまさに神様ですね!」

「洗濯物はキチンと分別をしなくてはなりません。白いものとそうでないものと薄汚れたものと……どこへ行く気ですか?」

「ゴミ出しって大変ですよね。か弱い乙女には地獄のような労働です。あらお客様、自ら持ってくださるなんてとても心優しいのですね。私は今感動しております」

「自ら持ってねえしいい加減解放してくれこの鬼畜女ぁあああ!!」

 不燃物、と書かれた巨大なゴミ袋を腕に抱え、ジルは腹の底からそう叫んだ。

 結局、シーツ運びから始まり電球の取り替え、店内の清掃、洗濯、ゴミ出しまで全ての業務を押し付けられたジル。文句を言いながらもやり通すところがなんとも言えず彼らしいが、まず彼が客の立場であることを忘れてはいけない。
 えっちらおっちらと己の目の前を必死で歩いて行くジルを視線で追いかけながら、二ルディーは手にしたメモ帳を確認。やるべき仕事が記されたそれに、赤ペンで一つ一つチェックをいれながら、彼女は告げる。

「お客様。それが終わったらお皿洗いもお願いします」

「客って言ってるくせに客の扱いじゃねえよなこれ!!」

 しかし動かす体は止めない。さすがはジルだ。オルラッドがこの場にいたなら笑顔で彼の行いを褒めたたえていたことだろう。解せん。

 ゴミ置き場と指定された箇所に不燃物の袋を放り、一仕事を終えたと言いたげに額を拭うジル。次は皿洗いかとげんなりしつつ踵を返した彼は、ふとその足を止めて背後を振り返った。

 その行動に意味などなかった。

 音が聞こえたとか、気配を感じたとかではない。ただなんとなく、本当になんとなく振り返ってみただけだ。しかし、そのなんとなくが幸をなしたらしい。

 まだ人の少ない、薄暗い通り。その向こうから高速でこちらに向かってくる何かを目視したジルは、ほぼ条件反射にその場を飛び退いた。それと同時に彼が先程まで立っていた場所に突き刺さったのは、見覚えのあるガラス片。
 先日襲われた時に見たものと酷似しているそれを見下ろし、ジルは全神経を集中させながら辺りを確認。額に浮かんだ汗が頬を流れると同時、第二弾の攻撃が彼の視界に飛び込んできた。

「くっそ!」

 次々と襲いくるガラス片を交わしながら、思考を回す。
 相変わらず敵の姿は見えず、探すにしてもこう攻撃を続けられたのでは見つかるものも見つからない。ここはオルラッドとミーリャを起こすのが最善だろう。

 しかし、確かこの建物には全体的に防音加工が施されていると、昨日ベナンから説明された気がする。だとしたらここから叫んでもなんの意味もない。寧ろ叫び損だ。となると、方法は一つ。直接呼びに行くしかない。
 結論を出したジルは己の背後を振り返った。

「二ルディーさん! オルラッドとミーリャをおこ……って、いないだとぉおおお!!?」

 忽然と消えた二ルディーの姿にジルは驚愕する。

 まさか、俺を放って逃げたのかあの野郎。なんて女だ。これからは緑の悪魔と呼んでやる。心の中で。

 ひくりと口元を引き攣らせる彼のすぐ側で、人を嘲笑うような、実に不愉快な笑い声があがる。

「なになにぃ? お前、もしかして見捨てられちゃった感じぃ? うっわ、かわいそー。おねーさんが慰めてあげよーかぁ?」

 ぷ、なんて吹き出されるものだから、状況が状況とはいえ腹が立つというものだ。振り返ったジルの視界の中で、かなり際どい服装の女が腹を抱えてケラケラ笑う。

 身長は百六十センチ程。見た目的に二十代半ばくらいの女だ。サイドテールにされた金髪が緩やかに揺れており、茶の瞳は警戒するジルを見下ろし醜く歪む。

「持つべき者は友だちとはよく言ったものだよ全く。全然役立たずじゃないか。お前も哀れだよねぇ。もうちょっと人見る目育てた方がいーんでない?」

 なんて言いながら、女は片手を前へ。構えるジルなど眼中にないと言いたげに、その掌から赤子の拳と同じ大きさのガラス片を発生させ、彼を攻撃。ギリギリ避けたものの、少年の頬には赤い筋が一つ走る。

「昨日はしてやられたが今日はそうもいかないんでね。まずは耳の良い君を殺させてもらうよ。目標(ターゲット)はその次でもいいや。期限なんて定められてないしね」

「……目標(ターゲット)?」

「そこは企業秘密ってことでヨロシク」

 無邪気にウインクをして見せた女。その周りに巨大なガラスが形成されていくのを、ジルは焦ったように見つめる。

「じゃ、死ね」

 歪んだ笑みと共に残酷に告げられた一言。向かってくる巨大ガラスを避けることだけを、ジルはどこか、諦めすら浮かぶ脳内の片隅で考える。

 だが、そんな思考も──。

「やめときなさい」

 殺伐としたこの空気の中、凛と響いた一つの声により、停止することとなった。

 まさかの登場人物に、場は一瞬固まった。
 向けられる驚きの視線すら気にすることなく、この混乱に満ち溢れた空気の中、彼女──ベナンは腕を組み、仁王立ちの状態でジルと敵を見比べている。
 その背後には隠れるように身をかがめる二ルディーの姿があった。察するところに、彼女がベナンを呼びに行ってくれたのだろう。疑って悪かった。しかしこの状況が好転するとは到底思えない。

 女の意識が戻る前に、ジルはそろそろと退却。バレないようにベナンと二ルディーの元まで後退した。

「大丈夫?」

「あ、大丈夫です、はい……あの、それよりこの状況……」

「任せて。問題ないから。二ルディー、その子のほっぺた治してあげてて。敵は私が片付けるわ」

 まあ、なんて勇ましい。
 未知の能力を使う敵にすら臆することなくベナンは言う。その姿はまさに正義のヒーロー。悪を目標とするジルですらちょっぴり憧れを抱いてしまう。

 二ルディーはベナンの指示に頷くと、ジルの襟首を引っ掴みさらに後方へと移動。そこで地に膝をつき、片手を咳き込むジルの頬へとかざす。

「ゴッホゲッフ! え? なに? なに?」

「動かないでください雑魚さん。治療できません」

「あ、はい、すみませ、雑魚じゃない!」

「動かないでください」

 ジル相手だとどうも強気になるらしい。二ルディーの鋭い睨みを受け、少年は獣耳をそっと垂れる。
 逆らわない方が身のためだ。彼の長年の経験がそう言った。

 一方、そんな二人を背にするベナンは、漸く意識を現実へと引き戻した女を前、喧嘩前によく見る骨鳴らしを行う。まさか拳で戦うというのか。
 特に恐れる様子のないベナンを睨みつけ、女はどこからか取り出した真っ白な絹のマントをその身にまとった。と同時に、彼女の姿は見えなくなる。

「ええ!? どこの額に傷のある魔法使い!!?」

「ダンジョンアイテムね。透明になるやつなんて初めて見たわ」

「ダンジョンにそんなもんあんの!!?」

 この世はまだまだ知らないことばかりだ。
 敵の姿が消失し焦るジルとは裏腹に、ベナンは余裕綽々といった様子で己の腰に手を当てる。

「ちょっとは楽しめそうじゃない。二ルディー、アレちょうだい」

「はい、ベナン」

 応答の声と共に投げ渡された『アレ』なるもの。よくよく見れば、それは真っ黒な棒切れではないか。さすがにシンプルすぎるためか、申し訳程度に銀色の装飾が施されている。洗濯物を干す竿くらいの長さはあるだろうか。かなり長めだ。
 まさかの武器に唖然とするジルをよそ、ベナンは振り返ることもせずに受け取ったその武器を構える。

 スーツ姿の女がなんに使用するかもわからぬ棒を構えているとはこれはまた……。

 なんだかミスマッチ感が半端ないながこれはこれでいけるかもしれない。既に考えることを放棄したジルは、どこか遠い目で戦いの行く末を見守る。

 先に動いたのはベナンだった。
 彼女は慎重に辺りを見回していたかと思うと、突如として駆け出したのだ。その視線の先には何も無い。だが恐らく、敵がいる。
 確証はないが直感がそう言った。

「はっ!」

 短い声と共に突き出すように振るわれる棒。かと思えば、突き出したその部分を突如として地面に突き刺し、ベナンは軽やかにジャンプする。そのまま勢いをつけて棒を軸に回転。硬い何かがぶつかる音と共に軽く足を曲げながら、彼女は笑みを浮かべて棒のてっぺんへと着地した。
 一体どうやって立っているのか。それはもはやジルには理解できない領域である。

 敵がベナンの攻撃を食らったのか、地面の一部が音をたてて砂埃をあげた。それは凄まじい勢いで移動したかと思えば、建設途中と書かれた古びた看板の前で停止。しかし看板は音を立てて倒れてしまう。

 二ルディーが感激したように両手を合わせ、さらに瞳を輝かせた。治療はいつの間にやら終了したようで、ジルは呆気にとられながらも己の頬へと片手を当てる。

 痛みはない。血もつかない。
 これは完全に完治してるやつだ……。

 呆けるジルなど露知らず、二ルディーは無邪気にはしゃいで見せる。

「さすがですベナン! 相も変わらず素晴らしくカッコイイです! 輝いています! ああベナン! 私のベナン!」

「はいはい、わかったわかった。わかったから大人しくしてて」

 片手をあげて応対するベナン。その背中は確かにかっこいい。

「まだ終わってないんだから」

 棒の上から飛び降りた彼女は、片足でその先を蹴り、長いそれを空中で回転させた。かと思えば回る軌道に合わせて棒の笹部分に片手を添え、その動きを強制停止させる。つまりは掴んだわけなのだが。
 素晴らしい動きに、二ルディーとジルの目が感動に輝く。あまりにも純粋な眼差しのためか、さすがのベナンも少々照れくさそうだ。軽く頬をかき、それから飛んできたガラス片を一つ残らずたたき落とす。

「昨日といい、今日といい……ほんっと、わりに合わないってのこの仕事ッ!!」

 地団駄を踏む勢いで叫んだ敵は、今の衝撃で外れてしまったマントを着直すことなくそのまま跳躍。両手を合わせ、空中で大きく息を吸う。

「ベルディーダ!!」

 叫ぶ彼女の声に呼応するように、上空にいくつもの巨大ガラスが出現。バラバラの位置にあるその中の一つに着地した女は、腰に手を当て、忌々しいといいたげな表情を浮かべながらベナンを指さす。

「まずはお前を殺してやるよ! 覚悟しなクソビッチが!!」

 それは見た目的にお前だろ、と二ルディーが呟いたのでジルは同意するように頷いておいた。

「ベルシャ・ベイン!!」

 どこぞの錬金術師の如く小気味よい音をたてながら再び合わせられた女の両手。叫ぶ彼女の声に従っているのか、空中にあるガラスたちが一斉にその尖端をこちらへと向けた。

「二ルディー!」

「はい、ベナン」

 焦るハーフ少年など眼中にもない。
 勇敢なる女性二人は恐怖という言葉を知らないのか、果敢にも前へ。ベナンが地面を蹴り跳躍し、二ルディーが両手を広げ小さな声で何かを紡ぐ。

「イルディーナ」

 柔らかな声と共にふわりとした風が吹き、それは優しく少年の頬を撫でた。
 二ルディーとジルを中心とした半径2メートル前後の地点。地中から生えるように出現した薄い膜が、二人を覆うようにドーム状になる。

 これはもしや、結界……?

 ゲーマー少年は過去何度か見てきた様々な種類のアニメーションを思いだす。その中のいくつかのアニメーションには、確かこのような形の結界地味たものが現れたはずだ。だとしたらこれは、この危険な場所に残る二人を守るためのものなのだろう。

「これは勝つる!」

 少年が勢いよく拳を握った直後、二ルディーが突如反転。そのまま己の方に向かい駆けてくる彼女に、ジルは目を丸くする。

「雑魚よ。逃走しなさい。今すぐに」

「え? は?」

「死にたくないなら早くする」

「死にたくないんで従います!!」

 立ち上がったジルは真横を過ぎって行った二ルディーの後を急ぎ追う。その背後では凄まじい音と砂埃をあげながら巨大ガラスが硬い地面に突き刺さっていた。

「おいおいおい!? あれ結界じゃなかった系!?」

「結界を張ろうとしたんですがうっかり呪文を間違えてしまい『鼻の奥をスッキリさせる魔法』を発動してしまいました。テヘペロ」

「なにその魔法!? なんか期待裏切られた気分なんですけど!? つーか確かに鼻の奥スッキリしてる!!」

 例えるならば妙に強いハーブ系ののど飴を舐めた時のような感じ。いや、それ以上のスッキリ感はあるかもしれない。
 なんとか逃げ切り建物の入口までやって来た二人は、上空に浮かぶ巨大ガラスの上にて対峙する、もはや人間の領域を超越しだした女性二人の戦いへと目を向けた。

「はあっ!」

 相も変わらず気合いの入った掛け声と共に跳躍するベナン。そんなベナンに舌を打ち相対する女は、軽やかな動作で彼女の繰り出す攻撃を避けていく。見た感じは両者互角といったところか。
 持節飛んでくるガラス片を気にした様子も見せず破壊するベナンを見て、いややっぱり彼女の方が少し上かもしれないとジルは思う。

「見た目に反してすばしっこいの、ねっ!」

「っ!? しまっ!!」

 新たなガラスの上に飛び移る際に軽く滑ってしまったらしい。逃げ遅れたらしく、女の腹部には棒の先がめり込んでいる。これは勝負あったな。
 衝撃により吹き飛び、自分で作り出したガラスを何枚かその体でぶち抜いた後に地面に落下していく哀れなる敵。落ちた場所はここからそう遠くないビルのようだ。降りてきたベナンが言っているので間違いはないだろう。

「このままだとまた襲われる可能性あるわよね。……よし。私ちょっと始末してくるから二人は留守番よろしく。あ、二ルディー! 仕事押し付けちゃダメよ!」

 始末とかなにそれ怖い。
 片手をあげて笑顔で駆けて行くベナンの背を見送りつつ、ジルはそっと息を吐き出す。

 まあ、恐らく、この分なら問題ないだろう。ベナンはあの敵よりも強いし。でも、なーんか死亡フラグ臭い気もするんだよなぁ……。

 ヒョコヒョコと獣耳を動かす少年は、考え込むように腕を組んで瞳を閉じる。次にそれを開いた時、彼の視界には見覚えのない場所が映し出されていた。