【改訂版】弱者が悪を目指した黙示録 〜野生のスライムにも勝てないクソザコナメクジな底辺冒険者の獣族の少年が最強の仲間と共に最高の悪を目指す物語〜

 


 一度は憧れるであろう、中世ヨーロッパ風の街並み。大きな建物。馬が引く馬車。お洒落に着飾った人々。そんな世界の中、ジルはこれでもかというほど目を輝かせていた。

「──……みたいな冒頭が欲しい」

 遠い目をして願うジルの前を、加速したスポーツカーが過ぎ去っていく。

 ──首都、ベルリン。

 大陸中央部にデカデカと蔓延るその都市は、機械工業の発達した国である。見上げる程に大きな建物は、ジルが前世で何度も目にした高層マンションに酷似しており、夜景はきっと綺麗なんだろうな、なんて感想を抱いてしまう。
 そんなジルの傍ら、彼のお供……否、お守り役のミーリャとオルラッドは、二人して鼻を抑えて顔の前で片手を振っていた。時節漏れる咳はこの首都の空気のせいなのかどうなのか……。兎にも角にも辛そうである。

「ケホッ……相変わらずの汚染地域だな、ここは。ガスマスクが欲しいくらいだよ」

「イケメンがガスマスクとかやめてくれ」

 想像して悲しくなった。
 ジルの目がさらに死んでいく。

「ひっくち! ジル、お前、なんでそんなに平気そうなのよ……ぶしっ!」

 聞くだけで笑いを誘うようなクシャミを連発しながら、ミーリャは赤くなりつつある鼻をこすりそう言った。それに対し、ジルは首を傾けることしかできない。

 前世にて慣れているからかどうなのか、そういえばわりと平気な体。苦しむ──と言っても咳き込んでいるだけ──の二人とは裏腹に、ジルに身体的変化は見られない。

 一体この体の構造はどうなってんだ。

 密かに疑問を抱く。

「聞くに、獣族は、その場の環境にっ、すぐ、適応するらしいっ! 恐らく、人間とはまた、ちがう身体的構造を……ゴホッゴホッ!」

「無理して喋んなよ。なんか病人引き連れてるみたいですんごい嫌なんだけど」

「ひっくち! ミーリャたちのせいじゃ、ぶしゅっ! ないのね!」

「お前それクシャミ?」

「そうじゃなかったらなんなのね!? ひぐっし!」

 さすがに笑っては怒られそうなので心の中で大爆笑しておいた。

 さて、賑やかなことは良いことであるがこんなやり取りをしにここを訪れたのではない。ここに来たのは崇高なる目的のため。市役所。そう、市役所だ。
 悪になるために、彼らはわざわざ険しい道を、約一名だけ必死こいて突き進み、ここにいるのだ。
 病人組みはさておき、ジルはあたりを見回す。そして、近場にいた優しい顔つきの女性へと近づいた。

「あの、すみません。ちょっとお訊ねしてもよろしいでしょうか?」

「ああ?」

「なんでもありません失礼しましたごめんなさい」

 声をかければ睨むように返事を返され、ジルは慌ててオルラッドの背後へ。へにょりと頭部の獣耳を曲げながら、「都会ってこわい」と嘆く。

「ぶしゅばっ! ……首都の奴らは、この腐った空気吸ってるからほとんどの奴が頭おかしいのね。ひぶっし! ずびっ……迂闊に話しかけても、意味ないのよ」

「なにその薬中みたいな設定! やめてくんない!? 俺そういうのほんと苦手なんだから!」

 薬中がゾンビに進化してみろ。泣き喚く自信しかないぞ。
 既にへっぴり腰のジルを引きずり、ミーリャは歩き出す。その後を、オルラッドは己の喉を労るように擦りながら、ゆっくりとした足取りで追いかけた。

「首都に来たらまず薬が必要。ここ以外に住む人にとって、首都の空気は毒のようなものだから……」

 ミーリャの案内の元、というよりは彼女に連行されたその先。『なんでも売買店』と書かれた巨大な電光掲示板があった。その下には店内で売られている品物を一部のみ確認できるショーウィンドウと、その店内へと続くであろう自動ドアが存在している。
 ショーウィンドウに飾られているのは主に服や機械だ。目的の薬は見当たらないが、本当にここに売られているのだろうか。疑問を抱きながら、ガラス越しに存在する現代的機械をじっと見つめた。

「何して、びぶしっ! ……いるのよ、ジル」

「ゴホッゴホッ、はぁ……」

 問いかけとため息。そろそろ限界なのか早く行こうと言いたげな二人に慌てて謝罪をこぼし、ジルは店内へと足を踏み込んだ。

 軽やかとは言い難い機械音を発しながら開かれた自動ドアの先。まるで高級ホテルの受付ではないかと錯覚するような、やけに綺麗でお洒落な場所に出た。
 明るい天井にはきらびやかなシャンデリア。待ち合い席であろう場所には記念写真を撮りたくなるような噴水。

 客の姿は見受けられないが、きっと夜間には混み出すのだろうと謎の推測をしながら、ジルは受付へ。少し高めのカウンターから顔を覗かせながら、「すみませーん!」と声をあげる。返事はない。もう一度声をあげる。

「……そんなに騒がずとも聞こえております」

 カウンター奥。従業員専用スペースらしき場所からひょっこりと現れた一人の女性が、少しばかり不機嫌気味にそう言った。

 ──受付の人だろうか?

 スーツ風の黒服に身を包んだ女性だ。
 かなり豪奢な体付きのその女性は、黒い皮の手袋をはめた両手でかけたメガネの位置を調整。それから腹の前で手を組み合わせ、一礼する。
 毛先にウェーブのかかった、恐らくは腰上まである鮮やかな緑色の髪が揺れ動く。顔を上げた彼女は、深緑色の瞳にジルの姿を写しこみ、これでもかと言うほど深いため息を一つ。

「お引き取り下さい」

「客に言うセリフじゃない!」

 ジルのツッコミが炸裂した。

「いやですね、別にお客様が悪いわけではないんですよ。でもですね、既に私の中からは業務に対するやる気、というものが欠如しておりましてですね。つまり今はとても仕事をする気分にはなれないんです。なのでまた明日か明後日かに来て下さると嬉しいですね。はい。……いえ、嬉しくはないですね」

 鬱々とそう語る彼女は、何かを思い出したのかひどく暗い表情になる。かと思えば、いきなり遠い目をして「お花畑の向こうにある川を渡りたい……」などと言い出した。これは末期だ。そしてその川を渡ることはオススメできない。
 完全に客を追い返す体制の女性の姿に、困り果てるジルたち。そんな彼らに助け舟を出すように、奥から新たな女性が現れた。今現在鬱な女性と同様に、こちらもスーツ風の黒服に身を包んでいる。

「あれ? 客? ちょっと二ルディー、客来たなら声かけろって言ったじゃない。何してるのよ、もう」

「ああ、ベナン。聞いてください。お花畑の向こうに飛び魚の群れが存在しているんです。これはすごい。すごい発見ですよ」

「まーたぶっ飛んだ発想してら。まー、いっか」

 ベナンと呼ばれた女性は頭をかき、それからジルを見下ろす。かと思えば先程の女性──二ルディーと同じく、客に対して丁寧に一礼してみせた。

 ゆるやかに揺れる、長い栗色の髪。顔を上げた彼女の強気な赤い瞳はキリッとしており、やけに自信に満ち溢れていた。
 薄化粧な二ルディーとは対照的に、ちょっとばかり化粧の濃い女性だ。ジルは似ても似つかない二人を見比べ、思う。

「いらっしゃいませ、お客様」

 事務的な言葉が、グロスの塗られたベナンの唇からこぼれ出た。

「今宵はどういったご要件で当店にお越しくださったのでしょう?」

「薬なのね」

 やっと話が進んだと言いたげに、ミーリャが一歩前へ。ベナンはそんなミーリャを見下ろしながら、「外の方々ですね」と笑みを浮かべる。

「わかりました。少々お待ちくださいませ。……二ルディー、薬取ってくるからちょっとここ頼むわよ」

「へ? ちょ、ベナン! そんな! 私を生贄にするのですか!? こんな悪魔みたいな奴らの前に放っていくのですか!? そんな! ベナン! 待ってください! ベナン──っ!!」

「おーい。聞こえてますよー」

 床に座り込み、おいおいと嘆く二ルディーにそんなことを言ってみる。しかし反応は返ってこない。
 げんなりしてきたジルの背後、オルラッドが笑う。「楽しい方々だ」、と告げる彼の表情は、本当に面白いものを見たという風に明るい。

「こういった方々にはなかなか会えないから、なんだか新鮮な気分だよ」

「そうなのか? オルラッドはモテそうだしこういう人とかにはよく会ってそうだけどな。きゃー! オルラッドさーん! とか言われながら女に囲まれるタイプだろ、絶対」

「俺が? まさか」

 キョトンとした様子のイケメンの背後、開かれた自動ドアの向こうからやって来た女性客二人。彼女らは振り返るオルラッドを見るや否や、顔を赤く染めて「きゃー!」と叫びながら店から出ていく。
 女性客のその様子に、肩をすくめるイケメン。

「さすがに、囲まれはしないよ」

「今とてつもなくお前を殴りたくなった」

 うんざりと告げるジルを、ふくれっ面のミーリャが無言で、かつ力強く蹴り飛ばした。



「──ああ、ベナン。私のベナン。私をこんな所に捨ておくだなんて酷いです。こんな、こんな視線だけで痛いけな私にあんなことやこんなことをしようと企む輩共の前に無防備な私を捨ておくだなんて……おいおい」

「なんかすごい誤解されてる気がする」

 未だ嘆くことを止めぬ二ルディー。床に座り込んだままの彼女をカウンター越しに眺めるジルは、そろそろ帰りたいとため息を一つ。
 噴水を見上げるミーリャとオルラッドを振り返る。

「いや、やはり水の傍は心地がいいな。汚染されていない水に限るが……」

「同意してやるのね。水は汚れを浄化してくれる神聖なるものなのよ。とても素晴らしいものなのね」

 ふぃー、とどこぞの老人のように息をつく二人に呆れた視線を送る。辛さが和らいでいるのは良いことだが、もう少し若さを維持してほしいものだ。あれではあまりにも年寄り臭い。

「……いや、年寄りが嫌いなわけじゃないんだけどもさ。もっとこう、な? 二人とも顔良いんだから若さをだな」

 二人に視線を向けたまま、ぶつぶつと呟く。そんなジルを不審に思ったのか、二ルディーは彼へと不思議そうに声をかけた。

「何をぶつくさ言っているのですか? 便秘ですか?」

「なんで便秘!? ココに来て便秘を訴える意味がちょっと俺にはわから──」

 相変わらずのボケにつっこまずにはいられない。
 勢いよく振り返ったジル。その頬に、生暖かい液体が降りかった。

「……え?」

 一瞬停止する思考。そして漏れる疑問の声。
 いつの間に立ち上がっていたのか、ジルの目の前に存在する二ルディーの体が前方に傾き、カウンターの方へ倒れ込んできた。薄暗い中、滑らかな光沢を放つそこに豪奢な体を打ち付けて停止するその姿は、まさに異様。

 ──何が……。

 カウンターに広がる赤い液体。それが滴り落ちるのを、テレビ画面の向こうから眺めているような感覚で、ジルは見つめた。声を上げることも、瞬くことも、息をすることすら忘れて、彼はただ、呆然と佇む。

 少しして、ゴトリと重い音をたて、ジルの足元になにかが落ちた。それは彼の視線を誘うように、コツンと彼の靴に軽くぶつかる。

 ──見てはいけない。

 頭の中で警告音が鳴る。
 しかし、視線は自然と己の足元へ。

 ゆっくりと顔を床へ向けたジルは、腹の底から湧き出る悲鳴を止められない。恐怖に引き攣る声を震わせ発されたそれは、静かな店内に大きく、長く、反響する。

 錯乱するジルの足元。
 そこに転がっていたのは、今まで話していたはずの女性──受付嬢、二ルディーの頭部であった。
 


「──ジル! ジル!」

 肩を掴まれ揺り動かされる。それによりハッとしたジルが見たのは、不安げな顔のミーリャの姿。
 その背後にはオルラッドと、床に尻餅をついたジルを呆然と見下ろす、二ルディーの姿もあった。

 ──何が、起こった……?

 頬を伝う汗を拭うことすらできず、ジルは考える。しかし、今まで停止していた思考で、その疑問の答えを導き出せるわけがない。

「ちょっとジル! ジルってば! オルラッド、ジルが……」

「ああ、任せて」

 目の前にいたミーリャが退き、オルラッドが近づいてくる。肩を掴まれたのをどこか他人事のように見つめるジルに、オルラッドは微笑んだ。

「──わ!」

 発されたのはただ一言。しかし、今のジルには効果的だったようだ。
 ビクッと肩を震わせたジルに、「大丈夫そうだね」とオルラッドは笑う。だが、その笑みもすぐに消え去った。

「ジル、いきなりどうしたんだい? 君の様子からただ事でないのはなんとなく察することができるが……」

 ──どうした?

 そんなの自分が聞きたい。
 そう返そうと開かれた口から発されたのは、別の言葉。

「──しゃがめっ!!」

 焦りと混乱を含んだ声は、間違いなく二ルディーに向けられていた。

「へ? い、いきなり何を言って……」

「いいからしゃがめ! 今すぐ! 立ってたらだめだ! 死ぬぞ!!」

「え、えっと……」

 どうもおかしいジルの様子に恐怖を抱いたのか、二ルディーはそろそろと膝を折り、カウンターに手を付きながらしゃがみ込んだ。眉は八の字に、垂れた瞳は不安げに揺れている。
 なぜ自分がこのようなことをしなければならないのか。口にはしないものの、彼女の顔は明らかなる不満を表していた。

 ──バキンッ

 ふと、何かが割れるような音が聞こえた。かと思えば、二ルディーの頭上の壁に大きなガラス片が突き刺さっているではないか。

「……え」

 深緑色の瞳が揺れ、白い肌から徐々に血の気が引いていく。

 ──立っていたままだったら、確実に首が飛んでいた。

 それを悟り、彼女はあまりの恐怖にその場で膝を折りへたり込む。震える体は、間一髪免れた死に怯えていた。

「……一体何が──っ!?」

 オルラッドが剣を引き抜きジルの背後へ。目に見えぬ速度で飛んできた、小さなガラス片を弾き飛ばす。驚くジルを、ミーリャが引きずりカウンターの近くへ追いやった。
 未だ座り込んだままの彼をその背に庇うように立ち上がりながら、彼女は辺りを見回す。

「……いきなりなに?」

 そんな疑問の声と共に、ゆっくりと消えていく室内の電気。
 明るい店内から一転、いきなり不穏になったその空間で、聞こえるのは人数分の息遣い。ジルの獣耳が小さく動いた。その顔は噴水の方へ向けられている。

「オルラッド!」

 張り上げられた声に反応するように、オルラッドは懐から取り出した小型のナイフを勢いよく放つ。同時に駆け出す彼の瞳は、獲物を見つけた獣のように爛々と輝いている。

「チッ!!」

 聞こえた舌打ち。存外大きく響いたそれは、敵の居場所を正確に教えてくれた。
 弾き飛ばされたナイフを避け、オルラッドは剣を振るった。横一線に薙ぎ払われたその切っ先に、確かに何かを切ったような感触が走る。

 ──肉の感触ではない。布か。

「──左」

 驚異的な集中力で相手の位置を把握した彼は、ズレた軌道を修正するように片足を軸に体を反転させた。そこから再び剣を振るい、相手に攻撃を仕掛ける。
 一瞬の迷いもない斬撃。容赦なく見えぬ敵の体を傷つけたそれに、当然、傷つけられた本人は短い悲鳴を上げてその場から退く。

「なにこれぇ、聞いてないんですけどぉ!?」

 姿は見えないが声は聞こえる。
 これでもかと言うほどに不満を含んだその声は、幼い子供が駄々をこねるように文句を紡いだ。

「楽勝な仕事で報酬も弾む! だから引き受けてやったのに意味わかんないってーの! こんなの全然楽勝じゃないじゃんバカじゃんマヌケじゃん!」

 やれやれとため息を吐き出し、「おー、いててっ」と声は言った。耳に届く衣ズレの音を聞くに、恐らく傷つけられた箇所を摩っているのだろう。大したダメージは負っていないようだ。
 オルラッドは無言で床を蹴る。

「はぁ!? ちょっ、待てよバカ!!」

 そう言って待つ奴はいない。

 正確に振るわれる剣の切っ先。顔に似合わず好戦的なオルラッドに恐れ慄いたのか、敵は床を蹴り跳躍。そのまま店のショーウィンドウを破壊し、外へと逃走する。

「……オルラッド、追うのはやめておくのね」

「ああ、わかっている」

 手にした剣を振り、付着した血液を床に飛ばしながら、彼は言う。

「追いはしないさ」

 どうせ敵はまたやって来るのだから……。

「ちょちょちょっ!? な、何事なの!?」

 丁度その時、紙袋を腕に抱え、ベナンが戻ってきた。自分が不在の間にすっかりと荒れ果ててしまった店内を見て、彼女は驚愕の表情で混乱した声を荒らげる。そんなベナンに反応を示したのは二ルディーだ。
 二ルディーは腰が抜けたのか、床を這うように移動しながら、唖然とするベナンに近寄った。その姿は、どこぞのホラー映画に出てくる、髪の長い白服の女の姿に酷似している。正直とてつもなく恐ろしい。現にベナンは口元をひくつかせている。

「に、二ルディー!? どうしたのよ!? なんかこわいわよ!」

「こここ、腰が、た、立てなくて……っ」

「ああもうおバカ! ほら! しっかりして!」

 紙袋をカウンターの上へ置き、ベナンは座り込んだままの二ルディーへと片手を差し出した。

 ──あの紙袋の中には例の薬とやらが入っているのだろうか?

 ベナンの手を取り、怖かったとめそめそ嘆く二ルディーを見ながら、ジルはそんなことをぼんやりと考える。

 事が終了して数分。未だ立つことのできぬジルは、二ルディー同様、腰が抜けたらしかった。まあ、これでも数分前に死にかけた身なのだ。仕方のないことだと思う。
 己の傍らに膝をつき、心配そうに顔を覗き込んでくるミーリャに小さく笑っておく。それで安心させようと思ったが、残念ながらその作戦は失敗。ミーリャはさらに不安の色を強めてしまった。

 ──どうしたものか。

 考えるジル。しかし答えは見つからない。

「……それにしても、ジル。なぜあの攻撃がわかったんだい?」

 今回一番の功労者であろうオルラッドが、未だ警戒を解かぬまま、辺りに視線をやりながらジルに問うた。ジルはその問いに対し、少し悩んだ後に真実を告げる。

「……見たんだ」

 そう。見た。
 暗闇の中、二ルディーが絶命するその姿を、確かにこの目で見た。

 震える両手を握り合わせながら、ジルは顔を伏せた。その双眼は恐怖に震えている。

「どうして、とか、なんで、とかはわからない。ただ、あの人が死ぬその瞬間を、確かに俺は目にした。電気ついてたし、違うとことかも多少あったけど、でも、まさか本当に……」

 ダメだ。混乱してて何をどう説明したらいいのかわからない。

 徐々に焦り出すジルを落ちつかせるように、彼の小さな肩を叩くミーリャ。回数こそ多くはないものの、それでも十分な動作である。
 伏せていた顔を上げたジルを前、ミーリャは何かを考えるように己の顎へと片手を添える。一度、二度、呼吸を繰り返し、それから瞳を伏せた彼女は、己の中にある一つの推測を口にした。

「……ジル。お前、預言者なのかもしれないのね」

 ──……なんだって?

 いきなり何を言い出すのかと思えば……。
 眉を顰めるジルに、ミーリャは説明を続ける。

「預言ってよりは、予知夢に近いかもしれないわね。不特定のちょっとした未来を見る、それだけの能力なのよ。最近、よくそういったものを見る輩が増えていると聞くのね。お前もその輩の一人なのではないかしら?」

「よ、予知夢って……俺、別に寝てないけど?」

「寝てても起きてても見る時は見る。そういうものなのよ」

「さ、さいですか……」

 ──そんな能力今まで聞いたことありませんけど!

 心の中で叫んでおき、「へえ! 凄いじゃないか!」と自分のことのように喜んでいるオルラッドに苦笑を向ける。

 確かに凄い能力かもしれないが、あんなグロテスクなシーンを見せつけられるなんてもうごめんだ。そんな能力を貰うくらいならばオルラッドと対峙する方が幾分かマシである。

 …………。
 いや、全然マシじゃない。

 ジルは落胆した。

「予知夢は鍛えれば鍛えるほど使える能力になるのよ。弱いお前が強い敵に対峙しても、勝てる可能性すら出てくる。ミーリャはその力を鍛えることをオススメするのね」

「へー……それ習得したら、俺だってオルラッドに勝てると思う?」

 遠い目で問うてみる。

「……世の中には勝てない敵もいるのよ」

 笑顔で小首を傾げるオルラッドを見つめ、ミーリャもジルと同じく遠い目をしながら呟いた。



 ──さて、世間話はこれくらいにして、目的の市役所に行こうではないか。

 なんとか立ち上がれるようになったジルは、薬を飲んで回復した二人を背に、未だ震える二ルディーへと顔を向ける。彼女はベナンの背に隠れるようにしているものの、ジルの視線に応えるように顔をあげた。
 震える手が、そっと前方へ差し出され、軽くリップの塗られた艶やかな唇が開かれる。

「薬代、200ゼールです」

「ちゃっかり仕事してる!?」

 驚きだと叫びながら、ジルは代金を支払った。

 戦闘能力の高いオルラッド。やたらと世間体に詳しいミーリャ。使えぬジル。
 道中の話し合いの結果、役立たずなジルに任されたのは金銭の管理である。そのため買い物の支払いは全てジルが行うことになっていた。

 ちょっぴり軽くなった財布をブチブチと文句を垂れつつ仕舞うジルに、ベナンが言う。

「本当なら、二ルディーを助けてくれたお礼として無料でもいいんだけどね。さすがに、この店の状態じゃお金とらないわけにもいかないし……ごめん!」

 両手を合わせ謝る心優しき従業員。働いている者としては正しい行いだろうに、随分と優しい人だ。
 ぴょこぴょこと獣耳を動かし、ジルは笑う。

「いや、お金取るのは当たり前のことですから……それよりお店の方、早く直ると良いですね」

「いや、そこは別にいいんだけどね。働きたくないし、クソみたいな客の相手するのもめんどうだと思ってたとこだし」

「ダメな従業員だったか!」

 考えを改めたジルである。

 業務的な感謝の言葉を背に受けながら店の外に出た三名。咳き込まなくなった二人に若干感動しながら、ジルは無言で辺りを見回す。

 外の様子に、特に変化は見受けられなかった。あれだけ大きな音をたてたというのに誰一人として気にしていない。
 こんな時には必ず、邪魔だ、と思うくらい大勢の野次馬ができているというのに、定番であるそのプチイベントが起こらないとは一体何事か。
 挙動不審なジルの心情を悟ったのか、ミーリャが呆れたと言わんばかりの表情を浮かべた。 

「……言っとくけど、ここはこういう事件が頻繁に起こるからニュースとかにはならないのね。触らぬ神に祟りなし、とはよく言ったものなのよ」

「へぇー、よく起きるんだ……」

 市役所など投げ出して今すぐ首都を飛び出したくなったジルである。
 


「──諸君! よくぞ参った! 初めての者も、そうでない者も、ここでは皆平等である! しかし、だからといって礼儀を欠いてしまってはいけない! 求めるものを手に入れるためには正しい行いをするべきだ!」

 大きなドラゴンのような生き物が描かれた巨大な絵画。真っ白な壁に飾られたそれを背にそう語るのは、キリッとした紫紺の瞳を持つ女性だ。背はスラリと高く、胸元が大きく開いた、紫と黒のコントラストが美しいドレスに包まれた細い体は豪奢である。
 女性の薄い紫色の髪は高く結い上げられており、ゴムで止められたそこでくるりと丸く纏められていた。解けば腰程までの長さはありそうだ。

 片手にレイピアを持ち、それを掲げて叫ぶ女性に目を輝かせるジルの隣、ミーリャが音をたてながら紙パックに入ったリンゴジュースを啜る。 その目はとてつもなくつまらない、と言いたげだ。

「さあ諸君! 列になるのだ! そうして整理券を引きたまえ! その券に記された番号が諸君らの順番となる! 団体で来た者は代表者が引くがいい!」

 さすがは市役所。流れがまんま市役所だ。

「代表だって。整理券誰が引く?」

「ミーリャはお断りなのね」

 即座に拒絶したミーリャに唇を尖らせ、ジルは後方の壁に寄りかかるオルラッドを見やった。代表といえば最強のオルラッドが良いのではないか。そう思ったからの行動である。

 不可思議な模様の掘られた柱に腕を組んで寄りかかる、赤い髪の彼。その顔は、どことなく不満気で、かつ儚げだ。若干距離をとりつつも群れている女性たちが、声を潜めながらも赤い顔で騒いでいる。

 さすがはイケメン。
 こんな場所でもモテるのか。

 ジルとミーリャはほぼ同時にケッ、と吐き捨て、あれは使えないとジト目のまま顔を逸らした。

 団体は代表者が引く、ということで、整理券はジルが引いた。番号は666番。かなり不吉である。
 思わず引き直させてくれと従業員に泣きついたジルを、ミーリャが引きずり待合席まで運ぶ。暗く項垂れながらも椅子に腰掛け沈んでいる彼に、漸く近づいてきたオルラッドは苦笑を浮かべた。

「まあ、そう落ち込まなくとも大丈夫さ。そんな番号が出てくること、よくあることだしね」

「……黒い紙が出てくることがよくあるのか?」

「紙の補充サインかなにかさ。気にする事はない」

「しかも文字色は赤だし……」

「インクが切れかかっていたのかもしれないね」

「なんか血みたいに垂れてるし……」

「それは……うん、まあ、うん……」

 さすがにどう言えば慰めとなるか分からなくなったようだ。必死に思考を回すオルラッドを尻目、ミーリャが空になった紙パックを潰しながら口を開く。

「ところでオルラッド。お前、何かあったの?」

 突然の問いかけに一瞬驚いたように目を見開いてから、彼は静かに笑んでみせる。

「何もないさ。いきなりどうしたんだい?」

「少し様子がおかしいと思って聞いてみただけなのね。何もないならどうでもいいのよ。……それにしても、ここはいつ来ても変わらないのよ。相変わらず悪代表も不在みたいだし……」

 ──悪代表が不在?

 ジルは伏せていた顔をあげてミーリャを見る。

「え? なに? 悪代表が、ってことは、正義代表とかいちゃったりするの? やっべ、俺すごいサイン欲しいんだけど」

 悪を目指す奴が何を言う。
 自分自身で自分の言葉にツッコミを入れれば、同時にミーリャがバカを見るような目をジルへと向けた。突き刺さるそれになぜだか悲しくなってくる。

「お前、本当に無知というかバカというか……」

 額に手を当てやれやれと首を振り、ミーリャはため息を一つ。それからすぐに左手をあげ、その人差し指で前方を指し示した。

 ──見ろ、ということだろうか?

 ジルはミーリャの指を追うように、示される方向へと顔を向ける。

 そこには女性がいた。レイピアを床に刺し、堂々たる態度で佇む彼女は先程の偉そうな……ああ、いや、美しい風貌をもつあの女性である。威厳ある凛々しい姿で佇む姿はひどく勇ましく、まるで騎士のように見えなくもない。

 ──まさか……。

 何かを言いたげにミーリャを見るジル。
 ミーリャは無表情のまま、彼の考えに同意するように頷いた。

「あの女が正義代表、ベルディアーナ・フローネなのね」

 正義代表に、市役所で整理券配りの見張りなんてさせんなよ、とジルは思った。



「──666番の整理券をお持ちの方! いらっしゃいましたら3.21番窓口までお越しください!」

「なぜそこに点を挟んだ」

 不吉ともいえる番号が呼ばれ、ジルは席から立ち上がる。その際窓口番号に対し意見するも、誰も彼の話を聞きはしない。
 オルラッドが「俺はあっちにいるよ」とそそくさと立ち去るのを尻目、ジルは視線をミーリャへ。ミーリャは彼の視線に気づいたのか、黙って肩を竦めて窓口の方へ向かい歩き出す。

「……どうしたんだろ、オルラッド」

 呟きながら、ミーリャの後を追いかけた。

 3.21番窓口という看板が下げられたそこには、小さな扉が存在していた。その扉の右隣には3.22番、左隣には3.20番窓口の扉が存在している。大きさも形も色も、ジルの目の前にある扉となんら変わりはない。
 呆けながらも辺りを真剣に見やるジルを背に、ミーリャは目の前の扉を叩く。それからノブに手を当て、目の前の無機質なそれを押し開けた。ノックはするのに返事は待たないのか。疑問に思うも何も言わず、さっさと入室するミーリャに続くように、ジルも未知なる部屋の中へと足を踏み入れる。

 室内はなんら変哲のない部屋であった。こじんまりとした小さな個室だ。部屋のど真ん中には二つの黒いソファーと、それに挟まれるようにカップが置かれたテーブルが設置されている。カップの中身は淹れたてのようで、まだあたたかな湯気がゆっくりと天井へ向かい伸びていた。

「いらっしゃいませ、客人よ」

 テーブルに置かれたカップを一つ手に取りながらそう言ったのは、この部屋に最初から居座っていた者だ。
 性別は男。短い黒髪と赤い瞳が印象的な彼は、真っ黒な神父服に身を包んでいる。汚れるのが嫌なのか手には白手袋を着け、首からは金色の十字架を下げており、顔にはオシャレな片眼鏡が一つ。

 ──こいつ、絶対性格悪い奴だ。

 優雅にカップを傾ける男を前、ジルのゲーマーの勘が働いた。

「さあ、おかけくださいませ」

 男が言う。ジルはそんな男を警戒しつつ、勢いをつけてソファーに腰掛けた。その隣に、ゆっくりとした動作でミーリャが座る。

「今宵はどういったご要件でお越しに?」

「はい! 査定をしてもらいに来ました!」

「査定……それはつまり、悪か正義かの査定、ですかね?」

「はい!」

「そうですか。では、こちらの書類に記入を……む」

 男は一口啜ったカップの中身を凝視。少し考え、どこからか取り出した、小さな、白い長方形の袋をブチリと破る。そして、その中身をカップの中へと注ぎ入れはじめた。
 サラサラと、音もなく落ちて行く白い粒たち。それを警戒するように見るジルを前、これまたどこからか取り出した小さなスプーンでカップの中身をかき混ぜる男。彼が再びカップに口をつけた瞬間、ジルは軽く瞳を細める。

 ──これは、まさか……。

 ジルの片眉がピクリと動いた。

「……良い味だ」

「砂糖かよ!!」

 警戒して損をした。
 軽く浮いた腰を落ち着かせるように椅子に座り直す。

「砂糖は良い。甘く、甘く、甘い」

 甘いしか言ってませんが。
 ツッコミの言葉を口内でモゴモゴとさせるジルなど露知らず、男は一度手にしたカップを机上へ。それから傍らに置いていた真っ白な書類を一枚、ジルの目の前へと差し出した。

「どうぞ。肩書きをお求めであるならばこちらの書類の必須事項には必ずご記入をお願いします」

「あ、はい……」

 受け取った書類。中身に目をやる。

 真っ白な紙の上には、いくつかの円といくつかの細い線が描かれていた。円の中には短い文章で質問が書かれており、円の周りに存在する線にはyes、noの文字が確認できる。いずれも記入するような箇所は見受けられず、男の言う必須事項たる場所は見当たらない。というかそもそも……

「……これ、巷で良くある診断じゃね?」

 手の中に存在する、書類なるものを指差す。
 ミーリャがこくりと頷いたのを横目で確認した。

「……査定とは、その人にあったものを選ばなければいけません。その人の今までの生き様や夢見る未来。目指すものから、その人にあった肩書きを導き出す。それがその書類の役目です」

「……なるほど。つまり正義になる可能性もあるってことか」

 男からの淡々とした説明を受け、ジルは冷や汗をひとつ。悪にならねばならないのだと己に言い聞かせ、再び視線を書類へ向けた。そして、まず一つ目の質問へと目を向ける。

 ──Q、あなたは女ですか?

「見りゃわかんじゃん!」

「診断ですので」

 返す言葉もなかった。
 


 Q、あなたは人間ですか?

「ハーフってどっちだ? いや、ハーフだからnoか」

 Q、あなたはからあげが好きですか?

「なんか親しい間柄の奴にする質問みたいなのきたんだけど。からあげは好きだからyes」

 Q、あなたの就寝時間は夜の23時を過ぎますか?

「えー、微妙だなぁ。俺、夜更かし好きだしわりと過ぎることもあるから……yes?」

 Q、早く寝ろ。

「これもう質問じゃないよね!?」

 思わずと言った風に立ち上がったジル。その手は完全に己を舐め腐っている書類──という名の診断ゲームを、握り潰さんが如く震えている。

「なぜ俺はこんな紙切れ一枚に指図されねばならんのだ。しかも23時前には寝ろだと? ゲーマー舐めんじゃねえぞ!」

「ジル。診断如きでみっともないのよ」

 怒りに荒ぶるジルの隣、腕を組み、足を組み、やけに偉そうな態度でソファーに腰かけたまま、ミーリャは告げた。その瞳はやる気こそ感じられないものの、ひどく不愉快である、と言いたげだ。

 ジルは考える。
 確かに、よく考えればこんな診断如きに怒る必要などどこにもない。寧ろ皆無だ。所詮これは診断。そう、診断なのだ。紙の上に書かれただけのそれにどうして己が感情を左右されなければならない。意味がわからん。

 徐々に自分を取り戻してきたジルはソファーにかけ直し、額にかかる前髪を軽くかきあげる。そのまま「フッ、馬鹿なことをした」なんて馬鹿げたことを口にしながら、改めてといった風に手元の書類を見直した。

 Q、アホめ。

「ふっざけんじゃねえええ! 誰がアホだこんちくしょうがっ! しかもこれ質問じゃねえし! Qつけてりゃいいってもんじゃねーぞくそったれが!!」

 ジルは憤慨し、書類を机上へと叩きつけた。
 軽く悲鳴のような呻き声のような微妙な音が聴こえてきたがきっと気のせいだろう。気のせいに違いない。

「……書類に乱暴はおやめください」

 前方の席で、微動だにせずにカップを眺めていた男が、唐突にそう言った。

「書類は大切なものなのです。乱暴は困ります」

「あ、すみません、つい……じゃなくて! なんですかこのふざけた診断! 俺なんでこんな舐められてんの!?」

「書類には、人の心がわかるんですよ」

 なぜか儚げな笑みを浮かべて彼は言った。

 ──うわ、痛い人だ……。

 口に手を当て、若干身を引きながら心の中でジルは思う。
 失礼極まりないジルを前、男は叩きつけられた書類を回収した。見たところで意味など為さないと思うが、彼はその内容に目を通し、「ふむ……」と何かを考えるように己の顎へと片手を添える。何を考えることがあるのか。ジルには男の動作が理解できない。

「……そういえば客人よ。お名前は?」

 また突然な質問だ。名前くらい少し前に聞いておけば良いものを……。

「ジル。ジル・デラニアス」

 ちょっとだけ不満を表しながら、ハーフの少年はその名を告げた。忙しなく獣耳を動かす彼の名を聞き、男は再び何かを考え込む。ゆっくりと瞼を閉じ、動きを止める姿は正直言って不審だ。かなり近寄り難い。いろんな意味で。

 話が途切れたことにより手持ち無沙汰になったジルは、ソファーに座り直して机上のカップを手に取った。中を覗き込めば薄茶色の液体がジルの顔を写し出す。紅茶だろうか。先程より湯気が薄れたそれに口をつける。

「……して、デラニアス殿」

「はい?」

「お喜びを。査定が今しがた終了しました」

「お、あ……ほ、ほんとですか!?」

 カップを両手で持ちつつ、勢いよく立ち上がったジル。翡翠の瞳を見開き叫ぶ彼に、男は頷く。

「デラニアス殿。あなたに与えられる肩書きは──」



 ◇◇◇



「……とりあえず、第一関門突破ってとこだな」

 手にした査定結果の書類を眼下、ジルはポソリとそう言った。そんな彼の見下ろす紙切れの上には、『悪』の文字。赤い印でハンが押されたそれは、間違いなくジルに送られる肩書きである。

「しっかし、この俺が悪とはなぁ……こんなにいい子ちゃんなのに。悲し」

「どうでもいいからはやく行くのね」

 くあっと欠伸をこぼしたミーリャが、目尻に溜まった雫を拭いながら言った。ジルはそれに頷くと、「しかし変だったよなぁ」と一言零す。

「あの似非神父。なぁんかやな感じだわ。あれぜってー悪役だぜ、悪役……あれ?」

 窓口から待ち合い席のあるフロアまで戻れば、なにやら騒動が起きていた。巨大な波のような人集りが一つの輪となり、何かを囲んでいるようだ。まさかの野次馬イベントに、ジルの垂れていた獣耳が立ち上がる。

「何事?」

「さあ? 知らない」

 興味もないと言いたげに歩き出すミーリャ。その手を慌てて掴めば、彼女は桃色の髪を揺らしながら驚いたように振り返った。若干上擦った声が、小さな唇からつむぎ出される。

「な、なに?」

「え? なにって、この人混みだとはぐれるだろ?」

 比較的背の低いジルとミーリャ。この場で勝手な行動をとると、確かに、いつ人々の波に二人が流されてしまうかわかったもんじゃない。建物内なので見つからないことはないと思うが、それでも念には念を、というものだ。

「はぐれると面倒だしこの方が良いだろ。あ、もしかして俺と手を繋ぐの嫌だったり? つか汗ばんでない? 大丈夫? 汗ばんでたら申し訳ないからちょっと一回拭くわ。待って」

 そう言って宣言通りに己の衣服で両手を拭うジル。

「──ほら」

 念入りに拭った手のひらを上に向け、彼は小さく微笑んだ。悪意のないその笑みに、ミーリャの双眼が僅かに揺らぐ。

 弱いくせに、なぜこうも明るく笑えるのか。なぜあのように凄惨な現場を見たあとでも、わかりやすい程の元気を貼り付け振る舞えるのか……。

 恐る恐ると、差し出された手を握ってみた。男にしては小さく、ひどく頼りなく、しかしとてもあたたかい、そんな彼の手が、触れたミーリャの手をそっと掴む。

「さ、行こうぜ! オルラッドと合流しないと──」

 そう言って、歩き出そうと片足を前に出したジルを咎めるように、集団の中心部から怒鳴り声が聞こえてきた。この広い建物内全体に響き渡るような、大きく、野太い、男の怒鳴り声だ。やかましく、かつひどく不愉快なそれを聞き、ミーリャの整った眉間にシワが寄せられる。

 大きな声を拒絶するように垂れたジルの獣耳をチラリと確認してから、ミーリャは歩き出した。ジルが止める間もなく進む彼女は、繋いだ手だけは離さぬようにと、ほんの僅かに己が指に力を込める。きっと鈍感なジルには気付けぬほどの、不器用な彼女なりの、照れを隠した小さな気遣い。

 気づかないならそれでいい。

 ミーリャは人混みに堂々たる態度で突っ込みながら、頬を僅かに赤く染め、一瞬、ひどく楽しそうに笑みを作った。

「おいおいおい! 冗談じゃねえぞこのクソ女がッ!!」

 邪魔としか言えぬ程の人だかりを漸く抜け切り輪の中心へと顔をだせば、やけに筋肉質で野性的な服装をした男と、それに威厳ある表情のまま相対するベルディアーナ・フローネの姿が確認できた。男はベルディアーナの目前に真っ白な、一枚の紙切れを突き出している。あれは確か……。

「俺はなあ、俺にあった職を取りにココまで来たんだ! 他人を弄り、殺し、そうして生きていけるような職業を取りにな! なのに、なんだこれは!? この紙切れに記されたのは正義の文字しかねえじゃねえか!!」

 前方の男は叫び、さらに大きな声を張り上げた。

「何のための施設だ! ああ!? 自分の望むモノを得られない場所に、何の意味があるってんだよ! 金取り虫が威張ってんじゃねえぞこら!!」

「……煩わしいぞ、木偶め」

 ベルディアーナが言葉を発した。かと思えば、彼女は手にしていたレイピアを突如として振りかざす。そうして、いともあっさりと、己よりも大きな男を地に伏せさせた。あまりの早業に辺りは騒然。ざわつきは一瞬にして消え去る。

「その薄汚れた(まなこ)は飾りか? 見えぬわけではなかろう? ここには誰がいる? 逆にいないのは誰だ? 考えようと思えばいくらでも、なぜそうなったのか、その理由を考え、答えを導き出すことは可能であろう。そうではないか? ん?」

 レイピアの切っ先で伏せた男の顎を掬い、ベルディアーナは笑う。

「実に不快で見るに耐えない輩めが。そんなに底辺たる悪に染まりたいというのであれば不在者を探し、引き摺り、ここまで連れて来てみてはどうだ? できるだろう? 可能だろう? 出来もしないくせに、この私に、汚染された唾を飛ばしながら、聞くのも煩わしくなるような大声を荒らげたりはしないだろう? ……答えろ、木偶」

 女とは思えぬ程に鋭い眼光。その瞳に射すくめられた男は、顔から血の気を引かせ、這いずるようにその場を去る。まるで負け犬だ。ベルディアーナは汚物を見るような目で逃げる男を一瞥し、忌々しいと言いたげに舌を打ち鳴らし踵を返す。

「どうしてこうも、世は使えぬ奴らしか育まぬのだ」

 小さく吐き捨てられたそのセリフを、ジルはなんとも言えぬ顔で聞いていた。



 屋内は、水を打ったような静けさを暫くの間保っていた。束の間とも言える短い争いごとは、存外、観客となり得る者達をその場に縛り付けるには十分な力を発揮したようだ。
 この静けさを招いた張本人であるベルディアーナは、いつの間にやらこの場から姿を消していた。果たしてどこへ消えたのか。それは今のところ誰にもわからない事柄だろう。

 ようやく自分を取り戻し、わらわらと蜘蛛の子を散らすように動き出す野次馬たち。その中で未だ繋いだ手を離さぬまま、ジルとミーリャはどちらからともなく互いに顔を見合わせた。

 少しの沈黙。

 先に口を開いたのはジルだった。
 ジルは小首を傾げ、片眉を器用にさげながら己の中にある疑問を口にする。

「……なあ、今のってどういう意味?」

「今のって?」

「あの人が言ってた、『不在者』がうんたらってやつ」

 ああ、そんなことか、と言いたげなミーリャ。
 軽く細められた瞳は、頭の悪い世間知らずな馬鹿を見るようで、ジルはいたたまれずに視線をそらす。

「お前ってほんと……はぁ」

 何度呆れさせれば気が済むのだと、彼女は纏う雰囲気で物語っていた。それに気づいたらしい。ジルは若干ムッとするものの、すぐに数時間前の出来事を思い出す。
 あれは確か、整理番号を貰ってすぐのことだったか……。

「……あのさ、これは俺の思い違いかもしんないんだけどさ。もしかして、あの時に言ってた、あー……悪代表が、不在? っていうの? あれとなにか関係があったりする?」

「大ありだよ」

「いやぁあああ!?」

 女性顔負けの甲高い悲鳴をあげ、ジルは飛び退いた。凄まじい俊敏さだ。残像すら見えそうである。
 突如としてジルの背後に現れたオルラッドは、そんな彼の反応に驚いたようだ。紫紺の瞳を二、三回程瞬き、やがて己の顎へと片手を添えて何かを考える仕草をとる。

「……ジル。今の反射神経はなかなかのものだったと俺は思う」

「真剣な顔して変なこと言わないでくんない!? あとビビらせんなよ頼むから!!」

 俺の心臓は驚かされることに弱いんだ、と己の胸元を抑え少年は叫ぶ。そんな彼に、オルラッドは耐えきれなかった笑いを小さくこぼした。

「ふふっ、すまない。いやしかし、君は本当に面白いな、ジル」

「どうも。褒められた気が全くしませんけど……」

 それより説明してくれと、彼は頭上に存在する獣耳を動かしながら告げた。オルラッドはその言葉に、忘れかけていた事柄を思い出したように軽く目を開き、そして細める。
 短くもありきたりな動作。その動きにすらどこか憂いを感じるのはなぜなのか……。

「そうだったね。じゃあ、説明しよう」

 そう言って、赤髪の騎士は咳払いを一つ。

「この施設は元々、悪と正義のために作られた場所であり、彼らの頂点に立つ者は必ずここにいなければいけないんだ。それでこそ秩序が保たれるからね。しかし、悪代表は何を考えているのか突如としてこの施設から消え去った。何度も帰還を促しているものの、奴はそれを拒絶。一向に戻ってくる気配はない」

「だから正義代表のあの奥様はお怒りになっていた、と?」

「そういうこと」

 実にありきたりな話である。
 困ったものだと肩をすくめるオルラッドを前、ジルは少しばかり、普段は滅多に使うことのない思考を回した。

「……なあ、ミーリャ。オルラッド」

「なに?」

「なにかな?」

 二つの声が揃う。
 ジルは顔を上げて、やたらと輝いた瞳を彼らに向けながらこう言った。

「その悪代表とやら、探しに行かない?」
 


 ──悪代表を探しに行こう。

 気は確かかと疑いたくなるような提案を発したジルは、輝かんばかりの笑みをその顔に貼り付けたまま小刻みに体を震わせる。軽く曲がるどころか頭部に張り付くように垂れた獣耳は、彼の抱いているであろう恐怖を見る者にひしひしと感じさせた。
 しかし、残念なことに、今ここに彼を助けてくれる者はいない。約二名の人物はジルの目の前で彼を見下すように腕を組んでいるが、彼らの中に震える獣少年を助けるという選択はない。寧ろその逆だ。

 ジルは後悔した。つい先ほどの自分をぶち殺してやりたいと思うほどには。

「──ジル、浅はかな考えは愚かなのね」

 地を這うようなミーリャの声に、ジルは正座をしたまま背筋を伸ばす。その頬を流れる汗は多量だ。

「い、いや、しかしですね、俺はそもそも悪を目指しておりましてですね……」

「悪、だって……?」

「すみませんごめんなさい殺さないでください」

 射抜くようなオルラッドの鋭い視線に、耐え切れないとばかりに少年は土下座をかます。床に額をこすりつける勢いの彼に、オルラッドが額に片手を当て、軽く首を横に振った。

「ジル。君はわかっていない。悪の道がどれほど愚かしいものなのか」

「そうです俺は愚か者でございます」

「悪になったからといってどうするつもりなんだい? そもそもなぜ君のように純粋な子が悪などという薄汚れた立場を目指す? 俺には到底理解できない」

「それは……」

 思わず黙りこくったジルを、全てを知るミーリャは見つめる。どこか哀れみを含んだ眼差しをうかべる彼女に、オルラッドは不思議そうな顔に。「何か知っているのかい?」と問いかける。

「……ジルの住んでた村が襲われたのよ。そして、ジル以外の村人は残虐かつ冷酷に殺された」

「なんだって……」

「……真実を知りたければ悪の頂点になれ。敵はジルにそんな挑戦状をたたきつけ、ジルはその挑戦を受け取った。つまり、コレはコイツの復讐のための道なのね」

 紡いだミーリャに、オルラッドは拳を握る。「それは、許せないことだ……」。そう告げる彼に、下を向いていたジルはゆっくりと顔を上げた。透き通る翡翠の瞳に、迷いは無い。

「俺は真実を知りたい。村の奴らがどうして殺されたのか、母さんがどうして殺されたのか、どうして俺だけ生き残ったのか……知りたいから、悪になる。悪になって、頂点を目指す」

「……ジル」

「……つーか、オルラッドはなんでそんなに悪を毛嫌うんだ? いやまあ、別におかしいことはないけど、なんてーか、ちょっと異常でない?」

 今なら状況打破に持ち込めるかもしれないと、ジルはその顔をオルラッドへと向けた。純粋な色を宿す翡翠の瞳に己の姿を映し出しながら、赤毛のイケメンは少し沈黙。暫くして、何も言いたくないというように口を閉ざした。軽く伏せられた顔は、どことなく苦々し気だ。一体どうしたというのか……。

「……なあ、オルラッド」

「……聞かないでくれ」

 紡いだオルラッド。ジルは目を瞬いてから、これ以上踏み込んではいけないと小さく頷く。

「……バカらし」

 ミーリャは吐き捨て、頭をかいた。そして嘆息し、改めてとジルを見る。

「ジル。ミーリャはお前について行くと決めた。だからお前がどんな選択をしようとも共にいるのよ」

「ミーリャ……」

「……真実を知りたいというお前の気持ち、よくわかるもの」

「ミーリャは探究だからね」と微笑む彼女に、ジルも笑う。和やかな空気が流れたことにより、張り詰めていた空気が雪解けのように溶けていく。
 オルラッドは笑った。そして、「そういうことなら」と己の胸に手を当てる。

「俺も共に行こう。これもなにかの縁だからな。それに、旅は道連れという言葉もあることだしね」

「オルラッド……」

 ジルは感動よろしく翡翠の瞳を輝かせ、立ち上がり、そのままオルラッドとミーリャに飛びついた。驚くふたりに「ありがとう!」と零す彼は、晴れやかな程に笑顔である。

「俺、頑張る! 頑張って悪の頂点になる! だから二人とも、迷惑すげーかけると思うけどよろしくな!」

「はは、もちろん」

「迷惑は今更なのね」

 少し照れたように微笑むふたり。ジルははしゃぐように飛び跳ねながら、もう一度、「ありがとう」を口にした。
 


 赤毛の剣士が剣を構えていた。
 その顔つきはやけに憤っており、視線はどこかへと向けられている。ジルは彼の視線の先にあるものをなんとか見ようとする。しかし、なぜか視界が歪んで見ることが出来ない。
 一体どうしたというのか。自分自身がどうなっているのかすら分からない。

 ──そういえば、やけに地面が近いな。

 ふと思った少年は、己の状態を確認し始める。
 濃い、紫色の煙が噴き出す黒い地面。首都でもない、首都へと赴くまでに踏みしめてきたものでもない、見覚えのない地面だ。それが視界の隅に存在している。
 目の前にはジルの白い手。地面に沿うようにして、それはぽつんと置かれている。そう、文字通り置かれているのだ。

 恐らく、この景色から察するに、ジルはかなりの深手を負ってこの地面の上に倒れているのだろう。どうしてそうなっているのかまではさすがに分からない。
 不思議と痛みがないため冷静な自分。そんな自分が、なんとなく恐ろしいと思えた。

「早くしろ! さもなくばその首切り落とすぞッ!!」

「出来るもんならやってみるがいいさ」

 珍しく声を荒らげるオルラッドと、全く知らない、聞き覚えのない男の声。会話的にオルラッドと対峙している誰かなのだろうが、それにしてはやけに気怠げだ。あのオルラッドを前にしてこれ程までに緊張感がないとは、かなりの強者であることは確か。
 その姿、ぜひ拝んでみたい気がする。でもなんか死にそうだからやっぱり遠慮しておこう。
 現実を逃避する脳内で自己解決しておく。

「正義気取りの英雄如きがこの俺に勝てるとでも? 自意識過剰もここまでくると笑えてくる。だが残念なことに、いくら負け犬が声たかだかに吠えようともアレはもうだめだ。直に死ぬ。残念だったなあ? 英雄様は飼い犬一匹すら守れなかったってわけだ」

「黙れぇええええッ!!」

 鋭さを増した紫紺の瞳に、ありありと浮かぶ怒りの炎。駆け出したオルラッドを嘲笑するように、姿の見えぬそれは高らかに笑う。
 ああ、だめだ。これはだめだ。いけない。
 弱き者の直感が叫ぶ。

「──浅はかな野郎だ」

 直後、オルラッドの体が傾いた。その腹部には何か──視界の歪みにより形状は確認できないが──赤黒く長い、棒状のようなものが突き刺さっている。
 それは数を増し、顔をあげたオルラッドの細身の体を容赦なく貫いた。腕を、足を、胴を、何十もの不可思議な物体が、容赦の欠片もなく。

 悲鳴はあがらない。しかし表情は苦々しい。
 口端から鮮血を垂らし、だがそれでも目の前の敵を狩ろうと動く彼の腕が、剣を振り、己の体を貫く物体を切り捨て、前へ向かう。

「その執念だけは褒めてやるよ。けどな……」

 肉を引き裂く音が響き、オルラッドの体に突き刺さったままだった黒い何かが膨張。彼の背を突き破るようにして、蝶の羽のような形を為す。

「お前にゃ誰も救えねえよ、死人さん」

 剣士の手から、血濡れた剣が滑り落ちた。カランッと無機質な音をたてている。
 落下したそれに続くようにして、糸の切れた人形のように、彼もまた倒れ伏した。生を失った瞳が、ゆっくりと光を消していく。
 突然ともいえる死を与えられたオルラッドの名を、少年は無理矢理に喉を震わせ、力の限りに叫んだ。



 ◇◇◇


「──……だあ?」

 目を開き、開口一番に放った一言は、あまりにも幼稚で赤子の鳴き声にそっくりであった。

 寝相により乱れまくったベッドの上、ジルは大きく目を瞬く。目の前には昨日、寝る前に見た天井が存在していた。
 特に違和感のない天井だ。薄い緑色のその中央部には、円形の電気が一つ取り付けられている。明かりは灯っていない。そういえば寝る前に消したんだったと、徐々に覚醒してきた頭で思い出す。

 俺は今寝起き。つまり今のあれは、夢?

 例の『予知夢』とやらだろうかと、額に溢れる汗を片手で拭う。そのまま体を起こせば、室内に設置された残り二つのベッドに膨らみがあることに気づいた。

 ジルの眠る場所からさほど離れていない位置にあるベッドにはオルラッド。窓際のベッドにはミーリャの姿があった。未だ微かな寝息をたてながら、特にシーツを乱すこともなく、二人は静かに眠っている。静かすぎてちょっとこわい。

 ふと時計を見れば早朝の二時であることに気がついた。お子様も大人もまだ夢の中を走り回っている時間帯だ。
 そりゃ寝てるわなと息を吐き、ジルは二人を起こさぬようにベッドからおりる。そして出来るだけ音を消し、忍び足で部屋を出た。

 彼らが宿泊した場所。実はここ、『なんでも売買店』である。
 昨日、ホテルらしき場所を探し求めさまよい歩いていた彼らに、店の損傷が激しいために仕事を放棄したらしいベナンが声をかけたのだ。

 事情を説明したところ、彼女はなんだそんなことかと言いたげに笑みを作り、ならばここに泊まるといいと提案してくれた。
 店も壊れているし、二ルディーを助けてくれたお礼もまだしていないしで宿泊代はタダ。これはもうのるしかないと彼女の提案を飲んだわけである。

「……そうは言っても、別にここら辺は全然壊れてないんだよなあ」

 ベナン曰くこのビル自体全て『なんでも売買店』の所有物らしい。各階により売っているものはちがうようで、このホテル地味た所は比較的上の方。破壊されたのは一階のフロント部分であるため、ここら辺にはたいした損傷は見当たらない。

 本当にタダで良いのだろうか?
 ジルの中にある良心が不安がる。

「……あ」

「え? ……あ、二ルディーさん」

 悩ましげな顔で通路を歩いていたジルは、ふと目の前に現れた緑色の頭を凝視。それから相も変わらず不安気な瞳を揺らす彼女──二ルディーの顔を見る。

 仕事中のようだ。
 二ルディーの手には大量の、真っ白なシーツが抱えられていた。ホテルスタッフのようなことをしているというわけか。
 勝手に考え、勝手に納得。スーツ姿だし特に違和感はないと頷いた。

「……あの、雑魚のお客様。邪魔なんですけど」

「雑魚!? 雑魚って言った!?」

「あ、すみません。お客様が小さいのでつい……とにかく仕事の邪魔ですので退いていただけると助かります」

「あ、すみませ……チビじゃない!!」

 朝から何度ツッコミを連発させる気だ。これだからボケ担当は恐ろしい。
 よくわからないことを考えつつ、ジルは通路端に避けた。緑色の壁を背にし、二ルディーが進行できるように道を開く。

「どぞ」

「……」

 短く促す。しかし、どうしたことか二ルディーは動かない。どころかじっと、何かを待つようにジルを見つめているではないか。
 ジルより少し身長の高い二ルディー。自然と彼女から見下ろされる形となったジルは、向けられる深緑色の瞳を見返し、小首をかしげる。

「……あの、なにか?」

「……じぃー」

 なんてこった。効果音をつけてきたぞ。
 ジルは彼女の早く察せと言いたげな視線を受けながら、両手で頭を抱えて思考を回す。そうして何かを閃いたように、右手の人差し指を彼女へと向けた。即座に「指をささないでください」と言われるが、それはスルーして閃いた事柄を口にする。

「手伝ってほしい感じ?」

「手伝っていただけるのですか? お客様にそのようなことをさせるわけには参りませんが……ああ、しかし、お客様がどうしてもというのであれば痛いけでか弱い私には拒否することなどできません。ごめんなさいベナン。私はどこまでも臆病で……指をささないでください」

 最後にちゃっかりジルの行動に対しての小さな怒りを紡ぎ、彼女はやや無理矢理、腕に抱えていた大量のシーツをジルへと押し付けた。なんとか耐えてそれらを持つ幼子の足はプルプルと情けなく震えている。

「落としたら怒ります。ベナンが」

 自分は怒らないのかよ。
 何食わぬ顔で歩き出す二ルディーの背中を視線で追いかけながら心の中でつっこむ。

「き、筋力つけよ……」

 さすがに女性に負けては御笑い種だ。
 さっさと前を行く二ルディーの後を、ジルは必死の思いで追いかけた。



「左の電球が切れていたんでした。え? 取り替えてくださるんですか? まあ、なんて善人ぶったお客様でしょう」

「お掃除はこの建物全体を磨き上げる勢いでやらなければならないんです。まあ! これもやってくださるのですか! お客様はまさに神様ですね!」

「洗濯物はキチンと分別をしなくてはなりません。白いものとそうでないものと薄汚れたものと……どこへ行く気ですか?」

「ゴミ出しって大変ですよね。か弱い乙女には地獄のような労働です。あらお客様、自ら持ってくださるなんてとても心優しいのですね。私は今感動しております」

「自ら持ってねえしいい加減解放してくれこの鬼畜女ぁあああ!!」

 不燃物、と書かれた巨大なゴミ袋を腕に抱え、ジルは腹の底からそう叫んだ。

 結局、シーツ運びから始まり電球の取り替え、店内の清掃、洗濯、ゴミ出しまで全ての業務を押し付けられたジル。文句を言いながらもやり通すところがなんとも言えず彼らしいが、まず彼が客の立場であることを忘れてはいけない。
 えっちらおっちらと己の目の前を必死で歩いて行くジルを視線で追いかけながら、二ルディーは手にしたメモ帳を確認。やるべき仕事が記されたそれに、赤ペンで一つ一つチェックをいれながら、彼女は告げる。

「お客様。それが終わったらお皿洗いもお願いします」

「客って言ってるくせに客の扱いじゃねえよなこれ!!」

 しかし動かす体は止めない。さすがはジルだ。オルラッドがこの場にいたなら笑顔で彼の行いを褒めたたえていたことだろう。解せん。

 ゴミ置き場と指定された箇所に不燃物の袋を放り、一仕事を終えたと言いたげに額を拭うジル。次は皿洗いかとげんなりしつつ踵を返した彼は、ふとその足を止めて背後を振り返った。

 その行動に意味などなかった。

 音が聞こえたとか、気配を感じたとかではない。ただなんとなく、本当になんとなく振り返ってみただけだ。しかし、そのなんとなくが幸をなしたらしい。

 まだ人の少ない、薄暗い通り。その向こうから高速でこちらに向かってくる何かを目視したジルは、ほぼ条件反射にその場を飛び退いた。それと同時に彼が先程まで立っていた場所に突き刺さったのは、見覚えのあるガラス片。
 先日襲われた時に見たものと酷似しているそれを見下ろし、ジルは全神経を集中させながら辺りを確認。額に浮かんだ汗が頬を流れると同時、第二弾の攻撃が彼の視界に飛び込んできた。

「くっそ!」

 次々と襲いくるガラス片を交わしながら、思考を回す。
 相変わらず敵の姿は見えず、探すにしてもこう攻撃を続けられたのでは見つかるものも見つからない。ここはオルラッドとミーリャを起こすのが最善だろう。

 しかし、確かこの建物には全体的に防音加工が施されていると、昨日ベナンから説明された気がする。だとしたらここから叫んでもなんの意味もない。寧ろ叫び損だ。となると、方法は一つ。直接呼びに行くしかない。
 結論を出したジルは己の背後を振り返った。

「二ルディーさん! オルラッドとミーリャをおこ……って、いないだとぉおおお!!?」

 忽然と消えた二ルディーの姿にジルは驚愕する。

 まさか、俺を放って逃げたのかあの野郎。なんて女だ。これからは緑の悪魔と呼んでやる。心の中で。

 ひくりと口元を引き攣らせる彼のすぐ側で、人を嘲笑うような、実に不愉快な笑い声があがる。

「なになにぃ? お前、もしかして見捨てられちゃった感じぃ? うっわ、かわいそー。おねーさんが慰めてあげよーかぁ?」

 ぷ、なんて吹き出されるものだから、状況が状況とはいえ腹が立つというものだ。振り返ったジルの視界の中で、かなり際どい服装の女が腹を抱えてケラケラ笑う。

 身長は百六十センチ程。見た目的に二十代半ばくらいの女だ。サイドテールにされた金髪が緩やかに揺れており、茶の瞳は警戒するジルを見下ろし醜く歪む。

「持つべき者は友だちとはよく言ったものだよ全く。全然役立たずじゃないか。お前も哀れだよねぇ。もうちょっと人見る目育てた方がいーんでない?」

 なんて言いながら、女は片手を前へ。構えるジルなど眼中にないと言いたげに、その掌から赤子の拳と同じ大きさのガラス片を発生させ、彼を攻撃。ギリギリ避けたものの、少年の頬には赤い筋が一つ走る。

「昨日はしてやられたが今日はそうもいかないんでね。まずは耳の良い君を殺させてもらうよ。目標(ターゲット)はその次でもいいや。期限なんて定められてないしね」

「……目標(ターゲット)?」

「そこは企業秘密ってことでヨロシク」

 無邪気にウインクをして見せた女。その周りに巨大なガラスが形成されていくのを、ジルは焦ったように見つめる。

「じゃ、死ね」

 歪んだ笑みと共に残酷に告げられた一言。向かってくる巨大ガラスを避けることだけを、ジルはどこか、諦めすら浮かぶ脳内の片隅で考える。

 だが、そんな思考も──。

「やめときなさい」

 殺伐としたこの空気の中、凛と響いた一つの声により、停止することとなった。

 まさかの登場人物に、場は一瞬固まった。
 向けられる驚きの視線すら気にすることなく、この混乱に満ち溢れた空気の中、彼女──ベナンは腕を組み、仁王立ちの状態でジルと敵を見比べている。
 その背後には隠れるように身をかがめる二ルディーの姿があった。察するところに、彼女がベナンを呼びに行ってくれたのだろう。疑って悪かった。しかしこの状況が好転するとは到底思えない。

 女の意識が戻る前に、ジルはそろそろと退却。バレないようにベナンと二ルディーの元まで後退した。

「大丈夫?」

「あ、大丈夫です、はい……あの、それよりこの状況……」

「任せて。問題ないから。二ルディー、その子のほっぺた治してあげてて。敵は私が片付けるわ」

 まあ、なんて勇ましい。
 未知の能力を使う敵にすら臆することなくベナンは言う。その姿はまさに正義のヒーロー。悪を目標とするジルですらちょっぴり憧れを抱いてしまう。

 二ルディーはベナンの指示に頷くと、ジルの襟首を引っ掴みさらに後方へと移動。そこで地に膝をつき、片手を咳き込むジルの頬へとかざす。

「ゴッホゲッフ! え? なに? なに?」

「動かないでください雑魚さん。治療できません」

「あ、はい、すみませ、雑魚じゃない!」

「動かないでください」

 ジル相手だとどうも強気になるらしい。二ルディーの鋭い睨みを受け、少年は獣耳をそっと垂れる。
 逆らわない方が身のためだ。彼の長年の経験がそう言った。

 一方、そんな二人を背にするベナンは、漸く意識を現実へと引き戻した女を前、喧嘩前によく見る骨鳴らしを行う。まさか拳で戦うというのか。
 特に恐れる様子のないベナンを睨みつけ、女はどこからか取り出した真っ白な絹のマントをその身にまとった。と同時に、彼女の姿は見えなくなる。

「ええ!? どこの額に傷のある魔法使い!!?」

「ダンジョンアイテムね。透明になるやつなんて初めて見たわ」

「ダンジョンにそんなもんあんの!!?」

 この世はまだまだ知らないことばかりだ。
 敵の姿が消失し焦るジルとは裏腹に、ベナンは余裕綽々といった様子で己の腰に手を当てる。

「ちょっとは楽しめそうじゃない。二ルディー、アレちょうだい」

「はい、ベナン」

 応答の声と共に投げ渡された『アレ』なるもの。よくよく見れば、それは真っ黒な棒切れではないか。さすがにシンプルすぎるためか、申し訳程度に銀色の装飾が施されている。洗濯物を干す竿くらいの長さはあるだろうか。かなり長めだ。
 まさかの武器に唖然とするジルをよそ、ベナンは振り返ることもせずに受け取ったその武器を構える。

 スーツ姿の女がなんに使用するかもわからぬ棒を構えているとはこれはまた……。

 なんだかミスマッチ感が半端ないながこれはこれでいけるかもしれない。既に考えることを放棄したジルは、どこか遠い目で戦いの行く末を見守る。

 先に動いたのはベナンだった。
 彼女は慎重に辺りを見回していたかと思うと、突如として駆け出したのだ。その視線の先には何も無い。だが恐らく、敵がいる。
 確証はないが直感がそう言った。

「はっ!」

 短い声と共に突き出すように振るわれる棒。かと思えば、突き出したその部分を突如として地面に突き刺し、ベナンは軽やかにジャンプする。そのまま勢いをつけて棒を軸に回転。硬い何かがぶつかる音と共に軽く足を曲げながら、彼女は笑みを浮かべて棒のてっぺんへと着地した。
 一体どうやって立っているのか。それはもはやジルには理解できない領域である。

 敵がベナンの攻撃を食らったのか、地面の一部が音をたてて砂埃をあげた。それは凄まじい勢いで移動したかと思えば、建設途中と書かれた古びた看板の前で停止。しかし看板は音を立てて倒れてしまう。

 二ルディーが感激したように両手を合わせ、さらに瞳を輝かせた。治療はいつの間にやら終了したようで、ジルは呆気にとられながらも己の頬へと片手を当てる。

 痛みはない。血もつかない。
 これは完全に完治してるやつだ……。

 呆けるジルなど露知らず、二ルディーは無邪気にはしゃいで見せる。

「さすがですベナン! 相も変わらず素晴らしくカッコイイです! 輝いています! ああベナン! 私のベナン!」

「はいはい、わかったわかった。わかったから大人しくしてて」

 片手をあげて応対するベナン。その背中は確かにかっこいい。

「まだ終わってないんだから」

 棒の上から飛び降りた彼女は、片足でその先を蹴り、長いそれを空中で回転させた。かと思えば回る軌道に合わせて棒の笹部分に片手を添え、その動きを強制停止させる。つまりは掴んだわけなのだが。
 素晴らしい動きに、二ルディーとジルの目が感動に輝く。あまりにも純粋な眼差しのためか、さすがのベナンも少々照れくさそうだ。軽く頬をかき、それから飛んできたガラス片を一つ残らずたたき落とす。

「昨日といい、今日といい……ほんっと、わりに合わないってのこの仕事ッ!!」

 地団駄を踏む勢いで叫んだ敵は、今の衝撃で外れてしまったマントを着直すことなくそのまま跳躍。両手を合わせ、空中で大きく息を吸う。

「ベルディーダ!!」

 叫ぶ彼女の声に呼応するように、上空にいくつもの巨大ガラスが出現。バラバラの位置にあるその中の一つに着地した女は、腰に手を当て、忌々しいといいたげな表情を浮かべながらベナンを指さす。

「まずはお前を殺してやるよ! 覚悟しなクソビッチが!!」

 それは見た目的にお前だろ、と二ルディーが呟いたのでジルは同意するように頷いておいた。

「ベルシャ・ベイン!!」

 どこぞの錬金術師の如く小気味よい音をたてながら再び合わせられた女の両手。叫ぶ彼女の声に従っているのか、空中にあるガラスたちが一斉にその尖端をこちらへと向けた。

「二ルディー!」

「はい、ベナン」

 焦るハーフ少年など眼中にもない。
 勇敢なる女性二人は恐怖という言葉を知らないのか、果敢にも前へ。ベナンが地面を蹴り跳躍し、二ルディーが両手を広げ小さな声で何かを紡ぐ。

「イルディーナ」

 柔らかな声と共にふわりとした風が吹き、それは優しく少年の頬を撫でた。
 二ルディーとジルを中心とした半径2メートル前後の地点。地中から生えるように出現した薄い膜が、二人を覆うようにドーム状になる。

 これはもしや、結界……?

 ゲーマー少年は過去何度か見てきた様々な種類のアニメーションを思いだす。その中のいくつかのアニメーションには、確かこのような形の結界地味たものが現れたはずだ。だとしたらこれは、この危険な場所に残る二人を守るためのものなのだろう。

「これは勝つる!」

 少年が勢いよく拳を握った直後、二ルディーが突如反転。そのまま己の方に向かい駆けてくる彼女に、ジルは目を丸くする。

「雑魚よ。逃走しなさい。今すぐに」

「え? は?」

「死にたくないなら早くする」

「死にたくないんで従います!!」

 立ち上がったジルは真横を過ぎって行った二ルディーの後を急ぎ追う。その背後では凄まじい音と砂埃をあげながら巨大ガラスが硬い地面に突き刺さっていた。

「おいおいおい!? あれ結界じゃなかった系!?」

「結界を張ろうとしたんですがうっかり呪文を間違えてしまい『鼻の奥をスッキリさせる魔法』を発動してしまいました。テヘペロ」

「なにその魔法!? なんか期待裏切られた気分なんですけど!? つーか確かに鼻の奥スッキリしてる!!」

 例えるならば妙に強いハーブ系ののど飴を舐めた時のような感じ。いや、それ以上のスッキリ感はあるかもしれない。
 なんとか逃げ切り建物の入口までやって来た二人は、上空に浮かぶ巨大ガラスの上にて対峙する、もはや人間の領域を超越しだした女性二人の戦いへと目を向けた。

「はあっ!」

 相も変わらず気合いの入った掛け声と共に跳躍するベナン。そんなベナンに舌を打ち相対する女は、軽やかな動作で彼女の繰り出す攻撃を避けていく。見た感じは両者互角といったところか。
 持節飛んでくるガラス片を気にした様子も見せず破壊するベナンを見て、いややっぱり彼女の方が少し上かもしれないとジルは思う。

「見た目に反してすばしっこいの、ねっ!」

「っ!? しまっ!!」

 新たなガラスの上に飛び移る際に軽く滑ってしまったらしい。逃げ遅れたらしく、女の腹部には棒の先がめり込んでいる。これは勝負あったな。
 衝撃により吹き飛び、自分で作り出したガラスを何枚かその体でぶち抜いた後に地面に落下していく哀れなる敵。落ちた場所はここからそう遠くないビルのようだ。降りてきたベナンが言っているので間違いはないだろう。

「このままだとまた襲われる可能性あるわよね。……よし。私ちょっと始末してくるから二人は留守番よろしく。あ、二ルディー! 仕事押し付けちゃダメよ!」

 始末とかなにそれ怖い。
 片手をあげて笑顔で駆けて行くベナンの背を見送りつつ、ジルはそっと息を吐き出す。

 まあ、恐らく、この分なら問題ないだろう。ベナンはあの敵よりも強いし。でも、なーんか死亡フラグ臭い気もするんだよなぁ……。

 ヒョコヒョコと獣耳を動かす少年は、考え込むように腕を組んで瞳を閉じる。次にそれを開いた時、彼の視界には見覚えのない場所が映し出されていた。
 


 そこは緑生い茂る、自然豊かな小さな箱庭。レンガをはめ込み作られた、ゆるやかに流れる小川のように滑らかに曲がりくねった道をスキップ混じりに進みながら、少女は隣を歩く男性を見上げ、無邪気に笑う。
 男性の顔は見えない。モヤがかかったように彼の顔は隠れている。いつものことだ。少女の世界にはいつもこうやって、見たいものを見せないように邪魔をする何かがいる。付きまとっている。

「あのね、私ね、おっきくなったらすっごく強くなるんだ! そしたらね、このお病気ともお別れするの!」

 少女のこれはどうやら病気らしい。親に連れられ向かった病院にて、彼女はそう診断を受けたのだ。
 実に特殊で奇異なる病気。世はこれを、奇病と呼んでいる。

「うん、そうだね」

「お医者さまがね、言ってたの! 私が強くなれば自然と体も強くなる! そしたらお病気吹っ飛ぶんだって! 珍しいお病気でも関係ないんだって!」

「うん、そうだね」

 無邪気に語る少女に返事を返しながら、男は歩く。歩き続ける。ただひたすらに。
 そんな彼の隣を、少女は置いていかれまいと必死について行く。短い足を懸命に動かして。

「あのね、お病気が消えたらね、私、まずパパたちのお顔見るんだ! パパたちにかかるこのモヤが取れたらね、絶対見るの! それでね、お礼を言うんだ!」

「……お礼?」

「そう! あのね──」

 少女が何かを言いかけたと同時、世界は変わる。

 変化したそこは既に美しい箱庭ではなかった。自然もなく、レンガの道もない、薄暗く、どこか物悲しい部屋。電球は取り外されているのか、部屋の天井にある電気は一切の明かりも灯さない。
 そんな電気のかわりに、この部屋を照らしているのは薄型テレビから漏れる明かりであった。漫才番組が放送されているらしく、画面内ではスーツを着た狼頭の獣族が二人並んでコントを繰り広げている。

 面白いのかちょっとよくわからないコントを視界、成長し、大人の風貌になりつつある少女が、ソファーに座って膝を抱えていた。視線は真っ直ぐにテレビ画面を見てはいるが、しかしその瞳は酷く暗く、感情が見えない。

「……見えるの、私」

 ぽつりと零されたのは、己の病が消え去ったという事実を教えてくれる言葉。

「お医者さまがね、褒めてくれたの。よくがんばったねって。初めて見たあの人の顔は優しかった。けど、その周りに浮かんだ言葉は優しくなかった」

 なんのことを言っているのか、それは恐らく少女にしかわからぬ事柄だろう。
 少女はたてた膝に顔を埋める。そのまま眠るように瞳を閉じた。

「見えるのよ、私。見えるの……」

 そんな少女を見下ろすように、明るい光を放つテレビの隣で、首をつった二つの死体が揺れていた。


 ◇◇◇


「──死亡フラグぅうううう!!」

 ハッと覚醒した直後、ジルは頭を抱えてそう叫んだ。かと思えば全力疾走で『なんでも売買店』の中へ。置いてけぼりを食らった二ルディーが「は?」と口にしたことにすら気づいていない。

 今し方見た光景は恐らく、少女の容姿から察するにベナンに関係していることは間違いない。彼女の幼い頃の話、といったところか。
 エレベーターのボタンを連打し、全然降りてくる気配のないそれに舌を打ってから階段の方へ。持ち前の素早さを生かし、長いそれを駆け上がるジル。

「過去話とかまじ死亡フラグだから! 勘弁してくれよほんと!!」

 さすがに優しくしてくれた女性を見殺しにするわけにはいかない。いやまだ死ぬと決まったわけではないが。

 宿泊していた部屋が存在する階までやって来たジルは、そのまま速度を保ち与えられた部屋へ。飛び込んだそこで、音に驚き跳ね起きたミーリャから渾身の一撃(物理)を食らう。
 しかしめげないジル。彼は若干フラフラになりながらも、ちょっと引き気味のミーリャへと詰め寄った。

「き、聞いてくれ、ミーリャっ! 敵が襲ってきてベナンがぶっ飛ばしてぶっ飛ばされたそいつをベナンが笑顔で追いかけて死亡フラグたてて死にそうであと二ルディーの策略により俺の鼻の奥が超スッキリしてて大変なんだ!!」

「……わけがわからないのね」

「とりあえず大変なんだって!!」

 慌てていたため余計なことまで口走ってしまったのでとりあえず簡易的に説明しなおす。
 ミーリャは納得しているのかしていないのかよくわからぬ表情で頷いた。

「早く助けに行かないと死亡フラグ回収してベナンさん死んじゃうから! まだそうだと決まったわけじゃないけどでも多分高確率でやばいから! 語彙力の欠如によりうまく伝えらんないけどとにかく力貸してくれお願いしますミーリャ様!」

「……ミーリャは別に構わないのね。でも、そういうことだったらミーリャより適任の奴がいると思うのよ」

「オルラッドぉおおおお!!」

 床を蹴り跳躍。そのまま未だ夢の中のオルラッドの上へと着地した彼は、聞こえた呻き声など気にすることなく彼の胸ぐらを掴み激しく揺する。

「頼むオルラッドお前の力が必要だ手を貸してくれお願いしますっ!!」

「ジル、落ち着きなさい。オルラッドが死ぬのよ」

「へ? あ、ちょっ、オルラッドぉおおおお!!?」

 胸ぐらを掴まれたまま目を回す彼を前にし、焦るジルの背後。ミーリャは先が思いやられると言いたげに額に手を当て、ゆるく首を振っていた。


 ◇◇◇


 オルラッドの回復までには五分程の時間を有した。どうやら彼は朝──というよりは寝起きが非常に弱いらしい。未だ完全に目覚めていない状態でジルの話を聞いている。

 一番頼りになる奴が一番助けて欲しい時に一番頼りない。

 本当に大丈夫だろうかと内心彼を疑い、そして彼の意外な弱点にシメシメと思いつつ、ジルはニヤニヤとしながら彼の長い髪を結い上げているミーリャに視線を向けた。

「ミーリャ、それ絶対怒られる」

 艶のある赤毛を両サイド──所謂ツインテール状態にしようとしたミーリャに一応の忠告をしておく。ミーリャは「ちぇっ」と不満そうにするも、すぐに気持ちを切り替えたらしい。彼の髪をサイドテールにしようと奮闘し出す。

 まあそれならいっか。
 ジルはオルラッドを見捨てた。

「──とにかく、そんなわけだから急いでついて来てほしいんだ。二ルディーに聞けば多分場所わかるだろうし、わからなければ俺がどうにかこうにかそこを特定してだな……って、聞いてる?」

「うん、あー……うん」

「ダメだこりゃ……」

 少年はガックリと肩を落とした。



 眠りの波に乗り船を漕ぐオルラッド。その腕をジルとミーリャで片方ずつ掴んで引っ張れば、彼は逆らうことなく足を動かす。現時点での最強人物大丈夫かおい。歩く度に揺れ動くサイドテールを見詰めながら、ジルは不安を増させていく。

 エレベーターを使用して降りた一階。そこには外から建物の中へと戻ったらしい二ルディーがおり、彼女は欠伸をこぼしつつ受付に立っている。相変わらずのやる気のなさに笑うことしか出来ない。が、今はそんな状況ではない。
 ジルはオルラッドを待たせ、受付の方へ。カウンター越しに二ルディーを見上げる。

「二ルディーさん! ベナンさんが大変なんだ! 確証はないけど! 急いできてくれ!」

「ベナンが? まさか……」

「死亡フラグがビンビンなんだって語彙力ちょっと!」

「死亡フラグ……」

 二ルディーは考え込む。軽く下げられた眉尻は明らかなる不安を表していた。彼女もベナンが心配なのだろう。答えはすぐに弾き出される。

「……わかりました。理由はどうであれ、例え確証がなくともベナンのことは心配です。雑魚について行ってさしあげましょう」

「すっごい上から目線だけどまあいいや! ベナンさんの行先わかります!?」

「もちろんです。年がら年中休むことなく彼女の後を追いかけてきた二ルディーに死角はありません」

 実は二ルディーを連れて行くのが一番危険だったりして……。

 悩むジルなどガン無視対象。二ルディーは気にした風もなく店内の電源を操作し出入口を開かないように設定。一応の防犯だけをして従業員専用出入口まで三人を案内する。

「本来ならば従業員──つまり私とベナンくらいしかここを使えないのですが致し方ありません。ああ、お許しを、ベナン……」

「待って。ここの従業員二人だけ?」

 なんてブラックな場所なんだ。個人経営にしてももう少しくらい人を雇ってはどうだろう。さすがに二人だけではこのどでかいビルをどうこうするのは厳しいだろう。

「なんで雇わないんです?」

「ベナンと私の二人きりの時間をクソッタレな第三者に邪魔されるわけにはいかないので」

「早くベナンさんの所に向かおうか!」

 聞いてはいけない事柄だったと少年は理解した。

 建物を後にし向かったのは高層ビルの建ち並ぶ街中だ。まだ朝早いためか、車通りの少ない道路を過ぎったり、路地の壁を這い上がったりして時間削減したお陰か十分足らずで目的地に到着。
 そこは窓ガラスなどが取り外された、今にも壊れそうな程におんぼろの廃ビルだ。耳をすませば中から微かに金属音が聞こえてくる。どうやらここで間違いないらしい。

 危険を察知しオルラッドの背後に隠れる二ルディーとジルを冷めた目で見つつ、ミーリャが先頭を歩く。
 特に難もなく入り込んだ屋内は、ひどくカビ臭く、獣族の血が流れるジルにとってはかなり辛い場所であった。思わず鼻を抑える彼を尻目、まだどこかボンヤリとしているオルラッドが静かな動作で上を向く。

「……五階かなぁ」

 やはりこ奴はすごい。

 彼の寝ぼけた呟きに従い、四人は薄汚れた階段を駆け上がる。
 階を増していく度に、耳に届く音は大きくなっていった。そして例の五階までたどり着いた瞬間

「はぁあああっ!!」

 大きく手にした武器を振るったベナンの姿が、彼らの視界に写り込んだ。その先では手を合わせて佇む女の姿がある。

「っ!? ベナン!! 避けて!!」

 何かに気づいたようだ。オルラッドの背後から飛び出した二ルディーがそう叫ぶ。しかし、その声がベナンに届くより、女が行動に出る方が早かった。

「──死に腐れクソビッチ」

 歪に弧を描いた口元。白い歯を覗かせながら、女はその呪文を紡ぎだす。

「ベル・ベルダ」

 直後、耳を覆いたくなるような甲高い音と共に、辺りは眩い光に包まれた。
 


 それは、なんと表現するのが正しいのか……。

 空中から飛び出た透き通る透明ガラスの欠片。それらが幾多も連なり、まるで鎖のような形となっていた。長く、細いそれらは彼女の豪奢な体を貫き、真っ赤な液体をその身に受けて尚輝いている。
 囚われ人。操り人形。その姿を表す言葉が、自然と頭の中に浮かんでくる。それはきっと、現実を逃避しようとしているからなのだろう。

「べっ……」

 誰も動けず、誰も口を開けない中、二ルディーが震える足を一歩前に踏み出した。伸ばされた白い手が、離れた位置にいる彼女を掴もうと虚しく動く。

「ベナン……?」

 小さく発されたそれは、疑問を含んでいた。目の前に突きつけられた現実を理解できない、したくないというように。

「──下がれ!!」

 突如として張り上げられた声に、ジルはハッとした。直後、彼の方へと二ルディーを放ったオルラッドが、剣を引き抜き輝く刀身で風をなぐ。舞い散るガラスの欠片たちが、美しくも残酷に輝いた。

 駆け出した赤髪の剣士にかわるように、ミーリャがその背をジルと二ルディーに向け前を見据えた。片手をあげた彼女の体の周辺には、先日盗賊たちとの騒動の際に目にした不可思議な文字が纒わり付いている。

「ボル・オーラ!」

 紡がれた呪文と共に、彼女の周りを彷徨いていた文字が空中へ拡散。グルリと巨大な輪を作り、その中へ、殺意を抱き飛んでくるガラスたちを吸収していく。

「べ、ベナン、ベナンが、う、うそ、ベナンがっ……」

 震える二ルディーを一度見て、ジルは貫かれ、沈黙したベナンへと顔を向ける。目は開いておらず、出血は酷い。生きているのかもはや定かではないが、しかし……。

「……死んでいるとも限らない」

 嘆く二ルディーの肩から、彼女を支えるように添えていた手を離し立ち上がるジル。ミーリャが彼を見れば、それに気づいたジルが小さく頷く。
 それだけで少年の意図を汲み取ったようだ。ミーリャはいつものように、呆れたと言わんばかりに息を吐く。

「あのガラスの鎖は特殊な術で作られているのね。恐らく強度は他のチンケな物とは比べ物にならない。ミーリャの呪術ならなんとかできるかもだけど、ミーリャはこのやかましい女とお前を守るので精一杯なのよ」

「つまりオルラッド頼りってことね。あんがとミーリャ。サイドテールにしたことは一緒に怒られてやるよ!」

 親指をたて無邪気な笑みを一つ。それから彼は地面を蹴り、飛んでくるガラスたちを素早く交わしながらベナンの元へ。
 敵と対峙するオルラッドがそれに気づいたのか、小さく振り返りながら懐から取り出した数本のナイフを放る。声をかけずとも察したようなこの動き。さすがである。

 オルラッドが何か施したのか、その刀身を淡く光らせながら、ナイフたちはガラスを破壊。息を止め、飛び散る破片を吸い込まぬよう注意しながら、少年は崩れ落ちるベナンをキャッチ。
 そのまま、いわゆる火事場の馬鹿力というもので、力ない彼女を二ルディーの元へ運ぶ。ジルの知る限り、この場で治癒術などというホワイティングな魔法を使えるのは彼女だけだ。
 ベナンを運んでいる最中、飛んでくる攻撃は全てミーリャの呪術により防がれていた。彼女といい、オルラッドといい、ジルの仲間は本当に頼りになる。

「ベナンっ、ベナンっ!」

 息を切らせた少年が意識のない彼女を地面に横たわらせれば、弾かれたように反応した二ルディーがその名を口にしながら彼女の体に手をかざす。柔らかに漏れる淡い光は恐らく、治癒系魔法にちがいない。やはり連れて来て正解だった。
 ジルは悲痛な声をあげる二ルディーから顔を逸らした。そして、未だ激しくぶつかり合っているオルラッドとガラス女に視線を向ける。

「っ、なん、なんだよくそがっ!!」

 女は既に満身創痍であった。彼女の魔法とオルラッドの剣技は相性が合わなかったらしい。
 地面に崩れ落ちた女を見下ろし、その喉元に剣を突きつけ、彼は問う。

「目的は?」

「んなこと言うわけないね!」

「依頼主は?」

「無駄なこと聞くなようっとうしい!」

「答えなければ殺すぞ」

「はっ! やれるもんならやってみればいいじゃん! 正義気取りのバカが調子こくなって──」

 女の、やかましいと思えるほど甲高い声は、そこでふと消失した。そのかわりと言わんばかりに辺りに響いたのは、剣が鞘に仕舞われる音と、重い何かが地面に落ちる音。
 何をしたのかなど、目にしなくともすぐに理解できた。

「……悪め」

 吐き捨てるように紡がれた小さな言葉。どこか悲しみを帯びたそれは、ジルの耳に暫くの間残っていた。