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「……ねえ、きみ。ねえってば」
知らない女の子の囁くような声が、耳元で響いていた。くすぐったいな——と呑気なことを考えつつ、僕は目を覚ました。
「……あれ?」
目に飛び込んできたのは、自分が突っ伏して眠っていたと思われる机の木目だ。ゆっくりと顔を上げると、そこは教室だった。びっしりと並べられた学校用の机と椅子、緑色の黒板、ワックスの匂いが、懐かしさを運んでくる。ついこの間まで現実世界で見ていた光景と同じはずなのに、どうしてだろう。
自分の腕や胸を見ると、ブレザーに身を包んでいる。僕が現実で通っていた学校のものとは違うものだ。この世界の高校の制服なんだろう。
時間はまだ朝なのか、窓の外に見える景色に静けさを感じる。気温はそんなに低くない。たぶん、春だ。窓から見える薄桃色の桜の花びらを見て、すぐに分かった。
「おはよう。無視するなんて、ひどいなあ」
耳元で投げかけられた声にはっとして振り返る。
「……誰?」
僕は目の前にいる、制服姿の女の子を見て当然の疑問を口にした。その女の子は、胸まであるさらさらの長い黒髪に、榛色の大きな瞳が特徴的な女の子だった。ザ・清楚系。頭の中でそんな用語が出てきて、我ながら陳腐な表現だなと思う。
「私は夏海。夏の海と書いて夏海です」
夏海はくるりと一回転して、お嬢様が礼をする時のように恭しくお辞儀をした。制服の裾をはためかせて回転した彼女を、僕は呆然としたまま見つめる。未だかつてこんなに可憐に初めましての挨拶をしてきた女の子を見たことがなかった。それが様になっているのも、彼女の透明感のある雰囲気のおかげだろう。
「夏海、さん。僕は、真田春樹です。えっと、ここは——」
「ここ? 教室だよ。ディーン高校三年一組の教室。春樹くんって、今この世界に来たんだよね?」
彼女の口から出てくる言葉の中に詰め込まれた情報量の多さに、僕は目覚めたばかりの頭が混乱しそうだった。
まずは、そう。
「ディーン高校?」
「この学校の名前。単純に『Dean Earth』の高校だから、ディーン高校」
「なんか、その」
「ダサいよね?」
「……うん」
はっきりと「ダサい」と口にしてしまえる彼女が清々しく、僕には好印象だった。案内人は高校の名前なんて言ってなかった。ディーン高校だなんて、なんと安直な。せっかくならもっと格好良い名前の学校に通いたかった。
「あと、僕のこと名前で呼んだよね?」
「あ、ダメだった? ごめーん! 苗字にするね?」
夏海が手を合わせて申し訳なさそうに謝る。その姿がやっぱり清々しくて、僕は思わずぷっと吹き出した。
「いや、いいよ。慣れてないだけで。名前、気に入ってるし」
「ほんと? ありがとう! 春樹ってあったかそうでいい名前。あ、私の名前には“夏”が入ってて、春樹くんの名前には“春”が入って
る!」
うわー、大発見だ! と楽しそうに笑う彼女を見て、やっぱり僕は心の緊張がほぐれていくのが分かった。この世界に、彼女のような見た目は清楚系で中身は天真爛漫な女の子がいるなんて思ってもみなかった。みんな、どこか鬱々とした気分を抱えているものだと。だからこそ、正直この世界での高校生活には期待しないでおこうと思っていたんだけれど。
どうやら、目の前の女の子が、僕の想像をいとも簡単に崩してくれた。
「名前、共通点があって嬉しいよ」
普段の自分なら絶対に言わないであろう言葉を口にして、彼女の頬がぽっと赤らんだのが分かった。ああ、僕は何をしているんだ。現実世界では絶望して自ら命を絶ったというのに。
「私も嬉しい」
本当に嬉しそうにはにかんだ彼女を見て、不覚にも僕の胸がどきりと鳴った。
いかんいかん。この世界で不埒なことを考えるな。淡々と毎日を過ごす。ここは死後の世界だ——と自分に言い聞かせたところで、最後の疑問を口にした。
「夏海さん、さっき、僕に『今この世界に来たんだよね』って聞いたけど、なんで分かったの?」
「“さん”はいらない」
「え?」
「だから、夏海さんじゃなくて、夏海って呼んで」
彼女は質問には答えずに、まず呼び方のことを指摘してきた。不意の出来事だったので僕は戸惑ったが、無邪気な彼女にそう言われると、自然と「じゃあ、夏海って呼ぶよ」と返事をしていた。