あの夏の海には帰れない


「僕は、僕は……」

 胸につっかえる絶望という名の黒い塊が、癌細胞みたいに膨らんで、もうどうにも手の施しようがなかった。僕が、絶望の癌に苛まれながら向かった先は、昼間は真夏の太陽が照りつける海だ。それが、昨日——というか、今日の夜中のこと。
 だんだんと記憶が明確になってきて、前後の自分の行動がはっきりと思い出された。

「僕は、あの海に歩いて行って——」

 夜の海は、昼間海水浴客で溢れる輝かしい海とは打って変わってどす黒く、眺めるだけで不安に足を絡め取られそうになった。水平線なんてどこにあるのかさっぱり分からない。ただ月明かりだけが水面に反射して、絶望の淵にある僕の最期に、花を添えてくれているみたいだった。
 波打ち際は足首ほどしか水位がないのですっと歩くことができた。でも、水がふくらはぎを通り越し、膝を覆い、お腹の下あたりまで迫ってきた頃には、もがいてももがいても明るい未来に進むことのできない僕の人生を体現するように、進みが悪くなっていた。
 つい数ヶ月前までは、あんなにも未来は輝かしい光で満ちていたのに。
 燦々と輝く夏の太陽みたいに、全力で、僕の命は燃えていたというのに。
 今となってはもう、月明かりに少しばかり心が慰められて涙が止まらないほど、未来へと続く道が黒く塗りつぶされていた。
 やがてその道はプッツリと途切れ、僕は自分の足で前に進むことを諦めてしまっていた。
 歩けなくなった僕は、身体を海に浮かせてぼんやりと月を眺める。
 最期に見た景色が、孤独の海で見る月で良かった。
 そう思うことでしか、僕のどうしようもない人生の終わりを、納得させることができなかったのだ。

「僕は、死んだのか——?」

 ようやく理解が追いついてきて、頭を抑える。
 僕は確かに昨日、真夏の夜の海に身を沈めた。最後に見た月の明るさが、今でも記憶にこびりついている。でも、本当に死んだのだとすれば、どうして僕は今こんな草原で息をしているのだろう。
 当然の疑問が頭の中で渦を巻き、これはやっぱり夢なのか、はたまたここがいわゆる天国というやつなのか、と状況を飲み込めないでいるうちに、頭の中で知らない声が響いた。

——ようやくお目覚めですね、真田春樹さん。

 突然聞こえた女の人とも、男の人とも分からない声に、僕は自分の身体が震えるのを感じた。

「だ、誰だっ」

 咄嗟に周りをぐるっと見回してみるも、ここは何もない草原で、誰の姿も見えない。そんなことは分かっているはずなのに、この奇妙な現象を理解するにはそうせずにはいられなかった。

——わたしは、あなたの死後の案内人です。お気軽に、“案内人さん”と呼んでいただいて結構ですよ。

 どこか柔かな響きを持ったその声は、昨夜自ら命を絶った僕の薄ら暗い状況とは裏腹にとても澄んでいて、爽やかな朝に冴え渡る朝日のようだった。
「案内人って、どういうことだ?」

 死後の世界なのだから、何が起こっても驚かない——なんてことはもちろんない。
 そもそも、自分が死んだ後に人生の続きのような時間があるとも思っていなかったし、姿の見えない自称案内人の声は、どんなにきれいでも薄気味悪く感じてしまう。
 僕のそんな心の声が聞こえたのか、案内人はコホン、と可愛らしい咳払いをして再びこう言った。

——そうですね。簡単に言えば、あなたがこの世界でまっとうに生きられるように、導くための声、とでも言いましょうか。あ、でも勘違いしないでくださいね。わたし、こう見ても暇じゃないので。そういつもいつも出てくることはできません。

「はああ?」

 説明を聞いて、余計訳が分からなくなる。
 僕は死んだんだ。死んだのに、「まっとうに生きられるように」って、なんの茶番だ? それに、暇じゃないとか、人間みたいなことを言うんだな。

——まあまあ、そう焦らないでくださいよ。時間だけは、無限にあるんですから。わたしは、あなたにこの世界でのちょっとしたルールを教えるために出てきたんです。それが終わったらたぶん、もうほとんどあなたの前には現れないと思います。

 現れるもなにも、そもそも実態すらないのだから言葉が間違っている。
と、そんなことは置いておいて、ルール? 死後の世界なのに、ややこしいルールがあるのか。死んだ後ぐらい、そっとしておいてほしいんだけど。

「ルールって言っても、僕にはここがどこかということすら、分からないんだ。それに、死んだはずの自分がどうしてまだこうして息をしているのか。何もかも、分からない。きみは、誰だ? 僕はどうしてここにいる?」

 だんだんと頭の中がキンキンと痛くなってきて、僕は頭を抑えた。少しでも楽になろうと、目を瞑って呼吸を整える。すー、はー、すー、はー。無理やりにでも吸い込んだ空気は、身体の中を流れる血液に勢いを与える。心が次第に落ち着いて、草原の草が風に揺れる音や森の向こうから聞こえてくる鳥のさえずりが、聞こえるようになった。

——やっと、落ち着いてきましたか? 一気に話してしまうと、大体みなさんあなたのようにパニックに陥るんです。じゃあ、まずは状況を整理するところから始めますね。

 嫌に気を遣うようなそぶりを見せる案内人は、これまで僕以外にもこの場所で死後の世界のルールとやらを伝えてきたらしい。
 先程まで脈々と打ち続けていた僕の心臓は、ようやくこの案内人の声に耳を傾けるべく、安定した鼓動に変わった。

——それではまず、この世界の説明から。
ここは、お察しの通りあなたのように、自ら命を終えようとした人と、とある特性のある人たちが運ばれてくる世界です。とある特性のある人、についてはまた後ほど触れますね。この世界は通称『Dean Earth』と呼ばれています。

「Dean Earth ……?」
 とある特性のある人、というところも気になったが、耳慣れないその名称に、僕は再び聞き返してしまった。

——はい。『Dean』というのはこの世界をつくった人の名前です。創造主、とでも思っていただければ結構です。『Earth』はそのまま「地球」ですね。

「はあ。『World』じゃなくて『Earth』なんですね」

——そうです、『Earth』。Daenさんのこだわりで、つけられた名前です。

「そうなのか」
 聞けば、『Earth』という名前にそれほど意味はないように思われるが、創設者Deanの趣味のようなものなんだろう。世界ではなく地球。より物質的な響きに聞こえる。

——さて、『Dean Earth』であなたはこれから生活することになります。年齢も身分もそのまま、高校三年生として。
「現実と変わらないんだ」

——はい、その通りです。あ、この世界に運ばれてくるのは皆さん、高校生なんですよ。街には大人や子供もいますが、みんな本当の人間ではありません。よくゲームの世界でNPCと言うでしょう? それと同じで、話しかけるとそれなりの反応はしますが、プログラミングされている通りにしか動いたり喋ったりしません。

「なるほど」

 案内人の説明を聞いていくうちに、僕はあやふやだったこの世界の輪郭がだんだんと形づくられていくのを感じた。とはいえ、まだまだほんの一部分しか形は完成しないけれど。
 案内人は僕が説明をしっかりと噛み砕き、思考をめぐらせるのを待ってくれているように、一つ一つの説明の後にしっかりと余白の時間を設けてくれた。

——高校生活の中では、基本的に何をしていただいても構いません。勉強もテストも部活もあるので、ご自身で必要な分だけ取り組んでください。家に帰ると家族のNPCも存在しています。会話はできますが、先程言った通り、必要最低限の話しかできません。

 草木がざわざわと揺れる音のする草原の真ん中で、僕だけがぽつりと存在しているのに、案内人の声がすっと頭の奥で響いている。「高校生活」という響きに、胸が草木と同じようにざわりと揺れる。

——高校に通っている生徒は基本、あなたと同じようにこの世界に連れてこられた実際の人間です。ただし、先程お伝えした通り、この世界には二種類の人間がいます。
 
 案内人はそこでたっぷりと間を置いてから、次の言葉を紡いだ。

——一つ目は、あなたと同じように自ら命を終えようとした人。つまり、自殺者です。そして二つ目は——こちらは、今お伝えすることはできません。

「え?」
 てっきり今、もう一方の種類の人間について教えてもらえるのだと思っていた俺は、拍子抜けしてしまった。

——私の口から伝えることもできませんし、学校生活で出会う人たちに聞くこともできません。反対に、自分が「自殺者だ」ということを、誰かにバラしてもいけません。より正確に言えば——お互いの正体をバラすと、罰が与えられます。

「罰?」
 突如飛び出してきた罰という重たい響きに、僕はお腹の底にぐっと力が入るのを感じた。

——はい。もしあなたが自分の正体をバラせば、あなたは自分の大切なものを失います。ただし、バラした相手が自分と同じ種類の人間——つまり、自殺者である場合には、罰は与えられません。罰を与えられたら、罰を解除する方法もありますが、解除するのには気力と労力が必要になります。

「はあ」
 分かるようで分からない説明だ。 
 自分の正体を他人にバラしてはいけない。でも、僕と同じように現実世界で自殺をした人間相手にはバラしても罰は与えられない。

「よく分かんないけど、それって、相手が自殺者だって分からない状態で打ち明けることになるだろ? それじゃもしかしたらこの人に話したら罰が与えられるかも……ってビクビクしながら自分の正体を打ち明けなきゃいけないわけ?」

——おっしゃる通りです。打ち明けるのにはリスクが伴います。だからこそ、誰にも打ち明けないのが一番賢明な判断です。

「そうだよなあ」

 そもそも、自分の正体を誰かに打ち明けるメリットが分からない。でも、話したくなるんだろうか。誰かと心を通わせていくうちに、もしかしたら自分のことを伝えたくなるのかもしれない。だけど僕が、そんなふうにこの世界で深い人間関係を築けるとは思えなかった。
 生前ずっと、家族や他人と向き合うことを避けてきた僕が——。

——私が知る限りでは、これまで自分の正体を誰かに話した人は一人もいません。だから、真田春樹さん。きっとあなたも普通に高校生活を送っていくでしょう。この世界には終わりはありません。あるとすればそう——もう一度命を絶つことぐらいでしょうか。でも、どうせ命を失ったところで、また今回みたいに別の世界での生活が始まるだけかもしれませんけどね。

 ふふ、と案内が小さく笑ったような気がするのは気のせいだろうか。
 ここが死後の世界ならば、自殺するなんて確かにあまり意味があるようには思えない。命が終わると、みんな暗闇の大海原に放り出されるのだと思っている。でも実際は、こんなふうに別の世界に飛ばされたのだから、人間の想像は間違っていたということか。
 だんだんと自分の思考が、案内人の説明する『Dean Earth』の世界に順応していることに苦笑した。

——それでは早速始めますね? あ、私はもうほとんど出てくることはないので。あなたがどうしても、どーしても、どおおおしても気になることがあると言った場合には、呼びかけに応じることもあるかもしれません。でも、昼間は基本出られません。こう見えても私、忙しいので!

 いやに自分が今度出てこられないことをアピールし、案内人は僕の頭からドロップアウトしようとした。いや、ちょっと待ってくれ。まだ聞きたいことがたくさん——。

——真田春樹さん。さあ、もう一度青春時代を謳歌して。私たち案内人があなた方に求めることはただ一つ。失った命ともう一度真剣に向き合うことです。それでは、いってらっしゃい。

 どこかで聞いたことのある「いってらっしゃい」という言葉と共に、僕の意識はまた引きずり込まれるようにして急速に鈍っていく。ああ、僕はこれから一体どうなるんだ……? 声を上げる間もなく、草原での光景はそこでふっと途切れた。


**


「……ねえ、きみ。ねえってば」

 知らない女の子の囁くような声が、耳元で響いていた。くすぐったいな——と呑気なことを考えつつ、僕は目を覚ました。

「……あれ?」

 目に飛び込んできたのは、自分が突っ伏して眠っていたと思われる机の木目だ。ゆっくりと顔を上げると、そこは教室だった。びっしりと並べられた学校用の机と椅子、緑色の黒板、ワックスの匂いが、懐かしさを運んでくる。ついこの間まで現実世界で見ていた光景と同じはずなのに、どうしてだろう。
 自分の腕や胸を見ると、ブレザーに身を包んでいる。僕が現実で通っていた学校のものとは違うものだ。この世界の高校の制服なんだろう。
 時間はまだ朝なのか、窓の外に見える景色に静けさを感じる。気温はそんなに低くない。たぶん、春だ。窓から見える薄桃色の桜の花びらを見て、すぐに分かった。

「おはよう。無視するなんて、ひどいなあ」

 耳元で投げかけられた声にはっとして振り返る。

「……誰?」

 僕は目の前にいる、制服姿の女の子を見て当然の疑問を口にした。その女の子は、胸まであるさらさらの長い黒髪に、(はしばみ)色の大きな瞳が特徴的な女の子だった。ザ・清楚系。頭の中でそんな用語が出てきて、我ながら陳腐な表現だなと思う。

「私は夏海(なつみ)。夏の海と書いて夏海です」

 夏海はくるりと一回転して、お嬢様が礼をする時のように恭しくお辞儀をした。制服の裾をはためかせて回転した彼女を、僕は呆然としたまま見つめる。未だかつてこんなに可憐に初めましての挨拶をしてきた女の子を見たことがなかった。それが様になっているのも、彼女の透明感のある雰囲気のおかげだろう。

「夏海、さん。僕は、真田春樹です。えっと、ここは——」

「ここ? 教室だよ。ディーン高校三年一組の教室。春樹くんって、今この世界に来たんだよね?」

 彼女の口から出てくる言葉の中に詰め込まれた情報量の多さに、僕は目覚めたばかりの頭が混乱しそうだった。
 まずは、そう。

「ディーン高校?」

「この学校の名前。単純に『Dean Earth』の高校だから、ディーン高校」

「なんか、その」

「ダサいよね?」

「……うん」

 はっきりと「ダサい」と口にしてしまえる彼女が清々しく、僕には好印象だった。案内人は高校の名前なんて言ってなかった。ディーン高校だなんて、なんと安直な。せっかくならもっと格好良い名前の学校に通いたかった。

「あと、僕のこと名前で呼んだよね?」

「あ、ダメだった? ごめーん! 苗字にするね?」

 夏海が手を合わせて申し訳なさそうに謝る。その姿がやっぱり清々しくて、僕は思わずぷっと吹き出した。

「いや、いいよ。慣れてないだけで。名前、気に入ってるし」

「ほんと? ありがとう! 春樹ってあったかそうでいい名前。あ、私の名前には“夏”が入ってて、春樹くんの名前には“春”が入って
る!」

 うわー、大発見だ! と楽しそうに笑う彼女を見て、やっぱり僕は心の緊張がほぐれていくのが分かった。この世界に、彼女のような見た目は清楚系で中身は天真爛漫な女の子がいるなんて思ってもみなかった。みんな、どこか鬱々とした気分を抱えているものだと。だからこそ、正直この世界での高校生活には期待しないでおこうと思っていたんだけれど。
 どうやら、目の前の女の子が、僕の想像をいとも簡単に崩してくれた。

「名前、共通点があって嬉しいよ」

 普段の自分なら絶対に言わないであろう言葉を口にして、彼女の頬がぽっと赤らんだのが分かった。ああ、僕は何をしているんだ。現実世界では絶望して自ら命を絶ったというのに。

「私も嬉しい」

 本当に嬉しそうにはにかんだ彼女を見て、不覚にも僕の胸がどきりと鳴った。
 いかんいかん。この世界で不埒なことを考えるな。淡々と毎日を過ごす。ここは死後の世界だ——と自分に言い聞かせたところで、最後の疑問を口にした。

「夏海さん、さっき、僕に『今この世界に来たんだよね』って聞いたけど、なんで分かったの?」

「“さん”はいらない」

「え?」

「だから、夏海さんじゃなくて、夏海って呼んで」

 彼女は質問には答えずに、まず呼び方のことを指摘してきた。不意の出来事だったので僕は戸惑ったが、無邪気な彼女にそう言われると、自然と「じゃあ、夏海って呼ぶよ」と返事をしていた。
 僕に自分のお願いを聞き入れてもらった夏海は、やっぱり嬉しそうに頬を緩める。

「ありがとう。あ、それでさっきの質問ね。それは単に、いきなりきみが教室に現れたから。この世界に新しい住人がやって来たら、基本的にこのクラスに配置されるから。みんな、きみと同じように突然現れて、自己紹介をして、よろしくねーって言って、仲間になるの」

 自分の両手を自分で握って、握手、というような動作をしてみせる夏海。
 なるほど、本当に単純な理由だ。
 今僕がここに現れたことが、彼女たちにとっても——元々この世界にいた住人たちにとっても、新しい仲間が現れたという事実になるんだ。

「そっか。良く分かった。すっきりしたよ」

 見慣れない教室や女子高生の彼女の存在に、実際はまだ頭が混乱していたのだが、彼女の明るい性格によって幾分か気分は和らいでいた。
 ふと、案内人が言っていた言葉を思い出す。
 この世界には二種類の人間が存在している、と。
 僕は、白い美しい肌をした彼女の顔をちらりと見た。
 相変わらず彼女は俺の顔を見て嬉しそうに微笑んでいる。新しい友達ができたことがそんなに嬉しいんだろうか。僕のように、陰気な性格を思わせるようなところは一つもない。彼女が自ら死を選ぶなんて、想像がつかなかった。
 でも彼女とはまだ出会って数分しか経っていない。僕が知らないだけで、彼女にも他人には計り知れない心の闇があるのかもしれない。出会ったばかりの彼女には間違っても聞けないことだけど。

「どうしたの、春樹くん」

「え、いや——なんでもない。それより、僕には“くん”付けなんだね」

「うん! いいでしょ。きみって、青春映画の主人公みたいな顔してるからさあ。丁重に扱いたくなるの」

 そう言って彼女はおかしそうにふふふ、と笑っていた。
 彼女の言うことが僕には半分も理解できなかったけれど、僕との会話でこれだけ表情をコロコロ変えて楽しそうにしている彼女を見ていると、心洗われていくような心地がした。

「おはよう夏海! って、あれ、新入り?」

 教室の扉が独特な音を立てて開かれ、僕は反射的に入り口の方に視線を合わせた。
 そこに立っていたのは茶髪でツンツン頭をした男子と、栗色の髪を肩のところで切りそろえたショートカットの女子だった。

「あ、龍介と理沙ちゃん。おはようっ」

 夏海がぱっと後ろを振り返り、教室に入って来た男女に手を振った。

「えっと……」

 近づいてくる二人に、僕がなんと挨拶をしたら良いのか迷っていると、夏海が「この人、新入りの新米なの!」と明るい声で言い放った。

「し、新米ってなんだ」

「えーなんかほら、きみってほくほくしてあったかい感じがするじゃん」

 どういうことだろう、と僕が頭を捻らせていると、ショートカットの女子がクククとお腹を抱えて笑った。

「もう夏海ったら、また変なこと言って新人くんを困らせてる」

「変なことじゃないもん。私の目にはそう見えるもん」

 ぷっくりと頬を膨らませる夏海に、「そおかそおか」と頷きながら夏海の頭を撫でる彼女。でもやっぱり顔は笑っている。二人の会話からして、かなり仲が良いということはすぐに分かった。

「んで、結局名前はなんだ?」

 ツンツン頭の男子の方が、僕にぐいっと顔を寄せてくる。よく見ると右目の下に泣きぼくろがある。ひゅんと伸びたまつ毛はとても長くて、顔を近づけると触れてしまいそうだった。とても色っぽい顔をしている——なんて、男の僕が思うぐらい、彼は格好良かった。

「真田春樹。彼女に紹介された通り、今日からこの世界に来た新人です。よろしくお願いします」

 初対面だからひとまず丁寧にお辞儀をして答えたのだが、ツンツン頭は「かってえなあ!」と僕の頭をガシガシ撫でた。

「そんな畏まんなくていいって。俺たち全員同級生なんだから。あ、俺は龍介(りゅうすけ)。で、こっちのおっかない女は理沙(りさ)。よろしく!」

「ちょっと、おっかないって何よ!」

「……ってー! ほら、こういうところが怖えって言ってんだ」

 理沙が龍介の頭をポカンと殴り、龍介は大袈裟に痛そうに顔を歪めてみせる。でも、理沙の殴り方には愛があった。理沙はコホン、と咳払いをすると、僕に向き直って言った。

「……藍沢理沙(あいざわりさ)です。今コイツが変な紹介をしたけど、私はいたって普通だから! 気にしないでね、ほんと」

 手を擦り合わせて小さく頭を下げる理沙は、なんだかしおらしくて好感が持てた。

「うん、大丈夫。それにしてもみんな、仲がいいんだね」

 三人を見て抱いた第一印象を告げると、みんなの顔が——特に、夏海の顔が、水をもらった花のようにぱっと明るく咲いた。

「そうなの! 理沙ちゃんはしっかり者で優しくて、龍介は時々意地悪だけどやっぱり優しい。私の大好きな友達なのっ」

 声を弾ませて僕の言葉に同意する夏海が、幼い少女のように素直で、そばで見ていた他の二人は恥ずかしそうに頬を赤く染めた。

「夏海、また初対面の人にそんなこと言って。まあ嬉しいけどね」

「そうだな。夏海っていっつもこんな調子だから。こっちまで無駄にポジティブになるよ」

「無駄に、は余計じゃない?」

「はは、だって無理やり前向きにさせられっからさ」

「むう」

 むくれる夏海の肩を軽く叩き、「まあまあ」と宥める理沙。完璧に調和のとれた三人の掛け合いを見て、僕はなんとなく身体を後ろに引いてその光景を眺めていた。

「……ごめん、うるさかった?」

 突如賑やかだった声が止み、夏海が心配そうに僕の顔を覗いてきた。先ほどまで理沙と笑い合っていた彼女が、まさか僕のことを気にしてくれているとは思っておらず、僕は思わず「えっ」と声を上げた。

「いや、大丈夫。すごく、楽しそうだなって思って」

 僕の返事を聞いた夏海の顔がほっと安心したものに変わる。

「理沙ちゃんや龍介と一緒にいると私、いつもこうなの。楽しくてつい周りが見えなくなっちゃう。でも今日からはもっと大変ね。春樹くんも仲間に加わったんだから」

 仲間、という言葉の響きは、どこか甘美で憧れに満ちていた。
 僕は生前友達が少なく、漫画やドラマで見るような爽やかな青春時代を送った記憶がない。
 でも、目の前にいる夏海や、理沙、龍介は、僕を仲間に入れることに何の躊躇いもないように見える。
 それが僕にはまぶしくて、どうしようもなく胸が震えた。

「仲間って、いいの?」

 震える声でそう尋ねる。

「当たり前だろ」

「ていうか、ここで目覚めて最初に私らと話した時点で、あんたの運命は決まってます!」

 龍介と理沙が綺麗な笑顔を浮かべて僕の方に手を差し出してきた。
 夏海もすかさず、その手に加わる。三人の手を、僕は順番におずおずと握っていった。

「よっしゃ、決まりだな。これで春樹は俺たちの仲間だ。嫌になって逃げたって、地の果てまで追いかけてるからな!」

「それ、もはやホラーだよ」

「おお、今日初めてにしてそのツッコミ! これは期待大だな!」

「あんたのくだらない冗談に付き合わせないでよ。ねえ?」

「あ、ああ」

「ふふ、みんなおっかしー。私はゾンビ映画好きだけどな〜」

 ひとり天然な反応をしている夏海が面白くて、僕は思わず口から笑みがこぼれた。ここで目が覚めてから、一秒も何も考えない時間がない。出会ったばかりの三人に、僕は早速感謝をした。

「ありがとう。声をかけてくれて」

「えーそんなお礼言われることじゃないよ! だって気になるじゃん。新しい人を見つけたら、私がいち早く声をかけるんだーっていつ
も思ってるの。でも、毎回そうもいかないから。たまたま今日、春樹くんを見つけて起きるまで一時間も待っててよかったー!」

 起きるまで、一時間も?
 初めて聞いた事実に、僕は目を瞬かせる。
 教室で僕が眠っている間、夏海はずっと僕が目覚めるのを待っていてくれたのか。たぶん、目覚めた時に誰もいなかったら、僕はこれから始まる高校生活に不安でいっぱいになっていただろう。

「いや、本当に、ありがとう」

 まぶしいくらいに明るい彼女の瞳が、突如潤んでいくのを見た。

 教室の窓から差し込む朝日の光が、僕と、夏海の間をまばゆく照らす。光のカーテンのように現れたそれは、美しい純白のドレスを着た花嫁を包むベールのようにも思われて、僕の心臓が大きく鳴ったのが分かった。

「……ありがとう」

 彼女の口から漏れて出た儚い声に、その場にいた僕も、そばで見ていた龍介と理沙も、はっと息をのんだ。それくらい、珠のような涙を浮かべる彼女の姿は美しかった。
 窓から吹き込む温かい風が、僕らの間をすっと通り抜ける。
 新学期、ディーン高校での春は、こうして始まりを告げた。



 春のぽかぽかとした空気は、私の一番お気に入りの季節を、もっと好きにさせてくる。
 いや、違うのか。この暖かい陽気が好きだから、春を好きになったのか——って、あれ? どっちが最初だか分かんなくなっちゃった。
 名前には「夏」が入っているのに、春が一番好きだなんて言ったら、きっとお母さんは呆れるだろう。ま、でもこの世界のお母さんは、私の言葉に気の利いた反応をしてくれることはないから、全部私の想像なんだけれど。みんな、学校で出会う人以外はNPCなんだし。
 くだらないことを考えながら、私はふと、今日出会った男の子のことを思い出した。
 春風が運んできてくれた、新しい友達。
 名前は真田春樹くん。
 彼の名前に「春」が入っていることを知って、私はとても嬉しかった。単純に春が好きだとういのもあるし、夏海という私の名前の「夏」と隣り合わせにある春が、憧れていた春が、近くに来てくれたみたいだったから。
 週明けには理沙ちゃんや龍介と一緒に、春樹くんに学校を案内しようと計画している。理沙ちゃんがこの世界に来た時も同じことをした。龍介は、私と同時にこの世界にやって来た、いわゆる同期というやつだ。だから一番付き合いが長いのは龍介なんだけれど、龍介は理沙ちゃんのことが気になっているみたいだ。本人に言われたわけじゃないけれど、なんとなく見てれば分かる。
 私にとって龍介は、兄弟みたいな存在だ。何も隠すことがなく、いつも気軽に話しかけられる。お互いの悩み相談だって、もう何度もやっていて。龍介はいびきがうるさくて人知れず悩んでいるということを知って、ちょっとおかしくて笑ってしまったこともある。そういうとき龍介は決まって、「夏海の天然の方が重症だよ!」と言って茶化してくるのだ。
 確かに私は他人から天然だと言われることが多い。
 うっかり場にそぐわない返答をしてしまったり、いっつもへらへら笑ってたりしているのが原因なんだろう。でも治らないんだよねえ。どうしても、みんなの笑顔の源でいたいという欲求が止められないから。私の発言で、みんなが笑う。その光景が、この世界でなによりも好きだった。

 理沙ちゃんは一番仲が良い友達。初めて理沙ちゃんがディーンにやって来た時、全然心を開いてくれなくて、仲良くなるまでにとても苦労したのを覚えている。

「ねえねえ、何の本読んでるの?」

「ディーン高校のこと、教えるよ!」

「理沙ちゃん、今日のお弁当美味しそうだね」

 私がいくら話しかけても、理沙ちゃんはむすっとしていて、全然笑ってくれないんだもん。
 でも私だけじゃなくて、他の誰にも心を開いていない様子を見て、私はもっと頑張ろうって思えたんだっけ。

「理沙ちゃん、ゆっくりでいいよ。ちょっとずつでいいよ。私は、理沙ちゃんのこと待ってるから。理沙ちゃんと友達になりたいと思ってるから」

 ある日の放課後、帰り際にいつものように窓の外を見て黄昏ていた理沙ちゃんにそう声をかけると、理沙ちゃんははっと私の方を見た。
 栗色のさらさらとした髪の毛が窓から吹き込んできた風に揺れて、どうしてか潤んだ瞳がとっても綺麗だった。きっと理沙ちゃんにも、この世界に来るまでに壮絶な人生があったんだ。ここにくる人間はみんな、何かしら心に悩みを抱えていたり、傷ついていたりすることが多い。だから誰かに心を開くのに時間がかかるのは当たり前だと分かっていた。

「……ありがとう。いつも、声かけてくれて」

 理沙ちゃんの、優しい優しい答えが、私の心を溶かしていく。
 無駄じゃなかったんだ、と思った。
 理沙ちゃんと仲良くなりたくて一生懸命話しかけた日々は、決して無駄ではなかった。
 理沙ちゃんが小さな少女のように控えめにはにかむと、私はいよいよ嬉しくなって、自分の方が満面の笑みを浮かべてしまっていた。

「ううん! 一方的に話しかけてごめん。よかったら明日、一緒に遊ぼうよ」

 私の提案に、理沙ちゃんは「うん」と大きく頷いてくれた。よかったあ。心から嬉しくて、思わずその場でぴょんぴょん飛び跳ねると、理沙ちゃんは「うさぎみたい」とくすくす笑い出したんだっけ。
 それからというもの、私たちは常に一緒に行動をすることになった。龍介も理沙ちゃんと打ち解けたようで、二人はいつも小さなことで言い合いをしている。理沙ちゃんは龍介と話していると、鋭いツッコミとか姉御肌っぽい発言が多くなる。それが、本当の理沙ちゃんなんだろう。龍介のあっけらかんとした性格が、彼女に合っているのかもしれない。理沙ちゃんが素を出してくれたことが、私にとってはとても嬉しかった。
 私たちは三人でディーン高校での生活を楽しんでいた。
 もちろん、時折別のクラスメイトと話をすることもあるけれど、みんな私たちのように仲良しのグループがいる。だから、普通の高校のクラスと同じように、仲の良い友達とばかりつるんでいた。
 そうだ、ここは普通の高校なんだ。
 授業を受けて、昼休みに友達と駄弁り、放課後にはカラオケやゲームセンターなんかに行く。テストだってあるし、毎日の課題はちょっと面倒。でも、私が経験したかった普通の高校生活が送れるのなら、これほど嬉しいことはない。
 この世界に存在している、二種類の人間について、何も考えようとしなければ、の話だけれど——。


「えっ、みんなテスト勉強とか真面目にやるの?」

 週が明けて月曜日がやって来た。今日も春の穏やかな気候で、心までほっと和やかな心地がする。桜はもう散ってしまったけれど、新しい出会いに、胸の高鳴りは抑えられない。
 昼休みに、みんなで春樹くんを学校案内しようと計画していたので、まずはディーン高校の一年間のスケジュールを話した。テスト勉強の話になって、春樹くんの両目が大きく見開かれる。本当に、絵に描いたような「丸い目」をしていたので、私はおかしくてつい笑ってしまった。

「あったりまえでしょ。赤点なんか取ったら、補講、補講、の毎日で、それこそ鬱になっちゃうんだから」

 どうやら春樹くんは、この世界ではあまりテスト勉強などやる気ではなかったらしい。それを、理沙ちゃんが軽く注意している。理沙ちゃんはいつも真面目にテスト勉強をしていて、成績は常にトップクラスだ。もし現実世界で生きていたら、彼女は絶対学級委員長になっていたはずだ。私や理沙ちゃんたちが現実の高校に通っている姿を想像すると、胸があたたかくも切なくなった。

「そうかー……うう、そうなんだ……。僕、勉強はあんまりだったから、さあ」

 春樹くんは分かりやすく落ち込んでいる。勉強が苦手だというのは意外だった。教室の隅で本なんか読んで、授業は聞かないけどテストではさらっと高得点をとり、担任の先生を困らせるようなタイプだと勝手に思っていたから。
 なんて、口にしたらド偏見だと怒られるかもしれないなあ。

「夏海、全部口から漏れてっから」

 龍介が私の方を向いて、腹を抱えてくくくと笑っている。
 私は「え?」と一瞬固まり、顔が熱く火照るのを感じた。

「ご、ごめんなさいっ。これはその、本当に勝手な想像というか……」

「妄想じゃないの」

「うう、そうだね……妄想、していました」

 理沙ちゃんに軽く怒られてしゅんとしていると、春樹くんは「まあまあ」と小さく笑っていた。

「勉強は、ほどほどに頑張るよ」

「そうしようぜ。俺なんていっつも赤点スレスレだからな!」

「あんたはもうちょっと努力しなさい」

 イテ、とまたもや理沙ちゃんが龍介を小突く。こんな光景は見慣れているから、もう私はなんとも思わないのだけれど、春樹くんにとって二人のツッコミとボケが新鮮に映ったんだろう。「やっぱり仲いいんだね」と爽やかな感想を口にしていた。

「とにかく勉強の話はこれで終わり。わからないことがあったら私に聞いて」

「ありがとう。藍沢さん」

 話の主導権をすっかり握っている理沙ちゃんは、どことなく満足そうに得意げな顔をしていた。ダメだダメだ。もともと今日春樹くんを案内しようと誘ったのは私なのに。私は慌てて、「それじゃあ」と口を開く。

「この学校の案内をするよ。春樹くん」

 私がにっこり笑って春樹くんの方を見ると、春樹くんは目を細めて「お願いします」と小さく頭を下げた。いちいち礼儀正しいところが可愛い。あれ、私なんで男の子に対して「可愛い」なんて思ってるんだろう。

「それじゃ、出発進行!」

 龍介の合図とともに私たち四人は教室をあとにする。
 西日差す暖かな教室とは違い、廊下の空気は少しだけツンと冷えていて、私は一人、小さなくしゃみを披露した。


「ここの廊下の突き当たりが音楽室。家庭科室は一階にあるからあとで行こう。食堂は二階だよ。結構綺麗だから昼休みに使ってる人は多くて。今度一緒に行こうよ。あ、あと私のイチオシは図書室! 図書室は校舎の中にはなくて、別館として校舎の西側に立ってるの。登下校の時に見たでしょう? あの大きな建物がまるまる図書室だから、本を読むのにも勉強をするのにもうってつけなの!」

 四階から順番に教室を紹介していくつもりだったのに、一度紹介を始めたら口が止まらなくなってしまう。理沙ちゃんと龍介が呆れ顔で私の説明を聞く中、春樹くんだけはふんふんと神妙に頷きながら、私の話を真剣に聞いてくれた。良かったあ。一人はりきってうっとうしいやつだと思われてたら嫌だから。
 校舎の四階は音楽室と、ほとんど使われていない特別教室があるだけなので、私自身、あまり来たことはない。理沙ちゃんや龍介もきっと同じだろう。四階の廊下から窓の外を見ると、思いの外高くて少し足がすくんだ。

「大丈夫?」

 窓の外を眺めていた私の顔を、春樹くんが覗き込む。

「あ、ごめん。大丈夫」

 私は踵を返して、案内に戻ろうとした。でも、私の一歩後ろで理沙ちゃんの表情が少し強張っていることに気づく。

「どうしたの、理沙ちゃん」

 私が尋ねると、理沙ちゃんは小さく首を横に振った。

「なんでもない……。四階ってほら、あんまり来ないから思ったよりも高いんだなあって」

「ああ、そうだよね。私も今、下を見てちょっと怖いなって思ってたとこなの」

「……」

 顔を青くした理沙ちゃんが、やっぱりどこか辛そうだった。

「下の階、案内してくれる?」

 気を利かせた春樹くんが、私の腕をさっと掴む。

「えっ?」

 春樹くんに触れられてびっくりした私は、彼の目を咄嗟に見つめた。

「あ、ごめん」

 春樹くんは私の腕を掴んでいるのが急に恥ずかしくなったのか、さっと手を離して前を歩き出した。本来ならば私が前を歩かないといけないのに、春樹くんの歩みが速くて、私は彼の背中を追いかけるのに必死になった。
 ふと後ろを振り返ると、龍介が理沙ちゃんの肩に手を置いて、彼女の気を宥めている。青くなった顔が、先ほどより少しばかり赤みを帯びて、それが龍介に触れられているせいかもしれないと思うと、私の胸が少しだけきゅっと鳴った。
 龍介はやっぱり理沙ちゃんが好きなのかもしれない。
 二人のことをとても大切な友達だと思っているからこそ、二人の親友が遠く離れていくみたいで、私はひとり、広い海を漂っているかのような心地がした。

「こっちでいいんだよね、夏海」

 名前を呼ばれて顔を向けると、前を歩いていた春樹くんが廊下の突き当たりで階段の方を指さしていた。


「う、うん」

 そのタイミングで私は春樹くんの少し前を歩き始める。
 もう、三人じゃないのだ。
 春樹くんが仲間に加わって、私たちは四人になった。
 奇数だと中途半端に感じていた友達との距離が、春樹くんがいることで心地よいものに変わる。それだけでいいんだ。私はこの四人で、これからもっと楽しい高校生活を送れるんだから。

「いこっか」

 振り返ってみんなの顔を見ると、私は一人じゃないんだと思い知ることができる。理沙ちゃんの顔はもう青くない。龍介は理沙ちゃんの肩から手を離し、「おう」と軽く片手を上げた。最後に見た春樹くんが、「よろしく」とまた小さく微笑んだ。