「珀弧様はあの軍人とお知り合いなのでしょうか」
「仲良く見えたか?」
「いいえ、ちっとも」

 首を振れば、珀弧はまたくつくつと笑う。何がおかしいのかと首を傾げれば、

「凍華はおどおどして自信なさげなのに、時折はっきり物を言うところが良い。それがおそらくお前の持って生まれた本来の性分なのだろう」
「申し訳ありません。私、失礼なことを……」
「言っていない。大丈夫だ。それで質問の答えだが、あいつの捕まえようとしていた妖を逃がしたことが何度かある」
「私のように助けた、ということでしょうか」
「そうだ。妖狩りは、妖なら何でも捕らえ殺す。人間に害をなす物であれば、仕方ないと思えるところもあるが、害をなさない妖を殺す理由はないだろう。あいつらは人でありながら言葉が通じぬゆえ、実力行使をしているまでだ」

 幾度ともなく、珀弧は害をなさぬ妖を殺めるなと言ったが、妖狩りは聞き留めなかった。
 ゆえに、目に留まった妖を助けるようになった。
 妖は本来仲間意識など持たない性質で、他の妖からすれば珀弧のしていることは奇異に映るらしいが、それでも、手の届く範囲はと、現し世に行くたびに誰かを助けて帰ってくる。

「お優しいのですね」
「そんなことはない、ただ自分の目の前で不条理なことが行われるのが腹立たしいだけだ」

 慈善事業のつもりはさらさらなく、助けた妖は傷を負っておれば薬こそ渡すが、大半はその場で別れている。

(では、私を助けてくださったことも、珀弧様にとって特別なことではないのね)

 どこかほっとしたような、寂しいような気持ちが胸にこみ上げ、凍華は戸惑ってしまう。
 虐げられ、罵られるうちに感情を殺すことを覚えてしまった。
 心を閉ざし痛みや苦しさに愚鈍になれば、生きることも少しは簡単に思えたからだ。
 それなのに、珀弧の前ではやけに感情が動いてしまう。これはいけないと、凍華は小さく深呼吸をした。

「では次に、凍華の話をしよう。昨日の会話で察しているだろうが、お前には人間と人魚の血が流れている」
「半妖、人魚と聞いたときからそう考えております」
「父親から何か聞いていないか?」
「……人魚は男女の双子で生まれ番となり、その番との間にのみ子を授け命を繋いでいくのだとか聞きました」
「……それだけか?」

 随分間を開け問いただされ、凍華は的外れな返答をしたのかと焦ってしまう。

「はい、それしか……あの、それ以外に何かあるのでしょうか?」
「…………いや、何もない」

 先ほどほどよりさらに間を開けられては、何かあると言っているようなものだが、珀弧は強引に話しを逸らした。

「父親は何をしていたんだ?」
「軍で書記官の仕事をしていたそうです」
「軍の書記官が殉職……」

 珀弧は袂に腕を入れ暫く思案顔をしていたが、やがて「そうか」とか「いや、しかし」と小さく呟いた。
 そうこうしているうちに、ロンとコウが食事ができたと大きな声を出しながらやって来た。どたどた、ばたんと賑やかだ。

「お膳をもってきました」
「味見もしました」
「お前達、ちょっとは静かにしろ」

 珀弧に叱られ、ぴしりと背筋を伸ばすも、その足は止まることなく足踏みをしている。
 それがあまりに変わりらしく凍華は「ふふ」と笑った。その笑い声に二人の尻尾がピンと立つ。

「花嫁さんが笑った」
「笑った花嫁さん可愛い」
「だから花嫁じゃない。誰がそんなことを言ったんだ」
「凛子が言った」
「珀弧様がお屋敷に他人を招くのは初めて」

 わいわいとお盆を頭に掲げて走るロンとコウの襟首を珀弧がむんずと掴み持ち上げる。
 凍華はお盆が落ちないかとおろおろするも、二人は遊んでもらっているかのようにきゃっきゃと笑う。少なくとも反省はしていない。

「もういいから少し落ち着け。今度騒いだら毛玉に元すぞ」
「「はい!!」」
(毛玉に戻す?)

 はてと首を傾げる凍華の前に、珀弧はロンとコウをひょいと置けば、二人はいそいそと食事の用意を始めた。

「すまない。助けた妖を連れ帰ることがなかったので、勘違いしたようだ。俺は行くのでゆっくり食事をしてくれ」
「はい。ありがとうございます。食べたらすぐに出ていきますので、お手数をおかけいたしました」
「出ていく?」

 また何か変なことをいっただろうか、珀弧が盛大に眉間に皺をよせ、どかんと凍華の前にしゃがみ込んだ。

「廓に戻りたいのか?」
「そ、それは……」
「お前が戻らなければ、楠の家は困るだろう。だが、凍華がそこまで義理立てする必要があるのか?」

 そう言われても、どうしたらよいか分からない。
 命じられるがままに生きてきた凍華は、「生きたい」と思うも、どのように生きるかなんて考えられないのだ。

(でも、考えなくては)

 ずっと逆らうことなく生きてきた。心を、思考を捨てるのは生きるために必要なことだと思っていたけれど、その捨てたものこそ生きるために必要なのではないだろうか。
 自分がどうしたいか、何をしたいか。
 凍華は、目の前に用意された湯気が立ちのぼるお粥に視線を落とす。
 こんなふうに温かい食事にありつけるのは何年ぶりだろう。いつの間にか鍋に焦げ付いたおこげを擦り取り食べるのが当たり前になっていた。

「……帰りたくありません。でも、私には行く場所がないのです」
「それならここにいたらいい」
「そんな! 助けてもらった上に、そこまでしていただく理由がございません」

 ふるふると首を振る凍華の手を、珀弧は優しく握った。

「凍華は疲れている。せめて何がしたいか考えが纏まるまでいればよい。その間、こいつらの遊び相手をしてくれれば助かる。お前達、それでいいな」
「「はい!!!」」

 今までで一番元気な声が返ってきた。
 凍華の胸の中に温かなものが広がっていく。固く閉ざし冷え切った心がふわりと真綿に包まれたようで、いつも張り詰めていた神経が緩んでいく。

「お世話になります」

 改めて三つ指をついて頭を下げれば、珀弧は「分かった」とだけ言って立ち上がり、今度こそ出て行こうとした。しかし、障子襖を開けたところで思い出したかのように振り返る。

「凍華、歳は?」
「昨日で十六になりました」
「昨日。しかも満月の夜か。何か身体に変わったことはなかったか?」
「変わったこと、ですか?」

 変わったことといえば昨夜起きた出来事全てがそうだ。
 その中で、凍華の身体に起きたこととなれば……。

「喉が渇きました」
「喉がか?」
「はい。今まで感じたことのない渇きで、飢えに近く、苦しいまでの渇望でした」

 話すだけでもあのときの感覚が蘇り、凍華は喉に手を当てた。
 その様子に、珀弧が一瞬厳しい顔をするも、すぐに柔和な笑顔を浮かべる。

「今度喉が渇いたら教えてくれ」
「? はい」

 どうしてそんなことを言うのだろう。凍華が首を捻る中、珀弧は立ち去っていった。

 珀弧はいなくなったが、ロンとコウがお盆をはさんでちょこんと座り、凍華が食べ始めるのを今か今かと待っている。その様子にちょっと居心地の悪さを感じつつ、凍華は箸を手にして粥を食した。

「おいしい」
「凛子が作った」

 右手がしゅっと上がって一人が答える。

「凛子さんって誰?」
「掃除してくれる」

 今度は左手が上がる。

「遊んでくれる」
「お風呂に入れてくれる」
「「でも、怒ったら怖いんだよ!!」」

 最後に二人は顔を見合わせ、頬に手を当てた。
 ぷにぷにとした頬がへこみ、唇がくちばしのように尖がるそのさまが愛らしく、凍華がまた微笑めば、二人はさらに喜んだ。
 そんな二人を見つつ、食事を進める。

(凛子さんという方は女中さんかしら? 食事を済ませたらお礼を言って、食器を洗って、他に何か手伝うことがあるか聞いてみよう)

 お世話になるのだから少しでも役に立ちたい。大したことはできないけれど、命を助けてもらったお礼と、寝る場所と食事に見合う働きはしようと思う。
 自分に何ができるかと考えていると、箸を止めた凍華をロンとコウが心配そうに覗き込んできた。
「おいしくない? 嫌いなものはいっていた?」
「いいえ、嫌いなものなんてないわ。ロン」

 名前を呼ばれたことにロンは目をパチパチさせると、次いで阿吽の呼吸のようにコウとくるくる回り始めた。ピタリと止まると期待を込めた瞳で凍華を見上げてくる。

「ロン、コウ、お返事をして」
「「あい」」

 同時にあがる右手と左手に凍華は笑いを堪えながら、「こっちがロンであなたがコウね」と言えば、二人とも零れそうなほど目を見開いた。

「「花嫁さん凄い!!」」

 わーい、と喜んで飛び跳ねる二人。

(私は花嫁さんじゃないのだけれど)

 そう思いながら食べた粥は腹だけでなく胸までもあたたかくした。
 縁側に出て走り始めた二人を眺めながら、今度は里芋の煮つけを頬張れば、ふわりと柔らかく甘い風味が口に広がる。

(こんなふうに食事をするのはいつぶりかしら)
 
 半年? 一年? いや、もっと昔のような気がする。
 ゆっくりと穏やかな食事に身体からゆるゆると力が抜け、食べ物の味がはっきりと分かる。

(私、ずっとこうして食事をしたかったんだ)

 現し世で叶わなかった願いがまさか妖の屋敷で叶うなんて、不思議な気持ちだ。
 少し目の前の景色が滲むのを袖で拭き、凍華は食事を続けた。