庭の植木に水をやっていたロンとコウだったが、いつの間にか水を掛け合い始めた。
「うわっ」「やったな」と初めこそ和やかな光景は、次第に本格的になっていく。
 凍華は縁側から苦笑いを浮かべながらそれを眺めていた。
 相変わらず暑いのは苦手で、手には氷の入った冷たいお茶がある。

「凍華」

 名前を呼ばれ振り返れば、夏物の単衣の着物をきた珀弧が立っていた。
 少し襟元を楽にしたその着こなしは、無駄に色気を放っていてなんとも目の毒である。

「珀弧様、お帰りになられたのですか」
「ああ、帝都は暑いな。夕涼みをしていたのか」
「はい。ロンとコウがはしゃいでおります」

 まったくあいつ達は、と珀弧は小さく息を吐きながら、凍華と同じように縁側に座った。
 が、問題はその座る場所にある。

「あの、珀弧様?」
「なんだ?」

 後ろから凍華を抱きしめるよう座られては、その近さに心臓が早鐘のようになる。
 
「近いです」
「何か問題でも?」

 大ありだが、それを言い出せない圧で珀弧が凍華を見つめる。
 凍華が身体を捻りむむっと口を尖らせていると、首の後ろに突然冷たいものを当てられ「ひゃぁ」っと声が出た。
 凍華の背後に回された珀弧の手がいつの間にか氷を掴んでいて、それを凍華の首に押し当てたのだ。

「お前は暑さに弱いからな」

 そういいながら、今度は頬に氷を当てられた。冷たさが心地よいがそれ以上に恥ずかしく頬を赤めれば、その反応を喜ぶかのように珀弧が甘く微笑んだ。

 正臣から記憶を奪い、妖の里へ帰ってきてひと月が経った。
 人間の里と季節は同じようで、今は文月。夕方になり涼しい風が吹き始めたとはいえ、まだ気温は高くじっとりと汗ばむ。

(珀弧様が離してくれないことも原因なのだけれど)

 しっかりと腰を掴まれ、身体を寄せられているせいか、先ほどより汗ばむ。腕を伸ばし縁側に置いてあった団扇をなんとか取ると、それで珀弧を扇いだ。

 緩やかな風に銀色の髪が靡き、珀弧の目が細められる。

 妖は執着心と独占欲が人間より強い、と凍華に教えたのは河童堂の店主だった。
 凍華がいなくなり、帝都でなにやら騒ぎがあったことを知った店主は、数日後、心配をかけたと謝罪にきた凍華を見て心の底から安堵したように眉を下げた。

 珀弧から凍華のことを頼まれていたのにと責任を感じる店主に、凍華は自分の不注意だと頭を何度も下げた。さらには珀弧までもが「心配をかけた」と謝罪したもんだから店主は目を丸くし二人を交互に見た後、何かを察したように大きく頷いた。

「ようは、上手く纏まったということですね」

 そうかそうか、と破顔する店主に、凍華は頬を染め、珀弧は鷹揚に頷いた。

 珀弧が凍華の手から団扇をとり、変わりに扇ぎ始めた。
 首の後ろで髪を纏めた凍華のおくれ毛が、涼し気に揺れる。

「ロン、コウ、水を張った盥をもってこい」
「はい!」

 ぴたりと遊ぶ手を止めると、ふたりは裏庭のほうへ走っていった。ぴょんぴょん、くるりと飛び跳ねるその姿は、疲れ知らずで凍華は少々羨ましくなる。

 珀弧に扇がれるのは申し訳ないのだが、これが初めてのことではない。
 もはや、夕暮れの定番の光景である。
 初めこそ、そんなことはさせられないと団扇を取り返そうとした凍華であったが、珀弧が頑として手放さないので、最近はすっかり諦めた。
 こんなに甘やかされて、自分は駄目になってしまわないかと心配もするが、珀弧が嬉しそうなのでされるがままになっている。
 気持ちのよい風に凍華が目を細めていると、珀弧が少し躊躇いがちに口を開いた。

「楠の家の者の行方はまだ分からない。どうやら京吉は借金取りに掴まりどこかの炭坑に送られたらしいが、詳細は不明だ。雨香はおそらく廓にいるだろう」
「叔母はどうでしょうか?」
「同じく借金とりのもと働かされているのだろうが、知りたいか」

 珀弧の問いに暫し考えたのち、凍華は首を振った。

「私はここで珀弧様と一緒に生きていくと決めました。叔母達のことは……今までのことも含め忘れることにします」
「お前が望むなら、罰を与えることもできるのだぞ」
「そこまで望みません」

 凍華は小さく首を振る。幼い時から虐げられ、辛く苦しい日々を送ってきたけれど、叔母達を罰したところでその日々がなくなるわけではない。
 珀弧の手が伸び、凍華のおくれ毛をくるくると指に巻く。ふわふわの羽のような手触りがすっかり気にいったようだ。

「ただ、あの泉にだけはもう一度行ってみたいです」
「惑わし避けの花が咲くという泉か」
「はい。幼い頃、そこに父と一緒に行ったことを思い出したのです。あの泉の傍に惑わし避けの花が咲くのは亡き母の力のおかげです」
「なるほど。妖の里に咲く花がどうして人間の里で咲くのか不思議だったけれど、人魚の力か」
「母がなぜ亡くなったのかは分かりませんが、私のことを大事に思ってくれていたことは伝わりました」

 父と母、二人はどんな出会いをして、どのような言葉を交わし、愛しあったのか今はもう分らない。
 でも、ふたりで花を守ってきたのが凍華のためだということは分かる。

「ずっと、こんな自分なんて生まれてこなければ良かったと思っていたのですが、今は生んでくれた母と守ってくれた父に感謝しています」
「そう思えるようになって良かったな」
「はい。おかげで珀弧様に会えましたし」

 無意識に凍華が笑ったその笑顔が眩しく、珀弧は思わず目を細めた。
 そして、絡めていた髪から指を解きそっと頬に当てると、優しく唇を塞いだ。
 
「珀弧様、盥を持ってきたよ」
「お水いっぱい」

 ロンとコウが、よいしょ、よいしょと言いながら盥を縁側の下まで運んできた。

「あれ、凍華、顔が真っ赤だよ」
「珀弧様は嬉しそうだ」
「もういいからお前達は凛子の手伝いでもしていろ」

 そういうと珀弧は凍華を抱え立ち上がり、縁側の縁までくるとそっとおろした。
 自分は草履を履いて庭に降りると盥の前に座り、縁側から降ろされている凍華の足に手を掛けた。

「は、珀弧様何を……」

 されるのですか、と言うより早く、珀弧が凍華の足を盥に入れる。さらに、ちゃぽんちゃぽんと手で水を掬い足に掛けた。

「だ、駄目です。そんなことをされてはいけません」
「どうしてだ?」
「どうしてって……私のような者の足を」
「私のような、は禁句だといったはずだ」

 ちゃぽん、と今度は反対の足にも水をかける。本来なら涼しむところだが、余計に汗が出てくる。

「自分でできます」
「俺がしたいんだ」
「恥ずかしです」
「ではなおさら、止められないな」

 珀弧が凍華を見上げながらニヤリと笑う。そのまま身体を起こし縁側に手をつくと、顔を近づけてきた。

 凍華はそっと目を閉じる。
 長い口づけに身を任せる二人の横を夕風が通り抜けていった。