「……俺を食え」
「…………えっ?」
凍華の目が大きく見開かれた。
(聞き間違い? 今、自分を食べろと言ったの?)
意味が分からない。しかし、正臣の瞳は惑わされたかのように胡乱なものへとなっていく。
「あなたを食べろというの?」
「この肉体は、どれだけ傷つけても蘇ってしまう。お前達人魚は魂を食うんだろう。俺はもう、こんな世から消えたいんだ。何年、何百年と生き続けてもただただ空しいだけ。どこにも居場所はなく彷徨うことしかできない。親しくなったものはどんどん老い、死んでいく。ただ死ぬのなら良いが、最後には俺のことを化け物と罵しり恐れるのだ」
「……自ら望んで人魚を食べたのでしょう?」
「齢二十の若造に、こんなことまで想像できるはずがなかろう」
凍華の眉根が深く寄せられる。
嫌悪感を露わにするも、正臣はもうそんなことに気づかないほど陶酔していた。
「俺は人間だ。お前達みたいな化け物じゃない」
あまりにも自分勝手な言葉に、凍華の全身が暴れるように反応した。
気づいた時には上に乗っていた正臣を突き飛ばし、変わるように馬乗りになると、喉仏の下に細い指を食い込ませた。
「あなたが殺した人魚は苦しんだはずよ」
声が変わる。甘く惑わす声が他人のもののように聞こえた。
周りの景色が紗をかけたように霞むのに、目の前にいる正臣だけが妙にその輪郭をくっきりとさせる。
「千年前の話など、覚えていないしどうでもよい」
「命乞いをしなかった? 彼女にも好きなものがあったはず。大切なものがあったはず。その命を身勝手に奪ったのはあなたでしょう」
「化け物の気持ちをどうして俺が慮らなければいけない。そんな道理はない」
「……あなたこそ、化け物よ」
首を押さえていた手に力がはいる。
激しい喉の渇きと飢餓に、本能的に凍華は口を開けた。
赤い唇が冴え冴えとした月明かりの下、照れっと艶めかしく輝く。
(いやだ、食べたくない。たとえこんな男でも、命を食うなんてしたくない!!)
そう思うのに、体はまるで本能に抗えないかのごとく正臣に近付いていく。
心の内では飢餓と必死に戦いなんとか理性を保とうとしているのに、喉を押さえる手にはますます力が入る。
どうすれば良いか、誰にも教わっていないのに本能で理解していた。
その赤い唇が、正臣の唇を塞ぐようにさらに距離を縮める。
(いや! 絶対にいやぁぁl!!)
凍華の動きがぴたりと止まり、正臣の顔にぽたりぽたりと赤い血痕がしたたり落ちた。
自分の唇を血が出るまで噛みしめ、涎を垂らし、必死に耐える凍華がそこにいる。
月の明かりは容赦なく彼女を照らし、その黒い髪が次第に淡い水色へと変わっていく。
「食え。俺の魂を食って、俺の苦しみを終わりにしてくれ」
「勝手な……ことを言わないで。あなたの思い通りにな……んか、動かないわ……!!」
必死に耐えながら、正臣の顔を睨みつける。
視線が絡まり、一瞬時が止まったかのようだった。
しかし、先に動いたのは正臣。自分を押さえていた手を払いのけると上半身を起こし凍華の顎を掴んだ。
「お前達、化け物に意思も感情も選択肢もない。黙って俺の言う通りにすればいいんだ!!」
咆哮とともに、その唇を凍華に無理やり押し付けようと抱き寄せた。
その時だ。
「凍華!!」
背後から肩を掴まれ、正臣から引き離された凍華は、逞しい腕に包まれた。
懐かしくさえ思える匂いとぬくもりに心の底から安堵がこみ上げてくる。
見上げればそこには銀色の髪を靡かせた珀弧の姿があった。
「珀弧様!」
「良かった。間に合った」
「申し訳ありません。少し出歩くつもりだったのですが、雨香に見つかって……」
「雨香、あの時の女か。なるほど、あの女を利用して凍華を俺から引き離したというわけか」
珀弧は一度強く凍華を抱きしめると立ち上がり、凍華を背に庇った。
「妖を憎むお前が、どうして凍華にそこまで執着するんだ」
「所詮、化け物には分らんことさ」
珀弧は懐から十尺あまりの木の棒を取り出すとそれを握りしめた。
途端、棒の先に鋭い刃が現れ、月明かりの下鈍く光る。
「……その軍人は、私に自分を食べさせようとしたのです。人魚の肉を食べて不老不死となった身体を疎ましく思い、その命を終わらせるために私を探していたのです」
「自身を食わせるだと? なるほど、何百年もたってようやく不老不死の本当の意味を知ったというわけか」
珀弧の目が蔑むように正臣を見る。
この二人が初めて刀を交じ合わせたのは三百年前。
斬ってもすぐに治癒する身体に加え何十年も変わらぬ姿に、珀弧は正臣が何をしたかすぐに悟った。
妖と妖狩りとして幾年にも渡り出会い、斬り合い、初めこそ圧倒的に珀弧が優勢だったが、長い時を経て力量は拮抗したものとなった。
二人の殺気立った空気に息を潜める凍華であったが、その喉の渇きと飢えがおさまったわけではない。
こうしている間も、何度も二人に襲い掛かりたい衝動に駆られていた。
と、突然上から銀色の花びらが降ってきた。
雪のようなそれは、次から次へと舞いおり、凍華の足元に落ちていく。
それと同時に甘く濃厚な香りがあたり一面に立ち込める。
「凍華、花持ってきた」
「沢山、集めた」
ポンポンと、闇夜に狐火が浮かぶと、すぐにそれはロンとコウに姿を変えた。
その両手には惑わし避けの花が沢山抱えられている。
「結界をはる」
「その中に花と凍華を閉じ込める」
「えっ?」
なに、と聞き返す間もなく、凍華を囲むように透明の壁が出来上がる。
閉じ込められた花の香りが濃度を高め、それにつれ喉の渇きがおさまっていく。
月明かりを受けているのでまったく飢餓感がなくなったわけではないが、充分に制御できる程度には落ち着いてきた。
「ありがとう、ロン、コウ」
「俺達、もう行く」
「えっ?」
「ここを探すのに珀弧様、沢山の使役狐を使ったから、妖狩りがうようよしている」
珀弧が作り出した使役狐の数は、以前凍華を探した時よりもずっと多かった。
凍華が店を出て間もなく河童堂に戻ってきた珀弧は、凍華がひとり店を出たと聞いてすぐに後を追った。
大通りを隈なく探すも姿は見えず、嫌な予感にかられロンとコウ、それから凛子を呼びだし、さらには使役狐を帝都に放った。
「でも、ここを探し当てたのは使役狐じゃない」
「それじゃ、誰が私を見つけてくれたの」
「河童堂の店主が、知り合いの妖に声をかけてくれた」
「皆、凍華の組紐に感謝していたから、手を貸してくれた」
声をかけた妖が、気を失った凍華が馬車に乗せられるのを偶然見ていた。
その時は凍華だとは知らなかったが、河童堂の店主がいう容姿と服装が同じだったからと知らせにきてくれたのだ。
そのあとは馬車を見かけた妖を探し、正臣の屋敷にたどり着いた。
「それじゃ、俺達、行く」
「うん、ちゃんと妖狩りから逃げてね」
凍華が心配そうに眉を下げれば、ロンとコウは顔を見合わせ首を傾げた。
「違うよ、妖狩りをここに近付けないために行くの」
「珀弧様の邪魔はさせない」
えっ、と思う凍華の前で、二人はくるりと回ると、年若い青年に姿を変えた。
珀弧と同じ銀色の髪に琥珀色の瞳。身体こそ珀弧より一回り小さいが、黒袴に帯刀するその姿は勇ましい。
唖然とする凍華に、二人はいつものようににこりと笑うと、右手と左手を振り去って行った。
それを目の端で見届けた珀弧は、改めて正臣を見据える。
「さて、そろそろ決着を付けねばならぬな」
抑揚のない珀弧の声は、恐ろしいほどの怒りをはらんでいた。
正臣が刀を構えたまま距離を詰めると、珀弧はそれを受けるかのように切先を正臣に向ける。
暫くそのまま睨み合う中、先に動いたのは正臣だった。
真っ直ぐに振り落とされた刀を、珀弧は半歩下がり避けるとすぐ真横に移動し、正臣の右腰から左肩目掛け刀を振り上げる。
形状こそ日本刀だが、その周りを銀色の靄のようなものが囲んでおり、刀を振れば尾鰭のように刀の後ろに靡いた。
動きが早すぎて、凍華には銀色の煙が舞うようにしか見えないのに、正臣は手首を返すとすぐに珀弧の刀を刀身で受け止めた。まるでその刀筋をあらかじめ読んでいたかのように無駄のない動きだ。
じりっ、とお互いの足に力が入り鍔迫り合いのように力が拮抗する。
どちらも引くことはなく、射るような視線が宙でぶつかる。
ぼん、と狐火が現れた。
ひとつ、ふたつと増えれば、正臣は飛び跳ねるように後ろに下がり珀弧と間合をとる。
「狐火で俺を幻惑させるつもりか。甘いな」
正臣は刀を頭上高く上げると、次いで勢いよくそれを振り落とした。風が舞い上がると同時に狐火が揺れ、消え失せる。
「さすがに、そう何度も同じ手は通じないか」
「化かすことしか能のないお前では、不老不死の俺を殺すことはできない」
妖といえど、傷を負えば血が流れる。その治りは人間より早いが決して不死身ではない。
再び刀がぶつかる音が静かな庭に響いた。珀弧が回り込めば、正臣はそれを力でねじ伏せる。狐火が舞うも、刀で起こされた風ですぐに消された。
しかし、珀弧も決して負けてはいない。
隙をつき正臣の腹を刀で斬る。その瞬間は正臣とて血を吐きふらつくのだが、一呼吸のちには傷口が塞がっていた。
「なるほど、今日は満月。人魚を食べたお前の妖力も最大限に高まるというわけか」
珀弧が斬られた腕から流れる血をぺろりと舐める。
激しいぶつかり合いと飛び散る血に、凍華の顔は青ざめぶるぶると身体が震えた。
(このままでは珀弧様が危ない。不死身相手に勝ち目なんてないわ)
力が拮抗しているとはいえ、いずれ疲労が出てくる。妖とはいえ体力が無尽蔵にあるわけではない。
凍華の喉がごくりとなる。
(あの軍人の目的は私に食べられること。私さえ覚悟を決めれば、珀弧様を助けることができる)
たとえそれが人道に外れることであっても、珀弧が斬られるのをこれ以上見たくない。
ましてや、命が危ないのであれば……
結界の中には惑わし避けの花の香りが充満し、かろうじて凍華の食欲を押さえてはいるが、ここから一歩でもでれば満月の光により激しい飢えが襲ってくる。
(きっと、この結界を出たら私は正気でいられない)
今までは、満月の光を避け雨戸を閉めた部屋の中で夜を明かしていた。それでも、惑わし避けの花の力を借りなければ衝動を抑えられなかったのだ。
ここで、月明かりで照らされた庭にでればどうなるか……。
(きっと自分で自分を押さえられない)
凍華はぎゅっと目を瞑り、大きく深呼吸した。
思い出すのは妖の里で過ごした日々。
珀弧と一緒に裏山を手を繋いで歩いたこと。
凍華の知らない帝都を教えてくれ、物珍しそうにあちこち目を遣る凍華を優しく見守ってくれたこと。その髪には凍華が作った組紐がいつも結ばれていた。
疎ましく思っていた青い目を美しいと言ってくれ、うねって絡む髪を鳥の羽のようだと撫でた珀弧。
何度も抱きしめられ、優しく背中を撫でられた。
(珀弧様を助けたい。私はどうなってもいいから、珀弧様だけは……!!)
胸に熱い物がこみ上げてきた。
自分自身をないがしろにして生きてきた凍華が、初めて誰かを大切だと、かけがえがないと思う。
涙で視界が滲んできた。自分が誰かを愛おしいと思える日がくるなんて思わなかった。
凍華は立ち上がると、足を結界の外に踏み出す。
少し出ただけなのに、つま先から痺れるような力が全身を突き抜けた。
それでも踏みとどまることなく、もう一歩、息を止めるかのようにしてさらに一歩踏み出し、凍華は結界の外に出た。
その瞬間、押さえていたはずの飢えがものすごい勢いで全身を駆け巡る。
「凍華! 結界の中に戻るんだ」
「私が……私がその男を食べれば、すべてを終わらせることができます」
「駄目だ。人を食いたくないとあれほど耐えていたではないか。毒の花を食らい、どれだけ苦しんでも、凍華はその一線を守りたいのだろう」
「私は……私はそれ以上に珀弧様を助けたいのです」
涙が決壊したかのように瞳から溢れるた。
銀の雫のようなそれは顎を伝い、凍華の胸元に染みを作る。
止まった空気を切り裂いたのは、正臣の乾いた笑いだった。
「ははは!! そうだ。そうすれば珀弧は助かる。俺を食え、そしてお前達がかけた人魚の呪いを解くんだ」
正臣が大きく両手を広げ、恍惚の表情を浮かべる。
狂ったような笑いが庭に響く中、珀弧が刀を握る手に力を込めた。
すぅ
小さく息を吸ったその瞬間、珀弧は地を蹴った。と、同時に幾つもの狐火があたりに浮かぶ。
ざっ、と風を斬る音とともに、珀弧は正臣の腹に深く刀を突きさした。
「ぐっ」といううめき声と共に血が吐き出され、腹が赤く染まっていく。
それを珀弧は冷淡に、殺気に満ちた目で見た。
「ははは、隙をついたつもりか。しかし、これぐらいの傷、満月の力を得た俺ならすぐに治せ……なに?」
正臣が自分の両手足を見る。
狐火が足枷手枷のように絡みついていて、正臣の動きを封じていた。
「お前に隙ができるのをずっと待っていた」
珀弧が刀を引き抜けば、血が飛び散り、しかしすぐに腹の傷が塞がっていく。
刀をぶんと振り血を吹き飛ばした珀弧は、切っ先が正臣の頭を突きさすように目の高さで構えた。
「俺にお前を殺すことはできない。しかし、記憶を惑わすことはできる」
「な、なにをするつもりだ」
「お前から人魚の記憶を全て消し去る。お前はこれからも老いることなく生き続けるのだ。今まで感じた孤独と絶望をもう一度味わい直せばよい。その原因も解決方法も分からぬまま、苦しみ悩み、ひたすら彷徨うように孤独に生きるんだ」
正臣の顔から血の気が失せていく。
歳をとらないことで後ろ指をさされてきた。どこに行っても、どの時代でも奇異な目でみられ、避けられ、畏れられ、孤独に耐えてきた。
その原因が人魚の肉を食べたからと知っていたから、まだ事実を受け入れることができた。
人魚に魂を食われれば、長く辛い虚無な人生を終わらせられると希望を持てた。
しかし、全ての記憶を奪われたら。
原因も、解決方法も分らぬ中生き続けなければいけない。苦しみ続けなければいけない。
「や、やめろ! 頼む、やめてくれ」
「お前は凍華が助けを求めたときどうした? 捕まえた人魚も命乞いしたのではないか」
正臣は必死に手足を動かそうとするも、その動きは硬く封じられている。
「安心しろ、化かす、惑わすは妖狐の十八番。お前の記憶を惑わかすなど他愛のないことだ」
珀弧が地を蹴った。
刀がまっすぐに正臣の額に向かい――そして貫いた。
「うぐっつわlっっ!!」
断末魔とともに正臣が地面に倒れ込む。
刀が突き刺さったままの姿で正臣はなおも珀弧を睨むも、激しい痛みから身体をよじるばかりで起き上がることができない。
耐えられぬ痛みに、気を失うことすらできないようだ。
「憐れだな」
珀弧は鞘を持つと、それを引き抜いた。
血は流れ続けるも、その量がみるみる少なくなっていく。
「は、珀弧様」
「これ以上見るな。妖狩りが集結してきた。ロンとコウ、それに凛子だけではそろそろ限界だ。引き上げるぞ」
「ち、近づかないでください。今の私は……」
両手を前に突き出す凍華を、珀弧は強引に抱きかかえた。
「月光が届かない場所へ行く。捕まっていろ」
その言葉と同時に狐火が舞い、珀弧と凍華は姿を消した。
※
数十名の妖狩りが、灰堂隊長の屋敷の庭に踏み込んだのは、珀弧達が姿を消してまもなくのこと。
ばたばたという足音が庭を駆けていく。
「おい。妖狐の気配が消えたぞ!」
「さっきまでいた、若い妖ふたりの姿もないぞ」
あちこちで怒声が飛び交う中、ひと際大きな声が響いた。
「こっちに灰堂隊長が倒れておられる!」
声のする方に隊員達が集まれば、服を血で赤く染めた正臣が呆然とそこに座っていた。
「隊長、ご無事ですか?」
「隊長? 俺、のことを言っているのか?」
「ど、どうされたのですか。虚ろな表情をされておりますが……とにかく、ご指示を! 妖狐がさっきまでここにいたはずです」
「妖狐? そんなものがこの世にいるはずがなかろう。それより、お前達はいったい誰だ?
それにこの馬鹿でかい屋敷……こんなもの俺の村にはなかったぞ」
隊員たちが顔を見合わせ、息を飲む。
少し呆けたその表情は、田舎から出たての年若い青年のようで、第五部隊隊長として恐れられた面影はどこにもない。
いったいどういうことだ、と皆が考えていると、一人の隊員が震える手で正臣を指差した。
「お、おい。おかしくないか? どうして隊長は生きているんだ?」
「はっ、隊長の強さはお前も知っているだろう。妖ごときに負ける……」
「そうじゃない。その血だ! それだけの血を流してどうして平然としていられるんだ。隊長は人間なのだろう?」
正臣に一斉に視線が向けられた。
軍服の腹の部分には穴が開き大量の血で赤く染まっているのに、軍服から覗く肌には傷ひとつない。
そこだけではない。腕も、足も、服はところどころ切り裂かれ赤い血がべったりと付着している。それなのに、身体にはかすり傷ひとつないのだ。
誰かが呟いた。
「妖……?」
その言葉は波紋のように広がり大きくなり、やがてそれぞれの隊員が日頃から抱えていた疑問を口にしだす。
それが一つの結論にたどり着くのに、そう時間はかからなかった。
――この日の出来事は、第五部隊の日誌に簡潔にしか書かれていない。
第五部隊隊長の屋敷にて妖が暴れているとの報告あり。
駆け付けたところ、すでに隊長は息を引き取っていた。
屋敷の地下には妖に捕らえられたと思われる民間人が三名いたが、どの者も記憶が不明瞭のため自宅に帰すことにした。
後日、改めて話を聞きに行ったところ、自宅、土地、工場全て高利貸しに差し押さえられ、三名の民間人は行方不明。
娘らしき人物を廓で見たとの証言もあるが、真偽不明。
捕らえた妖一匹は、地下牢にて監禁。
真っ暗な部屋の中で、凍華は珀弧に抱きしめられていた。
人魚の本能に耐えるよう逆らうようその肩は小刻みに震え、両の手は硬く握るあまり爪が手のひらに食い込んでいる。
「月の光を浴びすぎました。……お願いです、この部屋から出て行ってください」
その声はいつもの凍華の声と違い甘く揺らいでいる。目の青も普段よりずっと濃く、髪の色も水色のままだ。
「断る。傍にいれば、もし凍華が暴走したとしても押さえることができる。凍華が誰も食いたくないと思っているのは重々承知しているし、その意思を支えたいのだ」
さらに腕の力が強まった。
珀弧の若草に似た匂いとぬくもりに、凍華のぼんやりとした視界が次第にはっきりとしてくる。
「珀弧様は……どうして私が怖くないのですか?」
声がいつもの凍華のものに戻っていた。
そのことに珀弧が僅かに安堵の表情を見せる。
「私は、いつ、珀弧様を惑わしてもおかしくありません」
「この前もいったが、食べることができるのと、実際に食うのとでは話が全く違う。俺は、凍華や凛子をいつでも斬ることができるし、ロンとコウを一息で消し去ることができる。でも、そんなことをするつもりはない。凍華は俺が怖いか?」
「まさか! だって、珀弧様がそんなことされはずありません」
凍華は顔を上げ珀弧を見上げた。
抱きすくめられているので、その整った顔は息がかかるほどの距離にある。
珀弧は海の底のような目を向けられ、一瞬その琥珀色の目を大きくするも、すぐに柔和な笑みを浮かべた。
「俺は随分と信用されているのだな。それなら俺も凍華を信用している」
「私なんかを信用してはいけません」
珀弧と違い、飢えを完全に制御できるわけではない。
廓で人を食おうとしたように、いつ本能のまま暴走するのか分からないのだ。
そう訴えるのに、珀弧は決して凍華を離そうとはしなかった。
ただ、二人はひたすら夜が明けるのを待った。
どれぐらいそうしていただろうか。
鳥のさえずりが聞こえ、障子の向こうから凛子の声が聞こえた。
「夜が明けました」
「分かった」
珀弧は答えると立ち上がり、雨戸を開ける。
初夏の朝日が心地よく、冷えた部屋の空気を温めていく。
珀弧はくるりと振り返ると、凍華に向かって微笑みかけた。
「ほら、もう夜は明けた。何も心配いらない」
「……珀弧様、私、ここを出ていきます」
凍華は姿勢を正すと、三つ指を付き畳に額が着くまで頭を下げた。
珀弧はその姿を暫く見つめたのち凍華の前に膝を付くと、肩に手を当て頭を上げさせる。
上体を起こすものの、俯き顔を上げようとしない凍華の頬に手を当て強引に自分の方を向かせれば、その顔は涙で濡れていた。
「どうして泣いている?」
「私にここにいる資格はございません」
「ここを離れるのが寂しくて泣いているのであれば、居れば良い」
凍華は袖で涙を拭うと頭を振った。ずっ、と小さく洟を啜る音がする。
「珀弧様を傷つけたくございません。私は自分の本能がどれほど恐ろしいものか身をもって知りました」
月の光を浴びた時に感じた激しい飢えと喉の渇き。
ずっと惑わし避けの花の力で抑えていたが、月光を浴びた時に感じた本能は凍華の想像よりはるかに激しくその身体を駆け巡った。
今、思い返しても、あの獰猛な飢えを良く抑えられたものだと思う。
「今回は偶然、うまくいきましたが、いつもこうだとは限りません」
「それでも、今ここでこうしているのは事実だ」
「次回はどうなるか分かりません。ですから、私はここを出たほうが……」
止まったはずの涙がまたあふれ出す。
珀弧はそれを指先で拭うと愛おしそうに凍華を見つめた。
「傍に居て欲しい。たとえ人魚であっても、俺を食らう可能性があるとしても、俺は凍華を手放したくない。愛しているんだ」
凍華の青い目が大きく見開かれた。
それは、自らの命を懸けるほどの深い愛の言葉。
珀弧は凍華の頬に手を当てると、そっと顔を近づけ、そして魂を吸い取るというその唇に自分の唇を重ねた。
びくりと凍華の肩が揺れ、珀弧がゆっくりと離れていく。
「は、珀弧様。私は、満月でなくても魂を吸い取ることができるのですよ」
「知っている」
「でしたら……っ」
再び唇が重なった。
まるで凍華に自分のぬくもりを分け与えるかのように長く交わされた口づけは、名残惜しそうにやがて離れていく。
「言っただろう。凍華が人魚であっても傍にいたいのだ。その頬に触れ髪を撫で、抱きしめ、口付けをしたい」
「わ、私……」
「今なら、凍華の父親の気持ちが良く分かる。命がけで俺はお前に惚れているんだ。だから、出ていくな」
珀弧の言葉に亡き父の姿が蘇った。
泉の前で花を植えながら父は凍華に語った。
どれだけ凍華の母を愛していたか。
たとえそれが道ならぬ、命を掛けた恋であっても止めることなどできなかったと、誇らしげに話し、そして少し寂しそうに笑った。
「俺より水華のほうが戸惑っていたが、彼女も俺を深く愛してくれた。だから、凍華。いつかお前を受け止めてくれる人が現れ、その人と一緒にいたいと思ったなら躊躇うな」
父は、目の前の泉に母が眠っていること、ここでだけ惑わし避けの花が咲くのは母が最期の力を振り絞って泉に妖力を流したからだと、凍華に教えた。
(どうして今まで忘れていたのだろう)
父と母の深い愛のもと、凍華は今、存在しているのだ。
命を掛けるほど恋焦がれる気持ちと、自分の本能を恐れながらそれを受け入れ愛したからこそ凍華は生まれた。
そして、そんな二人は、惑わし避けの花を育てることで凍華を守ってきたのだ。
いつか自分たちの娘を愛する人が現れ、娘が自分の運命を受け入れることを願って。
「私、珀弧様が好きです」
凍華の言葉に珀弧は目を見開いたのち、嬉しそうに口角を上げた。
今度は凍華が珀弧の頬に手を当てる。
「好きだから、一緒にいてはいけないと思っていました。でも、本当は離れたくないのです。ずっとお傍にいて、その声を聞いていたい。ぬくもりを感じていたい。私にそんなこと思う資格はないのに、でも……愛しているんです」
ぎゅっと力強い腕で抱きしめられ、凍華はそこで言葉を途切れさせた。
「一緒に生きよう。その運命も含め凍華を受け止める」
「はい」
二人は視線を合わせると、どちらからともなく目を閉じた。
三度目の口づけは、長く、深く。
朝日がいつまでも重なる淡い影を畳に落とした。
庭の植木に水をやっていたロンとコウだったが、いつの間にか水を掛け合い始めた。
「うわっ」「やったな」と初めこそ和やかな光景は、次第に本格的になっていく。
凍華は縁側から苦笑いを浮かべながらそれを眺めていた。
相変わらず暑いのは苦手で、手には氷の入った冷たいお茶がある。
「凍華」
名前を呼ばれ振り返れば、夏物の単衣の着物をきた珀弧が立っていた。
少し襟元を楽にしたその着こなしは、無駄に色気を放っていてなんとも目の毒である。
「珀弧様、お帰りになられたのですか」
「ああ、帝都は暑いな。夕涼みをしていたのか」
「はい。ロンとコウがはしゃいでおります」
まったくあいつ達は、と珀弧は小さく息を吐きながら、凍華と同じように縁側に座った。
が、問題はその座る場所にある。
「あの、珀弧様?」
「なんだ?」
後ろから凍華を抱きしめるよう座られては、その近さに心臓が早鐘のようになる。
「近いです」
「何か問題でも?」
大ありだが、それを言い出せない圧で珀弧が凍華を見つめる。
凍華が身体を捻りむむっと口を尖らせていると、首の後ろに突然冷たいものを当てられ「ひゃぁ」っと声が出た。
凍華の背後に回された珀弧の手がいつの間にか氷を掴んでいて、それを凍華の首に押し当てたのだ。
「お前は暑さに弱いからな」
そういいながら、今度は頬に氷を当てられた。冷たさが心地よいがそれ以上に恥ずかしく頬を赤めれば、その反応を喜ぶかのように珀弧が甘く微笑んだ。
正臣から記憶を奪い、妖の里へ帰ってきてひと月が経った。
人間の里と季節は同じようで、今は文月。夕方になり涼しい風が吹き始めたとはいえ、まだ気温は高くじっとりと汗ばむ。
(珀弧様が離してくれないことも原因なのだけれど)
しっかりと腰を掴まれ、身体を寄せられているせいか、先ほどより汗ばむ。腕を伸ばし縁側に置いてあった団扇をなんとか取ると、それで珀弧を扇いだ。
緩やかな風に銀色の髪が靡き、珀弧の目が細められる。
妖は執着心と独占欲が人間より強い、と凍華に教えたのは河童堂の店主だった。
凍華がいなくなり、帝都でなにやら騒ぎがあったことを知った店主は、数日後、心配をかけたと謝罪にきた凍華を見て心の底から安堵したように眉を下げた。
珀弧から凍華のことを頼まれていたのにと責任を感じる店主に、凍華は自分の不注意だと頭を何度も下げた。さらには珀弧までもが「心配をかけた」と謝罪したもんだから店主は目を丸くし二人を交互に見た後、何かを察したように大きく頷いた。
「ようは、上手く纏まったということですね」
そうかそうか、と破顔する店主に、凍華は頬を染め、珀弧は鷹揚に頷いた。
珀弧が凍華の手から団扇をとり、変わりに扇ぎ始めた。
首の後ろで髪を纏めた凍華のおくれ毛が、涼し気に揺れる。
「ロン、コウ、水を張った盥をもってこい」
「はい!」
ぴたりと遊ぶ手を止めると、ふたりは裏庭のほうへ走っていった。ぴょんぴょん、くるりと飛び跳ねるその姿は、疲れ知らずで凍華は少々羨ましくなる。
珀弧に扇がれるのは申し訳ないのだが、これが初めてのことではない。
もはや、夕暮れの定番の光景である。
初めこそ、そんなことはさせられないと団扇を取り返そうとした凍華であったが、珀弧が頑として手放さないので、最近はすっかり諦めた。
こんなに甘やかされて、自分は駄目になってしまわないかと心配もするが、珀弧が嬉しそうなのでされるがままになっている。
気持ちのよい風に凍華が目を細めていると、珀弧が少し躊躇いがちに口を開いた。
「楠の家の者の行方はまだ分からない。どうやら京吉は借金取りに掴まりどこかの炭坑に送られたらしいが、詳細は不明だ。雨香はおそらく廓にいるだろう」
「叔母はどうでしょうか?」
「同じく借金とりのもと働かされているのだろうが、知りたいか」
珀弧の問いに暫し考えたのち、凍華は首を振った。
「私はここで珀弧様と一緒に生きていくと決めました。叔母達のことは……今までのことも含め忘れることにします」
「お前が望むなら、罰を与えることもできるのだぞ」
「そこまで望みません」
凍華は小さく首を振る。幼い時から虐げられ、辛く苦しい日々を送ってきたけれど、叔母達を罰したところでその日々がなくなるわけではない。
珀弧の手が伸び、凍華のおくれ毛をくるくると指に巻く。ふわふわの羽のような手触りがすっかり気にいったようだ。
「ただ、あの泉にだけはもう一度行ってみたいです」
「惑わし避けの花が咲くという泉か」
「はい。幼い頃、そこに父と一緒に行ったことを思い出したのです。あの泉の傍に惑わし避けの花が咲くのは亡き母の力のおかげです」
「なるほど。妖の里に咲く花がどうして人間の里で咲くのか不思議だったけれど、人魚の力か」
「母がなぜ亡くなったのかは分かりませんが、私のことを大事に思ってくれていたことは伝わりました」
父と母、二人はどんな出会いをして、どのような言葉を交わし、愛しあったのか今はもう分らない。
でも、ふたりで花を守ってきたのが凍華のためだということは分かる。
「ずっと、こんな自分なんて生まれてこなければ良かったと思っていたのですが、今は生んでくれた母と守ってくれた父に感謝しています」
「そう思えるようになって良かったな」
「はい。おかげで珀弧様に会えましたし」
無意識に凍華が笑ったその笑顔が眩しく、珀弧は思わず目を細めた。
そして、絡めていた髪から指を解きそっと頬に当てると、優しく唇を塞いだ。
「珀弧様、盥を持ってきたよ」
「お水いっぱい」
ロンとコウが、よいしょ、よいしょと言いながら盥を縁側の下まで運んできた。
「あれ、凍華、顔が真っ赤だよ」
「珀弧様は嬉しそうだ」
「もういいからお前達は凛子の手伝いでもしていろ」
そういうと珀弧は凍華を抱え立ち上がり、縁側の縁までくるとそっとおろした。
自分は草履を履いて庭に降りると盥の前に座り、縁側から降ろされている凍華の足に手を掛けた。
「は、珀弧様何を……」
されるのですか、と言うより早く、珀弧が凍華の足を盥に入れる。さらに、ちゃぽんちゃぽんと手で水を掬い足に掛けた。
「だ、駄目です。そんなことをされてはいけません」
「どうしてだ?」
「どうしてって……私のような者の足を」
「私のような、は禁句だといったはずだ」
ちゃぽん、と今度は反対の足にも水をかける。本来なら涼しむところだが、余計に汗が出てくる。
「自分でできます」
「俺がしたいんだ」
「恥ずかしです」
「ではなおさら、止められないな」
珀弧が凍華を見上げながらニヤリと笑う。そのまま身体を起こし縁側に手をつくと、顔を近づけてきた。
凍華はそっと目を閉じる。
長い口づけに身を任せる二人の横を夕風が通り抜けていった。