「では、俺が戻ってくるまで凍華を頼んだぞ」
「はいはい、もう何度もその言葉は聞きました」
むむっと眉根を寄せる珀弧に対し、河童堂の店主はひらひらと手を上下させる。
「まったく、いつからそんなに心配性になられたのですか。ははは」
飄々とした態度もだが、珀弧を恐れぬその口調はやはり豪胆としか言えない。
しかし、少し目の離れたとぼけた顔が毒気を抜くのか、珀弧に不快な様子はなく、呆れ顔で嘆息した。
「まったく、お前にはかなわないな」
「何を仰います。ささ、もう行かなくてはならないのでしょう」
店主が壁にかかる古時計を指差せば、珀弧は「おっ、もうこんな時間か」と眉を上げた。
「では頼んだぞ。凍華、ゆっくり茶でも飲んでいろ。それからくれぐれも妖狩りには気をつけるんだ」
「はい、こうして組紐もしているので大丈夫です」
凍華は帯に結んだそれを指差す。珀弧に同じものをと頼まれ作った組紐だ。
はい、と手渡すと、これは凍華が使えば良いと言われ、河童堂に来るときはいつもこの組紐を選んでいる。
珀弧はあれ以来ずっと凍華の作った組紐を使っているので、図らずもお揃い、というわけだ。
「すぐに戻るから、大丈夫だとは思うが。しかし、正臣は随分お前に執着しているからな。気をつけるに越したことはない」
「執着? 私にですか?」
初めて聞いたと怪訝な顔をすれば、珀弧は失言をしたとばかりに口を押えた。
「……とにかく、あいつには気をつけろ」
「はい。珀弧様もお気をつけていってらっしゃいませ」
「うん」
少々珀弧の口調が気になるも、凍華は見送りの言葉と一緒に頭をさげだ。
珀弧はそれに小さく答えると、軽く手を振り河童堂を出ていく。
その後ろ姿にいつまでも手を振る凍華の後ろで、河童堂の店主がへへっと笑った。
「いやいや、まるで新婚夫婦のようで良いですなぁ。当てられるこっちとしてはむず痒いものがありますが、珀弧様のあんな甘ったるい顔、そうそう拝めないので貴重なものを見させてもらいました」
「そ、そんな。私はただ、珀弧様の家に居候しているだけで、夫婦ではございません」
「おや、まだそんなことを仰っているのですか。珀弧様、あんな色男面して奥手なんですなぁ。もっと、こう、がっつりいきそうなのに」
「……何をでしょうか?」
凍華が心底意味が分からないと眉を寄せれば、店主は「おやおや、こちらもですか」と再びへへっと笑う。
「兎に角、お幸せそうで何よりです。会うたびに、凍華様の肌が艶々、頬が薔薇色になっていくので、てっきりもう夫婦になられたと思っていたのですが、まだでしたか。ま、そこは私から珀弧様に助言しておきましょう」
「……ですから、何をですか?」
さらに凍華の眉が寄るも、店主は手をひらひらさせて笑うばかりで教えてはくれない。
「ま、その話は置いておいて、早速ですが組紐を拝見させていただけますか。さ、こちらの長机にどうぞ」
「はい。是非ご覧ください」
凍華は案内された長机に組紐を並べていく。
全部並べ終わったところで、店主はそのうちの一本を手に取った。
「相変わらず見事なできですなぁ。織目も揃っていて美しい。最近はこれを買っていく人間もいるのですよ」
「人間が、ですか」
「おや、そんなに驚かなくても。ここは帝都、妖も来ますが河童堂は人間相手にも商売をしていますよ」
(そうよね、店主はここで人として暮らし商売をしているのだもの。人間が買いに来ても不思議ではないわ)
大通りから入った場所にあるため客は多くない。
それに耳や尻尾があるならともかく人と同じ姿をしていては、凍華に人間か妖かの見分けがつかない。
商談の最中に客が来たことが何度かあったけれど、てっきり全員が妖だと思っていたのだ。
「この前叔母がきましてね。この組紐をえらく褒めていました。自分の店でも置きたいと言っているのですが、いかがでしょうか」
「叔母様、というのは、大通りの老舗呉服店の女将様でしょうか。私の作った品なんて扱っては、お店の顔に泥を塗るかもしれません」
慌てて首を振る凍華に、店主は鷹揚に笑う。手にしていた組紐を机に置くと、違う組紐を再び手にした。
「そんなことございません。どれも丁寧に作られた良い品です。こういうのは性格がでましてねぇ。凍華様の真面目で優しいお人柄が見て取れます。どうですか? 一度考えてみてくれませんか」
「……少しお時間をいただいてもいいでしょうか」
「もちろんです。ゆっくり考えてください。これからお子が生まれれば、組紐を作る時間も減るでしょうし」」
「ですから、私は居候で!」
「はいはい。そうでしたね。ははっ」
まったく食えない男である。凍華は否定するのを諦め、小さく息を吐いた。
(まだ、他の妖に会うのが怖い)
凍華の知っている妖は僅かだ。妖の血を引くという店主を入れても片手で数えられてしまえる。
人魚の血を引くという事実が、凍華をうしろ向きにさせていた。
(でも、私の組紐をあんな大店の女将様が認めてくれるなんて)
素直に嬉しい。帰ったら、珀弧に相談しようと凍華は思った。
「それから、頼んでいた品ですが、どうなりましたでしょうか」
「は、はい。試作品を作ってきました」
雑談を交えつつも、店主はしっかりと商談に話を戻す。
凍華は懐から手拭いを取り出すと広げ、包んできたものを店主に見せた。
「羽織紐と眼鏡紐、それから組紐で作った髪飾りです」
「おっ、これはこれは。依頼以外の品もご用意してくださったのですか」
「この前ここに来た時、若い女性が組紐で花を形作った髪飾りを買っていかれたのを見ましたので。少々不格好なのですが、数をこなせばもっと綺麗にできると思います」
店主はまず羽織紐、それから眼鏡紐を手に取る。
指先でさらりと撫で織目を確かめると、小さく頷き手拭いの上に戻す。
次いで髪飾りを手に取った。五枚の花弁を作りピンで髪に留められるようにしたものだ。
「ほう、これは始めて作られたのですか」
「はい。以前珀弧様に買っていただいた髪飾りを参考にいたしました」
赤い組紐で作られたそれは、動く度に長めの房がゆらゆら揺れる意匠だ。
「うん、悪くございません。正直に言えば、叔母の店に置く仕上がりではございませんが、河童堂の常連客様なら問題ないでしょう。うちは庶民向けの店ですしね。それに何より妖が喜びそうだ」
「では、置いてくださるのですか」
「次に来られるとき、五つ作って持ってきてくれませんか。まずはそれを置いて様子を見てみましょう。羽織紐は半年後に纏まった数が欲しいです。眼鏡紐は、そうですね、十本ほどお願いします。もちろんいつもの組紐も五十本。可能でしょうか」
「はい、ありがとうございます」
店主は長机の端に置いてある硯を引き寄せると、同じく端にある紙束から一枚を取り、注文の品を書き留め凍華に渡した。
凍華は試作品を再び手拭いで包むとその紙と一緒に懐にしまう。
すると店主は席を立ち、幾つかの髪飾りを手にして戻ってきた。
「こちら、新作でございます。持って帰って参考にしてください」
「ありがとうございます。おいくらですか?」
「差し上げます。凍華様のおかげで売り上げが二倍、三倍となっていましてね。ちょっと早い結婚祝いだと思って受け取ってください」
「ですから、私は居候で……」
「はいはい、包んでおきますね」
凍華の抗議をさらりとかわし、店主は奥にいくとそれを油紙で包む。
お盆にお茶と一緒に乗せ戻ってくると、懐から巾着を取り出し銀子を机に置いた。
「では、これは今回のお代です。次回も宜しくお願いします」
「はい。こちらこそお願いします」
二人揃って頭を下げ笑みを交わし合う。
(今日は、凛子さん達にどんなお土産を買って帰ろうかしら)
銀子を懐にいれながら凍華は考える。この前は煎餅、その前は金平糖。
暑くなってきたから水菓子もいいかも、と思っていると店の扉が開き数人の若い娘が入ってきた。
「いらっしゃいませ。凍華様、私はお客様を相手してきますが、ゆっくりしてください」
「はい」
店主が娘達の元へ行く。若い娘は皆、着飾り賑やかで、店の中が急に明るくなったように思う。
凍華は出された湯飲みを手にしながら、再びお土産を何にするか考えた。
(そういえば、私、珀弧様に何かを差し上げたことがないわ)
一緒にきて一緒にお土産を選んで帰る。そのせいか、珀弧のために品を選んだことがなかった。
(珀弧様が隣にいると恥ずかしいけれど、今日は私ひとり。今まで沢山お世話になったのだから、この機会に何かお礼の品を見繕いたいわ)
幸い、懐は銀子で温かい。
凍華は紙と筆を借りると、そこにさらと文字を書く。
『少し出かけてきます。直ぐに戻ります 凍華』
そう書置きをすると、接客する店主の邪魔にならないようそっと河童堂を後にした。
裏通りから大通りに出た凍華は、少し不安げに周りを見渡すと歩き始める。
ひとりで歩くのは初めてだけれど、何度か通ったことのある道だ。歩き進めるうちに足取りが軽くなってきた。
珀弧は自由に好きな場所を見て良いと言ってくれるけれど、やはり遠慮はしてしまうというもの。
気兼ねなく軒下に並ぶ品を眺め手に取るのは存外楽しく、凍華はどんどん進んでいった。
(珀弧様はなんでも持っていらっしゃるし、何を贈れば喜んでくれるかしら)
見かけによらず甘い菓子が好きなようだが、それでは凛子達へのお土産と変わらない。
毎晩、晩酌をしているので酒には強そうだが、凍華としては何か形が残るものにしたいところだ。
さてどうしようと思ったところで、大通りから少し入った場所に洋装の店があるのを見つけた。
細い通りに面した部分が硝子張りになっている珍しいその店の中には、背広や革靴と一緒にネクタイや帽子、杖なんかも置いてある。
眼鏡越しでは見にくいので外して袂にいれ、凍華は硝子に額を近づけた。
(ネクタイなんてどうかしら)
帝都に来るときは洋装が多い珀弧だ。あって困る物ではないように思う。
しかし、見慣れない洋装の服を扱う店だけに、入るのに勇気がいる。
どうしようかと硝子の前で右往左往していると、背後から名前を呼ばれた。
「凍華」
びくりと凍華の肩が震える。
聞き覚えのある声に頬を強張らせながら振り返ると、そこには洋装に身を包んだ雨香が立っていた。女学校の制服のようだ。