幾度もの満月の夜を珀弧と過ごし、季節は初夏を迎えていた。
 凍華は、窓から入る風に組紐を編む手を止め、伸びをひとつする。

 部屋の隅にある文机の上に置かれた木箱には、今月、河童堂に納品する予定の組紐が五十本程入っていた。黒、赤、萌黄色、浅葱、目にも鮮やかな組紐は、蚕もどきが作った繭から紡いだ糸も織り交ぜている。

「凍華、少し休まないか」
「はい」

 障子の向こうから声が聞こえ答えると、珀弧が硝子製の洋風の杯が乗った盆を手に入ってきた。
 杯の中の赤色の液体が鮮やかだ。

「凛子が紫蘇で作った。一緒に飲まないか」
「ありがとうございます。珀弧様がご用意されなくても、仰ってくれれば私がいたしますのに」
「俺が飲みたかったからだ。気にするな」

 珀弧はそういうと、蚕のいる部屋へと続く襖を開け、縁側へと向かう。
 凍華の部屋には窓があるだけで、縁側へ行くには一度隣の部屋を通る必要があるからだ。 
 その後ろを、座布団を一枚持った凍華が小走りで着いていく。

 二人で縁側に座り、茶や菓子を食べるのもすっかり日課になっていた。
 硝子に日が当たり、紫蘇の色がより一層鮮やかに見える。飲めば爽やかな酸味が口の中に広がった。

「冷たくて美味しいです」
「凍華が夏は苦手だと聞いて、凛子が何か対策できないかと考えていた。もっと暑くなれば、裏山の氷室から氷を持ってこよう」
「そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ」

 くすくす笑う凍華の頬は初めて妖の里にきたときよりふっくらとし、肌艶も良い。
 珀弧は指先でその頬に触れた。

「随分、元気になった。肉も着いたし健康的だ」
「それは太ったということでしょうか」
「健康的、と言っただろう」

 軽口をたたきながらも、凍華の心臓は早鐘のようにうるさい。
 珀弧に触れられた頬が熱を持ち、恥ずかしさからすっと身を引いた。 
 そんな様子を珀弧は目を細め眺める。口元は嬉しそうに弧を描いていた。

 満月の夜には相変わらず喉が渇く。
 でも、珀弧と一緒に何度もその夜を乗り越える度に、最近では飢えを抑えられるようになってきた。
 それが凍華の自信につながるとともに、二人の仲は近づいていった。

「今夜はまた満月です」
「怖いか?」
「はい。多分、これから先もずっと怖いと思います。でも、最近はあの飢餓感を押さえられるようになってきました」

 珀弧をまっすぐ見上げるその視線には、僅かだか自信が見て取れた。
 妖の里に来たばかりのときは、下を向き、おどおどとして、自分の気持ちも考えも持っていなかった。
 でも今は背筋をしゃんと伸ばし、顔には朗らかな笑みを浮かべている。

「やはり凍華は強いな」
「えっ」
「それに美しい」

 穏やかな笑みと共に珀弧の口から出た言葉に、凍華の顔は真っ赤になる。
 その反応すら珀弧は嬉しそうだ。

「そ、そんなことありません。髪だって珀弧様のようにさらさらではありませんし」
「細く柔らかくふわふわしていて、鳥の羽のようだ」
「目は青いです」
「海の底のように澄んでいて吸い込まれそうになる」
「~~!!」

 もう無理だと、凍華は頬を両手で包み真っ赤になって俯いた。
 すると珀弧がクツクツと笑うではないか。

「珀弧様、私を揶揄っておられますね」
「いや、思ったことを口にしただけだ」

(最近の珀弧様は私に甘すぎるわ。きっと冗談で仰っているのでしょうけれど、心臓がもたない)

 でも、楽しい。
 太陽の明かりの下、頬に直接風を受け笑っていられるなんて、楠の家にいたときには考えられなかったことだ。
 こんな時間が自分に訪れることがあるとは思わなかったと、凍華の胸は暖かさで満ちていた。

「すまないが、午後から河童堂に行く約束をしていたが、俺も仕事が入ってしまった。人間の里には一緒に行くが、河童堂には凛子と一緒に行ってくれ」
「それでしたら一人で大丈夫です。珀弧様のお仕事が終わるまで河童堂で待たせてもらいますから」

 月に一度は河童堂に組紐を渡しに行く。店主ともすっかり顔なじみとなり、世間話をする仲になっていた。
 店主は凍華が、人魚の血を引くことは知らない。知らせないほうがいいと凍華も思っている。

(人魚が妖たちにとって異質な存在なのは理解している。わざわざ伝えて怖がらせる必要もないし、私も今の関係を壊したくない)

 凍華の作った組紐は妖たちの間であっという間に話題となった。
 もう、あの不味い薬を飲まなくていいなんて、と受注が殺到し予約待ちになるほどだ。
 今はもう、昔ほど妖はいない。しかし、凍華の作る組紐は織目も美しくしなやかで結びやすいと本来の効能以外でも好評で、色違いで何本も求める妖が後を絶たないのだ。

 最近では羽織紐や眼鏡紐を作って欲しいと依頼もきている。
 自分の作った品を喜んで買ってくれる人がいることも、凍華の自信につながった。
 
 楠の家では虐げられ、ないがしろにされ育ってきた。いないも同然の扱いに心を殺し感情を無くし過ごしてきた。
 妖の里にきて少し前を向けるようになったが、異種族を食う人魚の血を引くと知り、再び自分なんていないほうが良いのではと考えた。
 でも、そんな自分の作ったものを待ってくれている人がいるということが、凍華にとって心を支える大きな柱となっているのだ。

 ただ、コウとロンと楽しく暮らし、凛子と親しく話し、珀弧に守られていただけでは、この気持ちになれなかっただろう。
 自分の力で、足で立てているという感覚が、何より凍華を強くした。

(珀弧様が、私の作った組紐を河童堂に置くよう頼んでくれたのも、取引を私に任せたのも、きっとこのためだったのね)

 隣を見れば、珀弧の銀色の髪が初夏の日差しにきらきらと輝いている。

(ずっとこの時間が続けばいい)

 そう願いながら、凍華は硝子に口をつけた。