人魚の血を引く花嫁は、月下のもと愛に溺れる


 衣擦れの音がし、珀弧が立ち上がる気配がした。
 やっと部屋から出て行ってくれると安堵する凍華だったが、次の瞬間、ふわりとしたぬくもりに包まれた。珀弧の濃紺の上着が目の前にある。

 宥めるように優しく背中を撫でられるのはこれで何度目だろうか。

「ここにいる、大丈夫だ。言っただろう、俺が守ると。一緒に朝を迎えよう。そうすればもう自分を恐れることもない」

 目の前が涙で霞んできた。
どうしてこんな自分に優しくしてくれるのか、そう問いかけたいのに声にならず、変わりにぎゅっと服を掴んだ。

(お母さんはお父さんを食べなかった。人魚としての本能を押さえることはきっとできる。ましてや、私には人間の血が流れているのだもの)

 そう思うのに、喉はどんどん乾いてくる。
 凍華は懐から『惑わし避けの花』で作った匂い袋を取り出した。

「今なら父がどうしてこの花を絶やさなかったか分かります。私が人魚としての力に目覚めないようにと、あの泉で花を育て続けていたのですね」

 男を食らう本能に目覚めるのは十六歳になってからだが、妖としての人ならざる力は生まれながらに持っている。寒さに強かったり、水の中で驚くほど息が続いたり、目立つことではないが、確かに凍華には人と違うところがあった。
 その力が大きくなるのを恐れ、父親は家の中を花の香りで満たしていたのだ。
 
 珀弧は袂から、先ほど摘んできたばかりの『惑わし避けの花』を取り出すと、畳の上にそれを置いた。そして後ろから包み込むように凍華を抱きしめ直す。

 喉の渇きがさらに強くなる。
 激しい飢えに目の前の光景がうつろになっていく。

「珀弧様……」

 その声に、珀弧がビクリと肩を震わせた。今までと違う憂いを帯びた甘い声は、珀弧の脳に直接響いてくる。
 凍華ははっと息を飲み自分の喉を押さえた。どうにか耐えねば。どうにか。

 それはもう、無意識だった。
 畳に置かれた花を手にすると、その花弁を口に含む。
 口内いっぱいに広がる甘い匂いは、それでいて喉の奥を痺れさせた。

「げほっ、げほ」
「大丈夫か」
「はい。喉が痛む代わりに渇きが幾分か楽になりました。ただ……眩暈が……」

 とそのままぐったりと珀弧に身を預ける。突然力が抜けたその身体を珀弧が抱きしめ揺すると、凍華はぼんやりと瞳を開けた。

「珀弧様は私が怖くないのですか。喉の渇きが幾分かおさまったとはいえ、今の私はあなたを食べることができます。妖力の差とか関係ないのです」

 それは、本能的な確信だった。
 自分より弱い者、小さい動物を見れば、戦わずともどちらが強いかは分かる。

「今は抑えおりますが、先ほどの声を再び出すことは容易なのです。きっとあの声は珀弧様を惑わし、私の呪縛から逃れられなくします」
「だが、凍華はそのようなことはしない」
「したくありません。ですが、上手く制御できるか分からないのです」

 はぁ、はぁ、と息が荒くなってくる。
 再び喉の渇きを感じ、花弁をもう一枚()めば、さっきより喉の痺れが酷くなった。

「おそらく、この花は私にとって毒なのでしょう。いざとなったらこれを私の口に押し込んでください」
「……分かった。だが、聞いてくれ。殺せるというのと殺すというのは違うのだ。今、喉の渇きを感じているとしても、それで自分を責めてはいけない。凍華はまだ誰も食っていないのだから」
 
 凍華はこくりと小さく頷くと、身体を捻り珀弧の胸に顔を埋めた。
 そこから珀弧の若草のような匂いと惑わし避けの花の甘い香りがした。
 喉の渇きを押さえるように、その香りで肺を満たす。

(この夜を乗り切れば……まだ珀弧様の隣にいれるかもしれない)

 ぎゅっと唇を噛み、襲ってくる激しい飢餓と喉の渇きに凍華は必死に耐えてた。


 ※

 間もなく夜が明けようとしている。
 珀弧は自分の腕のなかでぐったりとしている凍華の髪を優しく撫でた。

 何度も喉の渇きを訴えときには妖しい瞳で珀弧を見つめることもあったが、その度に凍華はハッとし、我に返って花を食んだ。

 食むほどに身体に負担がかかるのであろう。全身がぐったりとし、普段は冷たい身体が熱を発してきた。何かに耐えるように唇を噛み、拳を握り、身体を震わせる凍華を、珀弧はひたすら優しく抱きしめ宥めた。

 不思議と恐怖は感じなかった。
 今にも豹変して自分を食らうかも知れない女を腕に抱いているのに、恐怖よりも愛しさがこみ上げてくる。
 初めて会ったときは、妖狩りに追われている妖をいつものように助けただけだと思っていたが、今思えばあのときから凍華の澄んだ目が頭から離れない。

 細い身体に、痩せこけた頬、青白い顔。それに反するような鮮やかな朱色の長襦袢は、遊郭街ということもあり、どのような身の上か容易く想像ができた。

 俯き、生気のない表情は、それでも生きたいかと問えば、はっとするような美しい顔で「生きたい」と答えた。
 その瞬間、僅かの間だったけれど凍華の目に浮かんだ輝きに珀弧は惹きつけられた。

「あれが惑わしの力だとしたら、俺はすっかり凍華の虜になっていたのかも知れないな」

 身の上を調べさせ、その生い立ちに同情したのは確かだ。
 そんな辛い環境で育ったのに、優しく周りを思いやれる姿にどんどん同情ではない感情が芽生えていった。
 
 背を伸ばし、顔をあげ、少しずつだけれど前向きになってくる凍華を、支えてやりたい、守ってやりたいと思うようになってきた。

 若菜から、人魚の話をしたら凍華がいなくなったと聞いたときは、心臓が縮みあがった。どれほど手練れの妖狩りと刀を交えても出なかった冷汗が浮かぶ。
 すぐにロンとコウを呼び寄せ、至急で使役狐を作り出し、凍華を探させた。
 そんなもの使えば、妖狩りに見つかる可能性が高まるのは理解していたが、何より真実を知ってしまった凍華が心配だった。
 自分で自分を傷つけないかと、不安が胸を襲う。
 そんな気持ちになったのは、初めてのことだった。

 だからだろう、凍華を殴り罵る雨香を見たときは、引き裂いてやりたいほどの衝動にかられた。何とかその気持ちを押し殺し、凍華を連れ戻そうとするも引き留められ、思わず「花嫁」と言ってしまったのは、珀弧自身も予想外のことだった。

 離れたくない、失いたくない、奪われたくないという独占欲がとめどなく湧き出し、気づけば凍華の気持ちなど考えなしに口にしていた。

 危険なのは分かっている。
 本能に目覚めたばかりの凍華が我を忘れいつ珀弧を食らうかも知れない。でも、傍に置いておくことしか考えられなかった。
 
 人魚の力が一番強くなるのは満月の夜だが、だからといって男を惑わし食らうのがその夜だけとは限らない。
 凍華がいつ暴走し、珀弧を襲うかも知れないが、それでも離れたくない。

「おそらく、凍華の父親もそうだったのだろう」

 ロンの調べで父親が妖狩りだったことは分かっている。どんな経緯で二人が結ばれたのかは分からないが、妖狩りなら人魚の恐ろしさは充分に理解していたはず。
 それなのに、傍に居続け、生まれた子を育てている。そんな父親の気持ちが珀弧には手に取るように分かった。

 鳥が囀る声が聞こえてきた。
 どうやら、朝が来たようだ。
 腕の中の凍華は、毒にやられぐったりと眠っている。
 でも、その寝顔はどこか誇らしげに見えた。

「俺は随分厄介な女に惚れたようだ」

 珀弧は凍華の額にはりついた前髪を避けると、その額に口付けを落とした。

 帝都を守る軍内に、極秘任務を司る妖狩りができたのは今から三百年前。
 数多の妖を滅し、現し世を守ってきた自負が彼らにはある。
 その名を知る者はごく僅かで、一般的には第五部隊と言われている。
 その二十代目隊長に当たる、灰堂正臣は若い隊員との手合わせを終えると、軍服の胸元から煙草を取り出しながら、三十名の隊員に命じた。

「手合わせはこれで終わりとする! 続けて走りこみと素振りを五百回」

 空っ風の拭く訓練場に響く隊長の声に、隊員達は頬を引き攣らせ目を合わせた。
 かれこれ一刻の手合わせを終えたばかりで、さらには日も暮れようとしているのにまだ訓練は終わらないのかと、その表情が語っていた。

 すると、バキッと激しい音がし、隊長の手が近くの大木を震わえた。
 見れば正臣の手が木にめり込み、小さな亀裂が入っている。

「ついでに腹筋と腕立ても加えるか」
「は、はい!!」

 ヒッと息を飲み一斉に走り出すその後ろ姿を横目に、正臣は煙草に火をつけた。
 さっきまで若い隊員相手に刀を振っていたのに、その額には僅かに汗が滲むだけで疲労はまったく見えない。
 息切れをすることもなく紫煙を燻らせる姿は静止画のように美しく、この世の物とは思えない凄みがあった。

 少し離れた場所で、隊員の世話をする若い女中二人が、ほぉっと頬を染めその横顔を盗み見ていた。

「隊長様はいつ見ても凛々しく整ったお顔をしていらっしゃるわ」
「あの、冷たい目がまたいいのよね」

 長身細身でありながら鍛えられた体躯は軍服の上からも分かるほど。
 少し長い前髪からのぞく切れ長の目は、暗くそれでいて鋭い。
 笑ったところを見た者はいなく、常に冷たい視線と感情の読み取れない表情をしているのが、返って神秘的だと女性達からの人気は耐えなかった。

「あんたたち、隊長様が何歳か知っているの?」

 声をかけてきたのは五十歳ほどの小柄な女性。早くに夫を亡くし、そのあとずっと隊員の食事を作り続けてきたその女性は、気味が悪い物を見るように眉を顰めた。

「幾つって……。お若く見えますけれど、隊長なのですから三十路はいっていらっしゃいますわよね」
「私は三十路でも全然構わないわ」
「今、そういう話をしているんじゃないでしょう。あの、隊長様はお幾つなのでしょうか?」

 若い女中に問われ、小柄な女はもったいぶるように二人を手招きすると、口元に手を当て声を潜めた。。

「私より少し上だよ」
「えっ!?」

 二人は目を丸くし顔を見合わせると、次いで視線を正臣と小柄な女性、交互に向けた。
 若く、青年ともいえる見目をしている正臣が、初老に近い年齢だと知り、二人はぶんぶんと頭を振った。

「そんな! 冗談ですわよね」
「私のお父様より年上なんてありえないわ」
「そうだね、私もそう思うよ。でも、もっと不思議なのはね、第五部隊初代隊長も灰堂様と同じように歳を取らない方だったそうなのよ。しかも物凄い剣豪の美丈夫だったらしいわ」
「歳をとらない? でも、もう亡くなっていらっしゃいますよね」
「そりゃそうでしょう。第五部隊ができたのは三百年前。五十歳で退団された後のことは知らないけれど、妖じゃあるまいし生きているわけないでしょう。ただ……」

 そこで言葉を詰まらせる女性に、若い娘達はごくんと唾を飲み込む。
 なぜだか、これ以上踏み込んではいけないような気がするのに、続きが気になって仕方ない。

「初代隊長が退団され、彼を知る人が誰もいなくなったころ、また恐ろしく整った顔をした美丈夫が入隊したそうよ。その人も隊長となり、五十歳で退団するまで容貌が変わらなかったと聞いているわ」

 小柄な女の話では、同じことが数十年おきに第五部隊でおきているらしい。
 歳をとらない美丈夫の剣豪が隊長となり、若い姿のまま引退する。それから五十年ほど経ち、隊員が全員入れ替わった頃、新たに整った顔の凄腕の新人が入るという。

「子供か縁戚なのではないですか?」
「いや、件の隊長達は全員妻帯しなかったそうよ」

 ぞくり、と冷たい空気が三人の間に流れた。
 すると、もう一人の女中がその雰囲気を変えようと敢えて明るい声を出す。

「でも、見目が良いというだけで同じ顔ではないのでしょう。そんなの肖像画を見ればすぐに分かりますのも」

 第一部隊から第五部隊まで、各隊には隊長の執務室があり、そこには歴代の隊長の肖像画が飾られている。
 しかし、小柄な女はそんなことも知らないのかと、ため息を吐いた。

「あなた達、何も知らないのね。第五部隊だけ肖像画が飾られていないのよ」
「そうなのですか。そういえば、第五部隊の執務室だけは掃除をしなくてもいいと言われています」

 第五部隊が何をしているのか、公には明かにされていない。
 だが、他の部隊から独立し、独自の任務を遂行していることから、スパイ活動の類いだろうと噂されていた。
 それならば、歴代の隊長の顔を残さないのにも意味があるのだろうと、二人の女中は納得する。

 その上で、恐る恐るもう一度正臣に視線を向ければ、大木の下からじっとこちらを見ている漆黒の瞳と目が合った。「ひっ」と小さく喉がなる。

「あぁ、怖い怖い。私はもう行くわ。あなた達はどうするの」
「わ、私達もそろそろ仕事を終えて、帰りましょう」
「そ、そうね。日が暮れるわ」

 女達は慌てて踵を返し、その場を立ち去る。
 その後ろ姿を見ながら、正臣は興味なさそうに紫煙を冬空に吐き出した。


 訓練を終え執務室に戻った正臣は、上着を脱ぎ、襟元を寛げながら椅子にどかりと座った。
 すっかり馴染んだその椅子には、百数十年前に正臣が苛立って蹴とばしたときの傷が残っている。

 他の部隊の執務室にはある肖像画がこの部屋にないのは、初代隊長である正臣自身が決めたこと。もう、あの頃に名乗っていた名前は思い出せないが、その決まりだけは破られることなく脈々と受け継がれている。
 もし飾られていたとしたら、肖像画の三分の一は同じ顔になっていたことだろう。

 扉を叩く音がしたので答えれば、第一部隊の隊長が入ってきた。
 正臣とは同期で、白髪の交じった黒髪を後ろになでつけ、目と額にも深い皺が刻まれている。

「齋藤、またお前か。今日は何の用事だ」
「相変わらず冷たいな。数少ない現役の同期を訪ねるのに理由はいらないだろう」

 そういうと、部屋のほぼ中央にある長椅子に向かい、天鵞絨の座面に腰をかけた。
 人懐っこい笑顔を浮かべつつ、懐から煙草を取り出すと、当たり前のように象牙の灰皿を引き寄せる。

 将臣は小さく嘆息し、その向かいに座ると長い足を組み背もたれに身体を預けた。

「退団まであと半年だというのに、今日も若い連中とやり合っていたのか」
「いつもの鍛錬だ」
「その鍛錬をこなし、平然としているのが凄いというのだ。おまけにその容姿ときた。お前こそ妖ではないかという者もいるぞ」

 第五部隊が妖狩りだと知っているのは、隊を纏める総隊長と第一から第四までの隊長、それから国家機密を扱う高官のみ。

 無論、齋藤はそのことを知っていて、何かと理由を付けては正臣の執務室にやってくるのだ。
 他の隊員からは仲が良いと思われているが、実際、この二人の間に流れる空気は安穏としたものではない。

「ところで、最近遊郭によく行っているそうだな。四十路を過ぎてやっと女に目覚めたか」

 齋藤は、にやりと口角を上げるも、目は笑っていない

「まさか。先月、あそこで妖を滅し損ねたので探しているのだ」
「お前が逃すなど珍しいな。しかし、ひと月も経つのだから、もう遊郭にはいないだろう。人間と違い、塀で囲まれ見張りがいようが、妖なら容易に姿を消せるはずだ」
「そんなことお前に言われなくても分かっている。その妖がいた廓で話を聞いたり、馴染客に会ったりしていたのだ」

 正臣は表情を変えることなく淡々と答えると、煙草に火をつけ灰皿を自分のほうに引き寄せた。
 早く帰れというような態度だが、齋藤に席を立つ様子はなく、それどころか俺も仕事で遊郭に行きたいなどと嘯いた。

「しかし、逃げた妖は、遊女としてその夜に廓に売られたばかりだったんだろう。聞き込みをしたところで有力な話を得られるとは思えないんだが」

 正臣の眉が僅かに上がる。誰から聞いたか分からないが、そこまで調べたうえでここにきたのかと、舌打ちしたい気分だ。

「お前が自ら探すなんて、珍しくその妖に執着しているのだな」
「何が言いたい」
「いや、もしかして知り合いなのかと思っただけだ」
「妖は滅するもの。知人はおらぬ」
「……お前が本当に人間なら、その言葉も信じられるんだけどな」

 ピンと部屋の空気が張り詰めた。

 やはりそう来たかと、正臣は内心苛立ちながらも、表情を崩すことなく向かいの男を見据えた。
 十数年前から齋藤が自分を疑っていることには気がついていたし、半年後に引退を控えた今、いつ仕掛けてきてもおかしくないと思っていた。
 もっとも、予想より直球できたが。

 容姿が変わらぬ自分が、一か所に留まる危険性を正臣はよく知っていた。
 だから、もう千年近くもあちこちを点々としてきたのだが、数百年前に妖狩りの存在を知りその行動を変えた。

 そのときはまだ部隊は存在せず、数人の軍人よって妖狩りが行われていたのだが、入隊した正臣が彼らを第五部隊として纏めあげ、初代隊長となったのだった。

 正臣には探している妖がいた。
 その「種族」であれば誰でも良い。だから長年探していればいつか会えるだろうと思っていたのだが、長い間、相まみえることはなかった。
 それを先月、やっと見つけたのだ。
 
 
「俺は人間だ」

 正臣は齋藤の視線をまっすぐに見返し、淀みなく答える。
 齋藤のように鋭い奴はどの時代にもいて、彼らに対し正臣はいつも同じ答えを返していた。

「なんなら、最近試作品が完成したという嘘発見器にかけてくれてもいいぞ」

 ふっと片方の唇を上げて笑えば、齋藤も苦笑いを零しながら首を振り、煙草を灰皿に押し付けた。

「そんなことでお前が尻尾を出すとは思っていない。それに、今の俺にはもう、お前を押さえ込む力がない。人間は歳をとるんだよ」

 そう言って立ち上がった齋藤の顔には、部屋に入って来たときと同じ人懐っこい笑顔が張り付けられていた。

「また来る。退団したら一緒に飲もう」
「酒は飲まん」
「そうか、下戸だったな」

 クツクツと笑いながら出ていく後ろ姿から視線を逸らし、扉がしまる音と同時に天井に向かって紫煙を吐き出す。

「歳をとれない人間もいるんだよ」

 苦虫を嚙み潰したように呟くと、正臣は眉間を押さえた。

 ひと月前にやっと見つけた人魚はまだ見つからない。
 大方、珀弧が匿っているのだろう。
 それならばと、人魚についてしらみつぶしに調べた。

 名前が凍華ということも、叔母である楠の家で育てられたことも、女衒の男から聞きすぐに判明した。
 半妖なのは分かっていたし、叔母の戸籍から父親を捜すのは簡単だった。
 しかし、そこに書かれていた名前は、正臣を驚かせた。

 十数年前まで自分の部下だった男が、まさか妖と、しかも人魚と通じていたなんて、青天の霹靂とはこのことだろう。
 探していた種族は、近くにいたのだ。

 ――そう、凍華の父親は妖狩りだった。
 
 それがどうして、よりによって男を食らう人魚との間に子供を授かったのか。
 その経緯は不明だが、正臣にとってはどうでも良いことだった。

 ただ、正臣と同じぐらい剣豪だった男が、ある日身体の不調を訴え妖狩りを辞したいと言った理由が、その人魚にあることだけは分かった。

 結局、凍華の父親の脱退は認められず、書記官として留め置かれ、強い妖が現れたときだけ助っ人として妖狩りに参戦することが決まった。
 娘がいることは知っていたが、馴染の遊女との間に出来た子だと言っていたはずだ。

「それがまさか、半妖の人魚とはな」

 まったく、上手く隠されたものだと、正臣は煙草を灰皿に押し付けた。
 明日は満月。早く人魚を探し出し望みを果たさねば、とはやる気持ちを抑えつつ、正臣は再び執務机にむかった。



 次の日、帝都を警邏中の正臣は、はっと周りに視線を遣るや否や、走り出した。

「一匹? いや二、三……もっといるな」

 その奇妙な気配の正体はすぐに見つかった。大通りから細い路地に入って行ったのは、普通の人間の目には見えない小さな白銀の狐。
 それが何匹も街中を駆け巡っていたのだ。

「珀弧の使役? こんな目立つ行動をあいつがするなんて……」

 理由はひとつしか思いつかない。
 半透明の銀色の煙を固め作ったようなその使役を正臣は追いかけた。
 使役は必死に匂いを嗅ぎ、あたりを見回す。かなり近くに正臣がいるが、気づく様子がないほど切羽詰まっているようだ。
 
 使役が最終的に向かうのは主である珀弧のもと。そして珀弧は正臣がずっと探していた人魚の血を引く娘をかっさらっていった相手でもある。

「着いて行けば珀弧に行きつくか。いや、もしかするとあいつより先に人魚を見つけられるかもしれない」

 少し距離を置き後を追うことにした正臣は、やがて古びた社の中で二人の娘が言い争っているのを見つけた。

 正臣の全身に鳥肌が立つ。
 それは、男を食らう人魚を見つけた恐怖からではない。
 長年探し求めてきた、その姿を見て叫びたいほどの歓喜がこみ上げてきたのだ。
 それと共に、千年近く前の味が口の中に呼び返ってきた。

 人魚の肉に不老不死の力がある、正臣にそれを教えた男はとうにこの世にいない。
 走っても息切れをすることなく、疲れを知らない肉体を始めこそ喜びはしたが、若い青年のまま老いることのない容姿は奇異の目で見られ続けた。
 傷を負っても病をしても、人とは思えない速さで癒える身体は、次第に正臣の心を蝕んでいった。

 終わりのない人生ほど辛いものはない。
 もはやそれは人魚の呪いとしか思えなかった。

 正臣の喉がごくりとなる。しかも今夜は満月。
 人魚の妖力と食欲が一段と増すこの日に巡り合えたことは、正臣にとって運命としか言いようがなかった。

 興奮する気持ちを抑えることなく一歩足を踏み出したそのとき、突如、珀弧が現れた。
 やがて凍華と珀弧、そして一人の娘が揉め始める。

「ちっ、珀弧がきやがったか」

 勝てる確率は五分五分。仕掛けてもよいが、焦って数百年待ったこの機会を逃しては元も子もない。正臣はそっと近くの木に身体を隠し、気配を消した。

「落ち着け。待つんだ。満月は今夜だけではない。あの女が最後の人魚かもしれないのだから、より確実な方法で手に入れなくては」

 やがて凍華と珀弧は神社の奥に消えていった。

 これで良かったのかと多少の迷いを抱えつつ、正臣は一人残された娘を見る。
 凍華については、このひと月、調べ尽くしたので、それが雨香であることは分かっていた。

「たちの悪い賭博場で身ぐるみはがされ、家と養蚕工場を抵当に入れてまで、女学校に入学さた娘があれか」
 
 美しいがそれだけで、どこにそんな価値があるのか分からない。
 京吉も、まさか賭博場で知り合った女に騙され、着いて行った先の悪どい賭博場で全財産をすったなんて言えるはずもない。ゆえにそのことは幸枝も雨香も知らなかった。
 ひと月でここまで調べられたのは、長く生きて伝手の多い正臣だからこそだ。

「なるほど、あれは使えるかも知れぬな」

 確実に目的を果たすなら、珀弧と凍華を引き離す必要がある。
 にやり、と正臣の口角が上がるも、すぐにそれは柔和なものへと変わった。

 ざっ、ざっと土を踏みながら雨香に近付いた正臣は、その精悍な顔を最大限に生かし声をかける。

「お嬢さん、こんなところでどうしたのですか。間もなく日が暮れます」

 整った顔に甘い笑み、軍服には上位であることを示す房が肩についており、胸元には幾つもの勲章がある。
 少し知識のあるものが見れば、将来有望な美丈夫の軍人に見えるだろう。
 それを承知のうえで正臣は、口角を緩やかに引き上げた。

「よろしければご自宅まで送りましょう」

 幾度もの満月の夜を珀弧と過ごし、季節は初夏を迎えていた。
 凍華は、窓から入る風に組紐を編む手を止め、伸びをひとつする。

 部屋の隅にある文机の上に置かれた木箱には、今月、河童堂に納品する予定の組紐が五十本程入っていた。黒、赤、萌黄色、浅葱、目にも鮮やかな組紐は、蚕もどきが作った繭から紡いだ糸も織り交ぜている。

「凍華、少し休まないか」
「はい」

 障子の向こうから声が聞こえ答えると、珀弧が硝子製の洋風の杯が乗った盆を手に入ってきた。
 杯の中の赤色の液体が鮮やかだ。

「凛子が紫蘇で作った。一緒に飲まないか」
「ありがとうございます。珀弧様がご用意されなくても、仰ってくれれば私がいたしますのに」
「俺が飲みたかったからだ。気にするな」

 珀弧はそういうと、蚕のいる部屋へと続く襖を開け、縁側へと向かう。
 凍華の部屋には窓があるだけで、縁側へ行くには一度隣の部屋を通る必要があるからだ。 
 その後ろを、座布団を一枚持った凍華が小走りで着いていく。

 二人で縁側に座り、茶や菓子を食べるのもすっかり日課になっていた。
 硝子に日が当たり、紫蘇の色がより一層鮮やかに見える。飲めば爽やかな酸味が口の中に広がった。

「冷たくて美味しいです」
「凍華が夏は苦手だと聞いて、凛子が何か対策できないかと考えていた。もっと暑くなれば、裏山の氷室から氷を持ってこよう」
「そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ」

 くすくす笑う凍華の頬は初めて妖の里にきたときよりふっくらとし、肌艶も良い。
 珀弧は指先でその頬に触れた。

「随分、元気になった。肉も着いたし健康的だ」
「それは太ったということでしょうか」
「健康的、と言っただろう」

 軽口をたたきながらも、凍華の心臓は早鐘のようにうるさい。
 珀弧に触れられた頬が熱を持ち、恥ずかしさからすっと身を引いた。 
 そんな様子を珀弧は目を細め眺める。口元は嬉しそうに弧を描いていた。

 満月の夜には相変わらず喉が渇く。
 でも、珀弧と一緒に何度もその夜を乗り越える度に、最近では飢えを抑えられるようになってきた。
 それが凍華の自信につながるとともに、二人の仲は近づいていった。

「今夜はまた満月です」
「怖いか?」
「はい。多分、これから先もずっと怖いと思います。でも、最近はあの飢餓感を押さえられるようになってきました」

 珀弧をまっすぐ見上げるその視線には、僅かだか自信が見て取れた。
 妖の里に来たばかりのときは、下を向き、おどおどとして、自分の気持ちも考えも持っていなかった。
 でも今は背筋をしゃんと伸ばし、顔には朗らかな笑みを浮かべている。

「やはり凍華は強いな」
「えっ」
「それに美しい」

 穏やかな笑みと共に珀弧の口から出た言葉に、凍華の顔は真っ赤になる。
 その反応すら珀弧は嬉しそうだ。

「そ、そんなことありません。髪だって珀弧様のようにさらさらではありませんし」
「細く柔らかくふわふわしていて、鳥の羽のようだ」
「目は青いです」
「海の底のように澄んでいて吸い込まれそうになる」
「~~!!」

 もう無理だと、凍華は頬を両手で包み真っ赤になって俯いた。
 すると珀弧がクツクツと笑うではないか。

「珀弧様、私を揶揄っておられますね」
「いや、思ったことを口にしただけだ」

(最近の珀弧様は私に甘すぎるわ。きっと冗談で仰っているのでしょうけれど、心臓がもたない)

 でも、楽しい。
 太陽の明かりの下、頬に直接風を受け笑っていられるなんて、楠の家にいたときには考えられなかったことだ。
 こんな時間が自分に訪れることがあるとは思わなかったと、凍華の胸は暖かさで満ちていた。

「すまないが、午後から河童堂に行く約束をしていたが、俺も仕事が入ってしまった。人間の里には一緒に行くが、河童堂には凛子と一緒に行ってくれ」
「それでしたら一人で大丈夫です。珀弧様のお仕事が終わるまで河童堂で待たせてもらいますから」

 月に一度は河童堂に組紐を渡しに行く。店主ともすっかり顔なじみとなり、世間話をする仲になっていた。
 店主は凍華が、人魚の血を引くことは知らない。知らせないほうがいいと凍華も思っている。

(人魚が妖たちにとって異質な存在なのは理解している。わざわざ伝えて怖がらせる必要もないし、私も今の関係を壊したくない)

 凍華の作った組紐は妖たちの間であっという間に話題となった。
 もう、あの不味い薬を飲まなくていいなんて、と受注が殺到し予約待ちになるほどだ。
 今はもう、昔ほど妖はいない。しかし、凍華の作る組紐は織目も美しくしなやかで結びやすいと本来の効能以外でも好評で、色違いで何本も求める妖が後を絶たないのだ。

 最近では羽織紐や眼鏡紐を作って欲しいと依頼もきている。
 自分の作った品を喜んで買ってくれる人がいることも、凍華の自信につながった。
 
 楠の家では虐げられ、ないがしろにされ育ってきた。いないも同然の扱いに心を殺し感情を無くし過ごしてきた。
 妖の里にきて少し前を向けるようになったが、異種族を食う人魚の血を引くと知り、再び自分なんていないほうが良いのではと考えた。
 でも、そんな自分の作ったものを待ってくれている人がいるということが、凍華にとって心を支える大きな柱となっているのだ。

 ただ、コウとロンと楽しく暮らし、凛子と親しく話し、珀弧に守られていただけでは、この気持ちになれなかっただろう。
 自分の力で、足で立てているという感覚が、何より凍華を強くした。

(珀弧様が、私の作った組紐を河童堂に置くよう頼んでくれたのも、取引を私に任せたのも、きっとこのためだったのね)

 隣を見れば、珀弧の銀色の髪が初夏の日差しにきらきらと輝いている。

(ずっとこの時間が続けばいい)

 そう願いながら、凍華は硝子に口をつけた。

 

「では、俺が戻ってくるまで凍華を頼んだぞ」
「はいはい、もう何度もその言葉は聞きました」

 むむっと眉根を寄せる珀弧に対し、河童堂の店主はひらひらと手を上下させる。
 
「まったく、いつからそんなに心配性になられたのですか。ははは」

 飄々とした態度もだが、珀弧を恐れぬその口調はやはり豪胆としか言えない。
 しかし、少し目の離れたとぼけた顔が毒気を抜くのか、珀弧に不快な様子はなく、呆れ顔で嘆息した。

「まったく、お前にはかなわないな」
「何を仰います。ささ、もう行かなくてはならないのでしょう」

 店主が壁にかかる古時計を指差せば、珀弧は「おっ、もうこんな時間か」と眉を上げた。

「では頼んだぞ。凍華、ゆっくり茶でも飲んでいろ。それからくれぐれも妖狩りには気をつけるんだ」
「はい、こうして組紐もしているので大丈夫です」

 凍華は帯に結んだそれを指差す。珀弧に同じものをと頼まれ作った組紐だ。
 はい、と手渡すと、これは凍華が使えば良いと言われ、河童堂に来るときはいつもこの組紐を選んでいる。
 珀弧はあれ以来ずっと凍華の作った組紐を使っているので、図らずもお揃い、というわけだ。

「すぐに戻るから、大丈夫だとは思うが。しかし、正臣は随分お前に執着しているからな。気をつけるに越したことはない」
「執着? 私にですか?」

 初めて聞いたと怪訝な顔をすれば、珀弧は失言をしたとばかりに口を押えた。

「……とにかく、あいつには気をつけろ」
「はい。珀弧様もお気をつけていってらっしゃいませ」
「うん」

 少々珀弧の口調が気になるも、凍華は見送りの言葉と一緒に頭をさげだ。
 珀弧はそれに小さく答えると、軽く手を振り河童堂を出ていく。
 その後ろ姿にいつまでも手を振る凍華の後ろで、河童堂の店主がへへっと笑った。

「いやいや、まるで新婚夫婦のようで良いですなぁ。当てられるこっちとしてはむず痒いものがありますが、珀弧様のあんな甘ったるい顔、そうそう拝めないので貴重なものを見させてもらいました」
「そ、そんな。私はただ、珀弧様の家に居候しているだけで、夫婦ではございません」
「おや、まだそんなことを仰っているのですか。珀弧様、あんな色男面して奥手なんですなぁ。もっと、こう、がっつりいきそうなのに」
「……何をでしょうか?」

 凍華が心底意味が分からないと眉を寄せれば、店主は「おやおや、こちらもですか」と再びへへっと笑う。

「兎に角、お幸せそうで何よりです。会うたびに、凍華様の肌が艶々、頬が薔薇色になっていくので、てっきりもう夫婦になられたと思っていたのですが、まだでしたか。ま、そこは私から珀弧様に助言しておきましょう」
「……ですから、何をですか?」

 さらに凍華の眉が寄るも、店主は手をひらひらさせて笑うばかりで教えてはくれない。

「ま、その話は置いておいて、早速ですが組紐を拝見させていただけますか。さ、こちらの長机にどうぞ」
「はい。是非ご覧ください」

 凍華は案内された長机に組紐を並べていく。
 全部並べ終わったところで、店主はそのうちの一本を手に取った。

「相変わらず見事なできですなぁ。織目も揃っていて美しい。最近はこれを買っていく人間もいるのですよ」
「人間が、ですか」
「おや、そんなに驚かなくても。ここは帝都、妖も来ますが河童堂は人間相手にも商売をしていますよ」

(そうよね、店主はここで人として暮らし商売をしているのだもの。人間が買いに来ても不思議ではないわ)

 大通りから入った場所にあるため客は多くない。
 それに耳や尻尾があるならともかく人と同じ姿をしていては、凍華に人間か妖かの見分けがつかない。
 商談の最中に客が来たことが何度かあったけれど、てっきり全員が妖だと思っていたのだ。

「この前叔母がきましてね。この組紐をえらく褒めていました。自分の店でも置きたいと言っているのですが、いかがでしょうか」
「叔母様、というのは、大通りの老舗呉服店の女将様でしょうか。私の作った品なんて扱っては、お店の顔に泥を塗るかもしれません」

 慌てて首を振る凍華に、店主は鷹揚に笑う。手にしていた組紐を机に置くと、違う組紐を再び手にした。

「そんなことございません。どれも丁寧に作られた良い品です。こういうのは性格がでましてねぇ。凍華様の真面目で優しいお人柄が見て取れます。どうですか? 一度考えてみてくれませんか」
「……少しお時間をいただいてもいいでしょうか」
「もちろんです。ゆっくり考えてください。これからお子が生まれれば、組紐を作る時間も減るでしょうし」」
「ですから、私は居候で!」
「はいはい。そうでしたね。ははっ」

 まったく食えない男である。凍華は否定するのを諦め、小さく息を吐いた。

(まだ、他の妖に会うのが怖い)

 凍華の知っている妖は僅かだ。妖の血を引くという店主を入れても片手で数えられてしまえる。
 人魚の血を引くという事実が、凍華をうしろ向きにさせていた。

(でも、私の組紐をあんな大店の女将様が認めてくれるなんて)

 素直に嬉しい。帰ったら、珀弧に相談しようと凍華は思った。

「それから、頼んでいた品ですが、どうなりましたでしょうか」
「は、はい。試作品を作ってきました」

 雑談を交えつつも、店主はしっかりと商談に話を戻す。
 凍華は懐から手拭いを取り出すと広げ、包んできたものを店主に見せた。

「羽織紐と眼鏡紐、それから組紐で作った髪飾りです」
「おっ、これはこれは。依頼以外の品もご用意してくださったのですか」
「この前ここに来た時、若い女性が組紐で花を形作った髪飾りを買っていかれたのを見ましたので。少々不格好なのですが、数をこなせばもっと綺麗にできると思います」

 店主はまず羽織紐、それから眼鏡紐を手に取る。
 指先でさらりと撫で織目を確かめると、小さく頷き手拭いの上に戻す。
 次いで髪飾りを手に取った。五枚の花弁を作りピンで髪に留められるようにしたものだ。

「ほう、これは始めて作られたのですか」
「はい。以前珀弧様に買っていただいた髪飾りを参考にいたしました」

 赤い組紐で作られたそれは、動く度に長めの房がゆらゆら揺れる意匠だ。

「うん、悪くございません。正直に言えば、叔母の店に置く仕上がりではございませんが、河童堂の常連客様なら問題ないでしょう。うちは庶民向けの店ですしね。それに何より妖が喜びそうだ」
「では、置いてくださるのですか」
「次に来られるとき、五つ作って持ってきてくれませんか。まずはそれを置いて様子を見てみましょう。羽織紐は半年後に纏まった数が欲しいです。眼鏡紐は、そうですね、十本ほどお願いします。もちろんいつもの組紐も五十本。可能でしょうか」
「はい、ありがとうございます」

 店主は長机の端に置いてある硯を引き寄せると、同じく端にある紙束から一枚を取り、注文の品を書き留め凍華に渡した。

 凍華は試作品を再び手拭いで包むとその紙と一緒に懐にしまう。
 すると店主は席を立ち、幾つかの髪飾りを手にして戻ってきた。

「こちら、新作でございます。持って帰って参考にしてください」
「ありがとうございます。おいくらですか?」
「差し上げます。凍華様のおかげで売り上げが二倍、三倍となっていましてね。ちょっと早い結婚祝いだと思って受け取ってください」
「ですから、私は居候で……」
「はいはい、包んでおきますね」

 凍華の抗議をさらりとかわし、店主は奥にいくとそれを油紙で包む。
 お盆にお茶と一緒に乗せ戻ってくると、懐から巾着を取り出し銀子を机に置いた。

「では、これは今回のお代です。次回も宜しくお願いします」
「はい。こちらこそお願いします」

 二人揃って頭を下げ笑みを交わし合う。

(今日は、凛子さん達にどんなお土産を買って帰ろうかしら)

 銀子を懐にいれながら凍華は考える。この前は煎餅、その前は金平糖。
 暑くなってきたから水菓子もいいかも、と思っていると店の扉が開き数人の若い娘が入ってきた。

「いらっしゃいませ。凍華様、私はお客様を相手してきますが、ゆっくりしてください」
「はい」

 店主が娘達の元へ行く。若い娘は皆、着飾り賑やかで、店の中が急に明るくなったように思う。
 凍華は出された湯飲みを手にしながら、再びお土産を何にするか考えた。

(そういえば、私、珀弧様に何かを差し上げたことがないわ)

 一緒にきて一緒にお土産を選んで帰る。そのせいか、珀弧のために品を選んだことがなかった。

(珀弧様が隣にいると恥ずかしいけれど、今日は私ひとり。今まで沢山お世話になったのだから、この機会に何かお礼の品を見繕いたいわ)

 幸い、懐は銀子で温かい。
 凍華は紙と筆を借りると、そこにさらと文字を書く。
 『少し出かけてきます。直ぐに戻ります 凍華』

 そう書置きをすると、接客する店主の邪魔にならないようそっと河童堂を後にした。



 裏通りから大通りに出た凍華は、少し不安げに周りを見渡すと歩き始める。
 ひとりで歩くのは初めてだけれど、何度か通ったことのある道だ。歩き進めるうちに足取りが軽くなってきた。
 珀弧は自由に好きな場所を見て良いと言ってくれるけれど、やはり遠慮はしてしまうというもの。
 気兼ねなく軒下に並ぶ品を眺め手に取るのは存外楽しく、凍華はどんどん進んでいった。

(珀弧様はなんでも持っていらっしゃるし、何を贈れば喜んでくれるかしら)

 見かけによらず甘い菓子が好きなようだが、それでは凛子達へのお土産と変わらない。
 毎晩、晩酌をしているので酒には強そうだが、凍華としては何か形が残るものにしたいところだ。
 さてどうしようと思ったところで、大通りから少し入った場所に洋装の店があるのを見つけた。
 細い通りに面した部分が硝子張りになっている珍しいその店の中には、背広や革靴と一緒にネクタイや帽子、杖なんかも置いてある。
 眼鏡越しでは見にくいので外して袂にいれ、凍華は硝子に額を近づけた。

(ネクタイなんてどうかしら)

 帝都に来るときは洋装が多い珀弧だ。あって困る物ではないように思う。
 しかし、見慣れない洋装の服を扱う店だけに、入るのに勇気がいる。
 どうしようかと硝子の前で右往左往していると、背後から名前を呼ばれた。

「凍華」

 びくりと凍華の肩が震える。
 聞き覚えのある声に頬を強張らせながら振り返ると、そこには洋装に身を包んだ雨香が立っていた。女学校の制服のようだ。

「雨香……どうしてここに?」
「月末になると、あんたが洋装の男と一緒に帝都に現れると教えてくれた人がいるの」

 月に一度、凍華は珀弧と一緒に河童堂を訪れる。時間は様々だけれど、おおよそ半刻ほど滞在し、そのあとは帝都を散歩して帰るのがお決まりになっていた。

「誰から聞いたのですか?」
「私の婚約者よ。ふふ、軍人をされていて、あなたと神社で会ったあの日、知り合ったの。私に一目惚れしたそうよ」

 ふふふ、と笑う雨香の顔は優越感に満ちていた。
 しかし、そんな雨香の様子より、凍華は「軍人」という言葉に青ざめる。

(あの日、珀弧様は私を探すために、ロンやコウだけではなく使役狐を使ったと聞いたわ)

 屋敷に帰った凍華にそのことを教えたのはロンとコウ。
 「あんなに沢山の使役狐は初めて見た」と興奮した様子で話すとともに、凍華を見つけたのが使役狐だったことを悔しがっていた。
 凍華自身は使役狐を見なかったが、それは銀色の煙で作られた狐のような姿をしているという。

(雨香に声をかけたのが、使役狐を見かけた妖狩りだったら?)

 凍華が黙り込んだのを見て、雨香の口角がにたりと上がる。

「私、今、青巒(せいらん)女学校に通っているのよ。ほら、見て、この制服、可愛いでしょう」

 学校帰りらしい雨香は膝丈のスカートの裾をひらめかせ、くるりと回った。
 夏服だろうか、白地で袖と裾に紺色の線が二本入っている。
 凍華とて着ている着物の質は良い。淡い藤色の単衣に白く撫子が描かれたそれは、派手さはないが清楚で可憐だ。

 しかし、雨香の目には地味に映ったのだろう、フンと鼻で笑い蔑むような視線を凍華に向けた。そして威圧的に腰に手を当て顎を上げる。

「ちょっと話があるから着いてきなさい」
「ですが、私は……」
「断れるなんて思っていないわよね。あんた、自分の立場が分かっている?」

 低い声ですごまれ、凍華は下を向く。
 売られた廓を抜け出したことで、楠の家に迷惑をかけたことは事実だ。

「こないなら別にいいのよ。あんたと一緒にいる洋装の男に、廓から貰えなかったお金を請求すれば良いのだもの」
「珀弧様は関係ありません」
「関係あるわ。売ったあんたと一緒にいるのだから、廓の代わりにあんたの代金を支払うのは当たり前でしょう」

 雨香に睨まれ、凍華は着物をぎゅっと握った。
 雨香は河童堂の場所を知っているようなので、逃げても追ってくるだろう。
 かといって、この前のようにやみくもに走れば、いなくなった凍華を探すため珀弧はまた使役狐を出す。そんなことをすれば妖狩りに見つかるかもしれない。

「分かりました。一緒に行きます」
「初めからそう言えばいいのよ。ほら、行くわよ」

 雨香はそういうと、表通りとは逆のほうへ歩いて行く。
 すると、そこには馬車があった。
 馬車が大通りを進むのを数回見かけたことがあるけれど、まだまだ人力車が主要な帝都では珍しい。
 雨香の姿を見かけると、御者が席を降りてきて扉を開けた。
 凍華は半歩下がる。楠の家が養蚕工場を経営しているとはいえ、あきらかに分不相応だ。

「何をしているの。さっさとしなさい」
「どこまで行くのですか? 珀弧様がすぐに戻ってくるから遠くには行けません」
「まだそんなことを言っているの。あんたと珀弧とやらを引き離すために連れ去るのだから、どこに行くかなんて気にしなくていいのよ」

(連れ去る?)

 凍華の顔がさっと青ざめた。
 もしかしたら雨香はずっと河童堂を見張り機会を伺っていたのかも、という考えが脳裏をよぎる。

「先月も、その前も、雨香は河童堂の近くにいたの?」
「そうよ。学園が終わってからだけれど、あんた達を見張っていたの」
「どうしてそんなことをするの?」

 何かがおかしい。
 てっきり、無理やり楠の家に連れ戻されると思っていた。
 もし、雨香に凍華を連れ去るように頼んだのが叔父や叔母なら、わざわざ凍華が珀弧から離れるのを待つだろうか。

(叔父さん達の目的はお金。それなら珀弧様と一緒にいるときを狙ってやってきて、廓に戻すかお金を払うか問い詰めるはず)

 雨香が話していた軍人が誰なのかが無性に気になった。

(珀弧様から私を引き離すということは、珀弧様の存在を恐れているということ。そんなこと考えるのは妖狩りしかいないわ)

 どくどくと心臓が早くなっていく。足が震え全身が粟立つ。

「雨香、もしかして私を連れてくるように言ったのは、あなたの婚約者なの?」
「あら、馬鹿なくせに珍しく察しがいいじゃない。そうよ。廓に売ったあんたが逃げたことを知った正臣様が、あんたを捕まえ廓ときちんと話をしたほうがいいと仰ったの。ああいう場所って、怖い後ろ盾が着いているから、のちのち面倒なことになるかもしれないんですって」
「……正臣?」

 凍華に刀を向けた軍人を思い出す。
 鋭く殺気に満ちた視線は、それだけで心臓を貫くようだった。

 凍華がさらに一歩下がる。この馬車には絶対乗ってはいけない。
 そう思った瞬間、首の後ろに鈍い痛みを感じた。
 あっと思うと同時に目の前が真っ暗になっていく。

 ぼんやりとした視界の端に、凍華の首を殴った京吉の顔が映った。


 目を開ければ、薄暗い天井が真上にあった。
 まだぼんやりする頭で、気絶させられどこかに連れてこられたのだと考えながら、目だけ動かし部屋の様子を探る。
 高い位置にある窓から漏れる弱い日差しに照らされた部屋は、既視感のあるものだった。

「……座敷牢?」

 黴た畳の匂い、木の格子で仕切られたその場所は、しかし凍華の記憶にある座敷牢より広い。
 身体を起こせば、首の後ろに鈍い痛みが走った。触れると腫れて僅かに熱を持っている。

「起きたか」

 声のするほうを、痛む首に眉を顰めつつ見れば叔父である京吉が立っていた。

「叔父さん……」

 どうしてここに? ここはどこ?
 疑問はどんどん出てくるのに、その鬼のような形相を見ただけで喉が張り付き声が出ない。
 叔父は乱暴に格子戸の錠前を開けると座敷牢に入ってきた。
 そのまま立ち止まることなく凍華のところまで来ると、何の前触れもなく凍華の腹を蹴り上げる。

 ドカッ
 
「うっ」

 鈍い音と、内臓がせり上がるような激しい痛みに、凍華は海老のように身体を丸め蹲った。

「お前のせいで俺がどんな目に合ったか分かっているのか」

 こんどは踏みつけられるように背中に足が降ろされる。

 ドカッ、ドカッ

 容赦のない足蹴りの中、叔父の罵倒する声が座敷牢に響き渡った。

「お前を売った金が入らなかったせいで、俺は性質(タチ)の悪い女に掴まり悪どい賭博場に連れていかれたんだ!! あいつらめ、わざと俺を勝たせ調子づいたところで身ぐるみはがしにきやがった」

 息をするのも苦しい。蹴られる合間に必死に肺に空気を入れるも、痛みで何も考えられない。

「おまけに、一緒にいた若造二人が俺を高利貸しに連れていき、無理やり借金を作らされたんだ。その金でなんとか雨香は青巒女学校に入学できたが、このままじゃ、担保に入れた家、工場、土地全部とられちまう」

 叔父はそこまで話すとやっと蹴るのを止め、丸くなって動けない凍華の傍にしゃがみ込むと、その髪の毛を思いっきり引き上げた。

「痛っ」
「ふん、相変わらず気持ちの悪い目をしていやがる。でも、そんなお前でも役に立つことがあるんだな」
「は、離して……」
「雨香の婚約者の正臣殿、あの人がお前を高額で買ってくれる御仁を紹介してくれるそうだ。いったいどうやって俺の懐具合を調べたのか分からんが、幸枝や雨香に黙って作った借金のことまで知っていた。おっと、もうすぐ雨香が正臣殿を連れてくるが、余計なことは言うなよ。雨香達にはお前を廓に引き渡すとしか言ってねぇんだからな」

 叔父は、凍華を廓に渡すと雨香達に嘘をつき、もっと高値で買ってくれる人に売ろうとしていた。その金額は作った借金を返済できる額で、そうすれば家を担保に取られることもなく、そもそも借金をしたという事実をもなかったことにできる。

 つまり、正臣は二枚舌で楠の人間を利用し、ここに凍華を連れてこさせたのだ。

 扉の向こうから、石階段を降りてくる足音が聞こえた。
 草履が二人、軍人用の長靴がひとつ。

 その音を聞き分けられたことに凍華がはっとし、嫌な予感と共に窓を見上げる。

(……日が沈みかけている)

 叔父から暴力を受けていた時間はそう長くはなかったはず。
 それなのに、外はもう夜の帳が下りてきていた。

 身体から痛みが引いていく。
 それと同時に喉が渇き始めた。

 バタンと扉が開き入ってきたのは、やはり凍華に刀を向けたあの妖狩り。
 その後ろには叔母と雨香の姿も見えた。

「やっと会うことができたな。おい、その女を牢の外へ連れてこい」
「なっ!」

 威圧的な態度に叔父が眉を吊り上げるも、その様子を気にすることなく正臣は言葉を続ける。

「何をしている。早くしろ」
「ちっ、なんだってんだ。いきなり偉そうに」

 舌打ちしながらも凍華の腕を掴み引きずるように牢から出すと、正臣の元へ凍華を連れていった。

「おい、その態度はなんだ。俺はお前の義父になるんだぞ」
「去れ」
「なんだと」
「聞こえぬか、去れといったんだ。お前、もしかして俺が本当にお前の娘なんかと結婚すると思っていたのか」
「なに!?」

 目を剥く叔父を押しのけ正臣に詰め寄ったのは雨香。
 その胸に縋りつき、強張った笑顔で見上げる。

「正臣さん、何を仰っているのですか? 私に一目惚れしたのですよね?」
「お前は馬鹿か。表面だけ着飾った薄っぺらい女に俺がうつつを抜かすはずがないだろう」
「そ、そんな……」

 ふるふると雨香が頭を振る。その後ろで、叔母が甲高い声を上げた。

「だって、あなたから結婚を申し込んできたではありませんか。美しい雨香に恋をした。青巒女学校に通っているなら、将来を期待された自分の妻にふさわしいって」
「そう言えば、お前たちが俺の意のままに動くと思ったからだ」
「意のまま?」

 正臣が三人をぎろりと睨む。その威圧に怖気づくように三人は身を寄せた。
 それでも、かろうじで叔父だけは震えながらも正臣に食らいつく。

「お、お前はいったい何を考えているんだ」
「俺が必要なのはこの女だけだ。しかし、この女の傍には絶えず珀弧がいたんでな。俺では二人を引き離すことができないから、お前達を利用したまでだ」

 淡々と述べるその声に、凍華は息を飲む。

(必要、とはどういう意味なの? 殺すんじゃないの?)

 相手は妖を滅する妖狩りだ。しかも珀弧を追い詰めるほどの手練れ。
 てっきり、その刀で殺されると思っていた凍華は、正臣の真意が分からない。その暗闇のような目の奥を覗き込むも、そこからは何の感情も読み取れなかった。
 しかし、ただならぬ気配に奥歯がガタガタと震え始める。
 同時に喉の渇きが強くなってきた。

「で、では、凍華を連れ戻したら、高値で売り飛ばすという話は……」
「お前の家や土地がどうなろうと俺の知ったことではない」
「そ、そんな……」

 叔父が青ざめるのを見て、叔母と雨香が顔を見合わせた。

「あなた、家や土地ってどういうこと? あれは私が父から引き継いだ遺産なのよ」
「お父様、私、青巒女学校に通い続けられるわよね」
「うるさい!! 今はそれどころじゃない! 凍華を、あいつを売り飛ばさなきゃなんねぇんだ!」

 雨香は自分の父親から初めて怒鳴られ身を縮めた。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 その様子を見て、正臣が煩わしそうに口を開いた。

「お前達に、もともと娘を青巒女学校に通わせるだけの金なんてなかったんだ。こいつは自分の事業が失敗したことを隠し、賭博にはまり、挙句の果てに高利貸しから金を借りた。今更、この女を廓に返したところで、膨れ上がった利子には焼け石に水だろう」

 うるさい、とばかりに眉を顰めながら正臣が言えば、叔父は「言わない約束だっただろう」とさらに怒鳴る。
 そこに、叔母と雨香の声が加わり醜い身内の言い争いが始まった。
 しかし、間もなくそれは、正臣が「ばきっ」と拳で牢の格子を砕く音に、ピタリとやんだ。

「死にたくなかったら黙っていろ!」
「ひっ!!」

 蒼白な顔で身を寄せる三人を一瞥すると、正臣は凍華に近付きその顎を持ち上げる。

「――喉が渇くだろう?」

 低く感情のない声が地下牢にこだました。 

「あなたの目的は、なんですか?」

 震える声で問えば、薄い唇がにやりと笑った。
 しかし、すぐに凍華を見据えていた黒い瞳が細かく揺れる。

「……もしかして、まだ誰も食っていないのか」
「はい。私は誰も食べないし、食べるつもりはありません。だから、お願いです。手を離し……っきゃ」

 顎を掴んでいた手で、今度はぐいっと腕を掴まれ、引き寄せられた。
 珀弧とは違う暗く整った顔が目前に迫る。

「食ってないだと? あれから何度も満月を迎えたのにか?」
「…は、はい。ま、惑わし避けの花を()み、耐えてまいりました」

 だから、手を離して欲しい、斬らないで欲しいと凍華は願う。
 凍華には人間の血だって流れているのだ。これから先も湧き上がる飢餓感を押さえるから、だから、見逃して欲しい。
 その一心でまだ食ってないと訴えたのだが、正臣の手は緩まることなく、それどころか表情はさらに険しくなる。

「そんなまさか。いや、しかし今日は満月なのにお前の変化は少ない」
「月明かりにあたらなければ、このようにしていられます」
「そうか。半妖だから満月から受ける影響が少ないのだな。それなら場所を変えるだけだ。歩け」

 言い終わらないうちに正臣は、凍華の腕を引っ張りながら石階段へと向かう。
 思いもよらぬ行動に凍華は足に力を込め踏ん張るも、軍人の力には勝てず、引きずられるようにして一緒に階段を上がった。
 階段は広い廊下の一角に繋がっていた。
 
(ここはどこ? 大きなお屋敷のようだけれど)

 広い廊下を正臣はどんどん進んでいく。洋館のようではあるが、もちろん凍華に見覚えはない。

「こ、ここはどこですか? どこへ行くのですか?」
「ここは俺の屋敷だ。どこへ行くかはすぐに分かる」

 その言葉の通り、目の前にひと際大きな扉が見えてきた。
 廊下の左右にある扉よりも大きく堅牢なそれが、玄関扉であることは凍華にもすぐに分った。

「ま、待ってください。もしかして、外に?」
「そうだ」

 凍華の顔がさっと青ざめる。どうしてそんなことをするのか理解ができない。

(月の明かりの下で私が妖の力を持っていることを確認してから斬ろうというの?)

 しかし、前を行く男がそんなまどろっこしいことをするとは思えない。
 それに、月明かりを浴びれば、片手で大の男を持ち上げることができるほど凍華の人魚としての力は強くなるのだ。
 どう考えても、屋敷の中で斬ったほうが危険は少ない。

 扉の前で足を止めると、正臣は凍華を振り返った。

「俺は妖を憎んでいる。恨んでいる」
「すべての妖が人間を害するわけではありません」
「そういえば、珀弧が昔同じことを言っていたな。あれは、 前々回(・・) のことだから百五十年ほど前か」
「百五十年?」

 聞き返せば、正臣の視線が僅かに緩み、あざ笑うように口角が上がった。

「俺のことを何も聞いていないのか」
「珀弧様はあなたに気をつけろ、と仰っておりました」
「なるほど、敢えて言わなかったか」

 僅かに思案するような間があったが、正臣は「まぁ、いい」とひとこと呟くと、徐に玄関扉に手をかけた。

「い、嫌! 外には出たくありません」
「お前の要望を聞くつもりはない」

 正臣が一歩踏み出す。
 洋風の庭を月明かりが照らしていた。初夏の花がはっきりと見て取れるほど明るい月明かりに凍華は激しく首を振る。

「お願い! 離してください」

 しかし、正臣はどんどん進み、庭の中央まできてやっと凍華の手を離した。
 大木が植えられているのは庭の端で、そこに銀色の月を遮るものは何一つない。

 激しい喉の渇きが凍華を襲ってくる。
 胃の中が空っぽになったようで、今までに感じたことのない飢餓がこみ上げてきて、凍華はその場にしゃがみ込んだ。
 それらは、廓で月明かりを浴びたときよりもはるかに大きく激しい。

(人魚の力が本格的に目覚めてきたんだ)

 あの時よりも体に力がみなぎるのがはっきりと分かる。
 慌てて必死に胸元から匂い袋を取り出し、その中身を地面にぶちまけると、乾燥してもなお銀色の輝きを保っているそれを、両手で掻き集め口の中に入れた。
 生花と違って口内に纏わりつくのを強引に飲み込めば、喉がしびれ渇きが少しおさまる。

「ほお、そうやって食欲を押さえてきたのか」
「……はい。ですから、見逃してください。私を斬らないでください」
「俺はお前を斬るために連れてきたのではない」
「えっ!?」

 凍華は喉を押さえながら正臣を見上げる。
 月を背負った黒い影は、表情が分からない。
 しかし、闇のように黒かったその目が、青く変わっているのだけは分かった。

 正臣が刀に手をかけそれを抜けば、月の明かりに刀身が冷たく光った。

(やっぱり斬られる!)

 咄嗟に身を竦めた凍華であったが、正臣はそれを振り下ろすことなく、あろうことか刃を自信にむけた。
 見るからに鋭利なその(やいば)に、迷うことなく左手を近づけると、押し当てるようにして一気に引き抜く。

「な、なにを!」

 正臣が傷口が見えやすいように袖をまくり上げると、かなり深い傷が六寸にもわたり腕を切り裂いていた。
 血はどんどんと溢れ、地面に血だまりを作っていく。
 その匂いに凍華の心臓が速くなり、再び喉が渇き出す。
 思わずあとずさり着物の袖で鼻と口をふさぐも、血の匂いがやけに甘く感じられ、頭の芯がしびれてくる。

「よく見ろ」

 それなのに、正臣は傷口を凍華に突き出してきた。
 意味が分からず、ただ茫然とその傷口を見ていた凍華であったが、やがて、青い目を大きく見開いた。

「……傷が塞がってきている?」

 どくどくと流れていた血が止まり、皮膚が少しも盛り上がるとあっという間に傷口は塞がり、跡ひとつ残らない。

「妖?」
「ふん、いっそうのこと、そのほうが良かったかもな。少なくとも妖には寿命がある」

 自嘲気味な笑いを浮かべながら、正臣は凍華の前にしゃがみ込む。
 手が届きそうなほど近い距離に焦ったのは凍華のほうだ。

(どうして私を恐れないの?)

 どうにか抑えているも、飢餓感は腹の底から湧き上がってきて、意識を張り詰めていないと、男を惑わせるあの声が今にもでそうなのに。
 それなのに、正臣は無防備に膝を付き、忌々しそうに凍華を見てくる。

「俺はお前達が憎い。だがそれ以上にこの身体が恨めしい」
「……あなたはいったい?」
「人魚の肉を食った」
「えっ!?」

 意味が分からないと唖然とする凍華に、正臣はもう一度言い含めるように同じ言葉を口にした。

「俺は千年前に、人魚の肉を食った」
「人魚を……人間が食べたの?」

 俄には信じられない。男を惑わす人魚が人間に囚われたというのか。
 その言葉の意味を理解した瞬間、凍華の全身がぞっと粟立った。
 同じ人間として倫理的に到底ゆるされない悪行に対する嫌悪。
 人魚の本能からくる、仲間を食われたことへの激しい怒り。
 そして、背中にピタリと恐怖が張り付いた。

 男を惑わすことを恐れてきた凍華だったが、よもや自分が食われる立場であるなど想像だにしていなかったのだ。

「どうして、あなたは……」

 人魚を食べたの、と聞きたいが、悍ましくて言葉が喉で詰まった。
 それを見た正臣が、ふっと息を吐く。

「珀弧は本当に何も教えなかったんだな。お前の肉には不老不死の力があるんだ。千年以上前から人はそれを求め、人魚を狩り、肉を食った」
「そ、そんな……」
「もちろん成功する者などほとんどいなかった。人魚の声を聞けば惑わされこっちが食われてしまう。だが、俺は人魚を捕らえた」

 凍華の喉がごくりと鳴る。
 自分を見返す目が洞のように仄暗く、正臣の顔からは表情か抜け落ちていた。

「初めの頃は良かった。怪我をしてもすぐに治るし、身体も疲れ知らずでいつまでも働いていられる。だが、何十年か経つと、俺を見る周りの目が変わってきた。幼馴染の頭は白くなり、顔には皺が刻まれたのに、俺だけはいつまで経っても二十代のままだ」

 周りから、人魚の肉を食ったのではと囁かれ、化け物を見るかのような目を向けられるようになった正臣は生まれ育った集落をあとにした。
 
「あんな奴らどうでも良かったし、これで清々したと新たな暮らしを始めた。だが、それもやがて破綻する。息子の姿が俺より老け、妻が亡くなり、子が先に死に。そんなことを何度も繰り返し、絶望したよ」

 正臣は空虚な顔で笑うと、凍華の頬を掴み自分のほうを向かせた。

「不老不死は呪いだ。俺は人魚の呪いによって死ぬことすら許されず今日まで生きてきた。腕が千切れれば、激しい痛みを感じる。普通なら即死する刀傷でも死ぬことが許されず、身体が治癒するまで悶え続けなくてはいけない。お前に俺の苦しみが分かるか?」

 がくがくと震えながら凍華は頭を振る。
 想像しただけでも息が苦しく、胸がつぶれそうになった。
 しかし、それも全て正臣自身の行いによるもの。
 正臣は人魚を食ったのだ、同情する余地はどこにもなかった。

「……報いを受けた、それだけでしょう」

 凍華は正臣をまっすぐに見据えた。
 震えているのに、今すぐ逃げ出したいのに、でも、自分のどこにそんな胆力があったのかと思うほど、強く睨みつける。

「すべての妖が人間の里を荒らし迷惑をかけているわけではないわ。ひっそりと隠れるように生き、穏やかな暮らしを望んでいる妖もいるのに、あなたは食べ、斬り続けた。それがどれほど卑劣なことか……きゃ」

 最後まで言い終わらないうちに正臣の平手が凍華の頬をはたいた。
 軍人の力で思いっきり殴られたのであれば気を失ってもおかしくないが、凍華が感じた痛みは予想より小さい。

 微かに唇に滲む血を手の甲で拭う。
 それを見て、正臣がにやりと笑った。

「その程度で済んだところを見ると、随分妖力が戻ってきたようだな。喉も乾いてきただろう」
「……」

 言われるまでもなく、喉の渇きも飢えもどんどん増してきている。
 今、目の前にいる正臣に飛びつきたい気持ちを必死で押さえているのだ。

「やっと見つけた。妖狩りを結成して三百年。長かったが、それも今日で終わる」
「あなたの目的はなに?」
「まだ分らんのか」

 いうや否や、正臣は凍華に飛び掛かり、地面に組伏した。
 突然のことに抵抗できず、凍華は背に砂利の痛みを感じつつ正臣を見上げる。
 自分を見下ろす男の背後に、はっきりと満月が見えた。

 びくん

 全身が跳ね上がるほどの衝動が突き抜ける。心臓が早鐘のように鳴り、どくどくと物凄い速さで血が全身を駆け巡る。耐えられない飢餓感に唇の端から一筋、涎が垂れた。

「腹が減っただろう。喉が渇いただろう。なに、我慢しなくて良い」

 正臣は、整った顔で狂ったように笑うと、すとんと表情を落とし、鼻先が付くほど近く凍華に顔を近づけた。

「……俺を食え」
「…………えっ?」

 凍華の目が大きく見開かれた。

(聞き間違い? 今、自分を食べろと言ったの?)

 意味が分からない。しかし、正臣の瞳は惑わされたかのように胡乱なものへとなっていく。

「あなたを食べろというの?」
「この肉体は、どれだけ傷つけても蘇ってしまう。お前達人魚は魂を食うんだろう。俺はもう、こんな世から消えたいんだ。何年、何百年と生き続けてもただただ空しいだけ。どこにも居場所はなく彷徨うことしかできない。親しくなったものはどんどん老い、死んでいく。ただ死ぬのなら良いが、最後には俺のことを化け物と罵しり恐れるのだ」
「……自ら望んで人魚を食べたのでしょう?」
「齢二十の若造に、こんなことまで想像できるはずがなかろう」

 凍華の眉根が深く寄せられる。
 嫌悪感を露わにするも、正臣はもうそんなことに気づかないほど陶酔していた。

「俺は人間だ。お前達みたいな化け物じゃない」

 あまりにも自分勝手な言葉に、凍華の全身が暴れるように反応した。
 気づいた時には上に乗っていた正臣を突き飛ばし、変わるように馬乗りになると、喉仏の下に細い指を食い込ませた。

「あなたが殺した人魚は苦しんだはずよ」

 声が変わる。甘く惑わす声が他人のもののように聞こえた。
 周りの景色が紗をかけたように霞むのに、目の前にいる正臣だけが妙にその輪郭をくっきりとさせる。

「千年前の話など、覚えていないしどうでもよい」
「命乞いをしなかった? 彼女にも好きなものがあったはず。大切なものがあったはず。その命を身勝手に奪ったのはあなたでしょう」
「化け物の気持ちをどうして俺が()らなければいけない。そんな道理はない」
「……あなたこそ、化け物よ」

 首を押さえていた手に力がはいる。
 激しい喉の渇きと飢餓に、本能的に凍華は口を開けた。
 赤い唇が冴え冴えとした月明かりの下、照れっと艶めかしく輝く。

(いやだ、食べたくない。たとえこんな男でも、命を食うなんてしたくない!!)

 そう思うのに、体はまるで本能に抗えないかのごとく正臣に近付いていく。
心の内では飢餓と必死に戦いなんとか理性を保とうとしているのに、喉を押さえる手にはますます力が入る。

 どうすれば良いか、誰にも教わっていないのに本能で理解していた。
 その赤い唇が、正臣の唇を塞ぐようにさらに距離を縮める。

(いや! 絶対にいやぁぁl!!)

 凍華の動きがぴたりと止まり、正臣の顔にぽたりぽたりと赤い血痕がしたたり落ちた。
 自分の唇を血が出るまで噛みしめ、涎を垂らし、必死に耐える凍華がそこにいる。
 月の明かりは容赦なく彼女を照らし、その黒い髪が次第に淡い水色へと変わっていく。
 
「食え。俺の魂を食って、俺の苦しみを終わりにしてくれ」
「勝手な……ことを言わないで。あなたの思い通りにな……んか、動かないわ……!!」

 必死に耐えながら、正臣の顔を睨みつける。
 視線が絡まり、一瞬時が止まったかのようだった。
 しかし、先に動いたのは正臣。自分を押さえていた手を払いのけると上半身を起こし凍華の顎を掴んだ。

「お前達、化け物に意思も感情も選択肢もない。黙って俺の言う通りにすればいいんだ!!」

 咆哮とともに、その唇を凍華に無理やり押し付けようと抱き寄せた。
 その時だ。

「凍華!!」

 背後から肩を掴まれ、正臣から引き離された凍華は、逞しい腕に包まれた。
 懐かしくさえ思える匂いとぬくもりに心の底から安堵がこみ上げてくる。
 見上げればそこには銀色の髪を靡かせた珀弧の姿があった。

「珀弧様!」
「良かった。間に合った」
「申し訳ありません。少し出歩くつもりだったのですが、雨香に見つかって……」
「雨香、あの時の女か。なるほど、あの女を利用して凍華を俺から引き離したというわけか」

 珀弧は一度強く凍華を抱きしめると立ち上がり、凍華を背に庇った。

「妖を憎むお前が、どうして凍華にそこまで執着するんだ」
「所詮、化け物には分らんことさ」

 珀弧は懐から十尺あまりの木の棒を取り出すとそれを握りしめた。
 途端、棒の先に鋭い刃が現れ、月明かりの下鈍く光る。

「……その軍人は、私に自分を食べさせようとしたのです。人魚の肉を食べて不老不死となった身体を疎ましく思い、その命を終わらせるために私を探していたのです」
「自身を食わせるだと? なるほど、何百年もたってようやく不老不死の本当の意味を知ったというわけか」

 珀弧の目が蔑むように正臣を見る。

 この二人が初めて刀を交じ合わせたのは三百年前。
 斬ってもすぐに治癒する身体に加え何十年も変わらぬ姿に、珀弧は正臣が何をしたかすぐに悟った。
 妖と妖狩りとして幾年にも渡り出会い、斬り合い、初めこそ圧倒的に珀弧が優勢だったが、長い時を経て力量は拮抗したものとなった。 

 二人の殺気立った空気に息を潜める凍華であったが、その喉の渇きと飢えがおさまったわけではない。
 こうしている間も、何度も二人に襲い掛かりたい衝動に駆られていた。

 と、突然上から銀色の花びらが降ってきた。
 雪のようなそれは、次から次へと舞いおり、凍華の足元に落ちていく。
 それと同時に甘く濃厚な香りがあたり一面に立ち込める。

「凍華、花持ってきた」
「沢山、集めた」

 ポンポンと、闇夜に狐火が浮かぶと、すぐにそれはロンとコウに姿を変えた。
 その両手には惑わし避けの花が沢山抱えられている。

「結界をはる」
「その中に花と凍華を閉じ込める」
「えっ?」

 なに、と聞き返す間もなく、凍華を囲むように透明の壁が出来上がる。
 閉じ込められた花の香りが濃度を高め、それにつれ喉の渇きがおさまっていく。
 月明かりを受けているのでまったく飢餓感がなくなったわけではないが、充分に制御できる程度には落ち着いてきた。

「ありがとう、ロン、コウ」
「俺達、もう行く」
「えっ?」
「ここを探すのに珀弧様、沢山の使役狐を使ったから、妖狩りがうようよしている」 

 珀弧が作り出した使役狐の数は、以前凍華を探した時よりもずっと多かった。
 凍華が店を出て間もなく河童堂に戻ってきた珀弧は、凍華がひとり店を出たと聞いてすぐに後を追った。
 大通りを隈なく探すも姿は見えず、嫌な予感にかられロンとコウ、それから凛子を呼びだし、さらには使役狐を帝都に放った。

「でも、ここを探し当てたのは使役狐じゃない」
「それじゃ、誰が私を見つけてくれたの」
「河童堂の店主が、知り合いの妖に声をかけてくれた」
「皆、凍華の組紐に感謝していたから、手を貸してくれた」

 声をかけた妖が、気を失った凍華が馬車に乗せられるのを偶然見ていた。
 その時は凍華だとは知らなかったが、河童堂の店主がいう容姿と服装が同じだったからと知らせにきてくれたのだ。
 そのあとは馬車を見かけた妖を探し、正臣の屋敷にたどり着いた。

「それじゃ、俺達、行く」
「うん、ちゃんと妖狩りから逃げてね」

 凍華が心配そうに眉を下げれば、ロンとコウは顔を見合わせ首を傾げた。

「違うよ、妖狩りをここに近付けないために行くの」
「珀弧様の邪魔はさせない」

 えっ、と思う凍華の前で、二人はくるりと回ると、年若い青年に姿を変えた。
 珀弧と同じ銀色の髪に琥珀色の瞳。身体こそ珀弧より一回り小さいが、黒袴に帯刀するその姿は勇ましい。

 唖然とする凍華に、二人はいつものようににこりと笑うと、右手と左手を振り去って行った。
 それを目の端で見届けた珀弧は、改めて正臣を見据える。

「さて、そろそろ決着を付けねばならぬな」

 抑揚のない珀弧の声は、恐ろしいほどの怒りをはらんでいた。
 正臣が刀を構えたまま距離を詰めると、珀弧はそれを受けるかのように切先を正臣に向ける。
 暫くそのまま睨み合う中、先に動いたのは正臣だった。

 真っ直ぐに振り落とされた刀を、珀弧は半歩下がり避けるとすぐ真横に移動し、正臣の右腰から左肩目掛け刀を振り上げる。
 形状こそ日本刀だが、その周りを銀色の靄のようなものが囲んでおり、刀を振れば尾鰭のように刀の後ろに靡いた。

 動きが早すぎて、凍華には銀色の煙が舞うようにしか見えないのに、正臣は手首を返すとすぐに珀弧の刀を刀身で受け止めた。まるでその刀筋をあらかじめ読んでいたかのように無駄のない動きだ。

 じりっ、とお互いの足に力が入り鍔迫り合いのように力が拮抗する。
 どちらも引くことはなく、射るような視線が宙でぶつかる。