いつもと変わらぬ日々が続いたある冬の昼下がり。
凍華は叔父に呼ばれ玄関先に向かうと、見知らぬ男が一人立っていた。
お客様だろうかと首を傾げると、その男が凍華の顎を掴みじろりと目を細め見てくる。
「あ、あの……」
突然のことに震えながら声を出せば、男はにんまりと笑った。
「旦那の仰る通り、こりゃ、上玉ですわ。汚れて痩せてみすぼらしが、磨けば光る玉のようだ。それに、この目がよい。客の中には珍しいものを好む酔狂なお人も多くてね。しかも、男を惑わす妙な色香があるじゃないか」
「そんなもの、この小娘から感じたことはないが。それじゃ、良い値で買ってくれるんだろうな」
「へへ、こっちはこれで商売してんですよ。あっしの見る目に間違いはございません」
何の事だろうと凍華が身体をこわばらせていると、男はやっと顎から手を離した。
いやらしく笑うその顔に、全身に鳥肌が立ち、いますぐここから逃げ出さなきゃいけない気持ちにかられる。
半歩足を後ろに引いたときだ、背後から雨香の声がした。
「あんた、売られるのよ。私の将来のために」
「えっ!?」
振り返ると、蔑むような笑みを浮かべる雨香がいた。
「あんたを売ったお金で、私は帝都一の女学校に入学するの」
「私を売る?」
「最近できた女学校で、異国のマナーや歴史、文化、言葉を学ぶのよ。日本でも有数のお金持ちの子供だけが通う青巒女学校に、私が入学できるなんて! お父様ありがとうございます」
凍華を押しのけ叔父の首に抱き着く雨香を、凍華は呆然と見た。
(雨香を女学校に通わせるために、私を売る? そんなこと……)
ありえない、と思った。楠の家はお金に困っていないはずだ。
「わ、私なんて売らなくても、お金ならあるのではないのですか?」
「青巒女学校は三年分の授業料と一年間の異国への留学費用を纏めて払う必要がある。纏めて、となると少々きつくてな。それで、お前を売ることにした。お前は今日で十六歳、成人するまで面倒をみてやったのだから、今度は儂達に恩を返す番だ」
言われて初めて、凍華は今日が自分の生まれた日であることを思い出した。
しかしこの場合、十六歳というのはもっと別の意味が含まれている。
「十六歳未満は客がとれませんからね。即戦力というわけでさぁ、ひひひひ」
気持ち悪い引き笑いをする男の言葉に、凍華は血の気が引き今にも倒れそうになった。
売られる、と聞いたときから予想はしていたたが、具体的な言葉に目の前が真っ暗になる。
「お父様もお母様も、忌み子を今まで育てた甲斐があったわね。あんたも、育ててもらった恩を返せるのだから本望よね、ふふふ」
意地悪く口角を上げる雨香を、凍華は茫然と見ることしかできない。
(雨香に最高級の教育をさせる、そのためだけに私は売られるの?)
「あんたが男達に酌をし、褥を共にする間に、私は令嬢として特別な教育を受け留学し、ゆくゆくはこの国の中枢となるお方に嫁ぐのよ」
「ああ、儂が素晴らし相手をさがしてやろう」
叔父と雨香の会話が遠くで聞こえる。足が地についていないようで、何が起きているのか実感がわかない。
(私が何をしたというの?)
母が亡くなったのも、父が殉職したのも凍華のせいではない。
こんな目に、髪に生れたかったわけでもない。
でも、粗末ながらも食べるものがあり、屋根の下で眠れるのならと我慢してきたのに、売られるなんて。
悲しさ、悔しさ、不安、胸にこみ上げる感情に凍華が言葉を失っている間にも、女衒の男と叔父の話は進んでいく。
「じゃ、金は無事初仕事を終えたのを確認してから持ってきやすんで」
「はっ? 今払ってくれるんじゃないのか?」
「数年前までそうでしたが、初仕事前に怖気づいて逃げたり――まっ、こっちは捕まえればいいんですが、中には自分で首をくくっちまうモンもいたもんで。そうなると、大赤字になっちまうでしょう。だから今はひと月後に金を払うところが多いんですわ」
「多い、ということは即日払いの店もあるということか?」
「ないことはないですが、買取価格は三分の二ですかね。その女、痩せてガリガリだが、もとは悪くねぇ。あっしとしては一番高く買ってくれる大店にどうかと思っているんですよ」
女衒の仕事は女を買って、廓に売ること。どの廓にどの価格で売るかは女衒の腕に掛かっている。
幸い入学はひと月後。それなら高く買い取ってくれる店のほうがよいと、揉み手で見てくる女衒を見ながら叔父は考えた。
「分かった。おい、凍華、今まで育ててやったんだ。恩をあざで返すなんて真似するなよ」
「へへ、それは廓でもしっかり目を光らせておりますんで。あっしも、これだけの上玉に死なれちゃ堪りませんからね」
よし、と叔父が膝を叩く。それが合図となり凍華が売られることが決まった。
まるで、店先で野菜を売り買いするかのようなやり取りを、凍華は人ごとのように聞いていた。
言っている言葉は理解できるけれど、内容が頭に入ってこないのだ。
「二度とその気味の悪い顔を見せるんじゃないぞ」
それが十年ともに暮らした者への見送りの言葉だった。
こうして、成人の誕生日を迎えたその日、凍華は小さな風呂敷ひとつだけで叔父の家を叩き出され、そして夕暮れどき、提灯の灯りが眩しく華やかな花街に辿りついた。
「ふうん、これが昨日言っていた娘か」
鼻の上に大きな出来物のある初老の女性が粘っこい視線で凍華を値踏みする。
女将さんと呼ばれたこの女性が、店を取り仕切っていることは凍華にもすぐに分かった。
事前に凍華の話をしていたのだろう、女衒と女将の会話は阿吽の呼吸のように進んでいく。
「仕事の内容は説明したんだね」
「もちろん、本人も納得済だ」
聞いたのは客をとるということだけ。もちろん納得などしていない。
でも、凍華は恐怖から何も言えずぎゅっと着物を握ることしかできない。
くたびれ、あちこち直してつぎはぎのあるその着物を女将がじろりと見て、にたりと笑った。
「見たところ、帰るあてもない、虐げられた娘のようだね。耐えることに慣れている娘は扱いやすく廓にとって都合良い。身体はがりがりだが見目は悪くないね。いいわ、言い値で買いましょう。ただし金はひと月後だ」
「もちろん、分かっております。ではあっしはこれで、ひひひっ」
男は引き笑いと共に廓を出ていった。
残された凍華は下を向き立ち尽くす。これから先自分がどうなるのか、恐ろしくて考えたくない。
「なにを突っ立っているんだ。とにかく上がりな」
凍華がいるのは廓の勝手口、土間から上がり長い廊下を女将について歩いていく。
「この建物は三階建て。帝都でも珍しいだろう。一階が台所に風呂、それから茶飲みの待合所。三階は部屋持ちが使い、あんたの仕事場は二階になる」
早口での説明はまったく頭に入ってこない。
粗末な縦縞の着物をぎゅっと握った凍華の顔は、幽霊のように真っ白だ。
女将さんは、そんな反応は見慣れたとばかりに赤い唇の端を上げた。
「馴染みの客に声をかけ、相手はもう決まっている。予想以上に枯れ枝のような手足だが、出るとこは出ているし何よりこの青い目がいい。珍しい者好きの金持ち達が喜ぶだろうね」
ずっと青い目の色が嫌いだった。
この色のために虐げられてきた。
そして、今は憎くて憎くて仕方がない。
どうして自分の目は人と違うのか、いっそうのこと潰しくり抜いてしまいたい。
「とにかく、まずは風呂だね。ここが湯殿だよ。湯船が汚れるから、先にしっかり身体を洗ってから入るんだ」
「……」
「出たらこの服を着て二階の一番奥の部屋に行く。逃げようとしても無駄だよ、今夜、番頭一人をあんたに付けているからちょっとでもおかしな真似をすると折檻の上、実家に送り返す」
「……」
「おい! 聞いてんのかい! 返事は!!」
「は、はい!」
怒鳴られ反射的に答えれば、「声はちゃんと出るじゃないか」とぶつくさ言いながら女将さんは立ち去っていった。