人魚の血を引く花嫁は、月下のもと愛に溺れる


 凍華の頬に直接風が当たる。
 真上を向けば、冬の弱い日差しが顔を照らした。
 肌寒いけれど、微かに暖かさを感じる。

「太陽の下に素顔をさらすのは、気持ち良いよいものですね」

 目を細め珀弧を見上げれば、微かに琥珀色の瞳が揺れた。
 どうしたのだろうかとじっと見つめれば、眉が寄せられ、そして視線を逸らされた。

「顔を隠すように言われていたのだったな」
「はい。私の目はみっともないですから」
「俺は、美しいと思う」

 その言葉に、凍華ははっと息を飲んだ。汚らわしい、忌み子だと苛まれ続けた目を美しいと言われ、ただただ混乱してしまう。

「……家族からは気味悪がられていましたから」
「あやつらは家族ではない」

 ピシャっと言い切るその口調の強さに、反射的に身を竦めれば、珀弧は困ったように首を振った。

「凍華に怒っているわけではない。俺はお前と一緒に住んでいたあの人間に腹を立てているのだ。凍華は、俺が少し口調を強めただけで、身を竦める。それは、なにかにつけ殴られてきたからなのだろう。だが、俺は凍華を決して殴らない。信じて欲しい」
「信じています! 珀弧様はお優しいです。ロンとコウも、凛子さんも。私に人間の血が流れていても、みんな親切にしてくれます」

 身を竦めてしまうのは、それはもう身体に染み付いた癖で、珀弧が殴るなんて考えたこともない。凍華は誤解させてしまったのかと、ふるふる頭を振れば、宥めるように珀弧が優しく背中を撫でた。

「人間は自分達と違う存在を排除したがる。分からないのが恐ろしいのだろう。妖は「妖」と一括りに言われるが、実態は様々だ。姿、声、能力何もかも違う。だからそのものの本質を見る。見て、己に害をなすかを考えるんだ。凛子達に受け入れられたなら、それは凍華が人間や妖だからという理由ではない」
「……そ、それじゃ」
「皆が優しいというなら、凍華が皆に優しいからだ。主人の俺よりよっぽど好かれている」
「そんなこと……」

 ない、と言いたかったのに言葉が詰まり、変わりに視界が揺らいだ。
 次の瞬間には涙がポロポロと頬を伝う。
 急いで手の甲で拭うも、止まってくれない。
 涙を流したのは何年ぶりだろうか。
 叔母の家に貰われたときはいつも泣いていた。
 悲しくて、辛くて、寂しくて。
 でも、その度に五月蝿いと殴られ、次第に泣くことを忘れた。

「……そんなこと、誰も……」
「誰も言ってくれなかったか?」

 こくこくと頷けば、地面に次々小さなシミができる。
 たまらず顔を覆い肩を震わせれば、背中に大きな手が回された。そのまま、まるで壊れ物でも扱うようにそっと抱きしめられる。

「好きなだけ泣けばいい」

 甘い低音が耳元で響き、背中に当てられた手が幼子をあやすようにポンポンと優しく叩かれる。
 珀弧からは若草の匂いがした。

 こんな風に優しく触れられ、温もりに安堵したのは遠い記憶の中でだけだ。
 凍華の涙は益々止まらず、いつのまにか珀弧にしがみつくように泣き始めた。
 子供のように声を出し泣けば、腕の力が強まりぎゅっと抱きしめられる。
 出会って間もない男性の腕の中ではしたない、みっともないと思われないだろうかと頭の片隅で考えるも、腕から伝わる暖かさが、そんなことはないと否定しているようで、凍華は珀弧の着物をさらにぎゅっと握りしめた。

 どれぐらいそうしていたのだろうか。
 ぐずっと鼻を鳴らし離れたときには既に山裾に日は沈みかけていた。
 
「すみません。もう日が暮れてしまいます。珀弧様、裏山にご用があるのですよね」
「一つはもう済んだ。お前を外に連れ出し、この景色を見せたかったのだ」
「そう、だったのですか」

 この景色を、珀弧が守る景色を見せたいと思ってくれたことが嬉しかった。
 そこに特別な思いなどないだろうが、それでも、凍華の胸は暖かく、鼓動が早くなる。

「あともうひとつはこっちだ。足元がさらに悪くなる、手を貸そう」

 差し出されたのは、先ほどまで凍華を抱きしめてくれていた大きな手。
 そっと重ねれば、強く握り返された。

 珀弧は木々の茂みに分け入っていく。凍華が着いて来やすいように、草履で草を踏みつけながら進むその先にあったのは、湧き水だった。
 
 岩場からちょろちょろと細い清水が流れ落ち、足もとに小さな泉ができていた。それは細い流れとなって森へと続いている。
 凍華は泉の周りに咲いている花を見てはっと息を飲んだ。
 銀色に輝く五枚の花弁の小さな花は、雨香に頼まれ山に取りに行ったものとそっくりだった。
 この山に、現し世と似た花はあっても同じものはない。不思議に思い手を伸ばすと、凍華より先に珀弧が花を手折った。

「この花を知っているのか?」
「はい。楠が持つ山に咲いておりました」
「山? 楠の屋敷から山までだと随分距離があるだろう」

 どうして珀弧が楠の家の場所を知っているのだろうと、凍華は不思議に思いつつも、雨香に頼まれ花を取りに行っていたことを話した。
 
「取りに行く理由は分かったが、この花の意味は知っているか?」
「花の意味、ですか? 祖父が亡くなったのは、私が三歳の頃で、父は屋敷と土地を妹である叔母に譲り、工場経営もすべて任せたそうです。でも、その山の頂にある湖の周りに花を植えることだけは望んだと聞いています」

 花の意味については聞いていないが、父が生きている頃はその花が絶えず家にあったのを覚えている。
 一度、父親が鉢植えで育てようとしたことがあったが、すぐに枯れてしまった。
 どうやら、あの場所でしか花を咲かせられないようで、そのうち乾燥させたものを匂い袋に入れて持つよう言われた。

 叔母達と暮らすようになったある日、凍華にとっては父の形見のようなその匂い袋を雨香に見つかり、気に入って奪われてしまう。
 雨香は匂いが薄まれば新しく作るように命じるとともに、同じものを凍華が持つことを許さなかった。

 かいつまみつつ話をすれば、珀弧はしゃがみこみ花を見ながら暫く考えこんだ。
 やがて、さらに数本手折ると立ち上がり、それを凍華に手渡した。

「これは『惑わし避けの花』だ。人魚の……力を抑える作用があると言われている」

 珍しく言い淀む珀弧から、凍華は花を受け取る。
 現し世で摘んだときと同じように甘く濃厚な香りが鼻孔をくすぐった。

「これを匂い袋に入れて、お守りだと思い肌身離さず持っていて欲しい。布が必要なら凛子に言えばよい」
「はい」

 父親と同じことをいう珀弧に引っ掛かるものを感じつつも、凍華は頷く。
『惑わし避け』の意味は分からないが、この花が凍華にとって大事なものだということは理解できた。

 では帰るか、と言うときになって、水の辺りに生い茂る木々の中に、見知ったものとよく似た木があることに凍華は気がついた。

「あの木、桑の木に似ています」
「桑?」
「はい。蚕が食べ糸を作るのです。見に行ってもいいでしょうか」
「もちろん。凍華の気が済むまで見れば良い」

 珀弧に礼を言い、桑の木もどきに近寄れば、幹や枝に針のような棘があるところまで一緒だった。強いて言えば、その棘が現し世より長く鋭い。

「隠り世にも蚕はいるのですか?」
「似たようなものはいる。しかし、妖は人ほど器用ではないので糸は紡がぬ」
「では、着物はどこで手に入れるのですか?」
「人間の里だ。人が知らないだけで、俺達は人間の里と妖の里を頻繁に行き来している」
「そんなことをして妖狩りに捕まらないのですか?」

 突然襲ってきた軍人達を思い出し、背筋がゾッとする。彼らに見つかったら命が危ないのではないだろうか。

「むろん掴まるヤツはおり、俺の手が届く範囲で助けてはいる。しかし、妖とて無防備で人間の里にはいかぬ。その木の葉には妙な力があって、その葉を煎じて飲めば、短い時間の間だが妖力を隠すことができるのだ。ただ、不味いがな」

 普通の人間に、妖かどうかを見抜くことは不可能。
 気を付けなくてはいけないのは、妖狩りだけだ。
 妖を見抜く先天的な能力と、厳しい訓練に耐えた者だけが妖狩りとなれる。とはいえ、妖狩りの中にも能力の差はあり、煎じたものを飲んでも手練れを誤魔化すのは難しい。
 
「問題は、正臣ほどの手練れとなると、どんな妖でも見抜かれてしまうことだ」
「では、現し世にいる妖は、常に危険と隣り合わせということですか」
「そこまで深刻な話ではない。そもそも、妖狩りは三十人ほど。出会うほうが稀だ」
(それでも危険には変わりない。何か私にできることはないかしら)

 はっとした表情で凍華はもう一度桑の木もどきを見る。

(……ある! 私にできることを見つけた!)

「珀弧様! お願いがございます」
「……なんだ、言ってみろ」

 珀弧の唇が優しく弧を描く。
 凍華自身は必死で気がついていないが、それは十年ぶりに彼女自身が何かを望んだ瞬間だった。



 四日後。
 凍華は、ロンとコウが珀弧に命じられ持ってきた木箱の中身を見て、かたりと固まってしまった。

(これはいったい何?)

 凍華が思いついたのは糸を紡ぐこと。養蚕を営んでいた叔父のもとで育ち、生糸の作り方は知っていた。だから、蚕と箱を用意してもらったのだが、何かが違う。

 凍華の知っている蚕より数倍大きなそれは、両の手のひらからはみ出すほどだ。口からは鋭い牙が生えているようだが、見なかったことにしたい。
 それでいて目はまんまるでつぶらなのだから、可愛いのか恐ろしいのか分からない。

「……これ」
「珀弧様、用意した」
「珀弧様、凍華に甘い」

 二人がかりで持つその箱は、高さこそないけれど、正方形で一辺は三尺ほど。ちょうど、ロンとコウの背丈と同じぐらいだ。
 でも、その中にいる蚕もどきが六寸以上あるので、決して大きすぎることはない。
 蚕もどきの本来の名前は珀弧から教えてもらったが、長すぎて覚えるのは諦めた。
 そんな蚕もどきが十五匹も箱の中で蠢いている。

 凍華が寝ている部屋の隣に、襖続きとなる部屋がもうひとつあり、そこに木箱は置かれた。
 家具ひとつない部屋の真ん中にある木箱の周りをロン、コウ、凍華が囲む。

 間近で見るのは初めてだというロンが、庭から木の枝を持って来てつん、と突けば蚕が牙をむいた。凍華の喉から「ひっ」と声が出る。

「ロン、そんなことしたら可哀想よ」
「こいつ噛みつこうとした」
「こっちは火を吹いた」
「えっ」

 コウの持つ枝の先が少し焦げている。

(……珀弧様は一体何を用意してくださったのかしら)

 この隣の部屋で寝るのかと思えば、養蚕工場を営む叔父のもとで暮らしていた凍華でさえ少々気持ちが悪い。

 ワタワタ騒ぐロンとコウを宥めていると、凛子が桑の葉もどきを抱えてやってきた。どうやら裏山まで取りにいっていたようで、少し息をきらし額には汗を掻いている。

「ロン、コウ、退きなさい」
「「はい!」」

 ピシッと右手と左手を挙げてさっと道を開ける二人。
 凍華の前ではふざけることも多いが、凛子のことは怖いのか、お行儀よく正座までしている。
 そんな二人に構うことなく、凛子はばさりと葉を入れる。木箱の真ん中にもりっと葉が積み重なった。

「よし、これでいいわ」

 腰に手を当てる凛子に苦笑いをし、凍華はロンから枝を受け取る。

「これでは蚕もどきが埋もれてしまいます。平らにならしたほうがきっと食べやすいと思います」
「そうですか。あっ、気を付けてください。小さい割にコレ、獰猛ですよ」
「……はい」

 凍華の顔が強張る。襖はきちんと閉めて眠ろうと思った。
 怖くても、枝で蚕もどきを傷つけないよう、丁寧に葉を平らにしていく。その作業をしているはしから蚕もどきが頭を葉に突っ込みもしゃもしゃと食べ始めた。この様子なら葉に埋もれても自力でなんとかしそうだ。


「あの、これ、箱から逃げませんか?」
「羽がないから大丈夫ですよ。でも心配でしたら、もう少し箱を高くしましょうか?」

 そう言うとともに、箱の縁がどんどん上に伸びていく。それぐらいで充分、と思う所で伸びは止まり、初めの高さの倍ほどになった。

「これでいいかしら」
「はい、ありがとうございます。……あれ、もう繭を作ろうとしている?」

 驚く凍華の先で、蚕もどきがもう繭玉を作り始めた。
 この調子なら、今夜にでも糸を紡げそうだが、凍華の知っている蚕とはやはり似て非なるものだ。

(繭から糸を作る糸軸は午後に珀弧様が持ってきてくれるそうだから、明日には蚕の糸を使って組紐をつくれるわ)

 桑の葉もどきに妖の力を隠す作用があるというのなら、それを食べた蚕もどきから出た糸にも同じ力があるのではと考え、それで組紐を作ることを思いついた。
 もし効果がなくても、組紐ならなにかと使いようもあるだろう。

 何もせずにお世話になるだけなのは、ずっと働いていた凍華にとって居心地の良いものではなかった。何度も料理や洗濯をしたいと申し出ても、やんわりと断られてしまう。
 それが、凍華を思う優しさから来るのを分かっているので、強くいうこともできず悶々としていたところだった。

(よし、頑張ろう)

 楠の家では感じることができなかった力が腹のそこから湧き上がってくる。
 いきいきとした目で蚕もどきをみる凍華を、凛子は嬉しそうに見守った。

 三日後には組紐は五本出来上がった。
 蚕の糸だけでなく屋敷にあった糸も使ったのだが、糸の色が限られていたので、緑と赤を織り交ぜた組紐が二本と、紫色、青色がそれぞれ一本ずつだ。それぞれに、染めていない蚕もどきの糸も一緒に編みこまれている。

 編むときから傍を離れなかったロンとコウが我先にと選んだのが緑色と赤色を織り交ぜた組紐だった。
 結んで結んでと万歳するので、兵児帯の上から巻いてやると、喜び勇んでどこかに走り去っていった。
 それを見届け凍華が台所へ向かえば、ちょうど、昼食の片づけが終わった凛子が木箱を竈の前に置き残り火で暖を取っているところだった。
 凍華と違い凛子は寒いのが苦手のようで、竈や火鉢の前で丸くなっている姿を幾度か見たことがある。

「凛子さん」
「はい、何か御用でございますか」
「いえ、そうではなく……」

 子供に渡すのと違い、大人に自分が作ったものを手渡すのは躊躇してしまう。

(こんなもの手渡されても迷惑かも知れない)

 やっぱりやめておこうかと思うも、にこにこ微笑みながら凍華が話すのを待っている凛子を見ればそうもいかず、思い切って懐に手を入れ二本の組紐を見せれば、凛子は「まぁ」と目を丸くした。

「いつもお世話になっているお礼につくりました。蚕もどきが出す糸を混ぜましたから、もしかして妖狩り避けになるかもしれません」
「嬉しいわ。私なんかが貰ってもいいのかしら」
「ご迷惑でないなら是非、受け取っていただけると……嬉しいです」

 語尾が小さくうつむきがちになる姿に、凛子は小さく微笑み「では」と紫色の組紐を手にした。それを手際よくに帯に巻きぎゅっと締めると、もともとしていた組紐を解く。

「今日の帯は深緑ですので、組紐が良く映えるますわ。いかがでしょうか」
「はい、とても似合っていらっしゃいます」

 ふふ、と嬉しそうにしながら凛子は残りの組紐を見る。

「それで、これはどうなさるおつもりでしょうか」
「どうしましょう。あまり考えずに作ってしまったので、凛子さん、もう一本もいかがですか」
「あらあら、だそうですよ。珀弧様」

 凛子の視線を追うように振り返れば、珀弧がむすっとした顔で立っていた。
 その足元にはロンとコウがいて、あわわ、と口に手を当て凍華を見上げる。

「ほう、この屋敷の主人は俺なんだが」

 初めて見る目の据わった珀弧に、凍華の顔が青ざめた。
 何を怒っているのか分からないが、その原因が自分であることは肌で感じる。

「あ、あの……」

 私、何かしましたか、と言いたいのに言葉が出ない。そんな凍華を庇うように凛子が間に入った。

「大丈夫よ、凍華さん。珀弧様は自分だけもらえないことに拗ねているだけだから」
「拗ねている?」

 たかが組紐。ましてや、凛子のように帯留に使うこともないのに必要だろうか。
 もし妖の力を隠す作用があったとしても、珀弧ほどの妖なら不要に思える。

「そういうわけではない」
「ではどういうわけでしょう」

 ふふふと笑いながら凛子はロンとコウを連れ庭掃除に行ってしまう。
 残された凍華は残った組紐をそろそろと珀弧に差し出した。

「……うまく作れておりませんし、そもそも珀弧様の役に立つ代物ではありませんが、よろしければ」
「……あぁ、ありがとう」
「……」

 沈黙が重く気まずい。どうしようかと思いつつ凍華は珀弧を見る。
 家で寛ぐときは着物、時折出かけるときは洋装か羽織袴。色は黒が多く、銀色の髪が良く映える。

「羽織紐でしたらお作りできると思います」

 唐突な申し出に珀弧は目を丸くするも、すぐにその意図を読み取ったかのように笑った。

「いや、それならこれと同じものをもう一つ頼む」
「同じもの、ですか。分かりました」

 そういうと、珀弧は結んでいた髪を解き、凍華の作った組紐で髪を纏めた。
 銀色の髪に青い組紐が映え、さらに美しさが増したように思う。
 凍華があまりにじっと見つめていたからだろうか、珀弧が決まり悪そうに目線をそらした。

「おかしいか?」
「いえ、そうではありません。その……髪が綺麗で羨ましいなと。ほら、私のかみはくせ毛で細くて、くしゃくしゃですから」

 へへへ、と空笑いをする凍華に、珀弧は一歩距離を詰めると、身を屈め凍華を覗き込んだ。間近に迫る琥珀色の瞳に心臓がドクンと跳ねる。
 珀弧の手が伸び、凍華の髪を一束掬うと、その手触りを確かめるように親指ですっと撫でた。

「以前にも言ったが、俺はこの髪は綺麗だと思う。ふわふわして鳥の羽のようでつい触りたくなって……」

 そこで言葉が途切れ、手がぱっと離れた。

(えっ……触りたい!?)

 突然の言葉に凍華は頬がかぁっと熱くなる。
 顔どころか首まで真っ赤で湯気が立ち上りそうだ。
 棒立ちになりつつも、目だけ動かし珀弧を見れば、こちらは手で顔を隠し横を向いていた。

「あ、あの……」
「すまない。忘れてくれ」

 動じることのない珀弧が珍しく目を彷徨わせ、こほんと咳ばらいをする。
 二人揃って赤くなっていると、何やら勝手口の方から気配がした。見れば、凛子が目だけ戸口から見せているではないか。

「珀弧さまぁ、新しく組紐を作るにも糸がございません。凍華さんと一緒に買いに行かれてはどうですか? ふふふ」

 いつもと違う含みのある言い方に珀弧が眉根をよせれば、倫子はわざとらしく箒を見せ立ち去って行った。

「糸がないというのは本当か?」
「はい。いただいたものは全部使ってしまいました」
「そうか、それなら近々、帝都に行く用事があるので一緒に行こう。妖狩りに会っても俺がいれば大丈夫だ」

 思いもよらぬ提案に凍華は驚き躊躇ったけれど、珀弧の髪に結ばれた組紐を見て、頷いた。

「それでしたら、もっと作って珀弧様が助けたという妖に配ることはできませんでしょうか」
「他の妖にか?」
「はい……お世話になっている身でやはり厚かましいでしょうか」

 糸を買うお金を出してくれるのは珀弧だ。そう思うと、大変図々しいことを言ってしまった。慌てて謝ろうとすると、珀弧の大きな手が凍華の頭をポンポンと撫でる。

「短期間で随分前向きになったな。やはり、お前の本来の魂は強いのだろう。糸ぐらい何本でも買えば良い。もし妖狩りをそれで避けられる可能性があるならなおさらだ」
「ありがとうございます!」

 硬かったつぼみがぱっと咲いたようなその笑顔に、珀弧が息を飲む。
 頭を下げ目を伏せていた十日前とは違う、内側から輝くような笑みは人を惹きつける妙な妖しさも含んでいた。
 人魚が男を惑わすと知っていても視線を離すことができないその魅力に、珀弧は一抹の不安を覚えた。

 三週間後
「いったい何をしているんだい!」

 夕食前の楠の家に幸枝の怒鳴り声が響き渡った。目の前には身を小さくした四十歳ほどの使用人が、深く頭を下げていた。

「どうしてまだ食事の準備ができていないんだ」
「申し訳ありません」

 場所は台所の竈の前。ぱちぱちと薪が爆ぜる音がする中、その上に乗せた鍋の中には入れられたばかりの野菜が煮られていた。
 この様子なら、食事にありつけるまであと半刻はかかりそうだ。

「掃除だって手抜きばかりで、廊下に埃が積もっていた。さぼっているなら暇をだすからね」

 ふんと鼻息荒く言い捨てると、土間から上がり居間へと向かう。  
 凍華がいるときはこんなことはなかった。食事の品数はいつも五品あり、屋敷は隅々まで掃除されていたのに、三週間でこのあり様だと怒りは治まらない。 

 幸枝はこの屋敷で生まれ育っている。跡取りである兄とは随分差のある扱いだったが、それでも使用人達に囲まれれ、何ひとつ不自由をしたことがない。
 ただ、兄より食事の品数が少なかったり、風呂が後だったり、女は勉強より花嫁修行をしろと言われ、跡取りを贔屓する両親に対し複雑な想いを抱いてはいた。

 だから、そんな兄が軍に入り寮暮らしとなったときは喜んだ。五つ上の兄は優しく虐められた記憶はないが、劣等感と妬みはずっと胸の内に持っていた。
 
 しかし、兄が家を離れても、話題の中心が兄であることに変わりはなく、軍で重要な任務に着いたと聞いたときは大層派手に祝ったものだ。
 そんな兄が突然怪我をして第一線を離れた。それだけでなく、生まれたばかりの赤子を連れて帰ってきたのだ。

「母親は死んだ。俺が育てる。楠の家は幸枝が継げばよい」

 そんなことを一方的に告げ出て行こうとする兄を、父は追いかけ捕まえ、殴り飛ばした。馬乗りになって顔が腫れるまで殴り、最後に赤子に手をかけたとき、されるがままになっていた兄は飛び起き赤子を抱きしめた。
 
 霧雨の中、足早に立ち去る軍服の後姿が、幸枝が最後に見た兄の姿だった。

 幸枝が居間の手前まで来たとき、躊躇いがちに呼び止める声がした。
 振り返れば、洗濯ものを抱えた別の使用人が頭を下げている。

「今度はいったいどうしたというんだい」
「はい。それが……最近井戸水に泥が交じるようになりまして、洗濯ものがこの有様なのです」

 使用人が手にしていた白い長襦袢は、薄っすらと茶色の染みができていた。

「泥が交じるだって。それじゃ、飲み水や食事はどうしているんだい」
「甕に入れておけば泥は沈みますので、上澄みを使っております」
「最近、料理の味が落ちたと思ったけれど、原因はそれだったんだね」

 使用人は何も言わず、視線だけを彷徨わせた。
 幸枝は凍華と使用人で食事の準備をしていると思っているけれど、使用人はいつも凍華に仕事を押し付けていた。
 主人から虐げられているのだからばれないと、料理だけでなく、掃除、洗濯と家事のほとんどを凍華が担っていたのだ。ゆえに、料理の味が落ちるのも、掃除が行き届かなくなるのも至極当然だった。

「そういえば、父が生きていたころも同じことがあったわね」

 井戸の水が急に濁り始めたのだ。水脈が変わることは決して珍しいことではなく、今まで潤沢に水が湧いていた井戸が翌年に枯れることもある。
 新しく井戸を掘ろうかと考えていた矢先に先代が病でこの世を去り、兄が死んで凍華がやってきた。
 すると不思議なことに井戸水がまた澄んで潤いだしたのだ。
 だからそのままにしておいたのだけれど。

「やっぱり新しい井戸を掘らなきゃだめかしらね」

 面倒だわ、と思いながら襖を開けて入った居間では、夫である京吉(きょうきち)が難しい顔で帳面を睨んでいた。幸枝の顔を見ると「夕食はまだか」と聞いてくる。

「あと半刻はかかりそうです」
「このところ、使用人は怠けていないか。凍華ひとりいなくなったところでこの有様はおかしいだろう」
「ええ、今度、強く言い聞かせませんと。あなたからも言ってください」

 おかしいのは料理の味や井戸水だけでない。
 戸棚に置いていた客用の菓子がなくなったり、焼いていた魚が一尾消えていたり、小さな泥の足跡が廊下に点々と残されていたり。

「誰もいないはずなのに視線を感じたり、閉めたはずの扉が開いていたりするんです。この前なんて、私がちょっと躓いたら、子供の笑い声がしました。この家、何か取りついているんじゃないのでしょうか」
「全て気のせいだろう。問題があるとしたら、この前追い出した疫病神のほうだ」

 京吉はちゃぶ台の下においてあったキセルを取り出すと火をつけ紫煙を燻らせた。
 眉間には深い皺が刻まれている。

「お父様、凍華はまだ見つからないのですか?」

 襖を開け入ってきた雨香が父の隣に座す。
 手に持っているのは尋常学校の宿題だ。分からないところがあるので聞きにきたのだが、どうもそんな雰囲気ではないと背中にそれを隠した。 

 尋常学校は六歳から十六歳までの子供が通う。
 青巒女学校への入学は、尋常学校の成績と推薦ですでに決まっている。今までは宿題を凍華にさせ良い成績をおさめていたけれど、いなくなった今、全て自分でしなくてはいけない。

「お前は何も心配しなくてもいい」
「ですが……お金を来週末までに用意しなくてはいけないのですよね」
「何、遊郭街から出た形跡はないらしいからすぐに見つかる」

 そう言いつつも、京吉はせわしく紫煙を吐く。苛立っているのは目に見えて明らかだ。

 凍華がいなくなったと聞いたのは、凍華を売りに出した翌日。遊郭街は高い塀とふたつの門で仕切られており、門には見張りが常時二名立っている。
 見張りの目をかいくぐり外に出るのは不可能だし、塀をよじ登ることはできない。
 まれに、顔見知りに頼んで荷車に紛れ逃げようとする遊女もいるが、大半は門を出る前に見つかるし、そもそも売られたばかりの凍華にそんな伝手はない。
 軍人に追われたという話も聞いているが、それこそ意味が分からない。
 ただ、女衒からは遊郭街に隠れていることは間違いないと聞いていた。
 それならすぐに見つかるだろうと高を括っていたのだが、三週間経った今日もまだ見つけたという報告はない。

「少し出かけてくる」
「こんな時間にですか?」
「夕食は外で食べる。それから、さっきお前が言っていた開いた襖や魚の話は、野良猫が入り込んだのだろう。戸締りをしっかりしておけ」

 キセルの灰をトンと灰皿に落とすと、京吉は立ち上がり羽織の上からさらに外套を着て襟巻をした。

 家を出ると、帝都へ向かう道を歩いていく。
 冬の夕暮れは早く辺りはもうすっかり闇に沈んでいる。手に持った提灯が照らす灯だけが頼りだが、歩きなれた道ゆえ不自由はない。
 
 こんな時間から帝都へ向かおうというわけではない。屋敷と帝都の中間ほどにある料亭は京吉のいきつけでもあり、賭博場でもある。
 
「幸枝には凍華を売った金が入らなくても、新事業に回す金を入学金に廻せばよいと言ったが、そんな金はもうない。女衒も廓の人間も、女一人見つけられぬなど何をやっているんだ。いや、もっとも腹立たしいのは凍華だ。気味の悪いあいつをあそこまで育ててやったのに、なんという恩知らずだ」

 ぶつぶつと呟く声が風でかき消される。
 京吉が婿養子に入ったことで、確かに楠の家は豊かになった。
 しかしそれは、代々商家の次男坊だった京吉の実家が持っていた伝手を使って販路が増えただけで、京吉の手柄ではない。
 しかし、それを自分の才能だと勘違いした京吉は、やがて新規事業を始めるもそれはすぐに失敗に終わった。その損失を取り返そうと躍起になるあまり、今度は先物取引にも手を出しさらに損失を大きくするありさま。

 なんとか金を増やさねばと、最近では賭博まで始めた。楠の家は一見豊かに見えるが内情は火の車で、とてもではないが雨香の入学金まで用意できない。

「今夜はなんとしても勝たなければな」

 そう呟き入った料亭の賭博場で、京吉は初めてその女に出会った。
 猫のように目じりの上がった丸い目は、人とは思えない怪しい色香を含んでおり、京吉は女と視線が合った瞬間、ごくり、と生唾を飲み込んだ。

「初めまして。凛と申します」
「……京吉だ。珍しいな、こんなところに女が一人でくるなんて」
「ふふ、おかしいですか?」
「いや、そんなことはない」

 でっぷりとした腹をさすりながら京吉は凛の横に腰をおろした。
 見ればあと二人、やけに若い双子の男も増えていたが、京吉は彼らをちらりと見ただけで、すぐに興味を凛へと戻す。

 その夜、珍しく京吉は勝ちが続いた。もちろん雨香の入学に必要な金には足りないが、それでも久々に良い酒が飲めると、浮かれていた。

「京吉さん、賽子(さいころ)にお強いのですね」
「まあな。あんたはとんとん、といったところか」
「いいえ、負けですわ。ところで、もっと良い賭博場があるのですが今度ご一緒しません」
「良い賭博場?」
「ええ、掛け金が大きいので、戻ってくるお金も大きいんですよ。もちろん負けた時はそれだけ痛手も大きいですが、京吉さんなら大丈夫でしょう」

 甘えるように腕に手を賭けられ、京吉はでれりと鼻の下を伸ばした。

「どこにあるんだ、その賭博場ってのは」
「明後日、ここで待っているので一緒に行きましょう」
「ああ、約束する」

 にんまりと笑うその顔には、はっきりと下心が現れている。 
 その顔を見ながら、袖で口元を隠しながら口角を上げる凛の後ろで、小さな子供の笑い声が聞こえた。
 組紐を珀弧に渡して数日後、凍華は凛子に渡された真綿紡ぎの訪問着に袖を通していた。
 縦糸、横糸ともに真綿で紡いだこの着物は、ふっくらとして暖かい。
 淡い桃色地に手毬柄の可愛い着物に、半襟は塩瀬(しおぜ)、帯揚げは綸子(りんず)を合わせる。もちろん全て凛子の見立てだ。

 髪は上半分だけを結い上げ、あとはふわりとおろした。
 なみうつくせ毛は目立つけれど、珀弧が綺麗だと言ってくれたので、おろすことにしたのだ。

 玄関に向かえば、洋装に身を包んだ珀弧がいた。
 夜の空のように深い紺色の背広は長身の珀弧にとてもよく似合い、凍華の心臓が勝手に早くなる。
 それに、いつもと違って見えるのは服の所為だけではない。

「どうした? やけに見られている気がするんだが」
「髪と瞳の色が違います」

 銀色の髪は濡れ羽のような漆黒に、綺麗な琥珀色の瞳も黒曜石のように黒く変わっている。

「あの髪と瞳では目立つからな」
「……私も、瞳の色を変えることができるのでしょうか?」
「うまく妖力を扱えるようになれば可能だが、凍華は自分に妖の力を感じたことはあるか?」

 激しい喉の渇きと、遊郭で男の喉を掴んだことを思い出す。思い出すと同時にぞっと背中が粟だった。
 あれが人ならずの力――妖力だとしたら。

 しかし、口に出すのが憚られ黙っていると、珀弧はサラリと話題を変えた。

「では行くか。糸以外にも春物の着物や細々とした必要なものを買えば良い」
「そんな、そこまでしていただく理由がございません」
「理由ならある。この組紐だ」

 珀弧は洋装にも関わらず髪につけている組紐を指差す。

「凍華の予想通り、この組紐は妖の力を隠すことができるようだ。ロンとコウからそれを確認したと報告があった」
「報告ですか。でも、どうやって確認したのですか?」
「組紐を身に着けたまま妖狩りに近付いたらしい。いつもより至近距離にいても気づかれなかったと喜んでいた」
「そ、そんな。危ないではないですか!」
「逃げ道は確保していただろうし問題ない。少々頼んでいた調べ物もあり好都合だった」

 けろりと言う珀弧に対し、凍華の顔色はどんどん青くなっていく。
 もしかして、と安易な気持ちで作った組紐のせいでロンとコウの身に何かあったらと思うと恐ろしい。

「そんな顔をするな。あいつらはああ見えて賢い。無茶なことはしない」
「とてもではないですが、そうは見えないです!」
 
 あんな小さな子に何をさせるのかと怒っていると、珀弧は目を丸くし凍華を見てきた。

「何でしょうか?」
「いや、凍華が怒るのを初めて見たと思ってな」
「あっ、も、申し訳ございません。私、失礼なことを」

 慌てて頭を下げようとすると、肩を掴まれ止められる。恐る恐る珀弧を見上げれば、その顔は嬉しそうに笑っていた。

「随分感情が戻ってきたようだ。それでいい」
「あ、あの……。私、珀弧様に無礼を……」
「ロンとコウを心配してのことだろう。それぐらいで俺は気を害さない。むしろ、人のために怒れる凍華は優しいと思う」

 そう言って、珀弧はカラカラと笑う。とっつきにくいほど美形なのに、一緒にいる時間が長くなるにつれ、飾り気のない姿を凍華にも見せるようになった。

「ではいくか」
「はい」

 出された手に戸惑いながら凍華が手を重ねると、珀弧は庭を歩きだした。

「少々目が回るかもしれぬが慣れれば大丈夫だ」

 何を、と聞くまでもなく白い狐火が目の前に現れた。
 ひとつ、ふたつ、と数を増やすにつれ、あたりに白い靄が立ちこめる。
 妖狩りから逃れたときと同じように激しい眩暈がしてきて、凍華は珀弧の腕にしがみいついた。

「二度目だから気を失うことはないだろうが、しっかり掴まっていろ」

 浮遊感と共に目の前の景色が真っ白になっていく。凍華は離れてしまわないように珀弧に掴まる手の力を強めた。


 「着いたぞ」の言葉に目を開ければ、そこは暗い裏路地だった。細い通りの向こうには大通りが見え喧騒が聞こえてくる。
 
「あ、あの。ここは?」
「人間の里、帝都の中心街だ。来たことがないのか?」
「はい。叔父から人の多いところに行くなと言われておりましたから」
 
 珀弧が大通りへと歩いていくので、凍華もその後を追う。
 大通りは大勢の人が行きかい、活気にあふれていた。

「こんなに人がいるのですね」
「休日はもっと多い。はぐれぬよう気を付けろ」
「はい」

 通りには幾つもの店が並び、簪や和食器、洋風の置物などありとあらゆるものが並んでいた。
 そのどれもが凍華にとっては初めて見るもので、ついつい視線をあちこちに動かしてしまう。
 物珍しさに周りを眺めることばかりに気を遣っていたが、やがて自分と珀弧をチラチラみる視線に気がついた。
 今もすれ違った若い娘が珀弧を見て頬を染め、次いで隣を歩く凍華に視線を移し、その青い瞳にぎょっと眉を顰めた。

(珀弧様はやはり見目がよろしいのだわ。それに対し、私はこんな目で……)

 奇異なものを見る目、蔑むような視線に凍華の背中がどんどん丸くなり、俯いてしまう。
 それに気がついた珀弧が立ち止まり、凍華の手を掴むと軒下へと連れていった。

「どうした、気分が悪いのか?」
「いいえ」
「では、なぜ下を向く」
「……私は珀弧様のように瞳の色を変えることができませんから」 
「そうか。すまない、早く気がついてやるべきだった。では、先にあの店に行くか」

 そういうと、珀弧は凍華の手を引き早足で歩き出した。妙齢の男女が手を繋ぐなど珍しいことで、ますます視線が集まり凍華は下を向き必死で珀弧に着いていった。

 やがて珀弧は足を止め、大通りから外れた一軒の店に入っていった。

「邪魔するぞ」
「へぇ、あっ、珀弧様ではないですか。しかも可愛らしいお嬢様まで。これはこれは、逢引でございますかぁ、珀弧様にもやっと春がきましたね」
「相変わらず饒舌だな。ちょっと店内を見せてもらうぞ」
「ええ、ごゆるりと。その間にお茶を用意いたします」

 三十路ほどの店主が、少し薄い頭の天辺をかきながら奥へと消えていった。それを確認して凍華はそろそろと顔を上げ珀弧を見る。

「あ、あの。今の方は……」

「人間だが少し妖の血が入っている。昔、あいつの祖父を助けたこともあり、それからの付き合いだ」
「ではあの方も私と同じ妖と人間の混血なのですね」

 男が消えた暖簾の先を見る。なんだか急に親しみを感じる。
 自分以外にも人間と妖の血を引くものがいたことにほっとし嬉しく思った。

「あの男自身は限りなく人間に近く、妖の里については殆ど知らない。妖の力も少ないので妖狩りに気付かれることもないそうだ」
「だからこうやって帝都でお店を開けるのですね」

 店に置かれているのは簪や櫛といった髪飾り。それから奥の棚に眼鏡があった。
 珀弧はその棚に向かうと、幾つかを手に取り凍華を振り返る。

「近眼用だが、度数の入っていないレンズをいれることも可能だ。瞳の色を変えることができない妖はここで眼鏡を買うものが多い」
「眼鏡で瞳の色を隠せるのですか?」

 手渡され、凍華は戸惑いながら眼鏡をかけると、近くにあった鏡に自分の顔を映した。
 しかし、そこには映るのはいつもと同じ青い目。

「変わりがないように思うのですが……」
「まだ妖力が加わっていないからな」

 そういうと、珀弧は凍華の前に手を翳す。手の平がぼんやりと白く光ったと思うも、すぐにそれは消え、いつもと変わらぬ大きな手が目の前にある。

「これでいい。もう一度鏡を見てみろ」
「はい。……あっ、黒に、私の目が黒に変わっています!!」

 鏡を覗き込む凍華の目が大きく見開かれる。そこには初めてみる黒い目の自分が映っていた。

「これなら目立たないだろう。もっとも、俺は青い目のほうが好きだが」
「えっ」

 さらりと口にされた思わぬ言葉。初めて聞くその言葉に、凍華の顔がどんどん赤くなっていく。その反応を見て、珀弧が慌てて手を振った。

「ち、違う。そういう意味ではなく、ただ美しいと……」
「おやおや、お茶を淹れてきましたが、出直したほうがよいでしょうか」

 背後でのんびりとした声がし、振り返れば店主が茶の乗った盆をもったまま含み笑いで凍華達を見ていた。
 出直したほうがいいかと聞くも、その気はないようで部屋の隅にある長卓に茶を並べる。

「私が眼鏡に呪をかけますのに、ご自身でなされるとは、よっぽど大切なお方なのですね」
「俺がかけた呪のほうが強いからだ」
「はいはい。目の色を(たが)えてみせるのに、妖力の差はそれほど関係ないと思うのですが」

 簡単な呪ですしねぇ、と店主は聞こえるか聞こえないかの大きさで囁いた。
 珀弧が気まずそうに手で顔を隠し、そっぽを向けば、今度はくっくっとはっきり笑い声が聞こえてくる。珀弧相手に飄々としたその態度は、冴えない外見のわりになかなか豪胆である。

「他にもおすすめの髪飾りがございます。見繕ってきますので座ってお茶を飲んでいてください」

 店主は薄い木箱を手にすると、それを持って店内を回り、次々と簪や櫛をそこに入れ戻ってきた。それを二人の前におくと、自身は向かいの席に座した。

「若いお嬢様にお似合いの品を持ってまいりました。もうすぐ春ですので梅や桜、菜の花もございますよ。さぁ、どうぞお手に取ってご覧ください」

 そう言われても、凍華は躊躇い膝の上に置いた手を動かせない。それを見た珀弧が小さく息を吐き、凍華の手を取り広げさせると、その上に桜模様の髪飾りを置いた。

「綺麗……」

 銀の地金に桜が彫られ、桜色の硝子がその上から乗せられている。淡い色合いが可愛らしいその髪飾りを凍華はそっと撫でた。

「髪に着けてやろう」
「えっ?」

 目をパチパチする凍華をよそに、珀弧は髪飾りを摘まむと、結い上げた髪に留めた、
 凛子がくれた椿油を毎日使っているおかげで艶が出た凍華の黒髪に、桜がパッと咲いたような華やかさが加わる。

「うん、よく似あっている」
「……私なんかがいただいていいのでしょうか」
「その言い方はよくないな。そうやって自分を卑下するのは悪い癖だ」
「はい、申し訳……」

 ありませんと言いかけて、凍華は言葉を飲み、珀弧を見上げる。
 まっすぐ見返してくる黒い目に、珀弧が息を飲んだ。

「ありがとうございます」
「……どういたしまして」

 ぱっと周りに花が舞うような、可憐な笑顔に一瞬珀弧が言葉に詰まる。
 眼鏡をかけ目の色が変わったこともあるが、それ以上に俯いてばかりいた凍華が、前を向こうとする姿が眩しい。
 その姿に気をよくした珀弧があれもこれもと買おうとするものだから、凍華は慌て、店主はどんどん品を持ってきて、予想以上の長居となってしまった。

「それで店主、少々相談があるんだが」

 幾つかの品の購入を決めたあと、珀弧は(おもむろ)に切り出した。

「へぇ、なんでも仰ってください。こんなにお買い上げいただいたのですから多少の無理はいたしますよ」
「これを店に置いて欲しい」

 珀弧は首を捻り、髪を結んでいる組紐を指で摘まみ見せた。

「組紐、ですか。そりゃ、置けと言われましたら置きますが、いったいその組紐にどんな意味があるんですか?」
「凍華が作った物で妖狩りの目を眩ませる効果がある」
「へっ。妖狩りのですか? それはいったいどういうことでしょう?」

 ぐいっと前のめりになった店主の反応に、珀弧はにやりと口角をあげると、凍華を見て説明するように促した。
 組紐を店頭に置いてもらうということさえ今知ったばかりなのに、と狼狽えながらも、凍華は桑の葉もどきや、大きな蚕に似た生き物から繭を作って糸を紡いだことを話した。
 
 その話を頷きながら聞いた店主は、手を膝の上に乗せ感心したように大きく頷く。

「そんなことができるなんてぇ、お嬢様は器用なんですね」
「いえ、育ててもらった家が養蚕工場を経営していたので、見知っていただけです」
「謙遜されなくてもようございます。あの葉には確かに妖狩りの目を眩ます作用がありますが、煎じて飲んでも効き目はせいぜい二刻。私は一度味見しただけですが、それはもう、あれを飲むなら店の前の泥水を飲んだ方がマシってもんでして。それが組紐を身に着けるだけで良いなんて、こんな画期的なことはございません」
「では、置いてくれるんだな」
「もちろんです。この店には妖も多く来ますので皆、喜ぶでしょう。むしろこちらからお取引をお願い申し上げます」

 店主が頭を下げるのを見て凍華は慌てるも、珀弧は口角を上げながら袂に腕を入れゆったりと二人を見ていた。
 どうやらこうなることが初めから分かっていたようだ。

「あ、あの。頭を上げてください」
「はい! で、いつ、どれぐらい(おろ)してもらえますでしょうか」
「え……えっと」

 すっかり商売人の顔になった店主は、ぐいぐいと詰め寄ってくる。
 助けを求めるように珀弧を見れば、自分で決めろと言わんばかりに茶を飲んでいた。
 それでは、と三週間後に五十個ほど持ってくると約束をすれば、先払いに金を払ってくれるというではないか。

「お代金はお品をお渡ししたときで結構です」
「いや、これは私の都合なんですよ。こんな貴重な品、他の店に奪われてはいけませんから、前払いとして四割支払います。ですから、出来た品は全部この河童堂にお持ちください」

 商売のことなんて全く分からない凍華が、茶を飲む珀弧の袖をひっぱり助けを求めると「それでいいだろう」と答えてくれた。
 さらには、これからの取引は凍華が直接、店主とやり取りをするようにとも付け足す。

「私が、ですか」
「これからは、女性も仕事をする時代になるだろう。初めのうちは俺も同行するし、俺が無理なときは凛子に頼むので心配はいらない。やってみてはどうだ」

 いきなりのことに、凍華は事情が飲み込めない。
 でも、いつまでもお世話になりっぱなしというわけにはいかないし、珀弧や凛子が助けてくれるのならと、戸惑いつつも頷いた。
 何より、自分の作ったものが人の役に立てるなんて初めてのことで、胸が熱く腹の底から力がこみ上げてくるように思う。

(珀弧様は、俯き自信のない私を変えようとしてくださっているのだわ。仕事をくれるのは、居場所のない私を思ってのこと)

 新しい世界が目の前にどんどん開かれていくように感じる。
 世の中は、凍華が思っていたよりずっと広く、良いものなのかも知れない。


 店を出ると、珀弧は再び大通りへと歩いていく。
 凍華も、今度は顔をしっかりと上げそのあとに続いた。
 とはいえ、二人を見る視線がなくなったわけではなく、相変わらずは珀弧を見てはほぉ、と嘆息する女性は多い。

(これほどの見目に加え、珍しい洋装を着こなしていらっしゃるのだから、振り返る人がいるのは当然よね)

 珀弧の一歩後ろを、買った品を包んだ風呂敷を抱え歩く凍華にも視線は飛んでくる。奇異なものを見る眼差しではないが、あからさまに嫉妬が含まれていた。それはそれで居たたまれない。

 縛らく歩き、もう帰るのだろうと思っていた凍華だったが、珀弧は再び暖簾をくぐった。
 今度は大通りに面する大店だ。

「ここも珀弧様のお知り合いが経営されているのですか?」
「ああ、先ほどの店主の姉がここに嫁いでいる。必要な着物はこの店で買うことが多く、凍華が今着ている着物も、ここで凛子が見繕ったものだ」

 凍華は改めて自分が着ている着物を見る。
 品が良いと思っていたけれど、まさかこんな老舗呉服店の品だったとは。

(私なんかが着て良い品ではないわ)

 そう思うと同時に、珀弧に自分を卑下しないよう言われたことを思い出した。 
 それならせめて珀弧に恥をかかせぬよう、みすぼらしく見えないようにと背筋を伸ばすと、背後から鈴を鳴らすような声が聞こえてきた。

「珀弧様、やっときてくださったのですね。叔父のところには顔を見せるのに、ここにはちっとも姿を見せてくれないのですもの。寂しかったですわ」

 凍華とさほど歳の変わらない娘が珀弧にかけより、その腕を掴む。
 ころころと笑う娘の様子からして二人は親しそうに見える。

「母親は留守か?」
「今、奥で常連様の接客をしています。母の手があくまで私がお相手いたしますわ」
「そうか、それなら彼女に見合う春物の反物を持ってきてくれ」
「彼女?」

 そこでやっと凍華の存在に気がついたようで、娘が眉根を寄せた。

「俺が世話をしている凍華だ。ついこの前、凛子が使いにきたはずだ」
「……はい。その毬の着物は見覚えがあります」
「凍華、この店の娘で若菜だ。歳は同じぐらいだから、彼女に選んでもらえば良い」

 珀弧は若菜に、店主である父親はいるかと聞き、店の奥で帳簿を付けていると知ると、少々席を外すといって奥の暖簾の向こうへと消えていった。

「珀弧様は、人間の里では着物を異国のかたに紹介するお仕事をされているのですよ」
「そうだったのですか。時々現し世に行かれるので不思議に思っていたのですが、仕事がおありなのですね」

 現し世に時々出かけるのは珀弧からも聞いてはいたが、仕事について聞くのは初めて。
 出かけるたびに美味し食べ物を買って帰ってくるので、考えればそのお金をどこかで稼いでいたはずだと思い至るのだが、妖が現し世で仕事を持っているとは想像だにしなかったのだ。

 自分より若菜が珀弧をよく知っていることに、凍華の胸が小さく痛んだ。

(でも、珀弧様と知り合ってまだひと月だもの。私が知らないことがあるのは当然だわ)

「父は妖のことは知らないので、あなたも父親の前では人間のように振る舞ってね」
「……私は半妖ですので、ご心配には及びません」
「あらそうなの。そういえば『人間の里』ではなく現し世と仰ってましたものね。妖は現し世、幽り世なんて言い方をしませんもの」

 言われて初めて、珀弧や凛子が『現し世』と言っているのを聞いたことがないと思い当たる。

(初めに、『現し世』『幽り世』は人間の呼び方だと仰っていたわ)

 若菜に指摘され始めて気づくなんてと、凍華は情けない思いでいっぱいになった。
 一緒に暮らし、いろんなことを知って理解したつもりになっていたが、実際は何も分かっていなかった。

「若菜さんは妖に詳しいのですね」
「もちろんよ。母から聞いているもの。珀弧様が妻を探していることもね」

 ふふ、と笑うその顔は優越感に満ちていた。
 胸がぎゅっと締め付けられるよう苦しくなり、知らず胸に手を当て息を吐く。

(こんなことで動揺してはダメだわ。そうだ、妖に詳しいのなら人魚について教えてくれるかも)

 人魚の話をすると、珀弧が言葉に詰まることに凍華は気がついていた。凛子も同様に急に歯切れが悪くなる。何かを隠されているような違和感を持ちつつも、気のせいかと今までやり過ごしてきたのだ。

「それなら、人魚についてもご存知ですか」
「人魚? もちろん。私の中にも水の妖の血が流れているから、それらを纏めていた人魚の種族については母から聞いているわ」
「纏めている? 水の妖を纏めていたのは竜ではないのですか?」

 凍華の問いに、若菜は口元を袖で隠し、くすくすと笑う。

「本当に何も知らないのね。人魚は生涯に一度、(つがい)との間に男女の双子を授かるの。女児は人魚、男児は竜となり、ゆくゆくはその二人がまた子をなす。妖の中でも特殊な生態系を持つのよ」
 
 番の話は聞いたことがある。そうだとすると、人魚である母親は種族の禁をおかしてまで凍華の父親を選んだということだ。

(小さい時、お父さんが話してくれた人魚と人間の恋物語は、自分のことだったのね)

 内容は今となっては思い出せないけれど、悲しくも美しい、激しい恋だったことは覚えている。

「他の種族と子供を成した人魚の話を聞いたことはないですか?」
「そんな人魚いるはずがないわ。だって、人魚にとって異種族の男は食事でしかないのだから」
「……食事?」

 どういう意味かと眉を顰める凍華。その背に冷たい汗がツツッと流れた。
 何かが自身の中で引っかかる。
 それは、あの飢餓にも似た喉の渇きと関係がある気がして、知らず、ごくりと喉がなった。

「そうよ。人魚は十六歳になると、その美しい声で男を惑わし食らうの。その力が一番強くなるのが満月だから、男が満月の夜に出歩くときは『惑わし避けの花』を持つそうよ。あら、あなた、もしかしてその花を持っているの? あなたから惑わし避けの花の匂いがするわ」

 指摘され、凍華は胸に手を当て後ずさった。
 珀弧に言われた通り、『惑わし避けの花』で作った匂い袋は今も懐に入っている。

(私が男を食らわないように、人魚としての力を封じるために珀弧様はこれを肌身離さず持つように言ったの?)

 頭が混乱する。

「満月の夜に一番力が強くなる……」

 廓に売られたあの夜に感じた激しい飢えが、人魚の血によるものだとしたら。

(――私はいつか、人を、妖を食らうかも知れない)

 廓の客の喉を掴み持ち上げた感覚が蘇る。
 全身が震え、足に力が入らない。
 
(私が食らう相手は、もしかしたら珀弧様かも知れない……)

 今にも座り込み泣き出したいが、そんなことをしたら珀弧に迷惑が掛かる。

「少し外の風に当たってきます」

 震える声を絞り出し、凍華はそれだけ言い残すと店を飛び出した。
 どこへ向かえば良いかなんて分からない。
 ただ、逃げたかった。人間からも、妖からも、珀弧からも、そして何より自分自身から。
 
(私は人を食べる。妖を食べる。珀弧様や凛子さんが人魚について言い淀む原因はそれだったんだ)

 混乱する頭に加え、初めてきた帝都だ。どこをどう走ったのか分からないが、気がついたときには、凍華は古びた神社の境内にいた。
 周りを森に囲まれたそこには人の気配がなく、木々が長い影を地面に落としている。
 凍華は息を切らしながらふらふらと、賽銭箱前の石階段にへたりと座りこんだ。

「これからどうしよう」

 楠の家には帰れない。
 廓には戻りたくない。
 もちろん、珀弧にこれ以上の迷惑をかけられない。

(人間と妖の血を引く私は、人間の里、妖の里どちらでも生きていくことができない。まして、人を食らう私は……生きる価値すらない)

 それならいっそう、死んでしまおうかと思う。
 今夜は満月。あの喉の渇きに耐えられず誰かを食べる前に、せめて過ちを犯す前に自分自身を……。

「どうして、私なんかが生まれたのかな」

 涙が頬を滑り落ち、着物にシミを作る。

「お母さんとお父さんはどこで知り合ったの。どうしてお母さんはお父さんを食べなかったの。どうして私なんかを生んだの?」

 次々と湧いてくる疑問を口にしても、答えは返ってこない。
 ぽたぽたと零れる涙が眼鏡を濡らすので、凍華は眼鏡をはずし手拭いで丁寧に包んで袂に入れた。
 
 そのとき、ざっざっと砂利を踏む足音が聞こえ、俯く凍華の視線の先に可愛らしい草履が現れた。
 見覚えのあるその柄に、えっ、と顔を上げれば、やはり雨香が目の前に立っているではないか。

「雨香? どうして……」
「凍華!! こんなところにいたのね。あんたが廓から逃げ出したせいで私達がどれだけ迷惑をしているか分かっているの? お父様は新規事業を諦め、今日、女学校へお金を払いに行ったのよ」

 雨香は凍華の腕をひっぱり強引に立たせると、その頬を思いっきり引っ叩いた。

「十年も私達家族に迷惑をかけておきながら。よくこんな仕打ちが出来たわね」

 罵られ殴られ、このひと月で凍華の心に芽生えた暖かいものが急速に冷えていく。
 背は丸まり、俯き、目を伏して地面をだけを見る。

 幸せを感じた日々が幻で、男を食らう自分にはこの扱いこそふさわしいのではないかと思えてくる。
 それは長い年月をかけて凍華に染み込んだシミのようなもので、反抗する気力が失せ、心が閉ざされ、考えることをやめただひたすら命令に従う。

「今日はお父様と一緒に女学校へ入学の手続きをしにきたの。帰り道、お父様が少し御用があるというので、待っている間に覗いた呉服店であんたを見かけ、後を追ってきたわ。あの呉服店で一緒だった男性はいったい誰? 後ろ姿しか見えなかったけれど、きっと廓で出会ったのね。そうか、あいつの手引きで廓を抜け出したんでしょう」
「ち、違います」
「じゃ、どうしてあんたが、あんな立派な洋装に身を包んだ男と一緒に、廓の外を出歩いているの! とにかく、帰るわよ。詳しい話はそれから聞くわ」
「帰るって……」
「楠の家に決まっているでしょう。お父様からきつい折檻を受けたうえで、遊郭に戻ればいいんだわ」

 凍華の足がぶるぶると震え出す。
 京吉は、酷いときには凍華を縄で縛り上げ、気を失うまで木刀で殴りつけてきた。
 そのときの恐怖と痛みを思い出し、足が竦んでしまう。
 すると、また雨香の平手が頬に飛んできた。
 
「何をじっとしているの。さっさと歩きなさい。まったく、愚図で馬鹿で本当使い者にならないのだから」

 罵倒する雨香の手がまた振り上げられた。
 凍華は身を竦め両手で頭を覆う。
 しかし、いつまで待っても痛みはやってこない。
 恐る恐る顔を上げると、そこには雨香の腕を掴んだ珀弧が立っていた。

「こいつが雨香か」

 眉を吊り上げ雨香を睨みながら珀弧が問いかける。恐怖からまだ声がでない凍華は、その問いに頷くことしかできない。

「痛い、手を離して」
「人をぶっておいてよく言えたものだ」

 珀弧は雨香の手を離すと、凍華の顔を両手で包み、腫れた頬を優しく撫でた。

「珀弧様……」
「すまない。若菜から話は聞いた。できれば、俺の口から説明したかったのだが……」
「わ、私……」

 どうしたらいいの、どこに行けばいいの。
 問いかけたいのに言葉が喉に詰まり、見つめ返すことしかできない。
 そんな二人を引きはがすように雨香の腕が伸び、強引に割って間に入ってきた。

「どこのどなたか存知ませんが、うちの使用人がご迷惑をおかけしました」

 珀弧を見上げる雨香の顔は、先ほどまでとはうって変わり余所行きのもので、頬は上気し目は潤んでいる。腕を掴まれたときは咄嗟のことで気がつかなかったのだろう、改めて珀弧の見目の良さに、媚びた微笑を浮かべた。

「この女は私が家に連れ帰りますゆえ、ご心配には及びません。それより身分の高い方だとお見受けいたしました。この女がお世話になったお礼をしたいのでお名前を教えていただけませんでしょうか」

 絡みつく視線と声音に、あからさまに珀弧の眉間に皺が寄る。
 汚らわしい者を見るように顔を顰めるも、本人は気づくことなく珀弧の腕に手をかけた。
 しかし、その手はすぐに振り払われてしまう。

「手を離せ。お前と話をする気はない」

 はっきりと述べられた拒絶の言葉に、雨香は何を言われたのかとぽかんとする。
 今まで、美しい雨香にそんな言葉を吐いた者はいなかった。間もなく、意味が分かると、忌々しく眦を吊り上げ凍華を睨みつける。

「その端女は私の家の所有物です」
「これは俺の花嫁だ。貴様ごときが触れて良いものではない」
「花嫁!?」

 雨香だけでなく、凍華も驚き珀弧を見上げる。
 すると、珀弧は今まで見せたことがない甘い視線で、凍華を見つめかえした。

「帰ろう。俺達の家に」
「で、でも。私は、珀弧様の近くにいる資格がございません。そればかりか、もしかすると……」
「最後まで言わなくていい。とにかく帰ろう。話はそれからだ」

 そういうと、珀弧は立ち尽くす凍華を徐に抱きかかえ、雨香の隣を通り過ぎた。

「凍華! このことはお父様に伝えるからね! 絶対あんたを探し出して廓に突き出してやる!!」

 キンキンと響く声を背に、珀弧は淡々と神社の裏手へと進んでいく。
 周りが木が増えるにつれ、狐火がひとつ、ふたつと現れ、やがて辺りには白い靄が立ち込め始めた。


 帝都から戻るとすぐに凍華は部屋に駆け込み、壁を背に膝を抱え蹲った。
 間もなく日が暮れ、月が出れば再び喉の渇きが襲ってくるだろう。

(怖い……)

 誰かの命を奪ってまで生きたいなどと思わない。
 どうしてそんな血が自分に流れているのか、悍ましさから腕に爪を立てれば、微かに血が滲んだ。

「人間と変わらない赤い血なのに」

 でも、人とは違う。
 震えが止まらず、抱えた膝に額を押し付けていると、障子の向こうから名前を呼ばれた気がした。
 顔を上げれば静かに障子が開き、珀弧が姿を現す。
 凍華は驚き、慌て珀弧に向かって腕を付き出した。

「それ以上、私に近付かないでください」
「その頼みは聞けない。もとより、人魚については今夜、俺から話をするつもりだった。それがあんな形で凍華の耳に入るとは、俺の不徳のいたすところだ。すまない」
「珀弧様が謝られることは何もございません。ですから、どうかそのまま部屋から出て行ってください。もしくは、私をきつく縛りあげていただけませんか」

 泣きそうな顔で両手を揃え珀弧に向ける。その指先は震えていた。
 珀弧が足を踏み出し部屋に入ってきた。
 凍華が覚悟を決めたように目を瞑ると、その揃えた手を一回り以上大きな手が包んだ。

「若菜から何を聞いた?」
「若菜さんは悪くありません。私に人魚の血が流れると知らずに話したのです。それに人魚について教えて欲しいと言ったのは私です」
「それなら、なおさら俺のせいだ。傷つき弱っている凍華に真実を話すのが憚られ、せめて少しでも妖の里になじみ、自分に自信を持てるようになってから話そうと思っていたのが裏目に出てしまった。もっと早く俺の口から話すべきだったんだ」

 妖の里に来たばかりの凍華は俯き目を伏せ、所在なさげにし、自分を否定してばかりいた。
 そこに、男を惑わし食べる人魚の血が混じっていると知れば、己の存在を消そうとしただろう。

 ひと月という僅かな時間であったが、ロンやコウと楽しく過ごし、凛子が作った美味しご飯を食べ、珀弧の包み込むような優しさに触れたことによって、凍華は少しずつだけれど変わっていった。
 顔を上げ、笑い、ときには怒り、凍り付いた心が溶け感情を現わせるようになった。

 こうして珀弧と一緒に妖の里に帰ってきたのも、もう一度その日々を過ごしたいという気持ちがあったからだ。そうでなかったら、珀弧からも逃げ、今頃どこか暗闇で一人膝を抱えていただろう。
 それに、母が父を食べなかったというのも、凍華の心を支えた。

 珀弧が凍華の手を降ろし、向かいに座る。
 「何を聞いた」と問われ、凍華は小さく息を吸うと、若菜から聞いたことをぽつぽつと話し始めた。

「人魚と竜が水の妖を治めていたこと、番以外とは子供をなさないこと、十六歳になると異種族の……男性を食らうと聞きました」
「なるほど。ではどうやって食らうかは聞いたか?」
「いいえ、そこまでは……」

 恐ろしくて聞けなかった。肉を食み血を啜る姿なんて想像したくない。

「人魚はその声で男を惑わし、水辺に誘い込み、口を通し魂を吸い取るらしい」
「声で……」

 廓で、客の男が凍華の声を聞いた途端、様子が変わったことを思い出した。

「満月の光を浴びたとき、いつもと違う声が出ました。それを聞いたとたん、客の男の目が虚ろになり、私にしがみついてきたのです」
「喉が渇いたと言っていたな。それだけか?」
「男を片手で持ち上げました。でも、そんなことしようなんて思っていなかったんです。勝手に身体が動いて、変な声が出て……」

 そこまで話して、凍華はぞわっと恐ろしくなった。
 勝手に動いたということは、自分の意思とは関係なく身体が男を欲したということだ。
 あの瞬間、本能的に凍華は男を食らおうとしていた。

「や、やはり私を縛ってください。もうすぐ月がのぼります。私は自分を制御することができません。縛って猿轡をかまして、この部屋から出ていってください。それでもなお、私がこの部屋を出たときは、珀弧様の手で殺してください」

 凍華が珀弧の腕にしがみつき、涙を流しながら訴えた。
 しかし、珀弧は首を振る。

「俺はお前を縛るつもりはない。そもそも凍華は半妖だ。人魚の血の力がどこまで現れるか分からない」
「何を楽観的なことを仰っているのですか!?」

 思わず叫べば、珀弧は切れ長の目を丸くしたあと、クツクツと喉を鳴らして笑った。

「まさか凍華に怒鳴られる日が来るとは思わなかった」
「そ、そんな。私はそのようなつもりで言ったのではありません。珀弧様、こうしているうちにも人魚の血が騒ぎ始めております。呑気に笑っている場合ではございません」

 喉の渇きが先ほどより大きくなる。
 月明かりを浴びた時、喉の渇きが酷くなったことを思い出して、部屋の窓は念のため雨戸まで閉めている。
 そのせいで、外の様子は分からないが、その渇きが満月によるものだと本能的に感じていた。

 部屋にただひとつだけある行灯の明かりが、恐怖で青白くなる凍華を儚く照らす。

「これでも地の妖を束ねておる。お前のことは俺が守る。誰も食わぬよう、傷つけないよう、月が沈み夜が明けるまで傍にいると約束する」
「もともと地の妖を束ねていたのは狼の妖と聞きました。おそらく、珀弧様は狼の妖ほどお強くないと思います。それに対し、私に流れるのは水の妖を治めていた人魚の血。珀弧様を傷つける可能性があります」
「ほぉ、おれも随分と舐められたものだな」
「そのような意味でいったのではありません。私はただ……」

 凍華は続く言葉を飲み込み、下を向いてしまった。

 珀弧だけは傷つけたくない。
 もし、押さえられない衝動で珀弧を食らってしまったら、凍華は発狂し自分を苛め続けるだろう。いや、きっと生きていけない。

 大きく優しい手にもう触れてもらえないかもと思うと、胸が苦しくなる。
 甘く心地よい声を二度と聞くことができないなんて耐えられない。
 何より、こうやって顔を、目を合わせ、言葉を交わすこの時間が、凍華にとってかけがえのないものとなっていたのだ。

 しかし、凍華はその気持ちが何によるものか分からない。感情を抑え生きてきたせいで、戸惑うことしかできないのだ。

「教えてくれ、なんと言おうとしたのだ」
「……珀弧様を食べたくありません。大っ嫌いだった私の目を綺麗と言ってくださいました。優しく手を引き山を歩き、いろんなことを教えてくれ……嬉しかったのです。ここにずっといたいのです。珀弧様の傍で……生きたい」

 生きたいか、という質問に即答できなかった凍華が、やっと見つけた生きられる場所が珀弧の隣だった。
 その場所を自分自身の手で壊したくないのだ。

「お願いです。部屋から出て行ってください。……喉が渇いてきました」