三週間後
「いったい何をしているんだい!」

 夕食前の楠の家に幸枝の怒鳴り声が響き渡った。目の前には身を小さくした四十歳ほどの使用人が、深く頭を下げていた。

「どうしてまだ食事の準備ができていないんだ」
「申し訳ありません」

 場所は台所の竈の前。ぱちぱちと薪が爆ぜる音がする中、その上に乗せた鍋の中には入れられたばかりの野菜が煮られていた。
 この様子なら、食事にありつけるまであと半刻はかかりそうだ。

「掃除だって手抜きばかりで、廊下に埃が積もっていた。さぼっているなら暇をだすからね」

 ふんと鼻息荒く言い捨てると、土間から上がり居間へと向かう。  
 凍華がいるときはこんなことはなかった。食事の品数はいつも五品あり、屋敷は隅々まで掃除されていたのに、三週間でこのあり様だと怒りは治まらない。 

 幸枝はこの屋敷で生まれ育っている。跡取りである兄とは随分差のある扱いだったが、それでも使用人達に囲まれれ、何ひとつ不自由をしたことがない。
 ただ、兄より食事の品数が少なかったり、風呂が後だったり、女は勉強より花嫁修行をしろと言われ、跡取りを贔屓する両親に対し複雑な想いを抱いてはいた。

 だから、そんな兄が軍に入り寮暮らしとなったときは喜んだ。五つ上の兄は優しく虐められた記憶はないが、劣等感と妬みはずっと胸の内に持っていた。
 
 しかし、兄が家を離れても、話題の中心が兄であることに変わりはなく、軍で重要な任務に着いたと聞いたときは大層派手に祝ったものだ。
 そんな兄が突然怪我をして第一線を離れた。それだけでなく、生まれたばかりの赤子を連れて帰ってきたのだ。

「母親は死んだ。俺が育てる。楠の家は幸枝が継げばよい」

 そんなことを一方的に告げ出て行こうとする兄を、父は追いかけ捕まえ、殴り飛ばした。馬乗りになって顔が腫れるまで殴り、最後に赤子に手をかけたとき、されるがままになっていた兄は飛び起き赤子を抱きしめた。
 
 霧雨の中、足早に立ち去る軍服の後姿が、幸枝が最後に見た兄の姿だった。

 幸枝が居間の手前まで来たとき、躊躇いがちに呼び止める声がした。
 振り返れば、洗濯ものを抱えた別の使用人が頭を下げている。

「今度はいったいどうしたというんだい」
「はい。それが……最近井戸水に泥が交じるようになりまして、洗濯ものがこの有様なのです」

 使用人が手にしていた白い長襦袢は、薄っすらと茶色の染みができていた。

「泥が交じるだって。それじゃ、飲み水や食事はどうしているんだい」
「甕に入れておけば泥は沈みますので、上澄みを使っております」
「最近、料理の味が落ちたと思ったけれど、原因はそれだったんだね」

 使用人は何も言わず、視線だけを彷徨わせた。
 幸枝は凍華と使用人で食事の準備をしていると思っているけれど、使用人はいつも凍華に仕事を押し付けていた。
 主人から虐げられているのだからばれないと、料理だけでなく、掃除、洗濯と家事のほとんどを凍華が担っていたのだ。ゆえに、料理の味が落ちるのも、掃除が行き届かなくなるのも至極当然だった。

「そういえば、父が生きていたころも同じことがあったわね」

 井戸の水が急に濁り始めたのだ。水脈が変わることは決して珍しいことではなく、今まで潤沢に水が湧いていた井戸が翌年に枯れることもある。
 新しく井戸を掘ろうかと考えていた矢先に先代が病でこの世を去り、兄が死んで凍華がやってきた。
 すると不思議なことに井戸水がまた澄んで潤いだしたのだ。
 だからそのままにしておいたのだけれど。

「やっぱり新しい井戸を掘らなきゃだめかしらね」

 面倒だわ、と思いながら襖を開けて入った居間では、夫である京吉(きょうきち)が難しい顔で帳面を睨んでいた。幸枝の顔を見ると「夕食はまだか」と聞いてくる。

「あと半刻はかかりそうです」
「このところ、使用人は怠けていないか。凍華ひとりいなくなったところでこの有様はおかしいだろう」
「ええ、今度、強く言い聞かせませんと。あなたからも言ってください」

 おかしいのは料理の味や井戸水だけでない。
 戸棚に置いていた客用の菓子がなくなったり、焼いていた魚が一尾消えていたり、小さな泥の足跡が廊下に点々と残されていたり。

「誰もいないはずなのに視線を感じたり、閉めたはずの扉が開いていたりするんです。この前なんて、私がちょっと躓いたら、子供の笑い声がしました。この家、何か取りついているんじゃないのでしょうか」
「全て気のせいだろう。問題があるとしたら、この前追い出した疫病神のほうだ」

 京吉はちゃぶ台の下においてあったキセルを取り出すと火をつけ紫煙を燻らせた。
 眉間には深い皺が刻まれている。

「お父様、凍華はまだ見つからないのですか?」

 襖を開け入ってきた雨香が父の隣に座す。
 手に持っているのは尋常学校の宿題だ。分からないところがあるので聞きにきたのだが、どうもそんな雰囲気ではないと背中にそれを隠した。 

 尋常学校は六歳から十六歳までの子供が通う。
 青巒女学校への入学は、尋常学校の成績と推薦ですでに決まっている。今までは宿題を凍華にさせ良い成績をおさめていたけれど、いなくなった今、全て自分でしなくてはいけない。

「お前は何も心配しなくてもいい」
「ですが……お金を来週末までに用意しなくてはいけないのですよね」
「何、遊郭街から出た形跡はないらしいからすぐに見つかる」

 そう言いつつも、京吉はせわしく紫煙を吐く。苛立っているのは目に見えて明らかだ。

 凍華がいなくなったと聞いたのは、凍華を売りに出した翌日。遊郭街は高い塀とふたつの門で仕切られており、門には見張りが常時二名立っている。
 見張りの目をかいくぐり外に出るのは不可能だし、塀をよじ登ることはできない。
 まれに、顔見知りに頼んで荷車に紛れ逃げようとする遊女もいるが、大半は門を出る前に見つかるし、そもそも売られたばかりの凍華にそんな伝手はない。
 軍人に追われたという話も聞いているが、それこそ意味が分からない。
 ただ、女衒からは遊郭街に隠れていることは間違いないと聞いていた。
 それならすぐに見つかるだろうと高を括っていたのだが、三週間経った今日もまだ見つけたという報告はない。

「少し出かけてくる」
「こんな時間にですか?」
「夕食は外で食べる。それから、さっきお前が言っていた開いた襖や魚の話は、野良猫が入り込んだのだろう。戸締りをしっかりしておけ」

 キセルの灰をトンと灰皿に落とすと、京吉は立ち上がり羽織の上からさらに外套を着て襟巻をした。

 家を出ると、帝都へ向かう道を歩いていく。
 冬の夕暮れは早く辺りはもうすっかり闇に沈んでいる。手に持った提灯が照らす灯だけが頼りだが、歩きなれた道ゆえ不自由はない。
 
 こんな時間から帝都へ向かおうというわけではない。屋敷と帝都の中間ほどにある料亭は京吉のいきつけでもあり、賭博場でもある。
 
「幸枝には凍華を売った金が入らなくても、新事業に回す金を入学金に廻せばよいと言ったが、そんな金はもうない。女衒も廓の人間も、女一人見つけられぬなど何をやっているんだ。いや、もっとも腹立たしいのは凍華だ。気味の悪いあいつをあそこまで育ててやったのに、なんという恩知らずだ」

 ぶつぶつと呟く声が風でかき消される。
 京吉が婿養子に入ったことで、確かに楠の家は豊かになった。
 しかしそれは、代々商家の次男坊だった京吉の実家が持っていた伝手を使って販路が増えただけで、京吉の手柄ではない。
 しかし、それを自分の才能だと勘違いした京吉は、やがて新規事業を始めるもそれはすぐに失敗に終わった。その損失を取り返そうと躍起になるあまり、今度は先物取引にも手を出しさらに損失を大きくするありさま。

 なんとか金を増やさねばと、最近では賭博まで始めた。楠の家は一見豊かに見えるが内情は火の車で、とてもではないが雨香の入学金まで用意できない。

「今夜はなんとしても勝たなければな」

 そう呟き入った料亭の賭博場で、京吉は初めてその女に出会った。
 猫のように目じりの上がった丸い目は、人とは思えない怪しい色香を含んでおり、京吉は女と視線が合った瞬間、ごくり、と生唾を飲み込んだ。

「初めまして。凛と申します」
「……京吉だ。珍しいな、こんなところに女が一人でくるなんて」
「ふふ、おかしいですか?」
「いや、そんなことはない」

 でっぷりとした腹をさすりながら京吉は凛の横に腰をおろした。
 見ればあと二人、やけに若い双子の男も増えていたが、京吉は彼らをちらりと見ただけで、すぐに興味を凛へと戻す。

 その夜、珍しく京吉は勝ちが続いた。もちろん雨香の入学に必要な金には足りないが、それでも久々に良い酒が飲めると、浮かれていた。

「京吉さん、賽子(さいころ)にお強いのですね」
「まあな。あんたはとんとん、といったところか」
「いいえ、負けですわ。ところで、もっと良い賭博場があるのですが今度ご一緒しません」
「良い賭博場?」
「ええ、掛け金が大きいので、戻ってくるお金も大きいんですよ。もちろん負けた時はそれだけ痛手も大きいですが、京吉さんなら大丈夫でしょう」

 甘えるように腕に手を賭けられ、京吉はでれりと鼻の下を伸ばした。

「どこにあるんだ、その賭博場ってのは」
「明後日、ここで待っているので一緒に行きましょう」
「ああ、約束する」

 にんまりと笑うその顔には、はっきりと下心が現れている。 
 その顔を見ながら、袖で口元を隠しながら口角を上げる凛の後ろで、小さな子供の笑い声が聞こえた。