人魚の血を引く花嫁は、月下のもと愛に溺れる


 「呪われた子供」そう呼ばれることに凍華(とうか)はすっかり慣れていた。
 正確には慣れた、というより心を閉ざしたというほうが正しいかもしれないが、ともかく、物心ついたときからそう呼ばれ蔑まれてきた凍華にとってそれは、もはやべったりと自身に張り付いた言葉だった。

 母親のことはよく分からない。
 父親は軍の関係者だったが、凍華が五歳のとき、勤務中に殉職した。軍人ではない。軍の中では珍しい書記官のような仕事だったと聞いている。
 凍華を引き取った叔母は、気に入らないことがあればーーそれが凍華と全く関係ない理由であっても、頻繁に殴り罵ってきた。

「書記官なのに、脱走した凶悪犯にたまたま軍の敷地で遭遇し殺されるなんて、あんたの父親はとんだ間抜けよ! おまけにこんな気味の悪い忌み子を残すなんて。どれだけ私に迷惑かければ気が済むの! 聞いている、凍華、あんたの話よ!!」
「申し訳ありません」

 土間に額を押し付け、頭を下げることにもすっかり慣れた。
 顔を上げればまた殴られるのは目に見えている。
 叔母は凍華の青い目を殊更嫌い、そのせいか凍華はずっと俯いて暮らしていた。

 婚姻届けを出さなかった父と母。そのせいで母のことは調べようがないが、父とも叔母とも、この帝都に住む人とも違う海の底のような碧いは目、凍華が忌み子と呼ばれるのに充分な理由であった。



「お腹すいたなぁ」

 母屋の半地下に作られた座敷牢で凍華は膝を抱え飢えに耐えていた。
 季節は如月、この日本国で一番寒い季節にも関わらず、火鉢や湯たんぽといった暖をとれるものは何ひとつない。

 干すことさえままならないひしゃげた布団はじめりと湿り、身体を滑り込ませても温もることはない。
 おまけに、ひとつだけある窓は立て付けが悪く、風が吹く度にバタバタと煩い。
 そのせいで座敷牢の中は外と変わらないほど寒く、吐く息は白かった。

「木の実、これが最後か」
 袂から出した巾着の中には、秋の間にとっておいた木の実が入っている。
 腹が減ったときに食べていたけれど、それすらもうないのだ。
 今日は、ひと際寒く洗濯ものの渇きが悪かった。それが気に食わない叔母は、凍華のせいだと責め立て、夕食を抜かれてしまった。

 窓から、粉雪が部屋に舞い入ってきた。
 今日は一段と冷えると思っていたがどうやら降り始めたらしい。
 本来なら凍死してもおかしくない環境だが、なぜか凍華は今日まで風邪ひとつひいたことがなかった。

 舞い込む雪を手のひらで受け止めれば、それはすぐに水に変わる。
 その水にそっとく唇をよせ舐めれば、冷たさが心地よい。

「やっぱり私は人とは違う」

 寒いのは寒いが、歯の根がかみ合わないほど震えることはない。
 それより夏の暑さのほうが嫌だった。あまりの暑さに倒れたことは一度や二度ではない。

 その度にいらついた叔父に髪を掴まれ桶に顔を突っ込まれた。
 しかし、あるときから、叔父は桶の水を凍華の頭にぶっかけるだけになった。
 理由は、凍華が苦しまないからだ。

 その日、叔父は凍華の顔を桶に突っ込みながら意地の悪い声で数を数え始めた。どこで苦しくもだえるだろうかという猜疑心からだったのだが、それが百、二百となっても凍華が息苦しさから暴れることはなかった。
 三百になったとき、叔父は手を離し、平然と顔を上げた凍華を化け物だと罵り、手元にあった棒で何度も殴った。

 そんなことから、凍華自身も漠然と自分が人とは違うと感じ始めた。
 だから忌み子と罵られることも仕方ないことだと思うようになったのだ。

 
 翌朝、雪の積もった地面に洗い桶を置き洗濯をしていた凍華の頭に、着物がばさりと放り投げられた。

「これも洗濯しておくのよ」

 それだけいうと、叔母は暖かそうな綿入れの襟を合わせ、早足で家に戻っていった。
 凍華は着物を頭からはぎ取ると、水の張った桶に入れる。
 追加で渡された着物も、伯母が着ていたものも綿がしっかり入った冬用の着物だ。
 それに対し、凍華が着ているのは夏と同じ単衣に少しだけ綿を入れた羽織。
 裄丈は何度も肩出しをして直したけれど、八分袖でみっともない。決して貧しい家ではないのに、凍華の姿は酷いものだった。
 
 凍華が住む(くすのき)の家は父親の生家でもある。養蚕で富をなし、帝都から馬車で半刻の場所にある名家が多いこの辺りでも有名な旧家だ。

 その家を継いだのが叔母の幸枝(さちえ)
 広い敷地の中には五つの建物があり、そのうち三つの倉では蚕が飼われていた。隣には糸を紡ぐ製糸工場があり、十人の従業員により日々糸が紡がれている。

「まだ洗濯をしているの。相変わらずどんくさいわね」
「……申し訳ありません」

 目線を少し上げた先にあるのは毛糸で編んだ暖かそうな足袋。顔を上げなくとも声の主がこの家の一人娘で凍華と同い年の雨香(あめか)だというこは分かっている。

 人形のようなぱっちりとした大きな目に白く透き通る肌、すっと通る鼻筋に小さな口はまるで作り物のように可憐で、この辺りでも有名な美人だ。

「さっさとしないと、今度は昼ごはんを抜くわよ」
「はい」
「本当、ぼさぼさの髪ね。どうにかならないの。その姿で間違っても近所をぶらつかないでね」
「畏まりました」

 雨香は見せつけるようにさらりと黒髪をかき上げる。
 艶々と光る濡れ羽根のようなその髪を、凍華は羨ましそうに見上げた。

(せめて私の髪が、こんなにくせ毛でうねっていなくて、さらさらなら良かったのに)

 細いくせ毛は絡まり、櫛を通すのもやっとで、いつも三つ編みにしてまとめているが、艶のない黒髪ではみすぼらしさが増すばかりだ。

 世間体を気にする叔母は兄の子である凍華を養女として引き取った。
 しあし、その扱いは、家に数人いる使用人以下のものだし、外出は殆ど禁止され製紙工場の従業員には会ったこともない。

「両親を亡くした養女は心を病み家に引きこもっているが、伯母家族はそんな彼女を暖かく保護している」というのが近所の人の認識である。
 だから表を歩くときは、その目の色を隠すことも含め頬かむりをすることを命じられていた。

 空っ風が雨香の持つ匂い袋の香りを凍華に運んでくる。
 数日前に凍華が作った匂い袋を身につけているようだ。
 それは、楠の家から半日歩いた場所にある山の上に咲く銀色の花で作られていて、甘くそれでいて妖艶な匂いがする。雨香はその匂いをことさら気に入っていた。

 山の持ち主は叔母で、麓には桑の木が植えられているが、花が咲くのは崖をよじ登った先にある湖のほとり。一年中いつ行っても咲くその花は、かつては凍華が匂い袋に入れて持っていたものだった。

(昔、お父様があの湖には人魚がいるって仰っていたわ)

 それは数少ない父親との思い出。
 人魚は男女の双子で生まれ番となる。その番との間にのみ子を授け命を繋いでいくのだとか。さらに人魚の声には男を惑わす妖しい力があるという。
 そんな人魚が人間に恋をしたら……父は寝物語に人魚と人間の道ならぬ恋を語ってくれた。
 そのとき、部屋の中には雨香が持つ匂い袋と同じ匂いの香がたかれていたが、凍華はうっすらとしか覚えていない。

「何をぼうっとしているの。さっさとしない」
「は、はい」

 匂い袋のせいか、遠い記憶の中を彷徨いかけていた。
 凍華が冷たい水の中に手を入れ洗濯を始めると、雨香はふふふ、と笑いながら凍華が行くことを許されなかった学校での出来事を楽しそうに語って聞かせ始める。
 それを、凍華はいつものように心を閉ざして聞き流し、手もとの洗濯物にだけ意識を向けやリ過ごすのだった。
 
 いつもと変わらぬ日々が続いたある冬の昼下がり。
 凍華は叔父に呼ばれ玄関先に向かうと、見知らぬ男が一人立っていた。
 お客様だろうかと首を傾げると、その男が凍華の顎を掴みじろりと目を細め見てくる。

「あ、あの……」

 突然のことに震えながら声を出せば、男はにんまりと笑った。

「旦那の仰る通り、こりゃ、上玉ですわ。汚れて痩せてみすぼらしが、磨けば光る玉のようだ。それに、この目がよい。客の中には珍しいものを好む酔狂なお人も多くてね。しかも、男を惑わす妙な色香があるじゃないか」
「そんなもの、この小娘から感じたことはないが。それじゃ、良い値で買ってくれるんだろうな」
「へへ、こっちはこれで商売してんですよ。あっしの見る目に間違いはございません」

 何の事だろうと凍華が身体をこわばらせていると、男はやっと顎から手を離した。
 いやらしく笑うその顔に、全身に鳥肌が立ち、いますぐここから逃げ出さなきゃいけない気持ちにかられる。
 半歩足を後ろに引いたときだ、背後から雨香の声がした。

「あんた、売られるのよ。私の将来のために」
「えっ!?」

 振り返ると、蔑むような笑みを浮かべる雨香がいた。

「あんたを売ったお金で、私は帝都一の女学校に入学するの」
「私を売る?」
「最近できた女学校で、異国のマナーや歴史、文化、言葉を学ぶのよ。日本でも有数のお金持ちの子供だけが通う青巒女学校に、私が入学できるなんて! お父様ありがとうございます」

 凍華を押しのけ叔父の首に抱き着く雨香を、凍華は呆然と見た。

(雨香を女学校に通わせるために、私を売る? そんなこと……)

 ありえない、と思った。楠の家はお金に困っていないはずだ。

「わ、私なんて売らなくても、お金ならあるのではないのですか?」
「青巒女学校は三年分の授業料と一年間の異国への留学費用を纏めて払う必要がある。纏めて、となると少々きつくてな。それで、お前を売ることにした。お前は今日で十六歳、成人するまで面倒をみてやったのだから、今度は儂達に恩を返す番だ」

 言われて初めて、凍華は今日が自分の生まれた日であることを思い出した。
 しかしこの場合、十六歳というのはもっと別の意味が含まれている。

「十六歳未満は客がとれませんからね。即戦力というわけでさぁ、ひひひひ」

 気持ち悪い引き笑いをする男の言葉に、凍華は血の気が引き今にも倒れそうになった。
 売られる、と聞いたときから予想はしていたたが、具体的な言葉に目の前が真っ暗になる。

「お父様もお母様も、忌み子を今まで育てた甲斐があったわね。あんたも、育ててもらった恩を返せるのだから本望よね、ふふふ」

 意地悪く口角を上げる雨香を、凍華は茫然と見ることしかできない。
(雨香に最高級の教育をさせる、そのためだけに私は売られるの?)

「あんたが男達に酌をし、褥を共にする間に、私は令嬢として特別な教育を受け留学し、ゆくゆくはこの国の中枢となるお方に嫁ぐのよ」
「ああ、儂が素晴らし相手をさがしてやろう」

 叔父と雨香の会話が遠くで聞こえる。足が地についていないようで、何が起きているのか実感がわかない。

(私が何をしたというの?)

 母が亡くなったのも、父が殉職したのも凍華のせいではない。
 こんな目に、髪に生れたかったわけでもない。
 でも、粗末ながらも食べるものがあり、屋根の下で眠れるのならと我慢してきたのに、売られるなんて。
 悲しさ、悔しさ、不安、胸にこみ上げる感情に凍華が言葉を失っている間にも、女衒の男と叔父の話は進んでいく。

「じゃ、金は無事初仕事を終えたのを確認してから持ってきやすんで」
「はっ? 今払ってくれるんじゃないのか?」
「数年前までそうでしたが、初仕事前に怖気づいて逃げたり――まっ、こっちは捕まえればいいんですが、中には自分で首をくくっちまうモンもいたもんで。そうなると、大赤字になっちまうでしょう。だから今はひと月後に金を払うところが多いんですわ」
「多い、ということは即日払いの店もあるということか?」
「ないことはないですが、買取価格は三分の二ですかね。その女、痩せてガリガリだが、もとは悪くねぇ。あっしとしては一番高く買ってくれる大店にどうかと思っているんですよ」

 女衒の仕事は女を買って、廓に売ること。どの廓にどの価格で売るかは女衒の腕に掛かっている。
 幸い入学はひと月後。それなら高く買い取ってくれる店のほうがよいと、揉み手で見てくる女衒を見ながら叔父は考えた。

「分かった。おい、凍華、今まで育ててやったんだ。恩をあざで返すなんて真似するなよ」
「へへ、それは廓でもしっかり目を光らせておりますんで。あっしも、これだけの上玉に死なれちゃ堪りませんからね」

 よし、と叔父が膝を叩く。それが合図となり凍華が売られることが決まった。
 まるで、店先で野菜を売り買いするかのようなやり取りを、凍華は人ごとのように聞いていた。
 言っている言葉は理解できるけれど、内容が頭に入ってこないのだ。

「二度とその気味の悪い顔を見せるんじゃないぞ」

 それが十年ともに暮らした者への見送りの言葉だった。
 こうして、成人の誕生日を迎えたその日、凍華は小さな風呂敷ひとつだけで叔父の家を叩き出され、そして夕暮れどき、提灯の灯りが眩しく華やかな花街に辿りついた。


「ふうん、これが昨日言っていた娘か」

 鼻の上に大きな出来物のある初老の女性が粘っこい視線で凍華を値踏みする。
 女将さんと呼ばれたこの女性が、店を取り仕切っていることは凍華にもすぐに分かった。
 事前に凍華の話をしていたのだろう、女衒と女将の会話は阿吽の呼吸のように進んでいく。

「仕事の内容は説明したんだね」
「もちろん、本人も納得済だ」

 聞いたのは客をとるということだけ。もちろん納得などしていない。
 でも、凍華は恐怖から何も言えずぎゅっと着物を握ることしかできない。
 くたびれ、あちこち直してつぎはぎのあるその着物を女将がじろりと見て、にたりと笑った。

 「見たところ、帰るあてもない、虐げられた娘のようだね。耐えることに慣れている娘は扱いやすく廓にとって都合良い。身体はがりがりだが見目は悪くないね。いいわ、言い値で買いましょう。ただし金はひと月後だ」
「もちろん、分かっております。ではあっしはこれで、ひひひっ」

 男は引き笑いと共に廓を出ていった。
 残された凍華は下を向き立ち尽くす。これから先自分がどうなるのか、恐ろしくて考えたくない。

「なにを突っ立っているんだ。とにかく上がりな」

 凍華がいるのは廓の勝手口、土間から上がり長い廊下を女将について歩いていく。

「この建物は三階建て。帝都でも珍しいだろう。一階が台所に風呂、それから茶飲みの待合所。三階は部屋持ちが使い、あんたの仕事場は二階になる」

 早口での説明はまったく頭に入ってこない。
 粗末な縦縞の着物をぎゅっと握った凍華の顔は、幽霊のように真っ白だ。
 女将さんは、そんな反応は見慣れたとばかりに赤い唇の端を上げた。

「馴染みの客に声をかけ、相手はもう決まっている。予想以上に枯れ枝のような手足だが、出るとこは出ているし何よりこの青い目がいい。珍しい者好きの金持ち達が喜ぶだろうね」

 ずっと青い目の色が嫌いだった。
 この色のために虐げられてきた。
 そして、今は憎くて憎くて仕方がない。
 どうして自分の目は人と違うのか、いっそうのこと潰しくり抜いてしまいたい。

「とにかく、まずは風呂だね。ここが湯殿だよ。湯船が汚れるから、先にしっかり身体を洗ってから入るんだ」
「……」
「出たらこの服を着て二階の一番奥の部屋に行く。逃げようとしても無駄だよ、今夜、番頭一人をあんたに付けているからちょっとでもおかしな真似をすると折檻の上、実家に送り返す」
「……」
「おい! 聞いてんのかい! 返事は!!」
「は、はい!」

 怒鳴られ反射的に答えれば、「声はちゃんと出るじゃないか」とぶつくさ言いながら女将さんは立ち去っていった。

 湯殿の扉の前には頬に傷がある男が一人座している。女将が言っていた番頭とは彼のことだろ。 
 強面の顔に屈強な身体を見て、凍華は逃げるのが不可能であることを悟った。

 ガラガラとやけに煩い音を立てる扉を開け、中に入ると震える手で帯をほどき内扉を開けた。
 もわっとした湯気の向こうに大きな湯船が見える。もう、仕事の始まる時間なのか凍華以外に誰もおらず、ガラリとした中に時折ぴちゃん、ぴちゃん、と水の滴る音が響いた。
 凍華は言われた通り、桶で湯をすくい温度を確かめるように指先で混ぜた。

「暖かい」

 温かい湯に浸かるのはいつぶりだろうか。
 生ぬるい湯の入った洗い桶だけ渡され、手拭いで身体を拭くことのほうがずっと多かった。時折湯に入るのを許させるときもあるけれど、湯気がもわもわと立ち上がる湯船に身体を沈めた記憶はもはやない。

 桶と一緒に渡された石鹸は、あとで凍華の給料から引かれるらしい。桶にしても部屋を使うにしても全てお金がかかるのが廓というものだ。

 凍華は重い気持ちで、それでも石鹸を泡立て身体を洗った。そうしなければ、あとから怒鳴られ叱られるかも知れない。
 あちこち力任せにごしごし擦り、湯を頭から被る。
 さっぱりするも、もちろん気持ちが晴れることはない。
 でもそんな凍華の心の内とは裏腹に、染み込んだような汚れは石鹸で驚くほどよく落ち、白い肌が窓から差し込む月明かりで美しく輝く。

 ぴちゃりと小さな音を立てながら、凍華は足を湯船にいれた。
 寒さに強いからと言って身体が冷えないわけではない。
 足先の方からじわりとぬくもりがひろがり、そのまま肩まで浸かれば身体の内からぽかぽかとしてくる。

 ちょうど窓の外に満月が見えた。
 綺麗な丸い月だ。

「満月の日に外に出てはいけないのよね……」

 そう凍華に言い聞かせたのは亡き父だ。
 夜になると座敷牢に閉じ込められる凍華は、月明かりの下を歩いたことがない。
 太陽の明るさとは違う、冴え冴えとした冷たく美しいその光を半地下の窓から見上げながら、一度で良いからそぞろ歩きをしたいと思っていた。

「その夢はもう叶わないのね」

 場所が変わっただけで囚われることに変わりはない。 
 結局、自分はこういう運命のもとに生れたと諦めるしかないのだと、小さく息を吐く。
 いつからだろうか、ため息と一緒に諦めるのが癖になっていた。
 
 くらり、と目の前の景色が歪んだ。
 久しぶりに入る温かな湯にのぼせてしまったようだ。でも、まだ出たくはなくて湯船の縁に腰掛けようとしたのだけれど、なぜか身体が思うように動かない。

 頭の中にどんどん白い靄がかかっていき、何をしたかったのかも分からなくなる。
 ただ、喉が渇いた。
 水が欲しいのとも違う、今までに感じたことのない渇きに凍華は喉を押さえる。

 身体が何かを欲している、それは分かるのに何かが分からない。
 そのまま崩れ落ちるようにして、凍華は湯の中に沈んでいった。

 湯の中で目を開ければ、ゆらゆらと動く湯を通して窓の外の月が見える。
 淡い輝きのはずなのに、目の奥がちかちかと痛むように感じた。

 まるですぐ目の前にあるかのように、銀色に輝く月。
 そのあまりの美しさに手を伸ばすと指先が青白く光る。
 随分湯の中にいるのに全然息苦しくない。
 それどころか、疲れ切った身体に力が戻ってくるように感じるではないか。

 ――喉が渇く。

 いったい何に渇望しているのだろうか。
 思い出せるようで思い出せないのは、過去の記憶。遠い遠い昔から受け継がれてきた(いにしえ)の血。

「おいっ、お前、何をしている」

 突然腕を引っ張られ、凍華は湯から引きずり出された。
 目の前には眉を吊り上げた番頭が、鬼のような形相で凍華を睨んでいる。湯船が静かになったのを奇妙に思い様子を見に来たところ、凍華が湯に沈んでいたので慌てて引き上げたのだ。
 自分が一糸まとわぬ姿あることを思い出し「きゃ」と両手で身を包み湯船にしゃがみ込む凍華の顎を、男はガシリと掴んだ。

「まさか、溺死しようとしたんじゃねぇだろうな」
「ち、違います」

 頭を振りたいが、指の力が強くできない。震える声でそう伝えれば、番頭は目を眇めたのち手を離した。

「もう充分だろう。さっさと出ろ。客が待っている」
「はい……」

 しかし、そんなところに立っていられては湯船から出ることはできない。
 困ったように泣きそうに眉を下げると、番頭は嫌らしく唇の端を上げた。

「こちとら見慣れている。それにあんたに手を出せば俺の首が飛ぶ。比喩じゃねぇ。物理的にだ」

 それがどういう意味か知り、温かい湯船の中でゾッと鳥肌が立つ。
 ここはそういう世界なのだと、腹の底が冷えた気がした。

「お前も早く行かなきゃ、折檻されるぞ」
「分かりました」

 慌てて湯船から出ると、番頭は背を向け湯殿から出て行った。興味がないというのは本当のようだ。

 凍華は着慣れぬ赤い長襦袢を一枚だけ羽織り、番頭の後を追うように長い廊下を歩いていく。
 髪は、渡された椿油を垂らした湯で洗ったこともあり、絡まることもなくさらりと肩に流れている。
 本当は結い上げるらしいが、波打つ髪と青い目が異国情緒があって良いと、そのままになっている。

 不思議と、先ほど感じた喉の渇きは治まっていた。

(湯につかったせいで、のぼせたのかしら)

 もしくは緊張か不安からか。

 番頭は階段を上がと、二階の一番奥の部屋へと向かう。開けられた廊下の窓から賑やかな声が聞こえ、凍華は頭上を見る。沢山の足音が聞こえ、何やら騒いでいるように思えた。

「今日は軍の偉いさんが三階を貸し切っている。豪勢な話だ」
「軍……よく来るのですか?」
「そうだな。金払いはよいが横柄な奴が多い。ま、こっちは、金が貰えりゃそれでいいけどな」

 父も来たことがあるのだろうか。青い目をした母と籍を入れなかったのは、母が廓にいたからだろうか。そんな考えが脳裏をよぎった。

「ここが今夜のお前の部屋だ」

 番頭が立ち止まり部屋の中に声をかけると、十歳ほどの女の子が出てきた。
 今宵、凍華の相手をする男は、普段は太夫を指名する上客で、凍華がくるまで太夫付きの禿が話し相手をしていた。

「三沢様、お待たせいたしました。今宵到着したての凍華といいます」
「おうおう、待ったぞ。今夜は気位の高い太夫相手ではできぬことを楽しみたいものだ」
「へぇ、お手柔らかに。では、あっしはこれで」

 三沢と呼ばれた男に、嗜虐的な光が宿る眼で舐めるように見られ、凍華は内臓が縮み上がった。
 これから一体何をされるのか、恐怖に手が震える。

「おい、こっちに来て酌をしろ」
「はい」

 返事をして隣に膝を付き、徳利を手にする。ぐい飲みにたっぷり注ぐと男はそれを一息に飲み干した。

「上手いな。しかし、部屋が少々暗い」
「そうでしょうか」

 部屋の隅二か所に行灯が置かれ、充分に明るいように思うが、男はそれでは不充分だと首を振る。

「今夜は月が明るい。月明かりの下で見るお前の泣き叫ぶ顔はさどかし美しいだろう」

 男はそう言っていやらしく口角をあげると、窓を開けるように命じた。
 悍ましい言葉に泣きたくなりながら、凍華は立ち上がり、震える手で窓を開ける。
 ちょうど雲間から現れた月の光が部屋に差し込んだ。

「おお、これはいい。楽しい夜になりそうだ」

 ははは、と笑う男の顎の肉が揺れる。
 充満する酒の匂いに吐き気がした。

 ――喉が渇く

 湯殿で感じた飢えが喉の奥からこみ上げてくる。
 一体何だこれは、と戸惑っていると、男がなみなみと酒の入ったぐい飲みを凍華に突き出した。

「こっちに来て座って飲め」
「で、ですが、私は飲んだことがなく……」

 月明かりの下、声が揺れるように響く。
 自分の声はこんな風だったかと思うほど、馴染のない声だった。
 
 凍華の声を聞いた途端、男が目を見開き、次いで何かに取り付かれたかのようにうっとりと顔を歪めた。
 ゆらゆらと身体を揺らしながら立ち上がり、凍華に迫ってくる。明らかに先ほどまでと様子が違っていた。

「もう一度、その声を聞かせろ」

 手を伸ばされ反射的に後ずさるも、窓が背にあたりそれ以上は下がれない、男は胡乱な瞳で凍華を見ると、いきなり抱き着いてきた。

「い、いやぁ!!」
「もっと、もっとだ。その声を聞かせろぉぉ!!」

 何かに陶酔しているような狂った咆哮に、凍華は腕を伸ばし男を引きはがそうとする。

「助けて!! 助けて」

 涙ながらに叫ぶ声は、廊下で見張っている番頭に届いてはいるが、もちろん番頭が助けるはずがない。それどころか逃げられないようにと襖を両手で抑え込んだ。

 男は凍華の腹にしがみつき、そのまま畳に倒し組み伏せた。
 見上げたその顔に先ほどまでの嗜虐的な色はなく、変わりに濁りとろりと蕩けた瞳が凍華を見下ろしている。
 
 ――喉が渇く

 不思議と恐怖は消えていた。
 ただ、ひたすら喉が渇く。とんでもない飢えが腹の底からこみ上げ、喉がごくりと生唾を飲み込んだ。

「もっと、もっともっと、声を聞かせろ」

 男がの太い指が太ももにかかる。

「い、いや!!」
「そうだ。叫ぶんだ。その声を、その声でもっと」

 もはや男が何を言っているのか分からない。
 ただ、尋常ならざる状況に混乱したまま凍華は叫んだ。

「いやぁぁぁ!!!」

 途端、部屋が青白く光った。
 喉が焼けるように乾く。
 全身の血が冷たく凍りつくようなのに、羽が生えたかのようかに身体が軽く感じる。

 それは不思議な感覚だった。
 別の人格に身体を乗っ取られたかのような、まるで夢の中にいるようで現実味をまったく感じない。

 気づけば、凍華の手が男の喉を掴んでいた。
 細い指が太い喉に食い込むと、そのまま軽々と男を持ち上げ立ち上がる。
 腕をめいいっぱい伸ばせば、男の足は畳を離れ宙にぶらぶらと浮いた。

「うっ、く、苦しい」

 目を白黒させ、喉を震わせながら男は涎を垂らす。

「ば、化け物! 助けてくれ。目が、青く光……」
(何を言っているの? 助けて欲しいのは私のほうなのに。それに目が青いのはもとからで……)

 男の言葉を不思議に思いながら、なぜ自分はこんなに冷静なのだろうと頭の片隅で考えた。
 でも、そんな考えは、喉の渇きにすぐに霧散しる。

 指先に力を込めれば、その部分がさらに青白く光った。
 それはもう本能のようなものだった。
 凍華は口を開け……。

「出たな! 妖!!」 

 その瞬間、扉が開いてひとりの軍人が部屋に飛びこんできた。
 途端、ばらばらだった意識と身体がひとつになり、凍華の指が男の喉から離れる。
 まるで夢の中から目覚めたばかりのような感覚に襲われながら足元をみれば、男が泡を吹き転がっていた。ひっと叫び後ずさりする。

 どうして、と思うと同時に、自分が先ほどまで片手でその男を持ち上げていたことも理解していた。理解はするが気持ちが追い付かない。

「な、なに? さっきの感覚は……」

 自分が自分でないようだった。月が雲に隠れたので、部屋の中は行灯の明かりだけがゆらゆらとしている。ずっと感じていた喉の渇きも幾分か治まったようだ。

 目にかかるほどの長い黒髪の軍人は刀を抜くなり斬りかかってきた。

(殺される!)

 目を瞑ったのに、いつまでも痛みは感じない。その代わり、ひゅっと、刀が宙を斬る音が耳のすぐ横で聞こえた。

「ちっ、すばしっこいな。避けたか」
(避けた? 私が刀を?)

 そんなことできるはずがない。でも、どこも斬られていないのもまた事実であった。

 呆然としているうちにもう一度、刀が振り下ろされる。
 今度は刀筋をしっかりと見て避けた。やけに刀がゆっくり振る降ろされるように見えたことや、自分自身が驚く速さでそれを避けられたことにただただ、混乱するばかり。

 そうしているうちに、扉の向こうからさらに足音が聞こえてきた。五人ほどだろうか。その人数より足音だけで数が分かる自分が怖く、凍華は扉から離れるようにさらに窓へと近づく。

 下を見ればやけに地面が近く見え、ほぼ無意識に窓の桟に手をつき窓枠を飛び越えた。ひょい、と階段二段ほどを飛び降りるような感覚で宙に浮かぶとくるりと一回転して着地をする。

「……私、いったいどうしたの?」

 自身の考えが及ばないところで勝手に身体が動く。
 飛び降りた窓を見上げれば、「逃げたぞ!」「追え!!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
 と、そのとき。窓枠に足を掛ける男の姿が黒い影のように見えたかと思うと、男は、そのまま飛び降り凍華の前に着地した。

 土埃が舞う中、顔を上げた男は、やはり一番に部屋の中に飛び込んできた軍人だった。
 真っ黒な軍服の肩には、白い紐が二本ついており、彼が軍の中でも上位の中の階級であることを示している。胸には幾つもの勲章があり、相当の手練れのようだ。

 再び月が顔を覗かせ男の顔を照らす。
 すると、長い前髪の下、黒かった瞳が微かにだが青みを帯びていった。

「……私と同じ?」

 凍華が驚き見つめるその先で、再び月明かりが陰ると、青く見えたはずのその瞳は再び漆黒へと色を変えた。
 細く切れ長な瞳を眇め、男は剣を構える。

「狭い部屋の中では十分に動けなかったが、ここなら遠慮はいらない。安心しろ、俺はお前を殺すつもりはない」
「貴方はだれなの?」
「妖狩りだ。ずっとお前を探していた。人魚の血を引くお前をな」

(人魚? 妖? この軍人は何を言っているの?)

 よりいっそう混乱は増していく。ごくりと唾を飲む混むと、振える足を踏ん張りながら凍華は軍人に対し首を振った。

「私は人間です」
「……お前、もしかして何も知らないのか?」
「貴方が何を仰っているのか、全く分かりません」

 声を震わせながら答えれば、軍人は刀こそ降ろさないものの幾分か力を抜き、改めて凍華を見据えた。まるで値踏みするかのような視線に、凍華の歯がガタガタと鳴り始める。

「まさか……半妖か。なるほど、ではもしかしてさっき目覚めたばかりなのか」
「はんよう? 目覚める」
「お前は、人間と妖――人魚の血を引いている。そして人魚は十六歳で一人前になると、食い始めるんだ」

 何を食べるというのか、凍華の喉がごくりとなる。
 でも、それが激しい喉の渇きと関係があると言うことだけは分かった。

「奇妙な妖気の原因は理解した。しかし俺がやることはひとつ! 俺はお前を……」

 軍人は再び刀を持つ手に力を入れた。今度こそ避けられない、本能的にそう思った凍華は気づけば走り出していた。

 どこへ向かっているのか分からない。とにかく走って走って走り続ける。
 軍人は追いかけてくるけれど、追いつくことはなかった。ついてくるのが精一杯といった感じだ。

(こんなに早く走れたかしら)

 頭の片隅でそう考える余裕すらあった。
 だが、土地勘のない道は凍華の行く手を阻み、思わぬところで行き止まりなる。その度に庭をつっきり、ときには屋根の上を走るも、少しずつ軍人との距離が縮まってきた。

 このままではいつか掴まってしまう、そう思い焦りながら曲がったその先で、凍華は出会い頭に人とぶつかりよろけてしまった。
 転ぶ、と思った瞬間、力強い腕に抱き留められる。黒い羽織が目の前にあり、頭上から心地より低温が聞こえてきた。

「ほう、これは珍しい。半妖に会えるとは……」
「あ、あの! 助けてください。追われているのです」

 顔を上げた凍華の視線の先にいたのは、琥珀色の瞳をもつ男。
 銀色に輝く髪、切れ長の目、すっとした鼻梁のその男は、恐ろしいほど整った顔をしていた。
 その切れ長の目が、凍華の青い目を捕らえた瞬間大きく見開かれる。
 
「人魚? まさか、絶滅したはずでは?」

 再び聞く人魚という言葉に、凍華は男から身を離し後ずさる。

「あなたもあの軍人の仲間なの?」
「軍人? そうか、お前、妖狩りに追われているのだな」

 敵か味方か判断ができないまま、凍華は頷いた。しかし、この男を信用するわけにはいかないと踵を返し逃げようとした矢先、通りの向こうから軍人が走ってくるではないか。
 軍人は持っていた刀を振り上げると、その切っ先を銀色の髪の男に向ける。

「その女をこっちによこせ、珀弧」
「また正臣か。断る」
「なぜ、いつも俺の邪魔をする」
「お前達が見境なく妖を斬るからだ」

(二人は知り合いなの?)

 どうすればよいかと狼狽えていると、珀弧と呼ばれた男が凍華をその背に庇い、腰から刀を抜いた。

「おい、名はなんという?」
「わ、私、ですか。と、凍華といいます」

 どうやら助けてくれるようだが、凍華には二人の関係が分からない。
 それに、半妖や人魚や妖狐と混乱する言葉ばかりが入り乱れ、もはやこれが現実とは思えなかった。

「お前、生きたいか?」
「えっ?」
「生きたいかと聞いているのだ」

 唐突の質問に、咄嗟に言葉が出てこないのは、『何をしたいか』なんて楠の家では聞かれたことがなかったからだ。
 虐げられ、我慢して、耐えて、痛みを胡麻化し、傷つかないように心を殺してやり過ごしてきた凍華は、いつの間にか自分の意思を失っていた。
 生きたいという人として当然の欲望にさえ答えられないほど、自分自身をないがしろにし、ただ息をひそめ存在し続けたのだ。

「どうしたい」
「……分かりません」
「自分のことなのにか? お前がまだ誰も食っていないのは匂いで分かる。生きたいというなら助けてやる。死にたいのなら勝手にしろ」

 冷たい口調なのに、その声は暖かく耳に響いた。
 凍華を振り返る琥珀色の瞳は、優しく、すでに答えを知っているようにも思える。

「……生きたい」
「聞こえない」
「生きたい! こんな目も髪も大っ嫌いだけれど、でも、生きたい」

 叫ぶように答えれば、珀弧は切れ長の瞳を細め頷いた。そして薄い唇の端を上げ微笑む。

「俺はその透き通った海色の瞳も、柔らかな髪も綺麗だと思う」
「えっ?」
「だから生きろ」

 そういうと、改めて珀弧は軍人と向かい合った。しかし、すぐに刀を降ろし左手を翳すとあたりに靄が立ち込め始める。
 
「逃がすか!!」
 
 軍人の叫ぶ声が近くに聞こえるのにその姿はもう見えない。
 やがて、ぐるりと身体が反転したように感じ、激しい眩暈に襲われる。
 何が起きたか分からず手を宙に彷徨わせば、大きな手がそれを掴み凍華を抱きしめた。

「掴まっていろ」

 感じたことのない浮遊感と目の前景色が見えなくなる恐怖、に凍華はしがみつき、やがて意識を失った。

 目覚めたのは昼過ぎ。部屋に差し込む日差しが充分に明るいことに凍華は慌てて身を起こした。

「しまった、寝坊をしたわ。早くしないと叔父さんに殴られ……」

 そこまで言ってはたと言葉をとめ、周りを見回す。
 見慣れない部屋の広さは六畳ほど、隅には文机と箪笥が一竿あり、行灯の火は消えていた。

「そうだ、私、廓に売られ……そのあと」

 殺されかけたのだと思い出し、両腕で自分を抱きしめる。そこで初めて、肩から掛けられていた羽織の品が随分良いことに気がついた。
 廓で着せられた長襦袢を覆い隠すように着せられた羽織は、綿がしっかり入っていて充分に暖かい。衣文掛けには橙色地に赤い南天の小紋の着物が掛けられており、半幅帯も一緒に置かれていた。これに着替えろと言うことだろうか、と思うも、腕を通したこともない立派な着物に躊躇してしまう。

「布団も上質なものだわ」

 雨香達が使っているものより綿がぎゅっと詰まっている。その布団から出て、窓を二寸ほど開け外を覗き見た。
 
 よく手入れされた庭園の真ん中に砂利道が一本。そのわきには松や椿、今はもう花を落としてしまったけれど金木犀が植えられ、奥のほうには楠の木が枝を伸ばしている。

 冬のこの季節に咲く花はほとんどないけれど、それでも綺麗な庭だった。

 凍華は長襦袢に羽織り姿でいつまでもいるわけにはいかないと、躇いながらも小紋に袖を通し、帯を巻く。

「昨日私を助けてくれたのは、妖、よね」

 妖狩りの正臣、と言う男が珀弧と呼んでいた。
 忌々しい青い目とうねる髪を綺麗だと言われたことを思い出し、髪を摘まんで見るも、やはりそれは美しくは見えない。でも、ちょっとだけ好きになれたような気もする。
 
「私は人間ではない。母は人魚だったということ、よね」

 ひとつずつ、昨日知ったことを反芻し、頑張って飲み込んでいく。
 それは苦しいことだったけれど、どこかすとんと腑に落ちた。
 今まで、人とどこか違うと思っていたけれど、人魚の血を引いていたことが理由だと知り、それは衝撃的で、信じられないことだったが自然と納得もできた。
 それこそが、自分が妖の血を引くせいかもと、凍華が小さく笑うと、障子の向こうから幼い声が聞こえてきた。
 
「笑っ……よ」
「僕も……」

 障子に三尺足らずの影が映っており、それが小さな手足をひっきりなしに動かしている。どうやら覗き見をしていて、良く見える場所を取り合っているようだ。
 やがて、障子が少し開き丸い目玉が四つ現れるも、凍華と目が合うと慌てたようにぴしゃんと閉まってしまった。

「おいで」

 畳に膝をつき手招きすれば、おそるおそると障子が開き、同じ顔をした子供が二人跳ねるようにして駆け寄ってきた。

「お姉さん、花嫁さん?」
「珀狐様の花嫁さん?」

 パタパタと尻尾を左右に振り、頭の上の狐耳をピンと立て興味津々と凍華を見上げてくる。
(花嫁さん?)

「珀弧様、やさしい。妖狩りから妖を守って保護する」
「でも、この屋敷に招いたのは花嫁さんが初めて。だから花嫁さん」

 わいわいと手を挙げ凍華の周りを走り出す二人に、どう声をかければよいかと悩んでしまう。「あ、あの、花嫁さんじゃない……」と言いかけたところで、一人が凍華の腕を掴んで鼻を付けた。

「花嫁さん、人間の匂いがする」
「半分だけ人間の匂いがする」
「お姉さん悪い人?」
「僕たち殺されるの?」

 物騒な言葉が可愛い口から出たことに焦りながら、凍華は思いっきり頭を振る。

「悪い人じゃないし、殺さないわ」
「約束だよ。花嫁さん名前は?」
「凍華。それから、私は花嫁じゃないわ」
「僕、ロン」
「僕、コウ。よろしくね。花嫁さん」

 花嫁ではない、ともう一度言おうとして凍華は息を吐く。この二人、どうも聞く気はないようだ。

「えーと、こっちがロンで、こっちがコウね」

 凍華が二人を指差し確認すると、ロンとコウは目を見合わせいたずらっぽく笑ったかと思うと、くるくるとその場で追いかけっこを始めた。
 まるで子犬が自分の尻尾を追いかけるように、それぞれが相手の尻尾を掴みどんどん速さを上げていく。

(目が回りそう)

 凍華がくらりとしてきたのを見計らったように、二人はピタッと止まり両手をあげた。

「「どっちがどっちだ?」」
「ええっ!」

 二人とも、紺地に草模様の着物。子供がつけるヘコ帯の色も同じ緑で、背丈も一緒。銀色の髪から出ている耳はびくぴく、と尻尾はぱたぱたと嬉しそうに動いおり、琥珀色の瞳を細めて笑う顔も見分けがつかない。

「えーと、ちょっと待って」
「待たないよ」
「どーちだ」

 ぴょんぴょん跳ねる様子は可愛らしいのだけれど、これは困ってしまったと眉を下げていると、障子の前に大きな影が映った。
 すっと障子が開き現れた珀弧は、コツンコツンと二人の頭を叩くと、ロンとコウは同時に「痛っ」と叫び頭を撫でる。

「お前たち、起きたら教えに来いと言ったはずだ」
「珀弧様! 花嫁さんと遊んでいたの」
「珀弧様! どっちがどっちかあてっこしてたの」

 はぁ、と珀弧は袂に腕を入れ嘆息すると、言い含めるようにゆっくりと話した。

「その人は花嫁さんじゃない。俺は凍華に話があるから、お前達は凛子に食事の用意をするよう伝えてこい」
「「あい!」」

 ロンとコウは、分かったとばかりに右手、左手をそれぞれ上げると、我先にと部屋を出て行った。
 ふさふさの尻尾を見送る凍華の前に、珀弧が座り胡坐をかく。
 月明かりの下で見たときも整った顔だと思ったけれど、日の差し込む部屋で見れば、息をのむほど綺麗な顔をしている。凍華は居住まいを正し、畳に指をつき頭を深く下げた。

「助けて頂きありがとうございます。……あの、ここはどこでしょうか?」

 思えば部屋に火鉢がないのに暖かい。部屋の作りも庭も特段変わったところはないのに、どことなく浮世離れしたものを感じる。
 
「ここは妖の里。人間たちは自分達の住まいを『現し世(うつしよ)』ここを『隠り世(かく)』と呼んでいる。俺はこの屋敷の主で珀弧と言う名の妖狐だ。妖狐、は分かるか?」
「狐、でしょうか」

 自分に人魚の血が流れているのだ、いまさら目の前に狐や狸が現れても驚かないと、腹に力を入れるも、目の前の男はあまりにも美しい。
 だから珀弧が「そうだ」と答えるも、尻尾や耳もないので俄に信じられずまじまじと見てしまった。

「何を見ている?」
「尻尾も耳もございません」
「ははっ、俺は子供じゃないから、ロンやコウと違い普段は隠している。二人は自己紹介をしたか?」 
「はい。聞きましたが……見分けがつきませんが」

 正直に堪えれば、珀弧はくつくつと喉をならし笑った。
 整い過ぎた顔でとっつきにくい人だと思っていた凍華は、意外な様子に目を丸くしつつ、ほっと胸を撫でおろした。どうやら怖い人ではなさそうだ。

「それで、幾つか質問をしたいのだが良いか」
「私に分かることでしたら、なんでもお答えいたします」

 節目がちに答えるのは、もはや癖といっていいだろう。
 青い目を殊更嫌う雨香達に、話すときには目だけではく頭もさげるよう強く言われていた。
 珀弧はそんな様子に僅かに眉を顰めつつも、やせ細った身体から察するものがあるのか、そのまま言葉を続けた。

「答えたくないことは言わなくてよい。まず、どうしてあの場であの軍人に追われていたのだ」

 それを説明するには凍華の育った環境から全て話す必要がある。
 凍華は言葉に詰まりつつ、両親を亡くし叔母に引き取られたこと、従兄妹の学費のために遊郭に売られ、そこにいきなり妖狩りが現れたことをかいつまんで話をした。

 かなり端折ったけれど、人と長く話をしたことがない凍華にしては頑張ったし、うまく説明できた、気もする。
 しかし、話を聞いた珀弧は何も言わず「うーん」と唸るばかり。
 説明か悪かったのかと、恐る恐る髪の隙間からその表情を覗き見れば、ばちりと目が合い慌てて頭を下げた。

「まず、顔を上げてくれ。俺は詰問をしているつもりはなく、話がしたいだけだ」
「はい」

 言われ畳から額を上げるも、相変わらず背は丸まり、顔は下を向いている。
 珀弧は凍華の隣に座り直すと肩に手を当て、背をぐっと伸ばした。
 突然のことに凍華が驚き顔を上げれば、間近に迫った琥珀色の瞳がにかりと笑う。

「この方がよい。この家では背を丸めるな。顔を上げろ。話をするときは相手の目を見る。ちなみにこれは命令ではなく、俺の頼みだ」

 とっつきにくい顔が、急に親しみのあるものに変わり凍華は狼狽えた。しかも距離が近い。

「か、畏まりました」

 真っ赤な顔で答え、恥ずかしさから下を向けば、顔を上げれと言われてしまう。
 
「あ、あの。珀弧様、少々離れていただくわけにはいきませんか?」
「あっ、これは失礼した。怖い思いをした女性に失礼だったな。不快だったであろう」
「そのようなことは……ございません」

 少々心臓が煩くなるだけ、とは言えず口籠る様子を、珀弧は勘違いしたようですぐに元の場所に座り直した。

「珀弧様はあの軍人とお知り合いなのでしょうか」
「仲良く見えたか?」
「いいえ、ちっとも」

 首を振れば、珀弧はまたくつくつと笑う。何がおかしいのかと首を傾げれば、

「凍華はおどおどして自信なさげなのに、時折はっきり物を言うところが良い。それがおそらくお前の持って生まれた本来の性分なのだろう」
「申し訳ありません。私、失礼なことを……」
「言っていない。大丈夫だ。それで質問の答えだが、あいつの捕まえようとしていた妖を逃がしたことが何度かある」
「私のように助けた、ということでしょうか」
「そうだ。妖狩りは、妖なら何でも捕らえ殺す。人間に害をなす物であれば、仕方ないと思えるところもあるが、害をなさない妖を殺す理由はないだろう。あいつらは人でありながら言葉が通じぬゆえ、実力行使をしているまでだ」

 幾度ともなく、珀弧は害をなさぬ妖を殺めるなと言ったが、妖狩りは聞き留めなかった。
 ゆえに、目に留まった妖を助けるようになった。
 妖は本来仲間意識など持たない性質で、他の妖からすれば珀弧のしていることは奇異に映るらしいが、それでも、手の届く範囲はと、現し世に行くたびに誰かを助けて帰ってくる。

「お優しいのですね」
「そんなことはない、ただ自分の目の前で不条理なことが行われるのが腹立たしいだけだ」

 慈善事業のつもりはさらさらなく、助けた妖は傷を負っておれば薬こそ渡すが、大半はその場で別れている。

(では、私を助けてくださったことも、珀弧様にとって特別なことではないのね)

 どこかほっとしたような、寂しいような気持ちが胸にこみ上げ、凍華は戸惑ってしまう。
 虐げられ、罵られるうちに感情を殺すことを覚えてしまった。
 心を閉ざし痛みや苦しさに愚鈍になれば、生きることも少しは簡単に思えたからだ。
 それなのに、珀弧の前ではやけに感情が動いてしまう。これはいけないと、凍華は小さく深呼吸をした。

「では次に、凍華の話をしよう。昨日の会話で察しているだろうが、お前には人間と人魚の血が流れている」
「半妖、人魚と聞いたときからそう考えております」
「父親から何か聞いていないか?」
「……人魚は男女の双子で生まれ番となり、その番との間にのみ子を授け命を繋いでいくのだとか聞きました」
「……それだけか?」

 随分間を開け問いただされ、凍華は的外れな返答をしたのかと焦ってしまう。

「はい、それしか……あの、それ以外に何かあるのでしょうか?」
「…………いや、何もない」

 先ほどほどよりさらに間を開けられては、何かあると言っているようなものだが、珀弧は強引に話しを逸らした。

「父親は何をしていたんだ?」
「軍で書記官の仕事をしていたそうです」
「軍の書記官が殉職……」

 珀弧は袂に腕を入れ暫く思案顔をしていたが、やがて「そうか」とか「いや、しかし」と小さく呟いた。
 そうこうしているうちに、ロンとコウが食事ができたと大きな声を出しながらやって来た。どたどた、ばたんと賑やかだ。

「お膳をもってきました」
「味見もしました」
「お前達、ちょっとは静かにしろ」

 珀弧に叱られ、ぴしりと背筋を伸ばすも、その足は止まることなく足踏みをしている。
 それがあまりに変わりらしく凍華は「ふふ」と笑った。その笑い声に二人の尻尾がピンと立つ。

「花嫁さんが笑った」
「笑った花嫁さん可愛い」
「だから花嫁じゃない。誰がそんなことを言ったんだ」
「凛子が言った」
「珀弧様がお屋敷に他人を招くのは初めて」

 わいわいとお盆を頭に掲げて走るロンとコウの襟首を珀弧がむんずと掴み持ち上げる。
 凍華はお盆が落ちないかとおろおろするも、二人は遊んでもらっているかのようにきゃっきゃと笑う。少なくとも反省はしていない。

「もういいから少し落ち着け。今度騒いだら毛玉に元すぞ」
「「はい!!」」
(毛玉に戻す?)

 はてと首を傾げる凍華の前に、珀弧はロンとコウをひょいと置けば、二人はいそいそと食事の用意を始めた。

「すまない。助けた妖を連れ帰ることがなかったので、勘違いしたようだ。俺は行くのでゆっくり食事をしてくれ」
「はい。ありがとうございます。食べたらすぐに出ていきますので、お手数をおかけいたしました」
「出ていく?」

 また何か変なことをいっただろうか、珀弧が盛大に眉間に皺をよせ、どかんと凍華の前にしゃがみ込んだ。

「廓に戻りたいのか?」
「そ、それは……」
「お前が戻らなければ、楠の家は困るだろう。だが、凍華がそこまで義理立てする必要があるのか?」

 そう言われても、どうしたらよいか分からない。
 命じられるがままに生きてきた凍華は、「生きたい」と思うも、どのように生きるかなんて考えられないのだ。

(でも、考えなくては)

 ずっと逆らうことなく生きてきた。心を、思考を捨てるのは生きるために必要なことだと思っていたけれど、その捨てたものこそ生きるために必要なのではないだろうか。
 自分がどうしたいか、何をしたいか。
 凍華は、目の前に用意された湯気が立ちのぼるお粥に視線を落とす。
 こんなふうに温かい食事にありつけるのは何年ぶりだろう。いつの間にか鍋に焦げ付いたおこげを擦り取り食べるのが当たり前になっていた。

「……帰りたくありません。でも、私には行く場所がないのです」
「それならここにいたらいい」
「そんな! 助けてもらった上に、そこまでしていただく理由がございません」

 ふるふると首を振る凍華の手を、珀弧は優しく握った。

「凍華は疲れている。せめて何がしたいか考えが纏まるまでいればよい。その間、こいつらの遊び相手をしてくれれば助かる。お前達、それでいいな」
「「はい!!!」」

 今までで一番元気な声が返ってきた。
 凍華の胸の中に温かなものが広がっていく。固く閉ざし冷え切った心がふわりと真綿に包まれたようで、いつも張り詰めていた神経が緩んでいく。

「お世話になります」

 改めて三つ指をついて頭を下げれば、珀弧は「分かった」とだけ言って立ち上がり、今度こそ出て行こうとした。しかし、障子襖を開けたところで思い出したかのように振り返る。

「凍華、歳は?」
「昨日で十六になりました」
「昨日。しかも満月の夜か。何か身体に変わったことはなかったか?」
「変わったこと、ですか?」

 変わったことといえば昨夜起きた出来事全てがそうだ。
 その中で、凍華の身体に起きたこととなれば……。

「喉が渇きました」
「喉がか?」
「はい。今まで感じたことのない渇きで、飢えに近く、苦しいまでの渇望でした」

 話すだけでもあのときの感覚が蘇り、凍華は喉に手を当てた。
 その様子に、珀弧が一瞬厳しい顔をするも、すぐに柔和な笑顔を浮かべる。

「今度喉が渇いたら教えてくれ」
「? はい」

 どうしてそんなことを言うのだろう。凍華が首を捻る中、珀弧は立ち去っていった。

 珀弧はいなくなったが、ロンとコウがお盆をはさんでちょこんと座り、凍華が食べ始めるのを今か今かと待っている。その様子にちょっと居心地の悪さを感じつつ、凍華は箸を手にして粥を食した。

「おいしい」
「凛子が作った」

 右手がしゅっと上がって一人が答える。

「凛子さんって誰?」
「掃除してくれる」

 今度は左手が上がる。

「遊んでくれる」
「お風呂に入れてくれる」
「「でも、怒ったら怖いんだよ!!」」

 最後に二人は顔を見合わせ、頬に手を当てた。
 ぷにぷにとした頬がへこみ、唇がくちばしのように尖がるそのさまが愛らしく、凍華がまた微笑めば、二人はさらに喜んだ。
 そんな二人を見つつ、食事を進める。

(凛子さんという方は女中さんかしら? 食事を済ませたらお礼を言って、食器を洗って、他に何か手伝うことがあるか聞いてみよう)

 お世話になるのだから少しでも役に立ちたい。大したことはできないけれど、命を助けてもらったお礼と、寝る場所と食事に見合う働きはしようと思う。
 自分に何ができるかと考えていると、箸を止めた凍華をロンとコウが心配そうに覗き込んできた。
「おいしくない? 嫌いなものはいっていた?」
「いいえ、嫌いなものなんてないわ。ロン」

 名前を呼ばれたことにロンは目をパチパチさせると、次いで阿吽の呼吸のようにコウとくるくる回り始めた。ピタリと止まると期待を込めた瞳で凍華を見上げてくる。

「ロン、コウ、お返事をして」
「「あい」」

 同時にあがる右手と左手に凍華は笑いを堪えながら、「こっちがロンであなたがコウね」と言えば、二人とも零れそうなほど目を見開いた。

「「花嫁さん凄い!!」」

 わーい、と喜んで飛び跳ねる二人。

(私は花嫁さんじゃないのだけれど)

 そう思いながら食べた粥は腹だけでなく胸までもあたたかくした。
 縁側に出て走り始めた二人を眺めながら、今度は里芋の煮つけを頬張れば、ふわりと柔らかく甘い風味が口に広がる。

(こんなふうに食事をするのはいつぶりかしら)
 
 半年? 一年? いや、もっと昔のような気がする。
 ゆっくりと穏やかな食事に身体からゆるゆると力が抜け、食べ物の味がはっきりと分かる。

(私、ずっとこうして食事をしたかったんだ)

 現し世で叶わなかった願いがまさか妖の屋敷で叶うなんて、不思議な気持ちだ。
 少し目の前の景色が滲むのを袖で拭き、凍華は食事を続けた。