千夜が壇上での話を終えると、撫子とともにおりていく。
 いつもならわらわらと、砂糖に群がる蟻のように集まって媚びを売るのに精を出す者たちで溢れかえるのだが、今回に限っては千夜から伝えられた話の方へ意識が向いており、おのおの意見を交換し合っている。
 そのせいか誰にも邪魔されることなくスムーズに千夜と撫子が柚子たちのところへ向かってきた。
「柚子ちゃん、ごめんね。突然で。びっくりしたでしょー」
「いえ、大丈夫です」
 ニコニコしながら謝罪する千夜の言葉を否定しつつも、心の中では『まったくだ……』と、思っている柚子がいた。
 柚子は義理の両親であり、撫子とも何度となく会っているので今さら緊張はしない。
 しかし、透子と東吉は、近づいてくる三人に顔色を強ばらせながら気配を殺している。
 特に東吉の顔色はすこぶる悪かった。
「にゃん吉君大丈夫?」
 柚子はそっと声をかける。
「大丈夫なわけないだろ。何度も言うが、猫又はあやかしの中じゃ下位なんだよ! 弱弱なのっ! 鬼と妖狐のトップを前に平気でいられるかっての! なんだよ、あの妖気の強さ。鬼龍院様はやっと慣れてきたとこなのに、そこに鬼の当主夫婦と妖狐の当主が加わったら、心臓発作起こすぞ。俺を病院送りにしたいのか!」
 東吉は必死の形相だった。
「そんなに?」
 人間である柚子に東吉の感覚が理解できないので首をかしげるだけ。
「私はそこまでじゃないけど、やっぱ鬼と妖狐の当主がそろうと圧巻よね~」
 そんな透子は、緊張はしつつも東吉ほどではないようだ。
 多少余裕を感じる。
 それは撫子とも一度花茶会で会っているおかげもあるだろう。
「さっさと退散したいが、完全にタイミングミスった……」
 東吉がなぜ嘆いているかというと、撫子の目が透子を見ていたからだ。
 完全にロックオンされており、ここで逃げるのは失礼になる。
「久しいの、透子よ」
「は、はい! お久しぶりです!」
 スっと背筋を伸ばす透子の隣で、東吉も同じように姿勢を正している。
「元気にやっておるかえ?」
「はい。娘ともども元気いっぱいです」
「うむ、それはよきことじゃ。して……」
 撫子の視線が隣にいる東吉に移る。
「そちが透子の旦那か」
「猫田東吉です!」
 ガチガチに緊張している東吉は、今にも卒倒しそうだ。
 その様子に撫子は声をあげて笑った。
「ほほほ、そのように緊張するでない。……とはいえ、猫又のあやかしでは、このメンツを前にしてはちと厳しかろうて」
「ご理解いただきありがとうございます」
 東吉からは「早く解放してくれ~!」という叫び声が今にも聞こえてきそうだ。
 そんな中に割り込んできたのは千夜である。
「撫子ちゃん、にゃん吉君を虐めちゃ駄目だよ~」
 そう言って東吉の肩に腕を回す千夜。
 その行為こそが東吉にとったら虐めであろう。
 東吉は声もなく、半泣き状態である。
 東吉が千夜と直接会ったことがあるのは、一龍斎に囚われた龍を助けるために玲夜の屋敷に泊まった時だろうか。
 その後はパーティーや柚子と玲夜の披露宴などで顔を合わせているはずだが、仲よく肩を抱くほど親しいわけではない。
 なのに、千夜は当たり前のように東吉のことを『にゃん吉君』と呼んでいる。
 柚子がそう呼んでいるからかもしれないが、千夜との会話で東吉が出てくるなどほぼなかった。
「ほう、にゃん吉とは愉快ーーいや、愛らしい呼び名よのう。ならばわらわもそう呼ばせてもらってもよいかえ?」
 ほほほと、笑う撫子に否を突きつける勇気が東吉にあるはずもなく……。
「はい、どうぞお好きにお呼びください……」
 消え入りそうな声でそれだけをなんとか発した。
 なぜか比類なき権力を持った二家の当主に挟まれるという状態にある東吉に、多方から憐れみの目が向けられる。
「あっ」
 なにかに気がついた千夜が東吉の肩から手をどかし、そこでようやく東吉はほっと息をつく。
「よく耐えたわ、にゃん吉」
「めちゃくちゃ怖ぇ……」
 透子が慰めるように肩を叩いて労っている一方で、千夜はどこかに向かって大きく手を振った。
「おーい、藤史郎くーん! こっちおいで~」
 千夜の目線の先にいるのは、撫子の長男である藤史郎。
 彼の隣には妻の菜々子もいた。
 菜々子は花嫁で、あやかしではなく柚子と同じ人間だ。
 藤史郎は撫子によく似た品のある美しい顔立ちだが、どこか温度のない冷たい雰囲気を持っている。
 そこはどことなく玲夜を感じさせるところもあった。
 雰囲気だけでいうと、撫子の三男である藤悟より兄弟っぽく思える。
 もちろん見た目はまったく違うのだが、次代を担う者としてその重責を考えると、のほほんとはしていられないからかもしれない。
「お久しぶりです、千夜様、紗良様」
 藤史郎は千夜と紗良の前で一礼する。
 その隣の菜々子も同じようにお辞儀をするが、花茶会で見せていた柔らかな笑みは浮かんでおらず、まるで人形のように無表情なのが柚子はすごく気になった。
 以前に花茶会で見せた、藤史郎への態度も印象に強く残っていたせいもあるのだろう。
「菜々子ちゃんも花茶会ぶりねぇ」
 紗良が菜々子の手を握ると、そこでようやく菜々子の表情が緩んだ。
 血の通った表情が見れたことにほっとする柚子だが、隣の藤史郎が視界に入り息を呑む。
 まるで憎々しげな顔をしている。
 それは紗良に向けてなのか、菜々子に向けてなのか……。
 答えを求めるように柚子は千夜を見た。
 負の感情を向ける相手が紗良に対してならば、千夜が黙っているはずがないと思ったからだが、千夜は変わらずニコニコしている。
 再度藤史郎を確認するも、綺麗に感情を隠してしまった後だった。
「気のせい……?」
 紗良でなかったなら、菜々子であるはずがない。
 菜々子は花嫁だ。
 神器で本能を奪われでもしない限り、花嫁を憎く思うはずがない。
 柚子は考えすぎかと、先ほどの藤史郎の表情を頭から追い出した。
「どうかしたか、柚子?」
「ううん、なんでもない」
 そう言うが、玲夜は疑わしげにじーっと柚子を注視する。
「玲夜」
 柚子はあきれたように苦笑する。
「心配しすぎだよ」
「心配してなにが悪い。柚子は俺の唯一だ」
「真面目な顔でサラッと言える玲夜ってほんとすごいよね」
 それもこんな人目がある中でだ。
 千夜と紗良など、微笑ましそうにニマニマと笑みを浮かべており、撫子も至極楽しそうに笑い声をあげた。
「ほほほ、本能がなくなっても若は若じゃのう」
 三人反応に、発言した張本人の玲夜ではなく柚子の方が恥ずかしくなってきて、目線を俯かせる。
 玲夜は堂々としているというのに、なんだか理不尽さを感じる。
「……本当に花嫁への本能をなくされたのですか?」
 それまで静かだった菜々子が初めて口を開いた。
 その目は真剣で、玲夜を捉えている。
 けれど、答えたのは千夜だった。
「そうだよ~。全然そう見えないよね。さすがに少しは変わったかなと思ったけど、相変わらず重ーい男で、親として柚子ちゃんに申し訳なくてならないよほんとに。玲夜君が嫌になったら迷わず僕に助けを求めるんだよ~、柚子ちゃん」
「父さん」
「やだなぁ、冗談だよ。玲夜君、こわーい」
 玲夜が千夜をにらむが、千夜は変わらずヘラヘラと笑っている。
 そこらのあやかしなら瞬足で逃げ出すだろう玲夜のにらみも、千夜には場を盛り上げるスパイス程度でしかない。
「……しい……」
「ん? なんだい?」
 菜々子の声はあまりにも小さく、千夜ですら聞き取れなかったようで首をかしげている。
「いえ、なんでもございません」
 菜々子は再び人形のような無表情になってしまった。
 すっと藤史郎の後ろに下がると、それ以降はまるで存在を消すように控えているだけだ。
 撫子はその様子を複雑な表情で見ていたが、なにかを言うわけでもなく、妖狐の当主としての威厳のある表情に変わる。
「神器を穂香に渡した者は見つかったのかえ?」
「それがまだなんだ」
 千夜は大げさに肩をすくめる。
 先ほどの壇上で、千夜は神器にあやかしの本能を奪う機能があるとは伝えていたが、それがどのようにして手に入れるに至ったかまでは話していない。
 穂香に神器を渡したという玲夜に似た男の存在も。
「だけど、少し前から玲夜君に似た男の情報がいくつかあってね。SNSに写真が投稿されていたんだ。でも、遠かったり画像が荒かったりして不確かだったんだけど、柚子ちゃんの友達が遭遇してばっちり綺麗に顔が写った写真を撮ってくれたから助かったよ。離婚する時、訴訟で柚子ちゃんが有利になるよう考えて証拠を残したっていうんだから笑うよね~。透子ちゃんといい、柚子ちゃんの周りは友達思いな子が多くて安心だよ」
 千夜は愉快でならないようだが、玲夜は逆で不愉快極まりない顔をしている。
「神器ごときで柚子以外の女に走るわけがないでしょう」
 眉間にしわを寄せる玲夜は、柚子を引き寄せて周囲に仲のよさを見せつけるように抱きしめた。
 柚子はもう諦めてされるがままである。
「それよりも、父さん。その男の写真であの女に確認は取れたんですか?」
 玲夜は柚子を離さないまま、千夜に問いかける。
「うん。紗良ちゃんから聞いてもらったけど、間違いないみたいだよ」
 視線が集まると、紗良はこくりと頷いた。
「何者なのでしょう? 心当たりはないんですか?」
「それがあったら苦労しないよぉ。その子が烏羽家が管理しているはずの神器をどうやって持ち出したかも分からないし。そもそも烏羽家とは仲が悪いから関わりもないしねぇ。聞いたところで教えてくれるとも思えない」
「それは狐雪家でも同じじゃろうて。鬼龍院ほど仲違いしておらぬが、お互い関知しないという状態が続いておるので、質問状を送っても無駄であろうな。今の当主が誰かも分からぬほどじゃ。噂では最近交代したらしいが、名前も性別すらも知らぬ」
「内情の分からない烏羽家から神器を持ち出したんだから、それなりに内部に詳しい者のはずなんだよねぇ。そんなのが玲夜君と似ているのも興味深いけど、それ以上に烏羽家がどう動くかも気になるとこではあるかな」
 玲夜、千夜、撫子の会話を静かに聞いていた柚子は、かなり深い内容に意識が集中してしまうのを抑えきれない。
 それと同時に、これほど重要な話を井戸端会議をするようにポロポロと話していていいのだろうかと心配になった。
 周囲で聞き耳を立てている人もいるのではないだろうか。
 聞かれてはマズい話も含まれてはいないかと、柚子は周囲の反応をチラチラとうかがう。
 だが、予想に反して誰も気にしている様子はない。
 すると、周囲を気にする柚子の様子に気がついた龍が柚子に教える。
『大丈夫だ。柚子は気づいておらぬが、ここの周りにだけ結界が張ってある。この会話は周囲には聞こえておらぬであろう』
「そうなの?」
『こやつのあやかしの本能がなくなったという話題に移った時に張られた。簡単にこれだけの結界を張れるのだからさすがは鬼の当主だな』
 どうやら結界は千夜によって張られていたらしい。
『しかし、我からすればまだまだ小童だがのう! カッカッカッ』
 得意げに笑う龍に苦笑する柚子は、龍と千夜のどちらにも気を遣ってあえてなにも言わなかった。
 龍を褒めると千夜か弱いと肯定しているようなものだし、否定すると龍が拗ねて面倒くさい。
 沈黙を貫くのが一番だ。