振り返ると、飲み物とサンドイッチといった軽食が載ったお皿を持った玲夜が立っていた。
「玲夜……」
「ジュースだ」
 スッと柚子にグラスを手渡してから皿をテーブルの上に置くと、透子と東吉へと目を向ける。
「若様、こんにちは~。相変わらず目の保養……。前より色気が増した気がする」
「透子がすみません……」
 頬を染めて見惚れる透子の態度に、鬼龍院の恐ろしさを知っている東吉は恐縮しっぱなしだ。
「問題ない。ふたりがいてくれたおかげで柚子に変なのが近づかなくて助かった」
 さすがに付き合いが長いからか、ふたりへ向ける玲夜の眼差しは他人に比べると柔らかい。
 あくまで、他人と比べるとではある。
 けれど、玲夜の怖さを知る者からしたら、その変化はかなり大きい。
「なにを話してたんだ? 俺の名前が出ていたようだが」
 この騒がしい会場内で柚子の声を拾うのだから、やはり玲夜の耳はいい。
 いや、玲夜ならば遠く離れたところにいても柚子の声なら聞き取りそうである。
「玲夜の体のこと。神器に刺されて……」
 そこまで口にしてから柚子ははっとする。
「どうした?」
「さっきから普通に話しちゃってたけど、神器のこととか本能を失くすこととか、周りに知られちゃうとマズいよね?」
 玲夜のあやかしの本能がなくなったことは、一部の者にしか知らされていない。
 こんな人目の多い中で話していい内容ではなかったと、柚子は声を落とす。
 今頃声を小さくしても、もう聞かれている可能性があり、後の祭りかもしれない。
 内心で慌てる柚子と違い、玲夜は冷静そのもの。
「問題ない。今回のパーティーで、ある程度の者に父さんが神器の存在を教えるらしいからな」
「そうなの?」
「鬼の一族の中に、神器を鬼が管理すべきだなどとほざいている馬鹿がいてな。父さんと妖狐の当主が話し合って、神器のこと、神のこと、最初の花嫁のことを話すことになった。他の一族の目があれば、さすがに鬼といえど独占するのに難色を示すあやかしたちが出てくるからな。このパーティーはそもそもそれが目的のものだ」
「でも、話していいの? 神器や神様の存在を知ることで起きる問題もあるんじゃないの?」
 そもそも信じるのかという疑問がある。 
「そのために父さんと妖狐の当主が参加する。さすがにこのふたりを前に、嘘だなんだと正面から文句を言える度胸のある奴などいないだろう。あやかし界でもっとも発言力のあるふたりの言葉だ」
 霊力の強さでいえば玲夜が次点ではあるが、発言力や権力、経験値などを総合して評価すれば、千夜に次ぐ影響力を持つのは玲夜よりも撫子の方が上だ。
 あやかしの世界をまとめるこのふたりの言葉を軽んじるあやかしはほとんどいない。
「話をすればだな。父さんたちが来た」
 途端に出入口の方が一層騒がしくなり、人々の視線が集まる。
 入ってきたのは千夜と撫子。
 千夜の一歩後ろには紗良の姿もある。
 千夜と撫子はそのまま壇上へと上がり、会場内を見渡した。
 ニコニコとした笑みを浮かべる陽気な表情の千夜は、どこをどう見てもあやかしのトップにいるとは思えない気やすさがある。
 一方の撫子は千夜とは反対で、当主に相応しい気品と威厳を全身から発していた。
 対象的な雰囲気を持つふたりではあるが、同じなのは抗えないほど人を惹きつける力があるというところ。
 千夜が話始めようとすると、自然と人々は千夜の言葉を待つように口を閉じ、会場内は異様なほどに静まり返る。
「やあやあ、今日は皆参加してくれてありがとうねぇ」
 威厳も貫禄もない軽い口調なのに、誰一人として千夜を侮る者などいなかった。
 ラスボス感でいうと絶対に玲夜の方が雰囲気が出ているというのに、千夜は掴みそうで掴めないような底知れなさがあると、玲夜はたびたび千夜をそんな風に評する。
 あやかしではないからなのか、柚子にはいまいち分からないでいる。
 もちろん自分には足下にも及ばぬ人という認識は持っているが、いかんせん普段の千夜はひょうひょうとしてしるのでそんな面を感じさせない。
 けれど、玲夜が千夜のことを一目置いているのは、普段からの態度で伝わってくる。
 父としても、あやかしとしても尊敬しているようだ。
 決して千夜には口にはしないけれど……。 
「実は今回大々的に皆を集めたのには理由があってねーー」
 そこから始まる千夜の話に、人々は戸惑いを隠せない者がほとんどだ。
 神と始まりの花嫁の話。
 鬼龍院、狐雪、烏羽の三家へ与えられた神の贈り物。
 特に、あやかしの本能を奪う神器の存在は誤解が起きないように丁寧に説明されていた。 
 柚子が霊獣を連れているのは周知の事実なので、霊獣への知識を持っている者は多数いたが、神の存在を信じるかというと難しい。
 けれど、千夜の話に隣に立つ撫子は否定しない。
 それが狐雪もその話に異論がないということだ。
 あやかしの中でもっとも権威あるふたつの一族が認めた。
 それは少なからずあやかしたちに衝撃をもたらす。
 だが、あまりにも突拍子もないことで信じきれずに、どう反応していいものか迷っている者が多くいる。
「まあまあ、皆も突然こんな話をされたら混乱してるよねぇ」
 千夜はのほほんとした様子で理解を示す。
 千夜もすぐに全員が信じるとは思っていないのだ。
「あ、あの……」
 そんな空気の中で手を挙げる勇敢なる男性がいた。
「その神器はどうされるのですか? その昔烏羽家に与えられたというなら、その神器は烏羽家に返すべきなのでは?」
 萎縮しつつ発言するその男性の言葉に、周囲にいた人たちも「たしかに……」と、同意する声がちらほら聞こえてくる。
「神器は神様へ返したよー。神様がもう烏羽家に管理させておけないって怒ったからね」
「えっと、神様がそう言ったのですか?」
「うん、そうだよぉ」
 男性の戸惑いはあからさまに顔に出ており、『神』という存在を信じきれていないのが手に取るように見える。
 それを分かっていながら、千夜はなにか問題?と言わんばかりに無視するのだから、やはり見た目通りの優しい性格というわけではない。
「その神様はどちらにいらっしゃるんですか?」
「元は一龍斎の一族が神様を祀って仕えていたらしいんだよ。けれど、その一龍斎はとっくの昔にその役目を放棄している。そのせいで神様は眠りについたり大変だったんだけど、ここで登場するのが僕のかわいい娘になった柚子ちゃんでーす!」
 突然名前を出された柚子はぎょっとする。
 千夜ときたらこれまで鬼の一族の内部にすら多くを語らなかったというのに、多くのあやかしがいるこの場でどこまで話すつもりなのかと柚子は焦りをにじませる。
「柚子ちゃんには過去の一龍斎のような神子としての素質があるみたいでねぇ。神様が大層柚子ちゃんを気に入ってるみたいなんだぁ。だから、神様の相手は柚子ちゃんにお任せするのが一番だねって、撫子ちゃんとも意見が一致したんだよー」
 千夜がそんなことを言ったがために、柚子へと一気に視線が集まりたじろぐ。
「ちょっ、ちょっ……」
 動揺しすぎて言葉にならない柚子が、玲夜の袖を引っ張る。
「れ、玲夜、あんなこと言っちゃっていいの!?」
 声を潜めて話しかける柚子の顔は焦りと戸惑いが見えた。
「これが一番いいんだ。天童たちを抑えるためにはな。柚子も俺と離れたくないだろう? まあ、天童がなんと言おうが離れるつもりはないが」
「え、どういうこと?」
「俺が本能をなくしたことを知った天童たちが、それなら花嫁など不要だろうと、柚子と別れるように父さんのところへ進言してきた。他にも己の娘を後釜に据えたくて反対している奴らとかな。まったく鬱陶しい奴らだ」
 玲夜は不快そうに舌打ちした。
「だから、柚子が神と対話できる唯一無二の存在であると、柚子の持つ価値を公にすることで黙らせようと考えたんだ。散々柚子を使ったんだから、今度はこちらが神の存在を利用してやるさ」
 玲夜からは天童だけでなく、神に対しての苛立ちも感じ取れる。
 神器の一件に柚子を巻き込んだのがいまだに許せないようだ。
「そんなことがあったんだ……」
 高道の祖父である天童とは一度だけ顔を合わせたことがあるが、その態度から柚子を歓迎していないと会ってすぐに分かった。
 本能をなくしても玲夜が変わらずにいてくれたので、それで話は終わったと思っていたが、まったく終わっていなかったようだ。
 そんなにも自分の存在は受け入れ難いのだろうかと、柚子は落ち込む。
『小癪な奴らだ。柚子を認めぬなど何様のつまりなのだ!』
「あいあい!」
「やー!」
 憤慨する龍に応じるように、子鬼たちも目を釣りあげ怒りを表す。
 それに対し、玲夜も深く頷いた。
「その通りだ。当主である父さんも、俺もが決めたことに不満をぶつけてくるなどもってのほかだ。……ただ、少し気になっているところもある」
 突然難しい顔をする玲夜に柚子はすぐさま反応する。
「なにが?」
「天童たちがどうしてそこまで柚子を認めないかだ。最初は人間だからと思った。自分を守る力のない花嫁は時に一族の弱みにもなるからな。それから単純に桜子比べているのかもしれないとも。鬼龍院の当主となると、それ相応の責務を果たさないといけなくなるからな。一般の家庭で育った柚子には難しいと判断してもおかしくないかと」
「それが理由だと反論できない……」
 桜子の後釜に座ったのが平凡な柚子なら、そう思っても仕方ない。
 正直言うと、柚子が一番おかしいと感じているのだから。
 桜子の代わりなどあと百年経ってもできる自信はない。
「だが、柚子をというより、花嫁だから認めないように感じるんだ」
「花嫁だから?」
 柚子はきょとんとする。
 花嫁は一族を繁栄させるので、喜ばれるのではないか。
 柚子自身の器量が認められないなら納得できるが、花嫁だからというのは理解いかない。
 花嫁の存在はあやかしの力を強くする。
 現に、玲夜は柚子を迎え入れてから霊力が増したと、零しているのを耳にした覚えがある。
 実感はないので、右から左に流していたが、透子の娘の莉子が猫又には珍しいほどの強い霊力を持って生まれてきたように、一族では大歓迎されることがほとんどだ。
 鬼の一族の場合は弱みになる方が危険ではないかと認めない者が一部いたが、それも龍という霊獣の加護をもらったことで黙った。
 いまだに反対しているのが天童を筆頭とした先代当主の側近たちだけである。
「花嫁は弱みになるからってこと?」
 鬼龍院をよく思わない一族に狙われる可能性は常につきまとう。
「子鬼だけでなく龍がついてる。他の一族が柚子になにかできる可能性は低い」
 その言葉に龍がドヤ顔をしている。
「だったらどうして?」
「さあな。天童とはさほど話をしたことがあるわけではないから、なにを考えているのか分からない。とりあえずは、柚子の価値を示したことで反対派が少しは大人しくなるといいんだが……。さすがに天童辺りは、あやかしの本能がないなら離婚をと変わらず訴えかねないのが問題だな」
「そんな……」
 今さら玲夜と離れるなんてできないと、柚子は不安な顔で玲夜の腕を掴んだ。
『ふむふむ。あやかしの本能を感じぬのが問題というわけか。それなら……』
 そんな風に龍が神妙な面持ちでつぶやいているのに、柚子は気づかなかった。