【先行試し読み】鬼の花嫁新婚編4~もう一人の鬼~

二章

 祖父母でのお泊まりを終え、屋敷に帰ってきた柚子を待っていたのは玲夜だ。
 普段ならばまだ仕事の時間だというのに、帰ってくる柚子を迎えるため、早めに仕事を切り上げてきたらしい。
 そのしわ寄せがどこへ行くのか気になるところだ。
 案の定というか、予想通りというか、仕事は桜河に押しつけきたと聞いて、柚子は静かに心の中で合掌した。
 玲夜の表情を見ても悪いと思っている様子はなく、なおさら桜河へ憐れみの気持ちが浮かぶ。
「玲夜、いつか桜河さんがストライキ起こすよ」
「安心しろ。桜河にそんな気概はない」
「気概がなきゃいいという問題じゃないと思うんだけど……」
 もう少し優しくしてあげてもいいと思うのだが、柚子がなにを言っても『大丈夫』、『問題ない』の一点張り。
 鬼山家は代々鬼龍院当主の側近を務めている。
 桜河の父親もまた、玲夜の父親である千夜の右腕として仕えている。
 なので、鬼山家の次の家長となる桜河を信頼しているからこそ、厳しい扱いをするのかもしれないと、いいように受け取ることにした。
 肩に乗った子鬼が柚子の耳のそばで、「違うよ」とか「使いやすいからだよ」とか言っているが、聞かなかったことにする。
 すると、玲夜から紙袋を渡された。
「土産だ」
「わあ、ありがとう」
 柚子は中身を確認して目を丸くする。
 最近テレビなどでも紹介され、すぐに売り切れてしまうために入手困難とされているスイーツが入っており、否が応でも表情がほころんだ。
「どうしたの、これ?」
「桜河が持ってきた。俺への退院祝いらしいが、柚子へ渡した方が喜ぶだろうと言ってな」
「確かに嬉しいけど、なおさら申しわけなくなるんだけど……」
 柚子は複雑な顔になる。
 桜河は高道とは違うところで、なにかと気が利く。
 見た目や話し方は真面目とは言い難いが、その性格は気遣いの塊のように生真面目で、それゆえになにかと玲夜に面倒事を押しつけられている苦労性である。
 スイーツは嬉しいが、桜河にこそ、スイーツのように甘いご褒美が必要な気がした。
「玲夜、ちゃんと桜河さんに休日あげてね」
「最近は労働環境にうるさいからな。ギリギリ法律は守ってる」
「ギリギリなんだ……」
 それでも、ちゃんと守っているなら問題ないだろうといいように取ることにした。
 玲夜ならば無言の圧を与えて、サービス残業を普通にさせていそうだったので、少し安堵する柚子だった。

 そのままふたりは早めの夕食をする。
 向かい合って座る柚子と玲夜。
 柚子の横にはまろとみるくがちょこんと礼儀正しく座り、柚子の卓に乗っている焼き鮭に目が釘付けだ。
 まろが欲しいと催促するように柚子の膝をちょんちょんと優しく前足でタッチする。
「だーめ。猫に塩っけがあるものは厳禁なんだから」
 と、言いながら柚子は、二匹が霊獣であることを思い出す。
 見た目も行動も猫そのものなので忘れがちだが、龍と同じ霊獣であり、普通の生き物ではないのだ。
 そもそも初代鬼の花嫁だったサクとつながりがあるようなので、相当な年月を生きていると予想された。
「えっと……駄目だよね、玲夜?」
 柚子は自分では判断できなくなり玲夜に問うが、玲夜も難しい顔をした。
「さあな。そもそも霊獣は普通の猫ではないだろう。食べ物ぐらいで体調を崩すような弱い生き物ではない。そこらのあやかしより強いんだからな」
「神様も眷属だとか言ってた」
 神の眷属がどういう存在か知識の乏しい柚子には分からなかったが、少なくとも塩をまぶしてある焼き鮭を食べてどうにかなるとは思えない。
 なにせ、龍がまだ一龍斎に囚われていた頃に、あやかし最強と次点の霊力を持つ千夜と玲夜の攻撃を跳ね返すほどの力を見せていた。
 そんな龍と同じ霊獣であると考えると、下手をすると鬼より強い可能性があるのだから。
「うーん」
 柚子は悩みつつ、いまだにちょんちょんと手を差し伸べるまろを見つめた。
 すると、トコトコと子鬼がやって来る。
「大丈夫だってー」
「龍もたくさんご飯食べてるから」
「それもそっか」
 ご飯どころかお酒を瓶でラッパ飲みしているぐらいだ。
 飲酒するよりはまだましと思えるのだから、ずいぶんと人間の常識からかけ離れた生活を暮らしているなと柚子は遠い目になった。
「じゃあ、ちょっとだけね」
「アオーン」
「にゃんにゃん!」
 みるくが自分もと主張するように鳴く。
 まろにあげようと、、少しだけ箸で切り分けて手のひらに乗せた焼き鮭をみるくが横から奪い去った。
 がーんとショックを受けるまろに、柚子は慌ててまろの分を再度手のひらに乗せて与えると、嬉しそうに食らいついている。
「本当に大丈夫かなぁ」
「大丈夫ー」
「普通のにゃんこは駄目だけど、まろとみるくだから問題ないよー」
「子鬼ちゃんたちがそう言うなら……」
 恐らく龍以外で誰よりまろとみるくという存在を知っているのは子鬼だと柚子は思っていた。
 なので、子鬼たちの言葉への信頼は大きい。
「柚子、そんなことをしていたら自分のがなくなるぞ」
 なんとも美味しそうに食べているまろとみるくを見るのに夢中になっていた柚子に、玲夜が呆れたように声をかけてくる。
 はっとした柚子は、三分の二ほどになった焼き鮭を慌てて食べ始めた。
 このままでは二匹に食べ尽くされてしまう。
 一生懸命口を動かす柚子を、玲夜は愛おしげな眼差しで見ていた。
 それは本能をなくす前と変わらぬ優しい目。
 柚子はそんな玲夜の様子に静かに安堵するのだった。
 玲夜は変わっていない。
 本能がなくとも心はつながっているのだと感じられ、柚子には自然と小さな笑みが浮かぶ。
「玲夜はしばらく忙しそう?」
「そうだな。まあ、いつも通りだ」
 それはつまり忙しいと言っているようなものだ。
 大会社のトップに立つ玲夜が暇なはずがない。
 それでも柚子といられる時間を少しでも長く作ろうと努力してくれている。
 それは高道や桜河といった周りの協力もあってこそだ。
 柚子と出会う前は仕事第一の生活だったというのだから、柚子には信じられない。
 柚子の知る玲夜は仕事嫌いで、休めるものなら休みたいと言わんばかりに面倒臭そうな空気を発しているのだから。
 いや、実際に言葉にして仕事に行きたくないと言っていることも多々ある。
 柚子という唯一無二の存在ができたからこそ生まれた気持ち。
 今の玲夜は仕事などより柚子との時間の方が、ずっと大事なのだ。
「柚子も来週から学校か」
「うん!」
 楽しみだと明るく返事をする柚子に対し、玲夜の表情は険しい。
 行かせたくないと言いたいのだろうが必死に我慢しているようだ。
 しかし、口よりも雄弁に語るその眼差しに、柚子も苦笑する。
「一年だけだからね。あ、もう夏休み終わるからあと三分の二ぐらいかな」
 何度口にしたか分からない言葉。
「分かってる……」
 そう言いつつも、納得はしていないという顔だ。
「かくりよ学園ではできなかった友達もできたの。それだけでもあの学校に通えて嬉しい」
 入学してすぐ話しかけてくれて仲良くなった片桐澪。
 そして、最初は険悪な空気でにらまれ続けていたが、のちに仲良くなれた鳴海芽衣。
 芽衣に関しては少々ツンデレなところがあるようで、素直に友達と言うのには恥ずかしそうだ。
 けれど、鬼龍院の花嫁と知ってなお普通に接してくれるふたりに出会えたのは、奇跡のような巡り合わせだったのではないかと柚子は思っている。
 それだけでも、あの学校に通ってよかったと感じる。
「柚子が幸せだと感じるなら、俺はそれでいい」
 やれやれという、どこかあきらめたようにも思える玲夜の笑みに、柚子も笑い返した。
「うん。幸せ!」
 自分ほど恵まれた人間はいないのではないかとすら思うほど、柚子は今の環境に満足していた。

 そして日は経ち、学校が始まる。
 一年で卒業の料理学校は、もう数カ月となっている。
 それまでに可能な限りの知識を身につけなければと、柚子もやる気に満ちあふれていた。
「よし、今日からまた頑張るぞ」
『作ったものは我が食べてしんぜよう』
 カッカッカッと笑う龍のなんと恩着せがましいことか。
 しかし、実習でたくさん料理を作るのは避けようがない。
 食べて味を見るのは当然の流れだが、全部食べていると正直太る。
 柚子も料理学校に通い始めてから少々体重が気になり始めていた。
 そんな話を玲夜にしたところで重く受け止めてくれないと確信できるのは、喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか分からない。
 けれど、このままではヤバいと思っている学生は少なくなく、柚子が味見を終えたものを龍に食べさせているのを見た芽衣が、そっと近づいてきて龍にコソコソと話しかけてから食べさせているのを柚子は見ないふりをしていた。
 いったいこの小さな体のどこに消えていくのか不思議でならないが、学校へ行く際に、龍の存在は必要不可欠となっていた。
 芽衣からも必ず連れてこいという圧がかけられているので仕方ない。
 芽衣からだけでなく、他にも何人からか残り物をもらっているようなので、龍を連れていかないとがっかりする者は結構いそうだ。
 ただ、柚子に対して悪意を持っている、あるいは持っていた者に対しては龍も冷たく、どんなに美味しそうな料理を持ってこられても子鬼とともに追い返しているようだ。
 別に柚子は気にしていないのだが、龍としては柚子に悪意を持った時点で敵認定しているようで、芽衣に対しても少々素っ気ないところがある。
 ただ、柚子が仲よくしたがっているので表向き友好的に接しているだけという感じがしていた。
 コックコートに着替えた柚子が教室へ入り席へ着くと、すぐに芽衣が寄ってくる。
 澪はまだ来ていない。
 澪は芽衣と相性が悪いようで、お互い顔を合わせるとバチバチと見えない火花を散らすので、まだ登校していないのは助かった。
「あのさ、ちょっといい?」
「うん、いいけど?」
「なんていうか、すごく言いづらいんだけど……」
 その顔はどこか気まずそうで、表情が優れない。
「どうかした? まさか、鎌崎がまたなにかーー」
「ち、違う違う! あいつはあれから来てないわ」
 芽衣を花嫁だと言って付きまとっていたかまいたちのあやかしの鎌崎。
 彼は執拗に芽衣を狙い、手に入れるために手段を選ばず嫌がらせを繰り返していたが、穂香によって神器で刺されて以降、花嫁への執着心を本能とともに失い、芽衣への興味をなくしていた。
 芽衣の気の強さが表れた雰囲気が消えていたのでてっきりなにか起きたのかと思った柚子だっが、早とちりだったようでほっとする。
「それならいいけど、なにかあったの?」
「うん……」
 芽衣は視線をさまよわせて、なかなか話し始めない。
 余程のことかと身構える柚子は根気よく待った。
 そして、ようやく芽衣が口を開く。
「鬼龍院さんなんだけどさ、あんた浮気されたりしてない?」
「…………え?」
 たっぷり時間を終えて柚子から出たのは、素っ頓狂な声だった。

「あ、それかよく似た親戚とかいないの? そっちの方が可能性高いかも!」
 はっとして表情をやや明るくする芽衣からは、そうあって欲しいという願望が含まれているように思えた。
「え、なに? どういうこと?」
 目の前で会話をしていて、玲夜が浮気をしていないかという先程の言葉を聞き逃すはずがない。
「玲夜が浮気?」
 その言葉がグルグルと柚子の頭の中を回っていたが、脳が理解することを拒否するように意味が分からない。
『あやつめ、とうとうやりおったか!』
 どこか嬉しそうにしている龍をにらむ柚子は、むぎゅっと両手で掴んで黙らせると、芽衣に先をうながした。
「なにかあったの?」
「あったっていうか、見ちゃったっていうか……」
 芽衣は気まずそうに視線をさまよわせてから、意を決したように話し出す。
「私もちゃんと近くで見たわけじゃないからね! 見間違えだと思うから! 絶対そうだろうし」
 芽衣は力強い声で念を押す。
「うん」
 柚子が頷いたのを見て、真剣な顔で話した。
「昨日なんだけど、夕方頃に町へ出かけてたら鬼龍院さんによく似た人が女の人と歩いてたの」
「女の人と歩くぐらい普通にあるんじゃない?」
 昨日といえば仕事だったはずだと柚子は玲夜のスケジュールを思い浮かべる。
 いつものように高道が迎えに来ていたので間違いないはずだ。
 そうなると仕事関係で女性と町を歩くぐらいしていてもおかしくはない。
 女性とふたりきりだとしても、町を歩いていたぐらいで浮気だと騒ぐほど柚子は狭量ではないつもりだ。
 もちろん、実際に目にしたら多少のやきもちは焼いてしまうかもしれないが、それで怒ったりはしない。
 柚子もこれまでいろんな問題を乗り越えてきて心が強くなったと自覚している。
 それでもまだ芽衣の表情は晴れない。
「そりゃ、ただ歩いてただけなら私もこんなこと言わないけど、そのふたり腕組んで歩いてたのよ。しかも人目をはばからずいちゃついて、そのままホテルに入っていっちゃうんだもん。さすがに部屋まで追いかけられなかったけど……」
「うん、それは追いかけちゃ駄目だって」
「分かってるわよ。あんたと違ってそこまで考えなしじゃないわ!」
「私と違ってって……」
 玲夜の浮気疑惑より、地味にそっちの方が傷つく柚子である。
 しかし、覚えはありあまるほどあるので否定ができないのが悲しい。
 この時ばかりは子鬼たちも龍も芽衣に味方し、激しく同意するように頷いていた。
「それって本当に玲夜だった?」
「あんな美形そうそういてたまるかっての! 長身でスタイルもよくて、目だって赤くて、黒髪で……でも、髪が少し長かったような……? いや、そんなのウィッグでなんとかなるか。だけど、ちょっと鬼龍院さんより年齢高そうだったような気がしなくも……」
 最初こそ自信満々だった芽衣も、だんだんと確信を持てなくなってきたようで言葉に迷いが出てくる。
「あー、でもそうよね。かなり親密な様子だったから浮気を疑ったんだけど、よく考えると花嫁のいるあやかしが裏切って浮気なんてするはずなかったわ。少し冷静になれば気がついたのに」
 芽衣はそう反省しながら頭を押さえている。
「心配して損したー。きっと親戚かなにかよね。世の中には三人同じ顔の人がいるって言うし。まあ、あんな顔が三人もいたら大騒ぎでしょうけど」
 肩の荷が落ちたように安堵を浮かべる芽衣は、玲夜の浮気疑惑をあっさりと撤回した。
 だが、柚子は微妙な顔をした。
 それは、玲夜がもうあやかしの本能がないと知っているからである。
 玲夜はなにひとつ柚子に囚われていないのだ。
 芽衣はそれを知らないからこその発言で、あやかしの本能を身をもって知っている芽衣だからこそ導き出した結論だった。
「一応写真撮っておいたんだけど無駄になったわね。最悪離婚訴訟になった時の証拠になるかと思ったんだけど」
「写真があるの?」
「見る?」
「うん」
 柚子は迷わず返事をした。
 どれほど似ているのかという興味が心を占める。
 まさか玲夜が……などという気持ちはほとんどなく、玲夜が浮気をしているなど、柚子は微塵も思っていなかった。
 だがしかし、芽衣から見せられた画像に写っていた人物はどこからどう見ても玲夜で、子鬼も驚いて目をまん丸にしている。
「あいー」
「あい」
「玲夜?」
「うん、玲夜」
 呆気にとられる子鬼の隣で、龍が怒り出す。
『あやつめ、やっぱり浮気しておるではないかぁぁ!』
 体をくねらせながら憤慨する龍の動きの激しさに、龍を掴んでいた柚子は手を離してしまう。
 ぼちゃっと机の上に落ちた龍は『ぎゃんっ』と変な声を出した。
 一瞬気が削がれたようだが、顔を上げて画像が映っているスマホの画面に近付く。
「なんかSNSでも少しざわついてたのよね。鬼の次期当主ってだけじゃなく、政治経済にも影響のある大会社の社長の上、あの容姿の鬼龍院さんはメディアにはほぼ出ないけど、知ってる人は知ってるし。そんな人が女といちゃいちゃしながら町中を歩いてたらそりゃあねえ」
 芽衣は柚子を気にしながらもさらにみずからが調べた情報を伝えた。
「どうやら私が見た日だけじゃなくて、SNSで探してみると最近いろんなところで出没してるらしくて、そのたびに違う女性連れてるって話で……」
 芽衣は他の人が隠し撮りしたと思われるSNSの投稿写真を見せた。
 それはひとつだけではなく、別々の日にそれぞれ違う女性を連れていた。
『うぬぬぬぬ!』
 親の仇を見るような眼差しで、まるで恋人同士のように親しげに腕を組む女性に寄り添う玲夜に怒りを静かに溜め込んでいる。
『これはもうあの方にチクって鬼龍院ごと木端微塵に吹き飛ばしてくれようぞ!』
「馬鹿なこと言わないの」
 べしんと、まろが猫パンチをするように龍の頭を軽くはたくと、蛙が潰れたような姿で机に倒れる。
 しかし、すぐに起き上がり、恨めしげな目を柚子へと向けた。
『なにをするのだ、柚子ぅぅ。浮気をされたのだぞ。どうしてそんなに冷静なのだ!? もっと怒ってよいのだぞ! 我が必ず仇を取ってやる。童子たちも手伝うであろう?』
「あーい!」
「やー!」
 龍に感化されてやる気をみなぎらせている子鬼たちは、玲夜に向けてか見えない敵に対するようにシュシュっとパンチを打っている。
 元の主人にそんな態度で大丈夫なのかと心配になってくる子鬼の行動だ。
 しかし、玲夜は特に気にしなさそうではある。
 まさに『柚子を守る会』を発足しようとしている龍と子鬼たちを困ったような顔で見る柚子は、再度画面へと目を向けた。
 そして、柚子は確信を持つと同時に、玲夜の浮気と聞いてもまったく揺れなかった自分の心に成長を感じる。
 いや、小指の先程度には心がざわついてしまったものの、それだけだ。
 昔の柚子だったならこれほど平静ではいられなかっただろう。
 そう考えると、玲夜との深いつながりを感じて柚子も嬉しくなる。
「これは玲夜じゃない」
 柚子の一ミリの揺らぎもない確信を持った力の入った言葉に、うにょにょと怒り心頭状態だった龍がぴたりと止まる。
『あやつではない?』
「うん、絶対違う」
 柚子はまたもや断言する。
 それは龍もが驚くほど自信を持った声で、今さっきまでの龍の怒りをどこかに吹き飛ばしてしまうほどだ。
 画面にいる人物は確かに玲夜にそっくりだったが、毎日そばにいる柚子にはそれが玲夜でないのは一目瞭然だった。
『どうしてそんなことが言えるのだ? 柚子がそう思いたくないだけではないのか?』
 どこかふてくされたような龍に、柚子もあきれ顔だ。
 龍はどうしても玲夜を浮気男にしたいらしい。
「逆にどうして見分けがつかないの? 玲夜と全然違うじゃない」
「んー?」
「あいー?」
 子鬼はもう一度じっくりと画面を見て首をかしげている。
 言われてみればそんな気もしなくもないかも……。という表情だ。
 けれど、柚子のように断言できるほどではない様子。
「まったく、子鬼ちゃんたら。玲夜が聞いたら泣いちゃうよ」
「あいあい」
「あいー」
 玲夜が泣くなんてありえないと、そこに関しては断言するように顔を横に振った。
「玲夜は子鬼ちゃんたちからどう思われてるんだろ……」
 玲夜に懐いてはいるが、決して善人だとは思われていない気がしてならない。
 とはいえ、柚子も玲夜がそう簡単に泣く姿は想像できないので、それ以上のツッコミを入れたりはしなかった。
 ただ、少なくとも玲夜の浮気疑惑は間違いであると知れたことは素直に安堵した。
 龍はまだ疑惑の目つきだが、柚子が玲夜を信じているのだから問題はない。
 きっと玲夜もそうだろう。
 しかし、これほど玲夜に似ている人物はとても他人とは思えなかった。
 芽衣が親戚かと聞いてくるのも頷ける。
「鬼の一族にこんな人いたかな?」
 これほど玲夜に似た鬼がいたなら、自分がまったく知らないはずはないだろうと、柚子は思った。
 これほどの美しい容姿を持っていたら、噂ぐらいは聞いていてもおかしくない。
 柚子と玲夜の結婚式には参加していない鬼の一族も一部存在する。
 高道の祖父である天道を筆頭にした先代当主の側近たちだ。
 欠席したのは比較的年配に偏っていた。
 とはいっても、あやかしは人間に比べると見た目で年齢が分かりづらい。
 なにせ、玲夜の親にもかかわらず、息子より若く見える千夜と沙良という例がいるのだから。
 撫子とてそれは同じ。玲夜と同年代の息子がいるような年齢にはまったく見えないのだから、見た目で年齢を計ろうとするのは無謀である。
 考えを巡らせている時、ふと柚子の頭をあることがよぎりはっとした。
 神器を穂香に渡したという玲夜に似た人だ。
 確かに画像の人物は玲夜に似ている。
「まさか……」
 そう思いつつも、柚子ひとりで判断できる問題ではなかった。
「芽衣、その画像、私の携帯に送ってくれる?」
「いいわよ」
 芽衣は柚子が否定したことで、先程まで浮かべていた不安そうな表情も消えていた。
 携帯を操作して柚子の携帯に画像が届くと、それを玲夜の携帯に転送する。
 すぐに既読がついて、柚子は少々複雑だ。
 あいかわらず、柚子の送るメッセージとなると反応が早い。
 ちゃんと仕事に集中しているのだろうかと心配になる早さだ。
 そして、すぐに電話がかかってきた。
「もしもし、玲夜?」
『どうしたんだ、突然こんな画像を送って来て』
 柚子は芽衣が見た玲夜に似た人物の話と、SNSで調べた話とを伝えた。
『その件か』
 玲夜は特に驚いた様子はなかった。
「玲夜は知ってたの?」
『知っていたというか、軽く報告を受けた程度だな。高道がなにか言っていた気がするが、俺が浮気するはずがないとちゃんと分っているから大した問題にはなっていない。まさか柚子は疑ったりしていないだろうな?』
 わずかに声が低くなった気がして柚子はひやりとする。
 とばっちりを受けかねないと、慌てて否定した。
「してないよ! 画像見たらそれが玲夜じゃないことはすぐに分かったもの」
『それならいい』
 途端に声が優しくなって柚子はほっと息をつく。
 ここで疑いましたなどといった、お叱りコースに間違いなく突入してしまう。
 柚子はなにひとつ疑わなかったのだから、胸を張って否定しておく。
「ほんとに玲夜を疑ったりしてないからね。子鬼ちゃんたちは疑ってたけど……」
「あいっ!」
「あい!?」
 ついポロリと零してしまった言葉に、柚子に裏切られた子鬼ふたりが焦った顔をする。
 けれど事実なのだから仕方ない。
「あと、龍も」
『帰ったら尻尾に煮干しをくくりつけて猫たちの前に放り込んでやろう』
 まろとみるくが恐ろしい眼光で龍を追いかけ回すのが目に浮かぶようだ。
「だって」
 柚子が龍に目を向けると、激しく机が揺れるほど体を震わせて動揺している。
『なんだと! 貴様鬼か!』
「いや、鬼でしょう」
 即座にツッコんだ柚子。それにかんしては誰も否定しようがない。
『ぐおぉぉぉ』
 体をうにょうにょさせて悶える龍を放置して、柚子は玲夜との話を再開させる。
「穂香様が言ってた、神器を渡した玲夜に似た人の話覚えてる?」
『ああ』
 玲夜も声色を真剣なものへと変えた。
「関係あったりする?」
『その件は今高道が調査中だ。本当は少し前から桜河の秘書が町中で見ていたらしいんだが、桜河が高道に報告し忘れていたようで、数日前に知ったところだ』
 若干桜河の名前を呼ぶ時に険がある気がして、柚子は桜河の身が心配になった。
 玲夜の表情は直接見えないというのに、なんとなく想像ができるところが玲夜と共有した時間を感じさせる。
 恐らく魔王が降臨しかかっているに違いない。
「SNSにもいくつか画像が投稿されているから、穂香様に直接確認してもらうのがいいと思うんだけど協力してくれるかな?」
『父さんと母さんに話を通しておく。まあ、基本的にあの女に関しては母さんの管理下にいるから、母さんがなんとかしてくれるはずだ。せっかく置いてやっているんだから、情報提供ぐらい役に立ってもらわないとな』
 穂香のことを話す声が低くなっている。
 神器で刺されたのだから、玲夜が穂香にいい印象を持っていないのは仕方ない。
 夫にも玲夜にも神器を突き立てあやかしの本能を奪った穂香は、今沙良の下で働いている。
 穂香への罰という名目ではあるが、撫子とともに花茶会の主催者をしている沙良は、穂香の犯した行いにわずかながら罪悪感を抱いている様子だった。
 そこまで追いつめられるほど助けてあげられなかったと。
 もちろん悪いのは穂香であり、沙良はむしろ最大限の手を尽くして花茶会という花嫁の逃げ場を作ってあげていた功労者だ。
 それでも放っておけず、あやかしの本能を失くして離婚となり、行き場のなくなった穂香を受け入れた。
 ずっと花嫁として働くこともなく生きてきた穂香には大変な毎日だろうが、文句も言わず与えられた仕事に従事しているらしい。
 そんな穂香に心を配る沙良の言葉なら穂香も素直に協力してくれるはずだと柚子も思った。
「そっか。じゃあ、私がなにかすると逆に邪魔しちゃいそうだから大人しくしてるね」
『今回に限らず、今後も頼むから大人してくれ』
 その玲夜の声には切実さが込められていて、柚子はクスクスと笑った。




 玲夜との電話を切った柚子は芽衣に目を向ける。
「やっぱり玲夜じゃないみたい。心配してくれてありがとう、芽衣」
「別に心配なんてしてないわよっ」
 一見すると怒っているようにも見えるが、芽衣がただ恥ずかしさを隠すために口調が強くなってしまっているだけだと、仲よくなって知ることができた。
 いわゆるツンデレというやつで、これまで柚子の周りにはいなかったタイプの子だからか、柚子も新鮮な気持ちである。
 芽衣からしたら不本意この上ないのだろうが、柚子にはその様子が微笑ましくてならなかった。
 そんなニコニコとしている柚子の様子が恥ずかしいのか気に食わないのか、顔をわずかに赤くしながら文句を言うように口を開く。
「あやかしが花嫁を捨てるなんてありえないし、心配なんてしてないから!」
 途端に柚子は切なげに視線を落とす。
 それまで不機嫌そうな芽衣もこれにはすぐに気がついた。
「なんかあったの?」
「……うん」
 柚子は一瞬言うべきか迷ったが、よくよく考えると芽衣も関係のない人間ではなかった。
「ここだけの話にしてね。あれだけ執着していた鎌崎が突然花嫁じゃなかったって、態度を急変してきたことあったでしょう?」
「ええ、そうね」
 不快そうに芽衣の眉間にしわが寄った。
 思い出すだけでも怒りが込み上げてきているのが、その表情で伝わってくる。
「そのくせ突然間違いだったなんて言って、さんざん振り回してくれたわよね。なにがしたかったんだか」
 柚子は苦笑する。
「実はその理由が分かったのよ。詳細は話せないんだけど、あやかしの本能を絶って花嫁と認識できなくする方法があったの」
「そうなの!?」
 気持ちいいほどの反応を見せる芽衣に、柚子は頷く。
「どうやら鎌崎はその方法によって芽衣を花嫁と認識しなくなったから、芽衣への興味を失ったみたい。だから、今後鎌崎が、芽衣に花嫁になるよう要求するために近づいてくることはないと思うから安心して」
「そうなんだ」
 ほっと安堵の表情を浮かべる芽衣の様子を見るに、いまだどこかでまた鎌崎が接触してくるのではと不安だったのではないか。
 早く教えてあげればよかっただろうかと、柚子は申し訳なく感じる。
 しかし、一部の者しか知らない神器の存在を芽衣に教えるのはやめておいた方がいいと判断した。
 あやかしとは関わりのない世界で生きることを選んだ芽衣には必要のない情報だと柚子は思ったのだ。
「ざっくりした説明になっちゃってごめんね。でも、聞かない方がいいでしょう?」
「そうね。もう鎌崎が近づいてこないなら、その方法がどうだろうと関係ないし、下手に首を突っ込むつもりもないわ。あやかしの世界の話に巻き込まれたくないし」
 どストレートな言葉に、柚子も苦笑いを浮かべる。
 飾るつもりは皆無のようだ。
 それだけ鎌崎には苦労させられてきたということなのだろう。
 いや、苦労という言葉で済ませられないほど苦しめられたのだ。
 関わりたくないという気持ちが先に来る芽衣の気持ちを、柚子は尊重する。
「またあいつが気まぐれを起こして会いにこないか両親も警戒してたから、それを聞けただけで安心できるから十分よ」
「その時は対処するから、また私に相談して。……といっても、それをするのは玲夜なんだけどね」
 柚子は己の無力さに情けなくなり、眉尻を下げる。
 玲夜の庇護がなければなにもできないと言っているようなものだ。
 玲夜という虎の威を借る柚子が、得意げになって助けると口にしていいものではない。
 けれど、そんな他力本願であっても芽衣の力になりたいと柚子が思うのは、芽衣自身が柚子のバックについている鬼龍院の力を利用しようとしてこないからだろう。
 かくりよ学園に通っていた頃は、ずいぶんと欲の孕んだ目で見られていたので、柚子もうんざりしているところがあったのかもしれない。
 それは柚子の力ではないというのに、ずいぶんと傲慢である。
 柚子は驕り高ぶった自分の心を律するように、ペチペチと軽く自身の頬を叩いた。

 少し雑談していると、そこに澪がようやく登校してきた。
 いつもは時間に余裕を持って動いている澪には珍しく、遅刻ギリギリの登校だ。
「おはよう、柚子」
「おはよう。今日は遅かったね」
「うん、まあ……」
 すると、澪と芽衣の視線が交差する。
 その瞬間、見えぬ火花が散った。
 芽衣も途端に目付きが鋭くなり、澪も険しい顔をした。
「なに? また柚子に因縁つけてるの?」
「目が悪いの? こんなに仲良く話してるのに、それが分からないなんて眼鏡した方がいいんじゃない?」
 作り笑顔で応酬するふたり。
 やはり当初の印象が悪すぎるのが今も糸を引いていて、顔を合わせるたびに険悪な空気へとなってしまう。
「あの、落ち着いて、ふたりとも……」
 困りきった顔で柚子が間に立つ。
「そ、それより、澪は寝坊でもしたの?」
 どうにか話を変えようと柚子も必死である。
「あー、まあ、そんなとこ」
 曖昧な澪の返事はあまり深く追求してほしくないという思いが透けて見えた。
 そんな中に割り込む芽衣の声。
「夏休み明け初日に寝坊だなんて、たるんでる証拠じゃない? 一年しかないのに卒業する気あるの?」
「はあ!? 私に言ってるの?」
「他に誰がいるっていうの? あぁ、もしかしてそういうの見える人? それなら仕方ないわね」
「あんた、喧嘩売ってるわけ!?」
 芽衣の嫌みを聞いて、今にも飛びかかっていきそうな澪に、柚子もヒヤヒヤする。
 柚子が間に入って試行錯誤場を和ませようと努力はするのだが、その努力がこれまで実ったことはない。
 龍からも『あれはもう修正不可だな』と言われる始末。
 どうにか空気の悪さが和らげばいいのだが、悪化することはあれど、よくなる様子は今のところない。
 柚子は澪の気持ちも分からないでもないのだ。
 当初の芽衣の態度はかなりひどく、あれだけ突っかかってきておいて、何事もなかったかのように柚子と仲良くおしゃべりをしている。
 柚子の間に入って守ろうとしてくれていた澪だからこそ、気に食わないのだろう。
 柚子から見た澪はとても正義感が強いように思うから。
 なにせ、学校でぼっちの柚子に話しかけてくれた人である。
 芽衣からの嫌みからも庇ってくれた。
 しかし、芽衣も鎌崎の一件などの問題を抱えていて、心に余裕がなかったのだ。
 柚子は花嫁に選ばれた者の苦悩を多少なりとも分かっていたので、芽衣への怒りはほとんどない。
 そんな理由があったのかと納得しただけである。
 けれど、事情を知らない澪に分かるはずもなく……。
「あれだけ柚子に突っかかっておきながら仲良くだなんてよく言えるわね。面の皮が厚いこと」
「そんな大昔のことまだ言ってるの? 情報は常に更新しておかないと、世間から取り残されるわよ」
「ついこの間のことじゃない! 半年も経ってないわよ!」
 どう間に割って入ったものかと柚子がオロオロしていると、ちょうど講師が入ってきた。
 それにより、口喧嘩は強制終了となり、柚子はほっと息をついた。
 けれど、また口喧嘩は繰り返されるだろうと考えると、柚子は困り果てた。
 柚子の他にも間に入ってくれる人がいるといいのだが、相変わらず柚子は芽衣と澪以外の生徒から遠巻きにされている。
 それどころか陰口は増える一方。
 特になにかしたわけでもないので理不尽を感じてしまうが、陰口を言うような人たちになにを言っても響かないだろう。
 無視をするのが一番だという結論にいたる。
 どうせ、残り一年と経たず顔を合わせることもなくなってしまう他人だ。
 芽衣と澪とはこれから先も付き合っていきたいと思っている。
「透子にも会わせたいなぁ」
 芽衣の方はどんな化学反応が起こるか不明だが、きっと透子と澪は相性抜群だと柚子は感じている。
 姉御気質な性格がよく似ているので、話が弾みそうである。
 けれど今は少しでも知識をつけようと、勉強に勤しむ柚子だった。
三章

 学校の授業が始まってから最初の週末。
 柚子は玲夜とパーティーに出席することになった。
 今回はかなり規模の大きなパーティーのようで、たくさんのあやかしが集まってくるようだ。
 柚子はそんな玲夜のパートナーとして付き添う。
 これまでパーティーはいくつも参加してきて、ようやく上流階級の人たちのいる華麗なる雰囲気にも慣れてきてはいるが、だからといってまったく気後れしないわけではない。
 むしろ、玲夜と正式に夫婦となってからは、より一層柚子へ向けられる視線は強くなっている。
 鬼龍院の次期当主の伴侶として相応しいのかと見定めるような視線が、四方から集まるのだ。
 決して気が強いとは言い切れない柚子が、桜子のように堂々と振舞えるはずもなく……。
 しかし、玲夜に恥をかかせるわけにはいかないと、かくりよ学園で散々勉強したマナーを思い出すが、頭を駆け巡ってまとまってくれない。
 それでもパニック状態になっているのを悟らせないように、笑みを浮かべて話しかけてくる人たちに対応していた。
 玲夜のフォローもあってそれなりに熟せていたが、笑顔も作り続けるていると疲れはやってくる。
 途切れない人の波に、もう勘弁してくれと思っていると……。
「柚子、あちらで少し休もう」
 まるで柚子の心を読んだようなタイミングで、玲夜は柚子を食事のあるスペースに連れ出す。
 他にもまだ玲夜と話をしたそうな人はたくさんいたが、それがどうしたと言わんばかりに玲夜は周囲を視界から追いやった。
「玲夜、いいの?」
「俺がなにより優先するのは柚子だ。柚子以上に大事なものはない。それにどうせ媚びるためだけの上っ面の会話だ。さして重要じゃないしな」
 などと、表情を変えることなく傲慢にも思える言葉を口にして、柚子はぎょっとする。
 玲夜らしいといえばらしいが、あまりにも周りを気にしなさすぎて柚子は周囲の人たちの顔色をうかがう。
 今の玲夜の言葉が聞こえた者がちらほらいるようだ。
 なんとも気まずそうに、そっと離れていく者が見えた。
 もっとも強い一族とされる鬼ほどではないが、あやかしは総じて五感が優れている。
 今回貸切られている会場はとても広く、参加者もかなりの人数がいる。
 そのためかなり騒がしくて人間では到底聞き取れそうにない声量でも、ある程度近い距離にいたら、あやかしには聞こえていてもおかしくないのだ。
 それが分からない玲夜ではない。
 今回のパーティーはほとんどがあやかしだというのは、目がくらむほどの整った容姿の人たちを見ればなんとなく分かる。
 そんなあやかしたちに玲夜はあえて口にして牽制したのだろう。
 中には人間もいたが、近くにいた者には聞こえていたはずだ。
「高道と桜子もいるから問題ない」
「う、うん」
 玲夜が目を向けると高道と桜子の視線が交差する。
 それだけの仕草で心得たというように頷いたふたりは、代わりとでもいうように、玲夜と話したそうにしていた人たちに声をかけていった。
 その流れときたらなんともスムーズで、慣れているのが嫌でも分かる。
 いまだ社交をきちんと果たせない自分を思い知らされたようで落ち込む柚子からは、自然とため息が漏れる。
「気にするな。少しずつ慣れていけばいいんだ」
「でも、桜子さんは立派にこなしてるのに……」
 どう逆立ちしても桜子には遠く及ばないと、己の不甲斐なさを感じる柚子。
「桜子は幼少期より俺の婚約者候補として教育を受けてきたんだ。それに筆頭分家の娘でもあるしな。そもそものスタートからして違うのだから、今の柚子が桜子と同じことができなくても俺も父さんも母さんもなんとも思わない」
「うん……」
 それはつまり、それ以外の者の中には柚子と桜子とを比べる者がいると言っているようなものでもあった。
 それはかくりよ学園にいた時から何度となく陰口されていた内容なので今さらではある。
 もちろん目の前で悪口を言う勇者はいないが、きっと今も柚子が聞こえていないだけで、その時と同じように柚子をけなしている人が一定数いるのだろう。
 ただ、柚子自身も同じことを思っているので非難できないのがなんとも情けない。
 やはり自分に社交は不得手だと、パーティーへの苦手意識が募っていく。

 立食式のパーティーだが、ちゃんと食事スペースの近くにはテーブルと椅子も用意されていた。
「飲み物と軽食を持ってくる。そこで座ってじっとしているんだぞ」
「子供じゃないんだから……」
 親が小さな子に言い聞かせるような口調にあきれる柚子だが、玲夜の心配性は今に始まったことではない。
「お前たち、柚子を頼んだぞ。おかしな輩がやって来たら遠慮なく排除しろ」
 念を押していく玲夜に、柚子の肩に乗る子鬼は大きく手を振る。
「柚子守るー」
「龍もいるから大丈夫ー」
『ぬほほほほ! 任せておけ』
 うねうねと得意げに踊る龍は、柚子の腕にクルンと巻きついた。
 いつもの龍の定位置なので柚子も違和感なく受け入れている。
 龍の表面は見た目以上にツルツルスベスベで肌触りがいいのだが、きっと爬虫類が苦手な人ならば悲鳴をあげているかもしれない。
 そんなことを言おうものなら、爬虫類と一緒にされたと龍は憤慨しそうである。
「柚子~」
 名前を呼ばれそちらに目を向けると、柚子の顔がほころんだ。
「皆も来てたの?」
 最初に名前を呼んだのは透子。
 彼女の隣には東吉がおり、その一歩後ろには蛇塚柊斗と婚約者の白雪杏那がいる。
 透子以外は全員あやかし。
 あやかしは人間と比べると容姿が整っている者が多いので、その三人が並んでいるだけでもずいぶんと華やかだ。
 大きなパーティーということもあって、いつも以上に正装しているから余計にそう思うのかもしれない。
 あやかしではなく、柚子と同じ花嫁の透子も目一杯着飾っていて、気合いの入りようが分かる。
「透子、そのドレスかわいい」
「なに言ってるのよ、柚子もかわいいじゃない。まあ、かわいいより綺麗系ね。すごく似合ってる」
「ありがとう」
 はにかむ柚子はドレスが褒められたのがかなり嬉しかった。
 今回はいつもより大きなパーティーということで、レースを使った大人っぽさのある紺色のドレスをオーダーメイドしていた。
 実は玲夜のスーツにも同じ生地を使っており、おそろいとなっている。
 大学を卒業し既婚者となって、これからはかわいらしさより大人な女性を目指そうと、エレガントさ重視でデザインしてもらったものだ。
 玲夜とおそろいということもあり、かなり気に入っていた。
「杏那ちゃんは……」
 柚子は透子から視線を移し、杏那の姿をじっくりと見て言葉を止める。
 決して褒められないからではなく、その逆だ。
「うん。天使だね」
「あ、柚子もそう思った?」
「もしくは雪の妖精とか? 雪女だけに」
「ほんとそれ!」
 柚子と透子は真面目な顔で褒め称える。
 クリーム色のドレスを着ていた杏那は、社交辞令でなく本気で妖精と見まごうほどの可憐さで蛇塚の隣に立っている。
 蛇塚の体格がいいせいか、余計に杏那の儚げな美しさが際立っているようだ。
「聞いてよ、柚子。とうとうこのふたり同棲始めちゃったのよ」
「え、そうなの!?」
 蛇塚が杏那にプロ―ポーズしたのは友人間では周知の事実だが、同棲の話は初耳だった。
「ちち違います! 同棲といっても柊斗さんのご両親だっていらっしゃるんですから」
 うろたえる姿も愛らしい杏那から、わずかに冷気が漏れている。
 だが、それなりに付き合いのある柚子たちからしたら誤差の範囲であった。
「それに、毎日お泊りしてるわけではないので同棲とはまた違いますよ! 柊斗さんはお仕事で忙しくていらっしゃらなかったりするので、柊斗さんのお母様とお話したりしていることの方が多いですし」
「あー、つまり花嫁修業ってわけね〜。杏那ちゃんなら蛇塚君のいいお嫁さんになるわよ絶対。案外私みたいにできちゃった婚しちゃうんじゃない?」
 杏那の反応が楽しくてならない透子は、含み笑いをしながら茶化す。
 それに焦ったのは、たびたび杏那の被害を受ける柚子と東吉である。
 子鬼たちもアワアワしながら「あいあい!」と、透子に必死で訴えかけているが、気がつかない。
「ちょ、透子! それ以上はマズいって!」
「馬鹿! やめろ、透子!」
 しかし、止めるのが一歩遅かった。
「そそそそんな、でき、でき……。きゃあぁぁ!」
 杏那が恥ずかしそうに顔を手で覆い悲鳴をあげた瞬間、杏那からどっと冷気が噴き出した。
「ほらみろ! 馬鹿透子!」
「ごめぇぇん!」
 東吉に叱られ謝る透子は、ようやく己の失敗を悟る。
 夏だというのにダウンコートが必要になるような冷気に、しばし柚子たちのいる周辺がざわつき人が離れていったが、蛇塚の奮闘により杏那はようやく落ち着きを取り戻した。
「すみません! すみません!」
 平謝りの杏那は、しゅんと落ち込む。
「気にするな。どう考えても今のは透子が悪い」
「面目ない。調子に乗りました……。ふたりの仲が進展したのが嬉しくて」
 透子もまた杏那に負けないほど肩を落としている。
 けれど、さすが透子というか、反省したのはほんの少しの間だけで、復活は早かった。
「ていうかさ、そんなんでよくお泊りできるわね? どうしてるの? 夏場はなんとかなりそうだけど、冬場は皆凍死しちゃうわよ」
 蛇塚と同じ屋根の下で寝食をともにするなど、蛇塚ラブの杏那が耐えられると思えないのは、透子だけでなく柚子も同じだ。
「夏場でも暖房が必要になりそう……」
 想像しただけでこれでは、結婚したらどうなるのか、考えるだけで恐ろしい。
 蛇塚の家族はもちろん、蛇塚家で働く人たちの身も心配である。
 しかし、蛇塚自身はさすが動じた様子はなく、表情も変えない。
「うん、ほぼ毎回興奮して極寒の地に変えるから、帰宅してすぐに気温で杏那がいるか分かるから便利だよ」
 などと、なんとものんびりとした言葉が返ってきた。
「便利で済ませる蛇塚君って、かなり懐大きいと思うのは私だけ?」
「大丈夫よ、柚子。たぶん百人中百人が柚子と同じこと思うから」
 透子の言葉に子鬼もうんうんと頷く。
「蛇塚君のご両親とは仲いいの?」
「いびられたりしてない?」
 またもやひと言多い透子に、東吉はこれ以上しゃべらせまいとするように後ろから口を押える。
「お前もう黙っとけ」
「むがむが……っ」
 透子がなにやら不満を訴えているが、それは言葉になってはいない。
 その様子をあきれた目で見る柚子は、透子を放置して杏那の話に戻った。
「大丈夫です。柊斗さんのご両親も屋敷で働く方々も、とてもよくしてくれていますから」
 はにかむ杏那は幸せそうに笑う。
 こちらにまで幸せのおすそ分けをもらうような微笑ましさに、柚子もほっこりする。
「そうなんだ。よかったね」
「はい」
 なんともほっこりした空気が流れる。
 すると、杏那が小さく「あっ」と声をあげた。
 柚子の背後を気にする杏那。
 柚子は振り返るが、そこにはたくさんの客がおのおの会話に興じているので、杏那がなにを気になったかは分からない。
「どうかした?」
 柚子が不思議そうに問う。
「あそこで私の両親と柊斗さんのご両親がお話しているのが見えて」
 しかし、ふたりの両親に会ったことがない柚子は、人が多すぎて誰なのか判別ができない。
「杏那、挨拶に行こう」
 そう蛇塚が杏那の手を引く。
 手を握っただけだというのに、冷凍庫を開けた時のようなわずかな冷気が足下を撫で、ぞくりとした。
「じゃあ、また後で」
「おう」
 気にした様子はなく離れようとする蛇塚に、東吉は軽く手を挙げて挨拶をした。
 そうして、人混みの中に消えていったふたりの背を見送ってから、柚子と透子と東吉の会議が始まる。
 最初に口を開いたのは透子だ。
「ねえ、あの状態で結婚式なんかして大丈夫だと思う?」
「たぶん無理そうかも……」
 お世辞にも大丈夫とは言えない柚子は苦笑いを浮かべる。
「蛇塚君には念押して対策練るように言っとかないとね」
「蛇塚家は結婚式場とかも経営してるらしくて、宣伝も兼ねて洋風の結婚式をするみたいよ。だから、チャペルでの誓いのキスは鬼門だわ」
「キスする前にチャペルごと凍らせかねねぇぞ」
 柚子、透子、東吉と、言いたい放題だが、それが想像できてしまうので怖いのだ。
「結婚式で集団凍死なんて、しゃれにならないね……」
「にゃん吉、全員分の毛布は絶対準備するように蛇塚君に言っときなさいよ。後、結婚するなら夏場よ」
「それはいいけど、毛布で足りるかぁ?」
 毛布以外の対策を講じるよう蛇塚にはきちんと言っておかなければならないようだと、三人の意見は一致した。
 そして、透子からは柚子の知らない情報がもたらされる。
「まあ、万が一結婚式をめちゃくちゃにして続行不可にしても、杏那ちゃんは蛇塚家では大事にされてるみたいだから問題ないでしょうねぇ。特に蛇塚君の母親にめちゃくちゃかわいがられてるんだって」
「そうなの?」
 最近は自分や玲夜のことで手いっぱいだった柚子は、少々蛇塚と杏那の話題に遅れていた。
 神に連れ去られたり神器を探す必要があったりと、いくつもの問題を抱えていたので仕方ない部分はある。
「まあ、なにせ元花嫁があれだったから」
 そう口にする透子の苦々しい表情といったらない。
 それを見た柚子も同じような顔になってしまう。
「梓ちゃんね……」
「あの女は家の援助してもらってるにもかかわらず、蛇塚君を毛嫌いして散々当たり散らしてたからね。蛇塚君の両親からも家人からも恨み買ってたみたいだし。そんな後に、あんな蛇塚君ラブを隠そうともしない健気な杏那ちゃんが現れたら、そりゃあご両親も家の人たちも大歓迎するわよね。親としたら我が子を大事に思ってくれる人の方がいいに決まってるもの」
 透子の言葉には莉子という娘を持った親だからこその、強い共感が含まれていた。
「あの女ときたら、まったく蛇塚家に馴染もうとしなかったみたいだからな。花嫁だから我慢してただけで、追い出したかった奴は結構いたみたいだぞ。そんな女と杏那を比べるのはかわいそうってもんだ」
 もちろん東吉がかわいそうと思っているのは杏那の方である。
 透子といい、東吉といい、梓への当たりが強い。
 あの一件から何年も経っているのに、まだ怒りは収まっていないように思う。
 柚子を含め蛇塚側に立ってものを見てしまうので、評価が厳しくなるのは仕方ないのだろうが。
「梓ちゃん、今どうしてるんだろ……」
「正直あんな恩知らずどうでもいいんだけど、蛇塚君にとってはそういうわけにもいかないんでしょうね?」
 遠子はチラッと東吉を見る。
 視線を感じた東吉は、せっかく正装に合わせて綺麗に整えられた髪を手で掻く。
 わずかに乱れた髪型は、東吉の複雑な心を表しているかのようだ。
「まあなぁ。一度出会った花嫁を忘れるなんてできると思えないし、杏那と結婚しても、この先ずっと花嫁への喪失感を持って生きていくしかないんだろうな」
 人間の柚子や透子には決して分からない感覚。
 けれど、東吉の表情を見ていれば、それがどれだけ辛いものなのか、わずかばかり感じることができた。
 それに、辛いのは蛇塚だけではない。
 そんな蛇塚を愛し、これから先をともに生きていく杏那もまた辛いはず。
 愛する人の心の中に別の女性がいるのだ。
 結婚したとしても決して己が一番になることはない悲しみ。
「杏那ちゃんは強いね」
 蛇塚の中から梓が消えないことを理解していながら、蛇塚を選んだ。
 すべてを受け入れる覚悟を持って隣に立っている。
 そこに杏那の深い愛情が見えるようだった。
「……なあ、柚子。例の神器って蛇塚に貸してやれねぇか?」
 突然の東吉の言葉に、柚子は目を丸くする。
「え?」
「それがあればあやかしの本能を消せるんだろ? そうしたらさ、蛇塚も苦しまなくて済むんじゃないかって思ったんだ。あいつはもう次に進もうとしている。そこに梓の存在は必要ないんだよ。できれば蛇塚のためにも杏那のためにもなくしてやりたい」
 それは友人を心から心配するからこその願い。
 けれど、柚子は即答できない。
「にゃん吉君の気持ちはすごくよく分かるけど、神器はもう神様に返しちゃったの。また使わしてくれるのかどうか……。それに、神器を使って無害ってわけにはいかないかもしれないの」
「そうなのか?」
「あったものを強制的に奪うわけだから、なにかしらの影響があってもおかしくないって神様が言ってたから」
「マジか……」
 東吉は思わず天を仰いだ。
「いい案だと思ったんだけどな」
「でもさ、若様は? 若様ピンピンしてるじゃない」
 透子の疑問に柚子は「たしかに……」とつぶやく。
 神器によって本能を奪われた玲夜だが、神器に刺された最初こそ倒れて少しの間意識不明ではあったが、その後体調を悪くするでもなく、精力的に働いている。
「もしかして私の知らないところで問題あったりしてるの?」
「ううん。そんなの聞いたことない、けど……」
 一瞬言葉を詰まらせたのは、玲夜の場合は簡単に柚子に弱い姿を見せようとしないからだ。
 なにかあったとしても、柚子には悟らせないようにしている可能性は捨てきれない。
「玲夜に聞いてみたらいいんだろうけど、素直に話してくれるかな……?」
「俺がどうした?」
 聞きなれた最愛の人の声に、柚子ははっとする。





 振り返ると、飲み物とサンドイッチといった軽食が載ったお皿を持った玲夜が立っていた。
「玲夜……」
「ジュースだ」
 スッと柚子にグラスを手渡してから皿をテーブルの上に置くと、透子と東吉へと目を向ける。
「若様、こんにちは~。相変わらず目の保養……。前より色気が増した気がする」
「透子がすみません……」
 頬を染めて見惚れる透子の態度に、鬼龍院の恐ろしさを知っている東吉は恐縮しっぱなしだ。
「問題ない。ふたりがいてくれたおかげで柚子に変なのが近づかなくて助かった」
 さすがに付き合いが長いからか、ふたりへ向ける玲夜の眼差しは他人に比べると柔らかい。
 あくまで、他人と比べるとではある。
 けれど、玲夜の怖さを知る者からしたら、その変化はかなり大きい。
「なにを話してたんだ? 俺の名前が出ていたようだが」
 この騒がしい会場内で柚子の声を拾うのだから、やはり玲夜の耳はいい。
 いや、玲夜ならば遠く離れたところにいても柚子の声なら聞き取りそうである。
「玲夜の体のこと。神器に刺されて……」
 そこまで口にしてから柚子ははっとする。
「どうした?」
「さっきから普通に話しちゃってたけど、神器のこととか本能を失くすこととか、周りに知られちゃうとマズいよね?」
 玲夜のあやかしの本能がなくなったことは、一部の者にしか知らされていない。
 こんな人目の多い中で話していい内容ではなかったと、柚子は声を落とす。
 今頃声を小さくしても、もう聞かれている可能性があり、後の祭りかもしれない。
 内心で慌てる柚子と違い、玲夜は冷静そのもの。
「問題ない。今回のパーティーで、ある程度の者に父さんが神器の存在を教えるらしいからな」
「そうなの?」
「鬼の一族の中に、神器を鬼が管理すべきだなどとほざいている馬鹿がいてな。父さんと妖狐の当主が話し合って、神器のこと、神のこと、最初の花嫁のことを話すことになった。他の一族の目があれば、さすがに鬼といえど独占するのに難色を示すあやかしたちが出てくるからな。このパーティーはそもそもそれが目的のものだ」
「でも、話していいの? 神器や神様の存在を知ることで起きる問題もあるんじゃないの?」
 そもそも信じるのかという疑問がある。 
「そのために父さんと妖狐の当主が参加する。さすがにこのふたりを前に、嘘だなんだと正面から文句を言える度胸のある奴などいないだろう。あやかし界でもっとも発言力のあるふたりの言葉だ」
 霊力の強さでいえば玲夜が次点ではあるが、発言力や権力、経験値などを総合して評価すれば、千夜に次ぐ影響力を持つのは玲夜よりも撫子の方が上だ。
 あやかしの世界をまとめるこのふたりの言葉を軽んじるあやかしはほとんどいない。
「話をすればだな。父さんたちが来た」
 途端に出入口の方が一層騒がしくなり、人々の視線が集まる。
 入ってきたのは千夜と撫子。
 千夜の一歩後ろには紗良の姿もある。
 千夜と撫子はそのまま壇上へと上がり、会場内を見渡した。
 ニコニコとした笑みを浮かべる陽気な表情の千夜は、どこをどう見てもあやかしのトップにいるとは思えない気やすさがある。
 一方の撫子は千夜とは反対で、当主に相応しい気品と威厳を全身から発していた。
 対象的な雰囲気を持つふたりではあるが、同じなのは抗えないほど人を惹きつける力があるというところ。
 千夜が話始めようとすると、自然と人々は千夜の言葉を待つように口を閉じ、会場内は異様なほどに静まり返る。
「やあやあ、今日は皆参加してくれてありがとうねぇ」
 威厳も貫禄もない軽い口調なのに、誰一人として千夜を侮る者などいなかった。
 ラスボス感でいうと絶対に玲夜の方が雰囲気が出ているというのに、千夜は掴みそうで掴めないような底知れなさがあると、玲夜はたびたび千夜をそんな風に評する。
 あやかしではないからなのか、柚子にはいまいち分からないでいる。
 もちろん自分には足下にも及ばぬ人という認識は持っているが、いかんせん普段の千夜はひょうひょうとしてしるのでそんな面を感じさせない。
 けれど、玲夜が千夜のことを一目置いているのは、普段からの態度で伝わってくる。
 父としても、あやかしとしても尊敬しているようだ。
 決して千夜には口にはしないけれど……。 
「実は今回大々的に皆を集めたのには理由があってねーー」
 そこから始まる千夜の話に、人々は戸惑いを隠せない者がほとんどだ。
 神と始まりの花嫁の話。
 鬼龍院、狐雪、烏羽の三家へ与えられた神の贈り物。
 特に、あやかしの本能を奪う神器の存在は誤解が起きないように丁寧に説明されていた。 
 柚子が霊獣を連れているのは周知の事実なので、霊獣への知識を持っている者は多数いたが、神の存在を信じるかというと難しい。
 けれど、千夜の話に隣に立つ撫子は否定しない。
 それが狐雪もその話に異論がないということだ。
 あやかしの中でもっとも権威あるふたつの一族が認めた。
 それは少なからずあやかしたちに衝撃をもたらす。
 だが、あまりにも突拍子もないことで信じきれずに、どう反応していいものか迷っている者が多くいる。
「まあまあ、皆も突然こんな話をされたら混乱してるよねぇ」
 千夜はのほほんとした様子で理解を示す。
 千夜もすぐに全員が信じるとは思っていないのだ。
「あ、あの……」
 そんな空気の中で手を挙げる勇敢なる男性がいた。
「その神器はどうされるのですか? その昔烏羽家に与えられたというなら、その神器は烏羽家に返すべきなのでは?」
 萎縮しつつ発言するその男性の言葉に、周囲にいた人たちも「たしかに……」と、同意する声がちらほら聞こえてくる。
「神器は神様へ返したよー。神様がもう烏羽家に管理させておけないって怒ったからね」
「えっと、神様がそう言ったのですか?」
「うん、そうだよぉ」
 男性の戸惑いはあからさまに顔に出ており、『神』という存在を信じきれていないのが手に取るように見える。
 それを分かっていながら、千夜はなにか問題?と言わんばかりに無視するのだから、やはり見た目通りの優しい性格というわけではない。
「その神様はどちらにいらっしゃるんですか?」
「元は一龍斎の一族が神様を祀って仕えていたらしいんだよ。けれど、その一龍斎はとっくの昔にその役目を放棄している。そのせいで神様は眠りについたり大変だったんだけど、ここで登場するのが僕のかわいい娘になった柚子ちゃんでーす!」
 突然名前を出された柚子はぎょっとする。
 千夜ときたらこれまで鬼の一族の内部にすら多くを語らなかったというのに、多くのあやかしがいるこの場でどこまで話すつもりなのかと柚子は焦りをにじませる。
「柚子ちゃんには過去の一龍斎のような神子としての素質があるみたいでねぇ。神様が大層柚子ちゃんを気に入ってるみたいなんだぁ。だから、神様の相手は柚子ちゃんにお任せするのが一番だねって、撫子ちゃんとも意見が一致したんだよー」
 千夜がそんなことを言ったがために、柚子へと一気に視線が集まりたじろぐ。
「ちょっ、ちょっ……」
 動揺しすぎて言葉にならない柚子が、玲夜の袖を引っ張る。
「れ、玲夜、あんなこと言っちゃっていいの!?」
 声を潜めて話しかける柚子の顔は焦りと戸惑いが見えた。
「これが一番いいんだ。天童たちを抑えるためにはな。柚子も俺と離れたくないだろう? まあ、天童がなんと言おうが離れるつもりはないが」
「え、どういうこと?」
「俺が本能をなくしたことを知った天童たちが、それなら花嫁など不要だろうと、柚子と別れるように父さんのところへ進言してきた。他にも己の娘を後釜に据えたくて反対している奴らとかな。まったく鬱陶しい奴らだ」
 玲夜は不快そうに舌打ちした。
「だから、柚子が神と対話できる唯一無二の存在であると、柚子の持つ価値を公にすることで黙らせようと考えたんだ。散々柚子を使ったんだから、今度はこちらが神の存在を利用してやるさ」
 玲夜からは天童だけでなく、神に対しての苛立ちも感じ取れる。
 神器の一件に柚子を巻き込んだのがいまだに許せないようだ。
「そんなことがあったんだ……」
 高道の祖父である天童とは一度だけ顔を合わせたことがあるが、その態度から柚子を歓迎していないと会ってすぐに分かった。
 本能をなくしても玲夜が変わらずにいてくれたので、それで話は終わったと思っていたが、まったく終わっていなかったようだ。
 そんなにも自分の存在は受け入れ難いのだろうかと、柚子は落ち込む。
『小癪な奴らだ。柚子を認めぬなど何様のつまりなのだ!』
「あいあい!」
「やー!」
 憤慨する龍に応じるように、子鬼たちも目を釣りあげ怒りを表す。
 それに対し、玲夜も深く頷いた。
「その通りだ。当主である父さんも、俺もが決めたことに不満をぶつけてくるなどもってのほかだ。……ただ、少し気になっているところもある」
 突然難しい顔をする玲夜に柚子はすぐさま反応する。
「なにが?」
「天童たちがどうしてそこまで柚子を認めないかだ。最初は人間だからと思った。自分を守る力のない花嫁は時に一族の弱みにもなるからな。それから単純に桜子比べているのかもしれないとも。鬼龍院の当主となると、それ相応の責務を果たさないといけなくなるからな。一般の家庭で育った柚子には難しいと判断してもおかしくないかと」
「それが理由だと反論できない……」
 桜子の後釜に座ったのが平凡な柚子なら、そう思っても仕方ない。
 正直言うと、柚子が一番おかしいと感じているのだから。
 桜子の代わりなどあと百年経ってもできる自信はない。
「だが、柚子をというより、花嫁だから認めないように感じるんだ」
「花嫁だから?」
 柚子はきょとんとする。
 花嫁は一族を繁栄させるので、喜ばれるのではないか。
 柚子自身の器量が認められないなら納得できるが、花嫁だからというのは理解いかない。
 花嫁の存在はあやかしの力を強くする。
 現に、玲夜は柚子を迎え入れてから霊力が増したと、零しているのを耳にした覚えがある。
 実感はないので、右から左に流していたが、透子の娘の莉子が猫又には珍しいほどの強い霊力を持って生まれてきたように、一族では大歓迎されることがほとんどだ。
 鬼の一族の場合は弱みになる方が危険ではないかと認めない者が一部いたが、それも龍という霊獣の加護をもらったことで黙った。
 いまだに反対しているのが天童を筆頭とした先代当主の側近たちだけである。
「花嫁は弱みになるからってこと?」
 鬼龍院をよく思わない一族に狙われる可能性は常につきまとう。
「子鬼だけでなく龍がついてる。他の一族が柚子になにかできる可能性は低い」
 その言葉に龍がドヤ顔をしている。
「だったらどうして?」
「さあな。天童とはさほど話をしたことがあるわけではないから、なにを考えているのか分からない。とりあえずは、柚子の価値を示したことで反対派が少しは大人しくなるといいんだが……。さすがに天童辺りは、あやかしの本能がないなら離婚をと変わらず訴えかねないのが問題だな」
「そんな……」
 今さら玲夜と離れるなんてできないと、柚子は不安な顔で玲夜の腕を掴んだ。
『ふむふむ。あやかしの本能を感じぬのが問題というわけか。それなら……』
 そんな風に龍が神妙な面持ちでつぶやいているのに、柚子は気づかなかった。




 千夜が壇上での話を終えると、撫子とともにおりていく。
 いつもならわらわらと、砂糖に群がる蟻のように集まって媚びを売るのに精を出す者たちで溢れかえるのだが、今回に限っては千夜から伝えられた話の方へ意識が向いており、おのおの意見を交換し合っている。
 そのせいか誰にも邪魔されることなくスムーズに千夜と撫子が柚子たちのところへ向かってきた。
「柚子ちゃん、ごめんね。突然で。びっくりしたでしょー」
「いえ、大丈夫です」
 ニコニコしながら謝罪する千夜の言葉を否定しつつも、心の中では『まったくだ……』と、思っている柚子がいた。
 柚子は義理の両親であり、撫子とも何度となく会っているので今さら緊張はしない。
 しかし、透子と東吉は、近づいてくる三人に顔色を強ばらせながら気配を殺している。
 特に東吉の顔色はすこぶる悪かった。
「にゃん吉君大丈夫?」
 柚子はそっと声をかける。
「大丈夫なわけないだろ。何度も言うが、猫又はあやかしの中じゃ下位なんだよ! 弱弱なのっ! 鬼と妖狐のトップを前に平気でいられるかっての! なんだよ、あの妖気の強さ。鬼龍院様はやっと慣れてきたとこなのに、そこに鬼の当主夫婦と妖狐の当主が加わったら、心臓発作起こすぞ。俺を病院送りにしたいのか!」
 東吉は必死の形相だった。
「そんなに?」
 人間である柚子に東吉の感覚が理解できないので首をかしげるだけ。
「私はそこまでじゃないけど、やっぱ鬼と妖狐の当主がそろうと圧巻よね~」
 そんな透子は、緊張はしつつも東吉ほどではないようだ。
 多少余裕を感じる。
 それは撫子とも一度花茶会で会っているおかげもあるだろう。
「さっさと退散したいが、完全にタイミングミスった……」
 東吉がなぜ嘆いているかというと、撫子の目が透子を見ていたからだ。
 完全にロックオンされており、ここで逃げるのは失礼になる。
「久しいの、透子よ」
「は、はい! お久しぶりです!」
 スっと背筋を伸ばす透子の隣で、東吉も同じように姿勢を正している。
「元気にやっておるかえ?」
「はい。娘ともども元気いっぱいです」
「うむ、それはよきことじゃ。して……」
 撫子の視線が隣にいる東吉に移る。
「そちが透子の旦那か」
「猫田東吉です!」
 ガチガチに緊張している東吉は、今にも卒倒しそうだ。
 その様子に撫子は声をあげて笑った。
「ほほほ、そのように緊張するでない。……とはいえ、猫又のあやかしでは、このメンツを前にしてはちと厳しかろうて」
「ご理解いただきありがとうございます」
 東吉からは「早く解放してくれ~!」という叫び声が今にも聞こえてきそうだ。
 そんな中に割り込んできたのは千夜である。
「撫子ちゃん、にゃん吉君を虐めちゃ駄目だよ~」
 そう言って東吉の肩に腕を回す千夜。
 その行為こそが東吉にとったら虐めであろう。
 東吉は声もなく、半泣き状態である。
 東吉が千夜と直接会ったことがあるのは、一龍斎に囚われた龍を助けるために玲夜の屋敷に泊まった時だろうか。
 その後はパーティーや柚子と玲夜の披露宴などで顔を合わせているはずだが、仲よく肩を抱くほど親しいわけではない。
 なのに、千夜は当たり前のように東吉のことを『にゃん吉君』と呼んでいる。
 柚子がそう呼んでいるからかもしれないが、千夜との会話で東吉が出てくるなどほぼなかった。
「ほう、にゃん吉とは愉快ーーいや、愛らしい呼び名よのう。ならばわらわもそう呼ばせてもらってもよいかえ?」
 ほほほと、笑う撫子に否を突きつける勇気が東吉にあるはずもなく……。
「はい、どうぞお好きにお呼びください……」
 消え入りそうな声でそれだけをなんとか発した。
 なぜか比類なき権力を持った二家の当主に挟まれるという状態にある東吉に、多方から憐れみの目が向けられる。
「あっ」
 なにかに気がついた千夜が東吉の肩から手をどかし、そこでようやく東吉はほっと息をつく。
「よく耐えたわ、にゃん吉」
「めちゃくちゃ怖ぇ……」
 透子が慰めるように肩を叩いて労っている一方で、千夜はどこかに向かって大きく手を振った。
「おーい、藤史郎くーん! こっちおいで~」
 千夜の目線の先にいるのは、撫子の長男である藤史郎。
 彼の隣には妻の菜々子もいた。
 菜々子は花嫁で、あやかしではなく柚子と同じ人間だ。
 藤史郎は撫子によく似た品のある美しい顔立ちだが、どこか温度のない冷たい雰囲気を持っている。
 そこはどことなく玲夜を感じさせるところもあった。
 雰囲気だけでいうと、撫子の三男である藤悟より兄弟っぽく思える。
 もちろん見た目はまったく違うのだが、次代を担う者としてその重責を考えると、のほほんとはしていられないからかもしれない。
「お久しぶりです、千夜様、紗良様」
 藤史郎は千夜と紗良の前で一礼する。
 その隣の菜々子も同じようにお辞儀をするが、花茶会で見せていた柔らかな笑みは浮かんでおらず、まるで人形のように無表情なのが柚子はすごく気になった。
 以前に花茶会で見せた、藤史郎への態度も印象に強く残っていたせいもあるのだろう。
「菜々子ちゃんも花茶会ぶりねぇ」
 紗良が菜々子の手を握ると、そこでようやく菜々子の表情が緩んだ。
 血の通った表情が見れたことにほっとする柚子だが、隣の藤史郎が視界に入り息を呑む。
 まるで憎々しげな顔をしている。
 それは紗良に向けてなのか、菜々子に向けてなのか……。
 答えを求めるように柚子は千夜を見た。
 負の感情を向ける相手が紗良に対してならば、千夜が黙っているはずがないと思ったからだが、千夜は変わらずニコニコしている。
 再度藤史郎を確認するも、綺麗に感情を隠してしまった後だった。
「気のせい……?」
 紗良でなかったなら、菜々子であるはずがない。
 菜々子は花嫁だ。
 神器で本能を奪われでもしない限り、花嫁を憎く思うはずがない。
 柚子は考えすぎかと、先ほどの藤史郎の表情を頭から追い出した。
「どうかしたか、柚子?」
「ううん、なんでもない」
 そう言うが、玲夜は疑わしげにじーっと柚子を注視する。
「玲夜」
 柚子はあきれたように苦笑する。
「心配しすぎだよ」
「心配してなにが悪い。柚子は俺の唯一だ」
「真面目な顔でサラッと言える玲夜ってほんとすごいよね」
 それもこんな人目がある中でだ。
 千夜と紗良など、微笑ましそうにニマニマと笑みを浮かべており、撫子も至極楽しそうに笑い声をあげた。
「ほほほ、本能がなくなっても若は若じゃのう」
 三人反応に、発言した張本人の玲夜ではなく柚子の方が恥ずかしくなってきて、目線を俯かせる。
 玲夜は堂々としているというのに、なんだか理不尽さを感じる。
「……本当に花嫁への本能をなくされたのですか?」
 それまで静かだった菜々子が初めて口を開いた。
 その目は真剣で、玲夜を捉えている。
 けれど、答えたのは千夜だった。
「そうだよ~。全然そう見えないよね。さすがに少しは変わったかなと思ったけど、相変わらず重ーい男で、親として柚子ちゃんに申し訳なくてならないよほんとに。玲夜君が嫌になったら迷わず僕に助けを求めるんだよ~、柚子ちゃん」
「父さん」
「やだなぁ、冗談だよ。玲夜君、こわーい」
 玲夜が千夜をにらむが、千夜は変わらずヘラヘラと笑っている。
 そこらのあやかしなら瞬足で逃げ出すだろう玲夜のにらみも、千夜には場を盛り上げるスパイス程度でしかない。
「……しい……」
「ん? なんだい?」
 菜々子の声はあまりにも小さく、千夜ですら聞き取れなかったようで首をかしげている。
「いえ、なんでもございません」
 菜々子は再び人形のような無表情になってしまった。
 すっと藤史郎の後ろに下がると、それ以降はまるで存在を消すように控えているだけだ。
 撫子はその様子を複雑な表情で見ていたが、なにかを言うわけでもなく、妖狐の当主としての威厳のある表情に変わる。
「神器を穂香に渡した者は見つかったのかえ?」
「それがまだなんだ」
 千夜は大げさに肩をすくめる。
 先ほどの壇上で、千夜は神器にあやかしの本能を奪う機能があるとは伝えていたが、それがどのようにして手に入れるに至ったかまでは話していない。
 穂香に神器を渡したという玲夜に似た男の存在も。
「だけど、少し前から玲夜君に似た男の情報がいくつかあってね。SNSに写真が投稿されていたんだ。でも、遠かったり画像が荒かったりして不確かだったんだけど、柚子ちゃんの友達が遭遇してばっちり綺麗に顔が写った写真を撮ってくれたから助かったよ。離婚する時、訴訟で柚子ちゃんが有利になるよう考えて証拠を残したっていうんだから笑うよね~。透子ちゃんといい、柚子ちゃんの周りは友達思いな子が多くて安心だよ」
 千夜は愉快でならないようだが、玲夜は逆で不愉快極まりない顔をしている。
「神器ごときで柚子以外の女に走るわけがないでしょう」
 眉間にしわを寄せる玲夜は、柚子を引き寄せて周囲に仲のよさを見せつけるように抱きしめた。
 柚子はもう諦めてされるがままである。
「それよりも、父さん。その男の写真であの女に確認は取れたんですか?」
 玲夜は柚子を離さないまま、千夜に問いかける。
「うん。紗良ちゃんから聞いてもらったけど、間違いないみたいだよ」
 視線が集まると、紗良はこくりと頷いた。
「何者なのでしょう? 心当たりはないんですか?」
「それがあったら苦労しないよぉ。その子が烏羽家が管理しているはずの神器をどうやって持ち出したかも分からないし。そもそも烏羽家とは仲が悪いから関わりもないしねぇ。聞いたところで教えてくれるとも思えない」
「それは狐雪家でも同じじゃろうて。鬼龍院ほど仲違いしておらぬが、お互い関知しないという状態が続いておるので、質問状を送っても無駄であろうな。今の当主が誰かも分からぬほどじゃ。噂では最近交代したらしいが、名前も性別すらも知らぬ」
「内情の分からない烏羽家から神器を持ち出したんだから、それなりに内部に詳しい者のはずなんだよねぇ。そんなのが玲夜君と似ているのも興味深いけど、それ以上に烏羽家がどう動くかも気になるとこではあるかな」
 玲夜、千夜、撫子の会話を静かに聞いていた柚子は、かなり深い内容に意識が集中してしまうのを抑えきれない。
 それと同時に、これほど重要な話を井戸端会議をするようにポロポロと話していていいのだろうかと心配になった。
 周囲で聞き耳を立てている人もいるのではないだろうか。
 聞かれてはマズい話も含まれてはいないかと、柚子は周囲の反応をチラチラとうかがう。
 だが、予想に反して誰も気にしている様子はない。
 すると、周囲を気にする柚子の様子に気がついた龍が柚子に教える。
『大丈夫だ。柚子は気づいておらぬが、ここの周りにだけ結界が張ってある。この会話は周囲には聞こえておらぬであろう』
「そうなの?」
『こやつのあやかしの本能がなくなったという話題に移った時に張られた。簡単にこれだけの結界を張れるのだからさすがは鬼の当主だな』
 どうやら結界は千夜によって張られていたらしい。
『しかし、我からすればまだまだ小童だがのう! カッカッカッ』
 得意げに笑う龍に苦笑する柚子は、龍と千夜のどちらにも気を遣ってあえてなにも言わなかった。
 龍を褒めると千夜か弱いと肯定しているようなものだし、否定すると龍が拗ねて面倒くさい。
 沈黙を貫くのが一番だ。



 ふと、柚子が菜々子に目を向ける。
 先程から黙ったまま話に加わるわけでもない。
 まあ、それは紗良も藤史郎もである。
 それに、東吉と透子などは置物と化していて、いつこの場から脱出しようかとタイミングを見計らっている。
 そうしつつも、透子も東吉もあやかしの本能を奪う神器の話は気になるので、離れられないようだ。
 花嫁である透子も、透子を花嫁に選んだ東吉も、決して他人事と無視できる話ではないのだ。
 蛇塚のことも考えると、情報が欲しいといったところだろうか。
 柚子もすべての事情を知っているわけではないので、当主ふたりの会話は貴重な情報だった。
 それは柚子にしてもだ。
 だからこそ聞き入っていたのだが、菜々子は先ほどからずっと暗い顔をしていて、花茶会での朗らかな表情との違いが気になって仕方がない。
 いったい彼女はなにを考えているのだろうか。
 すると、突然菜々子が動く。
「少しお化粧室へ行ってきます」
 すっと藤史郎から離れようとした菜々子だったが、すぐさま藤史郎が菜々子の腕を掴んだ。
「俺も一緒について行く」
「結構よ!」
 菜々子は触るなとでも言うように、藤史郎の手を強く振り払った。
 突然の大きな声に、千夜たちの会話も止まり菜々子へ意識が向く。
「お化粧室ぐらいひとりで行けるわ」
 温度のない声が菜々子から発せられる。
「なにかあったらどうする」
「なにがあるというの? これだけ警備が厳重にされているというのに」
「それでもーー」
 再度菜々子に触れようとした藤史郎だったが、菜々子は一歩下がることでその手を避ける。
 その態度に藤史郎の目つきも険しくなり、なんとも言えぬ険悪な雰囲気が流れた。
 柚子はどうしたものかと戸惑うが、玲夜も千夜も紗良も、そしてもっとも関係深い撫子さえも静かに見守るだけだ。
「お前がどう思おうと、お前は俺の花嫁だ」
 藤史郎は、まるで菜々子に教え込むように、分かりきったことを口にする。
 菜々子が花嫁であることなど、わざわざ当人に教えるまでもない。
 藤史郎の妻となった菜々子自身がそれをよく理解しているはずだ。
「……ええ、そうね」
 一瞬、菜々子が傷ついたような表情を浮かべたが、それは霞を掴むようにすぐに掻き消えた。
「私が花嫁だからあなたは私に執着するのよね。もし、あなたが神器によって本能を失ったらどうなるのかしら? きっと鬼龍院様とは違ってあっさり私を捨てるのでしょう!?」
 声を荒ららげる菜々子は興奮冷めやらぬまま続ける。
「それなら最初から、あなたの花嫁なんてなりたくなかったわ!」
 さすがにこれいしは止めるべきだと思った柚子より早く、藤史郎が動き菜々子の手を掴む。
「それでもお前はもう俺の花嫁だ。あの男の妻になれなくて残念だったな」
 その言葉がなにを意味するのか柚子には分からなかったが、菜々子はカッと怒りで顔を赤くしながら藤史郎をにらめつける。
「そうさせたのはあなたじゃない!」
 菜々子は空いた手で藤史郎の頬を叩いた。
 驚く柚子。
 それはあやかしにとったら大した抵抗ではなかったのだろうが、藤史郎の手は菜々子から離れた。
「気分が悪いので失礼いたします」
 菜々子は柚子たちに向かってお辞儀をすると、足早に会場の外へ去っていった。
「菜々子……」
 妻に叩かれ茫然自失の藤史郎が立ちすくんでいる。
「なにをしておる。早く菜々子を追わぬか、馬鹿者」
 撫子の言葉にはっとした藤史郎は我に返り、一礼してから菜々子の後を追っていった。
 それを見えなくなるまで見送ってから、撫子はやれやれという様子で振り返る。
「すまなかったのう。柚子や透子やにゃん吉は驚いたであろう?」
「とんでない!」
 柚子が否定すると、透子と東吉も勢いよくぶんぶんと首を横に振った。
 確かに驚きはしたが、柚子は花茶会で菜々子と藤史郎の険悪なやり取りを一度目にしている。
 それを考えると透子と東吉の方が驚いたに違いない。
 けれど、猫又の立ち位置的に素直に口にできるわけではないので、否定するために首を横に振るしかないのである。
「それならよいのじゃが。……にしても、まったく困った息子と嫁じゃて。若が息子だったらと羨ましく感じるとはのう」
「やめてくれ」
 玲夜は本気で嫌そうな顔をした。
「撫子ちゃんのところも大変だねぇ。だからといって玲夜君はあげられないけどー」
「離してください……」
「えー、やだー」
 ぎゅうっと玲夜に抱きつく千夜に、玲夜は逃げるタイミングを逃したと、諦めの顔をしている。
 なんと仲のいい親子だろうか。
 感心するとともに、ふたりのテンションの違いが如実に顔に現れていて、おもしろくもある。
「菜々子様は……」
 問いかけようとしたところで、柚子は言葉を止める。
 他人が関わっていい問題ではないと思い直し、その先を続けることができなかったのだ。
 けれど、興味は隠しきれておらず、柚子の顔を見た撫子が苦笑いする。
 撫子には珍しい表情だ。
「菜々子にはもともと別の婚約者がおったのじゃ。ごくごく普通の、菜々子と同じ人間のな」
「それって……」
 だが今、菜々子は藤史郎と結婚している。 
「藤史郎の花嫁であることが分かり、その婚約は破談。そして藤史郎と結婚することになったのじゃよ」
「それはつまり、菜々子様の望んだ結婚ではなかったということですか?」
 柚子はショックだった。
 婚約者のいる菜々子を横から奪い去るような望まぬ結婚を、撫子が許したということがだ。
 花茶会を創設した撫子は花嫁の気持ちに誰より寄り添ってくれていると思っていたからこそ、無理強いされた結婚を反対してもらいたかった。
 当主である撫子にはその力があるはずなのだから。
 やはり息子はかわいいということなのだろうかと、残念に思う気持ちが湧き上がる。
 婚約者がいながら破談にされて、婚約者でもない男と結婚せざるをえなかったなんてと、菜々子の気持ちを思うと憐れみの感情を抑えきれないが、撫子はなんとも困った顔をした。
「恐らく柚子が考えておるようなことではないので安心せい。むしろ菜々子菜々子は破談になって喜んでおる」
「どういうことですか?」
 柚子が問うと、撫子はさらに困った顔で眉尻を下げた。
「素直になればいいものを、お互いが勘違いしておるせいでややこしくなっておる。まったく、やれやれじゃな」
 撫子は扱いに困ったようにため息をついた。
「ん?」
 意味が分からず首をかしげる柚子。
 紗良を見ると、撫子と同じような顔をしていたので、恐らく事情を知っているのだろう。
 けれど、この場で話すつもりはないようで、ふたりの話題はそこで強制的に切り上げられた。
 柚子に残ったのは疑問だけである。



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