「あ、それかよく似た親戚とかいないの? そっちの方が可能性高いかも!」
 はっとして表情をやや明るくする芽衣からは、そうあって欲しいという願望が含まれているように思えた。
「え、なに? どういうこと?」
 目の前で会話をしていて、玲夜が浮気をしていないかという先程の言葉を聞き逃すはずがない。
「玲夜が浮気?」
 その言葉がグルグルと柚子の頭の中を回っていたが、脳が理解することを拒否するように意味が分からない。
『あやつめ、とうとうやりおったか!』
 どこか嬉しそうにしている龍をにらむ柚子は、むぎゅっと両手で掴んで黙らせると、芽衣に先をうながした。
「なにかあったの?」
「あったっていうか、見ちゃったっていうか……」
 芽衣は気まずそうに視線をさまよわせてから、意を決したように話し出す。
「私もちゃんと近くで見たわけじゃないからね! 見間違えだと思うから! 絶対そうだろうし」
 芽衣は力強い声で念を押す。
「うん」
 柚子が頷いたのを見て、真剣な顔で話した。
「昨日なんだけど、夕方頃に町へ出かけてたら鬼龍院さんによく似た人が女の人と歩いてたの」
「女の人と歩くぐらい普通にあるんじゃない?」
 昨日といえば仕事だったはずだと柚子は玲夜のスケジュールを思い浮かべる。
 いつものように高道が迎えに来ていたので間違いないはずだ。
 そうなると仕事関係で女性と町を歩くぐらいしていてもおかしくはない。
 女性とふたりきりだとしても、町を歩いていたぐらいで浮気だと騒ぐほど柚子は狭量ではないつもりだ。
 もちろん、実際に目にしたら多少のやきもちは焼いてしまうかもしれないが、それで怒ったりはしない。
 柚子もこれまでいろんな問題を乗り越えてきて心が強くなったと自覚している。
 それでもまだ芽衣の表情は晴れない。
「そりゃ、ただ歩いてただけなら私もこんなこと言わないけど、そのふたり腕組んで歩いてたのよ。しかも人目をはばからずいちゃついて、そのままホテルに入っていっちゃうんだもん。さすがに部屋まで追いかけられなかったけど……」
「うん、それは追いかけちゃ駄目だって」
「分かってるわよ。あんたと違ってそこまで考えなしじゃないわ!」
「私と違ってって……」
 玲夜の浮気疑惑より、地味にそっちの方が傷つく柚子である。
 しかし、覚えはありあまるほどあるので否定ができないのが悲しい。
 この時ばかりは子鬼たちも龍も芽衣に味方し、激しく同意するように頷いていた。
「それって本当に玲夜だった?」
「あんな美形そうそういてたまるかっての! 長身でスタイルもよくて、目だって赤くて、黒髪で……でも、髪が少し長かったような……? いや、そんなのウィッグでなんとかなるか。だけど、ちょっと鬼龍院さんより年齢高そうだったような気がしなくも……」
 最初こそ自信満々だった芽衣も、だんだんと確信を持てなくなってきたようで言葉に迷いが出てくる。
「あー、でもそうよね。かなり親密な様子だったから浮気を疑ったんだけど、よく考えると花嫁のいるあやかしが裏切って浮気なんてするはずなかったわ。少し冷静になれば気がついたのに」
 芽衣はそう反省しながら頭を押さえている。
「心配して損したー。きっと親戚かなにかよね。世の中には三人同じ顔の人がいるって言うし。まあ、あんな顔が三人もいたら大騒ぎでしょうけど」
 肩の荷が落ちたように安堵を浮かべる芽衣は、玲夜の浮気疑惑をあっさりと撤回した。
 だが、柚子は微妙な顔をした。
 それは、玲夜がもうあやかしの本能がないと知っているからである。
 玲夜はなにひとつ柚子に囚われていないのだ。
 芽衣はそれを知らないからこその発言で、あやかしの本能を身をもって知っている芽衣だからこそ導き出した結論だった。
「一応写真撮っておいたんだけど無駄になったわね。最悪離婚訴訟になった時の証拠になるかと思ったんだけど」
「写真があるの?」
「見る?」
「うん」
 柚子は迷わず返事をした。
 どれほど似ているのかという興味が心を占める。
 まさか玲夜が……などという気持ちはほとんどなく、玲夜が浮気をしているなど、柚子は微塵も思っていなかった。
 だがしかし、芽衣から見せられた画像に写っていた人物はどこからどう見ても玲夜で、子鬼も驚いて目をまん丸にしている。
「あいー」
「あい」
「玲夜?」
「うん、玲夜」
 呆気にとられる子鬼の隣で、龍が怒り出す。
『あやつめ、やっぱり浮気しておるではないかぁぁ!』
 体をくねらせながら憤慨する龍の動きの激しさに、龍を掴んでいた柚子は手を離してしまう。
 ぼちゃっと机の上に落ちた龍は『ぎゃんっ』と変な声を出した。
 一瞬気が削がれたようだが、顔を上げて画像が映っているスマホの画面に近付く。
「なんかSNSでも少しざわついてたのよね。鬼の次期当主ってだけじゃなく、政治経済にも影響のある大会社の社長の上、あの容姿の鬼龍院さんはメディアにはほぼ出ないけど、知ってる人は知ってるし。そんな人が女といちゃいちゃしながら町中を歩いてたらそりゃあねえ」
 芽衣は柚子を気にしながらもさらにみずからが調べた情報を伝えた。
「どうやら私が見た日だけじゃなくて、SNSで探してみると最近いろんなところで出没してるらしくて、そのたびに違う女性連れてるって話で……」
 芽衣は他の人が隠し撮りしたと思われるSNSの投稿写真を見せた。
 それはひとつだけではなく、別々の日にそれぞれ違う女性を連れていた。
『うぬぬぬぬ!』
 親の仇を見るような眼差しで、まるで恋人同士のように親しげに腕を組む女性に寄り添う玲夜に怒りを静かに溜め込んでいる。
『これはもうあの方にチクって鬼龍院ごと木端微塵に吹き飛ばしてくれようぞ!』
「馬鹿なこと言わないの」
 べしんと、まろが猫パンチをするように龍の頭を軽くはたくと、蛙が潰れたような姿で机に倒れる。
 しかし、すぐに起き上がり、恨めしげな目を柚子へと向けた。
『なにをするのだ、柚子ぅぅ。浮気をされたのだぞ。どうしてそんなに冷静なのだ!? もっと怒ってよいのだぞ! 我が必ず仇を取ってやる。童子たちも手伝うであろう?』
「あーい!」
「やー!」
 龍に感化されてやる気をみなぎらせている子鬼たちは、玲夜に向けてか見えない敵に対するようにシュシュっとパンチを打っている。
 元の主人にそんな態度で大丈夫なのかと心配になってくる子鬼の行動だ。
 しかし、玲夜は特に気にしなさそうではある。
 まさに『柚子を守る会』を発足しようとしている龍と子鬼たちを困ったような顔で見る柚子は、再度画面へと目を向けた。
 そして、柚子は確信を持つと同時に、玲夜の浮気と聞いてもまったく揺れなかった自分の心に成長を感じる。
 いや、小指の先程度には心がざわついてしまったものの、それだけだ。
 昔の柚子だったならこれほど平静ではいられなかっただろう。
 そう考えると、玲夜との深いつながりを感じて柚子も嬉しくなる。
「これは玲夜じゃない」
 柚子の一ミリの揺らぎもない確信を持った力の入った言葉に、うにょにょと怒り心頭状態だった龍がぴたりと止まる。
『あやつではない?』
「うん、絶対違う」
 柚子はまたもや断言する。
 それは龍もが驚くほど自信を持った声で、今さっきまでの龍の怒りをどこかに吹き飛ばしてしまうほどだ。
 画面にいる人物は確かに玲夜にそっくりだったが、毎日そばにいる柚子にはそれが玲夜でないのは一目瞭然だった。
『どうしてそんなことが言えるのだ? 柚子がそう思いたくないだけではないのか?』
 どこかふてくされたような龍に、柚子もあきれ顔だ。
 龍はどうしても玲夜を浮気男にしたいらしい。
「逆にどうして見分けがつかないの? 玲夜と全然違うじゃない」
「んー?」
「あいー?」
 子鬼はもう一度じっくりと画面を見て首をかしげている。
 言われてみればそんな気もしなくもないかも……。という表情だ。
 けれど、柚子のように断言できるほどではない様子。
「まったく、子鬼ちゃんたら。玲夜が聞いたら泣いちゃうよ」
「あいあい」
「あいー」
 玲夜が泣くなんてありえないと、そこに関しては断言するように顔を横に振った。
「玲夜は子鬼ちゃんたちからどう思われてるんだろ……」
 玲夜に懐いてはいるが、決して善人だとは思われていない気がしてならない。
 とはいえ、柚子も玲夜がそう簡単に泣く姿は想像できないので、それ以上のツッコミを入れたりはしなかった。
 ただ、少なくとも玲夜の浮気疑惑は間違いであると知れたことは素直に安堵した。
 龍はまだ疑惑の目つきだが、柚子が玲夜を信じているのだから問題はない。
 きっと玲夜もそうだろう。
 しかし、これほど玲夜に似ている人物はとても他人とは思えなかった。
 芽衣が親戚かと聞いてくるのも頷ける。
「鬼の一族にこんな人いたかな?」
 これほど玲夜に似た鬼がいたなら、自分がまったく知らないはずはないだろうと、柚子は思った。
 これほどの美しい容姿を持っていたら、噂ぐらいは聞いていてもおかしくない。
 柚子と玲夜の結婚式には参加していない鬼の一族も一部存在する。
 高道の祖父である天道を筆頭にした先代当主の側近たちだ。
 欠席したのは比較的年配に偏っていた。
 とはいっても、あやかしは人間に比べると見た目で年齢が分かりづらい。
 なにせ、玲夜の親にもかかわらず、息子より若く見える千夜と沙良という例がいるのだから。
 撫子とてそれは同じ。玲夜と同年代の息子がいるような年齢にはまったく見えないのだから、見た目で年齢を計ろうとするのは無謀である。
 考えを巡らせている時、ふと柚子の頭をあることがよぎりはっとした。
 神器を穂香に渡したという玲夜に似た人だ。
 確かに画像の人物は玲夜に似ている。
「まさか……」
 そう思いつつも、柚子ひとりで判断できる問題ではなかった。
「芽衣、その画像、私の携帯に送ってくれる?」
「いいわよ」
 芽衣は柚子が否定したことで、先程まで浮かべていた不安そうな表情も消えていた。
 携帯を操作して柚子の携帯に画像が届くと、それを玲夜の携帯に転送する。
 すぐに既読がついて、柚子は少々複雑だ。
 あいかわらず、柚子の送るメッセージとなると反応が早い。
 ちゃんと仕事に集中しているのだろうかと心配になる早さだ。
 そして、すぐに電話がかかってきた。
「もしもし、玲夜?」
『どうしたんだ、突然こんな画像を送って来て』
 柚子は芽衣が見た玲夜に似た人物の話と、SNSで調べた話とを伝えた。
『その件か』
 玲夜は特に驚いた様子はなかった。
「玲夜は知ってたの?」
『知っていたというか、軽く報告を受けた程度だな。高道がなにか言っていた気がするが、俺が浮気するはずがないとちゃんと分っているから大した問題にはなっていない。まさか柚子は疑ったりしていないだろうな?』
 わずかに声が低くなった気がして柚子はひやりとする。
 とばっちりを受けかねないと、慌てて否定した。
「してないよ! 画像見たらそれが玲夜じゃないことはすぐに分かったもの」
『それならいい』
 途端に声が優しくなって柚子はほっと息をつく。
 ここで疑いましたなどといった、お叱りコースに間違いなく突入してしまう。
 柚子はなにひとつ疑わなかったのだから、胸を張って否定しておく。
「ほんとに玲夜を疑ったりしてないからね。子鬼ちゃんたちは疑ってたけど……」
「あいっ!」
「あい!?」
 ついポロリと零してしまった言葉に、柚子に裏切られた子鬼ふたりが焦った顔をする。
 けれど事実なのだから仕方ない。
「あと、龍も」
『帰ったら尻尾に煮干しをくくりつけて猫たちの前に放り込んでやろう』
 まろとみるくが恐ろしい眼光で龍を追いかけ回すのが目に浮かぶようだ。
「だって」
 柚子が龍に目を向けると、激しく机が揺れるほど体を震わせて動揺している。
『なんだと! 貴様鬼か!』
「いや、鬼でしょう」
 即座にツッコんだ柚子。それにかんしては誰も否定しようがない。
『ぐおぉぉぉ』
 体をうにょうにょさせて悶える龍を放置して、柚子は玲夜との話を再開させる。
「穂香様が言ってた、神器を渡した玲夜に似た人の話覚えてる?」
『ああ』
 玲夜も声色を真剣なものへと変えた。
「関係あったりする?」
『その件は今高道が調査中だ。本当は少し前から桜河の秘書が町中で見ていたらしいんだが、桜河が高道に報告し忘れていたようで、数日前に知ったところだ』
 若干桜河の名前を呼ぶ時に険がある気がして、柚子は桜河の身が心配になった。
 玲夜の表情は直接見えないというのに、なんとなく想像ができるところが玲夜と共有した時間を感じさせる。
 恐らく魔王が降臨しかかっているに違いない。
「SNSにもいくつか画像が投稿されているから、穂香様に直接確認してもらうのがいいと思うんだけど協力してくれるかな?」
『父さんと母さんに話を通しておく。まあ、基本的にあの女に関しては母さんの管理下にいるから、母さんがなんとかしてくれるはずだ。せっかく置いてやっているんだから、情報提供ぐらい役に立ってもらわないとな』
 穂香のことを話す声が低くなっている。
 神器で刺されたのだから、玲夜が穂香にいい印象を持っていないのは仕方ない。
 夫にも玲夜にも神器を突き立てあやかしの本能を奪った穂香は、今沙良の下で働いている。
 穂香への罰という名目ではあるが、撫子とともに花茶会の主催者をしている沙良は、穂香の犯した行いにわずかながら罪悪感を抱いている様子だった。
 そこまで追いつめられるほど助けてあげられなかったと。
 もちろん悪いのは穂香であり、沙良はむしろ最大限の手を尽くして花茶会という花嫁の逃げ場を作ってあげていた功労者だ。
 それでも放っておけず、あやかしの本能を失くして離婚となり、行き場のなくなった穂香を受け入れた。
 ずっと花嫁として働くこともなく生きてきた穂香には大変な毎日だろうが、文句も言わず与えられた仕事に従事しているらしい。
 そんな穂香に心を配る沙良の言葉なら穂香も素直に協力してくれるはずだと柚子も思った。
「そっか。じゃあ、私がなにかすると逆に邪魔しちゃいそうだから大人しくしてるね」
『今回に限らず、今後も頼むから大人してくれ』
 その玲夜の声には切実さが込められていて、柚子はクスクスと笑った。