一章

 柚子は久しぶりに祖父母の家を訪ねていた。
「柚子、なんだか久しぶりな気がするわ」
 柚子を出迎えた祖母が、嬉しそうに顔をほころばせながら柚子を軽く抱きしめる。
「元気そうで本当によかった」
「ごめんね、おばあちゃん。おじいちゃんも」
 祖母の後ろでは祖父が立っている。
 祖母と同じように元気そうな柚子の姿を見て一瞬安堵した顔をしていたが、すぐにそれは心配そうなものへ変わる。
「あれからなんともないのか、柚子?」
「うん。心配かけさせちゃってごめんね」
「柚子が無事だっていうならそれでいいのよ」
 と、祖母は柚子の手を優しく包み込む。
 最近祖父母と会えていなかった柚子。
 その間に柚子は、神との邂逅で行方不明になったり、何日も目を覚まさなかったりと、心配をかけるようなことばかりを起こしていた。
 それはほぼ柚子のせいなどではなく、諸悪の根源はあの神で間違いないのだが、心配をかけてしまったことに柚子は申し訳なくなった。
 今回の訪問は、もう大丈夫だと伝えるためでもあり、久しぶりに家族団欒してきたらどうかと、玲夜から勧められたからでもある。
「ほら、いつまでも玄関口で話してないで、中へ入ったらどうだ?」
 祖父の言葉にはたっと気がつく。
 久しぶりに会えた喜びで、まだ家の中に入ってさえいなかった。
「あら、本当だわ。さっ、柚子。今日は柚子の大好物をたくさん作ったのよ。今日はお泊まりできるんでしょう?」
 祖母がウキウキとした様子で嬉しそうに柚子が泊まることを嬉しそうにしている。
「うん。玲夜からもちゃんと許可もらったから」
「三人川の字で眠りましょう」
「あいあい!」
「あーい!」
 自分たちもいるぞと言わんたばかりに、柚子の肩に乗っていた子鬼がぴょんぴょん飛び跳ねる。
「あらあら、子鬼ちゃんたちも忘れていないわよ。皆で一緒に寝ましょうね」
「あーい」
「あい」
 クスクスと笑う祖母の言葉に、子鬼は嬉しそうに手を上げて返事をした。

 家の中へ入り、祖母が手作りしてくれたぼたもちをおともに、お茶を飲む。
 祖父母とこうしてのんびりとした時間を過ごすのは久しぶりだ。
「柚子が行方不明って聞いてすごく驚いてね、この人ったら裸足で探しに行こうとするのよ。そのうろたえ方っていったらひどくて、慌てて止めたわ。なんとか靴を履かせたけど、今度はスマホの代わりにテレビのリモコンを持って出ていこうとするし、大変だったのよ。その時の様子を柚子に見せたかったわ」
「お、おい!」
 祖母は冗談めかして笑うが、祖父は顔を赤くする。
 失態を晒されて恥ずかしそうだが、柚子としては心がほんわかした。
「おじいちゃん、ありがとう。いっぱい心配かけてごめんね」
 微笑む柚子に、祖父はぷいっとそっぽを向く。
「柚子が無事ならそれでいい」
 と、仏頂面でつぶやいた。
 一見すると怒っているようにも見えるが、それが機嫌の悪さからくる表情でないのは、誰の目にも明らかだ。
 祖父は、その時の己の行動が恥ずかしいだけである。
 それが分かるだけに、なんとも優しい空気が包み込み、敏感に感じ取った子鬼もニコニコしていた。
「玲夜さんも相当心配していたんじゃない?」
 祖母の問いかけに柚子は、当時の玲夜を思い出して苦い顔をする。
「心配通り越して、神様にブチ切れてた」
 柚子が止めなければ確実に社を壊しに行っていただろう。
「あらあら」
 困ったように頬に手を当てる祖母と、「当然だ」と怒りを顔に浮かべる祖父。
 祖父は腕を組みながら、玲夜に負けないぐらいかなりご立腹している。
「神だかなんだか知らないが、柚子をなんだと思ってるんだ」
「それは同意見だけど、神様なんて本当にいるのねぇ」
「だよねぇ」
 それに関しては柚子も祖母に同感だ。
 神様については、眠りから覚めなかった時に、理由を祖父母に説明するために伝えていた。
 最初こそ驚いていたが、柚子の周りにはなにかと人外な生物がたくさんいる。
 子鬼しかり、龍しかり。
 特に龍は、体の大きさも変えられたりもできる、本当に人ならざる存在だ。
 それを実際目にしているために、祖父母が神という存在を受け入れるのは比較的容易だった。
 祖父母からしたら子鬼も龍も神も、あまり変わらない不可思議な存在なのだから。
「柚子だけじゃなくて玲夜さんも病院に運ばれて不運続きだったわね」
「うん……」
 穂香によって神器で刺された玲夜は病院に運ばれ、しばらく意識が戻らなかった。
 刺されたといっても神器だったからか、体に傷はなく済んだのは幸いだと思ってよかったのだろうか。
 けれど、その代わりあやかしの本能をなくしてしまった。
「柚子を花嫁と感じなくなってしまったなんて、大丈夫なの?」
 祖母は心配そうにしている。
 そのあやかしの本能によって玲夜は柚子を見つけ、孤独が続く日々から助け出された。
 その本能がなくなってしまったなら、柚子への愛情にも変化があるのではないか。
 そう考えるのは、なにも柚子だけではない。
 祖父母もまた、玲夜が本能をなくすことに不安を覚えているようだ。
「病院に運ばれたけど体調にはなにも問題はないの。龍によると、私を花嫁だって本能で分からなくなっただけで、私が玲夜の花嫁であること自体に変わりはないんだって」
「でも、本能がなくなってしまったら、柚子のことは……。その……」
 祖母が言いづらそうにする。
 柚子の気持ちを考えて、その先の言葉を口にするのをためらっているようだ。
 気を遣わせているのが申し訳ない柚子は、努めて明るく振舞う。
「大丈夫。本能がなくなったって、玲夜は私のこと大事に思ってくれてるから」
「本当に大丈夫なの?」
「うん。正直私も離婚は覚悟の上だったんだけどね。本能をなくしたはずなのに、玲夜の態度がまったく変わってなくて、逆に驚いちゃった。義母様も桜子さんも心配して損したって反応だったし」
 それだけ全員万が一を覚悟していたのだ。
 だというのに、玲夜ときたら周囲の心配をよそに、それがどうしたと言わんばかりのいつもと変わらぬ様子。
 拍子抜けするのは当たり前だ。
「玲夜は、本能がなくても柚子が好きだから大丈夫だよー」
「玲夜の執着心は神様でも矯正不可なの~」
「うんうん、重たい男なのー」
「そうなの、ヤンデレってやつなの」
 子鬼の玲夜に対する評価に、普段どう思われているのかがうかがえる。
 子鬼たちは玲夜の使役獣だというのに、主人にこんなに厳しいとは。
 しかし、間違ってはいないので、柚子も複雑そうな顔をする。
「子鬼ちゃん……」
 玲夜が聞いたら眉間にしわを寄せそうだ。
 けれど、そんな子鬼たちの飾らない言葉は祖父母に安堵を与える。
「そうなのね。玲夜さんが変わりないようでよかったわ」
 ほっとした顔をするのは祖母だけでなく、祖父も無言ながら表情に表れていた。
「私たちにはあやかしの本能なんてもの分からなけど、その本能で柚子を見初めたのなら、本能がなくなってしまったら柚子を捨ててしまうんじゃないかって心配していたの。でも、違うのね。変わらず柚子を愛してくれているって知って安心だわ」
「おばあちゃん……」
 柚子の知らないところで心配をかけさせてしまっていたようだ。
 心から安堵する祖母の顔を見ていると、次第に柚子の顔が曇っていく。
 祖父母の心配を伝えられたからこそ、柚子は思わず自分の中にくすぶっているある気持ちが口から出てしまう。
「確かに玲夜は変わらずにいてくれてるけど、本能がなくなった以上、これからは絶対なんて言葉は言えなくなっちゃった……」
 しゅんとする柚子を見て、机の上に乗っていた子鬼たちが心配そうな顔で、柚子に近寄ってくる。
「最初は今の自分を好いてくれてたんだって強がって喜んでたけど、本能をなくしたなら、私から離れていくことだってあると思うの。でも、普通はそれが当たり前だよね。心の問題だからどうにかできるものじゃないもの」
 柚子は自分に玲夜をつなぎとめておくだけの魅力があるのかと、不安になっていた。
 玲夜が本能を失った当初はそれでも柚子を選んだと喜びの方が勝っていたが、時間が経てば経つほど考えさせられる。
 玲夜を信じていないわけではない。
 けれど、どんなに愛し合っていたとしても、別れる夫婦だっているのもまた事実なのだ。
 これからの柚子は、柚子の魅力で玲夜に好きでいてもらわなければならない。
「私の魅力ってなんだろ? 玲夜のようなすべてを手に入れているような人をつなぎとめておけるような力、私にあるのか……」
 柚子は己を客観的に見て、そんな魅力など『ない』と断言できる。
 玲夜のようなハイスペックな存在は、『花嫁』という価値をなくしたら、桜子ぐらいの器を持った人でなくては相応しくない。
 玲夜はいつまで自分を好きでいてくれるだろうか……。
 柚子は最近思考がマイナスになってしまうのを止めるのが難しくなってきていた。
 考えたところで、未来どうなるかなど分からない。
 あの両親の下で暮らしていたせいか、家族というものへの理想が強く、そのせいか少々玲夜に対して依存している部分があることを柚子は自覚しているため、玲夜に捨てられたらどうしようかという不安がつきまとう。
 花嫁に執着していたのは、なにも玲夜だけではないのだ。
 柚子もまた、花嫁という存在を心の支えとしているところがあった。
 憂鬱な気持ちを隠し切れず、柚子ははあっと重苦しいため息をつく。
 柚子のその様子に、祖母はクスクスと笑った。
 なぜ笑うのか分からない柚子がきょとんとする。
「おばあちゃん?」
「まあまあ、柚子ったら贅沢な悩みね。悩みというよりは惚気を聞かされているみたいだわ。ねえ、おじいさん」
「まったくだ」
 祖母に返事を求められた祖父は同意する。
 その顔は祖母と同じくにこやかな表情をしていた。
 柚子は自分の中にある不安を口にしたのに、どうしてそんな微笑ましそうにされるのか首をかしげる。
 慰めの言葉を期待したわけではなかったが、予想外の反応だ。
「玲夜さんはあやかしの本能をなくしても柚子を選んだんでしょう?」
「まあ、一応……」
「一応なんて言ったら玲夜さんがかわいそうよ。本能ではなく玲夜さん自身の心で柚子を選んだんだから、柚子はそれを受け止めればいいだけじゃないかしら?」
「そんな簡単に言って……」
 そんな単純な問題ではないはずだと柚子は眉尻を下げるが、祖母の優しいお説教は止まらない。
「簡単に考えればいいのよ。今の柚子を選んだんだから、魅力なんて柚子を選んだ玲夜さんが分かっているからいいじゃない。柚子は難しく考えすぎるわ。そもそも、好きって気持ちは努力でどうにかなるものではないんだから、悩むだけ無駄よ」
「無駄……」
 まさか自分のここ最近の苦悩が『無駄』と、バッサリ切られるとは思わない柚子は唖然とする。
「好きな時はどうしたって好きだし、嫌いになる時はどんなに頑張ったって嫌いになるものよ」
 その言葉には年長者ならではの説得力があった。
 ようやく柚子の顔に笑みが浮かぶ。
「おばあちゃんにもそんな時があったの?」
「それはもちろんよ。おじいさんと結婚してからもいろいろとあったわよ。ここではあえて言わないけど」
 祖母が祖父の方を見ながら微笑むと、祖父は居心地が悪そうにして、空気を変えるように咳払いをしてから「あー、少しトイレに行ってくる」と言って部屋を出ていった。
 その様子を楽しげに見る祖母は、完全に祖父を尻に敷いているように感じた。
「なにかあっても乗り越えるのが夫婦よ。柚子も不安になることも多いでしょうけど、二人三脚で頑張りなさい」
「うん」
 力強い祖母からの助言によって、柚子の表情は晴れやかになったようにも見えた。