ふと、柚子が菜々子に目を向ける。
先程から黙ったまま話に加わるわけでもない。
まあ、それは紗良も藤史郎もである。
それに、東吉と透子などは置物と化していて、いつこの場から脱出しようかとタイミングを見計らっている。
そうしつつも、透子も東吉もあやかしの本能を奪う神器の話は気になるので、離れられないようだ。
花嫁である透子も、透子を花嫁に選んだ東吉も、決して他人事と無視できる話ではないのだ。
蛇塚のことも考えると、情報が欲しいといったところだろうか。
柚子もすべての事情を知っているわけではないので、当主ふたりの会話は貴重な情報だった。
それは柚子にしてもだ。
だからこそ聞き入っていたのだが、菜々子は先ほどからずっと暗い顔をしていて、花茶会での朗らかな表情との違いが気になって仕方がない。
いったい彼女はなにを考えているのだろうか。
すると、突然菜々子が動く。
「少しお化粧室へ行ってきます」
すっと藤史郎から離れようとした菜々子だったが、すぐさま藤史郎が菜々子の腕を掴んだ。
「俺も一緒について行く」
「結構よ!」
菜々子は触るなとでも言うように、藤史郎の手を強く振り払った。
突然の大きな声に、千夜たちの会話も止まり菜々子へ意識が向く。
「お化粧室ぐらいひとりで行けるわ」
温度のない声が菜々子から発せられる。
「なにかあったらどうする」
「なにがあるというの? これだけ警備が厳重にされているというのに」
「それでもーー」
再度菜々子に触れようとした藤史郎だったが、菜々子は一歩下がることでその手を避ける。
その態度に藤史郎の目つきも険しくなり、なんとも言えぬ険悪な雰囲気が流れた。
柚子はどうしたものかと戸惑うが、玲夜も千夜も紗良も、そしてもっとも関係深い撫子さえも静かに見守るだけだ。
「お前がどう思おうと、お前は俺の花嫁だ」
藤史郎は、まるで菜々子に教え込むように、分かりきったことを口にする。
菜々子が花嫁であることなど、わざわざ当人に教えるまでもない。
藤史郎の妻となった菜々子自身がそれをよく理解しているはずだ。
「……ええ、そうね」
一瞬、菜々子が傷ついたような表情を浮かべたが、それは霞を掴むようにすぐに掻き消えた。
「私が花嫁だからあなたは私に執着するのよね。もし、あなたが神器によって本能を失ったらどうなるのかしら? きっと鬼龍院様とは違ってあっさり私を捨てるのでしょう!?」
声を荒ららげる菜々子は興奮冷めやらぬまま続ける。
「それなら最初から、あなたの花嫁なんてなりたくなかったわ!」
さすがにこれいしは止めるべきだと思った柚子より早く、藤史郎が動き菜々子の手を掴む。
「それでもお前はもう俺の花嫁だ。あの男の妻になれなくて残念だったな」
その言葉がなにを意味するのか柚子には分からなかったが、菜々子はカッと怒りで顔を赤くしながら藤史郎をにらめつける。
「そうさせたのはあなたじゃない!」
菜々子は空いた手で藤史郎の頬を叩いた。
驚く柚子。
それはあやかしにとったら大した抵抗ではなかったのだろうが、藤史郎の手は菜々子から離れた。
「気分が悪いので失礼いたします」
菜々子は柚子たちに向かってお辞儀をすると、足早に会場の外へ去っていった。
「菜々子……」
妻に叩かれ茫然自失の藤史郎が立ちすくんでいる。
「なにをしておる。早く菜々子を追わぬか、馬鹿者」
撫子の言葉にはっとした藤史郎は我に返り、一礼してから菜々子の後を追っていった。
それを見えなくなるまで見送ってから、撫子はやれやれという様子で振り返る。
「すまなかったのう。柚子や透子やにゃん吉は驚いたであろう?」
「とんでない!」
柚子が否定すると、透子と東吉も勢いよくぶんぶんと首を横に振った。
確かに驚きはしたが、柚子は花茶会で菜々子と藤史郎の険悪なやり取りを一度目にしている。
それを考えると透子と東吉の方が驚いたに違いない。
けれど、猫又の立ち位置的に素直に口にできるわけではないので、否定するために首を横に振るしかないのである。
「それならよいのじゃが。……にしても、まったく困った息子と嫁じゃて。若が息子だったらと羨ましく感じるとはのう」
「やめてくれ」
玲夜は本気で嫌そうな顔をした。
「撫子ちゃんのところも大変だねぇ。だからといって玲夜君はあげられないけどー」
「離してください……」
「えー、やだー」
ぎゅうっと玲夜に抱きつく千夜に、玲夜は逃げるタイミングを逃したと、諦めの顔をしている。
なんと仲のいい親子だろうか。
感心するとともに、ふたりのテンションの違いが如実に顔に現れていて、おもしろくもある。
「菜々子様は……」
問いかけようとしたところで、柚子は言葉を止める。
他人が関わっていい問題ではないと思い直し、その先を続けることができなかったのだ。
けれど、興味は隠しきれておらず、柚子の顔を見た撫子が苦笑いする。
撫子には珍しい表情だ。
「菜々子にはもともと別の婚約者がおったのじゃ。ごくごく普通の、菜々子と同じ人間のな」
「それって……」
だが今、菜々子は藤史郎と結婚している。
「藤史郎の花嫁であることが分かり、その婚約は破談。そして藤史郎と結婚することになったのじゃよ」
「それはつまり、菜々子様の望んだ結婚ではなかったということですか?」
柚子はショックだった。
婚約者のいる菜々子を横から奪い去るような望まぬ結婚を、撫子が許したということがだ。
花茶会を創設した撫子は花嫁の気持ちに誰より寄り添ってくれていると思っていたからこそ、無理強いされた結婚を反対してもらいたかった。
当主である撫子にはその力があるはずなのだから。
やはり息子はかわいいということなのだろうかと、残念に思う気持ちが湧き上がる。
婚約者がいながら破談にされて、婚約者でもない男と結婚せざるをえなかったなんてと、菜々子の気持ちを思うと憐れみの感情を抑えきれないが、撫子はなんとも困った顔をした。
「恐らく柚子が考えておるようなことではないので安心せい。むしろ菜々子菜々子は破談になって喜んでおる」
「どういうことですか?」
柚子が問うと、撫子はさらに困った顔で眉尻を下げた。
「素直になればいいものを、お互いが勘違いしておるせいでややこしくなっておる。まったく、やれやれじゃな」
撫子は扱いに困ったようにため息をついた。
「ん?」
意味が分からず首をかしげる柚子。
紗良を見ると、撫子と同じような顔をしていたので、恐らく事情を知っているのだろう。
けれど、この場で話すつもりはないようで、ふたりの話題はそこで強制的に切り上げられた。
柚子に残ったのは疑問だけである。