【先行試し読み】鬼の花嫁新婚編4~もう一人の鬼~


プロローグ

 
 多くの国を巻き込んだ世界大戦が起き、その戦争は各国に甚大な被害と悲しみを生み出した。
 それは日本も例外ではなく、大きな被害を受けた。
 復興には多大な時間と労力が必要とされると誰もが絶望の中にいながらも、ようやく終わった戦争に安堵もしていた。
 けれど、変わってしまった町の惨状を見ては悲しみに暮れる。
 そんな日本を救ったのが、それまで人に紛れ陰の中で生きてきたあやかしたち。
 陰から陽の下へ出てきた彼らは、人間を魅了する美しい容姿と、人間ならざる能力を持って、戦後の日本の復興に大きな力となった。
 そして現代、あやかしたちは政治、経済、芸能と、ありとあらゆる分野でその能力を発揮してその地位を確立した。
 そんなあやかしたちは時に人間の中から花嫁を選ぶ。
 見目麗しく地位も高い彼らに選ばれるのは、人間たちにとっても、とても栄誉なことだった。
 あやかしにとっても花嫁は唯一無二の存在。
 本能がその者を選ぶ。
 そんな花嫁は真綿で包むように、それはそれは大事に愛されることから、人間の女性が一度はなりたいと夢を見る。
 あやかしの本能は呪いのように花嫁に囚われる。
 しかし、花嫁の方はただの人間。
 あやかしのように本能により相手に惹かれるわけではない。
 それゆえに、愛する気持ちは永遠ではなく、心変わりする可能性もある。
 しかも、花嫁の中には愛しているからではなく、あやかしの地位や名声、財力に目がくらんで花嫁になることを選んだ者もいるのだ。
 そんな、相手への愛情も持たずに己の利益のみを考え花嫁になった者ならなおのこと、ためらいもなく簡単にあやかしを捨ててしまえる。
 花嫁を失ったあやかしが、その後どんな感情を抱きながら生きていくかも考えずに……。

一章

 柚子は久しぶりに祖父母の家を訪ねていた。
「柚子、なんだか久しぶりな気がするわ」
 柚子を出迎えた祖母が、嬉しそうに顔をほころばせながら柚子を軽く抱きしめる。
「元気そうで本当によかった」
「ごめんね、おばあちゃん。おじいちゃんも」
 祖母の後ろでは祖父が立っている。
 祖母と同じように元気そうな柚子の姿を見て一瞬安堵した顔をしていたが、すぐにそれは心配そうなものへ変わる。
「あれからなんともないのか、柚子?」
「うん。心配かけさせちゃってごめんね」
「柚子が無事だっていうならそれでいいのよ」
 と、祖母は柚子の手を優しく包み込む。
 最近祖父母と会えていなかった柚子。
 その間に柚子は、神との邂逅で行方不明になったり、何日も目を覚まさなかったりと、心配をかけるようなことばかりを起こしていた。
 それはほぼ柚子のせいなどではなく、諸悪の根源はあの神で間違いないのだが、心配をかけてしまったことに柚子は申し訳なくなった。
 今回の訪問は、もう大丈夫だと伝えるためでもあり、久しぶりに家族団欒してきたらどうかと、玲夜から勧められたからでもある。
「ほら、いつまでも玄関口で話してないで、中へ入ったらどうだ?」
 祖父の言葉にはたっと気がつく。
 久しぶりに会えた喜びで、まだ家の中に入ってさえいなかった。
「あら、本当だわ。さっ、柚子。今日は柚子の大好物をたくさん作ったのよ。今日はお泊まりできるんでしょう?」
 祖母がウキウキとした様子で嬉しそうに柚子が泊まることを嬉しそうにしている。
「うん。玲夜からもちゃんと許可もらったから」
「三人川の字で眠りましょう」
「あいあい!」
「あーい!」
 自分たちもいるぞと言わんたばかりに、柚子の肩に乗っていた子鬼がぴょんぴょん飛び跳ねる。
「あらあら、子鬼ちゃんたちも忘れていないわよ。皆で一緒に寝ましょうね」
「あーい」
「あい」
 クスクスと笑う祖母の言葉に、子鬼は嬉しそうに手を上げて返事をした。

 家の中へ入り、祖母が手作りしてくれたぼたもちをおともに、お茶を飲む。
 祖父母とこうしてのんびりとした時間を過ごすのは久しぶりだ。
「柚子が行方不明って聞いてすごく驚いてね、この人ったら裸足で探しに行こうとするのよ。そのうろたえ方っていったらひどくて、慌てて止めたわ。なんとか靴を履かせたけど、今度はスマホの代わりにテレビのリモコンを持って出ていこうとするし、大変だったのよ。その時の様子を柚子に見せたかったわ」
「お、おい!」
 祖母は冗談めかして笑うが、祖父は顔を赤くする。
 失態を晒されて恥ずかしそうだが、柚子としては心がほんわかした。
「おじいちゃん、ありがとう。いっぱい心配かけてごめんね」
 微笑む柚子に、祖父はぷいっとそっぽを向く。
「柚子が無事ならそれでいい」
 と、仏頂面でつぶやいた。
 一見すると怒っているようにも見えるが、それが機嫌の悪さからくる表情でないのは、誰の目にも明らかだ。
 祖父は、その時の己の行動が恥ずかしいだけである。
 それが分かるだけに、なんとも優しい空気が包み込み、敏感に感じ取った子鬼もニコニコしていた。
「玲夜さんも相当心配していたんじゃない?」
 祖母の問いかけに柚子は、当時の玲夜を思い出して苦い顔をする。
「心配通り越して、神様にブチ切れてた」
 柚子が止めなければ確実に社を壊しに行っていただろう。
「あらあら」
 困ったように頬に手を当てる祖母と、「当然だ」と怒りを顔に浮かべる祖父。
 祖父は腕を組みながら、玲夜に負けないぐらいかなりご立腹している。
「神だかなんだか知らないが、柚子をなんだと思ってるんだ」
「それは同意見だけど、神様なんて本当にいるのねぇ」
「だよねぇ」
 それに関しては柚子も祖母に同感だ。
 神様については、眠りから覚めなかった時に、理由を祖父母に説明するために伝えていた。
 最初こそ驚いていたが、柚子の周りにはなにかと人外な生物がたくさんいる。
 子鬼しかり、龍しかり。
 特に龍は、体の大きさも変えられたりもできる、本当に人ならざる存在だ。
 それを実際目にしているために、祖父母が神という存在を受け入れるのは比較的容易だった。
 祖父母からしたら子鬼も龍も神も、あまり変わらない不可思議な存在なのだから。
「柚子だけじゃなくて玲夜さんも病院に運ばれて不運続きだったわね」
「うん……」
 穂香によって神器で刺された玲夜は病院に運ばれ、しばらく意識が戻らなかった。
 刺されたといっても神器だったからか、体に傷はなく済んだのは幸いだと思ってよかったのだろうか。
 けれど、その代わりあやかしの本能をなくしてしまった。
「柚子を花嫁と感じなくなってしまったなんて、大丈夫なの?」
 祖母は心配そうにしている。
 そのあやかしの本能によって玲夜は柚子を見つけ、孤独が続く日々から助け出された。
 その本能がなくなってしまったなら、柚子への愛情にも変化があるのではないか。
 そう考えるのは、なにも柚子だけではない。
 祖父母もまた、玲夜が本能をなくすことに不安を覚えているようだ。
「病院に運ばれたけど体調にはなにも問題はないの。龍によると、私を花嫁だって本能で分からなくなっただけで、私が玲夜の花嫁であること自体に変わりはないんだって」
「でも、本能がなくなってしまったら、柚子のことは……。その……」
 祖母が言いづらそうにする。
 柚子の気持ちを考えて、その先の言葉を口にするのをためらっているようだ。
 気を遣わせているのが申し訳ない柚子は、努めて明るく振舞う。
「大丈夫。本能がなくなったって、玲夜は私のこと大事に思ってくれてるから」
「本当に大丈夫なの?」
「うん。正直私も離婚は覚悟の上だったんだけどね。本能をなくしたはずなのに、玲夜の態度がまったく変わってなくて、逆に驚いちゃった。義母様も桜子さんも心配して損したって反応だったし」
 それだけ全員万が一を覚悟していたのだ。
 だというのに、玲夜ときたら周囲の心配をよそに、それがどうしたと言わんばかりのいつもと変わらぬ様子。
 拍子抜けするのは当たり前だ。
「玲夜は、本能がなくても柚子が好きだから大丈夫だよー」
「玲夜の執着心は神様でも矯正不可なの~」
「うんうん、重たい男なのー」
「そうなの、ヤンデレってやつなの」
 子鬼の玲夜に対する評価に、普段どう思われているのかがうかがえる。
 子鬼たちは玲夜の使役獣だというのに、主人にこんなに厳しいとは。
 しかし、間違ってはいないので、柚子も複雑そうな顔をする。
「子鬼ちゃん……」
 玲夜が聞いたら眉間にしわを寄せそうだ。
 けれど、そんな子鬼たちの飾らない言葉は祖父母に安堵を与える。
「そうなのね。玲夜さんが変わりないようでよかったわ」
 ほっとした顔をするのは祖母だけでなく、祖父も無言ながら表情に表れていた。
「私たちにはあやかしの本能なんてもの分からなけど、その本能で柚子を見初めたのなら、本能がなくなってしまったら柚子を捨ててしまうんじゃないかって心配していたの。でも、違うのね。変わらず柚子を愛してくれているって知って安心だわ」
「おばあちゃん……」
 柚子の知らないところで心配をかけさせてしまっていたようだ。
 心から安堵する祖母の顔を見ていると、次第に柚子の顔が曇っていく。
 祖父母の心配を伝えられたからこそ、柚子は思わず自分の中にくすぶっているある気持ちが口から出てしまう。
「確かに玲夜は変わらずにいてくれてるけど、本能がなくなった以上、これからは絶対なんて言葉は言えなくなっちゃった……」
 しゅんとする柚子を見て、机の上に乗っていた子鬼たちが心配そうな顔で、柚子に近寄ってくる。
「最初は今の自分を好いてくれてたんだって強がって喜んでたけど、本能をなくしたなら、私から離れていくことだってあると思うの。でも、普通はそれが当たり前だよね。心の問題だからどうにかできるものじゃないもの」
 柚子は自分に玲夜をつなぎとめておくだけの魅力があるのかと、不安になっていた。
 玲夜が本能を失った当初はそれでも柚子を選んだと喜びの方が勝っていたが、時間が経てば経つほど考えさせられる。
 玲夜を信じていないわけではない。
 けれど、どんなに愛し合っていたとしても、別れる夫婦だっているのもまた事実なのだ。
 これからの柚子は、柚子の魅力で玲夜に好きでいてもらわなければならない。
「私の魅力ってなんだろ? 玲夜のようなすべてを手に入れているような人をつなぎとめておけるような力、私にあるのか……」
 柚子は己を客観的に見て、そんな魅力など『ない』と断言できる。
 玲夜のようなハイスペックな存在は、『花嫁』という価値をなくしたら、桜子ぐらいの器を持った人でなくては相応しくない。
 玲夜はいつまで自分を好きでいてくれるだろうか……。
 柚子は最近思考がマイナスになってしまうのを止めるのが難しくなってきていた。
 考えたところで、未来どうなるかなど分からない。
 あの両親の下で暮らしていたせいか、家族というものへの理想が強く、そのせいか少々玲夜に対して依存している部分があることを柚子は自覚しているため、玲夜に捨てられたらどうしようかという不安がつきまとう。
 花嫁に執着していたのは、なにも玲夜だけではないのだ。
 柚子もまた、花嫁という存在を心の支えとしているところがあった。
 憂鬱な気持ちを隠し切れず、柚子ははあっと重苦しいため息をつく。
 柚子のその様子に、祖母はクスクスと笑った。
 なぜ笑うのか分からない柚子がきょとんとする。
「おばあちゃん?」
「まあまあ、柚子ったら贅沢な悩みね。悩みというよりは惚気を聞かされているみたいだわ。ねえ、おじいさん」
「まったくだ」
 祖母に返事を求められた祖父は同意する。
 その顔は祖母と同じくにこやかな表情をしていた。
 柚子は自分の中にある不安を口にしたのに、どうしてそんな微笑ましそうにされるのか首をかしげる。
 慰めの言葉を期待したわけではなかったが、予想外の反応だ。
「玲夜さんはあやかしの本能をなくしても柚子を選んだんでしょう?」
「まあ、一応……」
「一応なんて言ったら玲夜さんがかわいそうよ。本能ではなく玲夜さん自身の心で柚子を選んだんだから、柚子はそれを受け止めればいいだけじゃないかしら?」
「そんな簡単に言って……」
 そんな単純な問題ではないはずだと柚子は眉尻を下げるが、祖母の優しいお説教は止まらない。
「簡単に考えればいいのよ。今の柚子を選んだんだから、魅力なんて柚子を選んだ玲夜さんが分かっているからいいじゃない。柚子は難しく考えすぎるわ。そもそも、好きって気持ちは努力でどうにかなるものではないんだから、悩むだけ無駄よ」
「無駄……」
 まさか自分のここ最近の苦悩が『無駄』と、バッサリ切られるとは思わない柚子は唖然とする。
「好きな時はどうしたって好きだし、嫌いになる時はどんなに頑張ったって嫌いになるものよ」
 その言葉には年長者ならではの説得力があった。
 ようやく柚子の顔に笑みが浮かぶ。
「おばあちゃんにもそんな時があったの?」
「それはもちろんよ。おじいさんと結婚してからもいろいろとあったわよ。ここではあえて言わないけど」
 祖母が祖父の方を見ながら微笑むと、祖父は居心地が悪そうにして、空気を変えるように咳払いをしてから「あー、少しトイレに行ってくる」と言って部屋を出ていった。
 その様子を楽しげに見る祖母は、完全に祖父を尻に敷いているように感じた。
「なにかあっても乗り越えるのが夫婦よ。柚子も不安になることも多いでしょうけど、二人三脚で頑張りなさい」
「うん」
 力強い祖母からの助言によって、柚子の表情は晴れやかになったようにも見えた。



***

 一方その頃、柚子が無事に祖父母の家に到着したというメッセージが玲夜の携帯に届いていた。
 柚子につけていた護衛からの連絡だ。
 メッセージを確認して安心する玲夜は、わずかな名残惜しさを感じつつ、携帯をデスクの上に置いた。
 本当は玲夜も柚子と一緒に行きたかったが、久しぶりに会う祖父母との水入らずの時間を邪魔しない方がいいだろうと気を利かせ、玲夜自身は会社で仕事をすることを選んだ。
 柚子は今日祖父母の家に泊まる。
 つまり、仕事を終えて帰っても、屋敷に柚子の姿はないのだ。
 そのことを考えるだけで、帰宅が億劫で憂鬱なものとなる。
 自然と漏れたため息に、玲夜の秘書である荒鬼高道は苦笑する。
「玲夜様、たった一日だけですよ」
「分かってる……」
 分かっていても心が納得するかはまた別なのであった。
 わずかに機嫌を悪くしたのを察した高道はやれやれという様子で、仕事に取りかかった。
 今の玲夜になにを言ったところで意味はないと思ったのだろう。
 玲夜も柚子のことを考えないで済むように仕事に意識を向ける。
 そうして仕事を進めてからしばらく、部屋がノックされる。
 すぐさま高道が動いたが、対応するより先に扉が開き、なんとも元気のよい声が響いた。
「玲夜様、お疲れ様です~」
 陽気な笑みで入ってきたのは、副社長であり、鬼龍院の筆頭分家の嫡男、鬼山桜河である。
「桜河、返事をする前に入ってきては意味がないでしょう!」
 目を釣りあげて高道が苦言を呈するが、桜河は気にした様子はない。
 桜河と高道はひとつしか年齢が変わらず家同士も鬼の一族の中で当主に近い地位にあるからか、昔からの友人なので気安いのだ。
 高道も自分に対してその態度は気にしていないが、それが玲夜にも向けられるとあらば、玲夜至上主義の高道としては黙っていられない。
 だが、桜河は玲夜を前にしても、軽くチャラいと言われてもおかしくない態度を変えない。
 もちろん、その言葉の話し方はきちんと気を遣っていると感じられるものなので、玲夜も余程のことがない限り文句を言うことはなかった。
 いや、他者への興味が希薄な玲夜は、ただどうでもいいと思っているだけである。
 いちいち注意するほどの関心がないのだ。
 長年そばで働いている桜河にだとしても……。
 玲夜が大きく心動かされるのはこの世界でただひとり、柚子だけ。
「仕事はどうしたのですか?」
「休憩だよ、休憩。それと、玲夜様調子をおうかがいにさ」
 高道と桜河がそんなやり取りをしていても、興味がなさそうな玲夜の前に、桜河は紙袋を置いた。
 これはなんだと問うような訝しげな玲夜の眼差しが桜河に向けられる。
「玲夜様の退院祝いです……と言っても、玲夜様はそんなものもらっても喜ばないでしょうから、柚子様への贈り物です」
「柚子に?」
 それまでその目に映っていたのは『無』だったというのに、柚子と聞いた瞬間に玲夜の目に感情が宿る。
 その様子が興味深いというように玲夜見る桜河は、ニコリと笑った。
「今、女性秘書の間で人気のお店の限定スイーツなんですよ。お願いして買ってきてもらいました。きっと柚子様なら喜ぶと思いますよ。玲夜様から渡してあげてください」
 自分が買ってきたわけでもないのにドヤ顔の桜河に、高道の目は冷たいものだ。
 けれど、喜ぶ柚子の顔を思い浮かべる玲夜の表情は柔らかい。
「そうか。礼を言う」
「いいですよ~。柚子様も何日も目を覚まさなかったりと、最近はいろいろ大変なことが続きましたからね」
「……まったくだな」
 ボキリと、玲夜が持っていた万年筆が折れる。
 いや、折れるという言葉では足りないほど粉砕しているではないか。
 その瞬間、桜河と高道の顔色が悪くなった。
 玲夜からは並々ならぬ覇気が発せられており、まさにブチ切れ一秒前。
 魔王がいつ降臨してもおかしくない状態である。
「俺、なにかお気に触るようなこと言いましたか……?」
 顔を引きつらせながらも恐る恐る問う桜河は、素晴らしい勇気の持ち主である。
 だてに副社長として玲夜の右腕をしているわけではない。
「あのクソ神を思い出しただけだ。考えるだけで忌まわしいっ!」
 その顔はまさに魔王。
 思わず一歩下がる桜河。
「あの神のせいでいったいどれだけ柚子が迷惑を被り、泣いたか。俺があやかしの本能まで奪われたのも、元を正せばあの神のせいだ。社を解体しようとしたが、残念ながら柚子に止められたから今はなにもしないが、そのうち必ず礼はさせてもらう」
「いやいや、相手は神ですから、どうか穏便にお願いしますよ。玲夜様になにかあったら柚子様が悲しまれますからね。ねっ?」
 玲夜を説得する桜河の顔は真剣そのもの。
 高道も、桜河の隣でこくこくと頷いている。
「ちっ」
 玲夜は憎々しそうに舌打ちをするが、行動に起こすのは止められたようだと桜河はほっとした顔を見せる。
 玲夜になにかお願いを通す時は柚子の名前を出すのが一番だと、玲夜の周囲にいる者には常識であった。
 玲夜が感情に振り回される理由となるのが柚子なら、そんな玲夜を止められるのも柚子なのだ。
 桜河は冷静さを取り戻した様子の玲夜の顔を見ながら問いかける。
「玲夜様は神器によって、あやかしの本能をなくされたのですよね?」
「ああ……」
「それってどんな感じなんですか? そもそも花嫁を見つけたあやかしの気持ちを俺は分からないですけど、花嫁である柚子様への本能をなくして、どんな変化があったのですか?」
「桜河」
 不躾に問いかける桜河に、高道が窘めるように名を呼ぶが、桜河は質問を撤回するつもりはなさそうだ。
「いいじゃないか、高道。少し気になったんだよ。本能を失っても、玲夜様は相変わらず柚子様への気持ちに変わりがない。本能をなくして、なにかしらの変化があるのかと知りたいんだ。なにせ、他に神器で刺されたあやかしは花嫁を捨てたっていうじゃないか。玲夜様はそんなあやかしたちとなにが違うのか、高道だって気にはなるだろう?」
「それは……」
 すぐに否定できないところが、桜河の言葉を肯定しているのを意味していた。
 玲夜はじっと桜河の顔を見てから、デスクの上にある携帯へと視線を移し、口を開く。
「そうだな。本能をなくしたのにはすぐに気がついた。だが、それによって柚子への気持ちが大きく変わったりはしていない」
「それだけ玲夜様は、柚子様をひとりの女性として愛していたという証ですね」
 なぜか桜河は嬉しそうに笑うが、実際はそんな笑える状況になかった。
 もし玲夜が柚子を花嫁と認識しなくなったといって柚子を捨てていたら、神の鉄槌が鬼龍院だけでなく鬼の一族に落ちていたかもしれないのだ。
 今笑っていられるのも、玲夜が心変わりしなかったからである。
「ですが、玲夜様自体の心は変わっていなくても、本能に関してはどうなんです?」
 桜河は遠慮なしにどんどん質問していく。
「正直、あやかしの本能の部分についてはかなり大きく変化している」
 玲夜は不快そうに眉をひそめた。
「柚子が大事なことに変わりはない。だが、本能で柚子が花嫁だと感じていた時は、柚子との間に一本の太い線でつながれているような感覚があった。それによって酔うような多幸感に満たされ、充足感もあった。だが、神器で刺されて以降は、その線が断ち切られ、柚子をそばに感じられなくなった気分だ。まったくもって不快でならない」
 玲夜はその言葉通り、不快感に溢れた表情をする。
「なるほど、興味深いですね。他のあやかしは花嫁を捨てたのも、つながりが切れたように感じたからでしょうか?」
「さあな。そんなことどうでもいい。俺が変わらず柚子を愛しているならな。それに、柚子からしたら俺が本能をなくした方がよかったのかもしれない」
「どうしてです?」
 玲夜がそんな風に思っていることに対して、桜河は少し驚いた様子で問い返す。
「何度も言うが、柚子への想いはなんら変わりない。だが、本能を失ったことでそれまであった激情が和らぎ、少し冷静に柚子のことを考えられるようになった気がする。あやかしの花嫁へ向ける感情が、時に花嫁を傷つける結果になることは桜河も知っているだろう?」
「そうですね」
「柚子を感じられる本能を取り戻せるものなら取り戻したい。だが、俺は柚子のことになるとどうしても余裕をなくしがちだからな。柚子の前では頼れる夫でいたいとも思う」
 玲夜は小さく息をついた。
「柚子への執着が多少薄れた方が、柚子も息が詰まらなくていいだろ」
 そう、玲夜は柚子の姿を思い浮かべながら考えを口にした。
 不満がありつつも今の状況に納得しているという様子である。
 しかし……。
 桜河と高道は目を合わせ、なんとも言えない表情を浮かべた。
 お互い考えていることは同じなのだと、その表情から察せられ、高道はこめかみを押さえ、桜河は回れ右をして背を向けた。
「じゃ、じゃあ、俺は仕事に戻りますねー」
 玲夜に自分の表情を隠すように、桜河は足早に部屋から出た。

 そして、そのまま自分の仕事部屋である副社長室へと戻った桜河はつぶやく。
「いや、玲夜様の、あれって無自覚?」
 桜河は玲夜の顔が真剣そのものだったのを思い浮かべる。
「いやいやいや。本能がなくなっても、十分柚子様に執着してるし、柚子様中心に物事考えてますよ、玲夜様」
 ひとりしかいない部屋でツッコム桜河。
 玲夜の言葉の端々から溢れ出て、隠しきれていない柚子への執着心。
 本人は薄れた方がなどと言っていたが、まったく薄れている気配がない。
 きっと柚子になにかあったら、変わらず余裕がなくなる様子が目に浮かぶ。
「本能を越えるほど重たい愛って相当だな」
 玲夜の並々ならぬ柚子への想いに、桜河は誰もいない部屋で呆れていた。
「こりゃ、柚子様には一生玲夜様と生きていく覚悟をしてもらわないとだな」
 本能がなくなったからと、今後柚子を離すかもしれないと期待しても無駄だと感じる。
 もはや玲夜が抱く想いそのものが呪いと化している気がして、柚子への憐憫が浮かぶ桜河だった。
二章

 祖父母でのお泊まりを終え、屋敷に帰ってきた柚子を待っていたのは玲夜だ。
 普段ならばまだ仕事の時間だというのに、帰ってくる柚子を迎えるため、早めに仕事を切り上げてきたらしい。
 そのしわ寄せがどこへ行くのか気になるところだ。
 案の定というか、予想通りというか、仕事は桜河に押しつけきたと聞いて、柚子は静かに心の中で合掌した。
 玲夜の表情を見ても悪いと思っている様子はなく、なおさら桜河へ憐れみの気持ちが浮かぶ。
「玲夜、いつか桜河さんがストライキ起こすよ」
「安心しろ。桜河にそんな気概はない」
「気概がなきゃいいという問題じゃないと思うんだけど……」
 もう少し優しくしてあげてもいいと思うのだが、柚子がなにを言っても『大丈夫』、『問題ない』の一点張り。
 鬼山家は代々鬼龍院当主の側近を務めている。
 桜河の父親もまた、玲夜の父親である千夜の右腕として仕えている。
 なので、鬼山家の次の家長となる桜河を信頼しているからこそ、厳しい扱いをするのかもしれないと、いいように受け取ることにした。
 肩に乗った子鬼が柚子の耳のそばで、「違うよ」とか「使いやすいからだよ」とか言っているが、聞かなかったことにする。
 すると、玲夜から紙袋を渡された。
「土産だ」
「わあ、ありがとう」
 柚子は中身を確認して目を丸くする。
 最近テレビなどでも紹介され、すぐに売り切れてしまうために入手困難とされているスイーツが入っており、否が応でも表情がほころんだ。
「どうしたの、これ?」
「桜河が持ってきた。俺への退院祝いらしいが、柚子へ渡した方が喜ぶだろうと言ってな」
「確かに嬉しいけど、なおさら申しわけなくなるんだけど……」
 柚子は複雑な顔になる。
 桜河は高道とは違うところで、なにかと気が利く。
 見た目や話し方は真面目とは言い難いが、その性格は気遣いの塊のように生真面目で、それゆえになにかと玲夜に面倒事を押しつけられている苦労性である。
 スイーツは嬉しいが、桜河にこそ、スイーツのように甘いご褒美が必要な気がした。
「玲夜、ちゃんと桜河さんに休日あげてね」
「最近は労働環境にうるさいからな。ギリギリ法律は守ってる」
「ギリギリなんだ……」
 それでも、ちゃんと守っているなら問題ないだろうといいように取ることにした。
 玲夜ならば無言の圧を与えて、サービス残業を普通にさせていそうだったので、少し安堵する柚子だった。

 そのままふたりは早めの夕食をする。
 向かい合って座る柚子と玲夜。
 柚子の横にはまろとみるくがちょこんと礼儀正しく座り、柚子の卓に乗っている焼き鮭に目が釘付けだ。
 まろが欲しいと催促するように柚子の膝をちょんちょんと優しく前足でタッチする。
「だーめ。猫に塩っけがあるものは厳禁なんだから」
 と、言いながら柚子は、二匹が霊獣であることを思い出す。
 見た目も行動も猫そのものなので忘れがちだが、龍と同じ霊獣であり、普通の生き物ではないのだ。
 そもそも初代鬼の花嫁だったサクとつながりがあるようなので、相当な年月を生きていると予想された。
「えっと……駄目だよね、玲夜?」
 柚子は自分では判断できなくなり玲夜に問うが、玲夜も難しい顔をした。
「さあな。そもそも霊獣は普通の猫ではないだろう。食べ物ぐらいで体調を崩すような弱い生き物ではない。そこらのあやかしより強いんだからな」
「神様も眷属だとか言ってた」
 神の眷属がどういう存在か知識の乏しい柚子には分からなかったが、少なくとも塩をまぶしてある焼き鮭を食べてどうにかなるとは思えない。
 なにせ、龍がまだ一龍斎に囚われていた頃に、あやかし最強と次点の霊力を持つ千夜と玲夜の攻撃を跳ね返すほどの力を見せていた。
 そんな龍と同じ霊獣であると考えると、下手をすると鬼より強い可能性があるのだから。
「うーん」
 柚子は悩みつつ、いまだにちょんちょんと手を差し伸べるまろを見つめた。
 すると、トコトコと子鬼がやって来る。
「大丈夫だってー」
「龍もたくさんご飯食べてるから」
「それもそっか」
 ご飯どころかお酒を瓶でラッパ飲みしているぐらいだ。
 飲酒するよりはまだましと思えるのだから、ずいぶんと人間の常識からかけ離れた生活を暮らしているなと柚子は遠い目になった。
「じゃあ、ちょっとだけね」
「アオーン」
「にゃんにゃん!」
 みるくが自分もと主張するように鳴く。
 まろにあげようと、、少しだけ箸で切り分けて手のひらに乗せた焼き鮭をみるくが横から奪い去った。
 がーんとショックを受けるまろに、柚子は慌ててまろの分を再度手のひらに乗せて与えると、嬉しそうに食らいついている。
「本当に大丈夫かなぁ」
「大丈夫ー」
「普通のにゃんこは駄目だけど、まろとみるくだから問題ないよー」
「子鬼ちゃんたちがそう言うなら……」
 恐らく龍以外で誰よりまろとみるくという存在を知っているのは子鬼だと柚子は思っていた。
 なので、子鬼たちの言葉への信頼は大きい。
「柚子、そんなことをしていたら自分のがなくなるぞ」
 なんとも美味しそうに食べているまろとみるくを見るのに夢中になっていた柚子に、玲夜が呆れたように声をかけてくる。
 はっとした柚子は、三分の二ほどになった焼き鮭を慌てて食べ始めた。
 このままでは二匹に食べ尽くされてしまう。
 一生懸命口を動かす柚子を、玲夜は愛おしげな眼差しで見ていた。
 それは本能をなくす前と変わらぬ優しい目。
 柚子はそんな玲夜の様子に静かに安堵するのだった。
 玲夜は変わっていない。
 本能がなくとも心はつながっているのだと感じられ、柚子には自然と小さな笑みが浮かぶ。
「玲夜はしばらく忙しそう?」
「そうだな。まあ、いつも通りだ」
 それはつまり忙しいと言っているようなものだ。
 大会社のトップに立つ玲夜が暇なはずがない。
 それでも柚子といられる時間を少しでも長く作ろうと努力してくれている。
 それは高道や桜河といった周りの協力もあってこそだ。
 柚子と出会う前は仕事第一の生活だったというのだから、柚子には信じられない。
 柚子の知る玲夜は仕事嫌いで、休めるものなら休みたいと言わんばかりに面倒臭そうな空気を発しているのだから。
 いや、実際に言葉にして仕事に行きたくないと言っていることも多々ある。
 柚子という唯一無二の存在ができたからこそ生まれた気持ち。
 今の玲夜は仕事などより柚子との時間の方が、ずっと大事なのだ。
「柚子も来週から学校か」
「うん!」
 楽しみだと明るく返事をする柚子に対し、玲夜の表情は険しい。
 行かせたくないと言いたいのだろうが必死に我慢しているようだ。
 しかし、口よりも雄弁に語るその眼差しに、柚子も苦笑する。
「一年だけだからね。あ、もう夏休み終わるからあと三分の二ぐらいかな」
 何度口にしたか分からない言葉。
「分かってる……」
 そう言いつつも、納得はしていないという顔だ。
「かくりよ学園ではできなかった友達もできたの。それだけでもあの学校に通えて嬉しい」
 入学してすぐ話しかけてくれて仲良くなった片桐澪。
 そして、最初は険悪な空気でにらまれ続けていたが、のちに仲良くなれた鳴海芽衣。
 芽衣に関しては少々ツンデレなところがあるようで、素直に友達と言うのには恥ずかしそうだ。
 けれど、鬼龍院の花嫁と知ってなお普通に接してくれるふたりに出会えたのは、奇跡のような巡り合わせだったのではないかと柚子は思っている。
 それだけでも、あの学校に通ってよかったと感じる。
「柚子が幸せだと感じるなら、俺はそれでいい」
 やれやれという、どこかあきらめたようにも思える玲夜の笑みに、柚子も笑い返した。
「うん。幸せ!」
 自分ほど恵まれた人間はいないのではないかとすら思うほど、柚子は今の環境に満足していた。

 そして日は経ち、学校が始まる。
 一年で卒業の料理学校は、もう数カ月となっている。
 それまでに可能な限りの知識を身につけなければと、柚子もやる気に満ちあふれていた。
「よし、今日からまた頑張るぞ」
『作ったものは我が食べてしんぜよう』
 カッカッカッと笑う龍のなんと恩着せがましいことか。
 しかし、実習でたくさん料理を作るのは避けようがない。
 食べて味を見るのは当然の流れだが、全部食べていると正直太る。
 柚子も料理学校に通い始めてから少々体重が気になり始めていた。
 そんな話を玲夜にしたところで重く受け止めてくれないと確信できるのは、喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか分からない。
 けれど、このままではヤバいと思っている学生は少なくなく、柚子が味見を終えたものを龍に食べさせているのを見た芽衣が、そっと近づいてきて龍にコソコソと話しかけてから食べさせているのを柚子は見ないふりをしていた。
 いったいこの小さな体のどこに消えていくのか不思議でならないが、学校へ行く際に、龍の存在は必要不可欠となっていた。
 芽衣からも必ず連れてこいという圧がかけられているので仕方ない。
 芽衣からだけでなく、他にも何人からか残り物をもらっているようなので、龍を連れていかないとがっかりする者は結構いそうだ。
 ただ、柚子に対して悪意を持っている、あるいは持っていた者に対しては龍も冷たく、どんなに美味しそうな料理を持ってこられても子鬼とともに追い返しているようだ。
 別に柚子は気にしていないのだが、龍としては柚子に悪意を持った時点で敵認定しているようで、芽衣に対しても少々素っ気ないところがある。
 ただ、柚子が仲よくしたがっているので表向き友好的に接しているだけという感じがしていた。
 コックコートに着替えた柚子が教室へ入り席へ着くと、すぐに芽衣が寄ってくる。
 澪はまだ来ていない。
 澪は芽衣と相性が悪いようで、お互い顔を合わせるとバチバチと見えない火花を散らすので、まだ登校していないのは助かった。
「あのさ、ちょっといい?」
「うん、いいけど?」
「なんていうか、すごく言いづらいんだけど……」
 その顔はどこか気まずそうで、表情が優れない。
「どうかした? まさか、鎌崎がまたなにかーー」
「ち、違う違う! あいつはあれから来てないわ」
 芽衣を花嫁だと言って付きまとっていたかまいたちのあやかしの鎌崎。
 彼は執拗に芽衣を狙い、手に入れるために手段を選ばず嫌がらせを繰り返していたが、穂香によって神器で刺されて以降、花嫁への執着心を本能とともに失い、芽衣への興味をなくしていた。
 芽衣の気の強さが表れた雰囲気が消えていたのでてっきりなにか起きたのかと思った柚子だっが、早とちりだったようでほっとする。
「それならいいけど、なにかあったの?」
「うん……」
 芽衣は視線をさまよわせて、なかなか話し始めない。
 余程のことかと身構える柚子は根気よく待った。
 そして、ようやく芽衣が口を開く。
「鬼龍院さんなんだけどさ、あんた浮気されたりしてない?」
「…………え?」
 たっぷり時間を終えて柚子から出たのは、素っ頓狂な声だった。

「あ、それかよく似た親戚とかいないの? そっちの方が可能性高いかも!」
 はっとして表情をやや明るくする芽衣からは、そうあって欲しいという願望が含まれているように思えた。
「え、なに? どういうこと?」
 目の前で会話をしていて、玲夜が浮気をしていないかという先程の言葉を聞き逃すはずがない。
「玲夜が浮気?」
 その言葉がグルグルと柚子の頭の中を回っていたが、脳が理解することを拒否するように意味が分からない。
『あやつめ、とうとうやりおったか!』
 どこか嬉しそうにしている龍をにらむ柚子は、むぎゅっと両手で掴んで黙らせると、芽衣に先をうながした。
「なにかあったの?」
「あったっていうか、見ちゃったっていうか……」
 芽衣は気まずそうに視線をさまよわせてから、意を決したように話し出す。
「私もちゃんと近くで見たわけじゃないからね! 見間違えだと思うから! 絶対そうだろうし」
 芽衣は力強い声で念を押す。
「うん」
 柚子が頷いたのを見て、真剣な顔で話した。
「昨日なんだけど、夕方頃に町へ出かけてたら鬼龍院さんによく似た人が女の人と歩いてたの」
「女の人と歩くぐらい普通にあるんじゃない?」
 昨日といえば仕事だったはずだと柚子は玲夜のスケジュールを思い浮かべる。
 いつものように高道が迎えに来ていたので間違いないはずだ。
 そうなると仕事関係で女性と町を歩くぐらいしていてもおかしくはない。
 女性とふたりきりだとしても、町を歩いていたぐらいで浮気だと騒ぐほど柚子は狭量ではないつもりだ。
 もちろん、実際に目にしたら多少のやきもちは焼いてしまうかもしれないが、それで怒ったりはしない。
 柚子もこれまでいろんな問題を乗り越えてきて心が強くなったと自覚している。
 それでもまだ芽衣の表情は晴れない。
「そりゃ、ただ歩いてただけなら私もこんなこと言わないけど、そのふたり腕組んで歩いてたのよ。しかも人目をはばからずいちゃついて、そのままホテルに入っていっちゃうんだもん。さすがに部屋まで追いかけられなかったけど……」
「うん、それは追いかけちゃ駄目だって」
「分かってるわよ。あんたと違ってそこまで考えなしじゃないわ!」
「私と違ってって……」
 玲夜の浮気疑惑より、地味にそっちの方が傷つく柚子である。
 しかし、覚えはありあまるほどあるので否定ができないのが悲しい。
 この時ばかりは子鬼たちも龍も芽衣に味方し、激しく同意するように頷いていた。
「それって本当に玲夜だった?」
「あんな美形そうそういてたまるかっての! 長身でスタイルもよくて、目だって赤くて、黒髪で……でも、髪が少し長かったような……? いや、そんなのウィッグでなんとかなるか。だけど、ちょっと鬼龍院さんより年齢高そうだったような気がしなくも……」
 最初こそ自信満々だった芽衣も、だんだんと確信を持てなくなってきたようで言葉に迷いが出てくる。
「あー、でもそうよね。かなり親密な様子だったから浮気を疑ったんだけど、よく考えると花嫁のいるあやかしが裏切って浮気なんてするはずなかったわ。少し冷静になれば気がついたのに」
 芽衣はそう反省しながら頭を押さえている。
「心配して損したー。きっと親戚かなにかよね。世の中には三人同じ顔の人がいるって言うし。まあ、あんな顔が三人もいたら大騒ぎでしょうけど」
 肩の荷が落ちたように安堵を浮かべる芽衣は、玲夜の浮気疑惑をあっさりと撤回した。
 だが、柚子は微妙な顔をした。
 それは、玲夜がもうあやかしの本能がないと知っているからである。
 玲夜はなにひとつ柚子に囚われていないのだ。
 芽衣はそれを知らないからこその発言で、あやかしの本能を身をもって知っている芽衣だからこそ導き出した結論だった。
「一応写真撮っておいたんだけど無駄になったわね。最悪離婚訴訟になった時の証拠になるかと思ったんだけど」
「写真があるの?」
「見る?」
「うん」
 柚子は迷わず返事をした。
 どれほど似ているのかという興味が心を占める。
 まさか玲夜が……などという気持ちはほとんどなく、玲夜が浮気をしているなど、柚子は微塵も思っていなかった。
 だがしかし、芽衣から見せられた画像に写っていた人物はどこからどう見ても玲夜で、子鬼も驚いて目をまん丸にしている。
「あいー」
「あい」
「玲夜?」
「うん、玲夜」
 呆気にとられる子鬼の隣で、龍が怒り出す。
『あやつめ、やっぱり浮気しておるではないかぁぁ!』
 体をくねらせながら憤慨する龍の動きの激しさに、龍を掴んでいた柚子は手を離してしまう。
 ぼちゃっと机の上に落ちた龍は『ぎゃんっ』と変な声を出した。
 一瞬気が削がれたようだが、顔を上げて画像が映っているスマホの画面に近付く。
「なんかSNSでも少しざわついてたのよね。鬼の次期当主ってだけじゃなく、政治経済にも影響のある大会社の社長の上、あの容姿の鬼龍院さんはメディアにはほぼ出ないけど、知ってる人は知ってるし。そんな人が女といちゃいちゃしながら町中を歩いてたらそりゃあねえ」
 芽衣は柚子を気にしながらもさらにみずからが調べた情報を伝えた。
「どうやら私が見た日だけじゃなくて、SNSで探してみると最近いろんなところで出没してるらしくて、そのたびに違う女性連れてるって話で……」
 芽衣は他の人が隠し撮りしたと思われるSNSの投稿写真を見せた。
 それはひとつだけではなく、別々の日にそれぞれ違う女性を連れていた。
『うぬぬぬぬ!』
 親の仇を見るような眼差しで、まるで恋人同士のように親しげに腕を組む女性に寄り添う玲夜に怒りを静かに溜め込んでいる。
『これはもうあの方にチクって鬼龍院ごと木端微塵に吹き飛ばしてくれようぞ!』
「馬鹿なこと言わないの」
 べしんと、まろが猫パンチをするように龍の頭を軽くはたくと、蛙が潰れたような姿で机に倒れる。
 しかし、すぐに起き上がり、恨めしげな目を柚子へと向けた。
『なにをするのだ、柚子ぅぅ。浮気をされたのだぞ。どうしてそんなに冷静なのだ!? もっと怒ってよいのだぞ! 我が必ず仇を取ってやる。童子たちも手伝うであろう?』
「あーい!」
「やー!」
 龍に感化されてやる気をみなぎらせている子鬼たちは、玲夜に向けてか見えない敵に対するようにシュシュっとパンチを打っている。
 元の主人にそんな態度で大丈夫なのかと心配になってくる子鬼の行動だ。
 しかし、玲夜は特に気にしなさそうではある。
 まさに『柚子を守る会』を発足しようとしている龍と子鬼たちを困ったような顔で見る柚子は、再度画面へと目を向けた。
 そして、柚子は確信を持つと同時に、玲夜の浮気と聞いてもまったく揺れなかった自分の心に成長を感じる。
 いや、小指の先程度には心がざわついてしまったものの、それだけだ。
 昔の柚子だったならこれほど平静ではいられなかっただろう。
 そう考えると、玲夜との深いつながりを感じて柚子も嬉しくなる。
「これは玲夜じゃない」
 柚子の一ミリの揺らぎもない確信を持った力の入った言葉に、うにょにょと怒り心頭状態だった龍がぴたりと止まる。
『あやつではない?』
「うん、絶対違う」
 柚子はまたもや断言する。
 それは龍もが驚くほど自信を持った声で、今さっきまでの龍の怒りをどこかに吹き飛ばしてしまうほどだ。
 画面にいる人物は確かに玲夜にそっくりだったが、毎日そばにいる柚子にはそれが玲夜でないのは一目瞭然だった。
『どうしてそんなことが言えるのだ? 柚子がそう思いたくないだけではないのか?』
 どこかふてくされたような龍に、柚子もあきれ顔だ。
 龍はどうしても玲夜を浮気男にしたいらしい。
「逆にどうして見分けがつかないの? 玲夜と全然違うじゃない」
「んー?」
「あいー?」
 子鬼はもう一度じっくりと画面を見て首をかしげている。
 言われてみればそんな気もしなくもないかも……。という表情だ。
 けれど、柚子のように断言できるほどではない様子。
「まったく、子鬼ちゃんたら。玲夜が聞いたら泣いちゃうよ」
「あいあい」
「あいー」
 玲夜が泣くなんてありえないと、そこに関しては断言するように顔を横に振った。
「玲夜は子鬼ちゃんたちからどう思われてるんだろ……」
 玲夜に懐いてはいるが、決して善人だとは思われていない気がしてならない。
 とはいえ、柚子も玲夜がそう簡単に泣く姿は想像できないので、それ以上のツッコミを入れたりはしなかった。
 ただ、少なくとも玲夜の浮気疑惑は間違いであると知れたことは素直に安堵した。
 龍はまだ疑惑の目つきだが、柚子が玲夜を信じているのだから問題はない。
 きっと玲夜もそうだろう。
 しかし、これほど玲夜に似ている人物はとても他人とは思えなかった。
 芽衣が親戚かと聞いてくるのも頷ける。
「鬼の一族にこんな人いたかな?」
 これほど玲夜に似た鬼がいたなら、自分がまったく知らないはずはないだろうと、柚子は思った。
 これほどの美しい容姿を持っていたら、噂ぐらいは聞いていてもおかしくない。
 柚子と玲夜の結婚式には参加していない鬼の一族も一部存在する。
 高道の祖父である天道を筆頭にした先代当主の側近たちだ。
 欠席したのは比較的年配に偏っていた。
 とはいっても、あやかしは人間に比べると見た目で年齢が分かりづらい。
 なにせ、玲夜の親にもかかわらず、息子より若く見える千夜と沙良という例がいるのだから。
 撫子とてそれは同じ。玲夜と同年代の息子がいるような年齢にはまったく見えないのだから、見た目で年齢を計ろうとするのは無謀である。
 考えを巡らせている時、ふと柚子の頭をあることがよぎりはっとした。
 神器を穂香に渡したという玲夜に似た人だ。
 確かに画像の人物は玲夜に似ている。
「まさか……」
 そう思いつつも、柚子ひとりで判断できる問題ではなかった。
「芽衣、その画像、私の携帯に送ってくれる?」
「いいわよ」
 芽衣は柚子が否定したことで、先程まで浮かべていた不安そうな表情も消えていた。
 携帯を操作して柚子の携帯に画像が届くと、それを玲夜の携帯に転送する。
 すぐに既読がついて、柚子は少々複雑だ。
 あいかわらず、柚子の送るメッセージとなると反応が早い。
 ちゃんと仕事に集中しているのだろうかと心配になる早さだ。
 そして、すぐに電話がかかってきた。
「もしもし、玲夜?」
『どうしたんだ、突然こんな画像を送って来て』
 柚子は芽衣が見た玲夜に似た人物の話と、SNSで調べた話とを伝えた。
『その件か』
 玲夜は特に驚いた様子はなかった。
「玲夜は知ってたの?」
『知っていたというか、軽く報告を受けた程度だな。高道がなにか言っていた気がするが、俺が浮気するはずがないとちゃんと分っているから大した問題にはなっていない。まさか柚子は疑ったりしていないだろうな?』
 わずかに声が低くなった気がして柚子はひやりとする。
 とばっちりを受けかねないと、慌てて否定した。
「してないよ! 画像見たらそれが玲夜じゃないことはすぐに分かったもの」
『それならいい』
 途端に声が優しくなって柚子はほっと息をつく。
 ここで疑いましたなどといった、お叱りコースに間違いなく突入してしまう。
 柚子はなにひとつ疑わなかったのだから、胸を張って否定しておく。
「ほんとに玲夜を疑ったりしてないからね。子鬼ちゃんたちは疑ってたけど……」
「あいっ!」
「あい!?」
 ついポロリと零してしまった言葉に、柚子に裏切られた子鬼ふたりが焦った顔をする。
 けれど事実なのだから仕方ない。
「あと、龍も」
『帰ったら尻尾に煮干しをくくりつけて猫たちの前に放り込んでやろう』
 まろとみるくが恐ろしい眼光で龍を追いかけ回すのが目に浮かぶようだ。
「だって」
 柚子が龍に目を向けると、激しく机が揺れるほど体を震わせて動揺している。
『なんだと! 貴様鬼か!』
「いや、鬼でしょう」
 即座にツッコんだ柚子。それにかんしては誰も否定しようがない。
『ぐおぉぉぉ』
 体をうにょうにょさせて悶える龍を放置して、柚子は玲夜との話を再開させる。
「穂香様が言ってた、神器を渡した玲夜に似た人の話覚えてる?」
『ああ』
 玲夜も声色を真剣なものへと変えた。
「関係あったりする?」
『その件は今高道が調査中だ。本当は少し前から桜河の秘書が町中で見ていたらしいんだが、桜河が高道に報告し忘れていたようで、数日前に知ったところだ』
 若干桜河の名前を呼ぶ時に険がある気がして、柚子は桜河の身が心配になった。
 玲夜の表情は直接見えないというのに、なんとなく想像ができるところが玲夜と共有した時間を感じさせる。
 恐らく魔王が降臨しかかっているに違いない。
「SNSにもいくつか画像が投稿されているから、穂香様に直接確認してもらうのがいいと思うんだけど協力してくれるかな?」
『父さんと母さんに話を通しておく。まあ、基本的にあの女に関しては母さんの管理下にいるから、母さんがなんとかしてくれるはずだ。せっかく置いてやっているんだから、情報提供ぐらい役に立ってもらわないとな』
 穂香のことを話す声が低くなっている。
 神器で刺されたのだから、玲夜が穂香にいい印象を持っていないのは仕方ない。
 夫にも玲夜にも神器を突き立てあやかしの本能を奪った穂香は、今沙良の下で働いている。
 穂香への罰という名目ではあるが、撫子とともに花茶会の主催者をしている沙良は、穂香の犯した行いにわずかながら罪悪感を抱いている様子だった。
 そこまで追いつめられるほど助けてあげられなかったと。
 もちろん悪いのは穂香であり、沙良はむしろ最大限の手を尽くして花茶会という花嫁の逃げ場を作ってあげていた功労者だ。
 それでも放っておけず、あやかしの本能を失くして離婚となり、行き場のなくなった穂香を受け入れた。
 ずっと花嫁として働くこともなく生きてきた穂香には大変な毎日だろうが、文句も言わず与えられた仕事に従事しているらしい。
 そんな穂香に心を配る沙良の言葉なら穂香も素直に協力してくれるはずだと柚子も思った。
「そっか。じゃあ、私がなにかすると逆に邪魔しちゃいそうだから大人しくしてるね」
『今回に限らず、今後も頼むから大人してくれ』
 その玲夜の声には切実さが込められていて、柚子はクスクスと笑った。




 玲夜との電話を切った柚子は芽衣に目を向ける。
「やっぱり玲夜じゃないみたい。心配してくれてありがとう、芽衣」
「別に心配なんてしてないわよっ」
 一見すると怒っているようにも見えるが、芽衣がただ恥ずかしさを隠すために口調が強くなってしまっているだけだと、仲よくなって知ることができた。
 いわゆるツンデレというやつで、これまで柚子の周りにはいなかったタイプの子だからか、柚子も新鮮な気持ちである。
 芽衣からしたら不本意この上ないのだろうが、柚子にはその様子が微笑ましくてならなかった。
 そんなニコニコとしている柚子の様子が恥ずかしいのか気に食わないのか、顔をわずかに赤くしながら文句を言うように口を開く。
「あやかしが花嫁を捨てるなんてありえないし、心配なんてしてないから!」
 途端に柚子は切なげに視線を落とす。
 それまで不機嫌そうな芽衣もこれにはすぐに気がついた。
「なんかあったの?」
「……うん」
 柚子は一瞬言うべきか迷ったが、よくよく考えると芽衣も関係のない人間ではなかった。
「ここだけの話にしてね。あれだけ執着していた鎌崎が突然花嫁じゃなかったって、態度を急変してきたことあったでしょう?」
「ええ、そうね」
 不快そうに芽衣の眉間にしわが寄った。
 思い出すだけでも怒りが込み上げてきているのが、その表情で伝わってくる。
「そのくせ突然間違いだったなんて言って、さんざん振り回してくれたわよね。なにがしたかったんだか」
 柚子は苦笑する。
「実はその理由が分かったのよ。詳細は話せないんだけど、あやかしの本能を絶って花嫁と認識できなくする方法があったの」
「そうなの!?」
 気持ちいいほどの反応を見せる芽衣に、柚子は頷く。
「どうやら鎌崎はその方法によって芽衣を花嫁と認識しなくなったから、芽衣への興味を失ったみたい。だから、今後鎌崎が、芽衣に花嫁になるよう要求するために近づいてくることはないと思うから安心して」
「そうなんだ」
 ほっと安堵の表情を浮かべる芽衣の様子を見るに、いまだどこかでまた鎌崎が接触してくるのではと不安だったのではないか。
 早く教えてあげればよかっただろうかと、柚子は申し訳なく感じる。
 しかし、一部の者しか知らない神器の存在を芽衣に教えるのはやめておいた方がいいと判断した。
 あやかしとは関わりのない世界で生きることを選んだ芽衣には必要のない情報だと柚子は思ったのだ。
「ざっくりした説明になっちゃってごめんね。でも、聞かない方がいいでしょう?」
「そうね。もう鎌崎が近づいてこないなら、その方法がどうだろうと関係ないし、下手に首を突っ込むつもりもないわ。あやかしの世界の話に巻き込まれたくないし」
 どストレートな言葉に、柚子も苦笑いを浮かべる。
 飾るつもりは皆無のようだ。
 それだけ鎌崎には苦労させられてきたということなのだろう。
 いや、苦労という言葉で済ませられないほど苦しめられたのだ。
 関わりたくないという気持ちが先に来る芽衣の気持ちを、柚子は尊重する。
「またあいつが気まぐれを起こして会いにこないか両親も警戒してたから、それを聞けただけで安心できるから十分よ」
「その時は対処するから、また私に相談して。……といっても、それをするのは玲夜なんだけどね」
 柚子は己の無力さに情けなくなり、眉尻を下げる。
 玲夜の庇護がなければなにもできないと言っているようなものだ。
 玲夜という虎の威を借る柚子が、得意げになって助けると口にしていいものではない。
 けれど、そんな他力本願であっても芽衣の力になりたいと柚子が思うのは、芽衣自身が柚子のバックについている鬼龍院の力を利用しようとしてこないからだろう。
 かくりよ学園に通っていた頃は、ずいぶんと欲の孕んだ目で見られていたので、柚子もうんざりしているところがあったのかもしれない。
 それは柚子の力ではないというのに、ずいぶんと傲慢である。
 柚子は驕り高ぶった自分の心を律するように、ペチペチと軽く自身の頬を叩いた。

 少し雑談していると、そこに澪がようやく登校してきた。
 いつもは時間に余裕を持って動いている澪には珍しく、遅刻ギリギリの登校だ。
「おはよう、柚子」
「おはよう。今日は遅かったね」
「うん、まあ……」
 すると、澪と芽衣の視線が交差する。
 その瞬間、見えぬ火花が散った。
 芽衣も途端に目付きが鋭くなり、澪も険しい顔をした。
「なに? また柚子に因縁つけてるの?」
「目が悪いの? こんなに仲良く話してるのに、それが分からないなんて眼鏡した方がいいんじゃない?」
 作り笑顔で応酬するふたり。
 やはり当初の印象が悪すぎるのが今も糸を引いていて、顔を合わせるたびに険悪な空気へとなってしまう。
「あの、落ち着いて、ふたりとも……」
 困りきった顔で柚子が間に立つ。
「そ、それより、澪は寝坊でもしたの?」
 どうにか話を変えようと柚子も必死である。
「あー、まあ、そんなとこ」
 曖昧な澪の返事はあまり深く追求してほしくないという思いが透けて見えた。
 そんな中に割り込む芽衣の声。
「夏休み明け初日に寝坊だなんて、たるんでる証拠じゃない? 一年しかないのに卒業する気あるの?」
「はあ!? 私に言ってるの?」
「他に誰がいるっていうの? あぁ、もしかしてそういうの見える人? それなら仕方ないわね」
「あんた、喧嘩売ってるわけ!?」
 芽衣の嫌みを聞いて、今にも飛びかかっていきそうな澪に、柚子もヒヤヒヤする。
 柚子が間に入って試行錯誤場を和ませようと努力はするのだが、その努力がこれまで実ったことはない。
 龍からも『あれはもう修正不可だな』と言われる始末。
 どうにか空気の悪さが和らげばいいのだが、悪化することはあれど、よくなる様子は今のところない。
 柚子は澪の気持ちも分からないでもないのだ。
 当初の芽衣の態度はかなりひどく、あれだけ突っかかってきておいて、何事もなかったかのように柚子と仲良くおしゃべりをしている。
 柚子の間に入って守ろうとしてくれていた澪だからこそ、気に食わないのだろう。
 柚子から見た澪はとても正義感が強いように思うから。
 なにせ、学校でぼっちの柚子に話しかけてくれた人である。
 芽衣からの嫌みからも庇ってくれた。
 しかし、芽衣も鎌崎の一件などの問題を抱えていて、心に余裕がなかったのだ。
 柚子は花嫁に選ばれた者の苦悩を多少なりとも分かっていたので、芽衣への怒りはほとんどない。
 そんな理由があったのかと納得しただけである。
 けれど、事情を知らない澪に分かるはずもなく……。
「あれだけ柚子に突っかかっておきながら仲良くだなんてよく言えるわね。面の皮が厚いこと」
「そんな大昔のことまだ言ってるの? 情報は常に更新しておかないと、世間から取り残されるわよ」
「ついこの間のことじゃない! 半年も経ってないわよ!」
 どう間に割って入ったものかと柚子がオロオロしていると、ちょうど講師が入ってきた。
 それにより、口喧嘩は強制終了となり、柚子はほっと息をついた。
 けれど、また口喧嘩は繰り返されるだろうと考えると、柚子は困り果てた。
 柚子の他にも間に入ってくれる人がいるといいのだが、相変わらず柚子は芽衣と澪以外の生徒から遠巻きにされている。
 それどころか陰口は増える一方。
 特になにかしたわけでもないので理不尽を感じてしまうが、陰口を言うような人たちになにを言っても響かないだろう。
 無視をするのが一番だという結論にいたる。
 どうせ、残り一年と経たず顔を合わせることもなくなってしまう他人だ。
 芽衣と澪とはこれから先も付き合っていきたいと思っている。
「透子にも会わせたいなぁ」
 芽衣の方はどんな化学反応が起こるか不明だが、きっと透子と澪は相性抜群だと柚子は感じている。
 姉御気質な性格がよく似ているので、話が弾みそうである。
 けれど今は少しでも知識をつけようと、勉強に勤しむ柚子だった。