「――フィリス・ベルラック公爵令嬢、君との婚約を……」
「はい」
「婚約破棄など、したくない!」
「…………え?」
ユリシーズ以外の誰もがぽかんとしている中、先に意識を取り戻したのはフィリスだった。
「いえ、破棄してくださって結構です。引き際は弁えておりますので」
まさかの切り返しに、ユリシーズは一瞬、思考回路を停止した。
何度か瞬きを繰り返してから、やっと口を開く。
「……本気か?」
「もちろんです。聖女は魔物による大地の穢れを癒やす、唯一無二の存在。聖女が見つかったときは国で保護し、王族と婚姻する習わし。当代の聖女が現れた以上、わたくしとの婚約は白紙に戻すのが自然の流れでしょう」
「し……しかし、僕は君を妃に迎えると誓った。王族が約束を違えるなど……」
婚約当初、大人の後ろに隠れてばかりだったフィリスがやっとユリシーズに心を許してくれたとき、彼女が本好きなのを知って絵本を手土産に持っていった。
その本は外国の絵師が描いた挿し絵が多く、女の子が好きそうな絵柄だった。内容は妖精の祝福を受けたお姫様が妖精王にさらわれ、それを彼女の騎士が助けに行くという話だった。お姫様を救い出し、跪いて求婚するシーンにフィリスはいたく感動していた。
だから、彼女が喜ぶならと、ユリシーズも物語の騎士のようにフィリスに愛を誓ったのだ。
フィリスは昔の思い出を懐かしむように目を伏せた後、瑠璃色の瞳に婚約者の顔を映し出す。
「もうよいのです。わたくしには、そのお気持ちだけで充分です。昔の約束を覚えてくださっていただけでも、本当に……」
「フィリス。僕の心は君に捧げる。――今も、あのときの気持ちと変わらない」
「殿下……」
本来、父である国王からの命令に従うのが第一王子の責務だろう。けれど、ユリシーズにだって譲れないものがある。
これまで育んできた思いを断ち切り、他の女など選べるわけがない。
そんなこと、悪魔に魂を売るようなものだ。
「君を裏切りたくない」
フィリスが息を呑んだのがわかった。
だが公衆の面前での一世一代の告白は、もう後には退けない。
目の前の彼女の心をつなぎとめるためならば、恥ずかしさなど捨て置く。周囲の好奇の視線など、構っていられない。
今を逃せば、フィリスは自分以外の男のものになってしまう。
そんなのは死んでも嫌だ。
政略結婚とか、第一王子とか、そんな世間体のことなど、この際どうでもいい。自分は一人の男として、生涯愛する女性に振り向いてもらいたいから。
「君と結婚できないなら、王位継承権も返上する。だから」
「…………」
「どうか、僕との恋を過去にしないでくれ」
「…………わ、わたくしは」
「うん」
「人と話すのが苦手で、引きこもり体質で、婚約者の務めからも逃げ出すような小賢しい娘で……到底、あなたの妃にはふさわしく、ありません」
今にも消え入りそうな自信なげな声に、ユリシーズは今すぐ彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
「僕は君のものだ。他の誰の物にもならない。僕を好きにできるのは、フィリス。君だけだ」
「殿下……そ、それは」
言いにくそうに視線を下げ、フィリスは口を濁した。
しん、と静けさが訪れる。
皆が固唾をのんで見守る中、ユリシーズはその先が聞きたくて、優しく言葉の続きを促した。
「なんだい? フィリス」
彼女が逡巡する時間さえも貴く感じられて、否応なしに鼓動が高まる。
やがてユリシーズの期待する眼差しに根負けしたように、フィリスが口を開く。
「……お気持ちは大変嬉しいのですが、ちょっと……愛が重いです」
告げられた言葉は予想していた返答のどれとも違うもので、とっさにいい切り返し方が思いつかず、言葉に詰まる。
目を泳がせたユリシーズの反応に気づいたのか、目が合ったフィリスの顔が曇った。
困惑した顔は、うっかり素で言ってしまった、という心情がありありと出ていた。かあっと彼女の頬に紅色が走る。
恥ずかしさを紛らわすためか、フィリスは必死に言葉を探すように片手を強く握りしめた。
「で、ですが……王位継承権の返上など、陛下や宰相がすぐにお許しになるとは……」
フィリスがちらりと視線を上に向け、ユリシーズもその視線の先を追った。
すると、螺旋階段の上から臣下を見下ろす国王と目が合う。国王はその場の視線を一身に集め、厳かに言葉を発する。
「到底、認められぬ」
国王の言葉は一言であっても、重みがある。
(本当にフィリスを幸せにしたいのならば、誰もが祝福してくれる結婚でなければならない……。そう考えると、僕では彼女を幸せにはできないということか……)
自分の浅い考えに打ちのめされる。
生まれながらの身分は自分ではどうにもならない。
しかし、打ちひしがれるユリシーズの耳に、こほん、という咳払いが聞こえてくる。その声のほうへ見れば、国王が苦笑していた。
「――と言いたいところだが、まぁ、そなたの気持ちもわからなくもない」
「え?」
「…………私が最初に見初めたのは後ろ盾も何もない男爵の娘だった。彼女は王太子妃になる未来に怯え、最終的に平民の男の手を取った。私が王太子でなかったら、と考えたことは一度や二度ではない」
父親の失恋の話は今まで聞いたことはない。
国王夫妻は政略結婚で結ばれた関係でも、仲睦まじいことで知られ、国民の見本となる夫婦だったからだ。
(父上も同じような思いをしていた……?)
国王として接するときはいつも厳粛な父の別の顔に、ユリシーズは言葉を失う。
「幸い、そなたには血を分けた弟がいる。国王の名において、王太子には第二王子のジュリアンを指名する。そして、王太子には聖女クレアと婚約してもらう。……宰相もそれでよいな?」
「陛下の御心のままに」
ジュリアンはユリシーズの四歳下の弟である。好奇心旺盛で、今は隣国に留学中だ。今までは第二王子ということで自由奔放な生き方をしてきたが、周りの声を聞いて考える力もあるし、王太子になっても何とかなるだろう。
弟の未来に思いを馳せている間に、国王は螺旋階段から下りていて、ユリシーズの横に並んでいた。
「フィリス嬢、愚息のことを少しでも愛しく思ってくれるなら、どうか目の前の手を取ってやってほしい」
「陛下……」
瑠璃色の瞳が揺れているのを見て、ユリシーズは一歩前に出た。
「フィリス・ベルラック公爵令嬢、君に不自由な真似はさせない。僕の横で笑っていてくれたら、それだけで充分だ。だから――」
僕を選んでほしい、という言葉は彼女の手の制止で飲み込む。
もしかしなくとも拒否の合図かと固まるユリシーズに、フィリスは優しく微笑んだ。だが社交用の笑みではなく、親しい者だけに見せる表情に彼女の意図を測りかねる。
「フィリス……?」
「……わたくしにも頑張らせてください。胸を張ってあなたの妻はわたくしです、と言えるように」
その返答を聞いて、ユリシーズは胸がいっぱいになった。
片膝をつき、胸ポケットに挿していた深紅の薔薇を彼女に差し出す。
「僕は、僕にできるすべての力をもって君を守り、君を慈しみ、君を永久に愛することを誓う」
フィリスがそっと薔薇を受け取り、恥ずかしそうに目線を合わす。
「……はい。わたくしも殿下……ユリシーズ様のそばで、あなたをずっと支えます。一緒に幸せになりましょう」
「僕だけのプリンセス。この命が続く限り、大事にします」
ユリシーズはフィリスの華奢な指先を手に取り、その甲に誓いの口づけを送る。物語の騎士がしていたように。
そのことが伝わったのだろう。
フィリスは昔と同じ顔で、瑠璃色の瞳をきらきらと輝かせていた。
「はい」
「婚約破棄など、したくない!」
「…………え?」
ユリシーズ以外の誰もがぽかんとしている中、先に意識を取り戻したのはフィリスだった。
「いえ、破棄してくださって結構です。引き際は弁えておりますので」
まさかの切り返しに、ユリシーズは一瞬、思考回路を停止した。
何度か瞬きを繰り返してから、やっと口を開く。
「……本気か?」
「もちろんです。聖女は魔物による大地の穢れを癒やす、唯一無二の存在。聖女が見つかったときは国で保護し、王族と婚姻する習わし。当代の聖女が現れた以上、わたくしとの婚約は白紙に戻すのが自然の流れでしょう」
「し……しかし、僕は君を妃に迎えると誓った。王族が約束を違えるなど……」
婚約当初、大人の後ろに隠れてばかりだったフィリスがやっとユリシーズに心を許してくれたとき、彼女が本好きなのを知って絵本を手土産に持っていった。
その本は外国の絵師が描いた挿し絵が多く、女の子が好きそうな絵柄だった。内容は妖精の祝福を受けたお姫様が妖精王にさらわれ、それを彼女の騎士が助けに行くという話だった。お姫様を救い出し、跪いて求婚するシーンにフィリスはいたく感動していた。
だから、彼女が喜ぶならと、ユリシーズも物語の騎士のようにフィリスに愛を誓ったのだ。
フィリスは昔の思い出を懐かしむように目を伏せた後、瑠璃色の瞳に婚約者の顔を映し出す。
「もうよいのです。わたくしには、そのお気持ちだけで充分です。昔の約束を覚えてくださっていただけでも、本当に……」
「フィリス。僕の心は君に捧げる。――今も、あのときの気持ちと変わらない」
「殿下……」
本来、父である国王からの命令に従うのが第一王子の責務だろう。けれど、ユリシーズにだって譲れないものがある。
これまで育んできた思いを断ち切り、他の女など選べるわけがない。
そんなこと、悪魔に魂を売るようなものだ。
「君を裏切りたくない」
フィリスが息を呑んだのがわかった。
だが公衆の面前での一世一代の告白は、もう後には退けない。
目の前の彼女の心をつなぎとめるためならば、恥ずかしさなど捨て置く。周囲の好奇の視線など、構っていられない。
今を逃せば、フィリスは自分以外の男のものになってしまう。
そんなのは死んでも嫌だ。
政略結婚とか、第一王子とか、そんな世間体のことなど、この際どうでもいい。自分は一人の男として、生涯愛する女性に振り向いてもらいたいから。
「君と結婚できないなら、王位継承権も返上する。だから」
「…………」
「どうか、僕との恋を過去にしないでくれ」
「…………わ、わたくしは」
「うん」
「人と話すのが苦手で、引きこもり体質で、婚約者の務めからも逃げ出すような小賢しい娘で……到底、あなたの妃にはふさわしく、ありません」
今にも消え入りそうな自信なげな声に、ユリシーズは今すぐ彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
「僕は君のものだ。他の誰の物にもならない。僕を好きにできるのは、フィリス。君だけだ」
「殿下……そ、それは」
言いにくそうに視線を下げ、フィリスは口を濁した。
しん、と静けさが訪れる。
皆が固唾をのんで見守る中、ユリシーズはその先が聞きたくて、優しく言葉の続きを促した。
「なんだい? フィリス」
彼女が逡巡する時間さえも貴く感じられて、否応なしに鼓動が高まる。
やがてユリシーズの期待する眼差しに根負けしたように、フィリスが口を開く。
「……お気持ちは大変嬉しいのですが、ちょっと……愛が重いです」
告げられた言葉は予想していた返答のどれとも違うもので、とっさにいい切り返し方が思いつかず、言葉に詰まる。
目を泳がせたユリシーズの反応に気づいたのか、目が合ったフィリスの顔が曇った。
困惑した顔は、うっかり素で言ってしまった、という心情がありありと出ていた。かあっと彼女の頬に紅色が走る。
恥ずかしさを紛らわすためか、フィリスは必死に言葉を探すように片手を強く握りしめた。
「で、ですが……王位継承権の返上など、陛下や宰相がすぐにお許しになるとは……」
フィリスがちらりと視線を上に向け、ユリシーズもその視線の先を追った。
すると、螺旋階段の上から臣下を見下ろす国王と目が合う。国王はその場の視線を一身に集め、厳かに言葉を発する。
「到底、認められぬ」
国王の言葉は一言であっても、重みがある。
(本当にフィリスを幸せにしたいのならば、誰もが祝福してくれる結婚でなければならない……。そう考えると、僕では彼女を幸せにはできないということか……)
自分の浅い考えに打ちのめされる。
生まれながらの身分は自分ではどうにもならない。
しかし、打ちひしがれるユリシーズの耳に、こほん、という咳払いが聞こえてくる。その声のほうへ見れば、国王が苦笑していた。
「――と言いたいところだが、まぁ、そなたの気持ちもわからなくもない」
「え?」
「…………私が最初に見初めたのは後ろ盾も何もない男爵の娘だった。彼女は王太子妃になる未来に怯え、最終的に平民の男の手を取った。私が王太子でなかったら、と考えたことは一度や二度ではない」
父親の失恋の話は今まで聞いたことはない。
国王夫妻は政略結婚で結ばれた関係でも、仲睦まじいことで知られ、国民の見本となる夫婦だったからだ。
(父上も同じような思いをしていた……?)
国王として接するときはいつも厳粛な父の別の顔に、ユリシーズは言葉を失う。
「幸い、そなたには血を分けた弟がいる。国王の名において、王太子には第二王子のジュリアンを指名する。そして、王太子には聖女クレアと婚約してもらう。……宰相もそれでよいな?」
「陛下の御心のままに」
ジュリアンはユリシーズの四歳下の弟である。好奇心旺盛で、今は隣国に留学中だ。今までは第二王子ということで自由奔放な生き方をしてきたが、周りの声を聞いて考える力もあるし、王太子になっても何とかなるだろう。
弟の未来に思いを馳せている間に、国王は螺旋階段から下りていて、ユリシーズの横に並んでいた。
「フィリス嬢、愚息のことを少しでも愛しく思ってくれるなら、どうか目の前の手を取ってやってほしい」
「陛下……」
瑠璃色の瞳が揺れているのを見て、ユリシーズは一歩前に出た。
「フィリス・ベルラック公爵令嬢、君に不自由な真似はさせない。僕の横で笑っていてくれたら、それだけで充分だ。だから――」
僕を選んでほしい、という言葉は彼女の手の制止で飲み込む。
もしかしなくとも拒否の合図かと固まるユリシーズに、フィリスは優しく微笑んだ。だが社交用の笑みではなく、親しい者だけに見せる表情に彼女の意図を測りかねる。
「フィリス……?」
「……わたくしにも頑張らせてください。胸を張ってあなたの妻はわたくしです、と言えるように」
その返答を聞いて、ユリシーズは胸がいっぱいになった。
片膝をつき、胸ポケットに挿していた深紅の薔薇を彼女に差し出す。
「僕は、僕にできるすべての力をもって君を守り、君を慈しみ、君を永久に愛することを誓う」
フィリスがそっと薔薇を受け取り、恥ずかしそうに目線を合わす。
「……はい。わたくしも殿下……ユリシーズ様のそばで、あなたをずっと支えます。一緒に幸せになりましょう」
「僕だけのプリンセス。この命が続く限り、大事にします」
ユリシーズはフィリスの華奢な指先を手に取り、その甲に誓いの口づけを送る。物語の騎士がしていたように。
そのことが伝わったのだろう。
フィリスは昔と同じ顔で、瑠璃色の瞳をきらきらと輝かせていた。