今夜は王国中の貴族が参加する建国祭の夜会だ。
宮廷楽師の奏でる音は奥深く、優美なメロディーが大ホールに満ちていく。ワルツを踊る男女がくるくると円を描きながら会場を移動していくのを見下ろしていると、ふと灰銀の髪を下ろした令嬢と目が合った。
彼女の好きな濃い青のドレスは、絵本の人魚姫のように尾を引くデザインだ。華奢な彼女によく似合っていると思う。
ちらりと彼女の横で辺境伯と談笑している男に視線を合わす。彼女と同じ瑠璃色の瞳の男は、奥手の彼女と違って社交的な性格だ。水面下で足の引っ張り合いをする貴族社会にもうまく溶け込み、着実に人脈を広げていると聞く。
(エスコート役は兄に頼んだのか……)
以前までは自分が彼女のエスコート役だったが、これが今の自分と彼女の立ち位置だ。
そう意識するだけで、鉛を飲み込んでしまったような心地がする。心なしか、足場が不安定になったような錯覚も覚えた気がする。
(これは……想像していたよりもずっと……)
堪えるな、と胸中でつぶやく。
これが夢の出来事だったらどんなにいいか。そう思うユリシーズの後ろから、鈴のような凜とした声が届く。
「ユリシーズ殿下」
金糸の髪に金色の瞳の男爵令嬢が足を一歩踏み出す。華美になりすぎないよう、レースが重なった薄桃色のドレスは清楚なデザインだ。
建国時に活躍したという、かつての聖女と同じ容姿の彼女は、初めての場であっても動じる素振りすら見せない。
本来、彼女の肩書きでは家臣たちを見下ろす位置にあたる二階席に上がることは許されない。第一王子であるユリシーズと同じ王族の立ち位置に並ぶのは、それに値する地位を得たからだ。
すなわち、王国に光を照らす聖女である、と――。
聖女クレアはラフォンヌ男爵家の長女として生を受けたが、母を亡くしているうえに弟妹を養うために家計は厳しく、彼女はずっと庶民と同じ生活をしていたという。舞踏会やお茶会にも出席したことがなく、聖女として国から保護を受けるまで、彼女自ら働きに出ていたらしい。
ちらりと背後を見やると、国王と王妃から無言の圧力を感じた。
ユリシーズは心を無にして、クレアに向かって片手を差し出す。彼女は優雅に微笑み、細い手をユリシーズの手の上に載せる。
そして螺旋階段からゆっくりと下りるのをエスコートし、ホールに並び立つ。そして現婚約者のもとへ足を向けると、ざっと人波が左右に割れる。
難なく婚約者のもとにたどり着き、ユリシーズはクレアから手を離した。クレアはしおらしく後ろで控えることにしたらしい。
(……いつもの髪留めがない)
灰銀の髪にはブルーサファイアの髪留めがなかった。お揃いのネックレスもない。あるのは真珠のネックレスだけ。
ユリシーズがプレゼントした宝飾品を身に付けていないことに少なからずショックを受ける。もう何の未練もないのだと、暗に言われているようだった。
瑠璃色の瞳は覚悟を決めたように、静かに自分の姿を映し出していた。今から何を言われるのか、聡い彼女はもうわかっているのだろう。
ユリシーズは短く息を吐き出し、周りにも聞こえるように口を開く。
「――フィリス・ベルラック公爵令嬢、君との婚約を……」
「はい」
「婚約破棄など、したくない!」
「…………え?」
想像と真逆のことを言われたからだろう。フィリスがぽかんと目を丸くしている。周囲もどう反応していいか、困惑した雰囲気になっていた。
けれど、ユリシーズは前言撤回するつもりはなかった。
そもそもの事の発端は、半年前に遡る。
神殿は魔を浄化するために祈りを捧げる場所だ。女神の加護を受けた神具は、瘴気から発生した魔物を浄化する力を持つ。だが、どれだけ適性があろうと、神官が瘴気を消すことはできない。
瘴気を取り除くことができるのは伝説の聖女だけだという。
近年は魔物の発生が増加傾向にあり、騎士団への討伐依頼も比例して増えていく一方だった。
そんな中、女神より託宣があった。聖女がその力を開花させた、と。
急ぎ神殿の幹部がくだんの聖女のもとを訪れ、治癒術を初めて使ったという少女を保護した。その者こそがクレアだった。
実家への支援を条件に、彼女は次々と各地の瘴気を浄化していった。聖女が現れたという噂は国内に留まらず、国外にも急速に広まっていった。
王宮が聖女を取り込むのも時間の問題だった。保護を名目に聖女の住居は王宮に移動し、専用の家庭教師がつき、淑女教育も始まった。
ユリシーズもお茶会の予行練習と称して、彼女とのティータイムに強制参加させられたことがある。内気な婚約者とは違い、社交的で好感の持てる女性だった。
聖女だからとおごることもなく、身分で差別することもなく、困っている人がいたら下働きの者であっても前に出て助ける――まさしく聖女と呼ぶにふさわしい人物だった。
社交界に出たことがない彼女のため、ダンスの練習にもユリシーズは駆り出された。適年齢だからというのが周りの理由だったが、その思惑は他にあることは薄々察していた。
だからこそ、婚約者に誤解を与えないよう、今までよりもマメに手紙を出し、プレゼントを贈っていた。最初のうちはすぐに返事が届いていたが、あるときからぱったりと手紙が届かなくなった。
フィリスはお茶会や夜会も欠席することが増え、会話を交わす回数がグッと減った。たまに学園内で彼女に話しかけようとしても、小さく会釈をしたかと思えば、そのままパタパタと走り去ってしまう。その繰り返しだった。
反比例にクレアと話す回数は増え、周囲も何かと理由をつけ、気づけば二人きりになるパターンが多くなっていた。
このままではマズいと、ユリシーズは彼女を王宮に呼び出した。火急の用があると偽って。
「……フィリス、その……。元気……か?」
「は、はい。元気です」
「そうか……」
心なしか、久しぶりに見るフィリスはいつもより小さく見えた。
出会ったばかりの頃は極度の人見知りで、婚約者となったユリシーズも、彼女の笑顔を引き出すのには苦労した。そんな彼女も年齢を重ねるにつれ、世渡りの術を身に付け、立派な淑女に成長した。
そう思っていたが、まるで出会ったときに戻ったみたいに警戒されている。
すっかり心を許してくれる間柄になったと思っていたが、さっきからまったく視線が合わない。どれだけ見つめても、フィリスはうつむいたままだ。
正直な話、淑女の仮面で隠せるようになったとはいえ、彼女は人付き合いは苦手な質だ。
そんな彼女がユリシーズの未来の正妃の椅子に残っている理由は、宰相の娘というのが一番大きいだろう。
(このよそよそしさは、公務が重なって会いに行けなかった僕の怠慢が原因だろうな……)
婚約者との関係修復のため、今日のお茶菓子はいつも以上に気を配った。売り切れ続出で予約者のみの販売となった有名菓子店に頭を下げ、無理言って注文に割り込ませてもらったレモンタルトだ。白いメレンゲが波打った看板商品である。
「き、今日は君の好きなお菓子も用意したんだ。まずは食べてみてくれ」
「……いただきます」
銀のフォークがタルト生地を切り込み、フィリスが一口頬張る。
「ど、どうだろうか……」
「……大変美味です。殿下もぜひ召し上がってください」
相変わらず目は合わなかったが、いつになく熱心な勧め方にユリシーズもケーキ皿を手に取り、フォークを動かした。数分後、王宮料理人によって舌が肥えていた自負もあるユリシーズは衝撃を受けた。
クセがあるようでない、けれどまた食べたいと思わせる不思議な後味にフォークを動かす手が止まらない。気づけばペロリと完食していた。それはフィリスも同様だった。
「これは……評判以上の美味しさだな……」
「ええ、おっしゃる通りです」
二人でタルトの余韻に浸ること数十秒、ユリシーズは本題をまだ言っていないことに気づいた。慌てて咳払いをし、王宮御用達の紅茶を飲んでいるフィリスを見つめる。
「それで、今日呼び出した用件なのだが」
「……はい」
コトリ、とティーカップを置く音がする。聞く姿勢になってくれたのにホッとし、ユリシーズは覚悟を決めて話を続けた。
「僕と君の婚約の話だ。君も知っているだろうが、王宮には今、聖女がいる。だが、僕が心に決めた相手はもうすでにいる。だから――」
心配しないでほしい、そう続けようとした言葉は彼女が急に立ち上がったことで途切れた。髪留めの位置が少しずれたのを片手で直しながら、フィリスは口早に言う。
「申し訳ございません。急用を思い出しましたので、失礼いたします」
「え……」
呼び止める間もなく、フィリスは踵を返した。
扉が閉まる音がしてから、やっとユリシーズは弁解の機会を永遠に失ったことに気づいた。
◆◆◆
その後、フィリスにはことごとく避けられ続け、婚約者との不仲説が社交界に広まった頃合いに、ユリシーズは父親から呼び出された。
「お呼びでしょうか、国王陛下」
「ユリシーズ。お前をわざわざ謁見の間に呼んだのは他でもない。お前の婚約の件だ」
「……と言いますと?」
わざととぼけた風に聞き返すと、国王は静かに目を伏せて嘆息した。
「建国祭の夜会で、ベルラック公爵家の娘との婚約を破棄せよ。そして、聖女クレアを新たな婚約者として周知させなさい」
「…………」
「私の名で公表してもよいが、お前も自分の気持ちを整理したいだろう。……お前も王族の一員だ。私の言いたいことはわかるな?」
国王が私的な場でなく、あえて公的な場を選んだ時点で、拒否権がないことは明らかだ。横で控えている宰相も口を出さないということは、すでに内々に話を済ませ、了承をもらっているのだろう。
唇を真一文字に引き結ぶ息子を見て、国王は厳かに告げた。
「話は以上だ。下がりなさい」
「……はい」
謁見の間から退室すると、護衛騎士のエリクがゆっくりと近づく。そして声をひそめるように、耳元で囁く。
「その顔を見れば、話の内容は大体想像がつくが……大丈夫か?」
「大丈夫そうに見えるか?」
「いや、見えないな」
「……僕は、どうしたらいい?」
不安からか、声はかすれた。そういえば、喉がカラカラだ。だがこの渇きは水分を摂っても治る気がしない。
なぜなら、自分の未来が黒の絵の具で塗りつぶされたのだから。
(フィリス――王族である僕は、君を選べない)
結果は最悪だが、想定していた事態のはずだ。しかし、いざ現実になると、自分の心がぐちゃぐちゃになっているのがわかる。
自分が王族でなければ。あのまま聖女が見つからなければ。
そんなもしもを考えても、先ほどの話が変わることは万に一つもない。あれは提案ではなく、国の命令だったのだから。
すべては聖女を国に留めておくために。
ユリシーズがどんなに願っても、あの命令が取り下げられることはないだろう。
(嘘だろう……?)
最悪の気分のまま、王家と繋がりの深い伯爵家主催の舞踏会に出席すると、自分と聖女との婚約話が進んでいるらしい、という噂を耳にすることになった。
婚約者のフィリスは体調不良を理由に、今夜の夜会は欠席している。仕方なく一人で参加したが、まさか発表前から新しい婚約の話が出ているとは思わなかった。
エリクに調査を頼むと、聖女との婚約話はすでに周りに知れ渡っていて、学園内でフィリスにアプローチする輩もいるという。
(これでは八方塞がりではないか……)
フィリスからの返事は途絶えたままだ。きっと避けられているのだろう。学園内で彼女の姿を見ることすら叶わない。
これを絶体絶命と言わず、なんと言えばいいのか。
「……ユリシーズ」
エリクが敬称を省くのは、二人だけのときだけだ。ユリシーズは自分の執務室で机に突っ伏した体勢のまま、ぶっきらぼうに答えた。
「なんだ」
「今さら、お前が第一王子なのは変わらないんだし、どうあがいたところで事態が好転するとも思えない。人間、何事も諦めが肝心って言うだろ……?」
ユリシーズはゆっくり起き上がり、友人兼護衛騎士を軽くにらむ。
「それは要するに?」
「……フィリス嬢は諦めろってことだ」
わかりきった正論に、ギリッと歯がみする。
もとより、フィリスとの婚約だって政略結婚だった。そう頭では理解していても、気持ちは一向に整理できない。
自分から彼女の手を離すことになるなんて、出会ったときには想像もしていなかった。
ゆっくりと時間を積み重ね、彼女と幸せな未来を築くのだと信じて疑わなかったあのときに戻れたらどんなにいいか――。
しかしながら、都合よく時を戻す魔法なんてものは、この世に存在しない。
あるのは残酷な現実だけだった。
「――フィリス・ベルラック公爵令嬢、君との婚約を……」
「はい」
「婚約破棄など、したくない!」
「…………え?」
ユリシーズ以外の誰もがぽかんとしている中、先に意識を取り戻したのはフィリスだった。
「いえ、破棄してくださって結構です。引き際は弁えておりますので」
まさかの切り返しに、ユリシーズは一瞬、思考回路を停止した。
何度か瞬きを繰り返してから、やっと口を開く。
「……本気か?」
「もちろんです。聖女は魔物による大地の穢れを癒やす、唯一無二の存在。聖女が見つかったときは国で保護し、王族と婚姻する習わし。当代の聖女が現れた以上、わたくしとの婚約は白紙に戻すのが自然の流れでしょう」
「し……しかし、僕は君を妃に迎えると誓った。王族が約束を違えるなど……」
婚約当初、大人の後ろに隠れてばかりだったフィリスがやっとユリシーズに心を許してくれたとき、彼女が本好きなのを知って絵本を手土産に持っていった。
その本は外国の絵師が描いた挿し絵が多く、女の子が好きそうな絵柄だった。内容は妖精の祝福を受けたお姫様が妖精王にさらわれ、それを彼女の騎士が助けに行くという話だった。お姫様を救い出し、跪いて求婚するシーンにフィリスはいたく感動していた。
だから、彼女が喜ぶならと、ユリシーズも物語の騎士のようにフィリスに愛を誓ったのだ。
フィリスは昔の思い出を懐かしむように目を伏せた後、瑠璃色の瞳に婚約者の顔を映し出す。
「もうよいのです。わたくしには、そのお気持ちだけで充分です。昔の約束を覚えてくださっていただけでも、本当に……」
「フィリス。僕の心は君に捧げる。――今も、あのときの気持ちと変わらない」
「殿下……」
本来、父である国王からの命令に従うのが第一王子の責務だろう。けれど、ユリシーズにだって譲れないものがある。
これまで育んできた思いを断ち切り、他の女など選べるわけがない。
そんなこと、悪魔に魂を売るようなものだ。
「君を裏切りたくない」
フィリスが息を呑んだのがわかった。
だが公衆の面前での一世一代の告白は、もう後には退けない。
目の前の彼女の心をつなぎとめるためならば、恥ずかしさなど捨て置く。周囲の好奇の視線など、構っていられない。
今を逃せば、フィリスは自分以外の男のものになってしまう。
そんなのは死んでも嫌だ。
政略結婚とか、第一王子とか、そんな世間体のことなど、この際どうでもいい。自分は一人の男として、生涯愛する女性に振り向いてもらいたいから。
「君と結婚できないなら、王位継承権も返上する。だから」
「…………」
「どうか、僕との恋を過去にしないでくれ」
「…………わ、わたくしは」
「うん」
「人と話すのが苦手で、引きこもり体質で、婚約者の務めからも逃げ出すような小賢しい娘で……到底、あなたの妃にはふさわしく、ありません」
今にも消え入りそうな自信なげな声に、ユリシーズは今すぐ彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
「僕は君のものだ。他の誰の物にもならない。僕を好きにできるのは、フィリス。君だけだ」
「殿下……そ、それは」
言いにくそうに視線を下げ、フィリスは口を濁した。
しん、と静けさが訪れる。
皆が固唾をのんで見守る中、ユリシーズはその先が聞きたくて、優しく言葉の続きを促した。
「なんだい? フィリス」
彼女が逡巡する時間さえも貴く感じられて、否応なしに鼓動が高まる。
やがてユリシーズの期待する眼差しに根負けしたように、フィリスが口を開く。
「……お気持ちは大変嬉しいのですが、ちょっと……愛が重いです」
告げられた言葉は予想していた返答のどれとも違うもので、とっさにいい切り返し方が思いつかず、言葉に詰まる。
目を泳がせたユリシーズの反応に気づいたのか、目が合ったフィリスの顔が曇った。
困惑した顔は、うっかり素で言ってしまった、という心情がありありと出ていた。かあっと彼女の頬に紅色が走る。
恥ずかしさを紛らわすためか、フィリスは必死に言葉を探すように片手を強く握りしめた。
「で、ですが……王位継承権の返上など、陛下や宰相がすぐにお許しになるとは……」
フィリスがちらりと視線を上に向け、ユリシーズもその視線の先を追った。
すると、螺旋階段の上から臣下を見下ろす国王と目が合う。国王はその場の視線を一身に集め、厳かに言葉を発する。
「到底、認められぬ」
国王の言葉は一言であっても、重みがある。
(本当にフィリスを幸せにしたいのならば、誰もが祝福してくれる結婚でなければならない……。そう考えると、僕では彼女を幸せにはできないということか……)
自分の浅い考えに打ちのめされる。
生まれながらの身分は自分ではどうにもならない。
しかし、打ちひしがれるユリシーズの耳に、こほん、という咳払いが聞こえてくる。その声のほうへ見れば、国王が苦笑していた。
「――と言いたいところだが、まぁ、そなたの気持ちもわからなくもない」
「え?」
「…………私が最初に見初めたのは後ろ盾も何もない男爵の娘だった。彼女は王太子妃になる未来に怯え、最終的に平民の男の手を取った。私が王太子でなかったら、と考えたことは一度や二度ではない」
父親の失恋の話は今まで聞いたことはない。
国王夫妻は政略結婚で結ばれた関係でも、仲睦まじいことで知られ、国民の見本となる夫婦だったからだ。
(父上も同じような思いをしていた……?)
国王として接するときはいつも厳粛な父の別の顔に、ユリシーズは言葉を失う。
「幸い、そなたには血を分けた弟がいる。国王の名において、王太子には第二王子のジュリアンを指名する。そして、王太子には聖女クレアと婚約してもらう。……宰相もそれでよいな?」
「陛下の御心のままに」
ジュリアンはユリシーズの四歳下の弟である。好奇心旺盛で、今は隣国に留学中だ。今までは第二王子ということで自由奔放な生き方をしてきたが、周りの声を聞いて考える力もあるし、王太子になっても何とかなるだろう。
弟の未来に思いを馳せている間に、国王は螺旋階段から下りていて、ユリシーズの横に並んでいた。
「フィリス嬢、愚息のことを少しでも愛しく思ってくれるなら、どうか目の前の手を取ってやってほしい」
「陛下……」
瑠璃色の瞳が揺れているのを見て、ユリシーズは一歩前に出た。
「フィリス・ベルラック公爵令嬢、君に不自由な真似はさせない。僕の横で笑っていてくれたら、それだけで充分だ。だから――」
僕を選んでほしい、という言葉は彼女の手の制止で飲み込む。
もしかしなくとも拒否の合図かと固まるユリシーズに、フィリスは優しく微笑んだ。だが社交用の笑みではなく、親しい者だけに見せる表情に彼女の意図を測りかねる。
「フィリス……?」
「……わたくしにも頑張らせてください。胸を張ってあなたの妻はわたくしです、と言えるように」
その返答を聞いて、ユリシーズは胸がいっぱいになった。
片膝をつき、胸ポケットに挿していた深紅の薔薇を彼女に差し出す。
「僕は、僕にできるすべての力をもって君を守り、君を慈しみ、君を永久に愛することを誓う」
フィリスがそっと薔薇を受け取り、恥ずかしそうに目線を合わす。
「……はい。わたくしも殿下……ユリシーズ様のそばで、あなたをずっと支えます。一緒に幸せになりましょう」
「僕だけのプリンセス。この命が続く限り、大事にします」
ユリシーズはフィリスの華奢な指先を手に取り、その甲に誓いの口づけを送る。物語の騎士がしていたように。
そのことが伝わったのだろう。
フィリスは昔と同じ顔で、瑠璃色の瞳をきらきらと輝かせていた。