「きーおーか!」

 もう聞き慣れた、その声の抑揚。明るいトーンで彼は私を呼ぶ。呼ばれていると分かっていながらも……その声が心地よくて。つい眠るふりを続けたくなってしまう。

「おーい、起きないと風邪引くぞ」

 ここにいると何もかも忘れられるんだ。風によって揺れる木々の音も、暖かく私を包み込む木漏れ日も。放課後だけ隣にいる宮浦くんも。全部が味方をしてくれるから。

 毎日訪れるこの場所は、いつのまにか私の大切なものになっていた。平凡な日常の中で欠かすことができなくなるくらい、大切なもの。

 やっと見つけた、心を照らしてくれたもの。

「……あ! 木岡に虫止まってる」

「え!? どこどこ!」

「なーんだ、起きてるじゃん」

 目を開けると悪戯っぽく笑う。明るくて優しくて、木漏れ日のような眩しい人。

「わざとやったでしょ?」

「そっちだって寝てるフリしてたじゃん。俺のこと無視してさ」

「……それは、ごめんなさい」

「ん。素直でよろしい。これでおあいこな?」

 それが宮浦直斗(みやうらすぐと)だった。


※※※


 高校1年生、春。

 あの日の出来事は今でも鮮明に覚えている。宮浦くんと話すきっかけとなったあの日。


 真面目。大人しそう。おまけに眼鏡。

 そんな印象だけでクラスの委員長に任命された私、木岡紗凪(きおかさな)は重い資料を運びながら廊下を歩いていた。

 先生に頼まれていたとはいえ、思わずため息が出そうになる。颯爽と部活に向かったり家に帰ったりする同級生たちが、正直羨ましいと感じた。

 昔から断れない性格で自己主張が苦手で。クラスの中でも暗い影のような存在が私。

 何度もそんな性格に悩んだとはいえ、家族には恵まれているし、生活にも問題はない。平凡な日常送っていたはずだった。

 なのにいつも息苦しい。細い糸をピンと張っていて、切れたら壊れてしまいそうな。そんな気持ちがまとわりついている。学級委員なんて引き受けなければ良かったかな。

 真面目なんて……本当の私は、そんなすごい奴ではない。真面目ぶっていたいだけだ。いい子を演じていれば、誰かを困らせることはないはずと信じているから。

 おとなしい……社交性がないせいでそう見えているだけだ。どうしてもそう言われると、『つまらない人』と言われているのだと思ってしまう。そうでなかったとしても。たとえ褒め言葉だったとしても。


 考えれば考える程、気持ちが沈んでいく。さっきまで持てる重さだった資料の山が、ずっしりと重くなった気がした。

「それでさー」

「え、そうなの?」

 すれ違う人たちの話し声も雑音に変わっていく。

 駄目だ、心地悪い。

 不意に目眩を感じ、私は廊下の壁に身を委ねようとした。とにかく何か支えが欲しいと思った。そのまま身体を預けようと、目を閉じた。

 その瞬間……
 
「わっ!!」

「うわぁ!」

 思わず声が出て、それが誰かと重なったんだ。

 後ろに倒れていくのを感じたかと思えば、すぐに軽い痛みと床につくときの衝撃を感じた。

 誰かとぶつかってしまったのだろう。謝らなきゃとか今からやることを考えているうちに、相手が立ち上がる音がした。

 私も立とうと恐る恐る目を開ける、と。

 同じクラスの宮浦くんがこちらを見つめていた。真っ直ぐで、澄んだ瞳。そこに反射して私が写っている。

「ご、ごめん委員長! 怪我とかしてないか?」

 慌ててこちらに手を差し出した彼を見て最初に思ったことは『眩しい』。私とは全然違う。もし私が真夜中に沈んだ影なのだとしたら、宮浦くんは晴天の下の光。

「こちらこそごめんなさい。私は大丈夫……です。ありがとう」

 ……これ以上その場所に留まりたくなかった。

 急いでバラバラになった資料をかき集め、教室まで戻ろうと足を動かし続ける。振り返らずに歩みを進め続けた。

 階段を駆け上がり、廊下を一直線に進む。

 やっと辿り着いたかと思うと、ドアを勢いよく開けてみた。そして窓辺に近づいて、何度も深呼吸する。

 ふわりと頬を撫でた春風が、少しだけ冷たく感じた。外の景色を眺めると変わらない風景に安心する。さっきまで感じていた張り詰めた糸が、緩んでいくのを感じる。

 あぁ、やっと息が吸えた。

 先程までの緊張が嘘のようにほぐれていく。

「何で、なんだろう」

 私は何でこんなにも、弱いのだろう。

 自嘲した笑みが、口元に弧を描いて。


 しばらくしてから。
 
「さ……」

「っ!」

 いつからだろう。いつから、見られてた?

 気付かなかった。

 小さな声がしたと同時に振り返れば、いつ来たか分からない、宮浦くんが教室の前に立っていた。多分私を追いかけてきたのだろう。

「さ……な、」

「えっと、はい」

 確かに彼はそう言った。

 『さな』と、私の名前の紗凪を呼んだようにも聞こえる。でも、そうではないことはすぐに予想できた。

 様子がおかしい。

 廊下で会ったときはいつも通りだったのに。澄んだ瞳は揺れて、手足は震えている。

「どこ行ってたんだよ……お、俺。心配して」

 一歩一歩確かめるように、彼はこちらへと歩いてきた。

「宮浦くん?」

「勝手にいなくなって……夜が、連れ去ったのか? あの夜がさなを……」

 私の前まで来ると、ついに床に座り込んでしまった。そして、

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 耳を塞ぎ、大きな声で叫び始める。明らかに普通ではない状態だった。呼吸が荒い。

 唐突な出来事に頭が真っ白になって、考えるより先に身体が動いた。

「っ……」

 揺れる宮浦くんの背中を摩り続ける。大丈夫、大丈夫と言い聞かせながら。

 大丈夫という言葉が、その場しのぎの言葉にしかならないことなんてわかってる。

 でもとにかく今は、安心させたかった。

「大丈夫、ここにいるよ」

 
 それから数十分後。

 宮浦くんの呼吸が落ち着いてきて、私は彼の背中から手を離した。

「……悪い」

「ううん、私は平気」

 こちらを見てそっと目を伏せたかと思えば、『ごめん』とまた同じ言葉を繰り返す。

「保健室行く?」

「いや、大丈夫……本当ごめん」

 
 何度も心配して声を掛けてみるものの、あまりに一方的に話しかけられるのも大変だと言うことに気づいて、私は口を閉じた。

 本当は、ぶつかってばら撒けてしまった資料をまとめ直さなければならないのではないかと思い、教室まで様子を見にきてくれたらしい。

 「なのにこんなことに……」と話す宮浦くんの顔は、いつもと違ってどこか寂しそうだった。

 
 鬱陶しいかもしれないと思いながらも、私は彼を放っておくことなんてできなかった。急いでまとめ直した資料を先生に届けにいく。

 すぐに戻ると、まだ足取りがフラフラとしている宮浦くんの手を引きながら私は正門へと向かった。

 外ではもう、夕焼けが輝いていた。

「委員長、家どこだっけ?」

「えっと、駅と反対の方だよ」

「……送ってく」

「駄目だよ! 今日はゆっくり休まないと」

「それくらいしないと気が済まないんだ。申し訳なさすぎて」

 しばらく送る送らない議論を続けたが、結局私が彼の『お願いします』に負けることになってしまった。



 いつも通りのはずの帰路を、ゆっくりと二人で歩いていく。

 影の私と光の宮浦くんが一緒に歩いている。そんな不思議な光景にどこか落ち着かなかった。なのに……さっきと違って、ちっとも息苦しくない。むしろ息がしやすい。

 私は、酷い人だ。宮浦くんにも何か周りは見せたくなかった事情があって、その事実に安心してしまった。

 私は勘違いをしていたらしい。明るくてクラスの中心のような人でも、辛いことや苦しいことを抱えていたりするんだ。勝手に『私とは違って貴方は』と決めつけて、自分から変わらないとどうしようもないことに対して嫉妬を抱いていたのだろう。

 再び自分の弱さを知らしめられると同時に、申し訳なさと少しの解放感が私に絡みついた。

「委員長っていうか、木岡って呼んでいい?」

「うん、いいよ」

「木岡ってさ、本当に学級委員やりたかった? 推薦で選ばれてそのまま受け入れてたけどさ」

 急な質問。何でそんなことを聞いてくるんだろうと思いつつも、全てこの息苦しさを吐き出したい衝動に駆られる。

「せめてここでは正直に言ったら? こんな……さっきまで迷惑かけてた奴が言うセリフじゃないけど。木岡がそれで楽になるんだったら。俺は聞かないフリしててもいいし」

 隣を見ると、いつもよりも何倍も優しい表情がそこにあった。宮浦くんは太陽の光だと思ってたけど、今は静かに照らしてくれる、木漏れ日のように感じた。

 いいのかな。一度くらい誰かに伝えてみても。

 見透かされたこの想いたちを。

「聞いてくれたら嬉しい」

「うん、聞いてるよ」

 心に決めて、私は声を絞り出した。

「あのね……」


 
 宮浦くんは聞いてくれている間、ただ真剣に直向きに耳を傾けてくれた。

 最後まで言葉に仕切った途端、力が抜ける。

 歩きながらでは……ということで帰り道、公園に寄った私たちは、大きくて力強い木の下で話をしていた。

「……頑張ったな」

「えっ」

「真面目ぶってるとか、おとなしいとか。木岡にとっては全部息苦しかったんだ。なのにお前はしっかりと今ここに立ってる。辛いことを引き受けて誰かのために動けるのは凄い……かっこいいよ」

 風で大樹の葉が揺れた。
 
「でも、自分を傷つけ続けなくていい。傷つけたくてどうしようもなくなるときもあると思うけど、この世界の誰かが木岡のことを想ってる。だから、いいんだよ」

 頭の中に宮浦くんの言葉一つ一つが綴られていく。

 宝物になっていくように、その言葉たちが。

「……頑張ったね」

 暖かいものが、頬を伝う。堪えるにはもう限界だった。

 張っていた糸が、ぷつんと切れる音がした。

 自分の弱さについて考えれば考えるほど、暗闇に飲み込まれて沈んでいく感じがする。そこに沈んで帰って来れなくなることなんて何度もあった。

 それが今、間違ってないんだと。

 頑張ったねって言われて、やっと報われたような気がした。

「今は泣いていいよ」

「……うん」

 もう日が暮れてきていて、辺りは暗くなってきている。

 溢れ続ける涙と共に、夜が訪れようとしている。



「ありがとう、宮浦くん」

「こちらこそ。みっともないとこ見せたけど、助けてくれてありがとな。感謝してる」

 数分後。木の下から離れた私は家に着いた。遅くなってしまったからもういいよ、と言ったのだけど宮浦くんは頑なに一人で帰らせるのを拒否した。

「夜は、嫌いだ。綺麗で透き通ってて……そんなんだから大嫌いなんだ」

 ぽつりと呟いたその言葉を聞いたら、学校でも宮浦くんは『夜が連れ去った』と言っていたのを思い出して、何か事情があることを察する。

「えっと……おやすみなさい、また学校で」

「うん、またな」

 背中を向けて歩いていく彼は、やっぱり学校にいるときと違って寂しく見えた。

 最後にと思い、その背中に声を掛ける。

「気をつけて帰ってね!」

 宮浦くんは少しだけ振り返って、

「……木岡は、絶対に消えるなよ!」

 そう言って笑った。


※※※

 
 それから定期的にこの公園の木の下に訪れるようになり、自然と放課後ここにいるのが日課になっていた。

 幹を大きく伸ばし、彩り豊かな葉がまるで傘のように広がっている。季節によって違う風が心地よく吹いて心地がいい。

 何より一番、木漏れ日が綺麗なのだ。

 暖かい日差しが葉と葉の間から私たちに降り注いでいる。無垢なその光を見ていると、嫌な気持ちも何もかも忘れられるんだ。だから宮浦くんもここに来るのが日課になったんじゃないかな。

「今日の古文マジで寝るかと思ったー」

「先生の声オルゴールなんだもん。仕方ないよ」

「ふはっ、オルゴールって。でも確かにそれは言えてるかも。木岡ってたまに面白い例えするよな」

 そういえば、私はあの日の言葉の意味を何も知らない。一年と少しが経過した今でも。毎日会話をする同級生の今でも。

 ______あの夜が〝さな〟を

 ______木岡は、絶対に消えるなよ!

 あのとき宮浦くんは確かに私とは違う誰かを呼んでいた。言葉の一つ一つに何か意味が込められていそうだけど、どうしても聞く気になれなくて。

 夜が嫌いといった理由もわからないままだ。

 ……いや、もしかしたら聞くのが怖いだけかもしれない。

「前は黒板消しのこと卵のお寿司みたいとか言ってさ。流石に無理あるだろって……ははっ、おもしろ」

「あれは自分でも無理だと思ったけど、形がそう見えちゃったんだよ!」

「真っ白な猫が丸まってるの見て大福って言ったりもしてたなー」

「何で覚えてるのっ!」

 その眩しい笑顔が途絶えるのが。夜を嫌いって言ったときのように寂しくて辛そうな顔をするのが怖い。

「あー、やっぱつまんなくなんてないって。面白いよ木岡は」

 たまに揶揄ったその声の中に、私に対する慰めが入っている優しさとか。

「……ありがとう」

 そう言ったとき、満足そうに頷いてくれる姿とか。

 もうとっくに気づいている。

 私の中の宮浦くんへの気持ちに名前がついていること。いつからかそうなっていったことはとっくにわかっていた。

 今でも私は変わらないまま。自分の糸をずっと張り続けている。本音を隠したまま、弱い心で過ごしている。

 だけど宮浦くんが私を救ってくれた。受け入れてくれた。

 それだけで今は充分だった。


※※※


「じゃあ何描くか決まった人から下書き用紙持っていってー」

 美術の授業の時間になり、先生の声が教室に響き渡った。

 テーマ『貴方の大切なもの』

 黒板に大きく書かれた文字を見てから一度見つめて考える。

 私の、大切なもの。私が一番大事にしたいもの。

 ……思いつくまでにそう時間は掛からなかった。すぐに私の中の大切は一つにまとまった。

 ガタッと音を立てて席を立つ。

 机と机の間を通り、真っ直ぐに前の方へ向かう。

「木岡さんもう決まったの?」

「はい」

 クラス中がみんな私に注目したのがわかった。そしてすぐに「はやっ!」「さっすが真面目ー、よく思いつくよね」とか、口々に何かを言っている。

 真面目って、早く決まるのと真面目は関係ないんだけどな。
 
 いや、そんなことは考えずに絵に集中しよう。これは私が描きたいものなんだ。
 
 先生に許可を貰い、私は下書きをせずそのままキャンバスに立ち向かった。

「よし……」

 小さく呟き、息を吸う。

 黄緑、黄色、緑、白。迷わずに絵の具をパレットに出し、私は筆を動かし始めた。


 どのくらいの時間が経過しただろうか。

 放課後。授業が終わっても私は許可を貰い、絵を描き続けた。どうしても、少しでも現してみたかったから。中学生のとき美術部だったから絵に関しては少し自信がある。

 絵なら、この大切を。

 オレンジや、桃色。最後の仕上げで暖かく元気の出る色をのせる。

 そして、

「でき……た。私の大切なもの」

 自然と口角が上がるのを感じた。

「やったぁ……できた。私にもできた!」

 出来上がったキャンバスには、沢山の色が使われたあの木の木漏れ日が描かれている。イーゼルをそっと撫でると、完成したことがより実感できた。

 自分の見えたものをそのまま描けたのが嬉しくて、私は絵を見てまた微笑む。

 ……宮浦くんに見せたいな。

 彼はこれを見てなんて言ってくれるのだろうか。あの木漏れ日だってわかってくれるのだろうか。

 すぐに、この絵を見せたい。そしてまた受け入れてほしい。これは私の我儘だけど、彼の言葉は私を一番救ってくれるから。

 キャンバスを両手でしっかりと掴んだ。

 付けていた絵画用のエプロンを取り、束ねていた髪ゴムを解く。

 そのまま教室の外まで向かおうとした。

 しかし、

「へー、木岡ってそんな顔するんだ」

「えっ……」

「すっげー口角緩んでる。優しい笑顔」

 不意に聞こえてきた声が私を止める。

 ゆっくりと振り返ると、一番隅っこの机で頬杖をついている宮浦くんがいた。

「い、いつからいたの!?」

「ん? 結構前からだけど。木岡が木漏れ日の下の部分描き始めたとこくらいから」

「そんな序盤から……気づかなくてごめん」

「いいよ。めっちゃ集中してたみたいだし」

 驚きを隠せずワタワタとしているとまた笑われてしまった。少しだけ恥ずかしい……身体の熱が上がっていくのを感じる。

「綺麗な絵だなーって、ずっと見てた」

「何かわかる?」

 恐る恐る聞いてみると、すぐに回答は返ってきた。

「木漏れ日だろ? あの木の」

「うん、そうだよ」

「そっか……木岡の大切なもの」

 そう言うと宮浦くんは、ポケットから紙を出して私に見せる。

「これって!」

「うん、そう。俺もあの木漏れ日を描こうと思ったんだ。画力は勿論追いつかないんだけどな」

 そこには確かに大きな木が描かれていた。葉の上には太陽があり、下にまで降り注いでいる。間違いなく、あの木漏れ日だ。
 
「今の俺の大切なものも、あの木漏れ日なんだよ。全部忘れさせてくれるくらい……心地いいからさ」

 宮浦くんも、そう思っていてくれたんだ。

 あそこが……あの場所が、自分の大切なものだと。

「なぁ木岡」

「どうしたの?」

「この絵に俺のこと描いてくれたりしないの?」

「はっ!?」

 素直に喜んでいたのに宮浦くんは何を思ったのか、そんなことを言ってきた。

 思わず声が裏返り、頬が紅潮するのを感じる。

「描いたら宮浦くんが私の大切なものみたいになっちゃうし! それはなんというか色々と誤解されそうっていうか。クラスの人とかに何か言われるかも知れないし。揶揄われたら宮浦くんも迷惑でしょ? でも大切なものじゃないって言い切るのは違うんだけど……え、え? 私どうしたらいい?」

「ふはっ……聞き取れないって。早口すぎて……っヤバい。ツボに入った。冗談だよ、冗談」

 あぁ……やっぱり暖かい。

 宮浦くんの笑顔を見るとどうしようもなく嬉しくなって、本当の私になれる。

 これは、この気持ちは本物の恋なんだ。


 美術の授業の一通りが終わって、絵を家に持ち帰ることになった。

 私は完成した絵を未完成にし、また筆を握る。

 迷ったけど……今度は私だけの秘密。

 この絵に眩しい笑顔で笑う宮浦くんの姿を、描き足すことにした。


※※※


「今日って宮浦くん休みー?」

「誰か知ってる奴いる?」

「直斗が休みとか珍しい! 体調でも悪いんかな」

 朝。教室に入ったら、教室はやけにざわざわとしていた。いつも以上に話し声が多くて、なんのことか思ったけどその理由もわかる。

 宮浦くんが、席にいない。

 確かに珍しいことだった。宮浦くんは誰よりも朝早く教室にいる。毎日クラスメイト全員に挨拶をしている彼だから、いないことにもすぐ気づいたのだろう。人気者でもあるし。

 体調不良であれば心配だが……。

 もしかしたら何か家の事情でもあるのかも知れない。

 その日の学校は、色々と考えているうちに終わってしまった。

 終わっても、宮浦くんの席は開いたままだった。
 

 今日は来ないかな……。

 放課後。そう思いつつも、私はあの木の下へと向かう。

 太陽はいつもと変わらず優しく光を放っているはずだ。

 なのに少しだけ寂しく感じるのは……どうしてなのだろう。


 やっと公園に着いたと思ったら、驚いた。まさかいるとは思ってなかったから。

 あの少しだけ跳ねた髪、背が高くてすらっとした体型。見慣れた姿がそこにはあった。私は大きな声で彼を呼ぶ。

「宮浦くん!」

 その肩が揺れて、ゆっくりと振り返る。

「どうしたの、クラスのみんな心配し……て」

 息を呑んだ。

 振り返ったその顔は、あの日、教室で叫んだときのように消えそうで。悲しくて……辛い顔をしていたから。

「……木岡」

「何か、あったの?」

「お前に謝らなければいけないことがある」

 宮浦くんの声は震えていた。

 唐突に言われたその言葉に困惑している。でも謝らなければいけないこと。それは何か大切なことである気がした。

 いつも明るい光の彼が抱えているもの。

 あの日溢した沢山の言葉の理由。

 息を吸って、吐いて。目の前にいる宮浦くんの揺れる瞳を、真剣に見つめた。

「少しだけ長くなるけど、聞いてほしい」

「うん、いいよ」

 胸騒ぎで激しく打つ鼓動がやけにうるさかった。遂に来たんだ。この瞬間が。

 宮浦くんは意を消したように声を発した。

 私はその声に耳を傾けた。


「今日は……あいつの命日なんだ。だから学校を休んで、墓参りに行った」

 幼い頃から、宮浦くんには好きな人がいた。

 隣の家に住んでいる二歳上の幼馴染で、昔からよく面倒を見てくれていたらしい。毎日のように隣の家に行っては、学校であったことを話したり、一緒にゲームをしたりしていた。

 彼女の名前は、

「名前は……小野寺紗奈(おのでらさな)

 糸辺に少ないで紗。大きな実がなる木を意味する奈。私と一文字違いの、綺麗な意味を持つ字だった。

 紗奈さんは優しくてとても綺麗だけど、何処か儚い印象を与えさせる女の子だったらしい。いつか消えてしまいそうだ。そう思うほどに。

 彼女は、宮浦くんが中学校二年生だった頃のある日。

「自ら……命を絶った」

 彼女にとって、世界はあまりに残酷すぎたのだ。悪口、いじめ、批判、誹謗中傷……ニュースでも毎日のように報道している言葉たち。見ていても聞いていても胸が苦しくなる。

 勿論、この世界にいる全員を幸せにすることなんて叶わない。いくら願ったところでこの状況は変わらない。何もできない。

 そんなんだから、何をしても息苦しくて、辛くて押し潰されそうで。そんな気持ちに支配されてしまったんだと思う。

 紗奈さんは美しくて、綺麗で……優しすぎる人だ。

 全員の幸せを願っていた。見ず知らずの人も、笑っている世界を。

「紗奈が命を絶つ前、最後に話したのは俺だったんだ。もう結構遅くだったと思う。真夜中。たまたま家に入るときに会ってさ」

「……っ!」

「突然、紗奈は俺を抱きしめてきた。『直斗くんは絶対幸せになる。必ず誰かが君のことを想ってるよ。私だって……想ってるから』って言って」

 『傷つけたくてどうしようもなくなるときもあると思うけど、この世界の誰かが木岡のことを想ってる』

 前に言ってくれた、この言葉は。

「馬鹿だよな……俺。言われた言葉について考えてるうちに、紗奈は抱きしめていた俺の腕を解いた。あのときすぐに引き留めてれば良かったんだ」

「い……や」

「最後に紗奈、なんて言ったと思う?」

「やめて……」

 あまりに残酷すぎる。美しくて、残酷だ。

「笑って、いつもの笑顔で俺に笑いかけて。」


       〝またね〟って。

 
 一番泣きたいのは宮浦くんのはずなのに、涙を堪えるのには限界だった。

 どんな想いで紗奈さんはこの言葉を言ったんだろう。次の日は来ないってわかっていたのに。明日も明後日も、何年後かなんて、ずっと来ないとわかっていたのに。

 また会えるって安心させたかったのかな。

 自分は消えないって、そう思って欲しかったのかな。

 わからない。紗奈さんはどれほどの想いで、この真夜中の嘘を吐いたのだろうか。きっと伝えきれないほど大きなものだったはずだ。抱えきれないほど大きなものだったはずだ。
 
「次の日にニュースの報道を見て、死にたくなるぐらい自分を後悔した。昨日まで近くにいた紗奈が消えたって知って」

「……うんっ」

「思い出したんだ。紗奈が消えた日の夜は、雲ひとつなくて。星も月も綺麗に光っていて。綺麗すぎたこと」

「夜、が?」

「そうだよ。俺は夜空の下に立っている姿を思い出して、直感的に思った。あの夜が、紗奈を奪ったんだって」

 夜が嫌いだって言ったのは、そのせいだったのだ。

 もしかしたらそんな夜空を見て、紗奈さんは命を絶とうと思ったのかも知れない。綺麗な夜なら、美しく消えることができるから。

「……それからはよく覚えてない。気づいたら高校生になってて、俺はある女子生徒を見つけた」

 宮浦くんを今救える言葉を何も言えない。そんな言葉、見つからない。ただ頷くことしかできなかった。

「その子は真面目そうだからって理由だけで学級委員に推薦されて、愛想笑いを浮かべながらそれを受け入れてた」

「……そうだね」

「似てると思ったんだ、紗奈に。紗奈も真面目とかおとなしいとか。そんなこと言われてたし。何より、ふとしたとき消えそうな表情が似てた」

 苦しそうな顔で、彼はこちらを見る。

「だから……ごめん。俺は木岡を。木岡紗凪っていう一人の女の子を、小野寺紗奈と重ねてただけだ」

「待って……」

「俺とは、もう関わらないほうがいいと思う」

「待って……よ」

「楽しかった。毎日ここで過ごす時間が、俺にとって大切だった。本当にありがとう。木岡は……誰よりも幸せになって」

 こちらを振り返らず、ゆっくりと公園の外へと向かっていく。

「宮浦くんっ!!」

 その背中を、見つめることしかできなかった。
 
 ただ一人になった公園に、私の悲痛な叫び声が響くだけだった。


※※※


 それから、宮浦くんと何も話せないまま数ヶ月が経った。

「宮浦くん、あの!」

「次移動教室だろ? さっさと行こーぜ」

「えっ……あぁ、わかった」

 私が話しかけようとしても宮浦くんは他の人に話しかけたり、聞こえないふりをしたりする。無視するときの苦しそうな表情だけは見逃さなかったけど。

 彼はあの木の下にも、一度も来ることがなくなった。

 何日も待ち続けた。

 何日も、何日も通い続けた。

 でも、無理だった。もう私が彼の心に触れることは不可能なことなのかも知れない。すでに限界は訪れているかも知れない。

 私は……。


 夜。

 ため息を吐いて、思いっきりベットにダイブした。その勢いで少しだけベットが軋む。

「これからどうしたらいいの……」
 
 思っていることを呟いてみても、答えてくれる人はいない。

 聞いて同情して笑いかけてくれる人だっていない。寝転がる向きを変えて、頭の中でぐるぐると同じことを考え続ける。

 私が動かないと、状況は変わらない。

 でも動いても、状況は変わってない。

 じゃあ……どうしたらいいんだろう?

 苦しそうな表情は嘘じゃないはずだった。彼は、優しいから。私のためにしていることだってわかっている。私と関わらないために、無視を続けているんだ。

 ゆっくりと目を瞑って、これまでの出来事を思い返した。宮浦くんが言ったこと、宮浦くんの笑った顔。寂しそうな顔。辛そうな顔。全部全部、浮かんでくるのに。

 なのに……。


 思い出が写真のフィルムのように、頭の中を駆け巡っていく。

 数えきれないほどのフィルム達。私はその真ん中に立って、呆然と見つめる。

 そして、

        〝またね〟

 何か大切な言葉が、私の頭の中を駆けた気がした。

        〝またね〟

 その言葉は何度も現れては消えて、現れては消えて……点滅を繰り返している。

 この言葉は。この言葉は……。

「紗奈さん?」

 ……そうだ。

 紗奈さんが最後言った、またねっていう言葉。

 あの言葉には沢山の想いが込められていたはずだ。

 本当は、きっと紗奈さんがこれからも言いたかった言葉だろうから。明日が来ることが恋しくもあっただろうから。彼女が焦がれるほど願うものは、誰かの幸せなのだから。

 駄目だ……。

 宮浦くんの心を救うには、行動を変えるだけじゃ駄目なんだ。

 私が……変わらなきゃ。私自身が変わらなければいけないんだ。

 紗奈さんの言葉を、絶対に殺させたりはしない。

「っ!」

 そう心に決めてからは速かった。ベットから思い切り起き上がると、時計に目を向ける。針はすでに、夜の零時前を表していた。

 両親を起こさないようにゆっくりと階段を下り、ドアの鍵を閉めた瞬間、思い切り走り出す。

 
「はぁ……はぁっ」

 息が苦しい。静まり返った住宅街を、息を切らしながら走っていく。手足を際限なく動かして、走り続ける。

 伝えなければならないんだ。

 宮浦くんは悪くないこと。紗奈さんの想い。

 そして……私の想い。


 今日あの場所に居なくたって、また明日行けばいい。たとえ想いが届かなくたって、何度だって届ければいい。

 ……私の好きが壊れたとしても、伝えるだけでもいいから。届かなくても、きっと私はまた笑っていられるから。

 それだけを願うから。

 
 今夜、木漏れ日が降り注ぐ木の下で。


※※※
 
 
「はぁ……はぁ……っ」

 いた。そこには、宮浦くんがいた。 

 寂しそうに、空を見上げる彼が。きっと紗奈さんのことを考えているのだろう。

 息を整えてから、私はあの木へと近づいていく。

 一歩。

 もう一歩。

 足音を隠さず、確かに近づいっていった。

「……なんで来たんだよ」

 いつもとは違う重くて低い声が、私の足を止める。

「伝えたかったから。伝えないで終わるのは、嫌だったから」

 そう答えると、勇気を出してまた踏み出した。

 そのまままっすぐに歩いていく。

「クソ真面目はこんな真夜中に出歩くなよ」

「あーあ、そんなこと言われたら傷つくなぁ。本当は真面目じゃないのに。誰にも迷惑かけないために、真面目ぶりたいだけだっつーの!」

 宮浦くんが振り返る。

 その顔は少しだけ驚いていた。普段ここまで言い返さない私が、自分の意思で言い返したからだろう。

「なんで……」

「宮浦くん」

「なんで来るんだよ……木岡」

「さっきも言ったでしょ? こんなところで終わるの嫌なんだよ。私だけが幸せになってなんて間違ってる。宮浦くんも幸せにならないと意味がないの」

 逃げようとするその腕を、しっかりと掴んだ。

「逃がさないから」

 その瞳を覗きこんで、真っ直ぐに見つめる。

 しばらく言葉のない睨み合いを続けると、宮浦くんの腕が緩んだ。

「……わかった、降参」

 目を伏せて呟いたその言葉で、私は手を離した。

 そして、伝える。

「紗奈さんの想いを、宮浦くんに……いや。直斗くんに殺させたりはしない」

「すぐと、って」

「そうだよ、君のこと。この方が伝わるかなって、何もかも」

「……あぁ、そうだな」

 真っ直ぐに言い放った。

「紗奈さんは、みんなの幸せを願ってた。誰もが幸せで、誰もが笑顔でいる……そんな世界。でもそんな中で紗奈さんは直斗くんに言ったんだよ。幸せになってって。またねって」

 聞いていた彼の瞳が、静かに波紋をつくる。
 
「でもそれは……俺があの夜たまたま紗奈と会って」

「たまたまなんかじゃない。もしそうだったとしても、幸せになってほしくない人にそんなことは言えない」

 そして、雫が頬を伝った。

「私だけじゃ、駄目なんだよ。 直斗くんも幸せじゃないと意味がないの!! 直斗くんは何も悪くない! 私と紗奈さんを重ねてたって、そういうときもあったかも知れない。でも……本当にそうだった? 相談に乗ってくれたり、私の話で笑ってくれたり、絵を褒めてくれたり……そういうときも重ねてたの?」

「いや、違……」

「全部……凄く優しい顔をしてくれた。ちゃんと、私に向けてくれた言葉だったよ」

 それだけで私は助けられたの。

「直斗くんのおかげで、私は救われたんだよ」

「木……岡」

 今伝わらなくてもいい。だから、聞いていてほしい。

「この世界の誰かが直斗くんのことを想ってる。紗奈さんも……私も。だから、いいんだよ」

 最後に伝える。

 この恋が終わったとしても。

 報われることを願いはしないから。君があの明るい笑顔で、笑っていることを願うから。

 だから最後に言わせて。

 泣きそうなのをグッと堪えて、私は向き合う。君と。この想いと。

 今までで生きてきて一番自然な。本当の笑みが溢れた。

 自分への自嘲でもなく、大切な人へと向けたもの。



「私はね……」


      君のことが、大好きです。


 柔らかな風が吹いた。

 木々の隙間からは、まるで木漏れ日のように月光が私たちに降り注いでいる。

 
 君はいつもの笑顔に戻って、呟いた。



「紗凪」


 初めて呼んでくれた。

 私に向けられた、私の名前。


「俺は…………」



 淡くて優しくて……寂しくて脆い。







   ____________この恋の、行方は。