「これは……うまいな」
昼下がりの食卓で、ルーシーが唸った。
「ししょうのおくちにあって、よかった」
ユウキがルーシーに弟子入りしてから、一年と少しが経った。
最初はハードな修行のおかげで、家にいる間はずっと眠っていたが、体も少しだけ大きくなって余裕がでてきたわけだ。
オリンピアがままごとのように使っていた台所に火の精霊による力でコンロのようなものを設えてくれたので、スープを作ってみた。
結界内に湧いている泉の水は、そのままでも飲用に使うことができるほどに清涼で、料理に使ってもいける。
近頃、ルーシーに連れられて二日や三日がかりの狩りに出かけることもあるが、水筒に入れて持ち歩いても少しも腐らない。
小さい手足で料理を作るのは大変だったけれど、かなりの達成感がある。
「んん〜っ、これはっ! とびきり美味しい人間のお料理ですっ」
「私と同じ塩肉と豆を使ったスープなのに、うま味がすごい……」
「もうっ、天才ですっ!」
この世界にやってきて初めての料理にしては、わりと上出来だ。
ルーシーはもちろん、本来は食事をとることが必要ないオリンピアがユウキの料理を頬張っている。
今日の食材は久々に帰ってきたルーシーの狩ってきた魔獣の肉と保存食だ。
臭みを抑えて保存性を高めるためにきつめに塩をきかせた塩肉と、乾燥した豆を使ったスープだ。
(うん、うまい。師匠の料理は大量の水で塩を薄めてたんだな……)
きちんと塩抜きをしたうえで、乾燥した豆も水で戻して、それからスープを仕立てた。
ルーシーが同じような料理を作ってくれることも多かったが、どうやら下処理のようなものが足りなかったようだ。
塩肉の出汁と豆のうまみが滲み出たスープを乾いたパンに染みこませて、たいらげる。
「うむ、ユウキ……料理に関しては、すでに私を越えているな」
「ありがとうございます、ししょうっ」
「……おかわりはもらえるか?」
「うん。まだまだ、たくさんありますっ」
ユウキは、かつて弟と妹に食事を作ってあげたときを思い出す。
胃袋を掴めたようで、非常に満足。
「ユウキさん。私もこんなふうに、とびきり美味しいお料理を作れるようになりますかっ?」
「かあさん、こんどいっしょにつくろう」
「はいっ!」
ユウキはほっと胸をなで下ろした。
前世の味は、ここでも受け入れられたようだ。
今朝方、遠方で大型魔獣が出たということで、単身で狩りに出かけていたルーシーが久しぶりに帰ってきた。
それでルーシーの保存食をランチにしたわけだが。
「明日からは沿岸部の討伐隊に合流する」
「海? それってとびきり遠いですよ」
「ああ、海洋魔獣が出たそうだ」
なるほど、海にも魔獣が出現するのか。
当然といえば当然なのだが、山奥育ちのユウキにとってはピンとこない。
「ししょう、おれもいっていい?」
「駄目だ。シモフリリュウモドキを……そうだな、一晩で十匹ほど仕留められるようになっているなら考えてもいい」
「くぅ、さんびきがげんかい……かな」
シモフリリュウモドキは、雪に閉ざされた魔の山に住み着いている魔獣だ。
リュウ、つまりはドラゴンっぽい見た目をしているのだが、その正体は氷核を持つスライムの集合体だ。スライムとかいう、ゲームでいえば最弱の部類に属するモンスターのくせに素早く、強く、賢い。スペックでいえば完全にドラゴンそのものだ。
ただし、モドキというだけあって倒した後にはドロッとしたスライムだけが残される。ドラゴンの角や鱗みたいな戦利品は一切手に入らない。
死体からころんと排出される氷核を放置するとシモフリリュウモドキは何度でも復活してしまうので、唯一のドロップ品である氷核すらも破壊しなくてはいけないという理不尽加減だ。
逃げ足が速いうえにそれなりに手強く、今のユウキでは一晩中探し回って戦っても二匹か、よくて三匹程度倒せればいいほうだ。
ちなみに、師匠であるルーシーは一時間も経たずに十匹狩りきるだろう。
やはり、オトナへの道はまだまだ遠いようだ。
「なら、今回は留守番だ」
「はーい」
「正直、この山は魔獣の見本市みたいなものだ。焦ることはないさ。それに、コオリオオカミの群れがこの数年ずっと居着いているのも気になるし──」
「もうっ! ルーシー!」
「む、なんだ」
オリンピアが眉をつり上げて隣に座っているルーシーを小突いた。
「ユウキさんはこんなに小さいのよ、一晩中狩りをさせるなんてひどい!」
「いや、さっきのはモノのたとえで……」
「もう! 師匠だかなんだか知りませんけど、とびっきり悪いわよ」
「わ、悪かったって」
「いくらユウキさんが将来有望だからって、まだまだちっちゃいのですっ」
「わかってるっ!」
むぎゅむぎゅとルーシーの頬をつねっているオリンピアと、まんざらでもなさそうなルーシーをユウキは生暖かい目で見守った。
いかにルーシーが鋭い気配と乾いた魅力にあふれた女傑とて、下手をすると親子ほども年齢が離れて見える二人である。
精霊であるオリンピアがこんなにも心を開いているルーシーとは、一体何者なのだろうか。いまだに二人の関係は謎である。
夫婦でもないだろうし。
友達というには親密だし。
「それに……最近少し結界の調子が悪いのよ。瘴気が濃くなっているのか、誰かが結界を傷つけているのか……心配なのよ」
「ふむ、何か情報があれば伝えるよ」
「お願いね、ルーシー。とびきり頼りにしてます」
(とりあえず、料理は俺が作ってもいいっぽいな)
明日からまた出張するというルーシーに、あれこれと買い出しを頼もうとユウキは考えを巡らせた。
「と、ところでユウキよ……ひとついいか」
「ん? なんでしょうか、ししょう」
「このスープは……私にも作れるだろうか……」
こういう上手いものを旅先でも食べたいのだ、とモゴモゴと弟子にお願いをするルーシーなのだった。
本当ならカレールゥとか味噌とかダシの素とかがあれば、もっと簡単にうまいものが食べられるのだけれども──と密かに思うユウキなのだった。
とりあえず、味が薄いのに塩辛い料理とはおさらばできそうだ。
◆
「ていっ、よっ、はっ!」
今日も今日とて、結界のはずれにある崖を登る。
ルーシーの師匠としての腕はわからないが、ルーシーの真似をして、助言のとおりに訓練をすると不思議なくらいに身体が動いた。
今はもう崖のてっぺんまで登るのは、鍛錬のうちには入らない。
最近、ユウキが取り組んでいるルーシーからの課題は、結界の境目に現れる弱い魔獣を狩ることだ。
魔獣が持っている力……つまりは瘴気の強さによって、結界のどこまで入り込めるかが決まるらしい。
強い魔獣は結界の外側で弾かれ、弱い魔獣は内側まで入り込める……オリンピアの結界はそういう性質のものらしい。
いわく、そうしなければ人間も動物も内部には入り込めないようになっていまうらしい。
(人間も少しは瘴気をまとってる、ってことかぁ)
この世界の仕組みは、まだまだわからないことばかりだ。
崖のてっぺんまで楽に到達できるようになったものの、崖の上は結界の効果が弱いようで、手強い魔獣がいたり、足場が悪かったり──一つ目標を達成すると、次の課題が目の前に出てくる状態だった。
考え事をしながらユウキは山の中を駆け回る……と、そのとき。
「わわっ」
足元の雪が崩れた。
雪庇──風に吹かれた雪が固まって地面からせり出したものだったらしい。
ズボッと足をとられて、派手に転倒した。
転倒した先には、切り立った崖。
(や、っばい)
体勢を保つことができずに、あえなく崖から落下する。
ルーシーに指示してかなり鍛えてきたとはいえ、やっぱり幼児体型の限界というのはあるようだ……はやくオトナになりたいような、そうじゃないような。
あえなく落下したユウキだったが、以前とはすでに違う。
「よっと!」
流れるように受け身をとった。
ルーシーにキャッチしてもらえなければ二度目の事故死をとげていたであろう身としては、うっかり崖から落下したとはいえ危なげなく着地できたことに成長を感じるのだった。
けれど、無傷とはいかなかった。
「いてて」
落下する直前に、岩肌で足を擦りむいてしまった。
擦りむいたというレベルを超えてそれなりにぱっくりと切ってしまったような気がするが、ユウキには焦りはなかった。
というのも──。
「やっちゃったな。治るからいいけどさぁ」
足の傷はユウキがちょっと眉をしかめている間に塞がり、跡すら残さずに消えてしまった。完治である。
(不思議だよな、この世界ではすぐに傷が治るんだ)
傷のあったところを触ってみる。
痛みもないし、出血もない。つやつやの幼児の肌だ。
(「子どもってやつは、こんなに傷の治りが早いのか?」って師匠がびっくりしてたけど……まあ、そのへんは元の世界と同じだな)
ユウキは落ちてきた崖を見上げる。
「うー……はんたいがわに、おちちゃったな」
うっかり登った側とは反対の崖下に落下してしまった。
結界の中心地である泉から、かなり離れている。
ぞくぞく、と悪寒がはしる。
オリンピアの結界の力はここまでは及んでいないらしい。
まずいかもしれない、とユウキは思った。
落ちてきた崖をすぐに登って戻らないと。それくらいは訳のないことだ。
ひょいひょい、と崖を登っていくユウキだったが、そのとき妙なものが目に入った。
「あれって、コオリオオカミ?」
ユウキがこの世界にやってきたときに襲ってきた魔獣の群れだ。
オオカミというけれど、相変わらずデカい。子牛くらいある。
……いや。デカすぎる。
「なんか、カバくらいある」
オオカミの群れの中に、明らかに巨大なやつがいる。
ぞわっと鳥肌がたった。
初めての経験だ。似た感覚は……これが「本能でヤバいと感じた」というやつか。ユウキは震えた。こっち見られたら、ちょっと漏らすかも。
というか。
デカいボスに連れられたコオリオオカミの群れが結界の中心地……つまり、ユウキの住んでいる小屋のほうに進んでいるのだ。
「な、なんでっ」
群れの先頭を進むボスっぽいオオカミの周囲に目をこらす。
パキパキ、パキパキ、とボスの周囲の結界が凍りついて、砕け散っている。
数メートル進んだところで、ぶるぶるっと身震いしたボスが回れ右をした。群れのコオリオオカミたちも一緒に引いていく。
(今日はここまでってこと?)
ユウキはオリンピアの話していたことを思い出す。
『それに……最近少し結界の調子が悪いのよ』
犯人はこいつらだったということだ。
ユウキは周囲の気配を探る。
最近、視界に入っていない魔獣でも気配を感じ取れるようになった。
それなりに習得が早いらしいのは幸運である。
普段は山の中に散らばって生息しているシモフリリュウモドキがけっこうな数、そのへんにいるようだった。
(やっぱり、何か変だ……)
ルーシーが帰ってくるまで、どんなに長くても十日はかかるだろう。
少し考えこんでから、ユウキは走った。
幼児である。
ならば、やるべきことは一つ。
「かあさんに、おしえなきゃっ」
最近、忘れがちではあるがオリンピアは精霊だ。
ルーシーのようなパワーはないかもしれないが、どうにかしてくれるかも。
……結論としては、オリンピアはどうにかしてくれなかった。
というか、結界を維持しているだけでもかなりの力を使っている状態で、魔獣を撃退することはできないのだった。
少しずつ結界の内側に入り込んでくるコオリオオカミたちの群れ。
ユウキを抱っこすることで霊力が高まり結界の力が強くなるとかいうバグじみた状況がわかったために、ルーシーが帰ってくるのを待つ間、ユウキは抱き枕よろしくオリンピアに抱っこされ続けることになった。
そして、待つこと十日。
帰ってきたばかりのルーシーとユウキがコオリオオカミたちのボス──魔王の配下であった魔獣の中の魔獣フェンリルとの対決をむかえ、なんとルーシーも知らぬところでフェンリルを討伐……ではなく、なぜか手懐けることになったのは、ユウキの幼少期におけるハイライトになるのだった。
昼下がりの食卓で、ルーシーが唸った。
「ししょうのおくちにあって、よかった」
ユウキがルーシーに弟子入りしてから、一年と少しが経った。
最初はハードな修行のおかげで、家にいる間はずっと眠っていたが、体も少しだけ大きくなって余裕がでてきたわけだ。
オリンピアがままごとのように使っていた台所に火の精霊による力でコンロのようなものを設えてくれたので、スープを作ってみた。
結界内に湧いている泉の水は、そのままでも飲用に使うことができるほどに清涼で、料理に使ってもいける。
近頃、ルーシーに連れられて二日や三日がかりの狩りに出かけることもあるが、水筒に入れて持ち歩いても少しも腐らない。
小さい手足で料理を作るのは大変だったけれど、かなりの達成感がある。
「んん〜っ、これはっ! とびきり美味しい人間のお料理ですっ」
「私と同じ塩肉と豆を使ったスープなのに、うま味がすごい……」
「もうっ、天才ですっ!」
この世界にやってきて初めての料理にしては、わりと上出来だ。
ルーシーはもちろん、本来は食事をとることが必要ないオリンピアがユウキの料理を頬張っている。
今日の食材は久々に帰ってきたルーシーの狩ってきた魔獣の肉と保存食だ。
臭みを抑えて保存性を高めるためにきつめに塩をきかせた塩肉と、乾燥した豆を使ったスープだ。
(うん、うまい。師匠の料理は大量の水で塩を薄めてたんだな……)
きちんと塩抜きをしたうえで、乾燥した豆も水で戻して、それからスープを仕立てた。
ルーシーが同じような料理を作ってくれることも多かったが、どうやら下処理のようなものが足りなかったようだ。
塩肉の出汁と豆のうまみが滲み出たスープを乾いたパンに染みこませて、たいらげる。
「うむ、ユウキ……料理に関しては、すでに私を越えているな」
「ありがとうございます、ししょうっ」
「……おかわりはもらえるか?」
「うん。まだまだ、たくさんありますっ」
ユウキは、かつて弟と妹に食事を作ってあげたときを思い出す。
胃袋を掴めたようで、非常に満足。
「ユウキさん。私もこんなふうに、とびきり美味しいお料理を作れるようになりますかっ?」
「かあさん、こんどいっしょにつくろう」
「はいっ!」
ユウキはほっと胸をなで下ろした。
前世の味は、ここでも受け入れられたようだ。
今朝方、遠方で大型魔獣が出たということで、単身で狩りに出かけていたルーシーが久しぶりに帰ってきた。
それでルーシーの保存食をランチにしたわけだが。
「明日からは沿岸部の討伐隊に合流する」
「海? それってとびきり遠いですよ」
「ああ、海洋魔獣が出たそうだ」
なるほど、海にも魔獣が出現するのか。
当然といえば当然なのだが、山奥育ちのユウキにとってはピンとこない。
「ししょう、おれもいっていい?」
「駄目だ。シモフリリュウモドキを……そうだな、一晩で十匹ほど仕留められるようになっているなら考えてもいい」
「くぅ、さんびきがげんかい……かな」
シモフリリュウモドキは、雪に閉ざされた魔の山に住み着いている魔獣だ。
リュウ、つまりはドラゴンっぽい見た目をしているのだが、その正体は氷核を持つスライムの集合体だ。スライムとかいう、ゲームでいえば最弱の部類に属するモンスターのくせに素早く、強く、賢い。スペックでいえば完全にドラゴンそのものだ。
ただし、モドキというだけあって倒した後にはドロッとしたスライムだけが残される。ドラゴンの角や鱗みたいな戦利品は一切手に入らない。
死体からころんと排出される氷核を放置するとシモフリリュウモドキは何度でも復活してしまうので、唯一のドロップ品である氷核すらも破壊しなくてはいけないという理不尽加減だ。
逃げ足が速いうえにそれなりに手強く、今のユウキでは一晩中探し回って戦っても二匹か、よくて三匹程度倒せればいいほうだ。
ちなみに、師匠であるルーシーは一時間も経たずに十匹狩りきるだろう。
やはり、オトナへの道はまだまだ遠いようだ。
「なら、今回は留守番だ」
「はーい」
「正直、この山は魔獣の見本市みたいなものだ。焦ることはないさ。それに、コオリオオカミの群れがこの数年ずっと居着いているのも気になるし──」
「もうっ! ルーシー!」
「む、なんだ」
オリンピアが眉をつり上げて隣に座っているルーシーを小突いた。
「ユウキさんはこんなに小さいのよ、一晩中狩りをさせるなんてひどい!」
「いや、さっきのはモノのたとえで……」
「もう! 師匠だかなんだか知りませんけど、とびっきり悪いわよ」
「わ、悪かったって」
「いくらユウキさんが将来有望だからって、まだまだちっちゃいのですっ」
「わかってるっ!」
むぎゅむぎゅとルーシーの頬をつねっているオリンピアと、まんざらでもなさそうなルーシーをユウキは生暖かい目で見守った。
いかにルーシーが鋭い気配と乾いた魅力にあふれた女傑とて、下手をすると親子ほども年齢が離れて見える二人である。
精霊であるオリンピアがこんなにも心を開いているルーシーとは、一体何者なのだろうか。いまだに二人の関係は謎である。
夫婦でもないだろうし。
友達というには親密だし。
「それに……最近少し結界の調子が悪いのよ。瘴気が濃くなっているのか、誰かが結界を傷つけているのか……心配なのよ」
「ふむ、何か情報があれば伝えるよ」
「お願いね、ルーシー。とびきり頼りにしてます」
(とりあえず、料理は俺が作ってもいいっぽいな)
明日からまた出張するというルーシーに、あれこれと買い出しを頼もうとユウキは考えを巡らせた。
「と、ところでユウキよ……ひとついいか」
「ん? なんでしょうか、ししょう」
「このスープは……私にも作れるだろうか……」
こういう上手いものを旅先でも食べたいのだ、とモゴモゴと弟子にお願いをするルーシーなのだった。
本当ならカレールゥとか味噌とかダシの素とかがあれば、もっと簡単にうまいものが食べられるのだけれども──と密かに思うユウキなのだった。
とりあえず、味が薄いのに塩辛い料理とはおさらばできそうだ。
◆
「ていっ、よっ、はっ!」
今日も今日とて、結界のはずれにある崖を登る。
ルーシーの師匠としての腕はわからないが、ルーシーの真似をして、助言のとおりに訓練をすると不思議なくらいに身体が動いた。
今はもう崖のてっぺんまで登るのは、鍛錬のうちには入らない。
最近、ユウキが取り組んでいるルーシーからの課題は、結界の境目に現れる弱い魔獣を狩ることだ。
魔獣が持っている力……つまりは瘴気の強さによって、結界のどこまで入り込めるかが決まるらしい。
強い魔獣は結界の外側で弾かれ、弱い魔獣は内側まで入り込める……オリンピアの結界はそういう性質のものらしい。
いわく、そうしなければ人間も動物も内部には入り込めないようになっていまうらしい。
(人間も少しは瘴気をまとってる、ってことかぁ)
この世界の仕組みは、まだまだわからないことばかりだ。
崖のてっぺんまで楽に到達できるようになったものの、崖の上は結界の効果が弱いようで、手強い魔獣がいたり、足場が悪かったり──一つ目標を達成すると、次の課題が目の前に出てくる状態だった。
考え事をしながらユウキは山の中を駆け回る……と、そのとき。
「わわっ」
足元の雪が崩れた。
雪庇──風に吹かれた雪が固まって地面からせり出したものだったらしい。
ズボッと足をとられて、派手に転倒した。
転倒した先には、切り立った崖。
(や、っばい)
体勢を保つことができずに、あえなく崖から落下する。
ルーシーに指示してかなり鍛えてきたとはいえ、やっぱり幼児体型の限界というのはあるようだ……はやくオトナになりたいような、そうじゃないような。
あえなく落下したユウキだったが、以前とはすでに違う。
「よっと!」
流れるように受け身をとった。
ルーシーにキャッチしてもらえなければ二度目の事故死をとげていたであろう身としては、うっかり崖から落下したとはいえ危なげなく着地できたことに成長を感じるのだった。
けれど、無傷とはいかなかった。
「いてて」
落下する直前に、岩肌で足を擦りむいてしまった。
擦りむいたというレベルを超えてそれなりにぱっくりと切ってしまったような気がするが、ユウキには焦りはなかった。
というのも──。
「やっちゃったな。治るからいいけどさぁ」
足の傷はユウキがちょっと眉をしかめている間に塞がり、跡すら残さずに消えてしまった。完治である。
(不思議だよな、この世界ではすぐに傷が治るんだ)
傷のあったところを触ってみる。
痛みもないし、出血もない。つやつやの幼児の肌だ。
(「子どもってやつは、こんなに傷の治りが早いのか?」って師匠がびっくりしてたけど……まあ、そのへんは元の世界と同じだな)
ユウキは落ちてきた崖を見上げる。
「うー……はんたいがわに、おちちゃったな」
うっかり登った側とは反対の崖下に落下してしまった。
結界の中心地である泉から、かなり離れている。
ぞくぞく、と悪寒がはしる。
オリンピアの結界の力はここまでは及んでいないらしい。
まずいかもしれない、とユウキは思った。
落ちてきた崖をすぐに登って戻らないと。それくらいは訳のないことだ。
ひょいひょい、と崖を登っていくユウキだったが、そのとき妙なものが目に入った。
「あれって、コオリオオカミ?」
ユウキがこの世界にやってきたときに襲ってきた魔獣の群れだ。
オオカミというけれど、相変わらずデカい。子牛くらいある。
……いや。デカすぎる。
「なんか、カバくらいある」
オオカミの群れの中に、明らかに巨大なやつがいる。
ぞわっと鳥肌がたった。
初めての経験だ。似た感覚は……これが「本能でヤバいと感じた」というやつか。ユウキは震えた。こっち見られたら、ちょっと漏らすかも。
というか。
デカいボスに連れられたコオリオオカミの群れが結界の中心地……つまり、ユウキの住んでいる小屋のほうに進んでいるのだ。
「な、なんでっ」
群れの先頭を進むボスっぽいオオカミの周囲に目をこらす。
パキパキ、パキパキ、とボスの周囲の結界が凍りついて、砕け散っている。
数メートル進んだところで、ぶるぶるっと身震いしたボスが回れ右をした。群れのコオリオオカミたちも一緒に引いていく。
(今日はここまでってこと?)
ユウキはオリンピアの話していたことを思い出す。
『それに……最近少し結界の調子が悪いのよ』
犯人はこいつらだったということだ。
ユウキは周囲の気配を探る。
最近、視界に入っていない魔獣でも気配を感じ取れるようになった。
それなりに習得が早いらしいのは幸運である。
普段は山の中に散らばって生息しているシモフリリュウモドキがけっこうな数、そのへんにいるようだった。
(やっぱり、何か変だ……)
ルーシーが帰ってくるまで、どんなに長くても十日はかかるだろう。
少し考えこんでから、ユウキは走った。
幼児である。
ならば、やるべきことは一つ。
「かあさんに、おしえなきゃっ」
最近、忘れがちではあるがオリンピアは精霊だ。
ルーシーのようなパワーはないかもしれないが、どうにかしてくれるかも。
……結論としては、オリンピアはどうにかしてくれなかった。
というか、結界を維持しているだけでもかなりの力を使っている状態で、魔獣を撃退することはできないのだった。
少しずつ結界の内側に入り込んでくるコオリオオカミたちの群れ。
ユウキを抱っこすることで霊力が高まり結界の力が強くなるとかいうバグじみた状況がわかったために、ルーシーが帰ってくるのを待つ間、ユウキは抱き枕よろしくオリンピアに抱っこされ続けることになった。
そして、待つこと十日。
帰ってきたばかりのルーシーとユウキがコオリオオカミたちのボス──魔王の配下であった魔獣の中の魔獣フェンリルとの対決をむかえ、なんとルーシーも知らぬところでフェンリルを討伐……ではなく、なぜか手懐けることになったのは、ユウキの幼少期におけるハイライトになるのだった。