魔導師コハク・リンクスが、要塞司令官リョウブ・レオンからの魔導器開発要請を受けてから、およそ二週間。

 コハク・リンクスが研究開発に勤しむ一方その頃、要塞付近の街道を、三台の馬車が列を成して走っていた。

 このうち二台は兵士を乗せた護衛車両。
 列の前と後ろに位置取って、中央の三台目――精緻な装飾が施された貴族用の馬車を守っている。

 そして、厳重に護衛された貴族用の馬車の中には、二人の高貴な少女の姿があった。

 マクリア地方領主、ユキカ・アラヴァストス。
 宮廷伯ディアマンディ家令嬢、ルリ・ディアマンディ。

 二人の少女は同じ馬車に相乗りし、良く言えば雄大で牧歌的な、悪く言えば閑散とした辺境の平原の散策を楽しんでいた。

「人間世界の西の果て。魔導師が赴任を拒否する辺境中の辺境。中央ではそんな風に言われていますけど、仕事を忘れて静養する分には快適ですわね」
「ありがとうございます。だけど定住するとなると、苦労の方が大きくなってしまうんですけどね」

 ユキカは以前と変わることなく、自分の領地に対するネガティブな評価を、顔色一つ変えることなく平然と受け入れている。

 本音を隠し笑顔を取り繕っている、というわけでもない。

 むしろ心から同意しているようにも見えた。

「……わたくし、最初は社交辞令の類だと思っていましたわ」
「え、何のことですか?」
「領地を貶められても怒らない、それどころか同意すらしているでしょう。てっきり、わたくしに話を合わせているのだとばかり」
「もちろん本音ですよ。だって私、この領地のこと、嫌いですから」

 ユキカは満面の笑顔でそう言い切った。

「あっ、もちろん全部が嫌いってわけじゃないですよ。自然が綺麗だなって思うことはありますし、領民の人達は素朴で良い人ばかりですし」

 唖然とするルリに対して、ユキカは焦った様子もなく言葉を続けた。

「だけど、生活が不便なところは嫌いです。お店や娯楽がほとんどないのも嫌いです。美味しいケーキ屋さんがないのも嫌いです。嫌いな理由は数え切れないくらいにありますけど、一番の理由は……」

 一拍の間。そして、真剣な声。

「……領民の人達を幸せにできない土地だっていうことが、心の底から大嫌いです」
「ユキカ、貴女……」
「この土地には、足りないものが多すぎます。しかも足りないだけならまだしも、百眼同盟なんてものがあるせいで、なけなしの余裕も防衛に吸い上げられてしまう……そうしなければ何も守れない……」

 車窓の外を眺めるユキカの瞳は悲しげで、どこか遠くを見つめているようだった。

「もちろん、変えようと頑張りました。この土地の環境は嫌いでも、ここに済む人達のことは好きですから。だけど無理でした。どれだけ頑張っても、乾いた砂漠に水を撒くようなものだったんです」

 しかしその眼差しは、すぐに希望の色へと塗り替わる。

「コハク様と出会ったのは、私にできることをやり尽くして、領主として行き詰まりを感じ始めたときでした。そして思ったんです。誰にでも魔法が使える道具……魔導器こそ、私達を救ってくれる希望。これはきっと運命なんだって」
「運命ですか? わたくしの目には偶然の積み重ねのように見えますけれど」
「それを運命って言うんですよ」

 心の底から嬉しそうに笑うユキカ。

 全ては偶然の積み重ね――コハクが魔導器の研究を始めたのも、魔法省の大臣が左遷先としてマクリア地方を選んだのも、ユキカの苦境を救おうとしたからではない。

 赴任したコハクが魔導器を製造したのは自分の負担を減らすためで、そうせざるを得なかったのは前任の魔導師が行方を晦ましたから。

 一連の流れに関わる誰一人として、マクリア地方とユキカを救おうとは考えていなかったにもかかわらず、全てが絶妙に噛み合った結果、偶然にも救いの手となってユキカの前に差し出されたのだ。

 これを運命と言わずに何と言う。
 ユキカは言葉と眼差しの両方でそう断言していた。

「コハク様の研究が成就すればするほど、この土地に足りないものを補える……領民の人達の生活に余裕が生まれて、今よりもずっと幸せにしてあげられる……実際、あの方がほんの数日滞在しただけで、あのペトラ村がすっかり復興してしまったくらいですから」
「はぁ……やっと合点がいきましたわ。どうして貴女が魔導器を受け入れたのか。ただの友人としては喜ばしいことですが、魔導師としては忸怩(じくじ)たる思いですわね」

 ルリは短く溜息を吐いた。

「それにしても、貴女の責任感には感服しますわ。先祖代々の領地とはいえ、並の人間ならとうの昔に諦めていてもおかしくないでしょうに」
「あ、実はですね……この土地、先祖代々の領地というわけではないんです」
「……はい?」

 余計に困惑を深めるルリに、ユキカは笑いながら自分の事情を説明した。

「元々、マクリア地方はゼフィロス家の親戚が治めていたんです。だけど先代領主が跡継ぎを決めずに亡くなって、こんな辺境を誰に引き継がせるのかっていう押し付け合いが始まって……巡り巡って、ほとんど他人みたいな遠縁の私にお鉢が回ってきたんです」
「ゼフィロス家……四大貴族のゼフィロス公ですか!? それはまた……大変なところから押し付けられてしまったものですわね……」
「とんだ貧乏くじですよね。お父様ったら、下級貴族の我が家から地方伯が! なんて大騒ぎしてましたけど、私の気苦労も少しは考えてほしいものです」

 このアイオニア王国の貴族制度は、大きく分けて三つのグレードに分かれている。

 まず一つ目は、単に『伯』あるいは『諸伯』とだけ呼ばれる下級貴族。
 領地は狭く、権力も弱く、国王や上位の貴族の下請けとして、限られた範囲を代理統治しているという意味合いが強い。

 二つ目は『伯』の前に何らかの装飾語がつく上級貴族。
 重要な軍事拠点とその周辺を治める『城塞伯』や、領地内に大都市を抱えた『都市伯』の他、領地を持たず王宮で政治に携わる『宮廷伯』などが存在する。

 ユキカの肩書である『地方伯』は、上級貴族における序列第一位の『宮廷伯』に次ぐ第二位の格が与えられている。

 ……ただし、これはあくまで社会的な格付けの話であり、領地が豊かであるかどうかは別問題。

 小国並の経済力を持つ地方伯もいれば、ユキカのように苦労を重ねる地方伯もいる。

 そして三つ目は、国王に次ぐ権勢を誇る最上級貴族、いわゆる四大貴族である。

 王国の東西南北にそれぞれ広大な領地を有し、他の貴族には許されない『公』の敬称で呼ばれる四つの一族。

 下級貴族にとっては文字通り雲の上の存在。

 これほど地位の高い人物から領地を任せたいと言われて、断れる下級貴族などまずいないだろう――それがたとえ、我が子を生贄に差し出すようなものだったとしても。

「北方支配のヴォーリオス公と比べれば、西方支配のゼフィロス公は穏健派だと聞きますわね」
「穏健派というより無関心なんですよ。口出しはしない代わりに手も貸さない、なんて言って、援助のひとつもしてくださらないんです。まぁそのお陰で、コハク様の研究を全力で支援できるんですけど」

 ユキカは拗ねたように唇を尖らせた。

「そうだ! せっかくですから、サブノック要塞に立ち寄って、コハク様の仕事ぶりを見学していきません?」
「ど、どうしてそうなるんですの!?」
「ルリも気になりませんか? コハク様が次にどんなものを作るのか! 確か今は、レオン司令の要請で……」

 二人を乗せた馬車は、閑散とした丘陵地帯をゆっくりと進んでいく。

 周囲に人里はなく、馬車の車輪の音だけが響いている……はずだったのだが。

「あら? ユキカ、何か聞こえませんこと?」
「え? そういえば……うっすらと、聞こえなくもないような……他の馬車でしょうか」
「それにしては速すぎます。馬車だとしたら、明らかに暴走していますわ」

 どんどん大きくなっていく異音。

 ルリとユキカが音の聞こえる方の窓に体を寄せ、外の様子を伺おうとした次の瞬間、大きな影が丘の頂上から勢いよく空中に飛び出した。

 二人の馬車の上を飛び越えていく謎の影。

 まるで、馬が繋がれていない馬車のような形。

 普通なら走るはずなどない代物が、とんでもない速度で丘の頂上から離陸して、街道を挟んだ反対側に墜落――否、着地する。

 バラバラになってもおかしくない勢いの着地だったが、墜落寸前で風属性の魔法が発動して空気のクッションを生成し、破壊的な落下を未然に防いでいた。

「なななな、何が起きたんです!?」
「まさか……!」

 唖然とするユキカを車内に残し、ルリは自分達の馬車を飛び出して、正体不明の馬なし馬車に駆け寄った。

 馬なし馬車の扉が開き、乗員がフラフラと外に出る。

「あー……酷い目に遭った……」
「やっぱり! コハクさんでしたのね!」

 それはまさしく魔導師コハクだった。

 御者席には獣人のクレナイの姿があり、憔悴したコハクとは正反対に、何やら恍惚とした顔で笑っている。

「はあぁ……! 最っ高ですね、これ! 気分爽快です……!」
「……一緒に空飛んだときも思ったけど……君さ、危険な乗り物ほど好きだったりしないか?」

 少し遅れて、我に返ったユキカと護衛の兵士も追いついてくる。

「コハク様!? 一体何が……!」
「おっと。奇遇ですね、マクリア伯」

 すぐさま襟を正すコハク。

「実は、レオン司令から依頼された魔導器のテスト走行をしているところなんです。だけどクレナイに最高速度を試してもらっていたら、うっかり限界を越えてしまいまして」
「魔導器? まさか、これは……あの資料にもあった……」

 驚きから一転。ユキカの表情が輝く。

「自動車ですね! 凄い、凄いです! あんなに速く走れるなんて!」

 掛け値なしの称賛を受けて、照れ笑いを浮かべるコハク。

 その後ろで、ルリは溜息を吐いて首を横に振っていた。