あの日、私は、誰かを見た。

その人は、夜空を見上げていた。

風になびく短い髪。はためく服。


雲のかからないきれいな月の放つ光をよけて、その人は立っていた。





寝過ごした、と思った。

ガタガタと音を立てて走る三両編成の電車。


午後10時に終わった塾の後、私はいつも通り電車に乗って帰っていた。

だけどいつの間にか寝てしまったみたいで、目が覚めたら終点から三番目の駅に向かうところだった。

私が下りるはずの駅は、もう10いくつも前。


とりあえず、降りよう。



「次は~……」



車内に、停車駅のアナウンスが流れる。

周りには、もうほとんど人がいない。前に大きな駅があって、きっとそこでみんな降りたんだろう。

電車が止まりドアが開く。私はカバンを抱えて降りた。


今、何時だろう。近くの時計を確認すると、11時15分だった。

ということは、今のが終電かも……。まずい。これじゃ、帰れない。

背中に、冷や汗が流れる。


とりあえず、お母さんに連絡しなきゃ。

私はカバンからスマホを取り出し、電源を付ける。


でも……なぜか電源はつかない。

もしかして、切れたのかも。

うそ、こんなときに。どうしよう。


きっと、お母さんたち心配してるよね。

だけど連絡手段がない限りは、何もできない。


私はお財布の中身を確認して、改札へ向かった。

ICカードに1500円あったので、そのまま改札は通れた。


でも、これからどうするか。

ここは田舎の駅。公衆電話なんて見たところどこにもないし、たとえ連絡できたとしても迎えに来てもらうとかは絶対無理だ。

だって……ここ、県外だもの。


手持ちは2000円。これじゃあ家までタクシーではいけない。

バスなんて行き先が限られているから乗れないし。

でも、11時過ぎに高校生が外を歩いていたら補導されかねない。だからせめて、行けるところまではタクシーで行こう。


そう決意した私は、駅の近くにたまたま止まっていたタクシーに乗り込んだ。



「2000円で、出来るだけ遠くの駅までお願いします」



私は、黒革製のカルトンに1000札を二枚置いた。




「ありがとうございました」



私はお礼を言って、バタンと扉を閉める。

着いたのは、自宅の最寄り駅より4つ前の無人駅だった。

正直、ここからじゃだいぶ遠い。でも、歩くしか私に手段はない。周りは田んぼだらけでしんとしている。


これなら、おまわりさんに見つかることもなさそう。

私は、線路に沿って歩き出した。


1月の冷たい風が、私の身体に吹き付ける。

まったく変わることのない景色に、私は10分程度で飽きてしまった。

そんなこと言ってる場合じゃないのに。


両親になんて説明しようか。今、私の頭の中はそれだ。

普通に寝過ごしたって説明すればいいんだろうけど。


Q なんで寝過ごしたの?
A ね、眠かったから?

Q 連絡は?なんでしてこなかったの
A スマホ、充電切れちゃってて……。公衆電話もなかったの。

Q 駅員さんには言わなかったの?
A い、言ってないです。ごめんなさい。

Q こんな時間に女子高生が出歩いていたら危ないし、補導されるわよ。ちゃんとわかってるの?
A 分かってます。ごめんなさい……。



……っていうところまではシュミレーションできた。

実際は、もっと言われるかもだけど……。

まあ、仕方ないよね。私のせいだし。反省のためにも、怒られよう。

そうして、先の見える一本道をずっと歩いていった。



田んぼ道が終わり、少しずつ建物が増えてきた。

そういえばさっき、二つ目の駅を通り過ぎた。きっと半分まで来たんだろう。次の次の駅が、私の家の最寄り。


だけど……結構歩いたせいでもう足が限界。1時間以上は歩いている気がした。

これじゃあとっくに、12時なんて過ぎている。


何とか頑張って出来るだけ早歩きしていると、道路を挟んで向こう側に公園らしきものが見えてきた。

あそこだけ異様に街灯が多くて明るい。ちょっと、さすがに休憩していこうかな。

だけど気持ちがはやるばかりで足がうまく動かない。もつれながらも、私は何とか公園の入口へたどり着いた。


するとすぐ近くに、長く大きなボックスが見えた。

透明で、中には緑のものがある。

もしかしなくても、あれって公衆電話?


さっきまで長く長く終わりのない真っ暗闇だったのに、急に光がさしたみたいだった。

これで、連絡ができる!迎えに……来てもらえるかはどうかは分からないけど。

想像していたよりも大きな公園内に驚く暇もなく、私は公衆電話へ向かって足を動かす。


ボックスの前まで来て、私はその扉の取っ手に手をかけた。

そのとき。


急に、ぱあっと辺り一帯が明るくなった。

何事かと、私は衝動的に後ろを振り返る。

明かりの正体は、月。


そして、その光が当たらない場所に、人が立っていた。

うそ、こんな時間に人がいるなんて。


造られたみたいなきれいなシルエットに、私は釘付けになる。

すると光が動き、今度は“その人”へと当たった。


きらりと、何かが輝く。

それは、月の光が反射した、涙だった。

私に気が付いたのか、ぱっとこちらへ振り向く。



「あ、すみません……」



私は謝りながら軽く頭を下げる。



「あの、なんでこんなところに。どうしたんですか……?」



こんなところに。というのは自分も同じだけど、目が合ってしまった以上話しかけないわけにはいないと思った。あとは、ちょっと気になったからっていうのとあるけど。

でももし、幽霊とかだったらどうしよう。大丈夫だよね。私、霊感ないし。

電話することも忘れ思い切って近づいてみると、その姿がはっきり見えた。

顔が、直毛の前髪で隠れている。服装は長袖のTシャツにダウン一枚、下は黒のジーンズという1月の夜にはちょっと寒そうな恰好だった。



「えっと、こんばんは」

「……こんばんは」



あっ、あいさつ、返してくれた。

深夜でおかしくなっていたのか、普段内気な私からは信じられないことをしている。



「なにしてたんですか?」

「……月を、見ていました」



空を見上げたので、私も真似してみる。

月の光はさっきよりも弱くなっていて、街灯だけがぼんやりと明かりを放っていた。

不意に横を見ると、なにかの記憶がフラッシュバックするような感覚に陥る。

あれ、この横顔、どこかで見たことあるような。気のせいだろうか。



「……電話、しないんですか」

「えっ」



私と目を合わせて行った一言に、思い出す。

そういえばと公衆電話に戻り、今度こそボックスに入ってお金を入れ、電話をかけた。

お父さんが出てきてくれ、事情と居場所を伝えるとこの公園まで迎えに来てくれるそう。

たった今、捜索届を出すところだったと言っていた。

心配かけてしまった。謝らないと。申し訳ない。


電話を終えてボックスを出ると、すぐ近くに“その人”が立っていた。

やっぱり、どこかで見たことがある気がする。なつかしい、ような。

今、初めて会ったばかりのはずなのに。



「ありがとうございます」

「……いえ」

「月、好きなんですか?」



なぜだか質問したくなって、尋ねてみる。



「……別に、好きというか。思い出なんです」

「なるほど」



初対面の人と、普通に会話しちゃってる。

それがどんなに変で、おかしなことか、私は忘れていた。

というか、初対面じゃない気がする。



「あの、私、佐倉穂月っていうんです。あなたのお名前は?」



流れで自己紹介をすると、“その人”はちょっと眉毛をぴくっと動かして下を向いた。



「……僕の名前は、ハル。ハルって、言います」

「……ハル、さん」



聞いたことのない名前。もちろん、今まで出会った人の中にもいない。

ということは、やっぱり初対面なんだろうか。

でもこれじゃあ私、知らない人に名前を教えたことになる。それって、危ないんじゃ。

だけど……ハルさん、も名乗ったわけだから、いいや。おあいこってことにしておこう。



「……あなたは、どうしてこんなところにいるんですか」



今度はハルさんが質問してきた。

私はこれまでの経緯を簡単に説明する。



「……そうなんですか」

「人生で二番目くらいのやらかしです」

「一番目は」

「え?」

「……すいません」



ハルさんは、視線を外す。

今、とっさに“え?”なんて言ってしまったけど。……たぶん、私が“二番目”のやらかしって言ったのが気になったんだと思う。

私の、二番目じゃない人生で一番のやらかし……。いや、やらかしなんてものじゃない。失敗だ。

あんまり、思い出したくないくらい。



「それよりハルさん、寒くないですか?その恰好」

「佐倉さんは、暖かそうですね」

「暖かいですよ」



なにせ、私はロングコートに手袋、厚手のマフラーを着用しているのだ。完全防備。

昔から、寒さには弱い。



「あ、そうだ」



私はあることを思いついた。

ぐるぐると首に巻いたマフラーを、布が崩れないよう丁寧に外していく。

しわを伸ばして持ちやすいよう半分に折る。



「はい、どうぞ」



私は無地の灰色マフラーをハルさんに手渡した。



「……え」



ハルさんは、戸惑った表情で私を見る。



「寒いので。初めてあった人だからって、風邪を引くのを見過ごすわけにはいかないです。……でもあの、いやなら全然大丈夫です」



ハルさんは少し迷ったかと思えば、マフラーにそっと触れた。



「……あの、ありがとうございます」

「はい!」



ハルさんがマフラーを受け取ってくれて、私は自然に笑みがこぼれる。

うれしい。役に立って。

慣れない手つきでゆっくりとマフラーを巻く。



「……暖かいです」

「よかった」



そのとき、車が近くに停車する音が聞こえた。

振り向くと、お父さんの車が止まっていた。



「じゃあ、また。ありがとうございました」

「あ、あの」



頭を下げてから行こうすると、ハルさんに止められる。



「マフラー……」

「持っていてください。寒いですから」



マフラーがマフラーとして役に立つなら、それはとてもうれしいこと。

私は、使ってくれたほうが嬉しい。それに、風邪を引くのを防げるかもしれないし。

ハルさんに軽く手を振り、私は車のほうへ走っていった。



シュミレーション……まあつまり予想とはちょっと違ったけど、お母さんにはすっごく怒られた。

それから、心配していたとも。

家に帰ってきたのは午前2時過ぎだった。




「それって、なんか少女漫画みたいだねー」

「しょ、少女漫画?」



私は口に卵焼きをほおばりながら、聞き返す。

次の日のお昼休み。友達の環名ちゃんとお昼ご飯を食べながら、私は昨日……まあ今日の夜の話をした。

そしたら、こんなことを言い出したのだ。



「公園で二人夜空を見上げるなんてシーン、5万回は見たわ」

「え、そ、そんなに!?」

「たとえよ、たとえ」



お箸を上下にパカパカさせながら環名ちゃんは不敵に笑う。

……こういうの、現実ではありえないのかな……。



「……まぼろし、だったのかも……」

「そこまで話しておいて今更!?」

「だってそもそも、あんな遅い時間に公園で月見てるなんてありえないもんね。よく考えなくても分かるよ」

「まあ、それは……」



環名ちゃんから、否定できない、というような返事が返ってくる。

そうだよね。やっぱりあのとき、寝過ごしたせいで気が動転していたかも。それに時間は深夜真っ只中。だから、見えないはずのものを見て、勘違いしたのかも。

それなら、納得がいく。



「だけどさー、マフラーはないんでしょ」

「あ、うん……」



そう。あの出来事は幻のはずなのに、マフラーはないのだ。

……ハルさんにあげた“はず”のマフラーが。



「どっかで落としちゃったのかな」

「なにそれ〜っ。もうっ」



私が幻で片づけようとすることに、環名ちゃんは納得がいかないみたいだ。

でも、そんなこと言われたってあの出来事が真実だという決定的証拠はないわけで。

だからって、確かめる方法もない。



「環名ちゃんごめんね。この話、止めにしよっか。マフラーは新しく買うよ」



そう言って笑うと、環名ちゃんは複雑そうな表情で頷いた。




電車で寝過ごしたあの日から、2週間ほどが経とうとしていた頃。

一月ももうすぐ終わる今日は、雪が降っていた。

でも積もるほどじゃなく電車も止まってないみたいで安心する。私はいつも通り下校することにした。


あれからマフラーはなんだかんだ忙しくて買えていない。首元が寒風に晒されているというのは、少し辛い。

だけど私は、もしあの出来事が本当の話なら、あの人———ハルさんにマフラーをあげたことを後悔していなかった。

むしろ、うれしいくらい。

どこかで、暖かくなってくれてるってことだから。一瞬でも、私のマフラーのおかげで幸せになってくれてることを考えると、私も幸せな気分になるのだ。


ぽつりと、雪が頬にあたる。冷たい。

そういえば、雪なんて久しぶりだなあ。最後に降ったのは、小学六年生の冬だった気がする。たしか———。

……思い出せない。たしかに雪は降ったはずなのに、それは私の中で結果として刻まれていて、情景は浮かんでこない。


学校から駅までは徒歩15分。近いわけじゃないから、朝は遅刻が許されない。だからこそ、あの日寝過ごしたのが帰りでよかった。

足元は、ほんのり白いのが見える。でもすぐに溶けてしまう。

見ていると、ちょっともどかしい気持ちになる。

―――私が溶けないように、してあげられたらいいのに。

……ううん。雪にとって、溶けないことが幸せとは限らない。「雪さんにとって、溶けないことは幸せですか」って聞かないと分からない。


全部、そう。自分の良いと思ってやった行動が、必ずしも相手に幸せをもたらすとは限らない。

だから、私は……。



そのとき、目の端で何かが映った気がした。

いや、見えているんだから当たり前のことなんだけど。

だけど、もっと特別なものな気がする。


立ち止まって辺りを見渡してみるけど、特に何も見当たらなかった。

……勘違い、だったのかな。



「あの」

「えっ」



突然優しい力で肩を叩かれ、声をかけられた。

振り向くと……。



「えっ、ハルさんっ!?」



そこには、私が幻だと思っていたハルさんが立っていた。

うそ、だってハルさんは、存在しないはず。なら、人違い?



「すみません、佐倉さん」



と、私の名前をあの日の声で呼んだ。

じゃあやっぱり、ハルさんは本物……?なら、あの真夜中の出来事も本当のことだったんだ……。

ハルさんは、私があげた灰色のマフラーを手に持っていた。そして、私に差し出す。



「いつか会ったとき、渡そうと思っていて」

「でも、そしたら、ハルさんが寒くなりませんか?」

「大丈夫」

「うーん、でも雪降ってるし……。あ、なら、ハルさんが自分でマフラーを買うまで持っていてください」



私はなぜか必死になってマフラーを受け取らないでいる。ハルさんに、持っていてほしいと思っている。



「……分かりました」

「じゃあ、買ったら連絡ください。あ、よかったら、連絡先……」



流れでスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。

すると、ハルさんは、気まずそうな表情をした。



「……ごめんなさい。いろいろあって、連絡先は交換できないんです」

「あ、そうでしたか……。こちらこそ、すみません。ぐいぐいと」



ハルさんの言葉は、嘘には思えなかった。

……でも、ハルさんがいやなら、私は諦めるしかない。ハルさんの気持ちが大切。


雪雲でおおわれた空はとても暗く、ハルさんに濃い影がかかった。



「じゃあ、また会ったとき。会えなかったら、貰ってください」

「……すいません」



申し訳なさそうに謝られると、こっちも申し訳なくなってしまう。



「いいんです。話しかけてくれて、ありがとうございました」

「……いえ」



私は気持ちを晴らすように、笑顔で微笑む。

二度目のさよならだって、笑顔でいたいから。


そうして別れ、私は再び駅に向かう道を歩いて行った。


――—そういえばハルさん、この前と同じ服装だった。

私服……ってことは、大学生とかかな。


私から見ればとても若い。高校生って言われてもわからないくらい。だけど制服じゃなかった。私服の学校……なんてこの辺にはないし。


考えていれば駅について、改札を通りホームに行く。

待っていれば、すぐに屋根に溶けた雪水を乗せた電車がやってきた。






「穂月、合コン行かない!?」

「えっ、合コン?」



放課後、帰る支度をしていたら、席に目をキラキラさせた環名ちゃんがやってきた。

合コンって……。あの合コン?



「花の高一も後2ヵ月で終わりなんだよ!?あっという間!青春しなきゃ!!」



私の背中をバンバン叩きながら、興奮気味に叫ぶ。

青春……か。それに合コンってことは、好きな人を作るってこと……?

恋人、とか。



「う、う~ん、私はいいかな~」

「お、お願いっ!数合わせってだけでも!」



環名ちゃんがぱんっと両手を合わせて懇願してくる。

これだけ頼まれちゃったら、なー……。

正直、ちょっと抵抗はある。けど。



「わ、わかった。いく。私は数合わせってことでいいんだよね?」

「うん!ありがと穂月!!」

「それで、それはいつなの?」

「今日!」




ということで私たちは今、学校の最寄り駅から何個か行った駅の近くのファミレスにいる。

女の子は、私たち二人以外にもう二人。環名ちゃんの友達らしい。



「うわ~っ、みんなめっちゃかわいーね!」

「今日はよろしくね」



目の前の席には、ちょっと派手目な男の子が三人。あんまり話したことのないタイプだ。

でもでも、私は今日ここにいるだけでいいわけだし。おいしいもの食べてるだけでいいんだよね。うん。

ちらりと隣の環名ちゃんを見ると、楽しそうに男の子たちと会話を弾ませていた。
環名ちゃん本当は、女子高生らしいっていうか、こういうこと、したかったのかもしれない。

私に恋愛をしたい気持ちがないことを、環名ちゃんは分かっていたのかも。

……本当はないんじゃなくて、ならない。恋ができないんだよ、私は。



「あ、待ってて。もうすぐでねー、もう一人来るから」



私の斜め左に座る男の子がニコッと笑う。
そういえば私の前の席だけ空いている。四人って聞いていたからおかしいなとは思っていたけど。



「あ、来た来た。こっちこっち、あさひー」



あさひ?あさひくんっていう名前なのかな。

男の子が大きく私の後ろへ向かって手を振る。

どんな人なんだろうって、ちょっと気になっていたら。



「もー、遅いよ~あさひ」

「ごめんごめん~」



この声。顔。



「朝日奈くん……」



私はびっくりして、思わず腰を浮かせる。

あ、と口を半開きにして彼——朝日奈くんがこっちを見た。



「え……佐倉?」

「え、あさひ、この子と知り合い?」



さっきの男の子が問う。



「知り合いっつーか、中学んときの同級生。……ちょっと、佐倉」

「わっ」



私は再会したばかりの朝日奈くんに手を引っ張られる。

そして何も言えないまま、席を離れた。


連れ出されたのは、ファミレスの近くにある裏路地。

朝日奈くんの力は強くて、ちょっと痛い。だけどそんなこと気にしてる暇はなかった。
理解が追い付かない。数分前はこんなことになるなんて、思ってなかったから。

朝日奈くんは立ち止まって手を離すと、私の姿を見た。



「やっぱり、佐倉だよな」

「佐倉……です。朝日奈くん……だよね」

「ああ」



———朝日奈大成くん。さっきの言葉通り、朝日奈くんは、私の中学校の同級生。そして、小学校のときの同級生でもある。

だけど高校は違うから、会うのは卒業式以来だ。連絡先は知っているけど思春期の男女だし、こうやって二人きりになるのは小学生ぶりだった。



「ど、どうしたの?というか私のこと、覚えててくれたんだね」

「小5から5年も同じクラスだったんだぞ。そりゃ覚えてるだろ」

「う、うん……ごめんなさい」

「それに、佐倉は」



朝日奈くんはそこで止めたけど、その言葉の続きを私は知っている。


私の、人生のやらかし。

三番目は、高校初めてのテストで赤点二つ取ったこと。

二番目は、このまえ電車でほぼ終点まで寝たこと。

そして、私の人生最大のやらかし——失敗を、朝日奈くんは知っている。


環名ちゃんも知らない。お父さんも、お母さんも知らない出来事。



「……宮崎から、連絡が来たんだ」

「……え、宮崎くんから?」



自分の声が、震えるのが分かった。

宮崎くんは、私と朝日奈くんの同級生だった人。小学校は一緒に卒業したけど、中学一年生の夏になる前に学校を辞めてしまった。義務教育だから、正確には転校した、なんだろうけど。

宮崎くんは、朝日奈くんの友達。そして、私の好きな人だった。

だけど転校して以来誰も宮崎くんとは連絡が取れなくて。“転校”だって、先生からの事後報告で、本人の口から伝えられたものではなかった。


でも、朝日奈くんに連絡が来たってことは。……宮崎くんは、ちゃんといる。



「佐倉には、いつか伝えようと思ってた。……でもまさか、こんなに早く会えるなんて。……見て」



朝日奈くんは、そびえる古いビルや住宅街をよけながら一つの建物を指差した。

それは、この辺で有名な不良高校の校舎だった。



「宮崎、あそこに通ってるんだって」

「え、あそこに?」

「ああ」



朝日奈くんは返事をすると、右手を下ろす。

そして複雑そうな表情で真っ直ぐ前を見た。



「……転校したって話を聞かされて、ちょうど一年たった去年の五月の始めの夜だった。届いたメッセージは宮崎のプライバシーがあるから見せられないけど、書いてあるのは謝罪とあの高校に入学したことと、あとは、赤の他人に戻ろうって」

「え……」



たんたんとそう語る朝日奈くんは表情こそ変わらないけど、辛そうだった。

赤の他人に戻ろうってことは、もう、宮崎くんは朝日奈くんと友達のつもりはないってこと?
あんなに仲が良かったのに。クラスメイトだった私にも、それはよく分かるくらい。



「……朝日奈くんは宮崎くんに、会いに行かないの?」

「……行けるわけないだろ。“赤の他人”ってことは、俺たちは知り合いですらない。会いに行ったらおかしいだろ」

「それは……」



そうだけど、と言いかけて口を噤む。

私が言わなくたって、朝日奈くんは分かっている。



「ごめん、急に連れ出して。話聞いてくれて、ありがとうな。……合コン、参加してるってことはさ、もう、佐倉は一歩踏み出してるってことなんだな」



朝日奈くんは、私が宮崎くんを好きだったことをたぶん知っている。言ったつもりはなかったんだけど、バレていた。

……私、“踏み出してる”のかな。合コンは数合わせだし、新しい恋はできない。どんなに素敵な人がいても、私の片隅には宮崎くんの姿がある。

忘れなきゃいけない初恋が忘れられない私に、恋なんてできない。



「……俺は、なんかうまいものごちそうしてくれるって聞いたから来たんだ。そしたら、佐倉がいたから。思いがけないことってあるんだな」

「そうだね」



私たちはファミレスには戻らず、そのまま帰ることになった。あんな風に抜け出してしまっては、戻れない。

環名ちゃんには、メッセージに加えて次の日学校で直接謝った。



「それぞれ、事情があるんだからいいよ。私こそ、無理矢理誘っちゃったりしてごめんね」



と、環名ちゃんは言った。その言葉の優しさが胸にしみる。

ねえ環名ちゃん。私もいつか、環名ちゃんみたいに恋がしたいって思えるようになるかな。
引きずる、忘れてしまいたい恋を忘れて。




2月に入った。結局あの日からハルさんに会うことはなくて、もちろんマフラーも手元にない。

私は新しいマフラーをまだ買っていない。買ってしまったら、なんとなくハルさんとのもろくて細い糸で繋がった関係が途切れてしまうように思えたから。
でも、なんで繋いでいたいと思うのかは分からない。


14日の今日は、とても晴れていて暖かかった。そんな日の女の子たちの話題はバレンタイン一色。

本命チョコ、友チョコ、義理チョコ。いろんなのがあるけど、私は今年もお父さんと、あとは環名ちゃんに手作りチョコをあげるくらい。

環名ちゃんは高校で初めて出会った友達だから、バレンタインをあげるのは初めてなんだ。


朝渡すと、環名ちゃんはすっごく喜んでくれた。そして私からもバレンタインを貰ってしまった。
こんなイベントをうれしいって思えたのは、小学5年生以来だ。

お父さんにはもうあげたし、私のバレンタインはもう終わり。……の、はずなんだけど。

私は朝礼中、机の横にかけたカバンをちらりと見る。
実は、もう一つ渡したいチョコレートがある。

……これは、ハルさんに。

会えないなら、私から会いに行けばいいんだ。マフラーはもう買いましたか?って。


今日の放課後、私はあの公園に行ってみようと思った。そしたら会えるかもしれない。

……だけど、この前会ったのは学校の近くだったし。家がこのあたりなのかな。

分からないけど、行かなきゃ会えるか会えないかも分からない。私は、スタートラインにも立てない。
高校生になって、環名ちゃん以外に、こんなにも仲良くなりたいって思えたのはハルさんが初めてだった。

人と関わるのがまだ怖い私が。


私は放課後、校舎を出る。青く澄み渡る空を見上げれば、遠く高く雲が浮かんでいた。

いつもより軽やかな足取りで、駅へ向かって歩いていく。


駅について改札を通り、ちょうど来た電車に乗り込む。

今日は、家の最寄り駅より二つ前で降りるつもりだ。
ちょっとしたことなのに、いつもと違うとわくわくする。

……会えるかどうかは、分からないけど。でも、会うためにやれることはやってみたい。
以前の私では考えられない行動だ。


私は予定通りの駅で電車を降りた。

駅舎を出て、確か右に真っ直ぐ。5分くらい歩くと、公園が見えてきた。私はあのときと同じように入口から中へと入る。

入り口近くには公衆電話。反対側にはベンチ。

もう私は、あの夜この公園に来たこと、ハルさんと出会ったことを幻だとは思わなかった。
本当のことだと思う。



「あったかいなあ……」



今日は気温が高く、こんな日はマフラーもいらない。コートだって、今日は着てきていない。
私はベンチに腰掛けた。


ふと、2月って春なのかな。冬なのかな。境目ってどこだろう。と考える。
個人的に、3月は春な気がする。だって3月と言ったら卒業式。卒業式と言ったら春。桜に囲まれて、薄いピンク色の花びらを掴まえたりする。

ひらひらと落ちる前に花びらを手で掴まえられたら、願い事が叶うんだっけ。やったことないけど、もし掴まえられて叶うなら、何を願うだろう。

ぼんやりしているのが治りますようにとか。テストの点数が上がりますようにとか。お願い事なんてたくさん思いつく。


だけどそれは、努力したら叶えられることばかり。なら、もう2度と、絶対に叶いっこないこと。



「……みやざきくんに、あいたい……」



忘れてしまいたくて、忘れなきゃならなくて。だから、写真とか小学校の卒業アルバムとかはもうずっと見ていない。そのせいで顔もぼんやりとしか覚えていない。

忘れようと奥に奥に閉じ込めたから。私は、宮崎くんを好きになっちゃいけなかったから。


バックから、小さな白色の箱を取り出す。落ちた涙が、紙製だからかすぐににじんでふやける。

リボンを解いて、箱を開ける。6個あるしきりに一つずつ入った一口チョコ。

月型のチョコレートを親指と人差し指で挟んで取り、口に運んだ。



「甘い……」



味見はしていたけど、やっぱり甘い。上出来かも、と自画自賛する。

感謝の気持ちを込めたチョコレートを、私は泣きながら全部食べてしまった。ハルさんに、あげるはずだったのに。これじゃあげられない。

公園に誰もいなくてよかった。冬空の中泣き疲れた私はそのままベンチに横になり、バックを抱えて眠りについた。




———宮崎くんと私が出会ったのは、小学5年生のときだった。

5年生になって三回目の席替えで、隣の席になって。



「よろしくね、宮崎くん」

「よろしくおねがい、します」



あいさつすると、ふいっと宮崎くんは視線をそらした。

私のこと……苦手、なのかな。それとも嫌い?

これから約3か月毎日隣なんだもん。関わらないなんて絶対できない。だから……ちょっとでも、友達じゃなくてもいいから、クラスメイトとして仲良くなりたいなって思った。


宮崎くんは、勉強が得意。だけど運動は苦手。色白でうらやましいくらいに細くて、まつ毛は女の子の私より長い。
委員会は図書委員で、手芸クラブ所属。

私はというと、テストの点数も運動も普通。身長も体重も平均的。放送委員会に入っていて、所属は料理クラブ。

共通点なんてなくて、どうやって仲良くなったらいいか分からない。

料理の本は読むけど小説とかは読まないし、クラブも委員会も違う。やっぱり、仲良くなるのは難しいのかなあなんて思っていた。



そんなとき、家庭科で編み物の授業があった。

それぞれ事前に編み物のキットを買って作る。
私は編み物なんてやったことないから、一番簡単そうなコースターにした。

でも、それがなかなか難しくて。丸く編むのが難しい。

通す穴を間違えたり、かぎ針から糸がとれちゃったり。



「むずかしーよー」

「なんかよれたー」



教室では、みんなの苦戦する声が飛び交っていた。私もおんなじ気持ち。

なんとか立て直しながらも、ちょっとぼろっとした水色のコースターができた。本当はもう一つ分の材料があるんだけど、一個でいいかな。先生に提出した後ちゃんと返ってくるし。

裁縫箱に道具をしまいながらそう考えていると、ちらりと黄色が視線の端に映った。


横を見ると、宮崎くんが真剣になにかを編んでいる。

それは、薄い黄色のマフラーだった。私と比べ物にならないくらい網目がきれいで、均等。



「すごい……」



思わずそう口にすると、宮崎くんがこっちを向いた。

あ、聞こえちゃったかも。



「ご、ごめんね。あんまりにもすごいから……。きれいだね」



バレてしまったからには仕方ないと、そのまま素直に感想を伝えた。

宮崎くんは私の言葉に少しびっくりしたように目を丸くさせたけど、すぐに少し照れたように微笑んでありがとうと言った。

こんなふうに笑うんだ、と私の中の何かが動いた気がした。


宮崎くんと、仲良くなりたい。宮崎くんを、知ってみたい。
異性を意識するという感覚がまだなかった私にとって、こんなふうに思うのは初めてのことだった。



「……よかったら、もらって」



宮崎くんが突然そんなことを言い出したので、私は戸惑う。

もらってっていうのは、マフラーのこと、だよね?いいのかな……。だって、宮崎くんが頑張って真剣に編んだマフラーなのに。



「先生に提出して、返ってきたらもらって。褒めてもらった人に使ってもらったら、マフラーもきっと幸せだから」



宮崎くんの表情は穏やかだった。

冗談には見えない。本当の話だと思った。

“もらって”というのはうれしい。……だけど、ただ私がもらうのは、なんだか不公平っていうか、申し訳ない。
私も何か、あげられるものがあるといいんだけど……。

瞬時に辺りを探すように見渡すと、一つのものが目に入った。



「あっ、コースター!代わりに、私は宮崎くんにコースターをプレゼントするよ。宮崎くんは、何色が好き?」

「え、えっと、白……」

「じゃあ白で作るよ!」



その約束に、宮崎くんは戸惑いながらも頷いてくれた。



私は提出する用とは別に、白色でコースターを作った。

せっかくなら、ちゃんと気持ちを込めて作りたいから。


私は自分の部屋の机の上に毛糸と編み方の説明書を広げ、真っ白な糸を編みながら宮崎くんのことを考える。

マフラーとは全然、釣り合わないけど……。喜んでくれるといいなって。


その一か月後の12月中旬、提出した作品が返ってきた。

冬休みが明けたら席替えだし、その前に交換できそう。

私はその日の放課後、宮崎くんと互いに作品を渡しあった。


宮崎くんのマフラーはやっぱりきれい。
私のコースターは、完璧にはほど遠いけどなかなか私の中ではきれいに編めた……と思う。

宮崎くんは、頬を少し緩ませながらコースターを受け取ってくれた。

うれしい、と私は心の底から思った。自分の心を込めて作ったものが、喜んでもらえたことが。

そして目を少しだけ伏せながら、笑う。


……そこで私は、宮崎くんのことが好きなんだって気が付いた。

手が器用で、なんでもこなしてしまう。だけどそれを自慢げに言うわけでもなく謙虚なところ。

自分が大切にしたものを、善意で簡単に人に譲ってしまうところ。

控えめだけど柔らかい笑顔。


そんなところを、私は好きになってしまったんだ。
始めは戸惑ったけど、気が付いたら目で追っていて、話すと、ああ好きだなって思う。

それは席替えした後でも、5年生が終わっても、続いた。



だけど、6年生になった5月の始め、宮崎くんはパッタリと学校に来なくなってしまった。

また同じクラスだったから、覚えている。
違和感を覚えたのは、宮崎くんが三週間来なくなってから。

最初は風邪かなって思ってたけど、これだけ休んでるのはおかしい……よね。

クラスのみんなも不思議に思ってただろうけど、触れてはいけないと思ったのか誰も口にはしなかった。


好きな人に会えないのって寂しいなあ、宮崎くん、どうしてるんだろう……。なんてそのときは、深くなんて考えなくて。

もちろん連絡先なんて知らないし、知っていたとしても連絡なんてできない。私は、宮崎くんにとってただのクラスメイト。
これは片思い。私の一方的な想いで宮崎くんに迷惑をかけたくない。

担任からも休んでいる理由は説明されないまま、小学校最後の夏休みが明けてしまった。


会えない日も、もちろんうれしいこと、楽しいことがたくさんあった。だけど、やっぱりちょっとどこか寂しくて。私の中で、宮崎くんはこんなにも大きな存在になってたんだって思う。

6月にあった運動会と、夏休み明けて一か月後にあった『秋祭り』と呼ばれるうちの学校の文化祭は特に寂しかった。
30人いないと6年3組じゃないのに。そう思っていた修学旅行の近づく10月中旬の放課後、突然朝日奈くんに呼び出された。



「修学旅行は、くるんだってよ。宮崎」

「えっ、なんでそれを私に?」



朝日奈くんはクラスメイトで、地元のサッカーチームに所属するスポーツ少年。そして、宮崎くんの友達。

そんな朝日奈くんなら宮崎くんのことを知っていてもおかしくないけど、なぜ私に言うのかが分からなかった。



「だって佐倉は、宮崎の友達だろ」

「とも、だち……」



私は小さく、朝日奈くんと二人きりの廊下でつぶやく。

だって、私は宮崎くんにとってただのクラスメイト。5年生のとき3ヵ月間席が隣だっただけの、そんな関係。

友達……って、宮崎くんは思ってるのかな。私はもちろん友達だったらうれしいけど。



「まあ、班編成は先生たちがやるからどうなるかは知らない。でも、佐倉には言っておきたいと思って」

「……うん、ありがとう」



朝日奈くんが笑った。


結局宮崎くんと同じ班にはなれなかったけど。

それでも、一緒に学校行事に参加出来ていることがうれしかった。

ちなみに朝日奈くんは同じ班みたい。


だけどやっぱり修学旅行が終わってからも、宮崎くんが学校に来ることはなかった。

義務教育だから出席日数は関係ないし、来なくても卒業はできる。でも、やっぱり会いたい。会って、もう一度宮崎くんの優しい笑顔が見たい。


そんな願いが叶うこともなく、あっという間に冬になってしまった。

クリスマスやお正月が終わり冬休みが明け、卒業の雰囲気になりつつある教室。

うちのクラスでは卒業までのカウントダウンが行われていて、もう小学校生活も終わってしまうのかと考える。
だけど終わったってほとんどの子が中学も一緒だから、なんだかんだお別れ感はない。

そんなとき、誰かが卒業お祝い会をしようと言い出した。学校では他学年がお祝いしてくれるけど、自分たちでも何かやろうって。

少ないけど、これからみんなとは別に学校に行ってしまう人もいる。だから、最後の思い出作りにって。


賛成の声が次々に上がり先生からもOKが出たので、学級委員を中心に準備することになった。

そしてその卒業お祝い会前日。あの日は確か、雪が降っていた。

帰りの会が始まる前、先生がいない中誰かが言った。



「……なあ、“あいつ”ってさ、明日も来ないつもりなのかよ」



たぶん、一軍男子の誰か。

その言葉に、騒がしかった教室はとたんに静かになる。

“あいつ”っていうのが誰のことを指すのか、みんな察しがついたみたいだった。もちろん、私も。



「まー来ないんじゃねえの。だって、来たの修学旅行だけじゃん。運動会も秋祭りも来なかったし」

「でも、最後だしなー。先生学級新聞にも卒業会のこと書いてたし」

「さすがに来るか」



誰かが何かを言い出すんじゃないかって不安になってしまったけど、大丈夫だったみたいだ。

と思ったのに。



「別にいなくていーじゃん。あいつがいてもいなくても、関係ないだろ。今までいなくたって俺らやってきたわけだし」



その発言に私の胸は何かによって貫かれた。

例えるなら、大きな針みたいなもの。



「ああ、まーたしかに。結局先生はあいつが不登校の理由教えてくんなかったし、俺らなんてクラスメイトだと思われてないだろ」

「どうでもいいってことかー」

「まあ、どうせしゃべんないしいてもいなくても関係ないだろ~」



クラスの中心の男子グループの会話は盛り上がっていく。

……なに、これ。

身体の奥から、ふつふつと何かが湧き上がる感覚がした。

なんで、そんなことが言えるんだろう。……宮崎くんの気持ちを、誰も知らないのに。
そんな憶測で勝手にものを言うなんて。



「てかあいつ、友達いんの?」

「いないでしょー」



誰かがそう口にした瞬間、がたっと椅子の鳴る音がした。

正体は、前のほうの席の朝日奈くん。

だけど誰も気づくことはなく、朝日奈くんは姿勢を戻す。



「去年の行事も楽しくなさそーだったしね」

「たしかに~」



乗っかるように中心の女子グループも加勢する。

……宮崎くんのために、何とかしなくちゃならない。と私は思った。

自分の知らないところでこんなふうに言われるなんて、辛いから。


ここで何も言わなかったら、きっと先生が来るまで止まらない。
どうしよう、なんて考えるより先に、身体が動いていた。

私は、思いっきり席を立った。



「……そんなこと、言わないで……っ」



一瞬にして静かになる教室。

自分でもわかるくらい声が震えていて、心臓がどきどきしてたまらない。



「……あ?なんだよ。佐倉」



すぐに、誰かの声が飛んできた。

怖い。こわい。そう思うのに、思ったことは溢れてくる。



「……宮崎くんがいないところで、悪口とか、いわ、ないでほしいなって……。あ、でも、いてもだめだけど……」

「なに。別に冗談で言っただけじゃん。そんなガチにならないでよ」



今度は女の子がそう言う。



「でも、言ってることには変わらないでしょう?……宮崎くんには友達だっているし、いらなくなんかない。大切なクラスの一員だもん。それに宮崎くんの気持ちだって分からないのに……っ」



俯くと、涙がこぼれてしまいそうだった。だけど、ここで泣いたらだめ。

私は目の端でとどめて、まっすぐ黒板の方を向く。みんなの視線が私に注目してて、誰かと目が合ってしまいそうだった。



「……それで?なんだよ。お前、もしかして宮崎のこと好きなのかよ」



男の子が呆れたようにそう言い放った。

……否定は、できない。肯定もできない。

肯定、できないのは……。



「……もう良いだろ。お前らも静かにしろ。……佐倉も、座れ」



朝日奈くんが立ち上がり、みんなに諭すように言った。

こちらをちらりと見て。

そして、座ろうとしたとき。



「宮崎……」



誰かが小さく呟いた。

全員が廊下に注目する。私も視線を向けた。

そのあとすぐに足音が聞こえ、それは遠ざかって行く。


……まさか、聞かれてた……?

がらりとドアが開き、先生が入ってきた。

不意に我に返る。……もしかして。……私は、宮崎くんを……。


やけに静かだった帰りの会のことは、ぼんやりとしか覚えていない。


……わたしは、宮崎くんも、傷つけてしまったかもしれない。
その出来事が頭の中でぐるぐると回る。

帰りの会が終わりみんなが教室を出ていく中、朝日奈くんに腕を掴まれた。


そして教室に誰もいなくなったとき、朝日奈くんが私から手を離した。



「……お前」

「……私、宮崎くんを傷付けてしまったかもしれない」

「……は?」



ぽろりと、涙がこぼれる。



「……私、宮崎くんが悪く言われたの許せなくて。だからあんなこと言っちゃった。私、宮崎くんのこと何にも知らないのに。友達ですらないのに」



自分のことを知ったかのようにただのクラスメイトに語られて。そんなの、いやに決まってる。

俯いて、涙を袖で拭きながら鼻をすする。



「……私が言ったことでクラスの雰囲気を壊しちゃったし、事を大きくしちゃった。それって、宮崎くんの居場所を奪う行為で……」



宮崎くんが学校に来ていない理由はわからない。だけど、たとえどんな理由があったとしても、私が宮崎くんの居場所を奪ってしまったかもしれないことには変わらないのだ。

腹が立った。そんな単純な理由で言ってしまった。宮崎くんのことをかばったつもりでも、その行動は結局自分のためだったんだよ。

そんなことに、冷静になった今気が付いたって遅い。宮崎くんのことを、気持ちを考えられなかったのは、私のほうだ。


そんな私に、宮崎くんを好きでいる資格は…………ない。



「……佐倉」



どんな感情か読み取れない声で呟いた朝日奈くんの顔を、私は見れなかった。


———これが、私の人生最大のやらかし。失敗。

……宮崎くんを、傷付けてしまったこと。




小学校の卒業式には宮崎くんも来たけど、私はその姿すらあまり見れなかった。

そして、中学の入学式を最後に宮崎くんは姿を消してしまった。


5月の始めの朝、先生から学年へ向けて宮崎くんが転校したことを告げられた。本人からの報告はなく、知ったときにはもう、この学校にはいなかった。



それから、私は人と話すことに抵抗を持つようになってしまった。

高校には、小中学校の同級生はほとんどいない。もちろん、環名ちゃんも私の過去を知らない。

環名ちゃんは大切な友達だから、話したい。だけど、それで幻滅されるのが怖かった。
お父さんもお母さんも知らないのは、心配をかけたくなかったから。


だから私は、この出来事を心の深く深くにしまうことにした。宮崎くんへの恋心とともに。
忘れようとした。

宮崎くんは、私なんかが好きになっちゃいけない人だった。


渡されてから一回も見ていない小学校の卒業アルバムとあの月色のマフラーを、棚の奥にしまいこんで。

もう二度と思い出さないように。思い出したらまた、好きになっちゃいそうだったから。

私が忘れちゃいけないのは、相手を傷つけないこと。それだけ。




「ん……」



ゆっくりとまぶたが開く。視界が暗い。

外は暗かった。ずいぶんと寝てしまったのかもしれない。暖かかったはずなのに、予報外れの雪が降っていた。

身体を起き上がらせたとき頬に違和感を感じて触れてみれば、それは涙が乾いた跡だった。


夢を見た。過去の夢。私はずっと、過去に縛られて、過ごしてきた。

怖かった。ずっとずっと。私はこうやっておびえながら生きていくんだって考えて、胸がつまるような感覚がすることもあった。


手元を見ると、少しつぶれた小さな紙箱が握られていた。

ハルさんにあげるはずだったチョコの入っていたもの。

……あの日。ハルさんに初めて声をかけた日。


本当は怖かったんだ。記憶がよみがえって。話しかけることで、この人をいやな気分にさせてしまうんじゃないかって。

だけど、ハルさんは優しく受け入れてくれた。真夜中12時過ぎに話しかけてきた、女子高生の私を。

それがうれしくて、調子に乗ってマフラーをあげてしまった。

縛っていた過去の自分の鎖の鍵を、外せたような気がしたんだ。そのとき。


箱をカバンに入れ、その手をぎゅっと握りしめる。



……宮崎くん。私、あなたに会いに行く。

例え私がクラスメイトだった、知り合いだったにもなれなくて。“赤の他人”だったとしても。

過ごした時間が消えるわけじゃない。


会って、私は宮崎くんに謝りたい。謝ったら、きっと私はもう一歩前に進める。

ずいぶん自分勝手だと思う。それこそ、また傷付けてしまうかもしれない。……だけど。


私はカバンを肩にかけてから公園を出て、夜になりかけの街を走り出した。

時刻は6時過ぎ。———目指すは、宮崎くんの通う高校。



電車に乗り、いつかの合コンのときの最寄り駅で降りた。

高校までの道のりは、さっきなんとなく調べただけでちゃんとは分からない。だけど、やみくもに走った。

雪はだんだんと積もり、足元が悪くなっていく。

走って滑って怪我でもしたら元も子もないので、私は歩くことにした。


学校に、宮崎くんがいるかなんてわからないのに。家の中で雪を眺めているかもしれないのに。

だけど、それでも私は歩みを止めない。会いたいという気持ちが、私を動かした。



学校が近づいてきて、もう少しだと空を見上げたとき。

突然、どこからか激しくなにかを打ち付ける音が聞こえた。

その正体は、すぐにわかった。


5メートルほど先の空き地であの不良高校の制服を着た男子高校生五、六人が遊んでいた。

……いや、遊んでるんじゃない。


男子高校生の集団の中に人がいた。その人は……。



「……ハルさん……」



———同じくあの高校の制服を着た、ハルさんだった。

あまりにも衝撃的な光景に、私はその場にカバンを落とす。


……どうして。だって、ハルさんは、高校生じゃないはず。

……待って、ハルさんは高校生じゃないだなんて一言も言っていない。平日に制服を着ていなかったから、私が勘違いしただけ。


ハルさんは、私の灰色のマフラーを握りしめていた。間違いない、あれが証拠。



「や、やめてくださっ……」

「あ!?なんだよテメェ!」



一人が、雪の上に倒れるハルさんを蹴った。

私は見ていられなくて目を手で覆う。


なんでこんなことになっているのか、私は理解が追いついていなかった。

でも、とりあえずこれだけはわかる。


———私は、ハルさんを助けなければならない。以前の私だったら、逃げ出していた。怖くて見て見ぬふりをしていたと思う。

だけど、今の私は違う。ハルさんに、勇気をもらった私は。

私は、物陰から精一杯の声で叫んだ。



「あのっ、やめてくださいっ!!」



人生で、一番大きな声だったと思う。

まずいと思ったのか、ハルさん以外の高校生たちは私のほうを確認もせず向こうへ走り去っていった。

いなくなったのを確認して、私はハルさんに駆け寄りしゃがむ。



「大丈夫ですか!?」



制服は無事だったけど、顔には擦り傷がいくつもできていた。

そっと頬に触れると、ハルさんが痛そうに顔を歪ませる。



「あっ、ごめんなさい……」



手を離そうとすると、腕をバッと掴まれた。

私はびっくりして固まってしまう。

ハルさんは俯いたまま、私の腕を優しく握った。



「待って。……ごめんなさい、ありがとう」

「……はい。ハルさんに、大きな怪我がなくてよかったです」

「……うん」



ハルさんは返事をしてくれるけど、まだ目は合わせてくれなかった。

ハルさんのために私にできることってなんだろう。

考えるけど、思いつかない。だけど、ハルさんが望むならここにとどまっていよう。


そう、思ったとき。

足元にハルさんのと思われるカバンがあった。


———取っ手には、見覚えのある白いコースターがストラップみたいについていた。



「これ……」

「あ……」



ハルさんが声をあげる。

もしかしなくても、分かった。

……だから私、ハルさんの横顔に見覚えがあったんだよ。



「……ごめん。嘘ついてて」



ハルさんのほうを向くと、掴んでいた手はするりと落ちた。



「……会って、すぐに佐倉さんだって分かった。だけど、どんな顔をしたらいいかわからなくて。とっさに“(りょう)”で、“ハル”って読んだんだ。……僕のこと、覚えてる?」



ハルさんは、ゆっくりと顔を上げる。

その目は、あのときのまま変わっていなかった。



「……うん。覚えてる。忘れるわけないよ。……宮崎遼くん、だよね……?」



———やっぱり、忘れるなんてできなかった。ずっと、ずっと覚えていた。

私の好きだった……ううん。今も忘れられないくらい好きな、宮崎くんのことを。


気付かないうちに、涙が頬を伝う。



「……そっか。覚えててくれてよかった」



ハルさん———宮崎くんは、優しく切なそうに笑った。

それは、あのときと同じで。

心臓が、どきりと大きな音を立てる。



「とりあえず、うちに来ない?手当しよう」



私の提案に、宮崎くんは頷いた。



電車に乗って、家まで向かう。私たちの間に会話は無かったけど、それは仕方のないことだと思う。

私は、宮崎くんを傷つけてしまったのだから。


家には誰もいなくて、私は宮崎くんをリビングに通し急いで救急箱を取ってきた。

私が消毒とティッシュ、絆創膏などを取り出すと、宮崎くんは慣れた手つきで手当をする。

それから、なんとなく二人で外に出た。

近くの公園に入って、ベンチに並んで座る。それが、昔を思い出させる。



「……私ね、宮崎くんにもし会えたら言いたいことがあったの」

「え……?」



宮崎くんは、私のほうを向いた。。


……あの日を思い出すのはまだ怖い。だけど、一生後悔して生きていくことは耐えられない。

そしてなにより、宮崎くんに、私は。



「ずっと、謝りたかったの。ごめんなさいって。宮崎くんのこと、傷付けて……」



私は泣いちゃだめだ。腕で涙を拭う。



「だから……っ、ごめんなさい」



私は宮崎くんのほうへ直り、頭を下げた。

宮崎くんに嫌な思いをさせてしまった代償は重い。

私は宮崎くんを“好きだった気持ち”を忘れなきゃいけないのは変わらないけど……。


だけど最後に謝れてよかった。本当の気持ちを伝えられなかったのが、一番辛かったから。

頭をあげると、目を見開いた宮崎くんがいた。

だけど、すぐに視線を逸らされる。



「……佐倉さんの気持ちだから、簡単に否定はできないけど。でも、僕は佐倉さんに傷付けられてなんていないよ。……むしろ、謝らなきゃいけないのは、僕の方なんだ」

「え?」



その言葉に、今度は私が驚いた。

謝らなきゃいけないって……謝ることなんてないのに。

そう思ったけど、私は宮崎くんの話に耳を傾けた。



「……あの日は、放課後テストを受けるために学校に来てて。それであの会話を聞いてしまって。……だけど僕、うれしかったんだ。あのとき、佐倉さんがかばってくれて。だから、ずっとお礼を言いたかった。六年生になってから、うまく言えないけど……ストレスで、学校に行けなくなって。そんなことでって、思うかもしれないけど……」

「っ、そんなことでなんて思わないよっ」



思わず口をはさんでしまう。“そんなこと”なんて思わないでほしかった。

それぞれ事情があるんだし、その重さは人によって違う。

下を向いた宮崎くんは、どこかうれしそうにして笑った。



「……うん、ありがとう。でも、学校に行けないから佐倉さんにもお礼は言えないままで……ずっと後悔してた。環境を変えるための転校だって、誰にも言わずにしてしまったし。大成にも何も言えなかった。怖かったんだ。こんな別れで、もう友達でいる資格なんてないと思ったから……」



……だから、大成——朝日奈くんに、あの内容のメッセージを送ったんだ。朝日奈くんのために、わざと突き放すようなものを。

本当は、宮崎くんは朝日奈くんと友達でいたかったんだってことが言葉から伝わってきた。


宮崎くんは、苦しそうに語る。こぼれる涙が、雪に溶けた。



「……結局、中学もほとんど通えなくて。そんなんで受験できる高校って言ったらあそこしかなくて。高校生になってから行ける日も増えてきたんだけど……いじめられてるなんて、情けない」



私は、“そんなことない”と今度は言えなかった。どう思うかはその人の自由だし。

でも、私がもし言うなら。



「……あくまで個人の意見だけど。いじめられていることを、なさけないなんて思わないよ。だって、宮崎くんは生きてる。ここにいる。それだけで、すごいことだから。……なんて、偉そうだね。ごめんなさい」



恥ずかしくて私も下を向く。言ったのは、もちろん本心だけど。

……ねえ私、やっぱり宮崎くんのことが好きだよ。忘れられない。姿は記憶から薄れても、想いは消えない。

そのとき、手に何かが、かかった。

灰色の、マフラー。月色のマフラー。


顔を上げて横を向くと、宮崎くんと目が合った。



「……佐倉さん」

「……はい」



改まってそう名前を呼ばれると、緊張して心臓がどきどきする。

宮崎くんに、雪雲をよけた月の光がかかった。



「好きだよ」

「うん……え?」



あやうく聞き逃すところだった。だって、信じられない言葉だから。

“好き”っていうのは……友達の、だよね。私、宮崎くんの友達になれたのかな。

もう、元クラスメイトじゃないんだよね?


それか……そういう“好き”なんだって思ってもいいのかな。でもそんな贅沢なこと、ありえない。

マフラーのかかった手はだんだんとあったまっていく。

私は一瞬目を逸らしてから、また合わせた。



「私も、宮崎くんのことが好きだよ。元クラスメイトとしてじゃなく。……たとえ私が勇気をもらったのがハルさんだったとしても、それは宮崎くんでもある。私は二人のおかげで一歩前へ進むことができたから」



相手を想うこと。大切な人を守りたいって思って行動する勇気。私はそれを、二人からもらったんだ。

空を見上げると、もう雪は降っていなかった。代わりに空が晴れ、月光がより強くなる。

マフラー越しに、宮崎くんが私の右手をそっと優しく握った。



「佐倉さんの名前って“月”が入っているから。見るたびに思い出してた。だけど、胸が苦しくなってしまうこともあって。……でも、もう一度佐倉さんに会えたから、泣かないよ」



宮崎くんも同じように空を見上げる。

———一度は諦めて忘れようとした恋。だけど、忘れなくてよかったのかもしれないと今更になって思っている。

だって、人を好きになることはすばらしいことだから。それがどんな形でも。


私は宮崎くんを好きになって、恋を知ることができた。そして、強い強い勇気をもらった。

この月の光みたいに、やわくとも芯強く生きることができますように。できるなら、宮崎くんと一緒に。


私はそう願いながら、月に手をかざした。