テンポがいいというよりは狂ってるんじゃないかと思う音楽の中で、私は食事を口に運んでいた。
今日の夕食はナポリタン。美味くもなんともない普通の味だけど、タダだと思えば重みは全く違う。
窓が一つもない地下の薄暗い店内を潜り抜けて、一人の大男が水の入ったコップを私の前に置いた。
「食ってばっかだな、お前。よく太らねぇの」
「太ったよ。見ればわかるでしょ。このやけ食い」
「おーおー。言ってろ。どうせチビのままだ」
大男はだらっとしたティーシャツの上に、店のロゴの入ったエプロンを引っ掛けていた。そのバイトスタイルのままで、彼はどさりと私の向かい側に座った。
「やめて。私ハウスダストに弱いの」
「俺にその嘘通用すっか?」
浅黒い肌に彫りの深い顔立ち、そして無駄なく筋肉のついた二メートル近い長身。普通に面と向かえば裸足で逃げ出したくなるような強烈な迫力だけど、私にとってはあまり関係ない。
だって私が生まれてから、親よりも長い時間一緒にいた存在なのだから。
男の後ろから、店員なのか遊び仲間なのかわからないお姉さんが声を上げた。
「拓磨ー、酒はぁ?」
「んじゃ、ビール二本」
私はナポリタンを口につけたまま、じろりと彼に照準を合わせた。
「未成年に飲ませるな。私、酒いらない」
「へいよ。やっぱ一本で」
「はーい」
間延びした声で、化粧の濃いお姉さんは奥に引っ込んでいく。
ただその辺でイカれた音楽に乗ってる姉さん兄さんに比べれば、お姉さんはましな方だった。
息が詰まるような狭い室内で、ほとんど裸の兄さんやら、ゴスロリみたいな姉さんが、ギラギラの光と騒音みたいな音楽で揺れている。なんだか古臭い水族館みたいで、少し息がつまりそうになる。
食べてるのは私だけ。パイプ椅子に座ってるのも私と彼だけ。元々ここは踊ったり歌ったりするクラブで、私みたいにがつがつ物を食べに来る場所じゃない。
「また寂しいのかよ、沙世」
低く耳に響く声に、私はほんの少しだけ目を上げて呟く。
「そんなことない。私、もう十八歳だし」
私はあからさまな嘘とばれる言葉を彼に返していた。
「一人暮らしだってもう慣れたし」
向かい側で、彼は私の水を勝手に飲んでいた。私は文句にも聞こえる言葉を吐き出していた。
「兄ちゃんなんてもう十年、地元から離れてるじゃないか」
彼……私の兄はくだらないことのように薄く口元を歪めて、赤茶色の頭の後ろで両手を組みながら体を逸らした。
「俺は道逸れちまったからな。お前とは違ぇよ」
兄と私は連れ子同士だ。それに昔から不良連中とつるんでいた兄と、優等生じみた私は、必ずしも同じ時間軸を生きてこなかった。
私は口元についたナポリタンを安っぽい紙ティッシュで拭う。その隙に、兄は私の頭に手を置いていた。
振り払おうとする私を軽くいなして、兄は乱暴に私の頭を掻き混ぜる。
紫やら赤やらに変化する照明の中で、浅黒い兄の顔は次々と別の色に塗れていった。
それを私は顔をしかめながら見上げていたけど、手を振り払おうとはしなかった。
「兄ちゃん」
自然と言葉は私の口から零れ落ちた。
「遊びに連れてって。兄ちゃんのいつも行くとこでいいから」
思いつきだったけれど、言ってみてから良い考えかもしれないと思った。
上京生活に、疲れていた。兄のように都会を楽しんでいなかった。私はまるで、吸い寄せられるように兄の前にうずくまっている子どもだった。
駄々っ子のように呟いた私に、短いため息が返される。
呆れたような間があって、兄はつまらなそうに口を開いた。
「行くか」
そう言われて、私は久しぶりに自然と笑っていた。
やっぱりというか、兄が連れて行ってくれたのは派手なクラブだった。クラブと言えば聞こえはいいけれど、要するにやばそうな兄ちゃんとか、けばい姉ちゃんとかの溜まり場だ。
八十年代くらいのディスコをイメージしたような、きらびやかかつ古い雰囲気も漂わせる狭い店内で、人が飲んだり踊ったりしてひしめき合っている。
店に踏み込むなり、私は兄の袖を引いて尋ねた。
「私、踊れないよ。何してればいい?」
「だから来ても面白くねぇって言ったろ。隅で大人しくしてな。後でダチを紹介してやるから」
それでも帰れと言わないのが不思議だった。上京したての頃だったら私を友達に会わせるのだって渋る兄だったのに、目の届く範囲内なら遊ばせてやろうという意思が見え隠れする。
「拓磨じゃん。あれ、そっちは?」
「これか? 連れてけってうるせぇんだよ。気にすんな」
何人かがすぐに兄に気づいて集まってきたけど、彼は適当に答えた。それにかえって興味を持ったのか、五、六人の好奇の目が私に集中する。
タンクトップから派手な花の刺青が覗いてたり、かなりきわどい場所にピアスやクリップがついてたりと、中々にファッションにはこだわりがありそうな人たちだった。強面ではないけど変に色白だったり痩せていたりして、正直なところカッコイイとは思えない。
「へぇー」
「いいじゃん。初めて見る子だな」
きつい目で見ている私を可笑しそうに見やって、彼らは含み笑いをしながら目配せする。それに、兄は軽く私の頭に手を置いて返した。
「見た通りチビだからな。唾つけんなよ」
彼らは何かを感じ取ったのか一瞬だけ表情を消す。私は首を傾げて、横に立つ兄を不思議そうに見上げた。
「俺の妹だからな」
兄は薄く笑っているだけだった。からかっているような雰囲気しかないし、怒り出すような口調でもない。
「わかってる。冗談だって」
それなのに彼らの表情に浮かんだのは畏怖に近い感情だった。
見た目はやばい兄だけど、いきなり殴りだすような凶暴さはない人だ。……ただし、私の知っている限りではそうというだけだった。実際、兄と一緒にたまり場に行ったことはほとんどない私だった。
「大人しくしてろよ」
「うん」
面倒くさそうに私の頭をぐりぐりして、兄は側にあった椅子に座らせる。そのまま彼は友達か子分かさえ不明な人たちを連れて中央へと行くのを、私は黙って見送っていた。
広さはいつも行く兄のバイト先の三倍くらいで、奥まではちょっと見渡せない。わりと静かなテクノやポップが流れて、古臭い空気には良く似合う。
変に感傷的なメロディは敬遠したい時もある。普段の喧しくて怒号に近いパンクミュージックなら頭の感覚が麻痺するけど、今耳に入るのは思考を遮らない隙のある音楽だ。
「沙世」
いつの間にか兄が側に来ていたことに気づく。
「何?」
座ったまま顔を上げる私の目に、浅黒い輪郭以外のものが映った。ミラーボールが眩しく反射して、私は目を細める。
「は、初めまして。沙世さん」
まだ輪郭のはっきりしていない逆光の中、私の目の前で慌てて頭を下げた男の子がいた。
顔を上げると、声と同じく幼さの残る十台の少年だった。奇抜な髪型やファッションの入り乱れる店内では浮いてしまう、控えめな茶髪に小さなピアスだけが装飾品で、かなり貧相なジーンズとTシャツに包まれた細身の体だった。
「初めまして。拓磨の妹の沙世です」
なんとなく立ち上がって、私も頭を下げた。何をさせたいのかは不明だったけど、条件反射みたいなものだ。
子供みたいな挨拶を交わした私たちを、兄は笑いを噛み潰しつつ見下ろしていた。私はそれに顔をしかめて不機嫌に問いかける。
「どちらさん?」
「お前と同じガキだ。っつっても、ここではお前よりずっと先輩か」
兄は軽く少年の頭を叩いて、ふざけた調子で声をかける。
「馬鹿、頭下げんなよ。何恐縮してんだ」
「えっ、あ、すんません」
おろおろする少年が面白くて私も少し笑うと、兄は横目で私を確認してから彼に向き直る。
「テツ。適当に面倒みてやれ。年が近いし話も合うだろ」
「え?」
「あ、はい。もちろんです。もちろん」
眉を寄せた私と兄を見比べて、テツは繰り返し頷く。その上下運動はさながら振り子を思わせて、彼が兄に全く逆らえない立場であることが簡単にわかった。
「じゃあな」
ぞんざいに言い捨てて、兄はさっさと仲間たちの所へ戻っていく。そのまま談笑しながら飲み始めて、他と同じように音楽に揺れていた。
結局よそ者扱いされていることがわかって、私は口元を一文字に引き結んだ。確かに邪魔しないとは言ったけど、これじゃ完全に私は厄介者だ。
「テツ君」
「あ、はい!」
振り返って、動揺する少年へ顔をしかめたまま向き直る。
「遊んできていいよ。私はここでぼーっとしてるから」
「い、いや。そういうわけにも」
わかっていたけど慌てて反対してきた彼に、私は一つ頷く。
「じゃ、とりあえず兄の目が届かない所まで移動しようか。そこで解散」
先に立って、私は店の奥まで歩いていく。聞きなれない音楽が大きくなり、見慣れない人たちがちらちらと私を窺っているのは感じていたけど、別段それは気にすることがなかった。兄の言う通り、自分が子供っぽく見えることは理解していた。
照明の落ちた壁際まで来て、私は立ち止まる。背を灰色のコンクリート壁につけて腕組みをすると、しっかりついてきた少年をじろりと見やった。
「しつこい」
「すんません」
謝りつつも去る気配のない彼に、私は深いため息をつく。
「……わかったよ」
テツにも立場というものがあるだろうし、ここは私が折れるべきなのかもしれない。そもそも、独りになりたくてこんな場所まで来たわけじゃないのだ。
「テツ君は年いくつ?」
話題を振ると、彼は私が話しかけてきたことにほっとした表情を見せた。
「二十歳です」
「嘘だ。十五くらいでしょ」
私より年上であるわけがないと確信を持って返すと、彼はちょっと困ったように苦笑した。
「十七です」
「高校は?」
「行ってません」
「そう」
私は横目で、私よりほんの少し背が高いくらいの少年を見やる。
「何でこんな所に来てるの?」
「楽しいからです」
「どうして?」
「質問ばっかりっすね。沙世さん」
「君が質問してこないから」
私は文句を吐き出してから先を促す。テツはうなずいて答えた。
「楽しいに理由は要らないじゃないっすか。有意義とかより、ずっと単純」
「それはそうだね」
適当に頷いて、私はカマを掛けてみる。
「で、この道には兄に引きずり込まれたんだ?」
そう問いかけた途端、今まで緊張した面持ちで答えていた少年が顔を綻ばせた。
「そうです」
眩しいものを見るように兄がいる辺りを仰ぎつつ、テツは頷く。
「オレ、拓磨さんみたいになりたくて。すげぇかっこいいじゃないっすか」
自分のことをオレという言い方は、珍しくもないのにひどく幼く聞こえた。
崇拝の色合いが濃い彼の声に、私は呆れて首を傾ける。
「どの辺が? 図体がやたら大きいだけだよ」
「いや、カリスマっすよ、カリスマ。頼りになるとか以上に、何かこう、オーラが出てるじゃないっすか」
ますます眉を寄せる私に、少年は興奮した様子で続ける。
「沙世さんはわかんないっすか?」
「うん。さっぱり」
即答して、私はテツを振り返る。
「そうか。兄ちゃんが好きなのか」
「……え?」
「男ということが一つの難関だね」
「え、あの、いやその」
少年は私の言いたいことを察したのか慌てて首を横に振る。
「違いますよ! 男として憧れるってことに決まってるっすよ」
「ふうん」
ちょっと考えが飛躍したかと反省して、私は頷く。
「オレたちの兄貴分ですから。仲間内でも尊敬されてます」
そこまで言って、テツは少しだけ変な顔をして私を見る。
「でも、女から見るともっとすごいでしょ。沙世さんも思いません?」
私はぷっと吹き出して、軽く答える。
「全然。私が何か感じたらやばいじゃん」
どう頑張ったらあの趣味悪い兄がかっこよく映るんだろう。小汚いし、品が無いし、性格歪んでるし。
「さっきから考えてたことなんだけど、訊いていい?」
「はいはい。何でもどうぞ」
フロアのミラーボールの下くらいを指差す。そこにはふざけあっている男女の中心にいる、兄の姿があった。
「兄ちゃんの彼女って、どの人?」
これは先ほどどころか、上京して以来の謎だ。
「入れ替わり立ち替わり、いろんな女の人と話してる気がするけど」
「あー……」
目を逸らして言葉に詰まる少年に、私はそっと付け加える。
「いや、答えにくいならいいよ」
上京してすぐ、私は深夜に兄のアパートから出て行く女の人を見た。
けど一週間後には別の女の人と街を歩いているのを目撃して、さらに兄の携帯に電話したらまた違う女の人に誤解されて怒鳴られたこともあった。
いくら付き合いの少ない私でも、兄がつくづく女癖の悪い男であることくらいは察しがついている。
「ただ、本命くらいいてもいいんじゃないかと思って」
遊びまくっているなら、却って特定の相手はいないのかと疑ってしまう。これは純粋な興味だ。
本当に、ただの興味だ。決して嫉妬なんかじゃない。
「いますよ。皆知ってます」
少年を振り返って見ると、彼は苦笑して頷いた。私はその即答に少なからず驚いて目を見開く。
「え、今日も来てる?」
「はい」
「あ、待って。当ててみせるから」
短く制して、私はきょろきょろと辺りを見回す。
あの派手な金髪の人は見覚えがあるなと思ったり、今兄としゃべってる人って大人しそうな人だけど以前に私を怒鳴りつけたことがあったと思い当たったり、とにかく色々と考えを巡らせる。
「んー」
どの人とも親しそうだけど、殊更誰が際立ってるということもない。普通にふざけて兄に甘えてみたりとか、一緒に踊ってたりとか、せいぜいその程度だ。
また別の曲に変わった時に、兄が何かに気づいたように移動する。数人の間を通り抜けて、ある場所で立ち止まる。
そのまま兄が頬に笑みを浮かべて手を伸ばすのを見て、私は何だか複雑な気分になった。
「……あの人だ」
ショートカットの黒髪で、すっきりした顔立ちの美人だった。普通の女の人より少し背が高くて、服装は他の人に比べてずっとシンプルなブラウスとスカートなのに、どこかドキリとさせるような艶がある。
その彼女が涼やかな目元を少しばかり歪めて、拗ねたように兄を見上げる。今頃私に気づいたのと責めるような眼差しに、兄が困ったように肩を竦めるのが見えた。
今度こそ紛れもない胸の痛みを感じて、私は短くテツへ問いかける。
「あの人は?」
「絵梨さんです。まあ、拓磨さんとは結構長い付き合いっすね」
急にこの場にいるのが苦痛になってきた。
やだな。彼女くらい、いてもおかしくないのに。それを今知ったのは遅すぎるくらいなのに、訊かなきゃよかったと後悔する。
「でもあの人、ナンバーツーっすよ」
「二番目?」
暴走族じゃないんだからと苦笑しながら、私は半信半疑で続ける。
「じゃ、ナンバーワンはどこへ?」
「わかんないっすか?」
逆に問いかけられて、私はぐるりと辺りを見回す。光が取り巻いて音が溢れかえるその空間で、ふいに私は道に迷ってしまったような孤独感に沈んだ。
「わかんない。でも言わなくていい」
子供っぽく呟いて、付け加える。
十年以上も一緒にいたけど、兄が上京してからは私の知らない空白の時間もある。それを追求しようとしても無駄なのかもしれない。
「沙世さん、拗ねてるんですか?」
からかうような口ぶりにむっとして、でも私は一瞬黙るだけに留める。
「別に」
「眉間にしわ寄ってますよ」
年下のくせに、変な所だけ鋭い。嫌な子だ。
「からかわれるのは嫌い」
今度は不機嫌を隠さずに呟くと、彼は少し吹き出して小声で言う。
「大丈夫っすよ。沙世さん、可愛いとこあるじゃないっすか」
適当なことを言うのは、部外者だからだった。
私は「もう帰る」とだけ兄に伝えて、その日はさっさと自分のアパートに帰ったのだった。
三日後、私は性懲りも無く同じクラブへと足を運んだ。
「今日は一人でいいよ。勝手もわかったから」
また誰か子分に面倒を見させようとしていた兄を振り切って、隅の方へと歩いて行く。
壁に背を預けて、私は鉄骨の剥き出しになっている天井を仰ぐ。
何があったということもない。でも何も変わっていない。
「あ、沙世さん。お久しぶりです」
「うん」
この間来たときに話し相手になってくれたテツに適当な挨拶を返して、私は腕を組む。
じゃあなぜここへ来たのかと考える。
ミラーボールに埃臭いフロア、揺れる若者に眩しい照明。私にとって、さほど愛着があるとはいえないものの数々。
それでも兄がここにいるのだと思うと、どうしても私は寂しさを紛らわすために足を運ぶのを止められなかった。
「あれ?」
ふと隣に立ったままのテツをまじまじと見つめる。
「な、何ですか?」
「ピアス、新しくつけたね」
「あ、はい」
彼の口元を指差すと、少年はにこやかに頷く。
「ついでに穴も大きくして」
「へぇ」
「拓磨さんに開けてもらいました。どうっすか?」
違和感の正体はそれかと、私は照れる少年を見つめながら納得する。
「私ピアス嫌い」
「……容赦ないっす」
仕方ないじゃないかと思いながらも私は面倒くさそうに付け加える。
「でもそれは似合ってるよ。シルバーのやつ」
ぞんざいな答えだけど、テツは満足したようだった。まだ高校生だからかもしれないけど、頷き方が随分と幼く見える。
「ピアスって面白いのかな」
何気なく訊いてみると、彼は指先で軽く新調のピアスを弾きつつ答える。
「面白いっていうか。男でイヤリングってのも変ですし」
「でも女の人もしてるね。そういうもの?」
「そうっすね。皆やってるし」
言われてみれば、その辺で踊っている人たちの耳には男女問わずピアスが光っていた。兄ほど数多くはつけてないけど、ここではピアスは当たり前のようだ。
ピアスはきらきらとライトを反射して光っていた。熱帯魚の尾ひれのようにゆらりと揺れて過ぎていく、その一瞬で確かな存在感が目に映る。
嫌いなのは間違いないけど、ここの世界では常識だ。それを思うと、私は少しだけ眉を寄せた。
「あ」
ポケットの中で携帯が鳴る。私は反射的に携帯を見た。
『最近遅いけど、どこに行ってんの?』
ほっといてよと呟いて、私は即座に携帯をポケットに仕舞いなおす。
だいたい自分が頻繁に朝帰りしてるくせに、人がちょっと遅いくらいで変な顔をするのはよしてほしい。もっとも彼の場合は仕事なんだろうけど。
「え、沙世さん。今のは?」
露骨に顔を引きつらせたテツに、私はそっけなく答える。
「友達」
「あー……そうっすか。拓磨さんにばれないといいっすね」
テツは自分で勝手に納得する。
私は腕を組んで目を閉じてみた。もちろん居眠りをするつもりじゃなくて、少し考え事がしたかった。
「ねぇ」
何か足りない。確かな何かが、私は欲しい。
……それをどうやって得るのかは、わからなくても。
「あなたが沙世?」
呼ばれて私は顔を上げた。目を開いて、正面に立つ女性に気づく。
品のいいブラウスにデニムのスカート、ここでは珍しい黒髪に、薄いメイクで整えられた、顔立ちも体型も綺麗な人だった。
「そうです。拓磨の」
「妹でしょ。もう何度も聞いたわよ」
棘のある遮り方に、私は眉を寄せる。一瞬で、この人が私にあまり良い感情は持っていないのが伝わってきた。
「何しに来たの? 場違いだとわからない?」
きつい口調だった。それは言葉も目つきも同じだったけど、不思議と私は怒りを感じることはなかった。
「わかります、絵梨さん」
ほとんど同じ高さから彼女を見返しながら、私は頷いた。
「でも隅で大人しくしてるので、大目に見てください。邪魔しないので」
「あなたがいるってことが邪魔なの」
「ちょっと。絵梨さん、失礼っすよ」
慌てたようにテツが止めに入ったけど、私はまだ彼女をみつめていた。
「拓磨が迷惑なの。わかるでしょ?」
たぶんこの人は兄が好きなのだ。
それを感じ取って、私はこくんと素直に頷く。
「はい。小さい頃から迷惑かけてます」
「なら……」
「だから」
自分で言葉にしてみて初めて、私は胸に溜まっていた思いに気づいた。
「兄ちゃんが出てけって言うまで、ここにいます」
私は今も子どものつもりでいる。
寂しくなるとずっとそうしてきたように、兄にくっつきたくて仕方がない。馬鹿だな、しょうがねぇな、と呆れられながらも甘やかしてくれるのを信じている。
ずっとそれに守られてきた。だから私は、自分からそれを断ち切れない。断ち切りたくない。
いっぱいに伸ばした手を、決して彼は振り払ったりしなかったから。
「生意気なこと言わないで。すぐ飽きられるにきまってるのに!」
言葉を返した直後、乱暴に耳を引っ張られた。
「絵梨さん、ちょ、やばいっすよ」
痛いと思った時には、もう彼女の綺麗な爪が耳の後ろに引っかかって傷がついていた。
挑発したのは私だ。どうしても自分の思いを口にせずにはいられなかった。ここにいる理由を、自分の中で確かなものにしたかった。
「つ……」
だから抵抗せずにそれを受け止めたけど、やっぱり痛いものは痛い。すぐにテツが彼女の手を引き剥がしてくれたけど、そっと自分で右耳に手を当てたら、少しだけど血が流れていた。
「何の騒ぎだ?」
周りがざわめいたのに反応して、兄がこちらを振り向く。私はさっと血のついた手を背中の後ろに隠したけど、兄は訝しげに彼女の爪先に目を細める。
「血?」
おもむろに絵梨の手を取ると、彼はそれを掴んだまま平坦な声を出す。絵梨が何か言おうと口を開く前に、兄は素早く私の方へと目を移した。
その目つきが酷くぎらついて見えて、私は思わず後ずさっていた。
「ごめん」
こちらへ近づこうとした兄に短く返して、私は首を横に振る。
この静かな怒りは私に向けられたものじゃない。それはわかってる。
「見せろ。どこをやられた」
……けど、怖いのだ。
「何でもない」
「嘘言うな」
兄は手を伸ばす。私はそれを右手で振り払って、だけどその手首を掴まれてはっとなる。
赤い指先に兄は目を細めて、そして肩口へ移動した。私は思わず肩に血がついているのかと目を走らせてしまい、その動きで彼は目ざとく事態を察知して私の耳を掴む。
「切れてる。絵梨か?」
「違う」
否定したのに、兄はもう絵梨を振り返っていた。誰もが怯えるような怒りの眼差しを向ける。
その場にいる兄以外の誰もが動けなかった。図体が大きいだけじゃなくて、圧倒的な気迫と存在感が、兄の周りを取り巻いていた。
だから兄が恐れられるのだと、私はその時やっと理解した。
「違うよ、違う!」
私はぐっと兄の腕を掴む。
いけないと思った。このままじゃ、間違いなく兄は絵梨に手を上げると直感した。
「ちょっと引っ掛かっただけだよ。ほら、ピアス開ける時だって血くらい出るし!」
脈絡のない言葉を並べ立てて、私はぐいぐいと兄の腕を両手で引っ張る。
少しだけ兄が思考をめぐらせたのがわかった。その気になれば簡単に私を振り払えるはずなのに、彼はその場を一歩も動かなかったからだ。
「絵梨」
「な、何?」
兄は短く、本当にそっけなく言った。
「出てけ。二度と来るな」
その言葉で、私は絵梨が二番手だと言うことにようやく確信を持った。
皆の噂するナンバーワンは別にいる。これは本当のことのようだ。
それにほっとしたような、不謹慎にも更に興味が積もるような、そんな複雑な思いが私の中を駆け巡ったのだった。
一悶着起こした後ではさすがに居づらくて、私は早々に帰宅することにした。
兄のバイクの後部座席で、ぼんやりと考えに沈む。あんな騒ぎを起こすくらいならもう兄にくっついて行くのはやめようか、それともまだ決めるのは早すぎるのか。
上目遣いで前に座る兄を窺う。駆け抜ける風とテールランプの中、彼はいつものように黙って前を見据えていた。振り返る素振りも、何か言葉を発する気配もない。
パーッと、車のクラクションがうるさい。渋滞に引っかかって停車すると空気もぬるくて、疾走感の快さが一瞬で消える。
「おい」
なんとなく身を捩ると、兄がだるそうに振り返って言った。
「寝るなよ。落ちるぞ」
たぶん兄もじっとりした夜気がうっとうしくて、何かしゃべるのも億劫だったのだと思う。
でも、それだけだった。
馬鹿でガキで面倒な妹を責める言葉は、それ以外何一つ口にすることがなかった。
兄のアパートでシャワーを浴びた後、私はそのまま畳の上で仰向けに寝転がった。
「畳が濡れるだろ。頭拭け、頭」
あぐらをかいてテレビを見ていた兄は、伸びている私を見て顔をしかめる。
「もう拭いたよ」
「起きろ。水滴ってるっつーの」
軽く髪を掴まれて、私は渋々ながら体を起こす。ぶつくさと文句を零しつつも風呂場からタオルを取ってきて、ぞんざいにそれで頭を拭った。
「ほれ、ドライヤー」
「ありがと」
部屋の隅に転がっていたドライヤーを、兄が滑らせてよこす。
私はそれをコンセントに差し込み、温風を出したところで……ふと手を止めて兄を見た。
「兄ちゃん」
「あ?」
返事かどうかもわからない声を聞いて、一言問う。
「兄ちゃんって彼女いるの?」
実は兄に訊くのは生まれて初めての質問だった。噂でならたくさんあったけれど、私は一度も兄の口から「彼女」という言葉を聞いたことはない。
それに、訊く必要もないと思っていた。知ったところで、私には関係ないと信じていたかった。
「ほら、ドライヤーなんて兄ちゃんが自分で買うわけないし」
兄はテレビを眺めていた。特に面白くもなさそうなバラエティー番組で、画面から漏れ出す黄色の光が目にチカチカする。
わぁっとテレビから溢れる笑い声と、緩いドライヤーの電動音が重なる。その中で私たち兄妹の間にだけ、一瞬の沈黙が流れた。
「沙世。耳はどうなった」
普段通りの顔で兄が振り返り、私の右耳を掴んだ。少し乱暴に親指と人差し指でそれを挟み込み、耳の裏側を覗き込む。
「やっぱ切れてるな。何か貼っとくか?」
顔をしかめる兄に、私は適当な答えを返す。
「痛くないよ。要らない」
「消毒液どこだったか」
兄は座ったまま畳の上を滑るようにして移動する。
言い終わらない内から傍の棚で消毒液を探している、この行動の早さは何なのだろう。
「動くなよ。目に入るぞ」
そうするのが当たり前のように私を座らせ、消毒液を染み込ませたガーゼを押し当てているのも、この年の妹にするのはいささか過保護な気がしてならない。
何かと転んだりして兄に世話を焼かせた私に、原因があるのはわかってる。人見知りの激しかった私は兄に対してはとことんわがままで、そして兄はそれを叱りながらも甘んじて受けてきた。
「深くは切れてない」
独り言のように呟く兄と、怪我が大したものでないとわかる度にあからさまに安堵した、幼い頃の彼の声色が重なる。
「別に。耳の後ろなんて気にもならないよ」
横目で窺った浅黒い腕には、細かいものからスパッと切れた刃物のような傷まで大小様々だ。誰に付けられたかなんて、たぶん本人すら覚えていないのだろう。
兄の腕は太く、筋肉もしっかりついてる。スポーツや喧嘩に耐えてきただけあって、いくら私だって彼が強い人間であるのは疑ったことがない。
同年代どころか年上の男にも簡単には負けない。だけど自他共にそう認められている兄は、意外だけどめったに自分から手を出すことはなかった。
それは兄の余裕の証であり、同時に人からも慕われる理由になっているのだと、今でも信じている。
けど、幼い頃から兄は私が怪我を負うことを異常なほど気にする。それこそ自分は腕を血まみれにしてもせせら笑って帰ってくるくせに、小さな私が転んで膝を擦りむいて泣くと本気で痛そうな顔をする。
私は手当てから解放されると、再び仰向けに寝転びながら考える。
私は幼い頃ひどく体が弱かった。病気もたくさんしたし、チビだったし、めそめそとよく泣く内気な子供だった。両親に手を上げられたこともないし、同年代の誰より立派な体格と気の強さを持っていた兄とは、まったく同じ生き物には見えなかった。
たぶん一番そばで私を見ていた兄が、誰よりもそう思っていた。
タンクトップの上からでも筋肉の動きがわかる背中をみつめながら私は納得して、そして息苦しくなる。
……私はずっと、兄とどこも似ていない生き物でいていいのか。
拓磨の妹だからと、大抵のことは大目に見てもらえる。ダンスもできない、軽いおしゃべりも楽しめない、変に生真面目で堅い私のままでも。
「ねぇ、兄ちゃん」
そもそも違う世界の人間として、ただ珍しがられるだけの私。
救急箱を棚に押し込んでいた兄が、何だよ、といい加減に返事をした時だった。
「私もピアスしてみたい」
……よそ者は嫌だ、仲間はずれは嫌だと、そんな縋るような幼い思いで口にした言葉だった。
「は?」
私の言動がよほど意外だったのか、兄は棚を閉めるのも忘れて振り返る。
「何だよ。お前、ピアスは趣味悪いって言ってただろ」
「確かに言ったよ。でも」
口元を歪めて、私は拗ねたように言う。
「なんとなく、やってみたくなった。それだけ」
言葉を紡いでから理由を考えた。
たぶん私は、兄のいる世界に溶け込みたい。全然違う、ただ守ってやらなきゃいけない弱い生き物じゃなくて、そこに元から受け入れてもらえるものになりたい。
「ダメって言ってもするからね。もう決めたんだから」
ただその世界へ入りたい理由が、兄の側に自然に居られて、守ってもらえて安心だからという、ひどく矛盾したものでしかないけど。
「沙世」
「やだ」
駄々っ子のように兄の言葉を遮って、私は寝転んだまま彼をにらみつける。
証が欲しいと純粋に思った。たとえそれが趣味の悪いものでも、決して私が好きになりそうにないものでも、確かに目に映る形が欲しいと。
「ピアスがいい。イヤリングじゃなくて」
そしてそれは、はっきりと後に残るものでなければいけなかった。兄が決して私に許さなかった、私の体に傷をつけてしまうもの。
心が急いている。落ち着けと内部で止める声も聞こえる。たかがアクセサリーだけど、それがどれだけ今までの私を否定するのかも、頭の冷静な部分では理解している。
それでも私は、困惑顔の兄から一度も目を逸らすことができなかった。兄はやめろという意思を表情から隠しもせず、無意識に自分のピアスを弾いていた。
だけど先に顔を背けたのは兄で、短くため息をついたのも兄の方だった。
「しょうがねぇな」
棚を元通りに閉めて、兄は私の真横に座りなおす。その拍子に、耳に下がるピアスが一斉に揺れ動いた。
「小せぇのにしろよ。親父が泣くぞ」
「兄ちゃんに言われたくない」
「あと」
兄は軽く屈みこんで私の右耳を指先で挟み込む。先ほどと違って、それは奇妙に優しい動作だった。
「俺にやらせろよ。穴あけんのは」
一瞬、ぞくりとした。
耳に触れる冷たい指先と、どこか楽しげな兄の表情が、まったく他人のもののように感じた。
……それはまるで、性を孕んだ誘惑のようなもので。
頭に鳴り響く警鐘と、包み込まれるようなぬるい安堵感。かつてない緊張感と、心に染み渡る熱さ。
「うん、そうして」
その狭間で、私は目を細めて深く頷いた。
天井からぶら下がる電球が眩しい。背中に当たる畳は柔らかすぎて肩が沈む。洗濯ロープに掛かった色の抜けたジーンズは小汚くて、安物の冷蔵庫が立てる電動音は耳障りで仕方ない。
「兄ちゃん」
「ん?」
でも、ここが本来私のあるべき場所だと思うのだ。
「私、彼氏とうまくいってないんだ」
何気なくつぶやいた私に、兄は眉一つ動かさずに頷く。
「じゃ、他のをみつけろ」
あっさりした答えだった。
だけどそれを、私はずっと兄に言ってもらいたかったに違いない。
「穴あけんのはこの怪我が治ってからだな」
次の瞬間にはもう、耳の話に戻っている。私もそれを望んでいた。
私は目を伏せて、変わらず耳を掴んだままの兄の指先を感じながら言う。冷たくも熱くもない、心地よい体温だった。
「彼女いるの? 兄ちゃん」
気負いなく呟いた言葉だったから、口調も淡白なものでしかない。
「皮膚薄いな、お前。血管透けてるし」
だから兄が何も答えなくても、私は苛立つことはなかった。
「怒るんじゃないの? いつも馬鹿で面倒な妹の面倒ばっかりみてちゃ」
「お前くらいのガキにも合いそうなピアス、見つけといてやるよ」
会話はまるで噛み合ってなかった。
それでも、兄との距離が急速に縮まっていくのを、私は心の中の冷静な部分で感じ取っていた。
絵梨の彼氏を名乗る人が私のアパートをたずねたのは、まもなくのことだった。
「お兄ちゃんのこと、もっと知りたくない?」
そう言って彼は、私を夜の街に連れ出した。
終電で都心部まで行って、華やかなネオンの輝く街を歩いた。道行く人は皆自分の商売に夢中で、私には目もくれなかった。
有名な風俗街だということは私も知っていた。
じきに街灯すら壊れていて足元の危うい細い路地に入った。疲れ果てたように地面にうずくまる若者や、目だけギョロリとした老人が、灰色のコンクリートの隙間に見え隠れする。ゴミと汚物と、異臭とアルコールに満ちた中で。
ここで立ち止まったら私は殺されるかもしれない。そんな物騒なことを考えて、私は無意識に前を歩く彼との間を狭めた。
「このビルの、地下三階」
彼が示した先には、もう何年も放置された廃ビルがあった。ガラスはあちこち割れて窓枠は曲がり、今にも崩れてしまいそうな匂いを感じさせる。
「拓磨のお気に入りの場所」
……引き返したいと強く思った。
パラパラと埃の舞う音と、どこからか聞こえる音楽。鳴り響く頭痛と喉を圧迫する息苦しさに私は眉をよせた。
化け物の口のようにぱっくりと開いている地下への階段を見つめる。石で出来たそれはところどころ欠けていて、踏み外したら奈落の底へと真っ逆さまに転がって行きそうな気がした。
でも兄ちゃんはこの中にいる。私の知らない兄ちゃんかもしれないけど。
私は無言で最初の一歩を踏み出す。その横で、彼が深く笑みを刻むのが見えた。
真っ暗な階段はあっという間に私の足元を過ぎていった。微かな振動だった音楽が次第に大きくなる。
「さ、行こうか」
気づけば足を止めていた私を笑うように、彼は重そうな鉄の扉をこじ開ける。促されて前へ進み……私はそこに広がる光景の一部となった。
フロアに転がるビンや倒れた椅子、逆さまのソファー、赤い裸電球。
崩れた世界の中には様々なものが散らばっていた。物も人間も、雑多な空間に溶け込んだ。
拓磨君と、彼は私を守るように後ろへ隠して言った。彼の背中ごしに何かが動いたのが見える。
「何だよ」
兄の声だった。ひどく平坦で冷静で、まるでこの狂宴になど興味のない口調だった。
「いい加減に消えろよ。お前が要らねぇって言ったんじゃねぇか、絵梨は」
酔っているのは確かなようで、疲れたようなため息が続く。
「拓磨ぁ、何こいつ?」
女の人の声も聞こえて、私はそれに身を固くした。
そこで初めて彼は私を前へと押しやった。
「絵梨を引き取ってくれたお礼にこのコも……拓磨君に、あげる」
兄はただソファーに座っていた。周りに二、三人の女の人たちがいたけど衣服に乱れはなくて、ただテーブルに頬杖をついているだけだった。
近くの酒ビンから、アルコールに染まっているのはわかる。それでも女の人たちの誘惑に乗る様子もなければ、まるで楽しそうでもない。
「何? ガキじゃん」
「拓磨を馬鹿にしてんの? 失せろっつーの」
「……黙れよ」
だけど兄が静かに私の姿を目で捉えて女の人たちに投げつけた言葉は、どうしてか私の芯をぎくりと緊張させた。
あっけなくテーブルを蹴り倒して、兄は座ったまま彼女らを見る。
「失せな。いい子にしてればまた遊んでやる」
冷笑した表情にも侮蔑をはらんだ言葉にも、まるで甘い響きはなかった。ただつまらなそうに口元を歪めて、面倒とばかりに言い捨てた。
「あ……うん」
それでも彼の目から、女の人たちは目を逸らすことができないようだった。どこか切ないまなざしで見つめながらもその場を去る。
「おいで、チビ」
短い呼びかけに、私は顔を上げる。
視線が絡んで、兄は目を細めてゆっくりと笑みを刻んだ。
その瞬間、言葉ではなく直感で理解したことがあった。
横柄な素振りの中の強さ、視線の凶暴さ、薄笑いの中の残酷さ。
それらをこの男はすべて持っていて……そして女がどれだけそれに引き寄せられるかということを、私は今初めて自身で感じた。
「怖くねぇよ、な?」
おいでとまた優しく言われる。いつの間にか、周りには誰もいなくなっていた。
人がいたとしても、今の私は彼から目を逸らすことはできない。
兄が私を妹だと認識できないからこそわかった。この人は、美しい獣だと。
……そしてこれに私という小動物は喰われたいのだと、確かに願ってしまっていた。
「いい子だ」
ふらりと近づいて、促されるままに彼の膝へ横座りする。長く太い腕がすぐさま回されて、私は簡単に彼の胸の中に収まってしまった。
「冷えてるな、ちっこいの」
軽く肩を擦られて、私はコトンと彼の胸に体を預ける。耳を胸に押し当てたら規則正しい鼓動が聞こえてきて、私は静かに目を閉じていた。
喧しいほどの音楽もこの空間には溢れている。それなのに私の意識はすべて、今私を包み込んでいる人だけに向けられている。
「怖かったろ? 妙な連中ばっかいやがるんだから」
つんと鼻をつくアルコールの匂いがするのに、私はただその中にある懐かしさを追って頬を緩める。
温かい。ずっと昔は毎日のように感じてた兄ちゃんの匂いだと、こんな状況にあるのにひどく安堵した。
「……ふうん。よく似てる」
大きな手で顔を上向かせられて、私はじっと彼の顔を見つめる。
「俺んとこ来いよ、チビ。死ぬほど甘やかしてやるから。なぁ?」
その不遜で冷たい笑みを見て、私は引き寄せられるように彼の首に腕を回していた。
煙草とアルコールと、男特有の体の匂い。それにぎゅっとしがみついて、私は口元を歪める。
ここへ来た目的なんて忘れていた。ただ、今は流されてしまえと思う。
「拓磨、俺にも後で」
誰か近づいてきた気配がしたけど、兄はそれを側にあった椅子を蹴倒すだけで黙らせる。ガラスの何かが砕ける音だけが響いた。
「触るんじゃねぇよ」
私の頭を抱いてゆっくりと撫でながら、彼は低く笑う。
「これは俺のだ」
言葉が終わる前に、デニムスカートの中に手を突っ込まれた。同時に上着を簡単に剥がされて、Tシャツをお腹の上までたくし上げられる。
寝る前だからブラもつけてなかった。ごつごつした手が直接素肌に触れて、私はその初めての感覚に身を捩る。
「ちっせぇ胸」
笑いを含んだ声にも、不思議と嫌悪感はなかった。体をいいように弄ばれている、そのむずむずした変な感じも全然嫌じゃない。
私はくすぐったさに、無意識の内に彼の肌へ自分の体を押し付けながら思う。
「白いな。血管透けてて、食い破りてぇよ」
彼は感心したように私の首筋に顔を埋めながら呟く。
「匂いもあいつに似てる。いい拾いもんだな……」
手の動きはそのままに、顔を首からだんだんと上へと辿らせて、彼は笑いを含んだ声に呟く。
「変な所にケガしてんな。ピアスでも失敗したのか?」
ぺろっと猛獣が獲物の最初の味見をするように、彼は私の右耳の傷を舐めあげた。
兄が私を自分の彼女か何かに間違えてるなら、それでいいやと思うのだ。
彼と一緒にいたい、離れたくないと切望するなら、私はこのアンダーグラウンドに身を置かなくてはいけない。
……それだったらいっそ、最初に私の世界を壊すのは兄であってほしい。
ヤられちゃっても、もしかしたらボロボロに壊されてしまっても、他の人にされるくらいなら、ずっと彼の方がいい。
ねぇ、兄ちゃん。私がここにいてもいいという、証をちょうだい。どんな時だってどこへだって、私が頼めば連れて行ってくれたように。
そうしてくれたら私は兄ちゃんの風景に溶け込んで、もう二度と出しゃばらないと誓うから。
「なんであいつは、俺と全然違うのにこっちへ来ようとするんだろうな」
彼はふいに思い出したように言った。
うわ言のように、彼は耳元で呟く。
「もう十八だろ。気づけよ……」
どこか苦しげに、うめくように兄は続ける。
「誰より俺から、守ってきてやったのにな」
血が出るくらいにきつく、彼は私の耳たぶに噛み付く。
悲鳴を上げそうなその痛みに、私が眉を寄せた時だった。
「愛してるとでも言えば満足するのかよ。……沙世」
その名前を彼の口から聞いた時、私は急に目の前が晴れた気がした。
それは私の名前だ。私……彼の妹の名。
理解した途端、私は今自分の置かれている状況を初めて直視する。露出した胸、足の付け根まで外気にさらされ、弄ばれている現状を。
嫌だと、強く思った。
私は妹だったはずだ。女の枠には入っていない、たった一人の存在。
……それを兄は抱けるのだと知って、私は激痛に近い悲しみを覚えた。
「おい、どうした」
「……ぁ」
力を振り絞って、私は兄を引き剥がそうとおもいきり胸を叩く。痺れた腕と拳で、大人の男にしてみれば幼すぎる程の抵抗を。
「チビ」
違うよ、兄ちゃん。違う、違うんだ。
せり上がってくる息苦しさと共に、私は顔を歪める。
「兄ちゃん……やだ……ぁっ!」
壊さないで。私のたった一つの居場所を。
血を吐くような思いで、私は力の限り叫んだ。
兄の動きが止まって、ごくりと喉仏が上下する。
何か恐ろしいものを見たかのように、兄の表情から笑みが抜け落ちた。
「まさかお前、本物の……」
やっぱりと思った。
沙世と彼がうわ言のように呟いたのは、間違いなく私のことだとわかってしまった。
そう理解した瞬間、視界が反転したような思いがした。
ずっと信じていた。何より大切で、決して手放せなかったもの。
「沙世、お前なんでここに? 何かされたか? おい!」
激しく揺さぶられても、それが馴染んだ声でも、今の私には恐怖しか与えない。
……怖い。
頭の中でかろうじて保ってきた理性の糸が、あっけなく千切れた気がした。
「い、や……ううう!」
力の限り全身を動かして、私は浅黒い腕の檻から飛び出す。
「やだやだ! いやぁ!」
「待て、沙世!」
だけど瞬時に腰に巻きついてきた腕が、それ以上離れることを許さなかった。暴れる私をフロアに倒して、ぐいと肩を床へ押し付ける。
のしかかられて感じる体温に、私の頭は鋭い拒絶信号を発した。
「いやぁぁ!」
「落ち着け、違う! ここは一人じゃ危ねぇんだ!」
誰かは努めて私の混乱した神経を鎮めようとするけど、まるで耳に言葉として留まらない。
「しっかりしろ! 沙世、本当に何もしねぇから暴れんな!」
頭に触れようとするのを、意味を成さない声で拒否する。
がむしゃらに腕を振り回して足をバタつかせた。とにかく、私の上にいる恐ろしいものから逃げられるなら何でもよかった。
「沙世、沙世! 落ち着け、頼むから落ち着いてくれ……!」
懇願する声でさえ恐怖しか感じない。
おもいきり右手を地面に叩きつけた時、ガシャンという音と鋭い痛みがその手に走った。
「馬鹿! 何てことを!」
右手のじんじんした痛みと血の流れ出す感触に、ビンの破片が刺さったらしいとわかった。
それに気が逸れた誰かに、私は勢いよく手足を波打たせる。ドスっという鈍い衝撃が膝に走って、彼は少し仰け反った。
「ぐっ!」
短いうめき声と共に体を押さえつける力が一瞬緩んで、私は誰かの下から必死で這い出して立ち上がる。
「待て!」
彼はそれでも私の左足首を掴んできて、走り出そうとした私は引き戻される。
「お前、怪我……血、出て、傷が……。動くな、動くんじゃない!」
執念を叩きつけるような言葉に、一瞬脳が正常な動きを取り戻す。
止まってしまえと私の中の誰かが優しく宥める。彼はお前を心配してくれてる、守ってくれようとしてるんだと。
……だけど、走れと叫ぶ狂気の声の方が、ずっと大きかった。
「い、やだぁ……っ!」
力いっぱい、掴まれた左足を前に引いた。
靴が脱げて靴下があっけなく破れて、その下にあった足首を変な風に捻ってしまう。激痛が走ったけど、解放された喜びに比べれば些細なものだった。
「沙世……っ!」
血を吐くような呼び声を背に聞きながら私は駆け出した。地下を抜けて漆黒の空の下へ、灰色のコンクリートの世界へ。
痛くて、体のあらゆる部位が悲鳴を上げていた。擦り切れて露出した肘も膝も、破れたシャツから覗く肩も、破片が刺さった裸足の指や手の平、どこからも血を流しながら。
それでも走るのをやめなかった。喉が切れても息ができなくても、それでも立ち止まりたくなかった。
がむしゃらに、どこへ行きたいのか、何から逃げていたのか、それすら思い返すことができなくなった頃、ようやく立ち止まった。
気づけば明け方になっていた。私は心も体もボロボロのまま、天を仰ぐ。
私は、何か間違えてしまったんだ。本当にダメだとわかっていたのに、踏み込んじゃいけない所に突っ込んだ。兄でさえ、今までずっと私を入れないようにと、拒絶することで守ってくれていたのに。
ごめん、ごめん……。
心の中で兄に謝りながら、それでも引き返すことはできないまま歩き始めた。
怪我の手当てをした後一昼夜昏々と眠り続けて、私は兄に電話をかけた。
兄は言葉少なくそれを聞いて、約束すると告げた。
起きている実感がないまま目覚めて、私は街へ歩き出す。
なじんだ振動を耳ではなく全身で感じ取って、私は目を開く。
視界に映るのは白けた光に照らされた吊り広告と、鈍色に輝く窓枠の向こうに広がる漆黒の闇だった。
私以外誰もいない夜の車両。それを確認して、私はたった今まで自分がうたたねをしていたことに気づいた。
――東京駅に、迎えに来て。
どうして兄に、そんなことを電話したのかはわからない。
とにかく足早に、何かに憑かれたように駅に向かって、電車に乗った。
クリスマスイブの夜だからか、終電近くなのに車両はどこも満員だった。何度か乗り換えながら、私はぼんやりと壁際に立って外を眺めていた。
もしかしたら同じ駅を、何度も回ったかもしれない。そんな無意味なことをしていた。
特別なダイヤで回っていたらしく、途切れることなく列車は繋がっていた。どこまでも行きそうで、大して広くない街をぐるぐると走り続けた。
最初は人に押しつぶされそうに壁際で、その内に大きな駅で人がどっと流れ出てからはシートの近くで、やがて空いてきたのを見計らって席に腰を下ろした。
……後は、記憶にない。
列車は揺れる。濁った黄色の光で満ちた車両が、右へ左へ。
「何してんの」
ぼんやりと呟いても、聞いてくれる人はいない。
しばらく私は鞄を抱えたまま、座席に身を沈めたままうずくまっていた。何を考えるということもなく、鞄を手で弄ぶ。
何だか熱いなと気づいて顔を上げた。暖房が効きすぎているのかと思って辺りを見回すけど、それと同時に背筋をすっと指先で撫でるような悪寒を感じる。
体の外側は火にかけられたように熱いのに、体の芯にはべったりと氷を貼り付けているような感触だった。
どうも熱があるらしい。だから意味不明な電話をしたのだろう。私は脱力しながら思う。
私はその携帯を手の上に乗せて、また外をみつめる。
朦朧とする意識の中、私は呆けたように座り込んでいた。ただ人形のように列車の振動に揺られ続ける。
どれくらい時間が経っただろう。
私は岩のように固まっていた瞼をゆっくりとこじ開けて、漆黒の車窓を目に映した。
アナウンスが聞こえて、ブレーキが掛かる。どうやらずいぶんと長い間走っていたらしいこの列車も、そろそろ止まる時が来たようだ。
列車がゆっくりとスピードを落としていく。人の姿もまばらな、そんな駅へと入っていく。
「あ……」
その停車の動きの中で、私は喉を引きつらせていた。
駅名が書かれたプレートの下で、柱にもたれながら腕組みをして立っていた誰かが、列車の中にいる私を確かに目で捉える。
スローモーションのように、私はその光景に目を見開いた。
甲高い音を上げて、ブレーキが掛かる。それで一瞬見えたはずのその人の姿は視界から外れて、列車は数十メートル進んだところで止まる。
『東京ー、東京ー』
けだるいアナウンスが、車内に反響する。
私はまだ座っていた。立ち上がることができなかった。
ちょうどホームの柱に立つ時計が、深夜零時を指した時だった。
その人が静かに列車の出口に現れる。
私は信じられないものを見る思いで、呆然と出口に立つ彼をみつめた。
彼は無言でそこに立っていた。中に踏み込むことはなく、ただその灰色の瞳でじっと私をみつめる。
「沙世」
その呼び方は、たった一人だけのもの。
「降りてこい。迎えに来たから」
そう言えるのは、私にとって唯一の存在。
兄は身動き一つ取らなかった。表情を変えることも、中へ踏み込んでくることもなく、ただ入り口で私を待つ。
「降りるしかねぇんだよ。ここは終点だ」
ふわっと彼の口から白い息が出た。
……無意識に、私は席を立っていた。
ふと駅名のプレートを眺める。そこには「東京」と、シンプルなレタリングで書かれている。
東京駅は、過去たった一度だけ来た。
私が初めて上京してきた時。やはり、兄が迎えにきてくれた駅。
……私の一年の、始まりの場所だ。
数メートルの距離が、永遠のように感じた。私は、揺れてもいないのによろめきながら、黒いコートの方へと歩み寄る。つまずきそうになりながら、それでも近づく。
兄は趣味が悪いし、品もないし。そのくせ何でもできて、私が必死で努力したことを平気で飛び越していく。
……そして家族としての立場を崩して、私を抱こうとして。
それってだめなことじゃん? そう、彼を責めたい気持ちに駆られる。
「……にいちゃん」
それでも私は、気づけば電車を降りて彼の胸にすがり付いていた。
苦いタバコの匂いと微かな汗の匂いが染み付いたコートに頬をすり寄せながら、私は力いっぱい彼の服を両手で掴む。
熱のせいだろうか。それとも、寒さのせいなのか。
私の精一杯の力で、とにかく彼にしがみついた。
「沙世」
囁くような小さな声が、頭上で響いた。
ぐいとコートの内側に押し込められる。それだけで、私の体は簡単に彼の腕の中に取り込まれてしまっていた。
彼の匂いと温もりが直に伝わってくる。それに、私は涙がぼろぼろと零れ落ちてきた。
「にいちゃ……私」
何、泣いてるんだろう。悲しいわけじゃないのに、どうして。
「かわいく、ないよね……馬鹿だよね……こんな妹、ほしく、なかったよね……」
つまらないことを、自虐的なことを、どうして口にしているんだろう。
兄にいったい、何を言ってほしいと願っているんだろう。
「私なんか……」
「お前を可愛いなんて思ったことは、俺は一度もねぇよ」
兄は私に言葉を続けさせなかった。
ぐずぐずと泣きじゃくる私を、彼は抱えるようにして連れて行く。そのまま静かにベンチに腰掛けて、けれど私は変わらず彼の腕の中にいた。
「お前と初めて会ったときを、俺は覚えちゃいないが」
髪に兄の顎が触れる。硬くて、それは温かく私の頭の上に置かれていた。
「けど、チビだったらしい。いつも入院ばかりして、泣き虫で、弱かったと。それを俺はせっせと世話を焼いていたんだと」
親父に聞いたんだと、兄は言葉を続ける。
「いくらお前を可愛がってたと親父たちが言っても、知るわけねぇだろ、そんなガキの頃の話。いくら毎日のように病院に様子を見に行っていたと教えられても、ただの好奇心じゃないと誰が言い切れる?」
私を抱え込む腕に力は入っていない。けれど、私はそこから抜け出ることができるとは到底思えなかった。
「小汚いガキじゃねぇか。しかもすぐにでも死にそうな、握ったら潰れそうな生き物なんて、誰が好きになれるか」
兄はつまらなそうに、けれど確かな意思を持って言葉を紡ぐ。
「可愛くも、何かの役にたつわけでもない。面倒なだけの荷物だよ、お前は」
頑丈な檻のような、そんな両腕で彼は私の全身をすっぽりと包んでしまう。
「だから、嫌いだよ。大っ嫌いな……いつまでだって、ただの妹だ」
きゅっと私は彼のコートの端を掴む。小さな子どもが、置き去りにされないよう精一杯しがみつくように。
「……ありがとう」
兄がくれたそれは、きっとどんな愛の言葉より甘い嘘。
ふいに体を離して、兄は膝の上の私を見下ろす。みっともなく目と鼻を真っ赤にして、まだぐすぐすと鼻をすすっている不細工な私を。
兄はそれに目を細めて、懐かしむような素振りを見せた。光もほとんど失われた夜の中で、その灰色の瞳は優しかった。
「沙世。実家に帰れ」
兄はさとすように私に告げて、私を背負っていた。
「大嫌いなもんはここに全部捨てていけ。お前の大好きな世界に帰ればいい」
ホームの隅から少しずつ、人の声のする方へと兄は歩き出す。私はその背中にぐったりと張り付いて、熱さと寒さの中をさまよっていた。
「……うん。そうするよ、兄ちゃん」
それが、今から五年前の話。
私は兄に言われた通り、都会の生活を捨てて故郷に帰った。実家の両親と懐かしい友達に囲まれながら、穏やかな生活を送っている。
私はその後、東京で働く兄とは電話で話すだけになった。
兄は何をどうしたのか、今は東京で弁護士をしているらしい。多少危ない仕事もしているらしいが、時々聞く兄の声は明るい。
今も冗談交じりに、二人であの日のことを話す。ぼろぼろ泣いていた私を、兄は可笑しそうにからかう。私は、兄ちゃんだってやけに真面目なこと言ってたじゃんと文句をつける。
私たちは、あの日の東京駅で確かに離れてしまったけれど。
今も「大嫌い」な兄妹同士として、電話越しに笑い合っている。