高校3年生の春。始業式。
 朝、家でクラリネットを磨いていたら遅くなってしまった。
 「行ってきまーす」
 クラリネットを肩にかけ、急いで家を出て走っていった。
 あー、もうやばい!
 桜が散る道を勢いよく駆け抜ける。
 あ、うちの学校の人だ。この人も意外と時間やばいよね。まあわたしよりはゆっくりでもいいんだけど。
 通り過ぎようとした時、「ドンッ」
 あ、しまった。
 急いで信号を渡ろうとしたあまり、肩にぶつかってしまった。
 「ごめんなさい!!大丈夫ですか?!」
 咄嗟に謝った。
 それと同時に男の子が振り返った。
 初めて見る人だなー。
 黒く短く切られた髪に、吸い込まれるような綺麗な黒色の瞳。桜色の唇。その上背が高い。
 あ、赤になっちゃう!
 わたしはその人の手を引いて走った。
 もう急がないと!時間がない!
 その後はもうそのことしか考えられなかった。


 「白川絵橙(しらかわえりと)」
 新しい担任の浜坂先生がそう呼んだ。
 あれ......?聞き間違えじゃないよね......?
 しらかわえりと、しらかわえりと。
 返事がした方を見ると、今日の朝、ぶつかってしまった男の子がいた。
 一緒のクラスだったんだ!
 自分がどのクラスかに夢中で気づかなかった。
 それであの白川くんがあの絵を描いていたんだ......!
 初めて顔と名前が一致したあなたを見た。
 一気に胸が高まった。
 

 そして始業式から2週間が経とうとしていた。
 まだ彼とは話せていなかった。
 教室だと恥ずかしいし、突然絵を描いている時に話しかけるのも恥ずかしいと思って躊躇って(ためらって)いた。
 話せる日はいつ来るのだろう。

 放課後。
 クラリネットを片手にいつものようにあの絵を探した。
 あ、あった!
 今日も素敵な絵だな......。少ない色でこんなにいい絵が描けるなんて凄すぎる。
 わたしは色を見た。そして絵から込み上げてくる風景。
 自然と自分の中で音が浮かんでくる。
 〈シ♭ファミ♭レーレミ♭シ♭ーシ♭ファミ♭レーレミ♭ファソー〉
 この絵を見ると、自然と色から音が浮かんでくる。
 この瞬間が1番楽しかった。
 「あの......何か用?」
 振り向くと、そこにはあなたがいた。
 初めてちゃんと目を合わせた。
 まさか、話しかけられるなんて思ってもみなかった。この緊張を精一杯隠した。
 絵について初めて話せたこの日。
 絵について褒めると、桜色があふれる笑顔であなたは笑っていた。
 わたしの中で無音のシャッターがきられた。
 この笑顔を忘れたくないって思ったの。
 この時から絵橙の絵に音を重ねたいって思った。
 そう。わたしが絵橙と出会ったのはこの時でも、始業式の朝でもない。
 もうずっと前から、あなたの絵を見た時から絵橙に出会っていたんだよ。
 もう心を奪われていたのかもしれない。
 わたしを救ってくれた。
 あなたの絵と出会ったその日から、わたしの群青色の世界は色づけられていった。
 音を褒めてくれたこと。
 一緒に夕焼けの空を見たこと。
 一緒に海岸で話したこと。
 一緒に花火大会に行ったこと。
 かき氷を渡された時、一瞬指が触れ合ったこと。
 平気なフリをしていたけれど、実は緊張していたの。
 夕焼けを見に行く約束をした時に思わず「好き」と言ってしまったこと。
 不意に出る桜色があふれる笑顔を見たこと。
 そして絵橙の群青色の意味を教えてくれたこと。
 絵橙と出会って、たくさんの世界を知った。
 わたしにたくさんの色を与えてくれた。
 個展にはたくさんの思い出の絵があった。
 「夜明けの空」「青い空」「夕焼けの空」「花火」
 「海」「ハナマスの花」「桜」
 あの頃とは違った色。
 豊かで綺麗な色。
 ここまで努力してきた跡が見えるような気がした。
 わたしはあなたが色づける色が好き。
 あなたの色づけた絵が好き。
 わたしの音楽もちゃんと残していてくれた。
 これからはわたしがあなたに音楽を届ける番。
 2人の色と音は消えない限りこれからもずっと続いていく。もし、消えてしまうようなことがあったらわたしがあなたを色づけるから。
 約束。

 群青色はあなたと出会うための色だったらいいなと思った。
 ーこれからも音を1番にあなたに届けたい。
 群青の世界を色づけたあなたへ。