9月27日月曜日の放課後。
そう、彼女との約束の日。
彼女と会ってきたどの日よりも特別な感じがする。
俺だけだろうか。
「絵橙またな!」
「うんまた明日」
俺がそう言った頃には、楓はもう教室から出て行っていた。
いつもながら支度も足も速いな。
俺がまだ自分の席で帰る支度をしていると、後ろの方では夜瀬さんが友達と話していた。
チラッと夜瀬さんの方を見ると、「ごめん、待ってて」と言うような眉をキュっと寄せた顔をしていた。俺は軽く頷いて、何食わぬ顔で座って待っていた。
「あれ、絵橙帰んないの?」
後ろを振り向くと、山本がいた。
「あー、ちょっと今日やることあって。」
さすがに夜瀬さんを待ってるだなんて言えない。
「ふーん、そっか!大変だな!じゃ、また明日な!」
「うん、また明日」
山本は何にも気にしていない様子で帰っていった。
楓と3人でしか話したことがなかったからちょっと驚いたけど、山本は意外と気さくな感じでよかった。
「じゃあねー楽空!」
「また明日ねー」
「うん!またね!バイバーイ」
後ろの方では、夜瀬さんが友達とさよならする声がしていた。
彼女は急いで支度をすると、
「白川くん行こう!」
彼女がいつものような笑顔で声を掛けた。
「うん、それ大丈夫?」
「え?」
彼女の鞄から教科書やノート、筆箱、ジャージなどが無造作に飛び出していた。
彼女は目を丸くして「フフッ」と笑った。
「急いでたから気づかなかった。恥ずかしい......ちょっと綺麗にしまうね」
彼女は慌てた様子で俺の机の上に鞄を置いて、中身を整理していた。
彼女はしっかりしていると思っていたが、意外にも抜けているというのか......そのような所もあって俺は思わず笑みがこぼれた。
「白川くん今笑ってたね」
「......ううん、笑ってないよ」
「嘘だー」
「夜瀬さん行くよ!」
こんな風に遠回しに「笑ってたよね?」なんて聞くのは夜瀬さんくらいだ。恥ずかしくて俺はそそくさと歩き出した。
「待ってよー!」
彼女は後ろから笑って追いかけてきた。
そんなやり取りに鼻の下が伸びた。
外に出ると、まだ青い空が広がっていた。
その隣で彼女も空を見上げていた。
「まだ青い空だね、ちょっと早かったかな」
俺が申し訳なさそうに言うと、
「座って話してれば夕方になっちゃうから大丈夫だよ!今日はどんな空が見えるんだろう〜」
彼女はくるりと回って空を見渡した。いつも通りだった。
俺はあの「好き」というのを少しばかり気にしていた。
でも今日はそれよりも彼女に、俺の「自分の色」について話したい。
この透き通るような青い空に、俺はやっと覚悟を決めた。
まだ青い空は広がっていたが、そろそろ夕焼けに近いような空に見えた。
「白川くん!またあの階段のところでいいかな?」
彼女が広い階段を指をさして聞いた。
「うん、ここなら綺麗に見えるだろうし、そうしよう」
「うん!」
彼女は、飛び跳ねるような軽い足取りで俺よりも先に階段へと座った。
彼女の隣に座る。
今日は前のベンチの時よりも近くに座った。
「もうちょっとかなー、気づかないうちに染まっていくから見逃さないようにしないとだね!」
彼女はとびきりの笑顔で言った。
すると突然、優しい眼差しを俺に向けた。
「ねえ、白川くん。どうして夕焼けの空一緒に見ようって誘ってくれたの?」
彼女は問いかけるように言った。
彼女の瞳には俺が映っていた。誰かの瞳に映ることがこんなにも胸を打つことだなんて知らなかった。
「前一緒に見た時は、夜瀬さんを傷つけてしまって全然一緒に見れなかったからまた一緒に見たいなって思ったんだ」
「わたしも、もう一度白川くんと見ることができて嬉しい」
彼女の柔らかな笑顔が自然と俺を笑顔にさせる。
もう、俺は逃げない。本当の自分を伝えたい。
「......夜瀬さん!俺、夜瀬さんに伝えたいことがあって!」
緊張して少しだけ大きな声になってしまった。
恥ずかしい。彼女の方を見る。
「なに?」
彼女が首を軽く傾げ、微笑みながらそう聞いた。
「俺さ......」
自分の心臓の鼓動が速くなり、キューっと締め付けられる。
俺は一呼吸置いた。
海の方を見ると、もう太陽が低くなり始めていた。
空の色もさっきとは違う。
「白川くん」彼女が俺の名前を呼んだ。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいよ」
彼女の優しさが俺の心を落ち着かせてくれた。
まるで何かを待っていてくれたように。
俺は彼女の方に体を向けた。そして、
「俺さ......色覚障害なんだ。......赤色と橙色が分からない。......だから今見ている夕焼けの空が俺には綺麗なのかも分からない。でも......夕焼けの空をもう一度一緒に夜瀬さんと見たかったんだ。今まで隠していてごめん、言えなくてごめん......」
俺は彼女の顔を見ることができず、強く握りしめている自分の手を見つめた。
軽く震えているのが分かった。
一緒に見ていた景色が、一緒ではなかったことに彼女はどう思っただろうか......。
「白川くん」
彼女の優しさに溢れた声が近くで聞こえた。
俺は顔を向けることができず、耳だけを傾けた。
「わたしね白川くんが話してくれるのを待ってた。だから今ここで話してくれて嬉しい」
え......待ってた......?なん......で......。嬉しいのはどうして......?
「わたしちょっと気づいたっていうか、そうなのかなって思ってた瞬間があって。花火大会の日、いちごのかき氷を見て白川くんコーラって言ってた時、そんな間違えするのかなーって思ったの。あと、海で花火を見てて大きな花火が打ち上がった時、白川くんは白い大きな花火って言ってたけど、実はその隣に大きい赤い花火も上がってたの。......赤い花火もあったよって言おうとしたけど、白川くんの顔見たら言えなくて......わたしもなんかごめんなさい」
......彼女は気づいてたのか。コーラと間違えた時も、赤い花火が上がっても、彼女は俺を傷つけないようにと言わないようにしてくれていた。
そう思うと、青い海がぼやけて見えた。
俺は今、彼女の優しさに触れた。俺が思っていたよりも、彼女は穏やかな波の音のようにずっと見守ってくれていた。
「......気にしなくていいよ。そりゃ気づくよなあんな間違え。......あとさ......俺、本当は群青色別に好きじゃないんだ。色覚障害を隠すために俺は自分の世界の色を群青色へと塗り替えたんだ。だから俺の絵は嘘の色なんだ。自分は何色が好きかなんて分からない」
自分の中に塞ぎ込んでいた感情が一気に流れ出していく。
「誰にも言えないことがあって......俺はずっと我慢してきたんだけど......本当は......俺......赤色や橙色を使って絵を描きたいんだ。夜瀬さんと出会ってから夜瀬さんの奏でる音を聞いたり、夕焼けの空を見る度に、そして絵を褒めてくれる度にそんな思いがどんどん大きくなっていったんだ。でも俺......使うのが怖くて......使ってみたらもう......俺の絵なんて誰も見てくれないかもしれない......」
自分の脆さ(もろさ)に思わず歯を食いしばる。
俺は今どんな顔をしているのだろう。
彼女は俺のこんな弱さを知ってどう思っただろうか。俺の絵なんてもう見たくなくなっただろうか...あんな群青色だらけの絵を...。
「ねえ白川くん」彼女は遠くを見つめながら名前を呼んだ。
「この世界にはさ、目が良い人や悪い人。メガネやコンタクトを付けている人。たくさんの見え方があると思うの。だから、自分と全く同じ世界が見えてる人なんてこの世界にはいないんじゃないかな。青色といっても数えきれないほどの色があるし、自分が青って思うのが人には緑に見えてたり......。何色かを決めるのは自分だと思うの」
何色かを決めるのは自分......なのかな。こんな俺が色を決めて描いてもいい......のかな。
「わたしもさ、色を見ると音が浮かんでくるって言ったけど、わたしと同じような人がいてもその人とは同じ音とは限らないと思うんだ......だからね!」
その時、彼女が俺の手を握った。力が自然と抜けていく。
彼女を見ると、その瞳がうるうるしているのが分かった。
「自分の絵なんだから自分が見えるように、描きたいように色づけていけばいいんだよ!赤色も橙色も、自分が思うように使って、表現していいんだよ!わたしは白川くんの描く絵は全部好きだから!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の右目から涙が溢れ、必然的に左目からも涙が溢れた。頬に伝うと彼女の手の甲に落ちた。
そして彼女の言葉に応える。
「ごめん......ありがとう。......初めて誰かに色を使いたいって言った。なんか嬉しいのかほっとしたのか分からないけど、涙が出ちゃったよ。......かっこ悪いよね」
こんな姿かっこ悪いに決まってる。
すると、彼女の握っている手が強くなった。
「そんなことないよ!白川くんはもっと泣いてもいいんだし、人に自分の思いを伝えてもいいんだよ。それは言葉でもいいし、絵だって良いと思う。自分がしたいようにしていいんだよ」
彼女の言葉が、心に染み渡っていく。
俺でもいいんだ。自分の好きなように好きな色を絵に表現しても良いんだ。
彼女の言葉が、俺の背中を前へ前へと押していく。
「夜瀬さんありがとう。誰かに言うの怖いし、使うのも怖いと思ってた。でも......夜瀬さんの言葉を聞いて、自分がしたいように色を使って表現してもいいんだなって思えた。......ありがとう。あと、俺の絵を見つけてくれてありがとう」
俺はもう片方の手で彼女の手を覆った。
彼女が俺の絵を見つけてくれて、あの日出会うことができたから、こうやって自分の見える世界について言うことができた。色を使うことを「いいんだよ」と肯定してくれた。彼女がいたから俺はこれから色を探すことができる。
だから俺は、これから描く絵を1番に彼女に見せたいと心の底から思った。
描く絵はもう決まっている。
俺は、海と空を見つめた。
俺から見えるこの景色を色づけたい。彼女が1番好きな空。
夕焼けの空ー。
「こちらこそだよ白川くん、白川くんの絵と出会わせてくれてありがとう!わたしは白川くんの絵に救われたんだから!」
「......こちらこそ?え......?」
隣を見ると、彼女は光に照らされ、涙を流しながら笑っていた。
その涙と笑顔を纏った顔は、輝いて見えた。
俺の世界に色と希望を与えてくれた、たった1人の人。
本当の色なんてものはなくて、自分の色が本当の色として存在するのかもしれない。
「俺、今度この夕焼けの空を描くよ」
俺はそう言ってスマホのシャッターを切った。
空の写真を撮ったのは青い空以外初めてだった。
かすかに手が震える。
「じゃあわたしは、前一緒に見た花火と、この夕焼けの空に音をつけるよ!また聞いてくれる?」
「もちろんだよ、俺の描く絵も見て欲しい」
そう言った時、彼女はそっともう片方の手を、俺の手の上に置いた。手が重なり合う。
「約束だよ!」
「うん、約束」
そして、重なり合った手から右手だけを出す。
俺の小指と彼女の小指を重ねる。
彼女との距離はこんなに近かっただろうか。
彼女の綺麗な顔が、まるでお花が咲いていくかのように笑顔が広がった。
俺にはそれが華やかなピンク色に思えた。
今日、彼女と見た空は紅掛空色(べにかけそらいろ)の淡い色ではなく、薄暗い瞑色(めいしょく)でもない。
きっと、赤色と橙色が空一面に彩られた茜色だと思った。