誰かが走ってくる音が聞こえた。
 ここに来るのは1人しかいない。
 俺は立ち上がった。
 「夜瀬さん!」
 俺は久しぶりに彼女の名前を呼んだ。


 「白川くん......なんでここにいるの?」
 夜瀬さんは青いベンチの近くに着くと、ハアハアと息を漏らしながら不思議そうな顔をして聞いた。
 「桜さんに、夜瀬さんがここに来てもらうよう俺が頼んだんだ。忙しいのにごめん」
 「いいよ全然、......ってじゃあ白川くんさっきの演奏会見に来てたってこと?」
 彼女は驚いた顔をしてそう聞いた。
 「そう、桜さんからもらったんだ。......あ、座って。あとこれ水」
 「え、あ、ありがとう」
 彼女はおどおどしながら座り、水を飲んだ。
 俺も彼女の隣に座った。
 すぐ横に座るというのは悪い気がして、ちょっとだけ離れて座った。
 彼女を見ると、ゴクゴクと喉を鳴らしながら水を飲んでいた。彼女の横目と目が合ってしまう。
 急いで目線を逸らした。
 「ごめんね、女の子らしくなくて。汗かいてて、それに忙しくて飲む時間なかったもんで」
 彼女は申し訳なさそうな声でそう言って、ペットボトルのフタを手に取る。
 「あの......さ」
 「うん」
 彼女はゆっくりと頷いた。
 「今日の演奏とってもよかった。初めてこういう演奏会に行ったんだけど、吹奏楽部って演奏するだけじゃなくて、司会とか全体の流れとか、夜瀬さんのソロとか......色んなことを聞いてくれる人のために一生懸命練習して本番に臨んでるんだなって思った。......それで......さ......この前はひどいこと言って本当にごめん。本当はあんなこと思っていないのに俺が変なせいで......。夜瀬さんがたくさん努力してるのは知ってるし、今日もそれを実感した。見えないところで努力していたんだと思って」
 自分が弱いせいで、勇気がないせいで、本当に情けない。彼女のことを全然分かってなかった。
 隣を見ると、彼女は首を横に振っていた。
 「ううん、そんなことないよ。今日は来てくれてありがとう。白川くんが少しでも吹奏楽について知ってくれてとっても嬉しい。......わたしこそ、この前は白川くんの絵を傷つけるようなことを言ってごめなさい。白川くんのあの青色を使う絵には何か特別な思いがあるんだよね......わたし分かってるから」
 彼女は俺の方を向いて少し微笑んでそう言った。
 特別な思いなんてない。
 ただ単に、誰にも言えない思いを隠しているだけ。
 いつか彼女に話せる日は来るのだろうか。
 「そのことなんだけど、いつかはまだ分からなくて......でもきっとそのことについて話したいと思うんだ。待っていてくれる......?」
 半信半疑でそう聞いた。
 こんな唐突な話しに彼女はどう思ったんだろうか。
 「うん、大丈夫。待ってるよ」
 彼女は優しく笑ってそう言った。
 その言葉が何よりも嬉しかった。
 そして俺には今日、彼女の演奏を聞いて言いたいことがあった。
 「あの.......さ......」
 「ん?」
 彼女は軽く首を傾げ、話の続きを待っていた。
 「夜瀬さんのソロ、とっても綺麗だった。......夜瀬さんが誰よりも輝いて見えた。夜瀬さんの音は人をひきつける魅力がある...そう思ったんだけど」
 彼女の方を向くと瞳が光っていた。少し涙目になっていた。
 「え......」
 俺はそんな彼女を見て戸惑った。
 今まで吹奏楽部について全く知らなかった俺がなにを語ってるんだ。彼女もそう思っているに違いない。
 「ごめん、音楽のこと素人で何も知らないのにこんなこと言って本当ごめ......えっ」
 隣を見ると彼女の右目からポロッと涙が落ち、頬を伝った。
 その涙は無色透明で綺麗だった。
 いや、見惚れている場合じゃない。
 また泣かせてしまった。
 「夜瀬さん大丈夫?」
 彼女は「うん......大丈夫」と呟き、ゆっくりと頷いた。そして頬の涙を拭った。
 「ごめん、つい嬉しくて。こんなにも音について褒められたことなかったから。ちゃんと届いてるんだなって思ったの。たくさん練習してよかったな。ありがとう、白川くん」
 名前が呼ばれた瞬間、彼女は俺の方を見て涙ぐんで笑った。
 「ねえ白川くん、右目から出る涙の意味って知ってる?」
 右目から出る涙......。
 左目と何が違うんだ?
 「涙って何か感情が高まった時に出るものだから、左右で何か意味は違うの?」
 俺は彼女にそう聞いた。すると、
 「右目から出る涙はね、嬉し涙なの。......だからわたしは今、とっても嬉しいの!」
 彼女は俺の方を向いて、笑顔で言った。
 その笑顔は俺の目に映る何よりも美しかった。

 「ごめん、わたしそろそろ行かないとかも」
 そうだった、彼女はここに来てくれているが部活中だ。学校に帰るのが16:00前後と桜さんは言っていた。
 今何時だ?
 スマホで時間を確認する。
 「15:53」
 結構ギリギリの時間だった。
 「ごめんね、忙しいのに。来てくれてありがとう。またこんな風に話せてよかった」
 「うん、わたしも......あっ」
 その時、ポツっと空から雨粒が落ちてきた。
 晴れていて雲ひとつない青い空に雨。
 不思議だ。
 「白川くん、天泣(てんきゅう)って知ってる?」
 「てんきゅう......?ちょっと聞いたことあるような、ないような......。ごめん、そもそも漢字が分かんないかも......」
 フフッと彼女は穏やかに笑った。
 「天気の天に、泣くで天泣。狐の嫁入りって言った方が一般的かな?雲ひとつない晴れた空から雨が降ってくる。天気が泣いている。なんか晴れてるのに雨が降るってわたしみたいって思っちゃった!」
 彼女は空を見上げた。
 雨がパラパラと降っているせいか、目をキラキラさせながら言った。
 まだ弱く優しい雨だった。
 そんな彼女の横顔に俺は見惚れていた。
 「わたしは嬉しいのに泣いてる。空も不思議だけど、人間も不思議だよね。世の中は不思議で面白くて、楽しいことに溢れてる。だからわたしは色んなものに興味があるんだよね!......あっ!じゃあわたし行くね!今日は演奏会来てくれてありがとう!」
 彼女はスマホで時間を確認するとそう言って、両脇にハナマスの花が咲き乱れている道を小走りで通った。

 そのハナマスの花は多分濃いピンク、そして白。
 彼女がまだ通っているうちにスマホでその風景を撮った。
 映画のワンシーンのようで、美しい以外の言葉が見つからなかった。

 「夜瀬さん!」
 俺はいつも帰り際になにか言いたくなってしまう。
 彼女は立ち止まって長い髪を揺らして振り返った。
 目が合う。
 「今日はありがとう!夏休みの間にまた連絡してもいいかな?」
 俺は夏休みに、また彼女に会いたいと思ってしまった。
 「うん!!」
 彼女はそう返事をしながら両手で大きな丸をつくった。そして両手で手を振って、会場へと走っていった。
 あー、よかった......。
 彼女と話すことができて何よりも嬉しかった。

 彼女が興味津々で、いつも何かに目を向けて考えている理由が分かった気がする。興味と好きって同じような感じに見えていたけれど、なんとなく俺には違うように見えた。
 興味は周りから、好きは自分から。
 彼女からまた新しいことを教えてもらった。
 彼女の奏でる音が、俺の世界を広げ、かすかに色づけてくれそうな気がした。

 その後俺は、晴れていて雲ひとつない青い空から柔らかな雨が降っている中を勢いよく走って帰った。