すると彼女は、何かを思い出したかのように振り向いて時計を見た。
「やばいもうこんな時間だ!行かないと!じゃあ、またね!白川くん!」
彼女はクラリネットを抱えて、急いで教室を出て行った。
教室が水を打ったように静まり返った。
「ふうーーー!」
彼女がこの教室からいなくなった後、力が抜けたような息を響かせながらゆっくりと椅子に腰掛けた。
自分の絵を見つめて先ほどのことを思い出す。
今の俺は普通に話せていただろうか。
バレてない......よな。
きっと大丈夫......だ。
話を合わせたからたぶん大丈夫。
顔を上げ、時計を見た。
あ、俺はそろそろ帰んないとか。
今の出来事を、頭の中で幾度となく反芻(はんすう)しながら片付けを始めた。
すると後ろから誰かが歩いてくるような音が聞こえた。
「絵橙くん、今日は1人で描いてたのかい?」
いきなり声を掛けられ、後ろを振り返った。
そこにはおじいちゃん先生こと、顧問の大川先生がいた。
「はい、今日は楓は塾だったんでここで描いてました」
大川先生はゆっくりと歩き、俺の隣に来て俺の描いた絵を見た。真剣な眼差しを絵に向ける。
もちろん大川先生も俺が色覚障害であることを知っている。いや、知っているというよりかは理解してくれている、といった方が正しいのかもしれない。
俺は講評会の時と同じくらいに緊張した。
いわゆる、芸術に富んだ人からアドバイスを受けるということは嬉しいが、内心は何を言われるかでドキドキしていた。
少しの沈黙の後、大川先生は口を開いた。
「これは今日の空を描いていたのかい?」
落ち着いた口調でそう言った。
「はい、そうです」
よく分かったな。やっぱりさすがだ。
そして大川先生は、絵を見つめながら呟いた。
「よく描けているよ、絵橙くんの見てる世界は素晴らしいもんだ」
「ありがとうございます!」
俺は思わず口角を上げて拳を強く握りしめ、小さくガッツポーズをした。
よっしゃ!褒められた!
集中して描いた甲斐があった。
先生に褒めれるのはやはり嬉しいのだ。
「でもねえ」
「ん?」
大川先生は自分の白い顎髭を触りながら言った。
なんだ?
どこか違うところでもあったかな。
すると、大川先生は俺の方を向いた。
「絵橙くんならもっと描けるよ」
大川先生はそう言って、俺の肩に手を乗せた。
「もっと頑張ります!」
俺は決まり文句のようにそう言った。
大川先生は、俺の肩にのせた手に着けている腕時計を見た。
「お!会議の時間だ。まずいまずい、じゃあ気をつけて帰るんだよ」
「はい、ありがとうございます」
大川先生は腕時計をもう一度確認して、そそくさと教室を出て行った。
『絵橙くんならもっと描けるよ』
この言葉は今に限らず、講評会でもたまに同じことを俺に言う。
もっと描ける、ってなんだ?
大川先生の言ったことを頭の中で何度も問いかけたが、いつものように一向に答えは出なかった。
この時の俺は、先生がこの言葉を言い続けてくれていた意味をまだ知らなかった。
家に帰ってからも、俺の頭の中は今日の彼女との出来事でいっぱいだった。
もうそこまで話しかけてはこないだろう。
今日はたまたまだ。
うん...もう大丈夫だ。
そんなことを寝る前にも何回も何回も考えた。
今日は寝つくのに時間がかかった。
ふとカーテンを開けると、そこには何もかも飲み込まれそうな漆黒の空が広がっていた。