レオンを保護した翌日。
 予想外の事態が起こり、私の頭は混乱していた。
 というのも──レオンが紙とペンを使って、自分の意思をはっきりと伝えてきたからだ。
 最初は、何が起こっているのか理解できなかった。突然、目の前にいる犬が器用にペンをくわえて紙に文字を書き始めたのだから無理もないだろう。
 だが、しばらくすると次第に状況が飲み込めてきた。
 そして、冷静になると同時にふと頭にある考えがよぎったのだ。

「……ねえ、レオン。もしかして、あなたも獣化の病に罹った人間なの?」

 そう尋ねると、レオンは再びペンをくわえて文字を書き始めた。

『病気かどうかはわからないけど、僕は人間だよ。ただ、気づいたらこの姿になっていたんだ』

 紙には、確かにそう書かれていた。しかし、彼が獣化の病を患っている人間だとすると腑に落ちない部分がある。
 ビクトリアがレオンを邸で飼い始めたのは、今から三年前。その頃には既に彼は犬の姿をしていたから、少なくとも三年前に病気を発症していたことになる。

(どうして、そんなに早くから発症していたのかしら……?)

 ウルス領で奇病が流行りだしたのは、二年前だと聞いている。そうなると、どう考えても時期にずれがあるわけで……。

「あなたは、元々ウルス領に住んでいたの?」

 続けて、そう尋ねてみる。

『そうだよ。でも……ある日、悪い人に捕まってオークションに賭けられてしまったんだ』

「オークションに……?」

 そう言えば、ビクトリアには収集癖があった。その証拠に、昔から様々な絵画や骨董品などを集めており、その散財ぶりにはいつも驚かされていた。
 だから、彼女が競売場に出入りしていたとしても何ら不思議ではない。

『人語を理解し、文字まで書ける珍しい犬……っていう謳い文句でオークションに賭けられたんだよ。その時、僕を競り落としたのがビクトリアだったってわけ』

「なるほどね……。ねえ、レオン。あなたがその病気を発症した当初のことを詳しく教えてくれない? もしかしたら、治療の手掛かりになるかもしれないから」

『三年前、僕は商家を営む夫婦の元で下働きをしていたんだ。でもある日、体調が優れず寝込んでしまった。そしたら、急に体が熱くなってきて……気づいたら、この姿になっていたんだよ』

(ジェイド様が言っていた症状と同じだ……。確か、風邪に似た症状から始まるのよね)

「それから、どうなったの?」

『当てもなく、街をさまよっていたよ。ただ吠えることしかできなかったから、雇い主にも言葉が伝わらなかったし』

「そう……大変だったのね」

 レオンは淡々と事実だけを書いているが、きっと当時は相当苦労したのだろう。
 そう思うと、胸が締め付けられる思いだった。

『そこで思いついたのが、紙とペンを使って事情を説明して助けを求めることだったんだ』

 レオン曰く、何とか紙とペンを手に入れてたまたま通りかかった人間の前で文字を書いて助けを求めたのだという。

『でも、助けを求めた相手が悪かった。それからは、さっき言った通りだよ』

「つまり、その人に目をつけられてオークションに賭けられたってことね」

 そう尋ねると、レオンはこくんと頷く。
 とりあえず、大体の経緯は把握できた。とはいえ、やはり腑に落ちない点はいくつもある。

(どうして、レオンは言葉を話せないのかしら……)

 私が知っている人──ジェイドやアランやサラは、獣の姿になっても言葉を発することが可能だ。
 だが、レオンは一切言葉を発することができない。

(もしかしたら、人によって症状の出方が違うのかな……)

 現に、ジェイド、アラン、サラの三人はそれぞれ症状の重さが違う。
 レオンの場合、元の姿に戻ることもできなさそうだし、特別症状が重いのかもしれない。そう結論づけた私は、レオンに尋ねる。

「ねえ、レオン。どうしても、ビクトリアの元には帰りたくないの?」

『うん、帰りたくない。実は、彼女から逃れるために少しずつリードを噛んでチャンスを窺っていたんだ』

「そ、そうだったの……?」

 そう聞き返すと、レオンは今度はウルス領に戻ってきた経緯を語り始めた。
 領内に有名な獣医がいることを知っていた彼は、体調が優れないふりをしてここに連れて来てもらうよう誘導したらしい。
 そして、逃げ出すことに成功し、公爵邸を目指して走っていたところ偶然私たちを見つけたとのことだった。

「どうして、そこまでして帰りたくないの?」

『ビクトリアのことが嫌いだから』

「嫌いって……どういうこと?」

『コーデリアをいじめるから』

 その答えに、私は思わず目を瞬かせる。

「でも……ビクトリアは、あなたのことを可愛がっていたはずでしょう? あなただって、ビクトリアのことが好きだから一緒にいたんじゃないの?」

 レオンは首を横に振る。

『違うよ。捨てられないように、彼女に媚びを売るしかなかったんだ』

 確かに、ある日突然獣の姿に変わってしまった彼の立場からすれば、ビクトリアに頼らざるを得なかったのだろう。

『ごめんね、コーデリア。本当は、ずっと君を助けたかった。でも、こんな姿だから助けたくても助けられなくて』

 レオンは顔を曇らせると、申し訳無さそうに謝ってきた。

「あ……気にしないで。私は大丈夫だから。その気持ちだけで十分嬉しいわ」

 私がそう返すと、レオンはほっとしたような表情を浮かべる。

『ねえ、コーデリア。僕をここに置いてくれないかな? 勿論、ただでとは言わないよ。役に立てるよう頑張るから』

「それは構わないけど……」

 ただ、ジェイドが何と言うか分からない。
 そう思った瞬間、不意に聞き慣れた声が聞こえてきた。

「──どうしてもラザフォード邸に帰りたくないというのなら、仕方がない」

「って……ジェ、ジェイド様!?」

 噂をすれば、ジェイドだった。
 一体、いつの間に部屋の中にいたのだろうか。

「あの……もしかして、全部聞いていたんですか?」

「すまない。盗み聞きするつもりはなかったんだが……部屋の前を通りかかったら話が聞こえてきてな」

 そう言って、ジェイドはバツが悪そうに頬を掻く。

「とにかく、事情はわかった。ラザフォード家には何も言わず、しばらくの間君をこの邸で匿うことにしよう」

 それを聞いた途端、レオンは嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振った。
 その無邪気な仕草を見ていると、思わず笑みが溢れる。

「但し、条件がある」

 ジェイドがそう告げると、レオンは首を傾げた。

「コーディと同じ部屋で寝ないこと。それが守れるなら、この邸にいて構わない」

「ワウッ!?」

 レオンは驚いたような声を上げた。

「本物の犬なら、別に構わないんだがな……というか、あわよくば今夜は彼女と一緒に寝ようとしていただろう?」

 ジェイドが尋ねると、レオンは別にいいじゃないかと言わんばかりに不満そうな表情を見せた。
 その反応を見たジェイドは、深いため息をつく。

「……ちなみに、参考までに聞きたいんだが。君は一体何歳なんだ?」

『十歳だよ!』

 レオンがそう書くなり、ジェイドは「却下」と間髪入れず告げた。あまりにも早い返答に、レオンは「なんで!?」と非難がましい目付きで訴える。

「百歩譲って幼児なら許すが……さすがに、十歳はアウトだろう!」

『なんで? 十歳だって子供だよ?』

「駄目だ」

 レオンの主張に、ジェイドは呆れ気味にそう返す。

(うーん……私は、別に構わないのにな)

 そう思いつつ、微苦笑する。
 なんだか弟が出来たみたいで嬉しいし、同じ部屋で寝ても全く問題ないのだが。

「あの、ジェイド様。私は別に構いませんよ?」

 私がそう言うと、ジェイドはぎょっとしたように目を見開いた。

「コーディ! 君は、もう少し警戒したほうがいい! 子供とはいえ、男と同じ部屋で寝るなんて……」

 ジェイドは矢継ぎ早にまくし立てると、私の両肩を掴み軽く揺さぶってきた。
 その気迫に押されていると、やがて彼はレオンのほうに向き直り諭すように言った。

「はぁ……とにかく。どうしても寂しいのなら、今夜は俺の部屋で寝るといい」

『わかったよ。じゃあ、ジェイドの部屋に行く』

 レオンはそう書くと、渋々了承していた。
 それを見て、ジェイドは安堵したようにため息をついていた。

(ジェイド様、なんだか焦っているみたい……)

 私は首を傾げる。

(ハッ……! も、もしかして……ジェイド様は焼きもちを……?)

 そう考えたものの、私は慌ててぶんぶんと首を横に振った。

(そんなこと、あるわけないじゃない……)

 ジェイドと私は、結婚したとはいえあくまでも友人の関係だ。
 だから、彼が私を異性として好きになるなんてありえないのだ。

「コーディ……? 何を一人で百面相をしているんだ? ちょっと面白いぞ」

 思いあぐねていると、ジェイドに声を掛けられる。
 うっかり顔に出ていたらしく、恥ずかしさでいっぱいになった。

「へ!? ……い、いえ! 別に、なんでもありませんよ!? 顔の体操をしていただけです!」

 咄嗟に誤魔化すが、明らかに挙動不審だ。
 ジェイドはそんな私を見て怪訝そうな顔をしながらも、「そうか。それならいいが……」と言って部屋を出ていく。

(そう、ジェイド様はあくまで私のことは友人として大事に思ってくれているだけなんだから……)

 そう思うと、なぜか胸がちくりと痛んだ気がした。